「コンビニ行ってくるね」と言った瞬間、夫が差し出した封筒が妙に重かった。中を開けて、私は息が止まった。帯封された百万円の札束。どう考えても、清掃員の夫がぽんと出せる金額じゃない。悪い想像が止まらない。私だけが騙されているんじゃないか。妹の若が押し付けた結婚も、夫の仕事も、全部が嘘で、みんなで私を笑い者にしているだけかもしれない。でも、本当に嘘をついていたのは私の方だった。身代わりだと告げない…

「コンビニ行ってくるね」と言った瞬間、夫が差し出した封筒が妙に重かった。中を開けて、私は息が止まった。帯封された百万円の札束。どう考えても、清掃員の夫がぽんと出せる金額じゃない。悪い想像が止まらない。私だけが騙されているんじゃないか。妹の若が押し付けた結婚も、夫の仕事も、全部が嘘で、みんなで私を笑い者にしているだけかもしれない。でも、本当に嘘をついていたのは私の方だった。身代わりだと告げない...

「コンビニ行ってくるね。」
「じゃあこれ持ってって」
たが封筒を差し出した。
「何これ?妙に重いわね」
「買い物のお金だよ。ついでに買ってきてほしいものがあるから」
「お金にしては多くない?」
首をかしげながら封筒を開けた。中身を見た瞬間、息が止まった。帯封がされた100万円の札束が入っていたのだ。どう考えても、ぽんと出せる金額ではない。
悪い想像ばかりが膨らんでいく。私だけが騙されているのかもしれない。妹の若から結婚相手を押し付けられたのも、たが清掃員だというのも、すべては悪質な嘘。全員がグルになって私をからかっているだけだ。
そう考えたけれど、嘘をついていたのは自分だったと思い出す。身代わりになったと告げないまま結婚した。今が潮時なのだろう。彼に真実を告げるべきだと、私は覚悟を決めた。

私は稲川静か、三十歳。夫の武と結婚したのは半年ほど前のことだ。ただ、この結婚は私が望んだものではなかった。元々彼と結婚する予定だったのは妹の若だ。父が持ち帰った、容姿がいい男性とのお見合いに、彼女は飛びついた。
最初は乗り気だったのに、ある日突然心変わりをしてしまう。
「清掃員とか底辺じゃない?無理。お姉ちゃんが結婚して」
父は呆れていたけれど、理由を聞いた私はすぐに納得した。面倒なことは何でも人に押し付ける。都合が悪くなると逃げるのも、いつもと同じ。利己的なのに母に溺愛されている彼女のことが、私は大嫌いだった。

私が母に愛されていたかどうかは関係ない。バカな妹を溺愛する母が、一緒になって私を貶めていたのが問題だった。断るごとに妹と比較される。その上で、いつも若の方が持ち上げられた。苦痛に感じない方がおかしいと思う。実際、幼い頃の私は家にいるのも嫌だった。
休日は近くの公園で過ごした。中学生になってからは図書館に通った。図書館で勉強をすると言えば、両親は簡単に外出を認めてくれたからだ。そうやって家にいる時間を極力減らした。
やがて高校卒業が近づいた時、私は父にあるお願いをした。
「お父さん、お願いがあるんだけど」
「だ、静か。もしかして一人暮らしをしたいのか?」
私と母の折り合いが悪いことは父もよく分かっていた。だから雰囲気ですぐに気づいたようだ。
「あ、うん。高校を卒業したらお父さんの会社で働きたいの」
父は輸入食品を取り扱う会社の社長をしていた。元々は母の実家の会社だったが、婿入りして受け継いだ形だ。私はそこで働きたいと、この時に初めて明かした。
「お父さんも望むところだ。それで社会人になるから一人暮らしということか」
「そう。家にいるとお母さんに色々と言われるから」
「確かにその方が静かのためになるだろうな」
「じゃあ、一人暮らししてもいい?」
「一つだけ条件がある。たまには家族で食事をしたいから、近くに住め。それでもいいか?」
「え、もちろんよ」
こうして私は家を出ることに成功した。
ただ、一人暮らしは長く続かない。当時中学生だった若が私の家に入り浸るようになったからだ。放課後は街中で遊び、私が帰宅する頃に家を訪ねてきた。強引に部屋の中に入り込み、好き放題に過ごす。私が家に帰れと言っても、全く聞かなかった。
これでは母が怒るのも無理はない。当然、怒りの矛先は私にも向けられた。
「あんたが一人暮らしをするからよ。やめなさい」
「何が悪いの?私はもう社会人じゃない」
「社会人?まだ高校を出たばかりの十八歳でしょ。大人ぶるのは早いわよ」
母はこんな風に怒鳴りまくる。私が借りていたのは安いアパートだった。壁も薄いし、大声を出せば近所の人には丸聞こえ。結局、周囲の目が気になり、私は実家に戻ることになった。
「どうして抵抗しないのよ。自由に過ごせる部屋がなくなったじゃない」
「それは私のセリフよ。あなたのせいで一人暮らしができなくなったって分かっているの?なんで人のせいにしてるの?意味わからない」
不条理だわ。私の人生はいつまでも彼女に邪魔をされる。どうやっても逃げられない。本当に泣きたいくらいだった。

仕方がないので、今度は仕事を理由に家に帰るのを遅らせる。母は疑っていたが、父がうまくフォローしてくれた。しかし、これも焼け石に水。大した時間稼ぎにもならなかった。
救いがあるとすれば、私が誰かと結婚することだけれど、これも簡単な話ではない。若が頻繁に職場に顔を出していたからだ。
「お姉ちゃん、ばあ顔で無愛想なんですよ。それにお金持ちじゃないと嫌だって笑えますよね」
職場の男性と談笑する若の声が聞こえる。こんな話が広まれば、職場で交際相手は見つけられない。いい雰囲気の男性ができても、いつも彼女に奪われてしまった。

やがて若は高校から大学へ進学する。当然というか、勉強もせずに自由奔放に遊んでいた。交際相手も次から次へと変わる。月の前半と後半で彼氏が違うのも珍しくなかった。
そんな風に次々と交際相手を見つける若とは対象的に、私は二十代後半になっても一人も交際相手ができないまま、彼女にからかわれるだけの生活だった。

「はあ。私と付き合ってくれる人、どこかにいないかしら」
仕事の合間につい漏れたため息。
「あれ?静かさん、彼氏いないんですか?」
「え?」
顔を上げると、取引先で働く篠崎真花香だった。彼女は大きな書類袋を手にしている。
「大丈夫ですか?悩んでいたようですけど」
「あ、すみません。はい、大丈夫です」
真花とは同い年ということもあって仲が良かった。仕事終わりに食事に行ったこともある。友達が少ない私にとって、個人的に連絡を取り合う数少ない相手だった。
「そのうちにいい人が見つかりますよ」
「そのうちじゃなくて今すぐがいいんだけど」
「ですよね」
互いに顔を見合わせて笑う。

数日後、父がある男性とのお見合いの話を持ってきた。
「静か、ちょっといいか?」
仕事終わりに父に呼び止められる。まだ社内だったため、私は足を止めて丁寧に答えた。
「え?何ですか?社長」
「違う。仕事の話じゃない。親子の話だ。ちょっと来なさい」
「そう、分かったわ」
一気に緊張が緩む。ため息をついてから、父の後に続いて社長室に入った。
「それで、何の話?」
社長室のソファーに座りながら尋ねる。父は私の向かい側に座った。手にしていたアルバムのようなものを私の前に置く。
「実は取引先の社長からお見合いを持ちかけられて」
「お見合い?私が?」
自分を指差すと、父は大きく頷いた。
「あ、でも、私、お見合いとか」
知らない相手と話すのは苦手だ。それが可能なら、もう恋人ができている。
「無理なら断ってもいい。とりあえず会ってみないか」
確かにチャンスだと思う。うまくいけば、若たちから逃げることも可能だ。色々な思いが脳内を駆け巡る。
その時、突然社長室の扉が開いた。
「話は聞いたわよ。お見合いですって」
入ってきたのは若だった。彼女は私の前に置かれたお見合い写真を強引に奪い取る。
「どれどれ」
「わかな、待ちなさい」
「確かに私の娘とお見合いをしたいと言われたが、年齢的には静かの方が」
「うーん。なかなかのイケメンね。いいわよ。結婚を前提に付き合うって言っておいて」
父の話を全く聞いていない若は、お見合い写真を閉じ、テーブルの上に放り投げた。
「わかな。お見合いはお父さんが私に」
「あ、お姉ちゃんがお見合い?絶対に無理よ。地味でコミュ障の女より、若くて可愛い方がいいに決まってるわ」
身も蓋もない言い方をされた。何も反論できずに、唇を噛みしめる。
「バカな。自分の姉にそういう言い方は良くないだろう」
「事実を言っただけじゃない。何が悪いのよ」
悪びれる様子もない。
「とにかくお見合いはいつ?私はいつでもいいわよ」
「だから」
「今週と来週は予定があるから、再来週の日曜日。決定ね」
勝手に決めた若は、予定を書き込んでいた。父は呆れて何も言えないらしい。仕方ないので、私が代わりに口を挟んだ。
「あのね、わかな。お見合いは相手の都合もあるのよ」
「だから、女性に合わせられないような男に価値はないわ」
忠告に耳を貸すつもりはないようだ。ため息をつきながら、父の方に顔を向けた。
「お父さん、いいの?」
「放っておいて。仕方ない。再来週の日曜日で向こうに聞いてみるよ」
若に振り回されるのは父も同じだ。メモを取る彼の横顔は、かなり疲れているようだった。

