新社長が現場に来た瞬間、空気が凍りついた。「施工管理部なんて必要ない。猿でもできる仕事だ。今後ボーナスはなしだ」あまりの物言いに、その場の全員が息を呑んだ。そして彼の標的にされたのは、なぜか俺だった。「貧乏そうな顔しやがって、この平社員が」二十年以上この会社で汗水流してきたのに、その一言で全てを否定された気がした。悔しさで拳を握りしめたが、俺は笑顔で退職を告げた。まさかこの選択が、あの大富豪…

新社長が現場に来た瞬間、空気が凍りついた。「施工管理部なんて必要ない。猿でもできる仕事だ。今後ボーナスはなしだ」あまりの物言いに、その場の全員が息を呑んだ。そして彼の標的にされたのは、なぜか俺だった。「貧乏そうな顔しやがって、この平社員が」二十年以上この会社で汗水流してきたのに、その一言で全てを否定された気がした。悔しさで拳を握りしめたが、俺は笑顔で退職を告げた。まさかこの選択が、あの大富豪...

新社長の銀事が施工管理部のオフィスに現れたのは、就任から三日目の朝だった。名刺も持たず、胸を張って、皆の前に立ったかと思うと、彼はするりととんでもない言葉を放った。

「施工管理部ね。こんな部署、そもそも必要あるのか?現場は猿でもできるだろ。だから今後はボーナスなしだ。これまでの無駄を一切排除するから、そのつもりでいろ。二代目社長であるこの俺が、経営方針を変える」

その場にいた誰もが言葉を失った。俺も例外ではない。驚きのあまり、ただ銀事をじっと見つめるだけだった。すると銀事は、そんな俺の視線に気づいたらしい。奴は真っ直ぐこちらへ歩いてきて、俺を舐め回すようにじろじろと見た。

「お前、さっきから何ガン飛ばしてやがる。どういうつもりだ」

「いや、別にそんなつもりは……気に触ったなら謝ります」

慌てて弁明したが、銀事は俺のそばから動こうとしない。どうやら奴は、攻撃のターゲットを俺に定めてしまったらしい。昔から俺は、こういう理不尽な目に遭いがちだ。今ではそういう星の下に生まれたのだと半ば諦めている。

銀事は俺を馬鹿にするように鼻で笑った。

「貧乏そうな面しやがって。自分の立場を弁えろよ、この平社員が」

俺の名前は雪村陽一。三十六歳の、至って普通のサラリーマンだ。子供の頃から建設現場を眺めるのが好きだった。クレーンや重機に彩られた現場は、スーパーカーみたいにピカピカ輝いてはいなかったけれど、土や埃にまみれて働く人々の姿は、何よりかっこよく見えたものだ。汗水垂らして自分や家族のために働く姿に、これほど「労働」という言葉がぴったり当てはまる仕事を、俺は他に知らない。

そんな憧れは中学生になっても消えず、むしろ強くなり、俺は建設業界で働きたいと強く願うようになった。それから二十年以上が経ち、俺は念願叶って「バディ建設」という会社で働いている。そこは住宅の設計、販売、施工を行う中規模の会社で、品質の高さから顧客からの評価も高い。俺が所属しているのは施工管理部で、数年前からは現場の責任者も任されていた。

建設現場を見て目を輝かせていた昔の俺が、今の俺を見たら喜んでくれるだろう。そんなことを考える日々を送っていた。

その頃、俺が責任者として担当していたのは、新築の一軒家だった。注文者は清水さん。時代が時代なら長者番付に載るような大富豪で、敏腕投資家としてメディアにも頻繁に登場する有名人だ。完成すればかなり広い家になる予定で、「住宅」というより「お屋敷」と呼ぶのが正しいかもしれなかった。

俺は清水さんに素晴らしい住まいを提供するため、毎日現場に立った。もしこの仕事が成功し、清水さんを満足させることができれば、会社の評判はさらに上がるだろう。ある意味、社運がかかっていると言っても過言ではなかった。

