「あんた、私と同じ高校だった貧乏君じゃない?何なの、その格好。ここがどこだか分かって入ってきたの?貧乏人にはふさわしくない高級店よ」…

「あんた、私と同じ高校だった貧乏君じゃない?何なの、その格好。ここがどこだか分かって入ってきたの?貧乏人にはふさわしくない高級店よ」...

「何なの、その格好。ここがどこだか分かって入ってきたの?貧乏人にはふさわしくない高級店よ。」

とある焼肉店で偶然再会した相手は、昔散々俺を馬鹿にしていた元クラスメイトだった。社長夫人となっていた彼女は、作業着姿の俺を見るなり暴言を浴びせかけてきた。挙げ句の果てには、アルコールスプレーを噴射してきたのだ。

やめるよう抗議しても、彼女は笑い飛ばす。

「私が消毒してあげてるんじゃない。嫌ならさっさと帰りなさいよ。」

「俺だって客としてこの店に来てるんだ。」

「はあ?生意気にどの口がそんなこと言ってんのよ。貧乏人なら貧乏人らしく、家で値引きされた安い肉でもちまちま食べてなさいよ。本当、邪魔。私の視界に入らないで。」

俺を守ろうと入ってきてくれた妻まで巻き込んで、彼女はギャンギャンと騒ぎ立てる。

ああ、これは大変なことになりそうだな。

彼女は自分が誰を相手にしているのか、まったく分かっていない。彼女の発する暴言は、彼女自身の首をきつく締めつけていた。

俺は森田直雪。以前は建設会社に勤務していたが、十年前、四十歳の時に独立して起業した。小さい会社ではあるが、おかげさまで堅実な経営ができている。

俺がこの業界に入ったのは、貧乏な家に生まれたことに起因している。今時珍しいくらい貧乏で、奨学金をもらいながら進んだ高校時代。俺は生活費を稼ぐためにバイトばかりしていた。それでも隙間時間を勉強に費やし、常に成績は上位をキープしていた。

そのことが鼻についたらしい。クラスメイトのお嬢様からは、しょっちゅう嫌がらせを受けるはめになったのだが、それにめげず、同じく奨学金で進学した大学にて、俺は建設業のアルバイトを始めた。最初は給料の良さに釣られての選択ではあったが、俺はそこで建設業の面白さに魅せられたのである。

何もなかった更地や空き地が、だんだんと整えられ、やがてそこに建物が完成する。アルバイトとはいえ、無から有を生み出すその一端を担えることに、俺は感動したのだった。

その後、俺は建設会社に就職し、数年が経った頃にプライベート旅行で訪れたスペインで妻と知り合い、結婚した。現在はお互いに仕事が忙しいものの、良き理解者、パートナーとして支え合っている。

さて、今日は結婚の記念日だ。この頃は互いに仕事が立て込んでいて、ゆっくり話す時間もなかったが、その合間を縫って、俺たちは外で食事をする約束をしていた。店は高級焼肉店。焼肉は俺も妻も大好きで、この年代になってもたまにこうして美味しいと評判の店を訪れては舌鼓を打っている。

だが、悪いことに、その日俺に急な仕事が入ってしまった。仕事はなんとか目処がついたものの、約束の時間に間に合わせるためには、着替えに戻っている暇がない。俺は仕方なく、作業着のまま店に向かうことにした。

ただ、さすがに予約していた店は高級店なので、そこら辺のファミレスに行くのとは訳が違う。そこで俺は店に連絡し、事情があって作業着で店に向かうこと。しかし、店の格を下げる事態にもなりかねないので、他の客からは見えないように完全な個室に席を変更して欲しいということを申し入れた。

幸い、こちらの願いに店長が快く対応してくれ、案内も自らが買って出てくれるという。それに感謝を告げ、俺はタクシーで店まで移動し、店内に入る。すると、心遣いしたように店員が店長を呼んでくれると出てくれたので、俺はそのまま入口近くで店長が現れるのを待っていた。

