「よくも私の服を汚したわね。子供のしたこととはいえ、容赦しないわよ」
その瞬間、娘の不注意でソフトクリームがついてしまっただけなのに、ママ友のくみ子さんは娘を殴りつけた。ちゃんと娘を見ていなかった私にも責任はある。しかし、いくら何でもよその子に手を上げるなんて、人として終わっている。私は助けを呼ぼうとしたが、彼女の夫に行手を阻まれ、タコ殴りにされてしまった。
「クリーニング代と慰謝料で1000万払いなさい。それができないなら、あんたたち親子を組の持っている山に埋めるわよ」
それを聞いた私は、思わず笑ってしまった。
「それなら教えてあげるわ。私の正体はね……」
その後、くみ子さんは夫と共に悲惨な目に遭うのだった。
私の名前は中野楓。夫と共に小学2年生の娘を育てている、ごく普通の主婦だ。ある休日、私は娘のもみじと一緒にショッピングモールで買い物をしていた。
「お母さん、頼まれていたもの買えてよかったね」
「前にここのパンが絶品だって話したら、食べたいって言っていたからね。お土産にしたらおじいちゃんも喜んでくれるよ」
今日はこの後、近くの公園へ行ってピクニックをする予定なので、昼食用のお弁当と一緒にパンを購入した。その店の主力商品は、優しい甘さが特徴のクリームパンで、平日でも午前中に売り切れてしまうほどの人気商品だ。ショッピングモールに併設されたこの店舗でしか購入できないのも、希少性を高めている要因だろう。それが運よく数人分購入できたので、私は機嫌が良かった。きっと今日はとてもいい日になる暗示に違いない。
「もみじと2人で出かけるのは久しぶりね。いい天気でよかったわ。お昼を食べたら、丘の上の広場まで散歩してみない?」
ところが、上機嫌な私とは対照的に、もみじは頬を膨らませている。
「お父さんが一緒だったら、もっと良かったのに」
「仕方ないわよ。急に仕事が入っちゃったんだから。お父さんとはまた今度お出かけしましょう」
渋々頷くものの、もみじは完全にへそを曲げてしまっている。どうしたものかと考えていると、壁に貼られた新作アイスを宣伝するフードコートのポスターが目に止まった。
「そうだ。もみじ、ソフトクリームを買ってあげようか」
私がそう言うと、もみじは満面の笑みを浮かべた。
「え、ピクニックへ行く前に食べてもいいの?」
「いいわよ。その代わり、おじいちゃんには内緒ね」
「うん。ソフトクリームはお土産にできないもんね」
私たちはフードコートに向かい、ソフトクリームを1つ購入した。もみじが選んだのは、私の予想していた通り大好きなチョコレート味だ。
「人の多いところで食べるのは慣れないわね。車の中で食べましょう」
私ともみじは足早に駐車場へ向かった。しかし、多少の我慢ができる娘と違って、ソフトクリームは待ってはくれない。5分とかからない道のりでも、あっという間に溶け出してしまうのだ。そのことに気づいたもみじがソフトクリームの端を舐め始める。もみじの注意が完全にソフトクリームへ向けられていたその時だった。
突如、背後からもみじの悲鳴が聞こえ、同時に女性の金切り声が響いた。
「ちょっと、何てことをするのよ」
振り向いた私は、とんでもない光景を目の当たりにした。もみじの持っていたソフトクリームが、そばに立っている女性にべっとりとついているのだ。私は慌てて、困惑しているもみじの元へ駆け寄ると、頭を下げて謝った。
「すみません。うちの娘がとんだご迷惑を」
すると、目の前の女性は私の謝罪を遮るように口を開いた。
「あら、もしかして中野さん」
名前を呼ばれて驚いた私は、顔を上げて相手を確認した。
「緑川さんじゃないですか」
その女性は、もみじと同級生の娘を持つママ友の緑川くみ子さんだった。くみ子さんはママ友たちの間では高飛車な人として知られている。融通が利かない性格らしく、自分の思い描いた通りに物事が進まないと態度が急変するのだそうだ。よりによって、そんな人物とトラブルを起こしてしまうなんて。
