夕方の路地裏で、小さな声が聞こえてきた。いらっしゃいませ。お弁当いかがですか?
声の主は、まだ俺の膝より少し低い、五歳くらいの女の子だった。色褪せたたんぽぽ柄のエプロンに、ちょこんと胸を張った姿。両手にはお品書きを描いた小さな紙を持って、人通りの少ない路地に向かって何度も何度もぺこりと頭を下げていた。俺は思わず立ち止まり、その小さな店員さんの姿をしばらく見つめてしまっていた。
あの日の夕方、ほんの一駅分だけ遠回りした帰り道で出会ったあの小さな店員さんが、これからの俺の人生をこんなにも優しく温めていくことになるとは、この時の俺はまだほんの少しも知らなかった。
俺の名前は藤村渡、三十代。藤村建設という社員百人を抱える中堅の建設会社で三代目の社長をしている。社長と言っても、テレビニュースに出るような派手な案件は手掛けてこなかった。地方の駅前の商業施設や街のクリニック、保育園、住宅街のマンション。そういう暮らしの土台になる建物を、祖父の代から愚直に立ててきた。それが藤村建設の仕事だ。
父は二年前の春、肝臓の癌で亡くなった。三代目を継いだ俺の下には、それでも百人の社員が誰一人欠けることなく残ってくれた。ありがたかったが、同時に責任の重さに押し潰されそうな日々でもあった。百人。その数字の向こう側には、社員の奥さんや旦那さん、まだ手のかかる子供たち、年老いた両親など、数えきれない人たちが存在している。俺は彼らの食卓を絶対に冷やしてはいけない立場にいる。
母のことはほとんど覚えていない。俺がまだ五歳の時に病で逝ってしまったからだ。それでも一つだけはっきりと覚えていることがある。朝、台所の小さな電球の下で、白い湯気を立てるご飯に塩を一つまみ振って、母がぎゅっとおにぎりを握っていたあの背中。ふっくらとした手のひら。白いご飯の温かい匂い。俺の中の母は、その湯気の匂いとセットになって今もどこかに残っている。
母が逝ってから、父は一人で俺を育てた。毎朝不器用な大きな手で、形のいびつなおにぎりを二つ握ってくれた。具はコンビーフの日もあればちりめんじゃこの日もあったし、たまに何も入っていないただの塩結びの日もあった。それでも弁当箱を開けた瞬間に立ち上る白いご飯の湯気の匂いだけは、母のものとよく似ていた。俺はその湯気の匂いを、多分一生忘れない。
三年前、妻と別れた。子供はできなかった。別れた理由を一つに絞るのは難しいが、最後に妻が言ったのはこんな言葉だった。
「あなた、家にいないじゃない。」
あの頃は父の容態が悪くて、俺は会社と病院と現場の間をぐるぐると回るだけの毎日だった。家に帰ってもダイニングテーブルの上に書類を広げて、湯気の立つ皿を妻が運んできても、俺はパソコンの画面から目を離さなかった。今思えばあれが俺の罪だった。家庭の温度というのは、ふと油断した隙に音もなく冷えていってしまうものなんだということを、別れる頃になってようやく思い知った。
父が逝き、妻も去り、俺の家にはもう誰もいなかった。朝目を覚ましても台所から立ち上る湯気の匂いはしない。夜帰ってきても、玄関の電気は俺がスイッチを入れるまでずっと暗いままだ。
その日俺は、駅前で進めている再開発ビル「桜テラス」の現場にいつものように朝から立ち合っていた。工事は順調に進んでいた。ただ一つだけ、ずっと頭の片隅に引っかかっていることがあった。このビルに入る予定のお得意先の物流会社、百人分の昼食を開業後どこから仕入れるかという問題だ。社員食堂を作るスペースは取れなかった。だから外から弁当を仕入れて毎日百食を配ることになるのだが、大手の仕出し弁当業者からはすでに何件も見積もりが届いていた。値段はどれも安かった。中身もそれなりに整っていた。ハンコを押せばそれで済む話だった。それなのに契約書を見るたびに、なぜか手が止まった。「父さんなら多分こういう弁当は選ばないだろう。」そんな声がいつもどこからかぽつりと聞こえてくる気がしていた。
ある日、午後の打ち合わせが一つ流れて、ぽっかりと夕方の時間が空いた。現場監督に「ちょっとその辺歩いてきます」と声をかけて、俺は駅の反対側、北口の路地に足を向けた。この辺りはまだ再開発の手が入っていない古い商店街がそのまま残っている一角だった。シャッターの降りた店も多い。歩いている人もまばらだ。それでも夕日の当たる古いタイルの壁や、軒先の手書きの看板や、どこかの家の換気扇から漏れてくる夕飯の匂いが、俺の歩幅を少しずつゆっくりにしていった。
特に何も考えず路地を気ままに歩き、ふと辿り着いた先。駅から数百メートル離れた細い小道を曲がった一番奥に、その店はあった。色褪せた暖簾が風に揺れている。その上に手書きののぼりが一枚、夕下りの風にゆっくりと揺れていた。「ひより弁当」。書かれた文字の脇には、子供が書いたと見紛う、にっこり笑うたんぽぽの花と丸い太陽のイラストが並んで添えられていた。のぼりの一番下には、たどたどしいひらがなでもう一つ描き添えがあった。
「今日のお弁当はおいしいでしょ。」
俺の口元が、自分でも気づかないうちにほんの少しだけ緩んでいた。ふと目線を下にすると、暖簾の前に小さな店員さんが立っていた。背丈は俺の膝より少し上くらいの高さ。おかっぱの黒い髪。色褪せたたんぽぽ柄のエプロン。胸の名札には、これも手書きで「ひなた たかこ 5」と書いてある。両手にはお品書きの紙を一枚握りしめて、ぺこりと頭を下げる。通る人がいないのに、それでも誰もいない路に向かって、彼女は何度もお辞儀を続けていた。その小さな背中を見ているうちに、俺は喉の奥がなぜだか急にぐっと詰まる感覚に襲われた。
俺の存在に気づいて、日向ちゃんは顔を上げた。そして両手をエプロンの前で揃えて、にっこりと満面の笑顔でもう一度言った。
「いらっしゃいませ。お母さんのお弁当、本当に美味しいですよ。」
俺はどう答えていいか分からずに、つい店内をぐるりと見回した。ガラスの小ケースの中には五種類くらいの弁当が並んでいた。のり弁、生姜焼き、鮭の塩焼き、唐揚げ、それからたんぽぽ印の小さな子供向け弁当。どれもコンビニや大手チェーンに比べて明らかに作りが丁寧だった。卵焼きは一つ一つ巻きが揃っている。唐揚げの衣はさっくりとした黄金色をしている。白いご飯の上にはごま塩が、一本刷毛で引いたようにまっすぐ振ってある。こういう弁当は機械では作れない。作り手の確かな痕跡がガラス越しにでも伝わってきた。