さすがに有名な高級店ということで、店内も評判に見合った豪華さだ。仕事柄、俺は思わず内装や建物そのものの作りをキョロキョロと見渡していた。だがその時。

「ちょっとそこのあんた、邪魔なんだけど」

トゲトゲしい声と共に、むっとした香水の匂いが俺の鼻を直撃した。続いて、カツンというヒールの音が近づいてきて、俺は眉を潜めて声の聞こえた方向を見る。

すると、店の入り口には一見して高級品と分かる服に全身を包んだ派手な女性が、こちらを睨むようにして立っていた。どこか偉そうに腕組みした先には、複雑な色に塗り分けられた鋭い爪が伸びていて、俺を威嚇するようにしてピカピカと光っている。長い巻き髪に彩られたその顔は確かに美人ではあったが、どうにも主張の強い化粧が彼女の高慢な佇まいを見事に助長させていて、正直あまり好んで近づきにはなりたくない類いの人物である。

だが年齢不詳のその顔に、俺はどうにも見覚えがあった。この意地悪そうな目元と口元。はて、どこで見たのだったか。

そして、その既視感は向こうも同じだったようで、彼女もツンと眉を潜めて不審そうに俺を見上げ、それからあっと大きな声をあげる。

「あんた、私と同じ高校だった貧乏君じゃない?えっと、名前が確か…そう、森田とか言ったかしら。ま、あんたの本名なんて誰も呼んじゃいなかったけどね」

「三橋さん」

静かな店内に響く甲高い相手の笑い声に、若干頬を引きつらせながら俺は彼女の名を呼んだ。

この三橋さんこそ、俺の高校時代の元クラスメイトであり、また奨学金をもらって高校に通っていた俺を散々馬鹿にしていたお嬢様である。そんな経緯もあって、俺からしたら全く嬉しくない偶然の再開ではあるが、相手にとってはそうでもなかったらしい。

彼女は過剰なほどに口紅を塗りたくったその唇をついと釣り上げて、まるで獲物を見つけた獣のようにして俺を見やる。

「あ、私今は三橋じゃなくて森川ね。貧乏人のあんたでも知ってるでしょうけど」

息を吸うように見下されながら告げられた会社名は、この地元では知らない人はいないほどの有名企業だった。そこの長男と結婚したの。ちなみに夫は今、会社の三代目社長よ。

誇らしげに目を細めて、三橋改め森川さんはうふふとさも上品ぶって笑っている。彼女の夫が有名企業の社長であることは、別に彼女の功績ではないけれど、まあ夫の森川氏は地元の名士家系の長男であると同時に、来年の市議会議員選挙へ出馬するのではという専らの噂の人物である。森川さんからしてみれば、さぞ自慢の夫であるのだろう。

そういえば彼女は高校時代から上昇志向が強かったな、と俺はあまり思い出したくないことを思い出すはめになった。自身の実家も裕福ではあったが、森川さんはそれには飽きたらなかったようで、当時から自分は絶対にお金持ちと結婚をするんだと生きていたのだった。

だからこそ、奨学金をもらって高校に通う貧乏君の俺に、成績では逆立ちしたって叶わないのが気に食わなかったのだろうけれど。それに従って、俺の教科書を汚したり、体操着を水浸しにしたりと、随分と子供みたいな嫌がらせを俺は彼女とその取り巻きたちから受け続けていたのだ。

やり場のないやるせない感情がにわかに心のうちを渦巻いて、俺はため息をつきそうになる。しかし、こちらの心情などっぽっちも構わない様子で、彼女は改めて俺をじろじろと睨みつけてきた。

「ていうか、何なのその格好。やだ、それもあちこち汚れてるじゃない。ねえ、あんた、ここどこだか分かって入ってきたの?半年の予約待ちなんて当たり前の高級店よ」

森川さんの視線には、侮蔑がたっぷり含まれていた。確かに、こういう店に作業着で来店したのは間違いだと、俺も十二分に自覚している。だからこそ、こうして店側に少しでも迷惑をかけないように待機しているのだ。

それに、俺の格好がこの場にふさわしくないのと同じように、食事を振る舞う店でこの距離でも分かるくらいに香水の匂いをプンプン香らせている彼女も、かなり人のことを言えた義理ではない。糖質の肉が焼けるいい匂いを上書きするくらいの強い香りだ。

森川さんは、もしかして鼻が効かないのだろうか?俺は内心そう首をかしげた。しかし、ここでこちらが何か言い返そうものなら、なおさら面倒くさいことになるのは目に見えていたので、俺はぐっとこらえて、できるだけ冷静に切り返す。

