「お前が移動してきた中卒か」――新しい部長に挨拶した瞬間、そう言われた。頭から湯気が出るほど腹が立ったが、俺は「はい」とだけ返して席に戻った。三十五歳、妻と一歳の娘がいる。中学の時に両親を事故で亡くし、親戚をたらい回しにされた末、海外にいた叔父に引き取られた過去がある。だから中卒だと見下されても、いちいち訂正しなかった。だが部長は会うたびに「中卒が出世の足を引っ張るな」と繰り返し、取り巻きま…

「お前が移動してきた中卒か」――新しい部長に挨拶した瞬間、そう言われた。頭から湯気が出るほど腹が立ったが、俺は「はい」とだけ返して席に戻った。三十五歳、妻と一歳の娘がいる。中学の時に両親を事故で亡くし、親戚をたらい回しにされた末、海外にいた叔父に引き取られた過去がある。だから中卒だと見下されても、いちいち訂正しなかった。だが部長は会うたびに「中卒が出世の足を引っ張るな」と繰り返し、取り巻きま...

「お前が移動してきた中卒か」
 新しい上司として部署に配属された部長に挨拶をした瞬間、そう言われた。挨拶を返す前に、頭から湯気が出るような思いを味わった。「どうして君みたいな中卒がここに来たのか分からんが、しっかり働くように」
 腹は立ったが、俺は「はい」と短く返して自分のデスクに戻った。

 俺の名前は間田ゆき。三十五歳の会社員だ。妻と一歳の娘の三人暮らしで、娘が可愛くて仕方がない。妻と出会ってから俺は幸せを感じているが、子供の頃はそれなりに苦労をしてきた。中学生の時に両親が事故で亡くなったのだ。父方の祖父母は俺が生まれる前に他界しており、母方の祖母は体が弱く入退院を繰り返していて、祖父がその面倒を見ているという状況だった。だから俺を引き取る余裕のある親戚はいなかった。
 一時は親戚をたらい回しにされた。中学三年の頃、母の弟である叔父から連絡があった。「海外で仕事をしているが、お前を引き取る準備ができた。遅くなってごめん。俺のところで生活すればいいよ」と。
 叔父は海外に行く前は頻繁に会っていて、父とも仲が良く、俺にもよくしてくれていた。親戚の家で肩身の狭い思いをしていた俺は、すぐに頷いた。しかし、俺を引き取ってくれていた親戚はそれを良しとしなかった。親戚のところには俺の両親の保険金や遺産が預けられていたらしい。俺がいなくなると、そのお金が使えなくなるから困るというのだ。
 それから親戚と叔父の間で揉めに揉めた。叔父は「じゃあ、ゆうきのことを厄介扱いしないでください。服装や持ち物も、ゆうきの欲しいものを与えてやってください。世間体やお金のためにゆうきを利用するな」と言った。ようやく親戚は諦めた。結局、俺は中学卒業と同時に叔父のところへ行った。
 そんな過去があったが、人に話して面白いものでもないので、俺の生い立ちを知る人はあまりいない。

 俺が今の会社に来たのは二年前だ。知り合いに声をかけてもらって転職した。その後、娘も生まれた。仕事もうまくいっていたし、苦労してきた分報われたと思っていた。しかし、数ヶ月前に部長が変わった。それから部署の雰囲気は悪くなっていった。
 新しい部長は名門大学を卒業しているらしく、エリートだった。「この中でまともな学歴はほとんどいないなあ」と部署内を見回して言ったことは記憶に新しい。しかも、どこで聞いたのか俺に向かって「お前、中卒らしいなあ。そんな学歴で今までどうやって生きてきたんだよ。せいぜい俺の出世の足を引っ張るなよ」と言ってきたのだ。
 そう言われても、俺は真っ当に生きてきたし、俺の人生をとやかく言われる筋合いはない。反論するのも馬鹿らしくて、俺は「はい」と返事をしておいた。それ以来、部長は会うたびに俺を中卒だと見下してくる。部長があまりに俺を中卒だと連呼するので、部長の取り巻き連中も俺を見下すようになってしまった。
 そんな様子を見て、同僚の神川がこそこそと声をかけてきた。
「おい、いいのかよ、お前の学歴って」
「はあ、いいんだよ。何言っても無駄だろ」
 俺がそう言うと、神川は腑に落ちない顔をした。