奥の厨房からことことと小さな鍋の音が聞こえる。そしてその後すぐに、出汁の香ばしい匂いがふわっと香る。俺はその匂いに釣られて思わず深く息を吸い込んでいた。懐かしいというにはあまりにもありふれた匂いだった。それなのに、胸の奥の一番柔らかいところにまっすぐ届いてしまうような、そんな匂いだった。
五歳の店員さんはぴょこっと一歩前に出て、ひそひそ声でこう付け加えた。
「お弁当買ってくださると、お母さんがすごくすごく喜びます。今日は私もいっぱいお手伝いしたんですよ。」
俺は自分でもよくわからないうちに、こう答えていた。
「そうか。じゃあ全部もらおうかな。」
日向ちゃんは一度はっとしたようにして、それからこてんと小さく首をかしげた。「全部ですか?」
「ああ。」と俺は頷いて、ガラスケースの弁当を一つずつ指でなぞるように示しながらもう一度言った。「うん。ここにある分全部売ってもらいたいんだ。それと、明日からも毎日百個ぐらい用意できるかどうか、お母さんに聞いてみてもらえるかな。」
日向ちゃんはぽかんと口を開けた。そしてエプロンの裾を両手でぎゅっと握りしめて、奥の厨房に向かって思いっきり大きな声でこう叫んだ。
「お母さん!お弁当全部売れたって!百個!百個でって!」
奥からエプロンの紐を結び直しながら出てきたお母さんは最初笑っていた。きっと可愛い娘のおふざけだと思ったのだろう。けれど俺の存在に気づいて目を丸くし、日向ちゃんが指さしているガラスケースと俺の手に握った財布を見て、状況を理解したらしい。すぐにその目が緩み始めた。「ありがとうございます」と言いかけたその唇はすでに小さく震えていて、なかなか言葉にならなかった。
俺はその瞬間、ようやくある一つのことを理解した。このお弁当屋さんは、多分今、本気で困っていたんだと。そしてその「困っている」を誰よりも先に気づいて、一人で暖簾の前に立って客を呼び込んでいたのが、たった五歳のこの小さな店員さんだったんだと。夕日がたんぽぽののぼりの一番上を柔らかく金色に染めていた。
奥のカウンター越しに出てきたお母さんは、少しだけ俺に頭を下げてからエプロンの紐を結び直すふりをして、急いで目元を拭った。
「ありがとうございます。」
その一言をお母さんはようやく絞り出すように口にした。声はまだわずかに震えていた。俺は財布から名刺を一枚抜いて、両手で差し出した。
「申し遅れました。藤村建設というところで三代目の社長をしております。藤村渡と申します。」
お母さんは両手をエプロンで丁寧に拭ってから、その名刺を受け取った。「藤村建設」と小さく繰り返してから、もう一度深くお辞儀をした。
「朝倉と申します。朝倉ゆいです。」
続いて日向ちゃんがてとてと俺のところまで駆け寄ってきた。そしてエプロンのポケットから自分の名前を書いた小さな名札カードを引っ張り出して、ぐっと俺の前に突き出した。
「朝倉ひなた、5歳でしょ!今日はお母さんの一番のお手伝いさんでしょ!」
頑張る姿が可愛いらしくもあり、頼もしくもあり、五歳でも一端の店員さんだなと思った。俺はその名札を両手でうやうやしく受け取って、まじまじと見つめた。
「確かに、頂戴いたしました。」
日向ちゃんはぱっと笑った。くしゃっと顔が崩れて、八重歯が小さく覗いた。
お母さんが申し訳なさそうに俺に席を進めてくれた。案内されたのはカウンターの脇の小さな丸椅子。おそらく客はここで弁当の出来上がりを待つのだろう。レジ横の小さな黒板には、その日のおすすめが子供の字で書かれていた。
「今日のおすすめ たんぽぽ弁当 お母さんの味 500円」
俺は思わずふっと笑ってしまった。笑いながら、なぜか胸の奥のもっと深いところがちりちりと痛かった。
お母さんが日向ちゃんに奥のテーブルでお手伝いを続けるように小さく言いつけてから、改めて俺に向き直った。
「藤村社長、その、本当に毎日百食というお話、本当に頂いてよろしいんですか?うちはご覧の通り個人で営んでいる小さな弁当屋でして、仕入れも配達も衛生管理も、そんな大規模なご注文に答えられるだけの体制がまだ全然…」
そこまで言ってから、お母さんはまた言葉に詰まった。それからはっきりとこう続けた。
「それでもありがたいです。本当にありがたい話なんです。今日、私…」
お母さんはもう一度深く息を吸ってから頭を下げた。
「店を畳むかどうか決めようと思っていた日だったんです。」
予想外の言葉に、俺はしばらく返事ができなかった。カウンターの向こう、奥の作業台で日向ちゃんが小さな手で何かを並べている。多分明日の仕込み用の食材の容器だ。五歳の子供は母親の話す本当の事情まではまだ分からない。おそらく店を畳むという話を娘にはしていないのだろう。それでも、お母さんが最近よく夜中に台所で一人で電卓を叩きながらため息をついていたことくらいは、ちゃんと知っているのかもしれない。そして、その夜中のため息の理由を五歳の彼女なりに考え、自分のやれる範囲内で何かをしようとして、エプロンを着てお品書きを描いて暖簾の前に立った。朝お母さんににっこり笑ってもらえるように、お店をもう少しだけ続けてもらえるように。
ただの想像ではあるが、俺はそう思った瞬間、もう一度目の奥がじんわりと熱くなってしまった。
お母さんは覚悟を決めたように、淡々と事情を話してくれた。夫を二年前の冬に事故でなくしたこと。その時にはもう日向が三歳になっていて、お腹の中にはもう一つの命を授かっていたこと。そしてその子は、悲しみの中でお母さんのお腹から静かに離れていってしまったこと。
亡くなった旦那さんの名前は朝倉巧というそうだ。建設会社の現場で屋根の防水工事を担当する職人さんだった。その日、現場で吊り下げていた機材を支えるロープが何らかの理由で外れてしまった。朝倉さんは、その下に居合わせた若い見習いの職人をとっさに突き飛ばして、自分が代わりにそのまま機材の下敷きになった。見習いの職人さんは無事だった。朝倉さんはその日のうちに病院で亡くなった。
「それは、別に藤村建設さんの現場ではないんです。」
お母さんははっきりとそう付け加えた。何度も、本当に何度も自分に言い聞かせるように、お母さんは続けた。
