「すぐに帰るぞ」——その一言が、人生で一番幸せなはずの日に響いた。私は生まれたばかりの初孫をほんの数秒抱いただけだった。まだ腕に残る温もり。なのに夫は顔を真っ赤にして怒り、無言で病院を出て行った。激しい雨の中、私は必死に追いかけた。「もう二度と、孫には会わない」——信号で止まった車内で、夫はそう言った。意味がわからなかった。私たちは息子のために全てを捧げてきた。私の退職金から学費、結婚式、家…

「すぐに帰るぞ」——その一言が、人生で一番幸せなはずの日に響いた。私は生まれたばかりの初孫をほんの数秒抱いただけだった。まだ腕に残る温もり。なのに夫は顔を真っ赤にして怒り、無言で病院を出て行った。激しい雨の中、私は必死に追いかけた。「もう二度と、孫には会わない」——信号で止まった車内で、夫はそう言った。意味がわからなかった。私たちは息子のために全てを捧げてきた。私の退職金から学費、結婚式、家...

「すぐに帰るぞ」

三階の廊下に響いた夫の強い声に、私は思わず振り返った。たった今生まれたばかりの初孫を抱いたのはほんの数秒のこと。その小さな命の温もりがまだ腕に残っているというのに、夫の表情は見たこともないほど険しく、怒りで顔を真っ赤に染めていた。

「ちょっと、あなた、どうしたの? せっかく洋介の子供が生まれたのに」

私が困惑していると、夫は何も答えずに大股で病院の出口へ向かって歩き始めた。外は激しい雨。傘も差さずに駐車場へ向かう夫の背中を、私は慌てて追いかけた。車に乗り込むと、夫は無言でエンジンをかけ、雨で視界の悪い中を猛スピードで走り出した。ワイパーが激しく動く音だけが車内に響く。

「なんでそんなに急いでるの?」

私の問いかけにも、夫は前を見据えたまま口を開かない。そして信号で止まった時、ようやく重い口を開いた。

「もう二度と、孫には会わない」

その言葉の意味が理解できず、私は言葉を失った。初孫の誕生という、人生で最も幸せなはずの日に、一体何が起きたというのだろうか。

家に着いても、夫は黙ったままリビングのソファに深く腰を下ろした。濡れたままの服で、ただ虚空を見つめている。私は濡れたタオルを持ってきて、夫の隣に座った。

思えば私たち夫婦は、洋介のために全てを捧げてきた。私は地方銀行で三十九年間、朝から晩まで働き続け、支店長代理にまでなった。洋介の大学までの教育費八百万円は、ほとんど私の給料から出したものだ。

「母さん、結婚式の費用お願いできる?」

三年前、洋介からそう言われた時も、迷わず五百万円を渡した。去年のマイホーム購入の時も、頭金三百万円を援助した。全ては息子の幸せのため。そう信じて疑わなかった。

夫も同じ思いだったはずだ。市役所を定年退職してからは、洋介の家の庭の手入れや、買い物の送迎まで引き受けていた。

「お父さん、今日も車出してもらいますか?」

嫁のかおりさんからの頼みは、いつも当然のような口調だった。でも夫は嫌な顔一つせず、笑顔で応じていた。そんな温厚な夫が、初孫の誕生という最高の瞬間に、なぜあんな行動を取ったのか。私の胸に言いようのない不安が広がっていった。

しばらくの沈黙の後、夫がようやく口を開いた。

「かよ子、お前は気づかなかったのか?」

「え? 何に?」

私は夫の顔を見つめた。その目には、深い悲しみと怒りが混ざり合っていた。

「病院で、俺たちがどんな扱いを受けたか」

その言葉に、私は今日の出来事を思い返した。確かに、分娩室の前で待っている時、少し違和感を覚えたことがあった。かおりさんのご両親はすぐに分娩室に入れたのに、私たちは廊下で待つように言われた。

