技術部に40年近く席を置いてきた俺、三宅は61歳になっていた。精密機器メーカーであるこの会社の主力製品は、産業用ロボットの腕がプログラム通りに動いているかを光で測定する非接触式センサーだ。青年を過ぎた俺は今、1年ごとに更新が来る最高雇用制度の下で働いている。
ある日、人事部長の小倉が俺に退職を迫った。人件費を全体で1割削るという目標を役員会から課せられ、その数字だけを見て「若い人材を残し、敗者を削る」方針を隠そうともしなかった男だ。小倉は技術部の現場に一度も足を運ばず、この会社が何で利益を上げてきたのかを誰かに尋ねる姿も見せなかった。
俺の毎日は測定データの確認と若手への助言でほぼ終わる。技術部に配属されて5年の芦田は無口だが、仕事は誰よりも丁寧だった。昼過ぎ、芦田の測定結果に目を通していると数値のばらつきが大きい箇所があった。俺は鉛筆でその部分を丸く囲み、書類を戻した。
「治具がぐらついているせいかもしれません」
「結論を急ぐな。疑わしい時ほど数を重ねるんだ」
芦田は頷いて作業に戻っていく。定時後、俺は自分のデスクの鍵付き引き出しを開けた。ここだけが俺だけの領域だ。広げるのは私物のファイルだけ。会社の紙もパソコンも使わず、給料の対象にならない書類の確認作業をここでやっている。
25年前、俺は仕事と休日だけを使い、非接触式センサーの基本の仕組みを発明した。基本特許は5年前に期限を迎え、すでに失効している。だが今の主力製品を実際に支えているのはその基本の仕組みではない。俺は基本特許を出した年から20年余りかけて、環境の影響を受けても制度が狂わない構造にするための改良特許と、検地部分を寸分の狂いなく量産するための製法特許を別に出してきた。この2つは今も存続期間の中にある。
どちらも会社の設備には指一本触れず、休日の自宅で一つずつ形にした。だからいずれも俺個人の名義で特許登録してある。更新料の支払いから類事特許の監視まで、権利者である俺が一人でこなしてきた。
机の脇には創立記念に配られた事業報告書がある。目を通すと、この製品が25年で積み上げた利益は180億円を超えている。本来ならこの2つの特許を使う会社が、名義人である俺に利益に見合う特許使用料を払わなければならない。だが会社から俺に支払われたのは給料だけだった。それでいいと思い、25年やってきた。少なくとも小倉という男が人事部長として着任するまでは。
小倉は着任の挨拶で「畑違いの教会から招かれた」と言っていた。経理の資料を回す者から、会議で配る人件費資料には契約更新の期限が迫った俺の名前が一番上にあると聞かされた時、俺は一通の企画書をまとめていた。名前が資料の一番上にあると知ったからではない。何年も前から気づきながら先送りにしてきた話に、そろそろけりをつけるためだ。
今の主力製品を支えているのは基本の仕組みではなく、その後に俺が取った改良特許と製法特許だ。25年前に俺と会社が結んだ契約書では、この2つにも同じ扱いが及ぶと定めている。俺が席を置いている限り会社は無償で特許を使って良い。裏を返せば、俺がいなくなれば使えない。だから俺はこの2つの特許を会社が今後も正式に対価を払って使い続けられる契約の枠組みを企画書としてまとめたのだった。
翌朝、俺は人事部に呼び出された。小倉の要件は1分でわかった。
「最古用の更新はありません。残った日数は引き継ぎに使ってください」
1年契約の更新判断は人事部長の裁量だ。呼び出しの要件は前の晩から察しがついていた。更新しないと言われるだけなら契約はまだ3ヶ月残っている。その期間を勤め上げ、退職することになるだろう。それでも鞄には前の晩のうちに書いた退職届を入れておいた。待たされた末に切られるより、自分の言葉で幕を引きたかった。それが40年現場に立ってきた俺のせめてもの意地だ。
俺は資料を机に置いた。
「やめる前に一つ言わせてください。今の製品を支えている特許は私個人の名義です。会社が使って良いという書面はありますが、私が在籍する期間に限ると書いてあります。辞めた日から使う根拠が消えるので」
小倉は文面に目を落としもせず、資料をひらひらと振った。