「主人の事故は藤村建設さんとは関係のないことです。だから社長さんに何かをしていただく筋合いは本当にないんです。私はそういうつもりでこのお話をお受けしているんじゃないんです。」
俺は黙ってお母さんの話の続きを待った。
「主人は生前よく、お弁当の話をしていたんです。『現場で一番楽しみなのは昼の弁当の時間だ。だからいつかは本物の弁当屋になりたい。現場の兄ちゃんたちが明日もう一日頑張れるような、そんな弁当を作る店をやりたい。』そう言いながら、主人は休みの日には私のキッチンに立って色々なおかずを試作していました。私は料理は好きでしたが、夫はあまり上手ではなかった。それでも毎週末、笑いながら台所に二人で並んでいました。主人がいなくなった後、私はその夢をお預かりしている気持ちでこの店を開きました。ひより弁当。名前は、日向が言葉もうまく話せない頃に、夫の写真を指さして『たんぽぽ様』と並べていったところから、私たちが勝手につけた名前です。たんぽぽは、夫の好きだった花でした。」
お母さんはもう一度微笑んだ。その笑顔は、悲しみと感謝と、それから少しの誇りが全部混ざったような不思議な笑顔だった。俺はその笑顔をただ受け止めるしかなかった。
「夫が亡くなってからの二年、私はなんとか日向と二人でこの店を続けてきました。近所の商店街の常連さんたちが毎日お弁当を買いに来てくださって本当にありがたかったんですけれど、商店街のお客様もだんだんとお年を召されていって…それから、一番のお得意様だった商店街の裏手の町の工場が、来月で工場を閉じることになりました。そこの社長さんから、長年お世話になりましたって頭を下げに来られて。毎日三十食お願いしますと言ってくださっていたお弁当が、来月からゼロになります。私の力では、もうこれ以上は難しいと思っていました。」
俺はしばらく何も言えなかった。そして、自分でもなんでこんなことを言うのかわからないままに、こう言った。
「朝倉さん。旦那さんが現場でいつも楽しみにしていた、その現場の兄ちゃんたちが明日もう一日頑張れる弁当を、藤村建設の現場の別の兄ちゃんたちにもぜひ食べさせてやってもらえませんか。俺たちが今駅前で進めているプロジェクトに、桜テラスという再開発ビルがあります。開業後、そこに本社移転で入居する予定の物流会社さんは、従業員が百人ぴったり。二十代から三十代の若い職員さんたちが多い、ハードに働く職場です。その百人の昼食を、毎日ここのひより弁当でお願いしたい。」
お母さんは両手を膝の上でぎゅっと握った。
「私にはまだそんな体制が…」
俺はすぐに付け加えた。
「設備も配達も衛生管理も、全部藤村建設の方で整えます。うちはこういう仕事を祖父の代からやってきた会社です。中堅と呼ばれるくらいの規模はあって、社員もたくさんいます。多くの社員とその家族が毎日ちゃんとした建物の中で不安なく過ごせるようにというのが、祖父の代からの仕事でした。その『ちゃんと』をもう少しだけ広げて、お弁当の厨房と配達まで面倒を見させてください。厨房の改修も配達者の手配も保健所への届け出も、全部こちらに任せていただいて構いません。」
お母さんは目を丸くしていた。俺は自分が話していることが本当に正しいことなのかどうか、もう分からなくなっていた。本来ならこんなこと、俺の独断で決めていいことではないのかもしれない。それでも、止まりたくなかった。
「朝倉さん。これはお情けではないんです。藤村建設は、本当に毎日百食、ちゃんとした人の手で作った弁当をずっと探していました。大手の業者さんの見積もりは何件も届きました。それでもハンコを押せなかった。理由は、多分今日ここでようやく分かったような気がします。父さんなら多分、こういう弁当を選んだ。」
根拠はないが、なぜか俺の中で確信のようなものがあったのだ。
お母さんの目に、もう一度涙が浮かんだ。
「ありがとうございます。」
そう言って、お母さんは深く、本当に深く頭を下げた。するとカウンターの奥から日向ちゃんがてとてとかけ寄ってきて、お母さんの腰にぎゅっと抱きつき、お母さんを見上げてにっと笑ってこう言った。
「お母さん、もう泣かないでいいでしょ。今日からひより弁当は、大きな大きなお得意様でしょ!」
お母さんは日向ちゃんの頭を優しく撫でながら、もう片方の手でもう一度目の縁を拭った。俺はその二人を見ていて、ふと自分のスマホを取り出して現場監督に短いメッセージを送った。
「桜テラスの弁当業者、決めたよ。これから動く。」
すぐに現場監督から返事が来た。「え、社長決めたんすか?どこの業者すか?」
俺はしばらく考えてから、こう打って返した。
「ひより弁当。下町の一番優しい弁当屋。」
その日俺は、ひより弁当に残っていたのり弁、生姜焼き、鮭の塩焼き、唐揚げ、たんぽぽ印の子供向け弁当。全部で十二個の弁当を両手いっぱいに抱えて店を出た。夕日はすっかり傾いて、たんぽぽののぼりは深いオレンジ色に染まっていた。店の前で日向ちゃんが両手を振ってこう叫んだ。
「おじさん、また明日でしょ!」
俺は手が塞がっていて手を振り返すことができなかったが、代わりに足を止めて店の方に向き直って、深く頭を下げた。
「明日、また来ます。」
そう言葉にした瞬間、俺の中の何かが確かに一つ解けた音がした。
翌朝、俺は会社の役員会議室にいた。自ら朝の幹部会議の議題に「百食契約・ひより弁当」の件を加え、そのための説明資料を作成した。社員食堂のないテナント向けの弁当業者を、駅前の路地裏にある個人弁当屋に決めたと切り出した瞬間、会議室の空気がふっと止まった。専務がメガネを少し下にずらして俺の顔を見た。
「社長、それはちょっとリスクが大きすぎるんじゃないですか?」
総務部長もすぐに続けた。
「毎日百食。仕入れも調理も配達も保健所の管理も。中堅といえどうちは建設会社で、フードビジネスのノウハウは持ち合わせていません。毎日食中毒でも出したら、お得意先の物流会社さんとの信頼関係まで揺らぎます。」
他の役員からも似たような声が続いた。俺はその全部を黙って聞き、最後まで聞いてから息を吸ってこう答えた。
「皆さんのおっしゃる通りリスクはあります。だからこそ、藤村建設としてそれを引き受けるんです。厨房の改修も配達者の手配も保健所への届け出も衛生管理マニュアルの整備も、全部うちが体制を作ります。祖父の代からうちがやってきたのは、人が安心して使える建物を建てる仕事です。今回は、その建物に人が安心して食べられる場所をもう一枚付けるだけです。」
