「てめえ、よくも俺にキャンセル料を払えと言えたもんだな。俺は大井組のヤクザだぞ。金を取ろうってなら、組員を大勢連れてお前の旅館を襲撃してやる。覚悟しろ」
女将は震えながら、その脅しの言葉を私たちに伝えた。田原という男は、私が働く高級温泉旅館の常連客だ。今日のために百人分の宴会料理を予約していたのに、時間ぎりぎりになって一方的にキャンセルし、キャンセル料の話を持ち出すと、こんな暴言を吐いて女将を脅したという。
ヤクザの名前を出して女将を脅すとは、なんと卑怯な男だろう。私の胸にふつふつと怒りが込み上げてきた。この時、すでに田原の末路は決まっていた。
私の名前は遠藤直子。五十八歳になる。以前は遠藤組という全国規模のヤクザ組織で若頭を務めていたが、夫が亡くなったのを機に足を洗った。夫が生きていた頃は天下を取るために気を張っていたが、夫を失ってからは目的を見失い、心の糸がぷっつりと切れてしまった。
そんな時、昔からの知り合いである高級旅館の経営者から「うちで働かないか」と声をかけられた。一度は燃え尽きそうになっていた私だったが、旅館で働くことで生きがいを取り戻し、今は立派な女将になるために毎日励んでいる。目標のある充実した日々を送っていると言えるだろう。
そんなある日のこと。旅館の美人女将が驚いたような声を上げるのを聞き、私はすぐに駆け寄った。
「どうしたんですか、女将。随分驚いていたみたいですが」
「ああ、遠藤さん。実は今、予約していた田原さんから電話があって、急用ができたから宴会の予約をキャンセルしたいと言ってきたのよ」
「田原さんって、今日百人分の宴会を予約していたお客さんですよね。その百人分の料理を用意するために、料理人たちは朝からずっと働いていたんですよ。まさか全部キャンセルだなんて」
「ええ、そうみたいなの」
「百人も予約しておいて全員来られなくなるなんて、いくらなんでもおかしいですよ。それに予約の時間まであと三十分しかないじゃないですか。料理も部屋の準備も全部できているのに、それを全部無しにしようだなんて。ひどすぎます」
私が大きな声を出したせいか、たまたま通りかかった常連客の冬山さんが駆け寄ってきた。冬山さんは女将にすっかり惚れ込んで旅館の常連になったお客さんだ。女将に好意を寄せていることは従業員の間では周知の事実なのだが、肝心の女将がかなり鈍感で、いまだにその気持ちに気づいていないようだった。
「おい女将、今キャンセルがどうこうって話が聞こえたんだが、百人もキャンセルが出たって本当かい?」
「え、ええ。今電話があって、今日は行けなくなったと。百人分を三十分前にキャンセルなんて、いくらなんでもおかしいですよ」
「普通なら三十分前には何人かお客さんが来ていてもおかしくないはずだ。誰も来てないってことは、最初からキャンセルするつもりで予約を入れたんじゃないか?」
「俺もそう思う。それで、その客は何て言ってたんだ?」
女将は青ざめた顔で電話の内容を説明し始めた。田原は直前になってキャンセルしたというのに、謝罪の言葉は一言もなかったという。しかも女将がキャンセル料の話を持ち出すと、急に怒鳴りつけてきたのだ。
「おい、俺は約束してたのに行かなかったわけじゃねえ。ちゃんと事前に電話で連絡してキャンセルしたんだぜ。それなのにキャンセル料を払えってのはどういうことだ? こっちは何も食ってなければ泊まってもいねえんだ。お前は逆に何のサービスもしてないのに金を取るってのか。随分と汚い商売するんだな、この宿は。高級旅館のくせに呆れたもんだ。ここが酷い店だって、俺が世間に言いふらしてやってもいいんだぜ」
キャンセル料を払うどころか、逆に悪評をばらまくと脅してきたという。
「なんて身勝手な奴なの。絶対に許せないわ」
「遠藤さん、そんなに怒らないで。私が悪かったのよ。田原さんは以前からよく旅館に来てくれていたから、常連さんだと思って油断していたの。こんな大口の予約を確認せずに受け入れた私が悪かったのよ」
「そんなことありませんよ。常連だからこそ、無理をして受け入れたんじゃないですか。落ち込まないでください」