 実は理由があって、俺の最終学歴は口止めしてあった。仲のいい同僚や人事部、社長など知っている人はいるが、今のところそれ以外には広まっていない。この会社では高学歴で出世している人もたくさんいる。世間的に名門大学卒はエリートだ。部長もその一人で、出世コースに乗っているらしい。そのことに異論はないが、だからといって人の学歴を見下してくるのはどうなのか。
 部長に言い返してやりたい気持ちはあったが、仕事で見返したいと思った。ちょうど大きな案件を抱えていた。これを成功させれば、部長だって少しは俺のことを認めるだろう。そう思い、俺は一層仕事に力を入れた。

 それから半月後、部長が言った。
「明日、社長と役員が視察に来ることになった。面倒だがしょうがない。お前らちゃんと仕事しろよ」
 視察の詳しい目的は分からないが、今までも役員が突然視察にやってきたことは何度かある。部長はこの視察を面倒な行事だと捉えているようだ。
「ああ、面倒だなあ。視察だなんて。何しに来るんだよ」
 部長は一日中ぐちぐち言っていた。周りの社員の中には「まあまあ、そう言わずに」と部長の肩を持つエリート組もいるが、大半は部長を白い目で見ていた。
 すると、俺を見て部長が突然言った。
「ああ、そうだ。面白いことを思いついた」
 それからニヤニヤと不気味な笑みを浮かべた。何を企んでいるのだろうか。

 翌日、出社するとすぐに社長と役員が来て、部署内の空気は張り詰めた。挨拶の時間になり、部長が話し始めた。
「うちには面白い人材がいるんです」
 社長は「おお」と言って部長の話に前のめりだ。部長が何を言うのかと思ったら、
「この部署に中卒の社員がいてですね。まあ、学歴なんて関係なく優秀だからここにいるんですよね」
 そう言って俺を見てニヤニヤし出す。俺のことを言っているのか。部長が俺のことを優秀だと言うなんて、裏があるに決まっている。
 社長と役員は部長の行動を監視するように見ていたが、部長は構わず俺に前に来るよう指示した。
「間田君と言うんですけど、中卒なんですよ。私なら恥ずかしくって言えませんが、彼は中卒だと知られても堂々としている。それから、彼の特技は英語なんです」
 俺は昨日の部長のニヤニヤとした顔を思い出し、「こういうことだったのか」と理解した。きっとこの後、英語で話をしろと言ってくるのだろう。俺は部長に英語が得意だなんて言ったことはない。多分部長は、中卒の俺が英語なんてできないと思っているはずだ。そこで英語のできない俺を晒し上げて笑いものにする気なのだ。
 俺の予想通り、部長はニヤニヤと笑いながら言った。
「さあ、視察にいらっしゃった社長と役員方にご挨拶しなさい。もちろん、君の得意な英語でだ」

