母さん、もういい加減に言ってくれよ。心臓を氷の刃でえぐられるような息子の言葉が、深夜のリビングに突き刺さった。ほんの数分前、私は世にもおそましい計画を耳にしてしまったのだ。階段に油でも敷いておくか。あのババアに見せかけて。喉の乾きを潤そうと階段を降りただけだったのに、物音に気づいてリビングから飛び出してきた息子夫婦は、私の姿を認めると一瞬顔をこわばらせた。だがそれもつかの間、全てを悟った二人はまるで悪魔のような表情を浮かべたのだ。私が震える声で問い詰めると、優しい息子の仮面をかなぐり捨てたかずは、心の底からの憎悪をむき出しにして言い放った。正直、目障りなんだよ。隣で腕を組む嫁のジュリも、財産さえ手に入ればそれでいいのよと、さげすんだ目で私を見下ろす。これが私が人生の全てを捧げて育てた息子の本心。全身の血が凍りつく絶望の中で、私の心にあった息子への愛情は音を立てて砕け散った。それと同時に、冷たく硬い決意の炎が心の奥底で静かに燃え上がったのを、私は確かに感じていた。完全に迷いは捨てた。
私の名前は宮原沢子。町の小さな飲食店でパートとして働き、つましい生活を送っている。夫を病気で早くになくして以来、私は女手一つで一人息子のかずきを育て上げてきた。生きるためにはなりふりかまっていられなかった。朝は誰よりも早く起きて弁当屋の仕込みに行き、昼から夜遅くまで今の店でホールをかけ回る日々だった。自分の化粧品どころか、靴下の一足を買うのさえためらうような極貧生活を強いられてきたのだ。けれど、そんな地獄のような苦労も決して無駄ではなかったと思っている。かずは私の背中を見て育ったせいか、わがまま一つ言わない真面目な子に育ってくれたからだ。彼は猛勉強の末に有名大学へ進学し、卒業後は誰もが知る大手企業への就職を果たした。
道端で会った近所の友人が、私の顔を見るなり声をかけてくる。沢子さん、本当に苦労が報われたわね。君みたいに優秀で親思いの息子さんがいて、羨ましいわ。私は買い物袋を持ち直しながら、照れ隠しに微笑んだ。いえいえ、あの子が自分で頑張っただけよ。私、何もしてないわ。何言ってるのよ。沢子さんが身を粉にして働いてたこと、みんな知ってるわよ。これからはかず君に親孝行してもらいなさいね。そう言ってもらえると、長年の水仕事で荒れた指先の痛みも少し柔らぐような気がした。周囲の人々は口をそろえて私を、高望みせず息子を育てた成功した母親だと褒めそやす。かずは私の誇りであり、人生の全てだった。今はまだ体の動くうちは働こうと思っているが、老後の不安はきれいさっぱり消え去っていた。自慢の息子が立派に自立し、社会で活躍しているという事実だけで、私の心は満たされていた。これから先はかずの成長を見守りながら、穏やかで幸せな日々が続いていくのだと信じていた。
かずが就職し、都会で一人暮らしを始めてから数ヶ月が経った頃、最初の電話がかかってきた。母さん、ごめん。ちょっとお金を貸してくれないかな?急に冷蔵庫が壊れちゃってさ、困ってるんだ。久しぶりの息子からの連絡であり、その切羽詰まった声に私はすぐに心配になった。大手企業に務めているとはいえ、働き始めたばかりだ。何かと物入りなのだろうと考え、私は二つ返事で指定された口座に生活費の足しとして五万円を振り込んだ。その時は息子の新生活を応援できることに、むしろ喜びを感じていた。しかしその要求は一度きりでは終わらなかった。翌月には会社の付き合いで急な出費があってと三万円。その次の月にはパソコンが壊れて仕事にならないと十万円。かずは毎月のように様々な理由をつけては、私に金の無心をするようになった。彼の話す理由はどれも仕事のため、生活のためとやむを得ないものに聞こえたが、あまりにも頻繁な要求に私の心には疑念が芽生え始めた。高給のはずの息子が、なぜこれほどまでにお金に困るのか。私のパート収入は決して多くなく、自分の生活費を切り詰めて送金する日々が続いた。