ともあれ、内心私が嬉しかったのは言うまでもない。確かに自分が結婚するのが最高の結果だ。だが、若が結婚してもいい。結婚すれば、必然的に家を出て行ってくれるからだ。母だけなら何とでもなる。適当に受け流し、あとは実家に引きこもればいいだけだ。
「あとは若のお見合いが成功するのを祈るだけね」
遠足の前日のようにワクワクしてしまう。仕事中も少し浮かれ気味だった。
しかし、私の願いはすぐに打ち砕かれる。
週末、夜遅くに帰宅した若は、父の部屋に駆け込んだ。寝ている父を叩き起こし、大声で怒鳴りつける。
「私を騙したの?お父さん」
「何の話だ?」
「あの男、清掃員だって聞いたわよ。どういうことよ」
ひとしきり騒いだ若は、最後にこう言った。
「相手が底辺の貧乏人だって知っていたら断ったわよ」
プロフィールも読まずにお見合いすると宣言したのは誰だろうか。本当に呆れてしまう。
その後、お見合いは私に押し付けられた。
「悪いな、静か。若が前向きだったから」
「仕方ないわよ。それに取引先の社長の紹介なんでしょ。会わずにこちらから断るのも失礼だわ」
自分を励ますような言い方をしてみる。かなり不安だったからだ。

それにしても、若はどこで相手のことを知ったのだろうか。気になった私は、後日彼女に聞いてみた。
「ねえ、わかな。お見合いのお相手のことだけど」
「あれがどうしたの?」
「どこでお相手のプロフィールを知ったの?」
「ああ。週末の合コンに参加してた医者から聞いたのよ」
不機嫌そうな若は、勝手に事情を話し始めた。
彼女の話はこうだ。週末に参加した合コンで、若は一人の男性と意気投合する。相手は大学病院に勤める医者だった。普段の彼女なら勤務医は相手にしない。けれど、その日は容姿が良かったこともあり、珍しく話をした。やがて話題はお見合いの話になる。もちろん若は自分のことだとは言わず、私の近況として話したそうだ。おそらく、人の手を借りないと恋人も見つけられない姉だと、私を見下して笑いのネタにしたのだろう。
彼女は相手の男性にお見合い写真を撮影したものを見せていた。すると、相手の男性は写真の人物に見覚えがあったようだ。彼は自分が務める病院で掃除をしていたと言い出した。慌てた若は、その場にいた男性の同僚にも確認する。その人も同意したことで、お見合い相手が清掃員と判明したのだった。
「危うく底辺と結婚させられるところだったわ」
「自分からお見合いするって言ったんでしょ?」
「違うわよ。お姉ちゃんにはもったいないくらいのイケメンだったから、私がお見合いするって言っただけ」
どちらでも同じだと思うが、若の認識では違うらしい。
「お金がない貧乏人はお断りよ。生活できないじゃない。でもお姉ちゃんならお似合いかもね」
若が笑う。馬鹿にされていることだけはよく分かった。
「あ、そう。でも私も気に入らなかったら断るから」
「何、贅沢なこと言ってるの?それに向こうには結婚を前提に付き合うって言ってあるのよ」
「それは若が言ったことでしょ」
反論するが、若はそ知らぬ顔で答える。
「誰が言っても同じでしょ。取引先の社長の顔を立てるためにも、文句を言わずに結婚すればいいの」
「でも」
「うるさいわね。お母さんに言いつけるわよ」
若が口を尖らせた。もし母が出てくれば、余計に面倒なことになる。私は口を噤むしかなかった。

父は断っても構わないと言ってくれる。だが、相手に申し訳ない。それに紹介してくれた取引先の社長の顔も潰してしまう。
「とりあえず会えばいいわよね」
相手から断ってくれる可能性もある。迷いはあったが、覚悟を決めた。お見合いをしたのは地元の料亭だ。こんなことでもなければ、絶対に足を踏み入れないような店だった。
案内された部屋に入ると、男性がいた。写真と同じ人だったので、彼がお見合い相手だとすぐに分かった。
詳細なプロフィールも確認済み。名前は稲川武。清掃業をしていて、母親は遠くに住んでいるそうだ。
まずはその母親について聞いてみた。
「すみません。かなり遠いので、今日は僕だけで」
「いえ、うちも父だけですので」
長女である私のお見合いなのに、母は知らん顔をして、若と一緒に買い物へ行ってしまった。気まずさを笑顔でごまかす。彼は全く気にせずに話を続けた。
「でも、優しそうなご家族で羨ましいですよ。うちの父は早くに亡くなったので」
どうやら彼の父親は亡くなっているらしい。そこで私は尋ねた。
「あの、優しそうな家族というのは、まさか」
母と若のことは知らないはずだから、父の話だろう。私はそう思っていたが、意外な答えが返ってきた。
「お母様と妹さんですよ。先日お会いする機会がありまして」
「え、二人に会ったんですか?」
思わず身を乗り出す。武はのけぞりながら頷いた。
「ええ、先日私の会社にお母様と妹さんがいらっしゃいまして。結納金が欲しいと言われたのですが」
「結納金?渡したんですか?」
「ええ。結婚を前提に付き合うという話でしたし、お見合いの衣装を用意するお金が必要だとおっしゃいましたから」
武の視線がこちらに注がれる。お見合いだからと着物をレンタルしていた。彼はそれを見ているようだった。
「く、これはレンタルで、その、えっと」
うまく言葉にならない。助けを求めるように父の方を向いた。
「あ、いや、私も知りませんでしたが、本当に結納金を渡したんですか?」
父の問いかけに、武が頷く。母と若が朝から出かけた謎が溶けた。二人は武を騙したに違いない。
「結納の金は結納の時、顔合わせの時に渡すものですよね」
「普通はそうですね。でも、お金がないと言われたので」
彼を騙したことがはっきりした。怒りが込み上げてくる。
「失礼。ちょっと席を外します」
「静か。あとは頼むぞ」
父の口元がぴくぴくと動いていた。我慢の限界といったところか。おそらく母に連絡するのだろう。
「分かったわ。すぐに戻るから。では」
丁寧に頭を下げた父が部屋を出ていく。私は料亭の庭先に視線を移して話をそらした。
「それにしても綺麗な庭ですね」
「よかったら散策できるように頼んでみましょうか」
気を使われるのが心苦しい。仕方なく、やんわり断った。
「いえ、さすがにお店に迷惑がかかりますので」
「では、場所を移してますか?公園とか」
「そうですね」
適当な相槌を打つ。心の中では早く父に戻ってきてほしいと叫んでいた。
武はそんな私の気持ちに気づいたのか、当たり障りのない話をした。具体的には仕事や趣味のことを聞かれた。ただ、何も頭に入ってこず、適当に返事をするだけだった。
しばらくして父が戻ってくる。彼はがっくりと肩を落としていた。話を聞かずとも結果が分かってしまう。
「お父さん、そろそろ食事を」
気を使って切り出した。
「あ、ああ、そうですね」
「じゃあ、ちょっと中居さんに声をかけてきますね」
武が席を立つ。おそらくこれも彼なりの気遣いだったのだろう。私と父が話す時間を作ってくれたようだった。
彼が部屋を出たのを確認して、父に話しかける。
「お母さんたちに連絡がつかなかったんでしょ」
「ああ、完全に無視されたらしい」
拳を握りしめる父は、かなり頭に来ているようだ。
「本当に最低よね。結納金を持ち逃げするとか。しかも彼を騙して」
「全くだ」
「だが、一つ困ったことになったな。このままだとお前は結婚するしかない」
「あ、そっか」
指摘されて、私は初めて気づいた。
ただ、方法は他にもある。母と若が結納金を返せばいい。その上でお付き合いを断れば、なんとかなるはずだ。
私と父は示し合わせて、早々にお見合いを切り上げた。