 散々中卒だと馬鹿にしてきて、まだこんな落とし入れるような真似をするのか。そう思うと、今まで流してきた怒りが爆発した。社長に直接話せる機会なんてほとんどない。むしろいい機会だ。俺は部長に向かって言った。
「部長って、英語できるんでしたっけ?」
「当然だ。私を誰だと思っているんだ?名門大卒なのだから、英語くらいできて当然だよ」
 適当な英語ではごまかせないぞ、と牽制された気がした。そもそも部長は、俺には英語なんて話せないと思っているのだろう。
「分かりました」
 俺がそう言うと、社長や役員の視線が俺に集まった。俺は一歩前に出て話し始めた。その瞬間、部長は目を見開いて信じられないという顔で俺を見た。役員は頷きながら社長に耳打ちをし、社長の顔はだんだん厳しくなっていった。
「あ、おい、何を言っているんだ」
 部長は俺を止めにかかったが、俺は止まらない。俺は英語で、部長の悪態をペラペラと話し、今までの行いを暴いたのだ。他の社員は「えっ」と言いながら隣の社員と耳打ちをしたり、俺をじっと見たりと反応は様々だった。部長は俺の言っていることを少しは理解しているらしく、少なくとも部長を褒めているわけではないと悟り、慌て始めた。社長に耳打ちをしている役員は、俺が話している内容を社長に通訳しているのだろう。
 全て話し終わると、俺は一礼した。次に口を開いたのは社長だった。
「今の話、本当かね?」
 社長は部長に向かってそう言ったが、部長は俺の話を全て理解していない。
「ああ、いえ、その……」
 どもりながら何かを言いかけた部長に、俺は向き直った。
「僕の挨拶、どうでしたか?部長は全て理解していただいたんですよね」
 部長は俺を睨みつけた。
「お前、英語ができたのか?」
 俺は笑って言った。
「アメリカで生活していましたからね。僕はアメリカの大学を出ていますし、妻もアメリカ人です。会社ではほとんど使っていませんが、アメリカ人の友人も多いので英語はよく使うんですよ」
 社員の間でどよめきが起こった。驚いて声を出せずにいる部長に、俺はもうひとつ付け加えた。
「僕がこの会社に転職してきたのは、そちらにいらっしゃる真辺さんに誘われたからなんですよ」
 そう言って、役員である真辺さんに視線を移す。先ほど社長に通訳をしていたのはこの真辺さんだ。
「えっ」
 部長が声を上げた。真辺さんは頷いて、笑いながら言った。
「私の妻もアメリカ人でね。妻と間田君の奥様がアメリカ人のコミュニティクラブで知り合って、そこからずっと仲がいいんだ。妻から間田君の話を聞いた時、我が社で力を発揮してくれると思ってアプローチしたんだよ」
 すると社長が豪快に笑った。
「彼が真辺君一押しの社員だったか。アメリカの名門大学を出ているんだろ。ここにいる誰よりもエリートだな」
 部長はうろたえて言った。
「へあ?アメリカの名門大学?どういうことだ?だってお前は中卒じゃ……」
 自分の生い立ちを話すのはあまり好きではないが、俺は手短に話した。
「幼い頃、両親が事故で亡くなりまして。中学までは親戚のところで面倒を見てもらっていましたが、事情があってアメリカで仕事をしていた叔父に引き取られたんです。だから向こうで勉強して大学を卒業しました。その頃、叔父が帰国することになったので、俺も一緒に日本に帰国しました」
 そこで真辺さんが笑って言った。
「それで、当時友人だった奥さんが間田君を追いかけて来日したんだろう。羨ましいな」
 その言葉で室内は一瞬和やかな空気に包まれた。しかし、部長だけは俺を睨みつけていた。
 社長は部長に向き直った。
「それで、今の話は本当なのか」
「え、あの、何のことで……」
 うろたえる部長に、真辺さんが口を挟んだ。
「間田君が話した内容は理解しているよな」
 厳しい口調に、部長は青ざめた。俺はそこで言った。
「部長は名門大卒で英語ができるのは当然なんですよね。部長は全て理解していると思いますが、僕が今話したのは、部長がよく俺のことを中卒だと馬鹿にしてきたこと。他の社員のことも見下したり馬鹿にしたりしていること。それと、昨日はこの視察を面倒だと周りにぐちぐち言っていたという内容です」
 他の社員も「うんうん」と頷いた。俺は続けた。
「僕の日本での学歴は中卒ですから、わざわざ訂正しようとは思いませんでした。それに、学歴だけで優劣をつける人は嫌いなので、アメリカの大学を卒業しているというのも伝えなかっただけです」
 部長は口ごもっている。社長は「そうか」と言って頷いた。俺は社長と目が合ったので、思い切って口を開いた。
「僕は学歴よりも仕事ぶりで評価して欲しいです。だから、きちんと仕事をして成果を出せば部長も認めてくれると思っています。今はまだ部長から見下されていますが、僕は必ず仕事で見返したいと思います」
 これは俺の決意だった。次の瞬間、拍手が湧き起こった。
「さすが、俺が見込んだだけのことはあるな」
 真辺さんは満足そうに笑った。そして社長が部長に向かって言った。
「君は学歴でしか判断できないらしいが、そんな人間に部長なんて勤まるのか?社内で君の悪い噂が聞こえてきているので、今日はそれも含めた視察なんだ」
 部長の顔はどんどん青ざめていく。真辺さんはそれを無視して「では、仕事を始めてください」と言った。