「でも、それは順番の問題じゃ……」

「違う。俺は看護師に聞いたんだ。なぜ俺たちは入れないのかって。そうしたら、『ご家族の希望です』と言われた」

私の心臓がドクンと大きくなった。

「まさか……」

「そのまさかだよ。洋介とかおりが、俺たちを入れるなと言ったんだ」

信じられなかった。私たちは洋介の実の両親です。なぜそんなことを。

夫は続けた。

「それだけじゃない。三十分も廊下で待たされた挙げ句、洋介が出てきてな、何て言ったか覚えてるか?」

私は必死に記憶をたどった。確かに洋介は私たちの前に現れ、疲れた顔で何か言っていた。

「『もう帰っていいよ』って言ったんだ。まるで俺たちが邪魔者みたいに」

「でも、そのあと赤ちゃんを見せてくれたじゃない」

「ほんの数秒だけだ。かおりの両親は、ずっと泣いていたのに」

夫の拳が震えていた。

「俺が一番許せなかったのは、洋介がかおりの父親に言った言葉だ」

「なんて言ったの?」

「『うちの親は関係ないから、お父さんたちだけで十分です』って」

その瞬間、私の中で何かが音を立てて崩れ落ちた。関係ない。私たちが。そんな。私たち、あの子のためにどれだけ……。

言葉が続かず、涙が溢れてきた。

夫は立ち上がり、窓の外を見つめた。雨は相変わらず激しく降り続いている。

「俺は廊下で、他の家族が幸せそうに赤ちゃんを囲んでいるのを見ていた。そこにいる小さい子供たちが『じいちゃん、ばあちゃん』って呼んで、みんな笑顔だった。なのに俺たちは……」

夫の声が震えた。

「三十九年間、お前が朝五時に起きて弁当を作り、夜遅くまで銀行で働いて洋介を育ててきた。俺も精一杯協力した。塾の送り迎え、部活の応援、受験の時は一緒に徹夜もした」

私は黙って聞いていた。全て本当のことだった。

「それなのに、あいつは俺たちを『関係ない』と言った。まるで、俺たちの存在そのものを否定するように」

夫が振り返った。その顔には、見たこともない怒りの表情があった。

「俺は決めた。もう二度と、あいつらには会わない。孫にも会わない。俺たちを必要としないなら、それでいい」

私は立ち上がり、夫のそばに行った。

「かよ子、お前は知らないだろうが、先月も洋介から金の無心があった。『子供が生まれるから、もう少し援助してくれ』って。俺は黙って五十万円渡した。でも、あいつは礼も言わなかった」

初めて聞く話だった。

「なんで黙ってたの?」

「お前に心配かけたくなかった。でも、もう限界だ。俺たちはATMじゃない。人間だ」

夫の目から、一筋の涙が流れた。六十五歳になる夫が泣いているのを見るのは、初めてだった。

その時、私のスマートフォンが鳴った。洋介からのLINEだった。

「お母さん、来月も援助お願いします。でも、病院には来ないでください。かおりが疲れるから」

私は言葉を失った。震える手でスマートフォンを夫に見せた。夫は画面を見つめ、深いため息をついた。

「やっぱりな」

その時、続けてLINEの通知が入った。今度はかおりさんからだった。

「お母さん、洋介から聞いたと思いますが、これからも定期的な援助は継続でお願いします。ただ、お母さんたちが頻繁に来られると私たちも困るので、お金の振り込みだけにしてください。孫の顔は写真で送りますから」

私の手が震え、スマートフォンが床に落ちた。写真で。夫が拾い上げ、メッセージを読み返した。そして、怒りで顔を真っ赤にした。

「ふざけるな!」

普段は決して声を荒げない夫が叫んだ。

「金だけよこせ。でも会うな。そんな都合のいい話があるか」

私は呆然と立ち尽くしていた。すると、さらにかおりさんからのメッセージが続いた。

「正直に言いますけど、お母さんたちには老後の面倒も見てもらえないし、介護もできないでしょう。私の両親ならまだ若いから、孫の世話もできます。お母さんたちはお金の援助だけしてくれればいいんです」