ある日、意を決した私は電話口でかずに問いただすことにした。かず、あなた本当は何にお金を使っているの?お給料は安くないはずでしょう。母さんも楽じゃないのよ。私の真剣な口調にかずは一瞬言葉を詰まらせた。しばらく気まずそうに黙り込んだ後、ついに観念したようにぽつりと口を開いた。実は会社の同期に見栄を張りたくてさ、ブランドものの時計とか高級なオーダースーツとか色々買っちゃって、気づいたら給料だけじゃ足りなくなって、消費者金融にも手を出してしまったんだ。その告白に私は目の前が真っ暗になるような衝撃を受けた。必死に働いて大学まで行かせた息子が、見栄のために借金までしていたとは。情けなさと怒りで体が震えたが、同時に息子をそんな精神状態に追い込んでしまった会社や、それに気づけなかった自分自身を責める気持ちも湧いてきた。私のパート代だけでは、正直言って自分の生活で精一杯だ。しかしここで息子を見捨ててしまえば、借金は雪だるま式に膨れ上がり、大切な仕事にも支障をきたすかもしれない。悩みに悩んだ末、私は自分の老後のためにと細々と貯めてきた泣けなしの貯金を切り崩し、かずの借金を全て肩代わりすることに決めた。全額で百五十万円にもなる大金だった。これで最後よ。二度とこんなことはしないで。これからは身の丈にあった生活をして、仕事に専念しなさい。ありがとう母さん。本当に助かる。迷惑かけてごめん。これで仕事に集中できるよ。電話の向こうで心から感謝しているように聞こえる息子の声に、私は自分の判断が間違っていなかったのだと信じたかった。
私の心配をよそに、借金を清算したかずは水を得た魚のように仕事に打ち込み始めた。その甲斐あってか数年後には、同期の中でも最速で管理職に昇進したという嬉しい知らせが届いた。私は自分の犠牲が息子の未来につながったのだと、心の底から安堵した。そしてしばらくして、かずは一人の女性を連れて私の家へ帰ってきた。母さん、紹介するよ。俺の婚約者のジュリだ。結婚しようと思ってる。初めまして。ジュリです。かずさんからもお母様のお話は伺ってます。ジュリと名乗る女性は派手な化粧に露出の高い服装、そして全身に高価そうなブランド品を身につけていた。聞けば年齢は二十四歳で、かずとは十一歳も離れているらしい。元々はかずが会社の付き合いで通っていた高級クラブのホステスだったという。私は直感的にこの結婚に強い不安を覚えた。金遣いの荒いかずと、いかにもお金がかかりそうなこの女性、本当にうまくやっていけるのだろうか。私の表情から不安を察したのか、かずは私を牽制するように言った。ジュリは最高の女性なんだ。母さんにも祝福してほしい。しかし私は母親としてどうしても忠告せずにはいられなかった。かず、少し考え直した方がいいんじゃないかしら。あなたたち、少し金銭感覚が心配よ。その言葉を聞いた瞬間、かずの表情は見る見るうちに険しくなった。母さんには関係ないだろう。これは俺の人生なんだ。金の心配なんてしなくていい。俺が稼ぐんだから。もう口出ししないでくれ。その強い拒絶の言葉に、私は凍りついたように何も言えなくなってしまった。息子が選んだ相手なのだから、私がとやかく言うべきではないのかもしれない。結局私は胸の内に不安を押し殺し、二人の結婚を黙って見守るしかなかった。