私は精一杯励ました。確かに田原は以前からこの旅館をよく利用する常連だ。だが、従業員に対して横柄に振る舞うことが多く、お世辞にも良い客とは言えなかった。しかも女将に対して明らかに下心を抱いており、女将の前ではいい格好をしようと振る舞う。やたらと女将を呼びつけて二人きりになろうとしたり、女将を見れば何とか口説こうとしたりする姿を、私もよく目撃していた。
女将は鈍感だから、それがデートの誘いだと気づかずいつも適当に流していたが、田原の嫌らしい性格を知っている私には、田原が女将に相手にされない仕返しに嫌がらせとしてキャンセルしたようにしか思えなかった。
「女将、自分を責めることはねえよ。いくらなんでも百人分の宴会の準備をさせてドタキャンするのは酷いもんだ。おまけにキャンセル料を払わないとごねるなんて、あんまりじゃねえか。普通だったら行けなくなったら申し訳ないと謝るのが筋だろう。少しガツンと言った方がいいんじゃねえのか。女将が言えないのなら、俺が言ってやっても構わないぜ」
「ありがとう冬山さん。でも今回は諦めるわ。どうやら相手はヤクザみたいなの」
「ヤクザですって? 相手がそう名乗ったんですか?」
「ええ、そうなの。私もさすがにキャンセルするには遅すぎるし、料理ももう作ってあるからキャンセル料を支払って欲しいと言ったの。でも田原さんは全然相手にしてくれなくて」
女将はそれでも従業員が頑張ってくれたのだからと、田原に何とかキャンセル料を払うよう申し出たのだという。だが田原はそれを鼻で笑うと、こう言ったらしい。
「さっきから金金金ってうるせえんだよ。いいか、俺は大井組の若頭なんだぜ。俺から一円でも請求してみろ。組員を連れてお前の旅館を襲撃して、二度と営業ができないくらいボロボロにしてやるからな」
「みんなには悪いけど、ヤクザが相手だったら何をされるか分からないもの。今回は諦めようと思うの」
「女将、私は腕に覚えがあります。田原の奴を懲らしめてやりましょう。ヤクザだからって何をしてもいいってもんじゃありません。キャンセル料を踏み倒すような悪党は、少し痛い目にあった方がいいんです。私が絶対にぶっ飛ばしてやりますから。田原からキャンセル料を無理やり取ってやりましょう」
「心配してくれてありがとう。でも、従業員であるあなたに危険なことをさせるわけにはいかないわ。それにヤクザに目をつけられたら、後々厄介なことになりそうですもの。朝から頑張って支度をしてくれた他のみんなには悪いけど、今回は仕方ないわよ」
女将は申し訳なさそうに私へ頭を下げた。すると、しばらく会話から離れてどこかに電話をしていた冬山さんが女将に告げた。
「よし。そのキャンセルされた百人分の料理と宿泊費は俺が持つ。今、部下に声をかけた。これから来る部下たちをもてなしてやっちゃくれないか」
「そんな、冬山さん。いくらなんでも悪いですよ」
「ちょうど俺も、たまには部下たちをねぎらってやりたいと思っていたところなんだ。美味しい料理にいい部屋。個室で風呂までついてる宿なんだから、部下たちも喜ぶよ」
ほどなくして、冬山さんの部下だという男たちが続々と集まってきた。空っぽだった宴会場は屈強な男たちでいっぱいになり、無事に宴会が開かれる。冬山さんのおかげで、準備した部屋も無駄にならずに済みそうだった。
「すごいですね、冬山さん。一声かけただけで部下を百人も集めてしまうなんて。一体何をしている人なんですか?」
「さあ。大きな会社を経営していると聞いているけど、何をしているかまでは知らないわ」
首をかしげる女将の前に、冬山さんがやってくる。
「女将、さっき遠藤さんも言っていたが、俺もそんな奴を許しちゃいけねえと思う。そいつを呼んでしっかりキャンセル料を支払わせた方がいいんじゃないのか。なんなら俺たちも協力するぜ」
「そうですね……」
女将は冬山さんに頼りたい気持ちがあるようだったが、常連客である冬山さんを巻き込みたくない気持ちの方が大きいのだろう。申し出に迷っているようだった。