その瞬間、私の中で何かがプツンと切れる音がした。私たちが年寄りだから、用済みだっていうの。涙が止まらなかった。悔しさと怒りで体が震えた。

夫がさらにスマートフォンを操作すると、洋介とかおりさんのSNSが表示された。そこには、今日の出来事が投稿されていた。

「無事に元気な男の子が生まれました。かおりの両親も大喜びです。これから家族みんなで幸せに暮らします」

写真には、かおりさんの両親が赤ちゃんを抱いている姿が映っていた。私たちの姿は、どこにもなかった。

「家族みんな」。私たちは、家族じゃないの。

夫がコメント欄を見せてくれた。そこには洋介の友人からの質問があった。

「洋介の両親は?」

洋介の返信を見て、私は息が止まりそうになった。

「うちの親は仕事で忙しいから来れなかった。ま、いなくても問題ないけどね」

嘘だった。私は今日、有休を取って朝から病院に駆けつけたのだ。夫も前日から準備をして、お祝いまで用意していた。

「忙しいから来れなかった。冗談じゃない」

夫の顔が、怒りを通り越して悲しみに変わっていった。

「かよ子、見てみろ」

夫が見せたのは、先週の洋介のSNS投稿だった。

「マイホームのローンがきつい。親からの援助がないと正直厳しい。でもうちの親は金は出すけど口は出さないから楽だわ」

その下には、友人たちのコメントが続いていた。

「いいな。ATM親じゃん」
「羨ましい。うちは金も出さないし、口だけ出す」
「洋介は親ガチャ成功だな」
「ATM親」

その言葉が、胸に突き刺さった。私は台所に行き、引き出しから通帳を取り出した。そこには、洋介への送金記録がびっしりと記されていた。大学の学費八百万円、運転免許四十万円、成人式の着物三十万円、就職活動の交通費二十万円、結婚式五百万円、新婚旅行、マイホームの頭金三百万円。合計すると、二千万円近くになっていた。

これだけしてきたのに、ATM扱い。

夫が別の通帳を持ってきた。

「俺の退職金からも、三百万円渡してる。『洋介のために』って言われて、俺たちは老後の資金まで削って援助してきたんだ」

その時、家の固定電話が鳴った。夫が出ると、かおりさんの母親からだった。スピーカーにしてもらい、私も聞いた。

「あら、お父さん、今日は本当にありがとうございました。でも、これからは私たちが面倒を見ますから、あまり心配なさらないでくださいね」

その口調は、明らかに私たちを見下していた。

「それと、洋介君から聞きましたけど、援助は続けてくださるんですよね。孫のためですから、当然ですよね」

夫が答える前に、相手は続けた。

「正直、あなたたちのような年配の方が頻繁に来られても、赤ちゃんに良くないんです。免疫力が弱いうちは、特に気をつけないと。私たちはまだ五十代で元気ですから、任せてください」