急いでタクシーで帰宅すると、すでに母と若は家にいた。部屋中に荷物を広げている。今日の戦利品を眺めているといったところか。
そんな二人を見た父は、大声で怒鳴った。
「どういうことだ?」
「これは何よ」
「とぼけるな。これを買った金はどうした?答えなさい」
父が母を睨みつける。しかし母は無言のまま、顔を背けて答えようとしなかった。
「答えられないのか?」
「あなたに答える必要はないわ。これは私たちのお金で買ったんだから」
平然と嘘をつく。堪忍袋の緒が切れた父が、再び声を荒らげた。
「嘘をつくな。お前たち、お見合い相手の稲川さんに会ったそうだな」
「会ったけど、それが何?」
若がふんと鼻を鳴らす。
「結納金を要求したと聞いたが、本当か?」
「何よ、あの男。最悪」
小さな声で悪態をつく若。彼の話は事実だったようだ。
「お前は結納の金が何か分かっているのか?」
「女が結婚する時に家族がもらえるお金でしょ?」
「家族が使う金じゃない。結婚の準備のために使う金だろう」
説明するように言った父だが、若には全く響かなかった様子。彼女は平然と笑っていた。
「準備とか無駄でしょ。だってお姉ちゃんだよ。何をしても変わらないって」
「そうそう。無駄になるだけよ。無意味なことをするくらいなら、若のために使った方が有益よね」
実の母とは思えない言葉だけれど、もう慣れたもの。これまでも同じことを何度も言われていた。今更怒るのもバカバカしい。
「返すつもりもないということか」
「どうして?」
けろっとしている母は、本当に父の言葉の意味が分からないようだ。
「当たり前だろ。静かはまだ結婚するとも言っていないんだぞ」
「何、贅沢なことを言ってるのよ。どうせ次なんかないって。もうあれでいいじゃない」
若の言葉にカチンと来た。彼女が武のことを底辺だと言ったからだ。
彼は本当にいい人だと感じた。自分が騙されたとは夢にも思っていないだろう。そんな人を物のように表現したのが我慢ならなかった。思わず顔をしかめる。私が不愉快そうにしていることに気づいた母は、ニヤニヤしながら言った。
「わかなの言う通り。静かが結婚すれば解決よね」
「お母さんまで。別にいいじゃない。結婚しなさいよ。どうせ彼氏もいないんでしょ」
馬鹿にした言い方に腹が立つ。さらに若が追い打ちをかけてきた。
「当たり前じゃん。彼氏がいたこととか、一度もないでしょう」
「そうなの?」
「ええ、こんな地味な女がモテるわけないでしょ。あはは」
若が抱えて笑う。私は何も言い返せずに俯いていた。実際、恋人がいたことはない。仲のいい異性はいたけれど、交際に発展したのは一度もなかった。
「仕方ないわね。じゃあ、お母さんが背中を押してあげるわ」
「え?どういう?」
「あんたを首にするわ。会社を辞めれば、結婚するしかないでしょ」
母の言葉に目を丸くする。とっさに父の方を見た。
「何を言ってるんだ。お前は会社とは関係ないだろう」
「あら、あなたは婿でしょ。偉そうに口を出せる立場かしら」
得意げな母に、父はすぐに反論した。
「社長は私だ。社外の人間が口を出すことじゃない」
「社外の人間?会社の株を受け継いだのは私じゃない。文句があるなら、あなたを解任するわよ」
確かに会社の株式は母が持っている。社長を解任する権利もあるはずだ。当然、社員の私を解雇することも簡単だと思う。
「でも法的には、理由がないと解雇は無理よ」
「理由?あんたが逆らうから。それで十分でしょ」
この程度の理由で解雇できるとは思わない。もし訴えれば、勝つ見込みは十分にある。けれど、世間がどう見るかが問題だ。お家騒動と思われたら話はそれまで。会社は信頼を損ない、経営が傾く可能性もある。
「私が訴えないと思っているのね」
「さあ、どうかしらね」
とぼける母。もう私に選択肢はなかった。表向きは自ら退職願を出したことにされてしまう。
会社を追い出された私は、武と結婚する道を選んだ。

「会社を辞めたって聞いたけど、何かあったの?」
「うん。別に。両親から、結婚するなら早めに準備した方がいいって言われただけ」
心配をかけたくなかったから嘘をつく。なぜか彼は納得してくれた。
「じゃあ、俺と結婚してくれるの?」
「そのつもりよ」
「そっか。じゃあこれからよろしく」
申し訳ない気持ちでいっぱいになる。若の代わりに無理やり結婚させられることになったと言いたかった。だが、そんなことをしても武を傷つけるだけ。私が黙っていれば、何もかも丸く収まる。一生秘密にしておこうと心に誓った。
本音を隠したまま、武とのデートを重ねる。彼のエスコートで映画や食事に行った。初めての経験に戸惑ったこともあるけれど、その度に彼が優しく教えてくれた。頼りがいがあると思い、次第に彼を信頼していく。話も合うし、一緒にいると楽しいと感じることも多かった。
最初は無理だと思ったが、これなら結婚してもいいかもしれない。交際から半年が経つ頃にようやくそう思えた。

そんなある日曜日のことだ。武に呼び出された私は、駅前で待っていた。しばらくすると彼が車でやってくる。連れて行かれたのは、地元で有名な貴金属店だった。
「ここは、結婚指輪を買おうと思って」
「いいの?」
思わず目を輝かせてしまう。武は不思議そうに返してきた。
「いいも何も、結婚するんだからこれくらいは当然だろ」
「あ、うん。そうね」
言われてみれば確かにそうだ。結婚するのに指輪もなしでは話にならない。緊張しつつ、武と店に入る。すぐに若い女性店員が話しかけてきた。武が真剣に話をしている間、私は彼の隣で聞いているだけ。男性からプレゼントされると考えると、完全に舞い上がっていた。
やがて店員が離れていく。武は私の方を振り返った。
「静かさん、大丈夫?」
「え?」
表情が強張ってしまう。武は気にせずに話を続けてくれた。
「おすすめの指輪を買おうと思うけど、どう思う?」
「おすすめ?どんなの?」
「これ。この中で一番高いやつだよ」
ショーケースの中の指輪を笑顔で指差すと、百万を超える値札がついていた。
「ちょっと高くない?」
「でも、これがおすすめだって言われたし」
「もったいないわよ。もっと安いのでいいわ」
気が引けるというのが理由の一つだ。もう一つは、純粋に高すぎると感じた。少しは前向きになったが、無理やり結婚させられるという気持ちはまだある。そんな私に高価な結婚指輪を受け取る資格があるとは思えなかった。
「そうね。これにしない?」
私はかなり安い結婚指輪を示した。シンプルで、私の好みでもある。
「これは俺の分と合わせて十五万だよ。安すぎない?」
「これぐらいが。うん。これがいいの。シンプルで好きだわ」
好きだという点を強調した。少し考えていた武だったが、すぐに納得する。
「分かったよ。静かさんの好みなら、これにしよう」
最終的に、私が選んだペアで十五万円の結婚指輪を購入した。

ただ、話はここで終わりではない。店を出ようとした時、ふと聞き覚えのある声が響いてくる。
「あらあ、お姉ちゃんだ」
「え、わかな?」
慌てて周囲を見回すと、店の前でニヤニヤする若と目が合う。彼女はゆっくりと近づいてきて、猫なで声で話し始めた。
「こんなところで何をしているの?お姉ちゃん」
「わかな。あなたこそ何をしているの?」
「私はお買い物。もしかしてデートだった?」
若が、武を横目で確認する。分かっているなら聞くなと思いつつ、私は答えた。
「そうよ。だから邪魔しないでくれる?」
「邪魔なんかしないわよ。未来のお兄さんに挨拶したいだけ」
わざとらしい笑顔を武に向ける若。彼は平然と応じていた。
「久しぶりだね、わかなさん」
「こんにちは、お兄さん。何を買ったんですか?」
若は私が持つ紙袋をチラチラ見ている。私は反射的に背後に隠した。
「隠さなくてもいいじゃん」
「別に、見せるようなものじゃないから」
「そう?本当は結婚指輪だったんじゃない?」
鋭い指摘に鼓動が跳ねる。若はそんな私のわずかな変化も見逃さずに話を続けた。
「いいなあ、お姉ちゃんばっかり」
「羨ましいなら、彼氏に買ってもらえばいいでしょ」
「何よ、私が別れたばっかりだって知ってるくせに」
若が口を尖らせる。申し訳ないが初耳だった。つい二週間ほど前に彼氏ができたという話は、飽きるくらい聞いていたけれど。
「お兄さん、私にもなんか買ってちょうだい」
若は可愛い声で上手に武に甘える。無視してもいいわよ。でも武はかなり迷っていた。やがて心が折れたのか、彼は若にこう告げた。
「静かさんはこっちの予算よりも安い指輪を選んだから、若さんにも何かプレゼントしようか」
「いいんですか?」
「ああ、もちろん」
引きつった顔で頷く武。彼がためらっているようなので、私が代わりに言ってあげた。
「普通は遠慮するところよ。分かっているの?若」
「え?どうして?好意は素直に受け取るものでしょ」
首をかしげた若が、武に同意を求める。彼は軽く頷いていた。
「ほら、彼も同意してくれたわ」
「仕方なくでしょ」
「何よ。私に嫉妬しているの?見苦しいわよ」
鼻で笑われ、もうため息しか出なかった。
「じゃあ、お兄さんに選んでもらおうかな」
楽しそうに言った若は、貴金属店に入っていく。私と武はしぶしぶ彼女の後に続いた。
店内で彼が選んだのは、星型のピアスだ。高価な商品ではないが、かなり高級感がある。私はとてもいいものだと思った。
「ありがとうございます」
言葉とは裏腹に、若の表情は暗い。あまり気に入らなかったと思われる。事実、武と別れた途端、彼女は文句を言い始めた。
「何よ、このピアス。最悪。安いし、貧乏臭いし」
「買ってもらったのに文句を言わないの。男からプレゼントをもらうのは初めてだったんでしょ?そんなお姉ちゃんには分からないわよ。これが最悪って」
これみよがしにため息をつく若。反射的にむっとした。
「じゃあ私がもらうわ。出しなさい」
「は?どうしたの?急に」
「最悪なんでしょ。なら私にちょうだい。ね?」
半ば強引に若が持つ貴金属店の紙袋を奪い取る。彼女はすぐに手放した。
「何よ、そんなもの。勝手に持っていけばいいわ」
そう言って、若は帰って行った。
これは武が懸命に選んだものだ。彼の気持ちが分からないなら、私がもらった方がいいに決まっている。
そう思ったところで、はっとした。つい先ほどまで、自分は若の身代わりで結婚させられると感じていた。しかし、今は無理やり結婚させられる相手のことで怒っている。武が懸命にプレゼントを選ぶ姿を、いいなと思っていた。
あ、そっか。私、自分で思った以上に彼のことが好きなんだ。