清水さんは多忙にも関わらず、度々現場に顔を見せては、俺たちをねぎらってくれた。しかも毎回豪華な差し入れ付きだ。正直、それまで俺は「いわゆるセレブ」というものに良い印象を持っていなかったが、清水さんはそんな偏見をあっさり払拭してくれた。彼はいつも俺に優しかった。彼のためにも素晴らしい家を建てたい。その気持ちは俺だけではなく、現場全体に広がっていた。

そんな中、突然会社に変化が訪れた。社長の交代だ。これまで社長を務めていた仲間平一さんが病気になったらしい。すぐに命に関わる病ではないそうだが、念のため第一線から引くことを決めたという。

平一さんはバディ建設の創業者だ。自分の力で一から会社を作り上げた。それを思うと、会社は彼にとって我が子のようなものだったはずだ。俺たち社員が安心して働けるのも、彼が長年歯を食いしばって会社を守ってきたからに他ならない。そのことには、頭が下がる思いだった。

平一さんが会社を去ることは、当事者であるうちの会社にとっては大きな事件だった。彼は言わば、会社の柱のような存在だったからだ。柱がなくなれば、どんなに頑丈な建物でも崩れ落ちてしまう。俺は同僚たちと、これから会社はどうなってしまうのか、不安を抱えながら見えない未来について語り合う日々を過ごした。

数日後、平一さんに代わって、新たに社長に就任する人物が発表された。それは仲間銀事。平一さんの実の息子だった。

銀事はまだ三十三歳で、俺よりも年下だ。しかも二、三年前にバディに入社したばかりだという。噂では、それまでは親のすねをかじるプータロー生活を送っていたらしい。つまり、今回の銀事の社長就任は、完全に親のコネを利用したものだった。

俺は突然の出世に眉をひそめた。こんな大事な時に、前社長の息子をコネで社長にするなんて、この会社は大丈夫なのか。残念ながら、この悪い予感は的中することになる。

新社長に就任した銀事は、さっそく施工管理部に挨拶に来た。そして、極めていい加減な挨拶を述べた後、皆の前でとんでもないことを宣言したのだ。

「施工管理部ね。こんな部署、そもそも必要あるのか?現場は猿でもできるんだから、今後はボーナスなしな。これまでの無駄を一切排除するから、そのつもりでいろ。二代目社長であるこの俺が経営方針を変える」

ほとんど笑みも浮かべず、淡々と言い放った銀事。俺は驚きのあまり、奴をじっと見つめてしまった。銀事はその視線に気づき、俺の方へ歩いてきた。

「おい、お前、さっきからガン飛ばしやがって。一体どういうつもりだ」

「別にそんなつもりはありません。社長の気に触ったのであれば、謝罪します」

慌ててそう言ったが、銀事は俺のそばから動こうとしない。どうやら奴は、攻撃のターゲットを俺に決めたらしい。銀事は俺をじろじろと睨み、鼻で笑った。

「貧乏そうな面しやがって。自分の立場が分かってんのか?この平社員が」

むっとした。だが、感情に振り回されてはいけない。相手がどんな人間だろうと、冷静であるべきだ。それは社会人としての基本だ。俺は一度深呼吸して、気持ちを落ち着けた。

「私の面は関係ないじゃないですか。それよりも、ボーナスが出なくなるという件について、詳細な説明を求めます」

すると銀事は顔をしかめた。

「はあ? だからさっき言っただろうが。お前らみたいな現場の人間なんて必要ないんだよ。これまでの古臭い経営方針は一新する。それについていけない奴は、さっさと辞めればいい」

こんな人間が社長になってしまった。その事実に、俺はがっかりした気持ちを抑えられなかった。上に立つ人間にとって、社員を大事にする心は必要不可欠だ。だが銀事には、それどころか社員を見下す傲慢さしか感じられない。平一さんは、なぜこんなバカ息子を二代目に任命したのだろうか。銀事がこんな人間に育ってしまった責任は、平一さんにもある。奴の傲岸不遜な態度を見れば、わがまま放題の少年時代を送ってきたことは明らかだった。