「年配って。私たちだって、まだ元気です」

夫が反論すると、相手は鼻で笑った。

「あら、でも定年でしょう。もう社会的には引退された方々じゃないですか? 私の主人はまだ現役の会社役員ですし、格が違いますから」

格が違う。その言葉に、夫の顔が青ざめた。

「それでは、お金の件よろしくお願いしますね」

電話は一方的に切られた。私たちはただ、呆然と立ち尽くしていた。親として、人間として、完全に否定された気がした。

「ねえ、私たち、何のために今まで頑張ってきたの?」

夫は何も答えず、ただ窓の外の雨を見つめていた。

その夜、私たちは一睡もできなかった。リビングのソファに並んで座り、これまでの人生を振り返っていた。

「ねえ、私たちはこのまま黙っているの?」

夫は首を横に振った。

「いや、もう我慢する必要はない。かよ子、実は話しておきたいことがある」

夫の真剣な表情に、私は姿勢を正した。

「来月、お前が定年退職だろう。退職金はいくらもらえるんだ?」

「八千万円よ。三十九年間勤めた功績と、支店長代理の役職手当ても含めて」

夫の目が大きく見開かれた。

「そんなに。洋介は知ってるのか?」

「いいえ、誰にも言ってない。老後の資金として、大切に取っておこうと思って」

夫は立ち上がり、書斎から一枚の書類を持ってきた。

「実は、俺も洋介に黙っていたことがある」

それは、不動産の査定書だった。

「俺の実家の土地、覚えてるだろう。田舎の何もない場所だと思ってたが、実は来年、駅前開発の対象地域になることが決まった」

私は査定書の金額を見て、言葉を失った。

五億円。

「ああ、俺の親父が残してくれた土地が、まさかこんな価値になるとは思わなかった。不動産屋からは、すぐにでも買い取りたいと言われている」

私たちは顔を見合わせた。つまり、私たちには合わせて五億八千万円もの資産があるということだ。

「洋介は、私たちがこんな資産を持ってること、全く知らないのね」

「ああ、あいつは俺たちを貧乏な年寄りだと思い込んでる。だから、平気でATM扱いできるんだ」

夫はスマートフォンを取り出した。

「実は昨日、弁護士の友人に相談したんだ。今までの送金を返済してもらうことは難しいが、今後一切の援助を断ることは可能だと。でも、向こうは孫を人質にしてくるわよ」

「それも含めて、対策を考えた」

夫はパソコンを開き、ある画面を見せてくれた。

「これは移住情報サイトだ。俺たち、日本を出ようと思う」

驚いた。まさか夫がそんなことを考えていたとは。

「ハワイか、オーストラリアか。退職金と土地の売却金があれば、向こうで悠々自適に暮らせる。英語は、お前が銀行で勉強してただろう」

確かに、私は海外取引のために英語を学んでいた。

「でも、本当にいいのか」

「かよ子、よく考えてみろ。俺たちを必要としない息子のために、なぜ日本に留まる必要がある?」

その通りだった。私たちには、自分たちの人生を生きる権利がある。

翌日、私は銀行に行き、退職金の詳細を確認した。人事部長が笑顔で言った。

「松本さん、三十九年間、本当にお疲れ様でした。あなたほど優秀な方が退職されるのは残念ですが、これからは第二の人生を楽しんでください」

「ありがとうございます。ところで、退職金の受け取りは一括でお願いします」

「承知しました。八千万円、来月十五日にお振り込みします」

銀行を出ると、夫が車で待っていた。

「不動産屋にも行ってきた。五億円で即決だそうだ。契約書も準備してくれてる」

「本当に売るの? あなたのご両親の土地よ」

「親父なら、きっとこう言うよ。『息子夫婦に大切にされないなら、さっさと売って自由に生きろ』って」

私たちは近くの喫茶店に入り、そこで今後の計画を具体的に話し合った。

まず、洋介たちへの援助は今月で打ち切る。来月の要求は断る。

「向こうは必ず、『孫に合わせないと脅してくるわよ』」

「合わせないなら、それでいい。写真すらいらない。俺たちには関係ないんだろう」

夫の決意は固いようだった。

それから、土地の売却と退職金の受け取りが済んだら、すぐに日本を出る。行き先は後で決めよう。

「洋介たちには、いつ伝えるの?」

「売却が全て終わってからだ。あいつらに余計な期待を持たせたくない」

私は頷いた。確かに、五億円の土地があると知ったら、洋介は手のひらを返したように優しくなるだろう。でも、それは本当の愛情じゃない。

「かよ子、俺たちはもう十分頑張った。これからは、自分たちのために生きよう」

夫の言葉に、私は涙が溢れた。悔しさの涙ではなく、ようやく自由になれる安堵の涙だった。

三ヶ月が経った。私の退職金八千万円は予定通り振り込まれ、夫の土地も五億円で売却が完了した。私たちは着々と海外移住の準備を進めていた。パスポートの更新、ビザの申請、現地の住居探し。全てが順調だった。

