娘が帰宅した瞬間、玄関先で私は凍りついた。綾乃の頬に、くっきりと赤い手の跡が残っていたのだ。
「お母さん、ごめんなさい……」
泣き崩れる娘を抱きしめながら、私の胸に何かが込み上げてきた。これは怒りでも悲しみでもない。もっと深い、決定的な何かが変わっていく感覚だった。
二週間前のことを思い出す。「お母さん、里介君がプロポーズしてくれたの」と、綾乃が輝くような笑顔で報告してくれた日のことを。あの幸せそうな表情が、今ではこんなにも痛々しい涙に変わっている。
私は五十五歳のシングルマザーだ。夫を十年前に亡くし、女手一つで綾乃を育ててきた。決して裕福ではなかったけれど、娘には不自由させないよう必死に働いてきたつもりだった。しかしその幸せが今、たった一人の女性の言葉によって崩れ去ろうとしていた。
リビングのソファに座らせ、温かいお茶を入れてあげる。綾乃の震える手を見つめながら、私はゆっくりと声をかけた。
「落ち着いて。何があったのか話してくれる?」
綾乃は涙を拭いながら、少しずつ話し始めた。
里介君のご両親への挨拶は、最初こそ普通だったそうだ。玄関で「初めまして」と挨拶を交わし、リビングに通されてお茶をいただいた。里介君が綾乃を紹介してくれて、お母様の恵子さんも最初は笑顔だったと言う。
しかし、その空気が一変したのは、ほんの些細な質問からだった。
「綾乃さんのお父様は、どんなお仕事を?」
その問いに、娘が「父は十年前に亡くなりました」と答えた瞬間、恵子さんの表情がはっきりと変わったのだそうだ。
「そう……じゃあ、お母様が一人で育てられたのね」
その言葉の裏に潜む冷たいものを、綾乃は感じ取ったと言う。私の仕事が事務だと知った時、恵子さんは鼻で笑うような仕草を見せた。そして別室で里介君と話し始めた会話が、扉の隙間から聞こえてきたのだ。
「片親よ。しかも普通の事務でしょう」
その声には、明らかな侮蔑が含まれていた。
綾乃の話はさらに続く。別室での恵子さんと里介君の会話は、次第にヒートアップしていったそうだ。
「あなた、騙されているのよ。あの子、絶対に財産目当てに決まっているわ」
里介君は必死に反論したと言う。
「そんなわけないだろう。綾乃は真面目で優しい子なんだ」
しかし恵子さんの決めつけは止まらなかった。
「父親もいないような貧乏人が、うちの財産を狙っているに決まっているでしょう。目を覚ましなさい、里介」
その言葉を聞いた瞬間、綾乃は思わず立ち上がってしまったそうだ。そして恵子さんと目が合った。
「あら、聞いていたの?」
恵子さんは全く悪びれる様子もなく、むしろ堂々とした態度で言ったと言う。
「でも事実でしょう。片親で、お母様も普通の事務。失礼だけど、うちの息子とは釣り合わないのよ」
綾乃は何も言い返せなかったそうだ。ただ涙が溢れてきて、言葉が喉に詰まってしまった。里介君が「母さん、何を言っているんだ」と怒りの声をあげても、恵子さんは聞く耳を持たなかった。
「里介、あなたはまだ若いから分からないのよ。結婚というのは家と家との結びつきなの。相手の家柄、経済力、社会的地位、全てが重要なのよ」
私は綾乃の話を聞きながら、胸が締めつけられる思いだった。シングルマザーとして生きてきた私は、何度も同じような言葉を浴びてきたからだ。子供の学校行事に行けば「お父さんは?」と聞かれる。仕事を探せば「片親だと急な休みが多いでしょう」と言われる。その度に私は歯を食い縛って耐えてきた。でも、それは私自身のことだったからまだ我慢できた。しかし娘が同じ苦しみを味わっているのを知った時、私の中で何かが音を立てて崩れていく感覚があった。
綾乃は目を伏せてさらに続ける。恵子さんは最後にこう言い放ったそうだ。
「この結婚は認められません。里介、今すぐこの子との婚約を解消しなさい」
里介君は首を横に振った。
「嫌だ。僕は綾乃と結婚する。母さんが反対しても、絶対に綾乃を離さない」
その言葉を聞いて、恵子さんの顔色が変わったそうだ。
「そこまで言うなら、親子の縁を切るわよ」
そして恵子さんは綾乃に近づいてきた。
「あなたのせいで、息子が私に逆らうようになったのよ。責任を取りなさい」