「緑川さん、すみませんでした。私がちゃんと娘を見ていなかったばっかりに」
「本当よ。この服どうしてくれるの?せっかくおしゃれしたのに台無しじゃない」
くみ子さんは何度もティッシュで拭き取っていたが、溶けたソフトクリームは彼女のスカートに染み込んでしまっていた。茶色の生地ならまだしも、ラメが入ったベージュの生地ではチョコレート色のシミは非常に目立つ。
「ねえ、咲士さん、今の見ていたわよね」
そう言いながら、くみ子さんは肩越しに背後を見た。私はその時に初めて、くみ子さんの後ろに彼女の夫である咲士さんと娘のえみちゃんが立っていることに気づいた。
「ああ、見ていたぞ。そっちの方からぶつかってきたな」
「子供のしたことは親が責任を取るべきよ。あんた、クリーニング代を出しなさい。それと損害賠償も合わせて1000万で許してあげるわよ」
私は当初クリーニング代を払うつもりでいたが、そんな大金を請求されたのでは話が変わってくる。
「ちょっと待ってください。そんな金額、むちゃくちゃじゃないですか?何がどうなって1000万なんて大金になるんですか?」
「こっちは被害者なのよ。私の予定を狂わせたんだから、当然の金額よ。今すぐ払いなさい。1000万くらい安いもんでしょ」
くみ子さんの無茶ぶりに私は困惑した。
「出せるわけないじゃないですか」
「いいから財布を寄越しなさいよ」
そう言ってくみ子さんは私の鞄を無理やり奪い取ると、中身を物色し始めた。
「これが例の財布?前に見かけた時から思っていたけど、相変わらず貧相な財布だこと」
とっさに勝手に財布を開いたくみ子さんは、私の方を見て馬鹿にしたように笑った。
「全く、外見と同じで中身も貧相ね。あんた、カードの1つも持っていないの?まあ、貧乏人にはお似合いの財布ってことね」
くみ子さんが財布を床へ放り投げると、待ちくびれていたのだろう。彼女の娘のえみちゃんが不機嫌そうに声をあげた。
「ねえ、ママ、早く行こうよ。遊ぶ時間がなくなっちゃうよ」
咲士さんの足にまとわりつきながら、えみちゃんが駄々をこねている。
「くみ子。エミがグズっているぞ。代金はまた後日に請求すればいいじゃないか。どうせ顔見知りなんだろ」
「いやよ。それじゃあ私の気が収まらないわ。だったら咲士さん、エミを連れて先にいってちょうだい。私はこの鬱憤を晴らしてから行くわ」
言い終わるや否や、くみ子さんはもみじの髪を掴むと、乱暴に引っ張ってその場から離れ始めた。
「ちょっ、緑川さん、やめてください」
私が必死にくみ子さんの腕を掴んで2人を引き離そうとしても、くみ子さんの足は止まらない。
嫌がるもみじの悲鳴を無視して、くみ子さんがやってきたのは駐車場の近くにあるトイレだった。私がトイレ前の長椅子に荷物を置いた一瞬の隙に、くみ子さんは個室にもみじを引きずり込んでしまっていた。
「このトイレは人が少ないから、騒ぐのに最適なのよ」
個室の中からくみ子さんの声が聞こえたが、次の瞬間、それは打撃音に変わった。直接見えなくても、中でもみじが殴られていることは瞬時に理解できた。私はドアをこじ開けようと何度か体当たりをしてみたが、ドアは微動だにしない。隣の個室から入り込めないだろうか。私は上部を確認したが、このトイレの個室は天井まで壁で仕切られているタイプだった。つまり、中から鍵を開けない限り、くみ子さんを止めることは不可能なのである。
しばらくすると、まるで外にいる私に聞かせるかのように、くみ子さんが大きな声をあげた。
「ああ、スッキリする。もっと大勢でやったらきっと楽しいでしょうね。今から電話で応援を呼ぶから、ちょっと待っていなさい」
個室の中からスマホの操作音と電話の呼び出し音が聞こえる。くみ子さんは本気で仲間を呼び出すつもりなのだ。私は助けを呼ぶために売り場の方へ向かおうとしたが、いつの間に来ていたのか、咲士さんがトイレと通路の境目に立ちふさがっていた。
「あんた、俺たちを警察に突き出すつもりじゃないだろうな。そんな気が起きないように、ここでたっぷり痛めつけてやる」