だが私は、冬山さんに対して裏の人間特有の匂いを感じていた。きっと冬山さんはヤクザ相手の荒事にも慣れている。私と冬山さんがいれば、相手がどこかの組のヤクザだって大丈夫なのではないだろうか。そう思った私は女将に告げた。
「女将、私が全ての責任を取ります。決して迷惑はかけませんから。田原の奴を呼びましょう。電話しますね」
「ちょ、ちょっと、遠藤さん」
女将が私を止める前に、私は田原へと電話をかける。旅館からの電話に気づいたのか、田原はいきなり横柄な態度で怒鳴りつけてきた。
「なんだ、あの旅館か。もうキャンセルするって言っただろ。しつこいな。言っておくがキャンセル料なら払わないぜ。そっちが勝手に準備したんだから、俺が支払う義理なんてないだろ。しつこく取り立てするつもりなら、少しばかり痛い目を見ることになるぜ」
「あの、その件ですが。先ほどは失礼いたしました。お客様から丁寧なお断りの電話をいただいたのに、女将が動転してついお金の話をしてしまいまして。田原様が気を悪くされたのではないかと、女将も大変後悔しております。お詫びに田原様をお食事に招待したいそうなのですが。本日ご用がお済みになった後で結構ですので、こちらまでお越しいただけませんか? 食事とお酒を準備しております。当然、お詫びですからお代はいただきません。お時間ありましたら、是非いらしてください」
「本当か? よし、わかった。すぐに行くから女将に言っておけよ」
電話を切って間もなく、田原は上機嫌でやってきた。なんと数人の部下まで連れて。こんなに早く来るなんて、やはり急用ができたなどというのは大嘘だったのだろう。最初から嫌がらせのために予約をキャンセルしたに違いない。
「来てやったぜ。本当にただで酒が飲めるんだろうな」
「はい、もちろんです。こちらにどうぞ。女将もお待ちですよ」
女将にべた惚れの田原は、特に疑いもなく宴会場に入る。私は田原が部屋に入ると同時に、思いっきり殴りつけてやった。
「いきなり何しやがる! てめえ、詫びでサービスするってのは嘘だったのか?」
「当たり前じゃないのさ。誰がドタキャンしてキャンセル料も払わないケチな客にサービスするもんかい」
田原は驚いて逃げ出そうとするが、宴会場にいた冬山さんがドアの前に立ちはだかる。田原はそこでようやく、宴会場が冬山さんの部下たちでいっぱいになっていることに気づいたようだった。
「なんだ、客が入ってるじゃねえか」
「そうさ。そっちの冬山さんが、ドタキャンしたあんたの代わりに部下を連れてきてくれたんだ。あんたと違って器の大きい人だよ。さて、ドタキャンしたくせにキャンセル料を踏み倒そうとした罰、たっぷり受けてもらおうかね」
私は田原を、田原が連れてきた部下もろともコテコテに殴りつける。そして宴会場に置かれていた椅子に座らせ、ロープで縛りつけてやった。
「くそ、騙しやがったな。こんなことをしてただで済むと思ってるのか。俺はヤクザだぞ。後でこの店をめちゃくちゃにしてやるからな」
「ギャーギャー騒ぐんじゃないよ。どうせお前なんてしがないヤクザだろう。しがない身で報復に協力してくれる部下なんているもんかい。それより、相手にこんなケチな嫌がらせをしてるってことが組長に知られたらまずいんじゃないのかい?」
「何言ってやがる。女の癖に分かったような口を聞きやがって。ヤクザが怖くねえのか」
「あんたみたいにヤクザの名前を使って威張り散らすような奴なんて、怖いわけないだろう。大体、百人分も予約を入れたくせにドタキャンして罪の一つもないなんて、一体どういう教育を受けてきたんだ。悪いことをしたら謝るって、当たり前の常識も教わらなかったのかい?」
「せえ。ちゃんとキャンセルの電話はしたんだからいいだろうが。勝手に準備したのはそっちなんだ。キャンセル料なんて払う必要ない。当然だろ。俺は何も食ってなければ旅館に泊まってもいねえんだからな」
「百人も大人数を迎えるんだ。朝から準備しているに決まってるじゃないか。そんな常識も分からないなんて、大井組はどんな教育をしているんだい? それとも、あんたが特別にバカなのかい?」