次の瞬間、綾乃の頬に鋭い痛みが走った。パンという音がリビングに響き渡った。恵子さんは綾乃の頬を思い切り叩いたのだ。
「二度とうちの敷居をまたがないで。あなたのような娘を育てた母親も、一体どんな教育をしてきたのかしら」
綾乃は頬を抑えて、その場に立ち尽くすことしかできなかった。里介君が「何をするんだ」と恵子さんを止めようとしたが、もう遅かった。綾乃は逃げるようにその家を飛び出してきたのだ。
私は娘を抱きしめた。震える頬を優しく撫でながら、心の中で静かに誓う。この理不尽を、私は絶対に許さない。娘を傷つけた者には、必ず代償を払ってもらう。そしてその代償は、恵子さんが想像もできないほど大きなものになるだろう。
「大丈夫よ。もう泣かないで」
私は娘の涙を拭いながら、静かに立ち上がった。
「少し電話をしてくるわね」
その瞬間、私の目にはもう迷いはなかった。別室に移り、私は静かにスマートフォンを手に取った。画面を見つめながら、深く息を吸う。
実は私には、誰にも話していない秘密があった。夫は亡くなって十年。私は表向き、普通の事務として働いてきた。質素な生活を送り、娘と二人、つましく暮らしてきた。周囲の人々も、私たちを質素な母子家庭だと思っていたはずだ。
しかし、それは私が選んだ生き方だった。夫は生前、この地域で最大の企業グループ、滝川グループの創業者一族だった。そして私は夫の死後、その遺産のほとんどを相続していた。滝川グループは、この地域の主要企業の大半がこのグループの傘下にある。製造業、建設業、金融業、不動産業、あらゆる産業を網羅する巨大な企業集団だ。私はその株式の八割を保有する、実質的な会長だった。
表向きは会社の経営を専門の経営陣に任せ、私は影の存在として君臨してきた。重要な決定だけに関与し、日常業務は優秀な秘書の白木さんに委ねていたのだ。
なぜそれを隠してきたのか。理由は簡単だ。私は娘に普通の幸せを味わってほしかったから。財産や権力ではなく、本当の愛で結ばれる相手を見つけてほしかったから。お金目当てではない、純粋な気持ちで娘を愛してくれる人と出会ってほしかったからだ。だから私は会長としての立場を表に出さず、普通の母親として生きることを選んだ。娘の学校行事にも、普通の母親として参加し、誰にも正体を明かさずに来たのだ。
しかし、今、その全てを変える時が来た。娘を傷つけた者を、このまま許すわけにはいかない。
私はパソコンを開き、ある調査を始めた。里介君のお父様、恵子さんのご兄弟、親戚の方々。その全員の勤務先と役職を、企業データベースから調べていく。すると、驚くべき事実が次々と明らかになっていった。
里介君のお父様、松本健一さんは滝川商事の部長職。入社十五年、年収は約九百万円。恵子さんの弟、松本達也さんは滝川銀行の支店長で、地域でも名の知れた支店を任されており、年収は一千万円を超えている。そして恵子さんのお兄様、松本誠治さんは滝川建設の役員。年収は一千二百万円ほどだろう。
全員が、私の企業グループで働いていた。私が間接的に支払う給与で生活していたのだ。
つまり、恵子さんが誇らしげに語っていた「うちの財産」も「息子との釣り合い」も「家柄」も、全ては私が与えた雇用と給与によって成り立っていたということだ。片親の貧乏人と私たちを見下していた恵子さんは、実は私の従業員の家族だった。私の恩恵で裕福な生活を送っていただけだった。
その事実を知った時、私の口元には自然と冷たい微笑みが浮かんだ。
携帯電話を取り出し、秘書の白木さんに電話をかける。白木さんは五十代の有能な女性で、私が会長であることを知る数少ない人物の一人だ。夫が生きていた頃からの、信頼できる秘書だった。
「白木さん、私です。滝川です」
「会長、お久しぶりです。どうされましたか?」
落ち着いた声が返ってくる。白木さんは、私が緊急の要件でしか連絡しないことを知っている。
「今から、ある指示を出します。よく聞いてください」
私は冷静に、しかし断固たる意思を込めて告げた。
「明日の朝八時に、以下の人物全員に解雇を出してください。理由は、会長命令による人員整理。退職金は労働基準法に基づき、規定通り支払って構いません」