役員たちはしばらく黙っていた。最初に頷いたのは、一番古い専務だった。
「社長。これはもしかして、会長から何か引き継がれた話と関係があるのですか?」
会長というのは、二年前に逝った俺の父のことだ。専務は目を細めてこう続けた。
「会長は現役の頃よくおっしゃっていましたよ。『俺たちはただ建物を建てる会社じゃない。人が明日もう一日頑張ろうって思える場所を建てる会社だ』って。社長のお話、なんだかその続きを聞いているような気がしました。」
俺は何も言葉が出なかったので、ただ深く頭を下げた。専務はそれから眼鏡をきちんとかけ直して、こう締めくくった。
「わかりました。設備、総務、保健所担当、品質管理。各部からチームを組みます。社長、現場の方は社長自身が最後まで責任を持って担当してください。」
「ありがとうございます。」と、俺はもう一度深く頭を下げた。
その日から、藤村建設の中にいくつかの新しい動きが生まれた。設備のチーフはひより弁当の厨房を採寸して、業務用の調理台を一台、フライヤーを一台追加で配置できるレイアウトを三日で作ってきた。総務部は配達用の冷蔵車を二台、リースで手配した。うちの社員食堂で長年腕を振るってくれている栄養士のおばちゃんが、ひより弁当の朝の仕込みに開業前の二週間、自主的に通ってくれることになった。そして俺は毎日、現場の合間を縫って北口の路地裏のあの店に通うようになった。
日向は俺が暖簾をくぐるたびに、お品書きカードを抱えたままぴょこんと胸を張ってこう言うのが、いつの間にか日課になっていた。
「いらっしゃいませ、おじしゃん!」
最初の頃はただ「おじしゃん」だった。それがいつの間にか「藤村のおじしゃん」になって、それからしばらくして「渡るおじしゃん」になった。俺はその小さな店員さんの呼び名の変わっていく速度に、言葉にならない愛しさを感じるようになっていた。
ある日、俺は日向ちゃんに小さなプレゼントを持っていった。包みを開けると、中にはお母さんと色違いのたんぽぽ柄のエプロンと、手のひらサイズの本物の調理用の泡立て器が入っていた。日向はエプロンを両手で広げてしばらく動かなかった。それからぱっと顔を上げてこう叫んだ。
「これ、日向の?日向、本当にお店の人ですか?」
俺はしゃがんで日向ちゃんの目線に合わせて、にっこり笑った。
「ああ。朝倉日向店員。今日からひより弁当の本物の店員さんだぞ。」
日向ちゃんはエプロンをぎゅっと胸の前で抱きしめてしばらく何も言わなかった。それからぽつりと小さく呟いた。
「ひなた、お母さんとお揃いでしょ。」
その横でお母さんはエプロンの裾をぎゅっと握りしめて、また目の縁を拭っていた。俺はなぜか、その光景をいつまでも見ていたい気がした。
ひより弁当の隣には、もうずっと長いこと「青木精肉店」という古い店があった。ある夕方、配達者の段取りで店の前にトラックを止めていると、青木精肉店の暖簾ががらがらと開いて、白髪のおばあさんが出てきた。
「ねえ、あんた、藤村建設の坊っちゃんかい?」
俺は面食らった。
「はい。藤村建設の藤村ですが…」
おばあさんはエプロンで手を拭きながらこう続けた。
「やっぱり!あんたのお父さん、太郎さんによく似てるよ。」
俺の父の名前は藤村太郎。会社では会長と呼ばれていたあの人を「太郎さん」と呼ぶ人は、もうほとんどいない。
「父をご存知だったんですか?」
「知ってるも何も。三十年も前にね、この商店街全体のリフォーム工事を藤村建設さんにお願いしたんだよ。うちの精肉店の店構えの修繕も、隣の和菓子屋さんの軒先も、その向こうの文房具屋さんの看板も、全部あんたのお父さんがまだ若かった頃に、自分の手で直してくれたんだよ。」
俺はその場でしばらく動けなかった。おばあさんはエプロンのポケットからもう一枚、古びた名刺のような紙を取り出して俺に見せた。藤村建設、藤村太郎。まだ若かった頃の父の名刺だった。
「『困ったらいつでもうちに連絡してください』ってね。三十年経った今でも、まだ捨てられないでいるんだよ。」
俺はその小さな名刺を両手で受け取って、しばらく見つめていた。
その夜、俺は社長室の金庫から父が残していった引き継ぎノートを初めてちゃんと開いた。表紙のよれよれになった分厚いノートだった。その一番最初のページに、父の不器用な手書きでこう書いてあった。
「人が住む建物を建てる会社は、人が食べる場所と人が食べる時間もちゃんと考えなさい。建物の外まで藤村建設の温度をちゃんと届かせなさい。三代目に一番渡したい仕事は、それだ。」
俺はしばらくそのページから目が離せなかった。
桜テラスの開業日は、六月の最初の月曜日だった。その日の朝、午前五時。俺はひより弁当の厨房の隅にジャージ姿で立っていた。裏方として、洗い物とご飯の盛り付けを担当した。お母さんは揚げ物と煮物と焼き物の三箇所のコンロを、三つの手で同時に回しているような動きで淡々と仕込みを続けていた。うちの社員食堂のおばちゃんがお米の炊き分けと味噌汁の用意を担当した。そして日向ちゃんは一番大切な仕事。小さなたんぽぽ印のお手紙を百枚、お弁当箱の蓋の内側に一枚ずつ貼っていた。
「今日もおいしいお弁当を食べてください。明日も一日がんばってください。ひより弁当 ひなた」
五歳の手書きのお手紙が百枚。決して楽な作業ではないだろうに、日向ちゃんはしっかりとその重要な任務を完遂してくれた。
朝七時、配達車に弁当を詰め終わって、俺と現場監督と社員二人で桜テラスの新オフィスへ向かった。物流会社の若い社員さんたちは最初、いつもの仕出し弁当だろうなという顔でそれを受け取った。しかし弁当の蓋を開けた瞬間、フロアがわっと沸いた。最初に声を出したのは入社二年目の二十代の女性社員だった。
「え、何これ?なんか違う。卵焼き、ふわふわ。」
それから男性社員が一口食べて、こぼした。
「え、本当にこれお弁当ですか?お弁当って、こんなに美味しかったでしたっけ?」
別の社員が蓋の内側に貼られたたんぽぽ印のお手紙に気づいた。
「ねえ、これ、子供の字で書いてある。『明日も一日がんばってください』って書いてある。やばい。ちょっと、なんか来る。」