かずとジュリが結婚して数年が経ったある日のことだった。息子から久しぶりに電話があり、思いがけない提案をされた。母さん、俺たちと一緒に暮らさないか?この家は母さんが一人で住むには広すぎるだろう。俺が母さんの老後の面倒もしっかり見るからさ。その言葉に私は胸が熱くなるのを感じた。息子が私の将来を案じてくれている。これまでの苦労が全て報われたような気持ちになり、私は涙ながらにその申し出を受け入れた。しかしその温かい幻想は、同居生活が始まってすぐに打ち砕かれることになる。引っ越してきたその日から、かずとジュリは私を金づると火焚き女としか見ていないことを露骨に示し始めた。母さん、悪いけど今月から生活費としてパート代の全額を家に入れてくれ。家のローンもあるし、色々大変なんだよ。お母さん、私お掃除苦手なんでお願いします。ああ、あと今日の夕飯はフレンチのフルコースが食べたいな。食事の支度、掃除、洗濯、そしてジュリの買い物や友人とのランチへの送迎まで、全ての雑用が私の肩にのしかかった。パートで疲れて帰ってきても、休む暇など全くない。ある日、私が体調不良を理由にジュリの頼みを断った時のことだ。はあ、疲れてる。言い訳しないでくださいよ。ただのパートでしょ。そこにかずが追い打ちをかけるように怒鳴りつけた。おい、ジュリに情けない姿を見せるな。お前は俺たちの言うことだけ聞いてりゃいいんだよ。息子夫婦からの暴言は日常茶飯事となった。私の存在価値は、彼らにとってはただ利用するための道具でしかなかった。
さらに辛かったのは近所からの冷たい視線だった。高級車を乗り回し、ブランド品で着飾る息子夫婦の姿を見て、近隣住民は私が息子に寄生して贅沢な暮らしをしているのだと誤解した。あそこのお母さん、息子さんが稼いだお金で遊びほうけているらしい。本当に毒親よね。といった根も葉もない噂が私の耳にも届くようになる。私は心身共に限界だった。そんな絶望の縁にいたある夜、事件は起きた。夜中に喉の渇きを覚えて階段を降りると、リビングからかずとジュリのひそひそ話が聞こえてきた。ねえかずさん、あのババア、まだ生きる気なのかしら。さっさと死んでくれれば、あの家も貯金も全部私たちのものなのに。ああ、全くだ。もう我慢の限界だよ。そうだ、今度の連休さ、階段のところに油でも敷いておくか。足を滑らせて転げ落ちれば、事故で処理されるだろう。私は息を飲んだ。全身の血の気が引き、その場に凍りついてしまった。我が子とその嫁が、私の財産を奪うために殺害計画を立てている。震える足でなんとかその場を離れようとしたが、運悪く物音を立ててしまった。リビングから飛び出してきたかずとジュリは、私の姿を見て一瞬顔を青ざめさせたが、すぐに悪魔のような笑みを浮かべた。私が全てを聞いていたと悟ったのだろう。私は震える声で問い詰めた。かず、今のはどういうことなの?するとかずはそれまでの演技を全てかなぐり捨て、心の底からの憎悪を込めた声で言い放った。ああ、聞いたのかよ。だったら話は早い。母さん、もういい加減に死んでくれよ。正直、目障りなんだよ、あんたは。その言葉は鋭い刃物となって私の心臓を突き刺した。私が人生の全てを捧げて愛し、育ててきた息子。その息子が私に向けて放った本心だった。この瞬間、私の中にあった息子への愛情は、ひとかけらも残さず消え去った。涙は一滴も出なかった。代わりに私の心の中には、冷たくそして燃えるような決意の炎が灯ったのである。もう一切の迷いはない。
あの日かずから死んでくれという言葉を浴びせられた翌朝、私はすでに行動を開始していた。息子夫婦がいつものようにブランチだと言って高級レストランへ出かけていく。その姿を静かに見送ると、私はすぐに寝室の奥に隠しておいたボストンバッグを取り出した。もう迷いは微塵もない。私は手際よく、自分名義の預金通帳全てと実印。そして何よりも重要な、この家の権利書をバッグに詰めた。亡き夫が残してくれたたった一つの大切な財産だ。その他、夫との思い出の品や数枚の着替えだけを詰め込むと、私は静かに玄関の鍵を閉め、二度と戻らない覚悟で家を後にした。向かった先は、以前から目星をつけていた法律事務所である。