しばらくして、武と婚姻届を提出。私たちは晴れて夫婦となった。ただ、結婚式はしていない。理由は一つ、金銭的な問題だ。
若のおかげで結婚に前向きになった私は、武の部屋にも行った。彼が住んでいたのは小さなアパートの二階の部屋。台所と風呂とトイレがあるという感じの場所だ。家賃がかなり安いのはすぐに分かる。実際、私が一人暮らしをしていた部屋よりも粗末だった。給料が安いからだろう。容易に想像できた。
私は節約しようと考えた。結婚指輪にお金を使ったから、他に節約できるのは一つしかない。
「結婚式はやめて、写真を撮るだけにしない?」
武にそう提案した。彼は不思議がっていたが、私が言うならと承諾してくれる。
撮影した写真は義母に送った。するとすぐに彼女から電話がかかってくる。
「いい写真ね。でも結婚式はした方がいいわよ」
「いえ、大丈夫です。節約したいので」
「そう。あなたが決めたのなら、私は口出ししないわ」
「これが武の一存だったら文句を言うけどね」
そんな話を電話でして、義母と笑い合ったのはいい思い出だ。彼女の人柄の良さにほっとした。

やがて彼と暮らし始めて一週間ほどが経過する。狭いアパートの生活にも慣れた頃、若が訪ねてきた。
「お姉ちゃん、久しぶり。新婚生活、楽しんでる?」
言葉とは裏腹に、私を馬鹿にしているのが見え見えだ。すぐに帰らせようと思ったけれど、武が中に入れてしまう。しぶしぶお茶を用意すると、部屋の中を見回した若がこう言った。
「ボロアパートね。壊れるんじゃない?」
「大丈夫よ。いずれ引っ越す予定だから」
「またまた。そんなお金あるの?貧乏な清掃員の妻に」
ニヤニヤする若。横目で武を見る。
「気にしないでいいから」
両手を振って慌ててごまかしたけれど、彼には聞こえていなかったらしい。
「ごめん。携帯見てた。何の話?」
「うん。なんでもない。大丈夫」
ほっとした私は、若を睨みつける。
「余計なことを言うなら、追い出すわよ」
「はいはい。ごめんなさい」
全く悪びれる様子はない。何をしに来たのだろうかと顔をしかめたところで、若は要件を切り出してきた。
「実はね、結婚式に招待されたんだけど、スピーチも任されたの」
「あ、そう。頑張りなさい」
すると若が眉間にしわを寄せる。
「違うわよ。お姉ちゃんに原稿を作ってもらいたいの」
「どうして?私が。ネットで調べれば、例文くらいは見つかるでしょ」
「はあ。そんな面倒なことはごめんだよ。だから頼んでいるんじゃない」
頬を膨らませる若。子供のような仕草に呆れてしまった。
「でも、あなたが頼まれたんでしょ。だったら」
「お説教なんてしてる時間あるの?」
「どういうことよ」
聞き返すと、若は口元を緩めて小さな声で続けた。
「今度はこの部屋に押しかけてもいいのよ」
以前の出来事が脳裏をよぎる。彼女のせいで私の一人暮らしは終わったけれど、実家に戻ればよかったあの時とは状況がまるで違う。
「分かった?自分の立場が」
「最低ね、あなた」
「うるさいわね。私の言う通りにすればいいのよ。あんたは私に使われる立場なの。分かるでしょ?」
経験上、よく分かっている。友達も多く、母が味方をする若には勝てない。
「もう帰ってくれる?」
小さな反撃をする。一瞬だけむっとした若は、テーブルの上の紙に何かを書いた。
「それ、相手の名前だから。来週までにお願いね」
言うが早いか、彼女は立ち上がる。武の方に向き直り、丁寧に頭を下げた。
「すみません、お兄さん。お姉ちゃんの機嫌が悪いので、今日はここで失礼しますね」
「あ、そうなの?」
武が私に聞いてくる。何も答えずに視線をそらした。
「そうみたいだ」
「じゃあ送ろうか」
「いえ、大丈夫です」
貧乏人と一緒にいるところを見られたくない。言葉にしなかったが、若の目が物語っていた。
「じゃあ、失礼します」
若が出ていく。扉が閉まったところで、深いため息をついた。
「何なのよ。全く」
「どうしたの?静か。彼女に何か言われた?」
「そんなところ」
適当な返事をする。どうにも怒りが収まらない私に気づいた武が言った。
「甘いものでも食べたら落ち着くよ」
「そうね。そうする」
口を尖らせたまま冷蔵庫に向かう。中を確認するが、スイーツの買い置きはなかった。
「仕方ない。コンビニ行ってくるね」
「じゃあ、これ持ってって」
武が封筒を渡してくる。
「何これ?妙に重いわね」
「買い物のお金だよ。ついでに買ってきてほしいものがあるから」
「お金にしては多くない?」
首をかしげながら、私は封筒を開けた。中身を見た瞬間、ぎょっとする。そこには帯封がされた百万円の札束が入っていた。
どう考えても、ぽんと出せる金額ではない。悪い想像ばかりが膨らんでいった。私だけが騙されているのかもしれない。妹の若から結婚相手を押し付けられたのも、武が清掃員というのも、すべては悪い嘘。全員がグルになって私をからかっているだけだ。
そんな考えが脳内を駆け巡ったけれど、嘘をついていたのは自分だと思い出してしまう。身代わりになったと武に言わないまま結婚した。今が潮時なのだろう。彼に真実を告げるべきだと、私は覚悟を決めた。

ゆっくりと武の方を見る。彼は不思議そうな顔で私を見ていた。
「どうしたの?」
「コンビニに行くんだよね?」
「うん」
「でも、その前に話したいことがあるの」
涙が溢れそうになったが、歯を食いしばる。大きく息を吸って、思い切って言葉にした。
「あのね。本当は私、武と結婚するつもりはなかったの。お見合いの返事をしたのも若で。それで」
冷たい涙が口に入った。不意に言葉に詰まってしまう。
「それで」
武は待っていてくれた。静かにその場に座り、もう一度深呼吸をする。落ち着いてから続きを話した。
元々若がお見合いをする予定だったと再び告げる。けれど、武が清掃員だと知った彼女は心変わりをした。影で彼を馬鹿にしていたことも話す。貧乏人とか底辺とか、そんな風に罵っていた件も正直に伝えた。
そこまで話した後、私は自分のタンスに向かう。引き出しの奥に隠していた、若のために選んだピアスを出した。大切に抱えるようにしてそれを持ち、彼に見せる。
「それ、俺が若さんに買ってあげた」
「私がもらったわ。あの子、最低なプレゼントだって言うから。本当に腹が立って。ごめんなさい」
素直に頭を下げた。その時、私ははっきりと分かったの。あなたに惹かれてるって。だから、この結婚は身代わりじゃなくて。
その後は言葉にならない。しかし、彼には伝わっていたようだ。そっと彼に抱きしめられる。
「いいよ。別に気にしないで。始まりがどんな形だったとしても、静かは俺と結婚してくれたんだから」
「でも」
「大丈夫。そんなことを言ったら、俺も嘘をついていたわけだからね」
武が少し離れた。彼は静かに頭を下げる。
「ごめん。俺も本当のことを話すよ」
彼は私に黙っていたことを話し始めた。何もかも初めて聞く内容ばかりだ。驚いたけれど、心は満たされた。最初に会った時から、武の言葉には嘘が一つもなかったからだ。もし先に聞いていたとしても、結果は同じだっただろう。
「大事なのに黙っていてごめん。幻滅したよね」
話し終えた武が、肩を落とす。
「うん。そんなことない。でも俺は黙っていたことばかりだし」
「私は嘘をついていた。事実を話さなかっただけの武とは、罪の重さが違う」
「私の方こそ申し訳なかったわ。もっと早く話せばよかった」
「俺だって」
彼が言いかけたところで、互いに笑みがこぼれた。
「じゃあ、今から本当の夫婦ってことで」
「武がいいなら」
「喜んでお願いします」
頭を下げると、彼は笑いながら応じてくれた。
「こちらこそ。それと一つだけ勘違いしないでほしいことがある。俺は最初から静かと結婚したかったんだからね」
少し照れてしまうけれど、そんな空気が本当に心地よかった。