その日、朝早く洋介から久しぶりに電話がかかってきた。

「母さん、ちょっと相談があるんだけど」

声が震えていた。何か焦っている様子だ。

「どうしたの?」

「実は、会社が倒産したんだ」

私は驚かなかった。彼の会社は以前から経営が危ういと聞いていたから。

「それで、転職先もなかなか見つからなくて、マイホームのローンも払えない。母さん、援助してもらえないか?」

「いくら必要なの?」

「とりあえず五百万円。いや、できれば一千万円」

私は深呼吸をしてから、はっきりと言った。

「無理よ」

電話の向こうで、洋介が息を飲む音が聞こえた。

「え、なんで? 母さん、退職金もらったでしょう?」

「退職金? 私がもらえるのは雀の涙よ。もう全部使ってしまったわ」

嘘だった。でも、真実を言う必要はない。

「そんな。じゃあ、父さんは?」

「父さんの退職金は」

夫が電話を変わった。

「洋介、お前は俺たちを『関係ない』と言ったよな」

「え? 何の話?」

「病院でのことだ。忘れたとは言わせない」

洋介は慌てたように言い訳を始めた。

「あ、あれは、かおりが疲れてたから……」

「言い訳はいい。お前は俺たちを『家族じゃない』と言った。ATM扱いしてきた。もう援助はしない」

「父さん、そんな水臭いこと言わないでよ。俺たち家族だろ」

夫は冷たく言い放った。

「家族? お前が言うか。俺たちは関係ないんだろう。関係ない人間に金を無心するのは、おかしいんじゃないか」

洋介の声が必死になった。

「父さん、母さん、お願いだよ。このままじゃ家を失う。孫だって路頭に迷うんだよ」

私が電話を変わった。

「孫? 私たちには孫なんていないわ。だって、合わせてもらえないんですもの。写真すら『いらない』って言われたし」

「それは、かおりが……」

その時、背後からかおりさんの声が聞こえてきた。

「洋介、早くお金もらって!」

続けて、かおりさんが電話を奪い取ったようだった。

「お母さん、今すぐ援助してください。孫のためでしょう?」

「あら、かおりさん、あなた言ったわよね。『お金だけ出せ』って。でも、お金もないのよ」

「嘘でしょう。銀行員だったんだから、貯金くらいあるはずです」

「全部使ったわ。老後の準備にね」

かおりさんの声がヒステリックになった。

「ふざけないで! 私たち、本当に困ってるのよ!」

「困ってる? 私たちの方が困ってるわ。息子夫婦に『関係ない』と言われて、孫にも会えなくて」

「今更、そんな昔のこと……」

「昔? 三ヶ月前のことよ」

私は続けた。

「それよりかおりさん、あなたのご両親は確か会社役員で、私たちとは『格が違う』んでしょう」

電話の向こうで、かおりさんが言葉に詰まった。

「それは……父も会社が傾いてて」

「あら、そう。でも、若くて元気なんでしょう。働けばいいじゃない」

「私だって働いてます。でも、子育てしながらじゃ稼げないんです」

「子育て? でも、私たちには手伝わせないんでしょう。あなたのご両親がいるから」

かおりさんは黙り込んだ。私は畳みかけた。

「かおりさん、覚えてる? あなた言ったわよね。『お母さんたちは年配だから、赤ちゃんに良くない』って。『免疫力が弱いうちは、特に気をつけないと』って。だから、私たちは身を引いたの。赤ちゃんのためを思って。でも、今更お金だけ要求されても、困るわ」