「それは分かってるよ。でも今日はちょっと事情があって、それに店側にも事前に話は通してあるし」

だが、森川さんにはその返答が下手な言い訳に聞こえたのだろう。瞬間、彼女はいかにも馬鹿にしたようにしてふんと鼻を鳴らした。

「やだ、何よ事情って。貧乏人の貧乏君に、そんな格好でこんな店に来る事情なんてあるわけないじゃないのよ。ああ、それともあれ、あんたどっかの作業員なの?汚い」

薄汚い色に彩られた目で、森川さんが再びじろじろと俺を見やる。

「じゃあ、こんなとこでサボってないでとっとと仕事に戻りなさい。全く、作業員風情が私の邪魔するんじゃないわよ。私、ここの常連よ。店に言いつけてやるんだからね」

言いながら、彼女は露骨に眉を潜めて、わざとらしく、しっしと手を振り払った。

「あんた、本当に汚いわ。飲食店にそんな格好で来るなんて、やっぱり勉強だけできても底辺の貧乏人はマナーがなってないのよね。ああ、もう本当に嫌だ。こっちに寄らないで」

森川さんは俺へと甲高い罵声を浴びせ続けながら、ヒールを鳴らして数歩距離を取る。その時、自身の手元が店内入り口に置かれていた消毒用のアルコールスプレーに触れたようだ。ふっとそちらに視線をそらした森川さんは、にっとその口元を意地悪く歪めた。そして、鋭い爪を光らせた指がアルコールスプレーを握り込んだかと思うと、なんとそれをためらいもなく俺に向かって盛大に噴射してきたのである。

森川さんの高笑いが耳を打つ。

「これ以上ここにいるんだったら、私がこうして消毒してあげるわ。ちょっと、やめなさいよ」

客としてこの店に来てるんだ。これにはさすがに俺も目を見開いて抵抗した。だが、森川さんはこちらの言うことに聞く耳など持たない。

「はあ、生意気にどの口がそんなこと言ってんのよ。貧乏人なら貧乏人らしく、家で値引きされた安い肉でもちまちま食べなさいよ。本当、邪魔。私の視界に入らないで」

引く引かないと押し問答になる俺たち。その時だった。店の入り口で揉める俺たちに、新たに来店した女性が怪訝な顔をして声をかけてきた。

「ちょっと、直さん、どうしたの?」

「まさ子…」

それは、今日ここで落ち合う約束をしていた俺の妻のまさ子だった。夫がなぜか作業姿で、それも客同士の揉め事で女性からアルコールスプレーをかけられているという事態に、妻はあっけに取られていたようであった。それでもとにかく俺を助けようとしてくれたのか、慌ててこちらに割って入ってくる。

「ここのあなた、何があったか存じませんが、他人に向けてアルコールスプレーを噴射するなんて、いくらなんでも度がすぎていませんか?それに、万が一目にでも入ったら危険でしょう?」

非難しながらも冷静にそう言うまさ子を、森川さんは厭らしそうに一瞥した。

「は、私はただ、こんな汚い格好で店に来たこの男を消毒してやってただけだけど。てか、あんた誰よ?ふん、偉そうに。初対面の相手にいきなり説教垂れてるあんたこそ失礼でしょう」

「私はこの人の妻です」

キンキンとまくし立てる森川さんに、まさ子が気然とそう答える。すると、一瞬だけ面食らったように沈黙した森川さんは、けれどその直後、嘲笑の眼差しを隠そうともせずにまさ子を見やり、あははと大声で笑った。

「そう。あんた、この貧乏君の奥様なのね。へへ、通りでそんなダサい格好してるわけだ。私、あんたの夫の同級生よ。偶然ここで再会して旧交を温めてたの」

どう見ても、そんな穏やかな場面ではないだろうに。森川さんは悪びれずにそう言って、ニヤニヤと口元を歪める。ちなみに、まさ子の今日の装いは、見る人が見ればシンプルながらも質のいいものを上品にまとめているとすぐに分かるのだが、派手イコールセンスがいいと勘違いしているらしい彼女には、どうやらそれが通じなかったようだ。

その時、ふとまさ子が何かに気づいたように首をかしげる。

「あなた、もしかして…森川さんのだ…」

だが、まさ子のそんなつぶやきは、こちらに駆けつけてきた店長の謝罪によって遮られた。

「森田様、大変お待たせいたしまして申し訳ございません。それから森川様も、すぐにご案内できずに失礼いたしました」

口にして丁寧に頭を下げた店長は、アルコールスプレーを握りしめている森川さんと、服を濡らした俺、そして硬い表情の妻を見て、およそのことは察したのだろう。気遣わしげに俺へと視線を向けてくる。