白木さんは一瞬の沈黙の後、「承知いたしました」と答えた。私の指示に疑問を持たない、長年の信頼関係がそこにはある。
そして私はリストを読み上げていく。
「滝川商事、松本健一、部長職。滝川銀行、松本達也、支店長職。滝川建設、松本誠治、役員職。以上三名です」
「承知いたしました。では明日八時に、各部署の人事部に通知いたします。解雇日は明日付けでよろしいですか?」
「はい。即日解雇で。それから解雇理由の欄には、必ず『会長命令による人員整理』と明記してください。誰の指示かを、はっきりと分からせるために」
「承知しました。通知書には、会長命令であることを明記いたします」
「ありがとう。白木さん、よろしくお願いします」
電話を切り、私は静かに椅子に座った。これから起こることを、冷静に想像する。明日の朝、恵子さんの一家に一体何が起こるのか。夫が職を失い、弟が職を失い、兄が職を失う。一家の主要な収入源が、一瞬にして消える。住宅ローン、子供の教育費、日々の生活費、全てが支払えなくなる。
それは厳しいことかもしれない。しかし私は、娘の頬に残った赤い手形を思い出す。あの痛みを、あの屈辱を、私は決して忘れることができない。人を外見で判断し、侮辱し、暴力を振るった者には、必ず報いが来る。それを恵子さんに、身を持って理解してもらわなければならないのだ。
リビングに戻ると、綾乃は少し落ち着いた様子だった。
「お母さん、ごめんね」
「あなたは何も悪くないわ。明日には、全て解決するから」
綾乃は不思議そうな顔をしたが、私はそれ以上何も言わなかった。明日、恵子さんは知ることになる。自分が侮辱した相手の正体を。
その夜は不思議と穏やかに眠ることができた。娘を守るという決意が、私の心を満たしていたからかもしれない。
翌朝八時ちょうど、私のスマートフォンに白木さんからメールが届いた。
「会長、ご指示通り本日八時に三名への解雇通知を完了いたしました。各人事部からの報告によれば、全員に通知が手渡されたとのことです」
私は静かにメールを閉じた。これで全てが動き始めたのだ。時計を見ると八時十五分。おそらく今頃、松本家では大混乱が起きているはずだ。三人が同時に解雇を告げられ、それぞれが家族に連絡を取り始めているだろう。
午前九時を過ぎた頃、私の携帯電話が鳴った。非通知の番号だ。おそらく恵子さんからだろう。しかし、私はまだ電話に出なかった。焦らせることも、復讐の一部だ。相手に不安と恐怖を味わわせ、自分が何をしたのかを考えさせる時間を与えるのだ。
電話は五回鳴って切れた。そしてすぐにまた鳴り始める。
「お母さん、電話なってるよ」
綾乃がリビングから声をかけてきた。
「大丈夫よ。知らない番号だから、出なくていいわ」
私は穏やかに答えた。綾乃にはまだ何も話していない。驚かせたくなかったからだ。電話はその後も断続的になり続けた。十回、十五回、二十回。恵子さんの焦りが、その回数から伝わってくる。
午前十時になって、ようやく私は電話に出ることにした。画面にはまたしても非通知の文字。深呼吸をして、通話ボタンを押す。
「はい、滝川です」
「あ、あの……滝川さん。綾乃さんのお母様でいらっしゃいますよね。私、里介の母の恵子と申します」
声は震えていた。昨日の傲慢な態度とは、まるで別人のようだ。
「恵子さん、どうされましたか?」
私はわざと、何も知らないふりをした。
「あの、実は今朝、主人と私の弟と兄が、突然会社から解雇を告げられまして……」
「まあ、それは大変ですね」
私の声は驚くほど冷静だった。
「三人とも同じ日に解雇だなんて。何か理由があるんですか?」
「それが、理由を聞いても『会長命令による人員整理』としか教えてもらえなくて。あの、滝川さん、もしかして……」
恵子さんの声が、さらに震え始める。何かに気づき始めたのだろう。
「もしかして、滝川さんは……もしかして、滝川グループと何か関係が?」
その質問に、私は少しの間を置いた。そして静かに答える。
「ええ、関係がありますよ。滝川グループは、私の亡き夫が創業した企業です。そして現在、私がその会長を務めています」
電話の向こうで、恵子さんが息を飲む音が聞こえた。
「そ、そんな……嘘……」