弁護士の木下先生に事情を説明すると、彼は親身に私の話を聞いてくれた。それは大変でしたね。沢子さん、ご安心ください。法的な手続きは全てこちらで進めます。自宅は完全に私個人の名義であり、売却に際してかずたちの同意は一切必要ない。私は木下弁護士に全てを委任し、即刻自宅の売却手続きを開始してもらった。同時に、以前から働いていた飲食店の近くに小さなアパートを借りて新たな生活をスタートさせた。驚くべきことに、家を出てから一週間が経っても二週間が経っても、私のスマートフォンがかずたちから鳴ることは一度もなかった。火焚き女がいなくなり不便だろうに、私の安否を気遣う連絡は一切ない。彼らにとって私は本当に、いない方がいい存在だったのだ。その事実が私の決意をより一層固くさせた。そして家を出てから約一ヶ月後、家の売却は驚くほどスムーズに完了した。新しい所有者も決まり、いよいよ息子夫婦への鉄槌が下される時が来たのである。
ある日、かずとジュリが自宅に帰ると、玄関には一枚の書類が貼られていた。それは裁判所から発行された、法的な効力を持つ退去命令通知書だった。新しい所有者からの正式な申し立てにより、彼らは不法占拠者として即刻の立ち退きを命じられたのだ。事態を全く把握できていなかったかずは、パニック状態で私のパート先へと押しかけてきた。しかし私はすでにパートをやめ、新しい職場で働いている。空振りに終わったかずは執念深く私のことを嗅ぎ回り、ついに私のアパートを突き止めた。ドアを叩き壊さんばかりの勢いでノックされ、私がドアを開けると、そこには鬼の形相のかずが立っていた。母さん、どういうことだよ、これ。なんで家が売られてるんだよ。しかし私が冷静な表情を崩さないのを見ると、かずは一転して低頭し始めた。ごめん、母さん。あの時は俺もどうかしてたんだ。どうか家の売却を考え直してくれないか?俺たち、行くところがなくなっちまうよ。その口先だけの謝罪に、私の心は少しも揺らがなかった。嫌です。あの家はもうあなたたちの家ではありません。法律に従って速やかに出ていってください。私の淡々とした拒絶にかずは再び怒りを爆発させた。ふざけるな。このクソババア。誰のおかげで今まで生活できたと思ってるんだ。私は何も答えず、静かにドアを閉めた。ドアの向こうでかずが何かを叫んでいたが、その声はもう私の心には届かない。私の反撃はまだ始まったばかりである。
私のアパートから追い返されたかずとジュリは、次なる卑劣な手段に打って出た。彼らは私が新しく住み始めたアパートの周辺や以前の家の近所で、涙ながらに嘘八百を並べ立て始めた。うちのお母さん、最近ひどい認知症で、悪徳不動産屋に騙されて大事な家をただ同然で取られちゃったんです。かわいそうで見てられないわ。俺たちがしっかりしなきゃいけないのに、本当に情けない。母を騙した不動産屋を絶対に許せない。二人はそろって悲劇の息子夫婦を演じ、私を判断力のない哀れな老人。そして家の売買に関わった不動産会社を、老人を食い物にする悪徳業者に仕立て上げたのだ。その噂はあっという間に広がり、私には同情とも好奇ともつかない視線が向けられるようになった。しかし私はそんな噂に対して一切の反論をしなかった。彼らがボケを掘れば掘るほど、私の計画は有利に進むことを知っていたからだ。私はただ静かに、次の手を打つ準備を始めていた。私は一冊の手帳を取り出し、ある人物に電話をかけた。その相手は山田さん。私が長年パートをしていた定食屋の常連客で、現在はIT企業の社長を務めている人物だ。山田さんは学生時代、お金がなくてお腹を空かせていた頃、私がこっそりまかないを食べさせてあげていた。彼はその恩をずっと忘れず、社会人になって成功してからも店に顔を出し続け、私を実の母親のように慕ってくれていた。