だが、大事にするより一刻も早く森川さんから解放されたかった。俺はそれに無言で首を振った。すると、俺の意思を組み取り、店長がゆっくりと頷くと、彼はまず森川さんへと向き直る。

「森川様、ご予約いただいていたお時間よりお早いお着きですが、何かございましたか?」

どうやら森川さんは、店側への連絡もなしで予約時間よりも随分早く来店したようだ。しかし、特にそれを謝るでもなく、森川さんは尊大な態度でつんと顎を上向かせると「別に」と答えた。

「お買い物にも飽きちゃったから早く来ただけ。悪い?てか、マナーのなってない貧乏人たちのせいで私疲れちゃったから、さっさと休みたいんだけど」

「かしこまりました。では、早速お席へご案内いたします。お待たせしたお詫びに、森川様には当店よりドリンクをサービスさせていただきますので」

「あら、そう。じゃあ遠慮なく」

笑顔でうやうやしく頭を下げる店長に気をよくしたのか、森川さんは最後に俺たちを睨みつけると、これ見よがしに得意げに鼻を鳴らしながら、店員に案内されてその場を去っていく。

その香水の残り香を換気するようにしてわずかに窓を開けると、店長は改めて俺たちへも頭を下げた。

「お待たせいたしまして申し訳ございませんでした」

そして、店長は俺へとタオルを差し出しながら、よければ近くの同系列の店へすぐに予約を入れてくれるという。森川さんのあの様子から、またこの店内で待ち合わせをして彼女に絡まれるのを心配してくれたのだ。

「お叱りいただき、本当に申し訳ございません。お怪我はありませんでしたか?」

「はい。幸い服にかかっただけですし、こちらこそ店内で騒いでしまい失礼しました」

その提案を俺たちはありがたく受けることにした。

その後、店長が手配してくれたタクシーで移動中、妻のまさ子がとある人物へ電話をかけ始める。

「ということで、残念ですが今回の話はなかったことに…」

なるわけではなく、けれどその静かな口調が、かえってまさ子の怒りを如実に表している。電話口では相手の焦ったような声が聞こえていたが、それに構わずまさ子はさっさと電話を切ると、俺に向かってすっきりとした表情で笑ったのだった。

さて、そんなことがあった翌朝、俺の自宅を、昨日全くもって嬉しくない再会を果たした森川さんと、それから彼女の夫の森川氏が揃って尋ねてきた。

「お休みの日の朝から申し訳ありません」

森川氏と俺は、以前に一度挨拶をしたことがある。そして今、挨拶に出た俺に、森川氏は深々と頭を下げてきた。その横で、いかにも渋々連れてこられたといった様子で、ブスッとふてくされている森川さんとは対照的な姿だ。

そのうち、玄関先の騒ぎを聞きつけて顔を出した妻のまさ子が、訪問客を見てああと声をあげる。だが、まさ子が何か言葉を続ける前に、森川氏は自身の妻の頭を掴んで強く下げさせ、こう言った。

「昨日は妻の美沙が森田様に、大変なご迷惑をおかけしまして、本当に申し訳ございませんでした」

しまいには土下座せんばかりの勢いで頭を低くする森川氏。しかし、そんな夫に頭を掴まれている妻は「ちょっと、痛いってば」などと、この後に及んで空気の読めない文句を垂れ流している。そんな二人を、まさ子は硬い表情で見つめていた。

昨日、まさ子がタクシー内から電話をかけていた相手、それがこの森川氏であった。実は、まさ子は世界的に有名な建築デザイナーなのである。ちなみに、俺たちが出会ったスペインにまさ子は建築を勉強するために留学中だったのだ。スペイン語が聞き取れず困っていた俺を彼女が助けてくれ、そのお礼にと誘ったディナーの場で、まさ子は父が大工をしていること、自分は建築デザイナーを目指しているということを話してくれた。共に建築業界に身を置いていることから俺たちは意気投合し、その後も連絡を取り合い、ついには結婚するに至ったのである。

そして結婚してからも度々海外を飛び回っていたまさ子だが、この度日本に拠点を移すこととなり、昨日は久しぶりに彼女が帰国する日でもあった。まさ子が日本で手掛ける久々の仕事が、この森川氏が社長を務める会社からの依頼だったというわけだ。しかも、地元の顔を立てるというその工事を受け負っているのが、何を隠そう俺の会社なのである。昨日、俺が作業着で出向くはめになったのも、駅舎建築中のその現場でトラブルが発生したためであった。