「嘘ではありません。ご主人も弟さんもお兄様も、全員私の会社で働いていらっしゃいました。正確には、働いていた、ですね。過去形です」
「まさか、あなたが……あの会長……」
「ええ、私が命令しました。昨夜、秘書に指示を出したんです。明朝八時に、松本家の三名を解雇するように」
恵子さんの悲鳴に近い声が聞こえてくる。
「どうして、どうしてそんなことを……」
「恵子さん、昨日あなたは私と娘に何と言いましたか? 『財産目当ての貧乏人』でしたよね。『片親の家庭とは釣り合わない』とも」
「それは、その……私が悪かったです。本当に申し訳ございませんでした」
突然の謝罪。しかし、私の心は動かなかった。
「そしてあなたは、娘の頬を叩きました。その赤い手形を見た時、私は決めたんです。あなたに、人を見た目で判断することの愚かさを教えてあげようと」
「お願いです。許してください。主人も弟も兄も、みんな家族を抱えているんです。住宅ローンも残っています。子供の学費も……」
「それは大変ですね。でも昨日、あなたは私たちの苦労など考えもしなかったでしょう。シングルマザーとしてどれだけ必死に働いてきたか、娘を育てるためにどれだけ我慢してきたか」
「本当に本当に申し訳ございませんでした。どうか、もう一度チャンスを……」
恵子さんの声は、もはや泣き声に近いものになっていた。
「チャンスですか? 面白いことを言いますね。昨日、あなたは娘にそんなチャンスを与えましたか?」
「私の財産は、あなたが想像していたよりもはるかに大きなものです。この地域の経済の大半を、私は握っているんですよ。片親の貧乏人がね」
その言葉を告げた時、私は昨日の屈辱を思い出していた。娘の涙を、震える頬を、赤く腫れた頬を。
「お願いします。土下座でも何でもします。だから、解雇を取り消してください」
「それについては、少し考えさせてください。ただし、一つ条件があります」
「何でもします。何でも……」
「あなたが直接、私と娘の前に来て心から謝罪すること。そして二度と、人を外見や家柄で判断しないと約束すること。それができるなら、考えてあげてもいいですよ」
「はい! はい! 必ず伺います。いつがよろしいでしょうか?」
「一ヶ月後にしましょう。その間に、職を失うことの辛さをよく味わってください」
私はそう告げて、電話を切った。手は震えていなかった。心は驚くほど静かだった。これが娘を守るということ。理不尽に屈しないということ。私は初めて、自分の力を使ったのだ。
電話を切った後、私は綾乃に全てを話すことにした。もう隠しておく必要はない。
「綾乃、実はね、お母さんには話していないことがあったの」
リビングのソファに並んで座り、私は静かに語り始めた。お父さんが残してくれた財産のこと。滝川グループの会長であること。そして昨夜から今朝にかけて、私が何をしたのか。
綾乃は最初、信じられないという顔をしていた。
「お母さんが……あの滝川グループの……」
「そうよ。ごめんね。ずっと黙っていて。でも、あなたには普通の恋愛をしてほしかったから」
綾乃の目から、また涙が溢れてきた。しかし今度は、悲しみの涙ではない。
「お母さん……ありがとう。私のために、そんなことまで……」
私たちは抱き合った。長い時間、ただ抱き合って、互いのぬくもりを感じていた。
それから数日後、松本家の状況は私の予想通り深刻なものになっていた。白木さんからの報告によると、三人の解雇は業界内で大きな話題になっているそうだ。滝川グループからの解雇という事実は、この地域では非常に重い意味を持つ。なぜなら、滝川グループから解雇された人間は、他の企業も雇いたがらないからだ。会長命令での解雇となれば、なおさらだ。健一さんも達也さんも誠治さんも次の仕事を探しているようだが、どこも前払いの状態だと聞いた。住宅ローンの支払いが滞り始め、子供の習い事もやめさせざるを得なくなった。恵子さんもパート探しを始めたそうだが、年齢的に厳しい状況のようだ。
一ヶ月が経ち、約束の日がやってきた。午後二時、インターホンが鳴った。モニターには、憔悴しきった恵子さんの姿が映っている。先月のあの傲慢な女性とは、まるで別人のようだった。ドアを開けると、恵子さんは深々と頭を下げた。