「全くだ。一体どうしてこんな真似をしたんだ? お前だってこの旅館の常連なんだろ? まさか本当に、女将が相手にしなかった腹いせなのか?」
冬山さんに女将の話をされたのが図星だったのだろう。田原は顔を真っ赤にすると、私たちに大声をあげた。
「そうだよ。悪いかよ。あの女将、俺が何度声をかけても全然相手にしねえから、少しばかり痛い目を見てもらおうと思ったのさ」
そう言うと、田原は突然椅子から立ち上がった。見れば、手にはナイフが握られている。どうやら隠し持っていたナイフでロープを切り、脱出したらしい。
「近づくな。下手に近づくと、お前たちをナイフでズタズタにしてやるからな」
「なんだい、そんなもの隠し持っていたのかい。腕っぷしに自信のない弱い奴がやりそうな、腰の引けた真似をするわね」
「偉そうにするな。お前のその顔を、ナイフでめちゃくちゃにしてやるからな」
「やれるもんならやってみな。あんたにそんな度胸があるなんて、とても思えないけどね」
私はそう言うと、暴れる田原にぐっと距離を詰める。突然近づいてきた私に動揺したのか、田原はナイフを振り回す手を一瞬止めた。私はその隙をついて、素手でナイフの刃を受け止め、しっかりと握る。その姿を見て、田原は驚いたように目を見開いた。
「な、何してやがるお前? ナイフを素手で掴むなんてどうかしてるぞ。血が出てるじゃねえか」
「なんだ、あんた。刃物を持ち出したくせに、血が出た程度で怯えてるのかい? だからあんたは三流だって言ってるんだよ」
私はそのまま田原を倒し、強引にナイフを取り上げる。田原はナイフを奪われたことで完全に沈黙したのか、その場に膝をついた。
「さあ、そろそろしっかり謝ったらどうなんだい? 女将に迷惑をかけたことくらい、分かってるんだろう」
「い、嫌だ。大体俺は悪くねえ。常連客の俺から誘われてるのに、全く色目を使わなかった女将が悪いんだ。これだけ通い詰めてるんだから、少しくらいサービスするのが当然じゃねえか。それなのにあの女将と来たら、食事すら一緒にしてくれねえなんて。どうかしてるぜ」
「どうかしてるのはあんたの方だよ。旅館に妙なサービスを期待する方がおかしいだろう。いい大人のくせに、どうして謝れないんだろうね」
呆れる私の隣にいた冬山さんが、そこで一歩前に出ると田原を睨みつけた。
「お前、大井組の田原国だな」
「なんだお前。どうして俺のことを知ってるんだよ」
「やれやれ。大井組の組員のくせに、俺の顔を知らないとはな。お前はそれだけしがないってことか。それとも大井組の組長の教育がなってないってことか」
深々とため息をつく冬山さんを見て、田原が連れてきた部下たちは驚き震え出す。どうやら田原の連れは冬山さんのことを知っていたようだ。
「俺は柊会の冬山ってもんだ。知ってるだろ? お前らを傘下にしている柊会の若頭だよ」
「柊会だって? うちの本家の若頭が、どうしてこんなところにいるんだよ」
田原は驚きから悲鳴のような声を上げると、怯えた目で冬山さんを見た。裏の人間だろうとは思っていたが、やはり冬山さんはヤクザだったようだ。だがまさか若頭だとは、恐れ入ったものだ。
「まったく。まさかうちの傘下である組が、女将にこんな迷惑をかけてたなんて。情けなくて涙が出そうだぜ。さて、こいつをどうしてくれようか」
「す、すいません。どうか組長には内緒にしてください。こんなこと、うちの組長に知られたらどうなるか」
「おいおい。謝罪するのは俺じゃなくて女将だろうが。当然、キャンセル料も支払うんだ」
「そうだな。百人分の予約をキャンセルしたんだ。反省の意味も込めて、一億支払ってもらおうか」
「一億ですか? そんないくらなんでも、何言ってるんですか」
「お前はこの宿の常連だろ。当然、かなりの蓄えがあるはずだよな。それにお前がキャンセルしたのは料理だけじゃない。今晩泊まる部屋の分もあるんだ。一億くらい当然だろう」
「そうだよ。それにしっかり女将に謝るんだ。いいね」
