店の電話が鳴ったのは、閉店間際のことだった。「翔平?今すぐ病院に来て。お父さんが倒れたの」。たったその一言で、頭の中が真っ白になった。実家は代々続く洋服屋で、父は二代目だ。高校卒業後、いつか継ぐために都心の高級スーツ店で修業していた。頼れる店長と、優秀な後輩・須藤さんに恵まれ、実家を継いでからも二人で店を支えてきた。だがある日、売上金と商品が合わない。不安を抱えたまま病院に呼び出された父から…

店の電話が鳴ったのは、閉店間際のことだった。「翔平?今すぐ病院に来て。お父さんが倒れたの」。たったその一言で、頭の中が真っ白になった。実家は代々続く洋服屋で、父は二代目だ。高校卒業後、いつか継ぐために都心の高級スーツ店で修業していた。頼れる店長と、優秀な後輩・須藤さんに恵まれ、実家を継いでからも二人で店を支えてきた。だがある日、売上金と商品が合わない。不安を抱えたまま病院に呼び出された父から...

「ここがどういう店か分かっているのか?ここは健全な人が買いに来る店だ。車椅子の者に買えるものは何もないよ」

店員は車椅子の父に、そう心ない言葉を吐き捨てた。

「車椅子の人間におしゃれは必要ない。家でおとなしくしていろ」

そんなことを平然と言ってのける店員に、俺の怒りは頂点に達しようとしていた。

「じゃあ、その言葉をお店を勧めてくれた友人に言ってもらえますか?」

しかし俺とは裏腹に、父は冷静な声で店員にそう告げると、スマートフォンを差し出した。店員は戸惑うことなく電話に出て、電話口でも変わらず暴言を吐き続けた。

だが、その行為が決定打となり、店員の未来は閉ざされることになったのだ。

俺の名前は半田翔平。当時の俺は、どこにでもいる普通の高校生だった。

「おい、翔平。そこの品出しが終わったら、奥にあるブーツの在庫を確認してくれないか?」

「はい」

みんなと少し違うことがあるとすれば、実家が「半田服店」という洋服屋をやっていることだろうか。

この店は祖父が立ち上げ、父が二代目として切り盛りしていた。小さな個人店ではあるが、幅広い年齢層に対応した手頃な価格の洋服屋を実現し、地元の多くの人に愛されている。

この店は俺の自慢の店だった。学校や部活が休みの日には父の手伝いをしていた。近い将来、父からこの店を引き継いで、もっと繁盛させて、変わらず愛される洋服屋にすることが俺の夢だった。

高校三年生になった俺は、卒業したらすぐにでもここで働いて、この店に貢献しようと思っていた。俺の店に貢献したいという意思は一貫して変わらないものだったので、学校に提出する進路希望調査書には「就職 半田服店」と書いた。

それに、俺がこの店を継ぐ意思があることを父は喜んでくれると思った。しかし、三者面談でこの調査書を見た父は、少し難しい顔をした。

「翔平、お前が店を継ぎたいと思ってくれていることはもちろん嬉しい。だが、この先ずっとお前をあの店に閉じ込めて、社会を知らない大人にはなってほしくないんだ」

「じゃあ、店を継ぐことを許してくれないのか?」

「そうじゃない。ただ一度社会に出て、服のことや接客のこと、商売のこともいろいろ勉強してこい。俺はまだまだ元気だ。店を継ぐのはそれからでも遅くないだろう」

担任の先生も父の意見に賛成し、他の企業への就職を進めた。

俺は父なら店で働くことをあっさり許してくれると思っていたため、父の言葉には驚いた。しかし、それだけ俺のことを考えてくれているんだと感じて、嬉しくなった。

そして高校を卒業すると、俺は父の友人が店長を務める、都心の高級スーツを扱う店に就職した。小さい頃から父の手伝いをして服のことは熟知していると思っていたが、新しい学びばかりで、研究機関でさえもワクワクが止まらなかった。

「商売をする上で一番大事なことは何か分かるか?」

「できるだけ安くお客様に提供することですかね?」

「違う。商売は安けりゃいいってもんじゃないんだよ。いかにお客様の笑顔のために行動できるかだ」

「なるほど。勉強になります」

店長は友人の子供だからと俺を甘やかすことはせず、それはそれは厳しく指導し、それでいて俺を可愛がってくれた。店長から教わる商売のやり方は本当に勉強になることばかりで、頭に叩き込むことばかりだった。そんな毎日は大変ではあったが、忙しくも充実した日々を過ごしていた。