しばらくしてようやく落ち着きを取り戻す。互いに顔を見合わせた後、私の方から武に尋ねた。
「じゃあ、コンビニに行くけど、何を買ってくるの?」
「ご祝儀袋だよ。友人の結婚式に持っていくやつ」
「だったら、こんなにいらないわ。すごく豪華なものでも千円くらいよ」
結婚指輪の時もそうだったが、彼は世間知らずのようだ。封筒の中身を出し、一万円札を一枚だけ抜き取る。
「これで十分。他にも色々と買えるけど、どうする?」
「いや、いいよ。やっぱり一緒に行くから」
武が立ち上がる。実は私もそうしたかった。
「じゃあ、行きましょう」
玄関を出たところで、私の方から彼の手を握る。ドキドキするけれど、新婚らしくていい気がした。
コンビニで買ったのはご祝儀袋と二人分のスイーツ。他にも飲み物などを買ってから帰宅した。結婚前のデートを思い出し、少し嬉しかったのは秘密にしている。

それはさておき、帰宅後にご祝儀袋を準備する際、結婚式に私も参列する予定だと聞かされて驚いた。何でも夫婦で招待されていたらしい。私の予定も聞かずに返事をするなんて、少し間が抜けている気もした。
「静かは絶対に行くと答えると思ったから」
そんな言い訳をした武。不思議に思っていたが、結婚式の当日、新郎新婦の名前を見て納得した。
新婦の名前は篠崎真花香。私が父の会社に務めていた時、仲が良かった取引先の社員だ。その後も連絡は取り合っていたけれど、結婚の話を聞かされていない。さすがにむっとしたので、披露宴が始まる前に問い質した。
「真花さん、ご結婚おめでとうございます」
「ありがとう、静かさん」
「ところで、真花さんの結婚の話ですけど。私、最近まで知らなかったんですよね」
わずかに顔をしかめる。真花は少し考えてから答えた。
「招待状は随分前に実家に送ったはずですけど」
「え、知りませんよ」
「出席って返事をもらいましたが。誰が来るのかしら」
疑問を口にする前に、頭に浮かんだ可能性。
「もしかすると、妹が来るかも」
「それなら、それで構わないわ。あなたの実家とは関係が深い人と結婚するのだから」
結婚相手は彼女が務めていた会社の社長の息子だそうだ。つまり、父の会社の取引先の一つ。父の会社では今、私の代わりに若が働いている。ある意味では仕事の関係者だ。
「ご迷惑をお掛けしたら、その時は追い出してください」
「そうするわ」
二人で笑い合う。少しお茶を濁せればいい。これくらいの気持ちだったが、これが現実になるとは夢にも思わなかった。

やがて披露宴の時間が迫り、私たちは会場へ移動する。新婦側の招待席には、父と母の姿があった。会社の関係者として呼ばれたのだろうか。父はともかく、母に見つかると面倒なことになる。私は隠れながら新郎側の席へ移動した。用意されていたのは新郎側の関係者席だ。武が新郎の友人として招待されていて、私はその妻という位置付け。
会場も広いし、母に見つかることもないだろうと安堵した。ほどなく披露宴が幕を開ける。新郎新婦が入場し、二人の紹介が始まった。私は手元にあったプロフィールを確認する。そこで思わず息を飲んだ。
「嘘。どうしよう」
とっさに声が出てしまう。気づいた武が私に聞いてきた。
「どうしたの?」
「これ、新郎の名前?」
「ああ、斉川だよ。斉川って言わなかったっけ?」
眉をひそめる武。私は大慌てで否定した。
「聞いてないわよ。これが本当だったら、まずいことになるわ」
「まずいこと?何が」
声を潜めて話す私の話を聞いた武は、目を見張った。
「それ、本当?」
「ええ。このままだと絶対に騒ぎになるわ。会場が広いから分からないけど、多分あの子が来ているはずよ」
二人で会場を見回す。私たちが探しているのは若だ。実は、新郎のプロフィールを見ていて、私はとんでもない勘違いをしていたことに気づいた。早く勘違いを正さなければ、若が披露宴をぶち壊してしまう。焦るが、どうしても若が見つからない。
やがて主賓の挨拶も終わり、ゲストのスピーチが始まる。最初に名前を呼ばれたのは私だった。
「え?私?聞いてないけど」
戸惑う中、なぜか若がマイクの前に立つ。
「まずい。どうする?」
「もう無理。ごめんなさい。真花さん」
小声で呟く。そんな私たちの仕草に気づいたのか、真花は笑顔で手を振っていた。気にしていないというアピールだったのだろう。
しかし、問題はそんなことではなかった。スピーチは終盤に差しかかり、最後に若はこう告げる。
「本日はおめでとうございます。小野さん」
その瞬間、会場は水を打ったように静まり返った。ざわつく中、真花が新郎の匠に尋ねる。
「ねえ、匠。どこの女の名前?」
「え?あ、えっと、俺は知らないぞ」
匠は懸命に否定する。ようやく事態に気づいたのか、慌て始めた。
「あ、あれ?えっと、名前何でしたっけ?」
司会者に尋ねるという大失態。会場からは失笑が漏れていた。
結局、若のスピーチ以降、披露宴は冷めていくだけ。新郎新婦も険悪なムードのまま、お開きとなった。

披露宴の後、謝罪のために新婦控室へ向かう。軽くノックすると、中から男性の声が聞こえてきた。
「この度は誠に申し訳ございませんでした」
扉を開けた途端、目に入ったのは頭を下げる父の姿。反射的に声をかけていた。
「お父さん、何しているの?」
「あ、静か。どうして、お前がここに」
「招待されたから」
言いながら部屋の中を見る。父の隣には、状況を飲み込めていない母と、不機嫌そうな若がいた。向かい側には不機嫌な真花と匠がいる。
「あ、静かさん」
こちらに気づいた真花が近づいてくる。私はすぐに頭を下げた。
「ごめんなさい、真花さん。私のせいで」
「どういうこと?」
首をかしげる真花。端的に事実を告げた。
「実は、若のスピーチ。あの原稿を書いたのは私なの」
「え、静かさんが?」
彼女が驚くのも無理はない。実際、私も披露宴が始まるまで気づくことができなかったのだから。