物流会社の社長さんがわざわざ俺のところまで歩いてきて、こう言った。
「藤村社長。これはすごい弁当を見つけてくれましたね。うちの社員、しばらく機嫌よく働いてくれそうですよ。」
俺は頭を下げながら、心の中で一番にひより弁当の小さな店員さんにありがとうと言っていた。
その日の夕方、配達後の空になった弁当箱をトラックいっぱいに積んで、北口の路地裏に戻った。店の小上がりでお母さんと日向ちゃんと社員食堂のおばちゃんと四人で、その日売れ残った三個の弁当を食べた。俺は唐揚げを一口噛みしめた。衣がさっくり、肉汁がじゅわっと広がって、それから奥の方にほんの少し生姜と醤油の優しい甘さが残った。俺は思わず微笑んだ。
「これは、本当に最高の弁当だ。」
日向ちゃんが隣でにっと笑ってこう返した。
「おじしゃん、私も思いましゅ。」
その日から、毎日が信じられないくらい温度のある日々だった。朝五時、ひより弁当の厨房に明かりがつく。朝七時、配達車二台が桜テラスへ走る。夕方六時、お母さんと日向ちゃんが店の暖簾の前で、その日一番最初の常連さん、青木精肉店のおばあさんを笑顔で見送る。夜八時、俺は本社の社長室を出て北口の路地裏まで、たった一駅分を歩く。ひより弁当の丸椅子に座って、お母さんと日向ちゃんと三人でその日のお弁当の話をする。日向ちゃんは毎日新しいお手紙を考えた。社員食堂のおばちゃんが物流会社の社員さんに頼んで、頂いた感想を一枚ずつ写真に撮って日向ちゃんに送ってくれていた。日向ちゃんは毎晩、それをお母さんと二人で声に出して読むのが一番の楽しみになっているらしい。
ある日の夕方、俺はお母さんと日向ちゃんを連れて、商店街の先の煙突が見える小さな公園まで散歩に出た。日向ちゃんは俺の右手とお母さんの左手を、両側からぶら下がるようにぎゅっと握っていた。公園の前の信号で、三人で信号待ちをしていた。日向ちゃんは空をぼうっと見上げて、それからぽつりとこう言った。
「パパ、青になったでしょ。」
俺は自分が踏み出そうとした右足を、その場で止めてしまった。お母さんも同じ瞬間にぴたりと止まっていた。日向ちゃんは何かに気づいて、はっ、と自分の口を両手で抑えた。
「あ…」
俺はしばらく息ができなかった。それから、自分でもよくわからないくらい優しい声でこう返した。
「うん。青だな。行こうか。」
日向ちゃんはちょこちょこと足を運び始めたが、横断歩道の真ん中まで来ると足を止めて、こちらを見上げてぽつりと呟いた。
「おじちゃん…ごめんなさい。」
俺はしゃがんで、日向ちゃんの目線に合わせた。五歳の小さな店員さんの顔は、なぜかほんの少しだけ泣きそうになっていた。
「日向。謝ること、何にもないよ。」
日向ちゃんはエプロンの裾をぎゅっと握ったまましばらく何も言わなかった。それからおずおずとこう聞いた。
「ひなた、おじしゃんのこと、パパって言っちゃったのに、怒ってないでしか?」
俺は思わず吹き出した。そして日向ちゃんの頭をそっと撫でた。
「怒るわけないだろう。どう呼んでくれてもいいからね。」
日向ちゃんはしばらく俺の目をまじまじと見つめてから、ようやくにっこり笑った。
「じゃあ、また今度、心で呼んでみましゅ。」
お母さんはその横で口元を片手で抑えていて、もう片方の手でまた目の縁を拭っていた。俺は日向ちゃんの手をもう一度ぎゅっと握りしめて、歩き出した。
その夜、俺はひより弁当の店の前でお母さんと日向ちゃんにおやすみなさいと頭を下げた。すると帰り際、お母さんが小さな声でこう言った。
「藤村さん。日向があんな風に誰かを『パパ』って呼んだのは、夫が亡くなってから初めてのことなんです。」
俺はすぐには返事ができなかった。ただ、自分の中の一番深いところで、もう何かを決めかけている自分がいるのをはっきりと感じていた。
それからお母さんは、もう一つ小さな声でこう続けた。
「藤村さん。もう『社長』って呼ぶのも、なんだか違う気がしてきたんです。藤村さんでいいですか?」
俺は首を横に振った。
「むしろ『渡』で結構です。」
お母さんはまた目の縁を片手で抑えた。それからぺこりと小さく頭を下げて、こう言った。
「渡るさん、おやすみなさい。」
俺の名前を女性に呼んでもらうのは、多分三年ぶりだった。会社まで歩いて戻る、たった一駅分の道のりが、その夜はいつもよりずっと長く感じ、そして心はあたたかかった。社長室に戻った俺は、机の上に置いてある父の引き継ぎノートをもう一度開いた。一番最後のページに、これまで気づかなかった一文が書かれていることに初めて気づいた。
「人をもう一度家族にする勇気は、藤村の血の中にもちゃんとある。」
俺はしばらくそのページから目が離せなかった。そしてそっと、一つ心に決めた。朝倉ゆいさんと日向と、もう一度家族をやり直してみようと。
ある日の午後、ひより弁当の暖簾を、おずおずと半分だけ開けた青年がいた。二十代後半くらいだろうか。職人らしい、よく日に焼けた肌の色をしているのに、その顔色だけがなぜかひどく青ざめていた。カウンターの奥でお手伝いをしていた日向ちゃんが、いつも通りぴょこんと胸を張った。
「いらっしゃいませ。今日のお弁当、おいしいでしょ!」
青年はその小さなお店番さんに深く頭を下げた。それから奥のお母さんの方をまっすぐ見て、こう言った。
「朝倉さん。私、浅井健二と申します。二年前、ご主人の朝倉巧さんが自分の命を投げ打って助けてくださった、現場の見習いの職人です。」
ゆいさんは握っていた菜箸を手からそっとまな板の上に置いた。それからしばらく、動かなかった。俺はその日たまたま店の小上がりで社員食堂のおばちゃんと来週の仕込みの打ち合わせをしていた。当事者として口を挟むことができないまま、ただ息を潜めていた。
浅井さんは両手をぎゅっと握りしめて、何度も頭を下げながらこう続けた。
「あの日、現場で機材を支えていたロープが外れて、私の真上から機材が落ちてくる。まさにその瞬間に、巧さんが私を突き飛ばして、私の代わりに自分がその下に…私は無傷でした。あの日からずっと、私だけが無傷で生きてきました。事故の後、私は建設の仕事をやめました。地元に戻って、木工所で木を削る仕事を続けてきました。毎日何かを一つずつ自分の手で作っていないと、夜眠れなかったんです。巧さんの奥様にも、当時の娘さんにも、私はお会いする資格がないとずっと思っていました。」