「う、うるせえ。若頭に言われるのは分かる。だが、どうして従業員のババアにまで指図されなきゃならねえんだ。俺はこれでもヤクザだぞ。女の言うことなんて聞くもんか」
田原は私を見ると、子供のようにダダをこねる。私は大きくため息をつくと、田原から奪ったナイフを田原の胸元に押し付けた。
「ごちゃごちゃうるさいね。さっきも言っただろ。悪いことしたら謝るのが当然のことだ。あんた、ヤクザだったのにそんな当然のことも分かってないのかい」
「え、やめろ。ナイフをそんな風に押し付けるな。危ねえじゃねえか」
「あんたがつまらないことでバタバタするからだよ。いいかい、私は遠藤なんだ。今は引退しているが、以前は遠藤組の若頭としていくつもの組をまとめていたのさ。元ヤクザの言うことなら、少しは聞く気になったかい?」
「え? 遠藤組だって? い、今も日本全国に傘下を持つ、あの遠藤組か?」
「うわ、分かったよ。やめてくれ。謝る。心を込めて謝るから。現役の若頭に元若頭までいるなんて、この旅館は一体どうなっているんだ?」
田原は真っ青な顔をしながら謝罪を約束したので、私はすぐに女将を連れてくる。田原は女将を見ると、這いつくばるように土下座をした。
「女将、この度は急なキャンセルをした上、キャンセル料も支払わないなど失礼なことを言ってすいませんでした。キャンセル料と慰謝料を含めて一億をお支払いいたします。どうか、失礼な真似をしたことをお許しください」
「え、一億だなんて、そんなの貰いすぎだと思うわ。一体どういうことなの? 遠藤さん、冬山さん」
「まあまあ女将。こいつも反省しているようだし、詫びだと思って受け取っておくといい。さて、俺はこいつにまだ用事があるから、ちょっくら付き合ってもらうとするかね」
冬山さんが部下に一声かけると、すぐに部下たちは田原を拘束する。そして田原とその部下をどこかへと連れ去っていった。
それから数日後、再び旅館にやってきた冬山さんから、私はその後田原たちがどうなったのかを聞いた。冬山さんが言うには、田原は自らが所属する大井組の事務所に連れて行かれたのだという。そこで冬山さんは大井組の組長に、部下の不始末の責任として組を解散するよう命令をしたそうだ。
大井組は解散となり、大井組にいた多数の組員たちは田原を恨み、目を付けるようになる。特に大井組の元組長は田原を深く恨み、執拗に追い続けたため、田原は逃げ回る生活ですっかり疲弊したのだそうだ。
「自業自得とはいえ、田原も随分苦労してるみたいですね。でも、そんなに追い詰めたら逆恨みしないか心配だわ。田原みたいな人間はすぐ逆恨みするから、うちの旅館や女将を逆恨みして襲撃しないといいけど」
私がそう口を挟むと、冬山さんはにやりと笑う。
「それは心配ねえよ。田原の奴はこの旅館を襲撃しようとしたところを、俺と部下がしっかり捕まえておいたからな。さすが冬山さん。随分と手回しがいいのね」
「あんなひねくれた根性の男を野放しにしておけば、女将に何があるか分からないからな。しっかり部下をつけてマークしておいたんだ。旅館を襲撃する準備を始めた時は、やっぱりかと思ったもんだぜ」
「それで、田原はどうなったの? 当然捕まえたんでしょ」
「さてな。だが、もう二度とこの旅館にも女将の前にも姿は現さないはずだぜ」
冬山さんはそう言うと、笑いながら酒を傾けた。冬山さんの言う通り、その後二度と田原が姿を見せることはなかった。
「しかし遠藤さんが、まさかあの遠藤組の若頭だったとはな。どうだ? あんたの体力と腕っぷしなら、まだヤクザをやれるだろう。うちに来て、またヤクザをやってみるか」
「私の実力を認めてくださってありがとうございます。でも、今の仕事が楽しいから遠慮しておくわ。私みたいなおばさんが、柊会みたいな大きな組の役に立てるとも思わないしね」
「そうか。それはもったいないな。だが、遠藤さんがそう言うなら仕方ない。諦めるとするかね」
冬山さんはそれ以上私を勧誘することなく、いつも通り旅館に通う常連客に戻る。そして私も、一人前の女将になるため仕事に励む従業員に戻るのだった。