話は少し遡る。コンビニへご祝儀袋を買いに行った日のことだ。あの日、私は若から結婚式のスピーチ原稿を作るように命じられた。面倒だったが、家に押しかけると脅されて引き受けてしまう。その時に彼女から渡されたメモには「りえ」と書かれていた。漢字ではなく、全てカタカナだ。しかも若の字は汚い。知らない人の名前だったら、読めなかった可能性もある。
ただ、私は「リエ」という名前に心当たりがあった。リエは若の高校時代からの親友の名前だ。苗字は知らない。若はいつも「リエ」と呼んでいた。成人してからも頻繁に出かけていたし、今でも仲がいいと思う。私も何度か会ったことがあり、すぐに彼女だと気づいた。
しかし、それは私の勘違いだったのだ。実は「リエ」ではなく、若は「さゆり」と書いていた。勘のいい人はすぐに分かるだろう。私がカタカナだと思っていたのは、全て漢字だったというわけだ。「ゆ」という字がカタカナの「ユ」の二つに見えた。あとは見間違えやすい「さ」と「ゆ」の二つの字。私の中で自動的に、よく知る人物の名前に変換されてしまったのだった。
「なるほど。武が浮気をしていたわけじゃなかったのね」
「当たり前だろ。なんで俺が浮気をするんだよ。冗談じゃない」
武が顔をしかめる。私は深々と頭を下げた。
「本当に申し訳ありません。私の勘違いで」
「もういいわよ。別にあなたが悪いわけじゃないわ。悪いのは、あなたの妹ということよね」
真花が若を睨みつける。びくっとした若は身を縮めた。
「う、私は悪くないわ。お姉ちゃんが結婚式をぶち壊そうとしたのよ」
「どうしてかしら」
「あ、ほら、自分が結婚式を挙げられない僻みよ」
口を尖らせる若。そんなはずがない。散々迷惑をかけられた彼女ならともかく、真花には何の恨みもない。むしろ随分と良くしてもらった。相談にも乗ってもらったし、今でも仲良くしている。そんな彼女の結婚式を壊すためという、若の理屈は荒唐無稽だった。
真花も同じことを思ったらしい。私に視線を向けてから、明快に言い放った。
「彼女がそんなことをする意味はないわ。あなたの汚い字を読み間違えたというのも、理解できるもの」
「じゃあ、えっと」
懸命に言い訳を考えている様子の若。仕方がないので、私が割って入った。
「素直に謝りなさい、若。あなたは真花さんの一度きりの結婚式をぶち壊しちゃったのよ」
「は?どうして?私は悪くないでしょ。お姉ちゃんが書いた原稿を読んだだけだもの」
若はあくまで自分は悪くないと主張する。実際、責任の半分は私にあるだろう。だが、名前を確認しなかったのは若の落ち度だ。それにスピーチの内容にも、所々に妙な点があった。「リエ」のことを考えながら書いたのだから、当然と言えば当然だ。
「要するに、謝罪するつもりはないのですね」
「だって、私は悪くないもん」
顔を背ける若。まるで子供だ。呆れた真花が最後通牒を突きつける。
「謝らないなら、後悔することになりますよ。いいのかしら?」
「何度も言わせないで。私は悪くないわ」
「分かりました。それじゃあ、後で損害賠償を請求します。この次は裁判所で会いましょう」
真花がきっぱりと言い放つ。その瞬間、若の顔色が変わった。
「損害賠償?どういうことよ」
「そのままです。スピーチの場で無関係の女性の名前を出しました。それで私たちは不安になり、式を台無しにされてしまった。だからです」
「す、それは間違っただけでしょ」
若が詰め寄る。しかし、真花は冷静に返した。
「原稿があったのだから、事前に確認すれば間違えなかったはずだわ。怠ったのはミス。わざとだと思われてもおかしくないわよ」
「全くだ。俺は何の落ち度もないのに疑われたんだぞ。第三者にも浮気者だと勘違いされた可能性まである」
匠も真花を援護する。二人から攻められた若は、青い顔で泣きそうになっていた。
そんな彼女を庇う人物が現れる。
「ちょっと待ってください。あなたたちは誤解しています」
私の母だ。ヘラヘラと笑いながら話を続ける。
「この子にも言いましたが、原稿を書いたのは静かです。きっと静かに嵌められたんだわ」
「根拠はあるんですか?」
「ええ、あります。静かはずっと若を目の敵にしていましたからね」
堂々と嘘を言った。毒気に取られてしまう。
「おい、麗子。何を言い出すんだ?」
麗子というのは母の名前だ。不愉快そうに顔をしかめた父が、母に詰め寄る。
「いつ静かが若を目の敵にした。お前はいつも若ばかりを可愛がり、静かを粗末に扱っていたじゃないか」
「あら、そんなことはありませんよ。私は平等に可愛がっていました」
「何だって?」
なぜか両親の喧嘩に発展する。互いに掴みかかりそうになったところで、真花が割り込んだ。
「喧嘩はやめてください。とにかく、私たちは若さんに損害賠償請求を行います」
「なんでよ。私は何も悪くないわ」
「まだ言いますか?じゃあ、こちらも聞きますけど。どうしてあなたが原稿を書かなかったんですか?」
真花が厳しい視線を若に向ける。
「だって、私は苦手だし。お姉ちゃんが得意だから」
「では、もう一つ。あなたが名前を偽っていた理由は?どうして静かさんの名前で披露宴に来たんですか?」
「うあ、それは」
言葉に詰まる若。彼女が答えなくても、私には理由が分かった。おそらく結婚相手を探しに来たのだろう。結婚式では、新郎新婦の友人が大半だ。それぞれのスペックも似た人物が集まりやすい。同じ大学出身など、学歴が近い友人が多くなるのだから当然だ。今日の主役である斉川は、父の会社と取引がある会社の社長の息子。次期社長として、同じような経営者の後継者とも繋がりがある。若はそこに目をつけた。披露宴に来ている人に手当たり次第に声をかけていれば、社長の息子の一人くらいは見つかるだろう。この男と結婚し、いずれは社長夫人の座を手に入れる。若はそんな風に考えたのだった。
「男探しでしょ。最初からそうだったんでしょ」
小さな仕返しのつもりだったけれど、思いの外、若に効いたらしい。
「何?自分が貧乏人と結婚したから、勝ったと思ってるの?底辺と結婚とか、私はごめんだわ。土下座されても断るわ」
「そういう性格の悪さが、あなたが結婚できない理由じゃない?すぐ彼氏にも振られるみたいだし」
次々と彼氏が変わるのは、若がモテるからだと思っていた。しかし、よく考えれば彼女が振られている可能性もある。
「自分がモテないからって、僻んでるの?」
「別に。私はもう結婚しているから関係ないわ」
「私に押し付けられて、無理やり結婚させられたくせに」
得意げに語る若。暴露することで私たちの仲が壊れると勘違いしたのだろう。でも、武にはもう言ったわよ。
「だからノーダメージ。やっぱり性格が悪いのね、あなた」
憎まれ口を言う。途端にカッとなった若は、私に掴みかかってきた。
「婚活の何が悪いのよ。別にあんたに迷惑をかけていないわ」
「私じゃなくて、真花さんに迷惑をかけたでしょ」
声を荒らげる。普段の私とは違う反応に、若の足がすくんだ。
「はい。話を戻しましょう」
両手を叩く真花。私と若を引き離し、自分が間に入った。若のことを睨みつけ、話を続ける。
「あなたが静かさんの名前で披露宴に来た理由は何かしら?」
「えっと、あ、そう。あなたのお祝いをしたかったの。会社で顔を合わせていたし、どうしてもお祝いしたくて」
愛想笑いをする若。こういう時の彼女は、必ずと言っていいほど嘘をついている。私はすぐに分かったが、真花は気づかないかもしれない。
「それ、嘘ですよね」
しかし、真花はあっさりと見破る。若はうろたえながら聞き返した。
「そんなことないわよ。純粋にお祝いをしたかったのに」
「では、どうして名前を間違えるの?私のお祝いをするなら、間違えないと思いますけど」
確かに鋭い指摘だ。若はかなり困っている。額に汗が浮かび始めていた。
「だから、全てはお姉ちゃんの策略よ。私の字が汚くて読み間違えたというのも、嘘に決まっているわ」
断言する若。しかし、真花は軽く首を横に振った。
「違いますよ。私が言っているのは、そういうことではありません」
「は?じゃあ、何よ?」
「私のお祝いをしたかったなら、スピーチの名前は私にしますよね。どうして匠の名前にしたのかしら。ねえ」
真花の視線が鋭くなる。私が若の立場なら、ここで観念しているだろう。
「えっと、それは、匠の関係者の気を引こうとしたかしら。違うかしら」
真花が語尾を強める。若は完全に沈黙していた。一つため息をついた真花が話を続ける。
「もし違うなら、合理的な説明をしてくれると助かるわ」
「ないなら、こちらも損害賠償請求の手続きを始めたい。どうだ?」
匠から答えを迫られる。若はがっくりと項垂れていた。
「答えはないようですね。では、あなたには損害賠償を請求します」
言い放った真花は、若に背を向けた。途端に、母が割り込んだ。
「待ってください。若は悪くないのよ」
「何だ。話はもう終わっただろう」
「違うわ。あなたたちは騙されてるの。全ての元凶はこの女よ」
母が私を指差す。
「この女は、自分がお見合いで結婚した相手が貧乏だったからって、若を妬んでいたのよ」
「貧乏?誰が?」
「この女の夫。そこの男よ」
今度は顎で武を示す。さすがにむっとした。自分のことならまだ許せる。だが、武を貶めるのは我慢できない。私と結婚して親戚関係になったとはいえ、母からすれば彼はまだ関係が希薄な相手だ。冗談でも、貶めていいような人ではない。
私は眉をひそめて、母に言い返した。
「取り消してくれる?今の言葉を」
「何のこと?」
「武が貧乏だって言ったことよ。確かに給料は多くないけれど、それは今だけの話だ。私が武から聞いたことが事実なら、彼は母が貧乏だと簡単に罵れる相手ではなくなる」
「真面目になってバカみたい。底辺の貧乏人に、どうして気を使わないといけないのかしら」
「何ですって」
「何度でも言うわよ。私は事実を言っただけ。悔しかったら、稼いでみなさいよ」
母が大声を張り上げた。次の瞬間、私の言葉を遮るようにして、扉がノックされる。
「失礼するわね」
「あまりにも無礼な人がいるから、我慢できなくなったわ」
扉の隙間から顔を覗かせたのは、きちんと着物を着た、母と同年代の女性だ。
「ああ、これは社長。お久しぶりです」
誰よりも早く匠が頭を下げる。「社長」と言うくらいだから、偉い人なのだろう。
「失礼しても構わないかしら。久しぶりに彼女に文句を言ってやりたくなったから」
着物の女性が母を指差す。
「え、久しぶり?」
「ええ、忘れたとは言わせないわよ、麗子」
呼び捨てにされた母の顔色が変わった。
「あんた……花」
母はガクガクと震え、一歩、また一歩と後ずさりしながら呻いた。
「そんな嘘よ。なんでここにあんたが」
「なんで決まっているじゃない。うちの会社と斉川さんの会社とは取引をしているからよねえ。武」
女性の視線が武の方へ向く。反射的に、私は彼に聞いていた。
「誰?知り合い?」
「ああ。うん」
「まさか、どこかのお店の人とか……」
嫉妬から武に詰め寄ってしまう。女性はそんな私の様子に大笑いして、肩を組むように抱きついてきた。
「もう忘れちゃったのかしら。静かさんとは電話では話したのに」
「武の母です」
「え、お母さん?」
私のイメージと違いすぎて、義母だとは全く分からなかった。急いで距離を取り、頭を下げる。
「あ、えっと、初めまして。で、いいのかな?静かです」
下を向いたまま、きつく目を閉じていた。義母は再び大きな声で笑う。
「楽しい子ね、静かさんは。あんたが気に入ってお見合いを申し込む気持ちも分かるわ」
「だろ?俺の自慢の妻だからな」
武に話す彼は、少し恥ずかしくなり耳まで赤くなってしまった。