「特許がどうとか言われても、私には関係のない話です。会社の仕事の中で生まれたものなら、それは職務発明でしょう。権利がどちらにあろうと、会社が使えなくなることなどありえない。それに、この1年あなたが一人で出した具体的な成果を私は一つも聞いていません」
「ですからこの企画書をご覧ください。こちらに全てが書かれています」
小倉は返事もせず、机の横のシュレッダーに何の躊躇も見せずに企画書を押し込んだ。俺が作った資料が細い帯になって受け皿へ落ちていく。奥歯を噛み、膝の上で拳を握った。だが視線だけは小倉からそらさなかった。ここで目を伏せれば、それこそ思う壺だ。
「昔あなたが何を作ったのかは知りません。私が見ているのは今のあなたです。過去の栄光で偉そうに給与泥棒は首だ」
部屋に一瞬の静寂が降りる。
「私に言うことはそれだけですか?」
「ええ。引き継ぎの日程は追って伝えます」
俺は受け皿に溜まった細い紙の帯を見ながら、「残念です」とだけ言った。鞄から退職届を取り出し、机の上に置く。契約期間はまだ3ヶ月残っている。だが「給与泥棒」と言われた男がその3ヶ月分の給料を受け取るわけにはいかない。俺はその場で退職日を今月末と記入した。
小倉は日付を見ながら言った。
「3ヶ月早く抜けてくれるなら、削減の数字に足せます。都合の良い方で助かります」
そう言って決裁の箱へ入れ、小倉は別の書類に手を伸ばした。俺は静かに人事部を後にした。
腹の底に残ったのは、惜しまれなかったことへの不満ではない。俺が用意した資料の中身をあの男が最後まで知らなかったことだ。休日の度に自宅の物置きで測定台を組み、部品の角を0. 1ミリずつ削っては測り直した日々。心血を注いだその時間を、小倉は「過去の栄光」の一言で片付けた。技術を理解しない者に粗末にされた無念が胸を締め付けていく。
引き継ぎの相手には芦田が指名された。俺が芦田に最後に見せたのは、特許更新料の支払い納付書だ。振込人の欄には会社ではなく、俺の名前がある。引き継ぐものとして出したのではない。これだけは引き継げないと分かってもらうために出した。
「この2つの特許は俺個人の名義だ。会社が使えるのは俺が席を置く間だけだ」
控えを手にしたまま芦田はしばらく黙っていた。
「それは上にはどなたか伝わっているんですか?」
「総務には正式な書面で出す。お前が抱える話じゃない。ただ頭の隅に置いておいてくれればいい」
ホームの判断まで技術屋の芦田に背負わせるつもりはなかった。事実だけを渡し、後は正式な手続きに委ねる。その日のうちに、特許の番号と名義、契約書の写しを添えた申告書を総務に提出した。申告は退職日の3日前だ。言うべきことはこれで全部言った。
最終出社日、俺は机の引き出しを上から順に空にしていく。奥の鍵付き引き出しから「特許関係個人控え」と記されたファイルを取り出す。25年前、当時の社長だった神谷と交わした契約書の写しだ。会社が資金繰りに苦しんでいたあの頃、光で読み取る方式への切り替えを何度も提案したが、「試作に金がかかりすぎる」と却下された。私費を使い、休日を潰して3年かけた試作機を抱えて社長室に入った俺に、神谷は言った。
「これはうちが金を出したものじゃない。今この会社には試作の費用も払ってやれん。権利はお前個人のものにしておけ」
あの頃は対価より、会社が持ち直すことの方が大事だった。その俺が会社を離れる以上、黙っている理由はもうない。ファイルを鞄にしまっていると、総務の担当者が来て社員証と鍵の返却を求めた。3日前に出した申告書について何か聞かれることもなかった。
ダンボールを両手に抱えて廊下へ出ると、芦田とすれ違った。芦田は俺の手にある箱を見て、何も言わずに近づき、重い方を持とうとした。
「持てるから大丈夫だ」
芦田はそれでも正面玄関まで俺についてきた。扉の前で芦田がぽつりと聞いた。
「三宅さん、小倉さんに何と言われたんですか?」
少し迷ったが、俺は正直に答えた。
「過去の栄光で偉そうに給与泥棒は首だとさ」
芦田は何も言わなかったが、拳を固く握りしめていた。