それでも、と浅井さんは続けた。
「先月、地元の小さな新聞に、ひより弁当さんの記事が載っていました。巧さんの奥さんが娘さんと二人でお弁当屋さんを続けていらっしゃること。現場の若い職人たちが明日もう一日頑張れるような優しい弁当を、毎日百食作っていらっしゃること。ひより弁当という店の名前の由来が、ご主人の一番好きだったたんぽぽの花から来ていること。全部、記事の中に書いてありました。その記事を何度も何度も読みました。そしてようやく覚悟ができました。奥様。本当に申し訳ありませんでした。私があの日もう少し上を見ていれば、あんなことには…本当に、本当に申し訳ありませんでした。そして、ご主人のことを。命をかけて私を助けてくださったご主人のことを、私はずっと忘れません。」
浅井さんは最後の言葉を絞り出して、その場に深く土下座をした。両手の指先が、店の古い木の床をぎゅっと押さえつけるように震えていた。ゆいさんはしばらく何も言わなかった。次に、カウンターの奥からふっとエプロンの紐を解く音だけが聞こえ、それからゆいさんはゆっくりとカウンターを回り込んで、浅井さんの目の前にしゃがんだ。そして、その震える両手の上に自分の手のひらをそっと重ねた。ゆいさんの声は、いつもより少しだけ深かった。
「浅井さん。主人はね、誰かを助けるのが一番好きな人でした。浅井さんが今、ちゃんと生きていてくれること。そして、こうやってちゃんと頭を下げに来てくださったこと。多分主人は、それでちゃんと満足していると思います。だからね、もうこれ以上、ご自分のことを責めないでください。主人の代わりにお願いします。」
浅井さんは土下座をしたまま、両手で顔を覆って声を殺して泣いた。肩が上下に震えていた。その時だった。ぴょこっとカウンターの脇から、たんぽぽ柄のエプロンの小さな店員さんが出てきた。日向ちゃんは、土下座したままの浅井さんの震えている手の上に、自分の手のひらをそっと重ねた。そしてにっと笑って、こう言った。
「おじさん、泣いてもいいですよ。ここはひよりですから。ひよりも、たんぽぽのいる場所ですから。」
その日の夜、店を閉めた後、ゆいさんから俺のスマホに短いメッセージが届いた。
「渡るさん、お願いがあります。明日と明後日、ひより弁当をお休みにさせてください。日向を連れて、主人のお墓へ行ってきます。ご迷惑をおかけして、本当にすみません。」
俺はすぐに返事を打った。
「分かりました。二日間は社員食堂のおばちゃんに頼んでつなぎます。ゆっくり行ってきてください。」
そう打って送信ボタンを押した瞬間、なぜか自分の指先が少しだけ震えていることに気づいた。
その二日間、俺はほとんど社長室の椅子から動けなかった。机の上には父の引き継ぎノートを開いたままにしておいた。「人が住む建物を建てる会社は、人が食べる場所と人が食べる時間もちゃんと考えなさい。建物の外まで藤村建設の温度をちゃんと届かせなさい。人をもう一度家族にする勇気は、藤村の血の中にもちゃんとある。」俺は何度も何度もその三行を読み返した。それでも、ゆいさんが何を考えているのか、日向がこれからどう感じるのか、俺にはまだ本当のところは見えていなかった。
二日目の夕方、社長室のドアをコンとノックする音がした。入ってきたのは専務だった。
「社長、ちょっとお疲れのご様子ですね。」
俺は苦笑して何も答えなかった。専務は椅子に座らずに、ただ机の前に立ってこう続けた。
「会長は生前、よく言っていらっしゃいましたよ。建築業ってのは、結局人の暮らしの一番下の土台を作る仕事だって。土台を作る人間が、自分の家の食卓を冷やしていたらお話にならないって。社長。ご自分の食卓のこれからのことくらい、ご自分でちゃんと決めてきてください。会社の方は、私たちがちゃんと回しておきます。」
専務はそれだけ言って、また軽く頭を下げて社長室を出ていった。ドアが閉まる瞬間、専務がもう一度こちらを振り向いてにっと笑ったのが見えた気がした。
その夜、社長室を出て北口の路地裏に足を向けた。ひより弁当の前は暗かった。引き戸には日向ちゃんの手書きの臨時休業の張り紙が、たんぽぽのイラスト付きで張ってある。その隣の青木精肉店の前を通り過ぎようとしたところで、おばあさんがまた店先に立っているのを発見して、声をかけてみた。
「おや、藤村の坊っちゃん。ちょうど待っていたんだよ。」
おばあさんはエプロンで手を拭きながら、俺の前にずいっと立った。そしてぴしゃりとこう言った。
「いいかい、坊っちゃん。三十年前、あんたのお父さん、太郎さんはね、この商店街のリフォームの時、一番最後の最後まで、店ごとに一軒一軒、丁寧に話し合いをしてくれたんだよ。『この店は奥さんとお子さんと一緒に守っていく店だから、奥さんの要望もちゃんとお聞かせください』ってね。太郎さんは、建物を建てる前に、まずその建物の中で暮らす人の暮らしの要望をちゃんと聞こうとしてくれた人だったんだよ。」
おばあさんはそれから俺の目をまっすぐ見て、こう続けた。
「あんた、ゆいちゃんにちゃんと自分の方の要望、伝えてやりなさい。『あなたと日向ちゃんと三人で、これからの要望をちゃんと決めていきたい』ってね。伝えてやりなさい、坊っちゃん。太郎さんも、多分それを待ってるよ。」
俺は青木のおばあさんに深く頭を下げた。家に帰る道の、たった一駅分が、その夜はまたいつもよりも長かった。
三日目の朝、ひより弁当の引き戸がいつものようにからからと開いた。俺は開店前の店の前に立っていた。ゆいさんは俺の顔を見てふっと目を伏せた後、いつも通りエプロンの紐を結び直して、小さくこう言った。
「渡るさん、おはようございます。」
日向ちゃんは奥のテーブルでまた新しいお手紙を描き始めていた。「今日もお弁当を食べてください」。俺はしばらく自分の足元を見つめてから、ようやくこう切り出した。
「ゆいさん。少しだけ時間もらえますか?」
ゆいさんは日向ちゃんに奥でお手紙を続けるようにと小さく言いつけてから、店の脇の勝手口の前まで俺と一緒に出てきた。朝の路地裏はまだしっとりと湿っていた。ゆいさんは両手をエプロンの前で揃えて、しばらくまっすぐ立っていた。それから息をつくように、こう言った。