「どういうことよ?社長があんたの義母って?」
若が突っかかってくる。その点については、私も聞きたいと思っていた。ゆっくりと顔を上げると、武が私の頭を撫でてくる。
「この間、実家のことを話したよな」
「ええ、ホテル運営会社って話でしょ?」
実は、私が「身代わり」だと告白した時、彼も自分の秘密を話してくれた。武の実家はホテル運営会社で、いくつかのホテルを持っているそうだ。大手のリゾート施設を運営する会社と比較すると、実家の会社はさほど大きくはない。それでも大勢の社員を抱えているらしい。ただ、後継者は彼の兄という話だった。
「俺は後継者じゃないから、色々な会社で勉強させてもらっているんだ。今の清掃員という仕事もその一つ。いずれは実家の会社に戻るつもりだよ」
武が若に教える。彼女は顔を真っ赤にして叫んだ。
「じゃあ、どうして最初にそう言わないのよ。知っていたら、お見合いを断ったりしなかったわ」
「実家の会社に戻っても、俺はただの社員。今の清掃員と大差ないと思うけど」
「全然違うわ。兄が社長になるなら、取締役くらいは確実じゃない。収入は雲泥の差になるわ」
結局はお金ということか。本当に呆れてしまった。
「そんなに金が大事ですか?」
「ええ、大事よ。お金がないのは首がないのと同じだもの」
「一理ある。しかし、必ずしもそうではない。お金ばかりで、本当の愛情が見えていないんじゃない?」
「うるさいわね。お姉ちゃんには関係ないでしょ」
「あ、そう」
話をする気力もなくなった。思わずよそを向いてしまう。
「ねえ、今から離婚してよ。私に彼を返して」
「いらないと言ったのは、若さんですよね」
「あれは取り消します」
「イケメンな上にお金があるのよ。これ以上、文句があるはずがないじゃない」
若がじりじりと私に迫ってくる。とっさに身構えた。どうしようと思ったところで、私の前に義母が立ってくれる。
「話の途中で悪いけど、私はあなたみたいな娘は嫌よ」
「お姉ちゃんと私は姉妹ですよ。あまり変わらないですって」
「そうかしら。あなたは麗子によく似ているようだわ。私に罪を被せて会社から追い出した、意地悪な女にね」
義母の言葉に、若は口を閉ざす。彼女は気にせずに話を続けた。
「私と彼女は同僚だったのよ。彼女の父親の会社。今は静かさんのお父さんの会社ね。そこで一緒に働いていたの」
「そうだったかしら」
とぼける母。都合が悪いのか、顔を背けている。
「忘れたの?私と彼の仲がいいことに嫉妬したあなたは、私のデスクに会社のお金が入った封筒を入れた」
「知らないわ。濡れ衣よ」
「黙りなさい。私は横領の疑いをかけられ、会社を首になった。後で同僚が、あなたの仕業だと教えてくれたわ」
義母がポケットから出した写真を床に叩きつけた。随分と古い写真だ。カラーだが、お世辞にも鮮明とは言い難い。そんな写真の中央には、若かりし頃の母が映っていた。会社のオフィスのような場所で、デスクに向かって何かをしている。
「一九九〇年代、当時ちょうど流行り始めたデジカメで撮られた写真よ」
「こんなもの、証拠にはならないわ。何をしているのか、全く分からないじゃない」
「ええ、そうね。でも、彼があなたに疑いを持ってくれるなら、それで十分なのよ」
義母の視線が父を捉える。彼は何かを察したように頷いていた。
「やっぱりお前だったのか。犯人は」
「え、何よ。あなたまで」
母の視線が妙に泳いでいた。
「俺はお前が怪しいと思っていた。彼女はそんなことをする人じゃないからな」
父が義母の方を向く。互いに頷き合って、父は続きを話した。
「でも、彼女が犯人だとお前が言うから、お父さんはお前の言葉を信じたんだぞ」
「私は事実を言っただけ」
「嘘をついて、悪いと思わないのか?父親に申し訳ないとか、そういう気持ちもあるだろう」
珍しく父が声を荒らげる。しかし、母は平然としたままだった。
「私は知らないわ。それにね、あなたは私に反抗できる立場じゃないでしょ。分かってるの?」
ふんと母が鼻を鳴らす。
「分かっているけれど、それとこれとは話が別だ。お前がそういう態度なら、俺にも考えがあるぞ」
普段とは全く違う低い声で、父が言う。それは私が初めて聞く声だった。真剣な面持ちで母を見ている父。
やがて、父よりも先に母が言った。
「決めたわ。あなたを首にする。社長を解任するわ」
「それはやりすぎよ。お母さん」
とっさに横槍を入れる。
「うるさい。お前は私に意見できる立場じゃないわよ。黙りなさい。会社の株は私が持っているの。この間も言ったでしょ」
母の言葉には、口を閉ざすしかなかった。株式会社である以上、株主の議決権は絶対だ。特に母のように親から受け継いだ会社なら、なおさらだろう。会社の大半の株を手中に収め、誰も口を出せなくなっている。
「私に逆らうとどうなるか。これで分かったでしょ?謝るなら今よ」
得意げに語る母。若も一緒になって父を馬鹿にする。
「お父さんが悪いのよ。お姉ちゃんの味方とかするから。ほら、土下座しなさい。謝らないなら、本当に解任するわ。その年齢なら、再就職も難しいだろうし。あなたはお先真っ暗よ」
腕組みをした母がふんぞり返る。顎で床を示し、父に土下座を強要していた。
「もういい」
「何て言ったの?」
「断ると言ったんだ。いい加減にしなさい」
父が一喝する。予想外の反応に、母も若も呆然としていた。そんな二人の前で、父は堂々と言い放った。
「これまでは静かのために我慢してきた。でも、もう結婚したし、私に頼らなくてもいいだろう」
「なあ、静か」
尋ねられて、思わず涙が溢れそうになった。
ずっと分からなかったことがある。どうして母は若ばかりひいきするのか。もしかすると、本当は両親の子供ではないのかもしれない。そんな風に考えたことまであった。だが、父はいつも自分の味方をしてくれる。私がいい子にしていれば、いつか母も振り向いてくれるだろう。そう考えることで、自分の中のバランスを取っていた。けれど、私が甘えていただけだったのだろう。
誰かを頼ることは、決して悪いことではない。子供の頃はなおさらだ。だが、私には一度だけチャンスがあった。就職する時、父に頼らず、私は家族から離れるべきだったのだ。そうしていれば、父にこんなに苦労をかけずに済んだ。
母に愛されたいと叫びながら、ただ甘えていただけ。自分の足で立とうとせず、いつも父に頼りきっていた。そんな簡単なことに、やっと気づけたのだった。
「お父さん、ごめんなさい」
「謝る必要はない。親としては、子供に頼られるのが嬉しいものだ。でも、これからはその役目を彼に譲ろう」
こちらを向いた父が頭を下げる。隣にいた武も一礼した。
「そういうわけだから、首にしてくれて構わないぞ」
「冗談じゃないわよ」
「ああ、好きにしろ。その代わり、お前も覚悟するんだな。俺が社長を降りれば、会社がどうなるか考えていないだろう」
父が脅しをかける。母は少しだけ怯んでいた。
「お前も覚悟しておけよ、若」
「は、私は大丈夫よ。お姉ちゃんを離婚させて、彼を奪い取るから」
若の視線が武を捉える。彼は軽く首を振った。
「それはないよ」
「どうして?姉妹だから、どっちでもいいでしょ。それにお見合いの時は、どっちって指定しなかったじゃない」
若が顔をしかめる。
「ん?俺は指定したはずだけど」
「今更、言い訳するの?確か、お父さんの娘って条件だけでしょ?」
「うん。だから、静かだろ」
武の言葉に、若が呆然とする。少し考えて、再び彼に問い質した。
「なんでお姉ちゃんになるのよ。私だって、お父さんの娘じゃない」
一瞬にして、場が凍りつく。私は引きつった顔で武に聞いた。
「ねえ、武。どういうこと?」
「言葉のままだけど。お父さんの娘は静かだけで、彼女は別の人の娘ってこと」
彼は笑いながら、とんでもないことを言った。指を刺された若からも笑顔が消える。小さな声で聞き返してきた。
「私が別の人の娘って、何?」
「お母さんに聞いた方がいいよ」
「そうですよね。お母さん」
武に問いかけられた母は、真っ青な顔で視線をそらしていた。
「お母さん、説明して」
「何を?」
母の声が震えている。かなり動揺していることが伝わってきた。
「だから、私がお父さんの娘じゃないって話」
「もしかして、お母さんって浮気とかしてたの?」
「は?浮気?そんなわけがないでしょ」
一目瞭然というか、完全にボロが出ている。私はこっそりと武に事情を尋ねた。
「武、詳しく説明してくれる?」
「いいよ」
武は、私にお見合いを申し込んだ経緯を話し始める。
発端は、お見合いの話が出る一年ほど前だった。彼は義母と話し合い、経験を積むために清掃会社で働き始める。表向きは派遣社員で、給料は実家の会社からもらっていた。最初は一年ほど清掃業を学ぶつもりだったようだ。実家が経営するホテルにも清掃会社が入っている。仕事上のやり取りがスムーズになる程度で良かった。
しかし、いざ働き始めると、思った以上に苦労してしまう。様々な場所で清掃員だと見下されることが、何度かあったからだ。若がそうしたように、彼も罵りを浴びせられた。ただ、その経験を生かそうと思い、彼は随分と我慢したそうだ。
そんな時、武は父の会社に派遣される。同じことがあるのだろうなと、彼は覚悟していた。しかし、実際に働き始めたら、今までとは全く違う環境に驚く。優しく接してくれる女性社員がいたことに、目が覚める気分だった。
「それが静かだよ」
「え?私?」
特別なことをした覚えはないけれど、彼が言うからには、何かあったのだろう。首をかしげて色々と思い返す中、武は話を続けた。私のことが気になり始めた彼は、毎日が楽しくなったそうだ。挨拶をすれば、普通に挨拶が返ってくる。仕事中に話しかけても、嫌な顔をされない。それが嬉しくて、気づけば私を好きになっていたという。
ただ、一介の清掃員が告白しても、相手にされない可能性がある。そこで彼は、悪いと思いながら自らが持つ権力を使った。働いていた会社の社長に頼み、私とのお見合いをセッティングしてもらう。
「でも、母さんがお見合いの前に身辺調査をするって言い出して」
「私のことを調べたの?」
「ごめん。その中で、お母さんの浮気相手が浮上したんだよ」
「本当に偶然だったらしい。家族を調べていた時、たまたま母が男性と会っていた。そこで男性が『俺の娘の若は大きくなったか』と言ったため、若の父親が違うことが判明。私の父親も違う可能性が浮上したが、その時の会話から否定されたようだ」
「なんて言ったの?」
「あまり聞かせたくないけど」
武は口ごもる。
「じゃあ、いいわ。聞かない」
「え、いいの?」
「なんとなく想像できるから」
おそらくは私に対する文句を言ったのだろう。出来損ないとか、そんな感じのことを。ついでに、父親があなたじゃないからとでも言ったのだろうか。何にしても、詳しく聞くほどのことではないと思った。