店長の元で働き始めて三度目の桜が咲き始めた頃、新しく大卒の男が入社してきた。名前は須藤大樹さん。大卒なだけあって頭がとても良くて、俺なんかよりずっと優秀だった。

俺は年上の後輩という何とも絡みにくい関係性に不安を拭いきれなかったが、須藤さんはそんなことを気にしていないようだった。須藤さんのそんな態度のおかげで、俺はすぐに打ち解けることができた。そんな仕事仲間にも恵まれ、少しずつ大きな仕事も任せてもらうようになった。

ある日、一本の電話があった。

「もしもし」

「翔平?今すぐ病院に来てちょうだい。お父さんが……」

嫌な予感がした。

「こっちのことは気にするな。今すぐお父さんのところに行ってきなさい」

俺は店のことを店長と須藤さんに任せ、急いで支度をした。母から聞かされていた病院へ、茫然としたまま向かった。病院に着き、正面玄関で迎えてくれた看護師に従って中に入ると、ひどく動揺している母が目に入った。

「母さん、落ち着いて。何があったのか説明してくれないか?」

「今朝、いつものようにお父さんと品出しをしていたら、お父さんがいきなり倒れたのよ。意識はあったし、息もちゃんとしていたけど、すごく苦しそうだったから救急車を呼んだの。それで……今はお医者さんに手当てをしてもらって、落ち着いているわ」

俺は心底安心した。父にはまだ教えてもらいたいことがたくさんある。こんなところでお別れなんて、絶対にしたくなかった。

医師からの説明を受けた母から話を聞くと、父にはある病気が見つかったらしい。これからしばらく入院することになるみたいだった。

すると看護師に、父と面会ができると声をかけられた。俺は父にかける言葉が見つからなかったが、面会することにした。

「父さん」

「翔平、来てくれたのか?今はこの通り元気だから心配するな」

「でも……」

言葉に詰まった俺を見て、父は小さく笑った。

「いいか、翔平。この機会だから少し真面目な話をするぞ。そろそろ店を継いでくれないか?俺はもう若くないんだって思い知ったよ。どうだ?」

俺はすぐにでも実家の店を継ぎたかったが、今の職場で自分の実力不足を実感していた。だから、「任せて」と言える自信はどこにもなかった。

「ああ、時間はたくさんある。考えておいてくれ」

父にそう言われ、しばらく一人で考え込んでいたが、俺は決心できずにいた。そこで、父のこともよく知る店長に相談してみることにした。

「というわけなんですが、俺どうすればいいんですかね?」

「継げばいいじゃないか。今の翔平にはもう、実家の店を一人で動かしていくだけの力がある」

「でも、俺やっていける自信ないです」

「誰だって最初は不安なものさ。お前ならできる。俺が保証する」

店長が背中を押してくれたおかげで、俺は店を継ぐことを決意した。しかし、やはり一人では不安だったので、優秀で信頼している須藤さんにも働いてもらいたいと思った。でも俺一人で須藤さんに話を持ちかけても断られると思ったため、店長に一緒に頼んでくれるようお願いしてみた。

店長は快く承諾してくれ、早速須藤さんにこのことを打ち明けた。

「須藤さん、この通りだ。頼む。どうか翔平の力になってくれないか」

真剣に話を聞いてくれた須藤さんは困った表情を浮かべていたが、最後は店長のおかげもあって、半田服店で働くことを承諾してくれた。

俺は本当にいい仲間に出会えたなと、心の底から思った。

それからの毎日は大変ながらも、とても充実した日々だった。小さい頃から知っている常連さんやご近所さんはとても良くしてくれたし、何よりこの自慢の店で働けることが嬉しくてたまらなかった。

父から店を継いで、あっという間に三ヶ月が経過していた。

ある日、一日の仕事が終わり売上の計算をしていると、何かがおかしいことに気づいた。お客さんに売った商品と売上金が一致しないのだ。俺は最初は計算を間違えたのだと思い、もう一度計算し直したが、やっぱり合わない。そこでその日売れた商品と売上金を詳細に照らし合わせてみると、ベルトやアクセサリーの数点が売上金に含まれていなかった。