頭を下げ続ける森川氏と、その横で騒ぐ森川さん。表情を崩さないまさ子が、おもむろに口を開いた。

「理由は奥様からお聞きになったでしょう。こうして謝られても、私の答えは変わりません。それに、夫が昨日店に作業着で出向いたのは、あなた方から受け負っている仕事で急なトラブルが起こったからです」

そして、まさ子は低く続けた。

「トラブルの原因は、あなた方の社員の連絡ミスだったとか。それなのに、よりにもよって社長の妻が、社員のミスをフォローしてくれた私の夫に向かってあの仕打ち。妻として許せなくても当然ではありませんか?」

淡々と、しかし一切の隙なくそう言うまさ子に、森川氏は青ざめて肩を震わせる。まさ子は昨日の電話で、仕事を降りることと共に、自分のデザインを使わせないと森川氏に突きつけていた。

「まさ子さんのお怒りはごもっともです。ただ、もう駅の建築は始まってしまっているのです。あなたの知名度で資金も集まり、認可も降りている。その目玉であるあなたのデザインが使えないとなれば…」

そこで森川氏は、ふと俺の方を見合った。そして今度は保身のためか、俺に向かって切々と訴えてくる。

「ねえ、直雪さん。だって今更の建築中止は困るはずだ。奥様のデザインをいつか自分の手で形にしたいと、あなた以前にそうおっしゃっていたじゃないですか」

確かに、彼の会社の依頼を受けた時の顔合わせで、俺は森川氏にそんなことを言っていた。妻のデザインした建物をこの手で立てることは、彼女と出会ってからの俺の夢だ。それに、この時期での工事中止となれば、俺の会社だって決して小さくない損失を被ることになる。けれど、計画の続行は、何より大事な妻の意思を蔑ろにしてまで行うものではないと、俺は思っている。

建築業界の一端に身を置く者として、俺は心を踊るようなデザインを生み出す妻を、一人の建築デザイナーとして心から尊敬しているのだった。そんな妻が、自身のデザインは使わせないと言っているのだ。俺はそれを尊重こそすれ、とやかく口を出す立場にない。

それに、森川氏の横では未だ彼の妻はふてくされた顔をして、つまらなそうに立っている。彼女には最初から謝罪する気などないのだろうということは、その態度からも明白であった。やがて俺の視線に気づいた森川さんは、露骨に眉を潜めてそっぽを向く。その子供じみた様に、ああ、彼女は高校時代となんら変わってはいないのだなと、俺は改めて思ったのだった。

「残念ですが、今の我々の関係で良い仕事ができるとは、とても思えません。急なことですが、私も今回の案件からは降りさせていただきます」

俺の返答を聞き、森川氏はついにまっすぐ立っていられなくなったようにして、数歩たたらを踏んだ。

「え、ちょっと、何よ。しっかりしてよ」

今にも座り込みそうになっている夫を、妻は迷惑そうな表情で見やる。その間も森川氏は謝罪と計画の続行を訴えていたが、俺もまさ子もそれには応じられないと拒否し続け、やがて諦めきれない夫妻が、引きずるようにして帰って行ったのだった。

その後、新駅の建設は一時中断となった。大きく取り上げられたそのニュースでは、森川氏とデザイナーとの間でトラブルがあったようだとされ、巨費を注ぎ込んだにも関わらず、そんなケチがついたとして、森川氏は市民からバッシングを受けた。

さらに、彼の妻の森川さんはといえば、散々名士の長男の嫁として威張り散らしておきながら、ホストにはまって浮気をしていたことが、地元の新聞にすっぱ抜かれることとなった。どうやらあの焼肉店にも、ちょくちょくお気に入りのホストと通っていたようで、結局森川さんは夫から離婚状を突きつけられたようだった。

だが、森川夫妻が離婚したと聞いてしばらくした後、さらに驚くことがあった。なんと、森川さん改め三橋さんが、俺の会社に顔を出したのである。会社のロビーで社長に合わせろと騒ぐ人がいると社員に聞き、俺が慌てて駆けつけてみれば、見覚えのある女性がうちの社員相手に怒鳴り散らしていた。