「この度は、本当に申し訳ございませんでした」
その場で土下座をしようとする恵子さんを、私は止めた。
「中へどうぞ」
リビングに案内すると、綾乃も出てきた。恵子さんは綾乃を見て、さらに深く頭を下げる。
「綾乃さん、あの日は本当に、本当に申し訳ございませんでした。私はあなたのことを何も知らないのに、勝手に決めつけて、ひどいことを言ってしまい、しまいには手まであげてしまって……」
恵子さんの声は震えていた。本当に心から反省しているようだった。
「取り返しのつかないことをしてしまいました。どうか、お許しください」
綾乃は私を見た。私は静かに頷く。
「恵子さん、顔を上げてください」
私の言葉に、恵子さんはゆっくりと顔を上げた。その目は真っ赤に腫れていて、この一ヶ月どれだけ泣いたのかが分かる。
「この一ヶ月……地獄でした」
恵子さんは正直に答えた。
「主人も弟も兄も、次の仕事が見つかりません。滝川グループから解雇されたという事実が、どこへ行っても壁になって。貯金も底をつきそうで。このままでは、家も失ってしまいます」
「それはお辛いでしょうね」
私の言葉に、恵子さんは涙を流した。
「でも、これが私たちが十年間、いえ、もっと長く味わってきた苦しみなんです。シングルマザーというだけで、どこへ行っても冷たい目で見られる。片親だからという理由で、様々な機会を失う。その苦しみを、少しは理解していただけましたか?」
「はい。本当に……申し訳ありませんでした。私は自分の価値観だけで人を判断して、相手の痛みを考えもしなかった。人として、最低なことをしてしまいました」
恵子さんの言葉には、嘘がないように感じられた。
「私は許されないことをしてしまったと分かっています。でも、どうか主人たちだけでも仕事を……里介も、父が職を失ったショックで、ひどく落ち込んでしまっているんです」
その時、玄関のチャイムが鳴った。里介君だ。
「失礼します」
里介君は母親の横に座った。
「滝川さん、今回のことは全て母の責任です。僕も母を止められなかった。綾乃を守れなかった。本当に申し訳ありませんでした」
そして里介君は深く頭を下げた。
「でも、僕の気持ちは変わりません。綾乃さんを愛しています。母がどんなに反対しても、綾乃さんと結婚したいです。だから、どうか父と叔父たちの仕事だけでも、お戻しいただけないでしょうか?」
里介君の言葉には誠実さがあった。この青年は本当に娘を愛しているのだと、改めて感じた。
私は少し考える時間を取り、そして静かに口を開いた。
「里介君、あなたは本当に綾乃を愛していますか?」
「はい。彼女なしの人生は考えられません」
「では、お母様が反対しても、綾乃と結婚する覚悟はありますか?」
「はい。もう二度と、綾乃さんを傷つけることは許しません。母にも、そう約束させます」
恵子さんも慌てて頷いた。
「はい。もう二度と、お二人の結婚に反対いたしません。私が間違っていました。どうか、息子と綾乃さんの結婚をお認めください」
私は綾乃を見た。綾乃は小さく頷いた。
「分かりました。では、条件を出します」
恵子さんと里介君の顔に、希望の光が灯る。
「ご主人と弟さん、お兄様のうち、二人だけ職を戻します。ただし、以前と同じ役職ではありません。一般社員としての再雇用です」
「ありがとうございます。ありがとうございます」
恵子さんは何度も頭を下げた。
「そしてもう一つ。恵子さん、あなたは二度と、人を外見や家柄だけで判断しないと約束できますか?」
「はい。必ず約束します」
「では、この約束を破ったら、今度こそ本当に終わりだと思ってください」
「はい、肝に命じます」
私は白木さんに連絡を入れ、健一さんと達也さんの再雇用を指示した。誠治さんについては、時間をかけて次の仕事を見つけてもらうことにした。全員を救うわけにはいかない。それでは、教訓にならないからだ。
恵子さんは帰り際、もう一度深く頭を下げた。
「滝川さん、綾乃さん、本当にありがとうございました。この恩は、一生忘れません」
そして里介君と共に、帰って行った。
その夜、綾乃が私に言った。
「お母さん、ありがとう。でも、完全に許したわけじゃないんだよね」