山田さん、ご無沙汰しています。宮原です。お母さん、どうしたんですか?急にお店に行っても最近見かけないから、心配してたんですよ。電話の向こうから聞こえる心からの心配の声に、私の胸は少しだけ温かくなった。私は山田さんに対し、これまでの経緯を全てありのままに話した。かずが繰り返した金の無心、消費者金融の借金、ジュリとの結婚、そして同居後の奴隷のような扱い。さらにはあの夜に耳にしてしまった、あまりにもおぞましい殺害計画のことまで。私の話を聞き終えた山田さんは、電話の向こうで絶句していた。やがて静かだが、心の底からの怒りが込められた声が返ってきた。許せません。お母さん、よく今まで耐えましたね。かずさんのことは、絶対に僕が許さない。実は山田さんの会社は、かずが務める会社の重要な取引先の一つだった。それだけでなく山田さんは、かずの会社の社長ともプライベートでゴルフに行くほど深い親交があった。お母さん、僕に任せてください。あんな人間が管理職なんて、会社の恥です。僕から社長に直接話をさせていただきます。その言葉は何よりも心強かった。私は山田さんに深く感謝し、全てを彼に託すことにした。
数日後、山田さんは約束通り、かずの会社の社長と会食の席を設けた。ここで私から聞いたかずの悪さ、金銭トラブル、そして実の母親に対する非道な仕打ちの全てを、包み隠さず伝えてくれた。かずが社内で見せている有能で誠実な管理職面。その裏にある欲望にまみれた見にくい本性。山田さんという信頼できる人物からの告発は、社長の心を大きく揺さぶった。社長は長年の付き合いである山田さんの言葉を真摯に受け止め、直ちにかずの身辺調査を開始することを約束した。この瞬間、かずが会社内で築き上げてきた信用と評判は、音を立てて崩れ始めた。山田さんからの情報提供を受け、会社はすぐさま内部調査に乗り出した。調査の結果、かずが会社の経費を私的に流用していた事実や、部下に対して高圧的な態度を取っていたことなどが次々と明るみに出た。これまで彼が築き上げてきたエリート管理職という仮面は、見事に剥がれ落ちた。会社からの処分は迅速かつ厳しいものだった。かずは全ての役職を解かれ、都心の高層ビルにある本社から遠く離れた地方の子会社への左遷を命じられた。事実上の追放人事である。プライドをズタズタに引き裂かれたかずは、形相を変えて私のアパートへやってきた。以前の高圧的な態度は見る影もなく、彼は必死の形相でドアにすがりついた。母さん、頼む。開けてくれ。俺、左遷されることになったんだ。母さんの知り合いの山田さんって人が、社長に何か言ったんだろう。頼むから、あの人に左遷を取り消すように言ってくれよ。私はドアを開けることなく、インターホン越しに冷たく言い放った。今更、何の用ですか?あなたにとっては目障りな邪魔者が消えて、せいせいしたのではないですか?本望でしょう。私の皮肉に満ちた言葉にかずは絶句した。私はそれ以上何も言わず、彼の電話番号を着信拒否に設定し、完全に連絡を遮断した。社会的な制裁は下された。しかし私の復讐はまだ終わらない。次なる一手は法による裁きだ。私は木下弁護士と共に警察署へ向かい、かずとジュリに対する刑事告訴に踏み切った。容疑は殺人未遂。あの夜に耳にした殺害計画の一部始終を、私は詳細に警察に伝えた。この動きはすぐにかずたちの耳にも入ったらしい。するとかずは、あろうことか自身のSNSアカウントで私を嘲笑い始めた。うちの母親がボケて、俺を殺人犯に仕立て上げようとしてる。証拠なんて何もないのに。ただの被害妄想だ。警察も迷惑な話だよな。彼は自分に味方するフォロワーたちからの同情的なコメントを見て、まだ自分が優位に立っていると錯覚していた。しかしその愚かな投稿が、自らの首を締める最後の引き金になることを、彼はまだ知らない。彼が証拠は何もないと高をくくっていたのには理由がある。まさか実の母親が自分の息子を疑い、証拠集めなどをしているとは、夢にも思わなかったのだろう。だが、私は彼らが考えているほど愚かではなかった。