「森川…えっと、三橋さん。一体どうして?」

そう俺が声をかけると、三橋さんは鬼のような形相でギリとこちらを睨みつける。

「来るのが遅いわよ。こんな小さな会社、私を待たせるほどの仕事もないくせに」

髪を振り乱し、恫喝せんばかりに彼女は早速そう吐き捨ててきた。相変わらず人を人とも思っていないかのようなその言い草に呆れつつ、俺は言い返す。

「いきなり人の会社に怒鳴り込んでくるなんて、マナーがなってないんだね。そういう失礼な相手に尽くす義理は、俺も持ち合わせていないものでね」

「何ですって」

あの時の彼女の言葉をあてこすりした俺に、三橋さんが顔を真っ赤に染める。しかし、彼女はそこで怒声を飲み込むようにしてぐっと息を飲んだ。続けて、唇を引き結ぶと、わずかに声のトーンを落として俺に告げる。

「あんた、あのまさ子とかいう嫁に、今すぐ取り次ぎなさいよ。それで、嫁から夫に連絡させて。そうしたら、あの駅の工事もあんたのとこで引き続き発注してあげるから」

それから、長い髪の毛をこれ見よがしに書き上げて、三橋さんは会社のロビーをぐるりと見渡し、小猫にしたように肩をすくめた。

「あんたんとこだって、あの発注が中断してるもんだから経営は苦しいんでしょう。私はそれを助けてやろうとしてるのよ。あんたの嫁が折れば、夫だって私とよりを戻すだろうし」

その言葉を聞いて、俺はピンと来た。ああ、彼女は夫と復縁したいのだな。上昇志向の強い三橋さんのこと、地元の名士の長男とはさぞ別れたくないのだろう。それも離婚の原因は妻側にあるのだ。風の噂で、慰謝料も請求されていると聞く。だが、そんな事態になっても、やはり三橋さんは三橋さんだった。びっくりしてしまうほどの上から目線で物を言う彼女に、俺はもはや呆れ果ててしまう。

漏れるため息を必死でこらえ、俺は静かに口を開いた。

「悪いけど、それはお断りするよ。三橋さんに心配いただかなくても、幸いこの会社の経営は安定してるんだ」

これは強がりではなく本当のことだ。俺の会社は、この度妻のまさ子の兄が経営する地域密着の建設会社と合併することが決まったのだ。前々から話は出ていたのだが、今回の件を受けて今がそのタイミングだと双方が手を握り合ったのである。おかげでうちも経営が安定し、このまま例の駅の仕事がなくなったとしても、会社は無事に回っていく。

けれど、今適当に追い返したとしても、このままでは彼女はまた俺に変な言いがかりをつけてくるかもしれない。だから俺は、相手に対し強めの口調で言い放った。

「分かったか?これ以上、俺にもまさ子にもちょっかいを出さないでくれ。もしまた俺たちの前に現れたら、今度は名誉毀損罪で裁判所に訴えてやるからな」

「ちょ、何それ」

声を荒らげた三橋さんだったが、裁判所という一言が聞こえたのか、顔を青ざめさせて、やがて逃げるようにして去っていったのだった。

それからまた一ヶ月が過ぎた。あれから三橋さんは、当然ながら森川氏との復縁も叶わず、自身の実家を頼ろうとしたそうである。だが、今回の一連の騒動は全て三橋さんの行いが発端だったと、すでに地元には広く伝わってしまっていた。そのため、彼女は親兄弟からも絶縁され、地元にもいられなくなり、とうとうこの辺りからは姿を消したと聞いている。

また、そんな折、うちには森川氏が再び謝罪に訪れていた。久しぶりに見た彼の佇まいは、以前から比べればずいぶんと痩せ衰えていて、その変わりように、俺もまさ子も、さすがに今までと同じく突っぱねることはできなくなってしまう。

彼の会社も、また今回の件でいささか苦しい状態らしい。それに、このまま倒産なんてことになってしまえば、彼はともかく、そこに務めている数百人の社員とその家族が路頭に迷うことになるだろう。

そうして、まさ子はしばしの沈黙の後、分かりましたと頷いた。

「デザインは少々手直しもしたいので、一週間後にそちらへお送りします。ですが、これはあくまで、あなたの会社に務める社員さんたちと、それから地元の皆さんのためです。勘違いはしないでくださいね」

厳しい口調ながらも計画の続行を認めたまさ子に、森川氏はうっすら涙を浮かべて頭を下げている。そして俺もまた、引き続き工事を受け負うこととなった。

今は、妻の生み出したデザインをどうすれば一番輝かせられるか、試行錯誤の日々が続いている。

忙しいながらも充実したそんな時間を、俺はこれからも妻と二人三脚で過ごしていきたいと、そう心から願っている。

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