武とそんな話をしている最中にも、若と母の言い争いはヒートアップ。ついには取っ組み合いに発展していた。
「お母さんが浮気するからよ。ありえない」
「何ですって?私がいつ浮気したって言うのよ」
「浮気したから、私は父親が違うんでしょ」
若が大声を上げる。ため息をついたところで、ふと呆れている真花が目に入った。
「すみません、真花さん。ご迷惑をお掛けして」
「構いませんよ。今更、損害賠償の額は大きく変わりませんから」
微笑む真花。裁判の話はどうやら本気のようだ。
談笑するうちに、母と若の言い争いがこちらにも飛び火する。
「大体、あなたが悪いのよ。結婚を断っておけば」
「そうよ。なんで断らなかったの?」
「何を言っているのだろうか。無理やり結婚させたのは、あなたたちでしょ。もう忘れたの?」
「お金持ちだって知ってたら、私が結婚したわ。離婚して」
「無理。武がさっきも言ったけど、彼は私にお見合いを申し込んでいたのだから」
こういう時は私の正妻の部分を強調する。若は悔しそうに歯を食いしばっていた。
「もういい。今日の披露宴で連絡先を聞いた人に声をかけるから」
「そうしなさい。でも、真花さんに損害賠償を求められたら、すぐに逃げられるでしょうけどね」
「お姉ちゃんには関係ないわ」
強がりを吐くけど、私はため息をついて続けた。
「それに、すぐに婚活をする暇もなくなるわよ」
「どういうことよ」
「お母さんがお父さんを首にしたからよ」
母と順番に指差す。若は目の前で首をかしげていた。
「分からないの?あなた、ちゃんと仕事してる?」
「してるわよ。お姉ちゃんと一緒にしないで」
「悪いが、私の方がちゃんと仕事をしていたと思う。だから、父がいなくなれば会社が経営危機に陥ると分かっていた」
会社はワンマン経営ではない。しかし、トップダウンというか、指示を出していたのは父だった。会社の経営方針を社長の父が決め、社員はそれに従うという形だ。社長の役割は、会社の存続にとって非常に大きいと言える。こんな会社の社長が急にいなくなれば、どうなるかは見るよりも明らかだろう。
きちんとした後継者がいれば別だが、候補の一人だった私は途中で強制的に会社から追い出された。次の候補である若は、状況すらも理解できていない。おそらく会社は近いうちに経営危機に陥るはずだ。
私は若に、その辺りのことを丁寧に説明してあげた。彼女がどのくらい理解したかは分からない。ただ、「会社の経営危機」という部分は分かったようだ。
「は、じゃあ、どうなるのよ」
「そうね。新しい社長に頑張ってもらえばいいんじゃない?」
笑顔で言う。
「それ、誰がやるの?」
「さあ。首にしたお母さんにやってもらえば?」
母の方を見る。彼女は真っ青な顔をしていた。若に説明していた話を聞き、ようやく状況を理解したらしい。
「あ、あなた。さっきのことだけど」
「取り消しは無理だぞ。お前の浮気も発覚したし、俺は離婚するつもりだからな」
「そんな、私たちを見捨てるつもり?」
母が父にすがりつく。彼は半ば強引に振りほどいた。
「先に見捨てたのはお前だろ。自業自得だ」
「嘘でしょ?待ってよ。見捨てないで」
母がわめき始める。そこに義母が追い打ちをかけた。
「うちの可愛い娘に苦労させたお礼もするわよ」
義母が私の頭を撫でる。義母なのに「娘」と言われたことが嬉しかった。母に愛されなかったから、どこか照れ臭くも感じる。
「あんたが解任した元社長だけど、私が雇うわ。新しい会社の社長にするつもりよ」
「え?」
「これからはライバルね。まあ、そっちはすぐに潰れるでしょうけど。あはは」
義母が大声で笑う。母は力なく、その場に崩れ落ちていた。

その後、私は武と義母、父の四人で披露宴会場を後にする。義母に案内されるがまま、近くの高級レストランへ向かった。何が始まるのかと思えば、義母は嬉しそうにこう告げる。
「家族の食事会をしましょう。ずっと娘が欲しかったから」
義母に抱きしめられた。初めて母の愛情を一心に受けて、すごく心が温かくなった。食事会で話したのは、これからのことだ。父を新しい会社の社長にするという話も、本気だったらしい。真剣な面持ちで、二人は綿密な打ち合わせをしていた。
新しい会社が立ち上げられたのは、その半年後のこと。義母は母に「ライバルになる」と言っていたが、そんなことはなかった。父がいなくなってからわずか一ヶ月で、実家の会社は経営危機に陥る。あとは坂道を転がり落ちるだけ。三ヶ月後には赤字となり、半年を待たずに会社は倒産していた。
残ったのは借金だけ。仕方なく社長になった母の名義で融資を受けていて、それらが全て彼女の借金になった形だ。
タイミングも良かったこともあり、実家に務めていた社員の多くは新しい会社に拾われる。ほとんどの社員が新しい会社に再就職できたことだけが救いだった。
また、披露宴からしばらくして、匠と真花は若に損害賠償を請求している。訴訟を起こしたそうだが、若はお手上げ状態。会社の方が危うくなり、損害賠償は素直に受け入れたそうだ。請求金額通りに払うと言ったけれど、今は会社倒産で難しくなっている様子。先日、少しだけ待ってほしいと土下座してきたと、真花が教えてくれた。
母も若も、コンビニのアルバイトで食いつないでいるような状態だ。到底、損害賠償金を支払えるとは思えない。親戚などに頭を下げて借金をしているとも聞いたが、無理だろう。いずれは私にも頼ってくる可能性がある。その時は、思い切って突き放すつもりだ。

ついでに話しておくと、私の生活は少しだけ変わった。一つは、義母が一緒に暮らし始めたことだ。東京で生活していた義母は、社長の座を息子に譲ったらしい。何をするのかと思いきや、私と暮らしたいと言い出した。断る理由もなかったため、OKの返事をする。すると、あっという間に私と武が暮らす部屋に引っ越してきた。ただ、さすがに狭いと感じたようだ。一週間も経たずに、広いタワーマンションを借りてしまう。否応なしに、私たちもそこへ連れて行かれた。
おかげで今は広いタワマン暮らしだ。
「お母さん、お風呂の掃除、お願いできますか?」
「いいわよ。任せておいて」
笑顔で答える義母。
「すみません。何もかもお願いして」
「平気よ。可愛い娘との生活だもの。楽しいことばかりだわ」
申し訳なさそうな顔をしていたのか、義母に励まされる。
「でも、ほら、いいから座っていなさい」
ソファーに座らされる。ここまで私が気遣われる理由。それは妊娠だ。少し前、私の妊娠が判明した。武も喜んでくれたが、一番喜んだのは義母だ。報告を聞いた父が引くくらい、義母は喜んでいた。そんな風に反応されるのが、たまらなく嬉しい。今まで母にはいい印象がなかったけれど、義母と一緒なら、私の中の母親像も変えられる。生まれてくる子供のために、そうしたいと思った。

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