同居を始めて間もなく、息子夫婦の私に対する態度や言動に違和感を覚えた私は、万一の事態に備えて自己防衛のための準備を始めていた。私は小型のボイスレコーダーを常にエプロンのポケットに忍ばせ、リビングやキッチンには超小型のカメラを設置していた。それはいつかこの歪んだ関係を正す日が来た時のための、私にとってのお守りだった。その記録媒体には、息子夫婦が私を罵倒する日常の音声や映像が克明に記録されていた。そして運命のあの夜、全てを決定付ける証拠がそこにはっきりと残されていた。階段のところに油でも敷いておくか。足を滑らせて転げ落ちれば事故で処理されるだろう。いいわね。それ、最高じゃない?早く死んでくれよ。正直、目障りなんだよ、あんたは。かずとジュリの生々しい会話と、私の心を打ち砕いたかずの本心。その全てが動かぬ証拠として警察に提出された。私が提出した決定的証拠により、警察の捜査は一気に加速した。録音された音声データは専門家による声紋鑑定が行われ、かずとジュリ本人のものであることが即座に証明された。刑事たちはジュリの周辺から捜査を開始し、すると彼女の愚かさを裏付ける証言が次々と出てきた。ジュリは高級クラブで働いていたホステス時代の元同僚たちに、少し前からこう自慢して回っていたという。あのババアが死んで、家も貯金も手に入る。そしたらホストクラブを貸し切りにしてシャンパンを奢る、と話していたんです。冗談かと思いましたが、本気だったのですね。彼女の浅はかな自慢話は、遺産目当ての犯行計画を裏付ける極めて有力な状況証拠となった。ジュリはまだ手に入れてもいない金を元に、すでに未来の浪費計画を立て、周囲に吹聴していた。その抑えきれない強欲さと口の軽さが、自らの破滅を招くことになるとも知らずに。そしてかずに対しても、全く別の方向からさらなる追撃が加えられることになった。彼がSNSに投稿した、母親が重度の認知症で悪徳不動産屋に騙されたという書き込み。この投稿が、私の依頼を受けて正当に自宅の売却手続きを進めてくれた不動産会社の目に留まったのだ。会社は、かずが実名を上げて自社を悪徳と貶めた投稿を、事実無根の悪質な誹謗中傷であり、当社の社会的信用を著しく毀損する深刻な名誉毀損及び営業妨害にあたると判断した。一点の落ち度もない不動産会社は激怒し、即座に顧問弁護士を通じてかずに対して高額の損害賠償を求める民事訴訟を起こした。社会的な信用を失い、住む家を失い、さらには民事と刑事の両方で完全に逃げ道を塞がれていく。彼らが私から奪おうとした全てが、今や巨大なブーメランとなって彼ら自身に猛スピードで突き刺さっていた。
そしてついにその日は訪れた。強制退去させられた後に住みついていた安アパートで、まだ寝ぼけまなこのかずとジュリがうたた寝をしていた時、玄関のドアを捜査員たちが激しくノックした。警察だ。宮原かず及び宮原ジュリ、開けなさい。ドアをこじ開けて部屋に捜査員たちが踏み込み、呆然とする二人の腕に冷たい金属の手錠がかけられた。君たちを、実母である宮原沢子さんに対する殺人未遂及び遺産目的の凶行の容疑で逮捕する。この衝撃的な光景はテレビのニュース速報でも報じられ、日本中に彼らの愚かで非道な犯行が知れ渡ることとなった。SNSで私を、ボケたババアの被害妄想と笑い飛ばしていた男の、何とも情けない逮捕の瞬間だった。この逮捕により、かずは法的にさらなるそして決定的な制裁を受けることになった。日本の民法には、相続人の欠格事由という厳格な規定が存在する。