銀事は俺に、辞めるかどうか即決しろと迫ってきた。

「お前さ、俺に首にされる前に、さっさと退職届でも出した方がいいんじゃないか?こっちもこれ以上給料出さなくて済むから助かるし。どうなんだ、やめるのか、やめないのか」

「はっきりしてくださいよ」

「うるせえな。こんな判断力の鈍い奴は、典型的な仕事のできないやつだな」

仕事ができないのは、どう考えてもそちらの方だ。銀事は入社してからまともに仕事をしていないと、俺は何人もの社員から聞いたことがある。それでも奴が許されていたのは、社長の実の息子だからだ。恵まれた環境を悪用しているようなものだ。こんな人間を社長にしておくこと自体、社会にとって良くないに決まっている。

会社のみんなには悪いが、これ以上銀事と関わるのはごめんだ。俺は満面の笑みを浮かべて言ってやった。

「わかりました。社長のおっしゃる通り、今日限りで退職させてもらいます。では、お世話になりました」

これが今の俺にできる精一杯の強がりだった。まあ、こんなクズの下で働き続けるより、仕事を失った方がよっぽど幸せだろう。銀事は、笑っている俺の様子に少し面食らっているようだった。俺はデスクの荷物をまとめ、足早にオフィスを出て行った。まさかこんな形で長年お世話になった会社を辞めることになるとは、夢にも思わなかった。だが、これ以上ここにいても状況は悪化するだけだ。この判断は間違っていないはずだ。そう思いながら、俺は自宅へと帰った。

翌朝、俺は自宅マンションのベッドにいた。平日の午前中に自宅で過ごすのは、かなり久しぶりだ。今日一日ゆっくりしよう。そう考えていた矢先、インターホンが鳴った。来客の予定などない。誰だろうか。パジャマ姿のままインターホンに出ると、画面に映っていたのは前社長の平一さんだった。

突然の来訪に驚く俺をよそに、平一さんは「話したいことがある」と言う。噂通り、モニター越しでも顔色が良くない。体調の悪い中、わざわざ俺の元へ来るなんて、一体何の用なのか。不思議に思いつつも、断る理由もないので、そのまま部屋に上げることにした。

俺は着替えて玄関のドアを開けた。すると平一さんの後ろにもう一人、人影があることに気づいた。銀事だ。インターホンのカメラには映らない場所に立っていたらしい。

あんなことがあった以上、もう二度と顔を合わせたくないと思っていた。だが、こうなった以上仕方がない。俺は銀事も部屋に上げた。

部屋に入るなり、銀事は俺に詰め寄ってきた。

「おい、お前、一体どういうことだ?説明しろ」

突然言われても、わけが分からない。説明して欲しいのはこちらの方だ。興奮している銀事を止めたのは平一さんだ。

「やめないか。今日は雪村君と喧嘩しに来たわけじゃないんだから」

その言葉に、銀事は渋々俺のそばから離れた。平一さんは続ける。

「昨日のことは銀事から全て聞いた。息子が勝手なことを言ったみたいだね。すまなかった。ところで君は、あの清水さんの住まいの施工管理を担当していたそうじゃないか。毎日現場に顔を出していた君が突然来なくなったことを知って、清水さんは相当怒っている。さっき苦情の電話までかかってきたんだ」