売れていないはずの商品が店から消えているのは、どう考えたっておかしい。俺は須藤さんに相談してみることにした。

「というわけなんだけど、どう思う?」

「気のせいじゃないのか?」

「気のせいじゃないんだよ。ほら、売上金と見比べてみて」

「じゃあ、誰か万引きしてるのかもな」

「万引き?お客さんを疑うのか?そんなお客さん、うちにはいないだろう」

「そんなの分からないじゃないか。この建物は古くてセキュリティが万全じゃないんだから。ベルトの一本や二本取られたっておかしくない」

須藤さんのそっけない反応には少し苛立ったが、原因を突き止める術はなかった。須藤さんの言う通りうちの店は古い個人店なので、防犯カメラも十分な数を設置できていない。仕方なく、しばらくは様子を見てみることにした。

そんなある日、入院中の父から急に呼び出しを受けた。俺は父の病気が悪化して何かあったのかもしれないと思い、急いで病院に向かった。

病院に到着し、父の病室を訪れると、父が元気な様子で俺を出迎えた。

「父さん、体は大丈夫なのか?」

「見ての通り、とっても元気だよ。まあ、入院しているのに元気ってのも変だがな」

「なんだ、父さんに何かあったのかと思って急いできたんだよ」

「それは悪かったな」

父は苦笑いを浮かべたが、すぐに真剣な表情になって俺を見た。

「それより、最近店の方はどうだ?」

「うん、ちょっと順調とは言えないかも。なんかおかしなことがあって、ベルトやアクセサリーが数点なくなったんだよ」

「そうか。そんなことも起こっていたのか」

「そんなことも?父さん、どういうこと?何か知ってるのか?」

「いや、実はな。最近急激に店の評判が落ちているようでな、口コミサイトに悪いことが書かれているんだよ。ほら」

そう言って、父は口コミサイトの半田服店のページを見せてくれた。

「この店の店員に、貧乏な客に売る服はないと言われました。こんな店二度と来ません」

「ブスに着れる服はないですって昔よく言っていた店だけに失望しました」

「接客が悪く嫌な思いをしました。早く潰れてしまえばいいのに」

そこには、今まで言われたことのないような悪評が並んでいた。

「なんだこれは?」

「翔平、何か心当たりはないか?」

「心当たりはないけど、俺は絶対にこんなことは言っていない。ということは須藤さんかも」

「もしこの口コミが本当なら、須藤君がこんな接客をしているということだな」

「本当に須藤さんなのか?須藤さんがどうしてこんなことを?前の店で働いてた時はそんなことなかったけど」

「よし、本当かどうか確かめよう。須藤君と面識のない俺が、客として店に潜入しようじゃないか」

「でも父さん、体調は……」

「これくらい大丈夫さ。車椅子なら体の負担も少ない。病気のことなら安心しなさい」

父が力強く言ってくれたこの言葉を信じ、父に潜入捜査を頼むことにした。

迎えた潜入当日。服好きな父らしく、シックなスーツに身を包み、とても上品な雰囲気をまとっていた。

「父さん、聞こえるか?電話はこのまま繋いだままでよろしくな」

須藤さんとの会話が聞こえる状態にしたスマートフォンを父に預け、車椅子で入店してもらう。父が店に入ってしばらくすると、須藤さんの声が聞こえてきた。

「あのさ、ここがどういう店か分かってる?ここは健全な人が買いに来る店なの。車椅子のやつが買えるものはないんだけど」

耳を疑った。俺は信じたくなかった。須藤さんがお客さんにこんなひどいことを言っているだなんて。

それでも須藤さんの声は止まらなかった。

「だから、車椅子のやつが服なんか買ってどうするの?どうせ自分一人で着替えもできないんでしょ。だったら服屋なんか来るなよ」

その後も暴言を繰り返す須藤さんに、父が口を開いた。

「別に、私のような車椅子の人が服を楽しんだっていいじゃないですか」

「何言っちゃってんの?逆によくこんなところに来て惨めな気持ちにならないね。普通、車椅子の人が来るような場所じゃないから」

「しかし、私は服が大好きです。買い物させてください」

「本気で言ってる?早く店から出てけよ。車椅子のやつが服を楽しむ権利なんてないんだよ」

須藤さんの信じられない言葉の数々に、俺の驚きと怒りは頂点に達しようとしていた。

「じゃあ、その言葉をここをお勧めしてくれた友達に言ってくれますか?」

父の冷静な声が聞こえる。すると、スマートフォンを受け取ったらしく、須藤さんの声が大きくなって電話口から聞こえた。