外に出て、これからの身の振り方を考えた。俺の頭に真っ先に浮かんだのは、去年の技術展示会で名刺を交わした日山という名の同業他社の技術部長だ。その時日山は、公報に載る特許のことを引き合いに出した。どれも俺が取ったものだ。
「あの特許は素晴らしい。機会があれば特許の仕様について相談させていただきたい」
社交辞令だと思い聞き流していた一言が、今別の重さで戻ってくる。だがその前に済ませておく手続きがあった。
退職の翌日、俺は会社の総務部宛てに内容証明を送った。内容は二点。無償使用は退職日で終えること。製造済みの分に限り使用料を払えば作り終えて良いこと。返事は2週間以内によこしてほしいと書き添えた。明日から製品を作れない状態で出ていくのは、俺の性に合わない。
配達を証明する書類は数日後に戻ってきた。それから2週間、電話も書面も一つも来ない。期限の日の夕方、俺は時計を見てから受話器を取る。筋を通すために、あえて待った2週間だった。だが期限が切れたその瞬間、俺の動きに迷いはなかった。
25年勤めた会社の技術を他者に渡すことへのためらいが一瞬よぎらなかったと言えば嘘になる。だが「過去の栄光で偉そうに」という小倉の声が耳の奥で蘇えると、迷いは綺麗に消えていた。俺は名刺を取り出し、日山の電話番号を押した。
翌日、俺は日山の会社の応接室にいた。日山は俺の資料を食い入るように見ている。
「社内で代わりの方式を探させても、最後は必ずあなたの特許の前で行き止まりになります。壁の場所は分かっていました。検地部分の構造を変えても、環境変化に強くしようとしても、必ずあなたの改良特許か製法特許に触れる。うちの技術陣だけで3年ほどかけましたが、突破口は見つかりませんでした。権利者の名前は公報で読めますが、在籍中の技術者に持ちかければ引き抜きと取られ、元の会社との取引にも響きます。だから声をかける機会がずっとありませんでした」
日山は25年前の契約書の写しにも目を通した。権利が俺個人にあること。会社に与えた許諾が退職日で切れていることを、一つずつ指で辿って確かめている。
条件を詰める段になり、日山は独占的な実施権を加えたいと切り出した。提示された額は契約時の一時金が3000万円。その上で、他者には一切許諾しない代わりに、1台も売れなかった年でも年に1億5000万円は必ず払うという。
俺は一つだけ条件を加えてもらった。すでに世に出ている製品の補修部品に限り、元の会社にも無償で使わせる。特例の例外はそこだけだ。現場の機械が直せなくなれば困るのは、動かす人間だからだ。
「現場が止まるのはこちらも本意ではありません」
日山はその条件を認めた。ただし独占がつく以上、役員会にかける必要があるが、日山は俺を呼ぶ前から社内に話を通してあったという。返事は4日後、日山が口にしたそのままの条件で届いた。独占がついた以上、元の会社が新しく作り続ける道はなくなる。
俺は内容証明の控えを見せ、期限までに返事がなかったことを伝えた。日山は日付を照らし合わせて頷いた。かつて同じ話を、小倉は中身も見ずに切り刻んだのだ。
元の会社から返事が届いた週の夜、芦田から電話が入った。声に落ち着きがない。出荷を待つ製品が倉庫から出せなくなり、止めたのは総務だと聞いたという。俺が退職の翌日に送った内容証明を総務が名義と突き合わせたところ、権利者が俺個人で、無償で使える取り決めが退職日で切れていることがはっきりした。25年前の保管書類まで遡らなければ確かめようのない書面だ。
このまま作り続ければ、権利のない製品を世に出すことになる。総務はそう判断して出荷を止めさせたらしい。引き継ぎを受けた芦田は真っ先に総務部の聞き取りを受けたという。俺が残した申告書と納付書の控えを総務が一枚ずつ確かめていったそうだ。
「三宅さんが総務に書類を出すとおっしゃっていたので、もっと早く話が進んでいるものだと思っていました。なぜ今頃と総務にも聞いたんですが、書類は一度人事を通す決まりで、そこで止まっていたようだとしか教えてもらえませんでした」
芦田の声に戸惑いが滲んでいる。
「お前まで巻き込まれてないだろうな」
「今のところは大丈夫です。名義がはっきりしている分、長くは揉めないと思います」
その言葉に無理をしている響きはない。