清水さんは施工当初から俺の仕事ぶりを評価してくれていた。だから、俺が現場にいなくなったことを不審に思ったのだろう。

「君も分かっていると思うが、あの豪邸が完成するかどうかに、うちの会社の評判はかかっている。どうか、今から現場に戻ってはくれないか」

俺は首を横に振った。

「そんなことを私に言う前に、まず、やるべきことがあるんじゃないですか」

「近くは何言ってるんだ?」

キョトンとしているのは銀事だ。平一さんも分かっていない様子だった。銀事が口を開く。

「お前、何言ってんだ?お前みたいな平社員に、俺たちの提案を断る権利なんてないんだよ。少しは身の程を弁えろ」

俺は平然と告げた。

「私はもうバディの社員ではありません。昨日、社長に退職すると直接伝えたはずですよ。もうお忘れですか」

俺の落ち着いた態度に、銀事はかなりイラついているようだった。貧乏ゆすりが激しくなり、眉間のしわも深くなっている。

「悪いことをしたら頭を下げる。これが常識でしょう? あなた方はそんなことも分からないんですか? 呆れたな」

そう言った瞬間、突然銀事が俺の胸ぐらを掴んだ。

「なんだと?この野郎、調子に乗りやがって。いいか?俺は社長だぞ。目上の人間に言っていいことと悪いことの区別もつかないのか、お前は」

「やめないか!」

平一さんが慌てて止めに入った。だが銀事は俺からなかなか手を離そうとしない。

「いいから、とっとと現場に戻りやがれ。これは社長命令だ。逆らったら、ただじゃおかないからな」

「あなたがきちんと謝罪しない限り、絶対に現場には戻りません」

きっぱりと告げた。すると銀事は握り拳を作ったかと思うと、次の瞬間、殴りかかってきた。俺は間一髪で避けたが、銀事の拳は壁に突き刺さった。壁にぽっかりと丸い穴が開いてしまった。他人の自宅を破壊するなんて、人として完全にアウトだ。

「何てことするんですか。この穴の修理費用は、もちろん全額そちらが負担してくれるんですよね」

まだ頭に血が上っているらしい銀事は、消気を失った獣のように叫んだ。

「うるせえ、黙れ!」

これでは近所迷惑だ。とっとと追い出さなければ。俺はふと平一さんの方を見た。平一さんは息子がしたことに驚いて、まるで銅像のように固まっていた。何とも情けない姿だ。少し前まで、俺は創業者である平一さんのことを尊敬していた。だが、こんなことになっては、その気持ちも消え失せるのが当然だった。

「平さん、大丈夫ですか。今すぐ二人とも出て行ってください」

俺の声はしばらく平一さんに届かなかった。ようやく我に返った平一さんは、あたふたしながら俺にすがりついた。

「ま、待ってくれ。雪村君がいないと、清水さんに叱られるのはこっちなんだ。頼む。早く現場に戻ってくれ」

「冗談じゃありません。もしこれ以上ここに留まるというなら、警察を呼びますよ。分かってますね」

冷たくそう言い放つと、警察という言葉を聞いた平一さんの表情は一気に青ざめた。彼は喚き散らす銀事の腕を引っ張った。

「何しやがる!やめろよ、親父!」

銀事が抵抗しても、平一さんは構わず息子を引っ張って玄関へ向かった。ドアの外に出る際、銀事は捨てゼリフを吐いた。

「覚えてやがれ!」

どこまでいっても反省のない男だ。俺は壁の穴を撫でるように触りながら、これからのことを考えた。

その後、理不尽に解雇された俺の話を聞きつけた清水さんは、バディ建設に注文していた住宅のキャンセルを要求したそうだ。銀事と平一さんはなんとか清水さんの怒りを鎮めようと必死に取り繕ったが、全て無駄に終わったらしい。そしてバディ建設の悪い評判は瞬く間に広まり、住宅の注文数も激減した。そのことを憂いた平一さんの持病は悪化し、今では薬なしではまともに生活できないという噂だ。

銀事は、役員たちから今回の騒動の責任を追求された。彼は責任逃ればかり口にしていたが、事態を重く見た役員たちにより解雇が決定したらしい。全ては自業自得だ。

一方、俺の生活は大きく変わった。今回の騒動を聞きつけた清水さんの計らいで、俺は自分の建築会社を立ち上げることになったのだ。もちろん、清水さんの金銭的なバックアップがあってのことだ。銀事に呆れ果てたバディ建設時代の同僚たちも、こちらへ転職してきてくれた。今は清水さんの新築物件の施工を任されている。もちろん、現場の責任者はこの俺だ。

こんな幸運を掴み取ることができたのは、これまで一生懸命手を抜かずに頑張ってきたからだと思っている。清水さん、いや神様のような彼が見ていてくれたからこそ、今もこうして大好きな仕事ができているのだろう。俺はこれからも、感謝の気持ちを忘れずに生きていきたい。

Thumbnail