 視察が終わった後も、部長は目に見えてイライラしていた。社長の目もあるので表立って何かを言ってくることはないが、俺のデスクの後ろを通る時にわざとぶつかってくるし、小声で嫌みを言ってくる。やることが小学生以下だ。
「お前、余計なことをしてくれたな」
 後ろからそう言われたので、思わず振り返った。
「僕が英語を話せるわけがないと思って、わざわざ英語で挨拶しろなんて言ってきたんですよね。自分のことを棚に上げて何なんですか?部下に恥をかかせて、それが自分の恥になると思わないんですか?」
 言ってしまった。社長の視線がこちらに向いたので、部長は慌ててその場を去っていく。その瞬間、俺の電話に着信があった。
「はい、ありがとうございます」
 俺は先方の言葉に勢いよく返事をした。そして電話を切り、喜びを噛み殺していた。
「間田君、もしかして」
 隣の席の神川に声をかけられたので、俺は勢いよく頷いた。受け持っていた大きな案件が無事に決まったのだ。
 すぐに部長に報告しようとすると、部長の姿がない。きょろきょろしていると真辺さんに声をかけられたので、俺は案件が決まったことを報告した。
「すごいじゃないか。快挙だよ」
 真辺さんも喜んでくれて、すぐに社長まで話が行った。すると真辺さんが社長に「あの案件を彼に中心になって任せてみてはいかがでしょう」と言った。俺は何のことか分からず首をかしげたが、社長は「ああ、そうだな」と言って頷いた。
 部長はタバコでも吸いに行っていたのだろう。俺が社長と話しているところに部長が戻ってきたので、俺は部長に案件が成功したという報告をした。
「ああ、よくやった」
 口ではそう言っているものの、部長は青筋を立てていた。社長はそれに気づいていないようで、間田君に任せたい仕事があると言い出した。とある外資系企業とのプロジェクトで、もちろん英語が必須になるし、責任者がいなくて悩んでいたという。そこで俺に白羽の矢が立ったそうだ。
「本来なら部長に任せようと考えていましたが、ここ数時間見させてもらっただけでも部長は適任とは思えなかったので取りやめました」
 真辺さんがそう言うと、部長は悔しそうに唇を噛んだ。
「はい、是非やらせてください」
 俺は返事をして、部長に向かって言った。
「部長の出世の足を引っ張らないように頑張ります」
 すると周りから笑いが起こった。俺は社長と真辺さんに向かって言った。
「いつも、僕は中卒だからと部長に出世の足を引っ張るなと言われていたもので」
 部長は俺を睨みつけるが、言い返すことはできないようだった。

 その後、社長らが視察を終えて帰ると、俺は部長に呼び出された。嫌な予感しかしなかったので、俺は隣の席の神川に部長から呼び出されたことを話し、指定された会議室に向かった。案の定、部長は俺に向かって怒鳴った。
「ふざけるな。お前のせいで俺は面目丸つぶれだ。今からでも遅くない。あの真辺とかいう役員に連絡して、俺の鉱石を伝えろ」
「鉱石って何ですか?名門大卒の部下しかいないということですか?学歴で部下にランク付けをしていることですか?それとも、自分の仕事を部下に押し付けて、いい評価だけ自分のものにしていることですか?」
 俺は興奮して頭に来ていたので、言いたいことを言ってやった。
「うるさい。アメリカの名門大卒なんて、証拠もないのにどうとでも言えるだろう。アメリカの女はお前みたいな中卒が好みなのか。どうせお前の嫁なんて、たいしたやつでもないんだろう」
 俺は手を出しそうになる衝動を抑えて口を開いた。
「妻は素晴らしい人だ。部長に何が分かるんですか?会ったこともない人に対して、よくそんなことが言えますね。部長こそ名門大卒なんて信じられません。確かに学力はあったのかもしれませんけど。それ以外の人間性、社交性、一般常識、どれを取っても小学生以下じゃないですか?」
 そこまで言うと、部長は俺に掴みかかってきた。その時、会議室のドアが開いた。
「そこまでですよ。部長の暴言は全て録画させてもらいました。明らかにパワハですよね」
 スマホを構えながら入ってきたのは神川だった。部長は俺を突き放し、「お前ら、覚えとけよ」と吐き捨てて出ていった。
 その後、俺は真辺さんに相談し、神川が抑えてくれた部長のパワハの証拠を渡した。部長は降格した。しかも、降格した途端、今まで部長についていたエリート社員たちは手のひらを返した。「降格した人に興味なんてありません」と言われている現場を見てしまい、俺は思わず笑いをこらえきれなかった。
 元部長は、今まで見下していた平社員たちの冷たい視線に耐えられなかったようで、いつの間にか退職したそうだ。
 俺は新しいプロジェクトを任されて充実している。妻も喜んでくれているし、妻と娘の笑顔にいつも癒されている。真辺さんと神川にも感謝だ。

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