翌日の午前、会社の総務から電話が入った。名乗った担当者はまず返事の遅れを詫びた。書面が届いてすぐ人事に問い合わせたところ、「退職者の個人的な主張で取り合う必要はない」と人事部長から言われたのだという。さらに退職の3日前に総務へ提出しておいた申告書も、同じ人事部長の判断で棚上げにされたまま、誰にも開封されていなかったらしい。
書面でも申請でも、二重に伝えてあったことになる。それでも動かなかったのがあの男だ。25年前の契約書は電子化されておらず、倉庫の箱を年ごとに開ける他なかったらしい。写しが出たのは期限が過ぎた後だったという。読んだその日のうちに出荷は止められた。その上で担当者は「使用料を払うのでこれまで通り使わせてほしい」と申し入れてきた。
「特許の件はすでに別のお話をいただいています。ただし、すでに世に出た製品の補修部品だけは無償でお使いいただけるようにしてあります」
俺はそう伝えて受話器を置いた。
数日後、日山との契約が書面として整った。肩書きは製造現場を見届ける技術顧問だ。
そんなある日、神谷が来た。その一歩後ろに小倉がいる。手触りのいいスーツの肩が、心なしか余っている。
「今は会長という身だが、今日は詫びに来た。この男には自分の口で言わせるために連れてきた」
神谷は小倉を見ながら言った。
「25年前、私は三宅に言ったんだ。特許の権利はお前個人のものにしておけと。25年で積み上げた180億円は帳簿に入っている。だが三宅に払われた特許使用料は1円もない。それを正さないまま社長の座を降りたのは私の不始末だ」
神谷は深く頭を下げてから、小倉に向き直った。
「君は人事部長という立場にいながら、特許があることすら確かめなかった。総務が名義を照合しようとした時も『取り合う必要はない』と握りつぶしたそうだな。知らなかったのではない。知ろうとしなかった。それが二度あるんだ。さあ、自分の口で言ってみろ。三宅に何と言ったのか」
小倉は視線をそらしたまま、しばらく黙っていた。
「多少厳しい言葉を使ったかもしれません。ですが真意は……」
「多少だと?」
神谷の声に怒気が混じる。
「『過去の栄光で偉そうに給与泥棒は首だ』。その一言は芦田君の聞き取りにもはっきりと記録されているそうだな。違うと言うなら、はっきり否定して見せろ」
小倉は何も言えず、ただ黙り込んだ。詫びは最後まで出てこなかった。代わりに小倉は俺の顔色を伺うように口を開いた。
「三宅さん、どうかもう一度力を貸していただけないでしょうか。対価はお支払いします。特許の仕様だけでも認めていただけないでしょうか」
言葉は丁寧だが、頭は下げない。神谷の声が一段低くなった。
「小倉、私は君に詫びさせるためにここへ連れてきたんだ。それなのに君はまだ正談のつもりでいるのか。それに、それはもう三宅の一存でどうにかなる話でもない。日山さんのところとは特許の契約が結ばれている」
小倉の顔から見る見る血の気が引いていく。
「会長のおっしゃる通りです。独占の契約を結んだ以上、私の一存でどうにかできる話でもありません。小倉さん、あなたはあの日、話も聞かず、机に置いた書類を一度も読まずにシュレッダーにかけた。あの瞬間から、この未来が決まったんですよ」
神谷は静かに告げた。
「小倉、今回の所業は取締役会に諮る。判断が出るまで職務からは外れてもらう」
小倉は何かを言いかけ、そのまま口を閉ざして立ち上がった。
小倉が人事部から姿を消したと芦田から聞いたのは、日山の会社に移って2ヶ月ほど経った頃だ。取締役会は権利者を確かめもせずに切った判断を重く見たという。処分の話が出てほどなく、小倉は自ら退職願を出したと聞いた。芦田は今、俺が残した測定手順を一人で回し、若手を指導する側に立っているという。
「三宅さんに教わったやり方で後輩が育ってきています」
そう聞かされた時、胸の奥が静かに熱くなった。
一方、俺の毎日は静かだ。量産ラインの微調整から品質保証の指導まで、気づけば一日が過ぎる。40年かけて積み上げてきたものは消えていない。それは今、俺の手を離れ、確かな形になって次の世代へと受け継がれようとしている。