夫が隣で頷いていた。私は最後の一撃を加えた。

「かおりさん、あなた言ったわよね。『お母さんたちには老後の面倒も見てもらえない』って。その通りよ。私たちには、あなたたちの面倒を見る義理はないわ」

洋介が再び電話を変わった。今度は泣き声混じりだった。

「母さん、本当に見捨てるの? 俺、本当に困ってるんだ。明日にでも家を出なきゃいけないかもしれない」

「見捨てる? 違うわ。あなたたちが先に、私たちを見捨てたのよ」

「違う! 俺たちは見捨ててなんかいない!」

「じゃあ、なぜ病院で『関係ない』と言ったの? なぜSNSで『いなくても問題ない』と書いたの?」

洋介は絶句した。

「SNS、見たのか?」

「ええ、見たわ。ATM親って呼ばれてたのも知ってる」

「あれは友達が勝手に……」

「言い訳はもういいわ。洋介、あなたは私たちを、お金を出すだけの存在としか見ていなかった。それが真実でしょう」

洋介は何も言えなかった。

夫が続けた。

「洋介、お前は俺の実家の土地のことを聞きたいんだろう」

「ああ、おじいちゃんの土地、まだあるよね? あれ、売れば金になるだろ」

夫は冷たく言った。

「土地はとうに売った」

「え? いつ? いくらで?」

「二ヶ月前だ。二束三文だったがな」

もちろん嘘だった。五億円で売れたことは、墓場まで持っていくつもりだった。

洋介の声が悲鳴のようになった。

「なんで相談してくれなかったんだよ! 俺にも相続権があるはずだ!」

「相続権? お前を笑わせるな。あれは俺の父から、俺が直接相続した土地だ。お前には関係ない」

「関係ないって……俺は息子だぞ!」

「息子? お前は俺たちを『関係ない』と言った。俺たちが関係ないなら、お前も関係ない」

洋介は泣き声で訴えた。

「父さん、母さん、お願いだ! 謝るから助けてくれ! 土下座でも何でもする!」

「謝る? 何を謝るんだ?」

「全部だよ! 病院でのことも、ATM扱いしたことも、SNSのことも!」

夫は深いため息をついた。

「洋介、お前は金に困ったから謝ってるだけだ。本心じゃない」

「そんなことない! 本当に反省してる!」

「じゃあ、もし俺たちが金を持ってなかったら、お前は謝ったか? もし会社が倒産してなかったら、俺たちに会いに来たか?」

洋介は答えられなかった。その沈黙が、全てを物語っていた。

私が最後に言った。

「洋介、かおりさん、お二人で頑張ってください。私たちはもう、あなたたちの人生から退場します」

「母さん、待って! 本当に困ってるんだ!」

「困った時だけ親を頼るのは、都合が良すぎるわ。あなたたちは私たちを『家族じゃない』と言った。だから、もう他人として生きていきましょう」

「母さん!」

私は電話を切った。すぐに着信があったが、出なかった。

翌日の朝、洋介が家に押しかけてきた。

「母さん、父さん、開けて! 話を聞いてください!」

私たちは無視した。玄関のドアを激しく叩く音が響く。

「お願いします! 土下座でも何でもします! 本当に家を失うんです!」

かおりさんの鳴き声も聞こえた。

「お母さん、お父さん、今までの態度、全部謝ります! 私が悪かったです!」

でも、私たちは扉を開けなかった。

「お願いします! せめて百万円だけでも! 子供のためにも!」

夫と私は、リビングで静かにお茶を飲んでいた。三十分ほど騒いだ後、彼らは諦めて帰って行った。

その夜、洋介から長いLINEが届いた。

「母さん、父さん、今日は本当にすみませんでした。今までの誠心、心から謝罪します。僕が間違っていました。親をATMのように扱い、人として扱わなかった。最低な息子でした。もう一度だけチャンスをください。家族としてやり直したいです。お金のことは言いません。ただ、もう一度家族として会ってください」

夫が返信した。

「家族? 君は僕たちを『家族じゃない』と言った。君の口から出た言葉は、もう取り消せない。君たちの言った通り、僕たちは関係ない。二度と連絡してくるな」

既読はついたが、返信はなかった。

一週間後、私たちは静かに日本を発った。成田空港で、夫が言った。

「かよ子、後悔はないか?」

「ないわ。むしろ、すがすがしい気分よ」

「俺もだ。これからは、俺たち二人の人生を生きよう」

飛行機の窓から見える日本の景色を、私たちは感慨深く眺めた。もう二度と戻ることはないだろう。でも、それでいい。私たちには五億八千万円という十分な資産と、お互いという最高のパートナーがいるのだから。