「あんた、車椅子のやつに服をお勧めするとか、人間としてどうかと思うよ。あんた最低だな。ああ、車椅子のおじさんか。そうなの?」

須藤さんは、嘲りを含んだ口調で言う。

「翔平だけど」

「え?」

告げると同時に、俺は店の中に入っていった。

「翔平?どういうことだ?」

「須藤さん、いつもこんな接客をしていたのか。どうしてこんなことをしていたんだ?説明してくれ」

顔面蒼白になった須藤さんは、何も言えずに口をもごもごと動かしている。

「ベルトやアクセサリーがなくなっていたのも、あんたが盗んだのか?」

須藤さんは黙ったままだった。

「黙ってないではっきり答えろ」

怒りに任せて声を荒げる。すると須藤さんは肩を落として、か細い声で答えた。

「……俺だよ。俺がやりました」

「どうしてこんなことを?」

「翔平が……翔平がお前が、俺より年下で高卒のくせに先輩なのが気に食わなかったんだよ」

睨むように須藤さんは俺を見る。

「そうだったのか」

「俺が前のスーツ店に就職した時、俺より年下で高卒のバカなのに、自分が後輩として接しなくちゃいけないのがとても悔しかった。店長も、容量が良くて愛嬌があるお前の方をより可愛がっていた」

須藤さんの頬には一筋の涙が流れた。

「だから、お前が実家の服屋を継いで店をやめると知った時は、やっと解放されると思って本当に嬉しかった。でも……俺が須藤さんに一緒に働いてくれるように頼んだ」

「そうだ。やっと自由になれると思ったのに。お前からだけ頼まれたら何が何でも断るつもりだったけど、店長からも頼まれて断れなかったんだ」

そう言うと、須藤さんは小さくため息をついた。

「店の商品を盗んだり、お客さんに暴言を吐き続けたのは、店の評判を落とすためだった。お前に嫌がらせをしてやろうと思ったんだよ」

「……そんな理由だけで、この大事な店をめちゃくちゃにしたのか」

ふつふつと湧いてきた怒りをどうすることもできないままでいると、ずっと黙って話を聞いていた父が口を開いた。見れば父は目を真っ赤にして涙を流していた。

「そんな理由で、この店にいたずらをするな。この店は、私の父が人生をかけて築いた店だ。私もまた、この店に人生をかけてきた。言葉では表せないくらい大切で、我が子のような店なんだ」

父の熱い言葉に、胸が熱くなった。

「もうこれ以上、店の評判を落とすようなことや、翔平の邪魔はしないでくれ。この店にも、息子にも関わらないでくれ」

父がそう言うと、須藤さんは気まずそうな顔をしながら、とぼとぼと店を出ていった。

「翔平、今日はもう店を閉めよう」

「うん」

それから数日後、須藤さんから連絡があった。

「この度は申し訳ないことをした。本当にすまない。もうやめるよ」

さらに後日、須藤さんが盗んだ商品が入ったダンボールが届いた。ダンボールにはパンパンに商品が詰められていた。須藤さんは思っていたより多くの商品を盗んでいたようだ。それでも須藤さんがこの商品たちを返してくれたのは、父の言葉が響いたからなのかもしれないと思う。

それからというもの、俺は半田服店のチラシを作成し、街中で配り歩いた。

「半田服店です。よろしくお願いします」

新規のお客さんを獲得するためでもあったが、今回の件で離れてしまった常連客を取り戻すためでもあった。店の看板も新しくし、一からこの店で頑張っていこうと思う。

そのおかげもあってか、少しずつではあるが、新規のお客さんも過去の常連客も買い物に来てくれるようになった。あれほど荒れまくっていた口コミサイトも、

「やっぱり半田の服が好きです」

「三代目の接客が丁寧で、また来たくなります」

「お店の雰囲気も服も接客も、全てが素晴らしいです」

今ではいい口コミが増えてきて、悪い口コミは削除されていた。

「父さん、今日もたくさんのお客さんが来てくれて、本当に嬉しかったんだ」

「そうか、そうか。俺も来月からまた現役で、翔平と店をやれるのが楽しみだよ」

「うん。俺も楽しみだ。父さんにはまだまだ教えてもらいたいことがたくさんあるんだから、まだまだ元気でいてくれよ」

「おお、分かってるよ」

あれからというもの、父の体調は回復に向かい、来月には退院できるまでになった。夢だった父さんとの店。そのことが今から楽しみで仕方がない。

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