「渡るさん。私、あなたにずっと甘えすぎていました。あなたが私と日向のために、自分の時間も自分の人生も全部使ってくださっていることに、浅井さんが来てくださってようやく気づいたんです。主人をなくした後、私はもう誰かを、もう一度愛してはいけないんだと、ずっと自分に言い聞かせてきました。主人のことを、まだちゃんと見送れていないんだと思っていました。でも、昨日日向を連れて主人のお墓に行きました。そして、墓石の前で初めて主人にちゃんと聞いてみたんです。『あなた、私、もう一度誰かを愛してもいい?』そうしたらね、お墓の前でふわっと風が吹いたんです。ちょうどお墓のすぐ脇に咲いていたたんぽぽの綿毛が、ふわふわっと全部、空の方に舞っていきました。私、それを主人の返事だと思うことにしました。主人は多分ね、私と日向がもう一度ちゃんと笑って暮らせるなら、それが一番嬉しいんです。」
ゆいさんは目の縁を片手でそっと抑えた。それから頭を下げて、小さくこう続けた。
「渡るさん。私たちのことをまだ家族に入れていただけるなら、私たちの方からお願いをさせてください。」
俺はゆいさんの肩がわずかに震えているのを見ていた。そしてようやく、自分の中にずっと用意してきた言葉を絞り出した。
「ゆいさん。いや、ゆい。俺はあなたと日向を、自分の家族にしたいです。無理に急がなくていいです。ただ、俺の家の台所に湯気の匂いをもう一度灯したいんです。あなたと日向と三人で。結婚してください。」
ゆいさんは両手で顔を覆って、しばらく声を出さずに泣いた。それから両手をゆっくりと外して、目の縁をもう一度エプロンで抑えてから、小さくこう言った。
「はい。こちらこそ。よろしくお願いします。」
俺は深く、本当に深く頭を下げた。
その後、ゆいさんが勝手口から奥のテーブルの日向ちゃんを呼んだ。
「日向、ちょっとおいで。」
日向ちゃんはてとてとかけ寄ってきて、ゆいさんと俺の前でぴたっと立ち止まった。たんぽぽ柄のエプロンの裾を両手でぎゅっと握っていた。ゆいさんはしゃがんで、日向ちゃんと目線を合わせた。そしてゆっくりとこう聞いた。
「日向。渡るおじしゃんがね、これから日向の本当のお父さんになってくれるって。日向はどう思う?」
日向ちゃんはしばらくぽかんとして、目をぱちぱち瞬かせた。それからおずおずと俺の方を見上げて、こう小さな声で聞いた。
「本当に…いいの?今度は、心じゃなくて、声に出してもいいんですか?」
俺はしゃがんで、日向ちゃんの目線に合わせた。そしてにっこりこう答えた。
「いいぞ。心でも声でも、でもいいぞ。」
日向ちゃんはしばらく俺の目をまじまじと見つめていた。それから、たんぽぽ柄のエプロンの裾を両手でぎゅっと握りしめて、息をいっぱい吸い込んだ。そして満面の笑顔で、朝の路地裏に響き渡る声で叫んだ。
「パパ!パパでしょ!日向の本当のパパでしょ!やったでしょ!日向、本当のパパできたでしゅ!」
日向ちゃんはエプロンの裾を握ったまま、その場でくるくると回り出した。俺はその姿をもう真っ直ぐには見ていられなかった。ゆいさんも横で両手を口元に押し当てて、声を出さずにずっと泣いていた。俺はようやく日向ちゃんを両腕でぎゅっと抱き上げると、日向ちゃんは俺の首に両腕をぎゅっと回して、耳元でもう一度小さく呟いた。
「パパ。日向のパパでしょ。」
その週末、俺とゆいさんと日向、三人でゆいさんの夫の眠る郊外の墓地まで足を運んだ。少し後ろに、浅井健二さんも来ていた。墓石の前に、ゆいさんがたんぽぽの花束を置いた。すると次に、日向ちゃんが自分の手作りのお手紙をお墓の一番下の段に両手で置いて、言った。
「パパ。今日、日向、本当のパパがもう一人できました。日向、二人とも同じくらい大好きです。」
ゆいさんは墓石の前に両手を合わせてしばらく目を閉じてから、こう呟いた。
「あなた。あなたが命をかけて守った浅井さんは、今こんな風にちゃんと立派に生きてくれていますよ。そして私と日向も、今こんな風にちゃんと笑って生きていきます。私たち三人を、これからもどうか、ちゃんと見守っていてください。」
少し離れたところで、浅井さんが深く深く頭を下げているのが見えた。
帰り道、日向ちゃんはまた俺の右手とゆいさんの左手を、両側からぶら下がるようにぎゅっと握っていた。風が、駅と駅の間のたんぽぽの綿毛を、ふわふわと空の方に運んでいった。日向ちゃんは空を見上げて、それからにっと笑って小さく呟いた。
「パパ。二人とも、よかったでしょ。」
俺はゆいさんと目を合わせた。ゆいさんも小さく頷いた。
「ああ。二人とも、よかったな。」
その日の空には、ところどころの薄い雲が、ちょうどたんぽぽの綿毛の形にふわふわと流れていた。
あれから三年が経った。日向は小学校に上がり、今は二年生になった。日向の手のひらは、まだ俺の手のひらよりはずっと小さい。毎朝、日向は自分で髪を二つに縛れるようになった。「二つのおさげがたんぽぽみたいでしょ!」と、本人が嬉しそうに鏡の前で笑っている。
俺とゆいとの結婚式は、二年前の春、商店街の小さな式場でささやかに執り行われた。招待状を出した人の数は全部で四十八人。そのうち四十六人が、商店街と近所の人と藤村建設の社員とひより弁当の常連さんたちだった。神父の母代わりとしてバージンロードを一緒に歩いてくれたのは、青木精肉店のおばあさんだった。おばあさんはその日のために白い手袋をわざわざ新調してくれた。「三十年ぶりに、こんなに大きな仕事をもらった気がするね。」とにっこり笑っていた。そして招待客の最後の一人、一番奥の席に、浅井健二さんがいた。浅井さんは、たくさんの写真をスーツの胸ポケットにちゃんと入れて参列してくれた。式の最中、浅井さんは何度も何度も胸ポケットの上を手のひらで押さえて泣いていた。多分「巧さん、今、奥さん笑っていますよ」とずっと小さく報告していたんだろうと、俺は思う。
桜テラスでの百食契約は、三年が経った今も毎日続いている。物流会社の社員さんからは、毎週日向宛てに感想のカードが山ほど届く。「今週も卵焼きが最高でした。」「ボーナス出ました。日向ちゃんのおかげです。ありがとう。」「好きな子にようやく話しかけられました。報告です。」そのカードを日向は今でも、自分の小さな机の引き出しに一枚も捨てずに全部しまっている。