ハワイの朝日は、日本とは違う輝きを放っていた。シニア向けコンドミニアムのバルコニーで、私は夫と一緒にコーヒーを飲んでいた。移住してから半年。私たちの新しい生活は、想像以上に充実していた。

「かよ子、今日のフラダンスのレッスンは何時から?」

「十時からよ。あなたのゴルフは午後からでしょ」

「ああ、日本人の友達もできてね、楽しいよ」

私たちは毎日を、自分たちのために使っていた。三十九年間、朝五時に起きて弁当を作り、満員電車に揺られていた日々が嘘のようだ。

「そういえば、日本から荷物が届いてたよ」

夫が小包を持ってきた。差出人は、私の元同僚だった。中には手紙と、日本の新聞の切り抜きが入っていた。

「かよ子さん、お元気ですか? 実は洋介さんのことで気になる記事を見つけたので、送ります」

新聞記事には、洋介の会社の倒産と、その後の様子が報じられていた。マイホームは競売にかけられ、今はアパート暮らしをしているそうだ。かおりさんは、実家に子供を連れて帰ったとも書いてあった。

「自業自得だな」

夫がつぶやいた。私も同じ気持ちだった。同情はない。彼らは私たちを家族として扱わなかった。その報いを受けているだけだ。

その時、スマートフォンに通知が来た。日本の番号からだった。番号は知らないものだったが、メッセージが残されていた。

「初めまして。洋介の元同僚です。洋介から聞きました。あなた方は五億円以上の資産を持ちながら、息子を見捨てたそうですね。親として最低だと思います」

私は笑ってしまった。

「どうやら、土地の売却額がバレたみたいね」

「今更知ったところで、もう遅いがな」

夫も笑っていた。私たちはもう、日本での評判など気にしていない。

続けて、別のメッセージも届いた。今度はかおりさんの母親からだった。

「あなたたち、五億円も持っていたなんて聞いてません。孫のためにも、援助すべきです。人でなし」

「『格が違う』と言った人が、今度は『援助しろ』ですって」

私は全てのメッセージを削除し、日本の番号を全てブロックした。もう、過去とは決別したのだ。

昼下がり、私たちは近くのビーチを散歩した。白い砂浜、青い海、温かい風。全てが、私たちを優しく包んでくれる。

「かよ子、俺たちの選択は正しかったよな」

「ええ、間違いなく正しかったわ」

ベンチに座り、海を眺めながら、私は静かに語り始めた。

「ねえ、私ね、今思うの。親だからって、子供のATMになる必要はないって。親にも自分の人生があり、尊厳があり、幸せを追求する権利がある」

「その通りだ。俺たちは十分すぎるほど、彼らに尽くした。でも、それが当たり前だと思われた瞬間、もう親子関係は終わっていたんだ」

私は頷いた。

「現代社会では、親をATMとしか見ない子供が増えているそうね。でも、それに屈する必要はない。理不尽な要求には、きっぱりと『ノー』という勇気が必要」

「因果応報という言葉がある。人を軽んじたものは、必ずその報いを受ける。洋介とかおりも、今頃それを実感してるだろう」

夕暮れ時、私たちはお気に入りのレストランで食事をした。

「乾杯しよう。かよ子、俺たちの新しい人生に乾杯」

「そして、これから理不尽と戦う全ての親たちに」

グラスを合わせた時、私は心から思った。私たちは勝利したのだと。息子夫婦に完全勝利し、五億八千万円という資産と、自由な人生を手に入れた。もう誰にも縛られることはない。

「かよ子、来月は北欧に旅行しよう。オーロラを見に行くんだ」

「素敵ね」

「その次は、アフリカのサファリなんてどう?」

私たちには、まだまだやりたいことがたくさんある。親としての義務は、もう十分に果たした。これからは、夫婦として、一人の人間として、残りの人生を謳歌するのだ。

理不尽に苦しむ全ての親の方々へ。あなたにも、自分の人生を生きる権利があります。子供のために全てを犠牲にする必要はありません。時には、毅然とした態度で臨むことも必要です。私たちの物語が、少しでもあなたの勇気になれば幸いです。

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