これは、被相続人を殺害、または殺害しようとしたり、遺言書を偽造したりするなど、相続において著しく不法な行為を行った者の相続権を、裁判所の判断を待たずに法律上当然に剥奪するというものだ。かずの行為はまさにこの相続欠格の典型的な事例に該当した。木下弁護士を通じて戸籍を管理する役所に届け出がなされ、かずは正式に私の財産を相続する権利を永久に失った。彼は私の家や預金を力づくで奪おうとした結果、法のもとで私との親子の縁までも断ち切られ、相続人ですらなくなったのである。金のために実の母親を手にかけようとした息子への、当然すぎるほどの報いだった。息子夫婦の逮捕は、かずが勤めていた会社にも大きな衝撃を与えた。実の母親に対する殺人未遂という前代未聞の凶悪犯罪を犯した社員を、会社がそのままにしておくはずがない。かずは逮捕から間もなくして、会社の懲戒規則に基づき最も重い処分である懲戒解雇となった。エリートコースを歩んでいたはずの息子のキャリアは、こうして完全に断たれた。彼が失ったのは職だけではなかった。大手企業のエリート管理職という地位、高額な給料、そして何より社会的な信用。彼が人生をかけて手に入れたと思っていた全てのものを、一瞬にして失ったのだ。
この事件はマスコミでも大きく取り上げられ、事件の背景にあった私への虐待や借金の事態も白日のもとにさらされた。その結果、二人が流布していた、息子に寄生する毒親。認知症で悪徳業者に騙された哀れな母親といった噂が、全て彼らのついた真っ赤な嘘であったことが世間的に知れ渡った。私の潔白は証明され、近所の人々も手のひらを返したように私に同情的な言葉をかけてくるようになったが、私の心はもう何も感じなかった。その後の取り調べや裁判で、かずとジュリは実に見にくい姿をさらしたという。俺は悪くない。全部あの女、ジュリがそそのかしたんだ。あいつが、ババアが邪魔だって毎日俺に吹き込んだせいだ。嘘よ。私はかずさんに命令されただけ。お前も協力しないならどうなるか分かってるんだろうなって、脅されたのよ。法廷の場で二人は互いに罪をなすり付け合い、罵り合った。かつて愛を誓い合ったはずの二人の間には、もはや憎しみしか残っていなかった。その無様な姿は、彼らの人間性の薄っぺらさを物語っていた。私は一度だけ裁判を傍聴したが、その見にくい争いを見て、彼らへの関心は完全に消えうせた。もう、私の人生に彼らは必要ない。
全てが終わり、私はようやく自分のためだけの人生を歩み始めることにした。自宅を売却して得たまとまった資金と、長年コツコツと貯めてきた貯金を元に、私は一つの夢を叶えることにした。それは自分自身の小さな定食屋を開くことだった。長年のパート経験で培った料理の腕には、ささやかな自信があった。場所はかつて働いていた店の近く。開店準備には山田さんが親身になって協力してくれた。店の名前はおふくろの味、ばあちゃん定食。開店すると、昔のパート先の常連客たちが噂を聞きつけて次々と顔を出してくれた。沢子さん、大変だったね。でも自分の店を持つなんて、すごいじゃないか。ここの唐揚げは絶品だね。昔と変わらない、優しい味がするよ。温かい励ましの言葉と、美味しいと料理を食べてくれる笑顔が、何よりの薬になった。私の店の評判は口コミで広がり、かつての常連客だけでなく、新しいお客様もたくさん来てくれるようになった。カウンター越しにお客様と会話を交わし、時には人生相談に乗ることもある。店はいつも人々の笑顔と笑い声で溢れていた。息子を失った悲しみは、確かにある。しかし今の私には、そんな悲しみを乗り越えさせてくれる、新しい家族のような友人たちがこんなにもたくさんいる。私はようやく、誰のためでもない自分自身の幸せを手に入れたのだ。穏やかな日差しが差し込む店内で、私は心からの笑顔を浮かべていた。