「ええ、でもチャンスは与えたわ。あとは、恵子さん次第」
綾乃は微笑んだ。
「お母さん、強いね」
「あなたを守るためなら、いくらでも強くなれるわ」
私たちはまた抱き合った。長い戦いが、ようやく終わろうとしていた。
それから一年近くが経った。季節は春になり、桜の花が美しく咲き誇る季節だ。そして今日は、綾乃と里介君の結婚式だった。
式場のチャペルで、純白のウェディングドレスに身を包んだ綾乃がバージンロードを歩いている。私は母親としてその隣を歩きながら、これまでの日々を思い返していた。あの日から、恵子さんは本当に変わった。定期的に私たちの元を訪れ、心からの謝罪を繰り返し、少しずつ信頼関係を築いていったのだ。健一さんと達也さんは一般社員として真面目に働いているそうだ。以前のような傲慢さはなく、むしろ謙虚になったと、会社からの評価も上がっていると聞いた。そして今日、恵子さんも参列者としてこの場にいる。
式が終わり、披露宴の時間になった。私はスピーチを頼まれていた。マイクの前に立ち、会場を見渡す。
「本日は、娘の綾乃と里介さんの結婚式にお集まりいただきまして、誠にありがとうございます」
会場が静まり返る。
「私は十年前に夫をなくし、娘と二人で歩んでまいりました。決して平坦な道のりではありませんでした。シングルマザーとして、様々な偏見や困難に直面してきました」
恵子さんが、少し目を伏せた。
「しかし、その経験が私に大切なことを教えてくれました。人の価値は、外見や肩書きや家族構成では測れないということ。本当に大切なのは、その人の心のあり方だということです」
里介君が、綾乃の手を握った。
「里介さんは、困難な状況の中でも娘への愛を貫いてくれました。そして自分の家族の過ちを、自分の責任として受け止めてくれました。その誠実さに、私は心を動かされました」
会場から温かい拍手が起こる。
「これからお二人には、様々な困難が待っているかもしれません。でも、互いを思いやる心があれば、どんな壁も乗り越えられます。どうか、幸せになってください」
スピーチを終えると、大きな拍手が会場を包んだ。
披露宴の後、恵子さんが私の元へ来た。
「滝川さん、素敵なスピーチでした。そして、改めて本当にありがとうございました」
「もういいんですよ。これからは、家族なのですから」
恵子さんの目から、涙が溢れた。
「あなたのおかげで、私は変わることができました。人を見た目で判断することの愚かさを、身を持って学びました」
「それが分かっていただけたなら、あの出来事にも意味があったのだと思います」
私たちは微笑み合った。
その夜、家に帰ってから私は一人静かに考えていた。あの日、私は恵子さんに厳しい報いを与えた。それは復讐だったのかもしれない。でも同時に、それは教育でもあったのだと、今は思える。人は痛みを知らなければ、他人の痛みを理解できない。失う恐怖を味わわなければ、持っていることのありがたさを知ることができない。
恵子さんは職を失う恐怖を味わい、家族が崩壊する不安を経験し、そして初めて、自分がどれだけ残酷なことをしていたのかを理解した。もし私があの時何もしなかったら、恵子さんは変わらなかっただろう。そして、いつかまた誰かを傷つけていたかもしれない。
現代社会には、まだまだ様々な偏見が残っている。シングルマザーへの偏見。経済格差による差別。外見や学歴による判断。でも、そうした偏見に立ち向かう勇気を持つことが大切だ。理不尽に屈する必要はない。自分と大切な人を守るために、時には断固とした態度を取ることも必要だ。私が今回自分の権力を使ったのは、娘を守るためだった。そして、間違った価値観を正すためだった。それは決して悪いことではなかったと思っている。
窓の外を見ると、満月が美しく輝いている。娘は今頃、里介君と新しい人生を歩み始めているだろう。幸せそうな笑顔が目に浮かぶ。私は母親として、娘を守り抜くことができた。そして一人の女性として、理不尽に立ち向かう強さを示すことができた。
これから先も、私は自分らしく生きていく。誰に何と言われようと、胸を張って。なぜなら、正しいことのために戦う勇気を持つことこそが、本当の強さだと知っているからだ。