藤村建設の社員食堂の金曜日メニューは、社員たちがいつの間にか「ひより金曜日」と呼ぶようになった。毎週金曜日、ひより弁当からは社員食堂用に百食が届く。桜テラスと藤村建設を合わせると、毎週金曜日の発注は全部で二百食。ひより弁当の厨房は需要に合わせて少しずつ大きくなっていき、ゆいが切り盛りするひより弁当の店構えも、結婚式の後にもう一度藤村建設の設計課に丁寧にリフォームしてもらった。外側のたんぽぽ柄ののぼりだけは、三年前のあの日と同じものをわざわざそのまま残してある。
「こののぼりはね、日向が人生で一番最初にお母さんを助けようとした時ののぼりだから。」
そう言って、ゆいがリフォーム会議で譲らなかったのだ。俺はその日、ゆいのそういう譲らない強さの理由を、初めてちゃんと分かった気がした。
ある日曜日の午後、俺はゆいと日向を初めて俺の実家に連れて行った。築四十年の古い木造の家だった。仏壇の前に三人で並んで座った。仏壇の中には母さんの遺影と父さんの遺影が並んで置かれている。俺は父の遺影に深く頭を下げてから、こう報告した。
「父さん。遅くなりました。これが、俺がもう一度家族にした人たちです。朝倉ゆいさんと、日向です。」
ゆいが両手をきちんと膝の上に置いて、深く頭を下げた。そして日向がちょこんと立ち上がって、たんぽぽ柄のおさげを二つ振りながら、こう小さく挨拶をした。
「おじいちゃん、初めまして。日向です。おじいちゃんの息子さんは、日向のこと、本当にいっぱい大事にしてくれています。だからね、おじいちゃん、もう心配しなくていいですよ。」
俺は息ができなかった。仏壇の上の父の遺影は、いつもの少しだけ怖い顔のままこちらを見ていたけれど、なぜかその瞬間だけは、ほんの少しだけ口角が上がったような気がした。俺はリュックの中から、表紙のよれよれの父の引き継ぎノートを取り出した。そして最初のページと最後のページを、ゆいに初めて見せた。ゆいは文字を一行ずつゆっくりと目で追った。それから、一番最後のページの「人をもう一度家族にする勇気は、藤村の血の中にもちゃんとある。」の一行で、両手でノートをそっと抑えて目を閉じた。そして小さくこう呟いた。
「お父様、ありがとうございます。」
その月の終わり、日向の小学校で授業参観があった。国語の時間だった。その日のテーマは「私の家族」だった。クラスの子供たちが自分の書いた作文を、一人ずつ教壇の前で読み上げていた。日向の順番が回ってきた。日向は両手で原稿用紙をぎゅっと握って立ち上がった。そして教壇の前で深くぺこりとお辞儀をしてから、こう読み始めた。
「私の家族は、三人と一人です。私にはパパが二人います。一人は、空の上にいるパパ。多分、私がまだ小さかった頃に私を守ってくれたパパです。もう一人は、今、普段私とお母さんと一緒にいて、毎日お弁当のお話をしてくれるパパです。二人とも同じくらい、私のことを大事にしてくれます。だから私は、二人とも同じぐらい大好きです。そして私には、お母さんがいます。お母さんは毎朝一番早く起きて、一番美味しい卵焼きを焼いてくれます。お母さんはね、多分、二人のパパの分も私を大事にしてくれています。だから私は、今、とても幸せです。終わります。」
日向はもう一度ぺこりとお辞儀をして、原稿用紙を抱えて自分の席に戻った。教室の後ろで参観に来ていたお母さんたちが、何人かははたして、ハンカチで目元を抑えていた。俺は教室の一番後ろの立ち見の保護者の列の中で、誰にも気づかれないようにひっそりと目の縁を抑えていた。
その日の夕方、店を閉めた後、ゆいが勝手口の前で俺に小さくこう告げた。
「渡るさん。多分ね、もう一人、たんぽぽが増えるかもしれません。」
俺はしばらく息ができなかった。
「…本当ですか?」
「冬の終わり頃です。」
奥のテーブルでお手紙を描いていた日向が、その小さな耳でちゃんと聞き取っていたらしい。ぴょこんと顔を上げて、目をぱちぱちまたかせてこう聞いた。
「弟か妹でしょ!日向、お姉ちゃんになるでしょ!」
ゆいはしゃがんで、日向の目線に合わせてにっこり笑ってこう答えた。
「多分ね。日向、お姉ちゃんになるんだよ。」
日向はたんぽぽ柄のおさげを二つぶんぶん振りながら、こう叫んだ。
「やったでしょ!日向、絶対お姉ちゃんになります!お弁当の作り方も、全部教えてあげますよ!」
俺はその姿を店の引き戸の前で、ただにっこりと見ていた。
それから何日か経った、ある春の夕暮れだった。俺とゆいと日向、三人で北口の駅から藤村建設の本社まで、たった一駅分の路地裏をゆっくりと歩いていた。そしてひより弁当の前を通り過ぎる時、日向がぴたっと足を止めた。そしてお店の前に置いてあるたんぽぽ柄のいつもののぼりを指さして、満面の笑顔でこう言った。
「パパ!あののぼり、三年前と同じですよ!今でも『今日のお弁当はおいしいでしょ』って、ちゃんと書いてあるでしょ!だからね、日向、絶対、絶対、これからもお母さんのお手伝いを続けるでしょ!」
ゆいが横でふっと笑いながら、日向の頭をそっと撫でた。俺は夕暮れの空をしばらく見上げた。風がふわっと、駅と駅の間の路地に吹き抜けた。ひより弁当の店の前のたんぽぽ柄ののぼりが、ゆっくりとゆっくりと揺れた。その風に乗って、どこから運ばれてきたのか、白いたんぽぽの綿毛が一つ、二つ、空の方へ舞っていった。日向はその綿毛を見上げて、目をきらきらさせてこう呟いた。
「パパ。お空にいるパパにもね、今日、日向がお姉ちゃんになるって、ちゃんと伝わっているでしょかね。」
俺はゆいと目を合わせた。ゆいは小さく笑って頷いた。
「ああ。ちゃんと伝わってるよ。」
日向はぎゅっともう一度、俺とゆいの手を握り直した。駅と駅の間の、たった一駅分の小さな小さな路地裏。たんぽぽののぼりのひより弁当。五歳の時、たった一人でお母さんを助けようとして暖簾の前に立っていた、たんぽぽ柄のエプロンの小さな店員さん。「全部もらおうかな」と自分でも分からないうちに答えていた、ある夕方の俺。そして今、両側からぎゅっと俺とゆいの手を握っている、八歳の日向。あの夕方、駅と駅の間のたった一駅の寄り道で俺の前に立っていた、小さな小さな店員さんに、もう一度ちゃんと頭を下げたい。
ありがとう、日向。ありがとう、ゆい。父さん、母さん、それから巧さん。俺たちは、ちゃんと家族になれました。
たんぽぽの綿毛が、もう一つゆっくりと、夕暮れの空に吸い込まれていった。