私が言い返すよりも先に、咲士さんは私を殴りつけた。何度も殴られているうちに、置いていた荷物はぐちゃぐちゃになってしまったが、それでも咲士さんは手を止めない。
「やめてください。公共の場でこんなことをしたら、今に警備員が飛んできますよ」
しかし咲士さんはうそぶき笑いを浮かべていった。
「残念だったな。ここは監視カメラの死角だから、誰もこの現場を見ていないんだよ」
咲士さんは最初からそれを計算して、トイレと通路の境目に立っていたのだろう。
「助けを呼ぼうとしたってことは、俺たちを訴えようとしたってことだ。名誉毀損だな。さっきの損害賠償に追加で、もう1000万払え。合計で2000万だ」
私が咲士さんをにらみつけていると、個室のドアを開ける音が聞こえた。痛む体に鞭打って、もみじの元へ向かった私は、個室から引きずり出されたもみじを見て言葉を失った。顔は腫れていて、口の端には血が滲んでしまっている。腕や足もあざだらけで、殴られた痕跡が痛々しい。くみ子さんに受けた仕打ちがよほど恐ろしかったのだろう。その場にへたり込んだもみじは、体を震わせて泣いていた。
娘をこんな目に合わせてしまって、私は申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
「子供に手を上げるなんて、親のすることじゃないですよ。ましてや、よその子に暴力を振るうなんて非常識だと思わないんですか?」
私はもみじを抱きしめて、くみ子さんに避難の声をあげた。しかし、くみ子さんは悪びれる様子もなく、ニヤニヤと笑っている。
「そんなの関係ないわ。若頭の妻である私には関係ないのよ。そんなことより、ちゃんとお金を払いなさいよ。なんだったら、家へ取り立てに行ってもいいんだからね」
とどめと言わんばかりに、くみ子さんは私を指さしていった。
「覚悟しなさい。払えなかったら、あんたたち親子を緑川組の持っている山に埋めてやるから」
それを聞いた私は、腹を抱えて笑った。
「なんだ、緑川さんは片手じゃなかったのね。それなら、もう遠慮する必要ないわ」
私が突然笑い出したので、くみ子さんは狐につままれたような顔をしている。
「何を言い出すのかと思ったら、恐怖で頭がおかしくなっちゃったのかしら」
私はもみじを背負いながら、居ぶかしむくみ子さんに言った。
「それなら教えてあげる。私の正体は白木よ。同業者なら、白木の名前くらい知っているでしょ」
「え、まさか、白木ってあの白木組の……」
思い出したのだろう。くみ子さんは驚愕の表情を浮かべた。普段は秘密にしているが、私の正体は白木組の組長なのである。一般人である夫と結婚して苗字こそ中野に変わっているが、組長としての立場は何ひとつ変わっていない。
「今まで反撃しなかったのは、片手相手に手を上げないようにしていたからよ。まあ、娘に手を出した時点で許す気はなかったけどね」
すると、話を聞いていた咲士さんが形勢を変えて、その場に土下座した。
「申し訳ありませんでした。誰にも多言しませんので、どうか今日の出来事はなかったことにしてください」
「娘をこんなにボロボロにしておいて、なかったことにしてくれですって?その上、お金を殴り取って慰謝料まで請求しておいて、許されると思っているの?」
「そ、それはつい出来心でやったことでして。お金だって、本気で請求するつもりじゃなかったんです」
咲士さんが言い訳を続けていると、そこへ誰かの足音が近づいてきた。
「お父さん」
それは私の父親であり、白木組の初代でもある白木山だった。
「何かあったのか?あまりにも遅いから、様子を見に来たんだが」
「おじいちゃん」
駆け寄ってきたもみじを腕に抱きながら、父は私に経緯を尋ねてきた。どうした、もみじ。傷だらけじゃないか。何があったんだ。
「この2人に殴られたの。彼女はママ友なんだけど、不注意でもみじのソフトクリームが服についたことに腹を立てて、もみじを個室に引きずり込んで殴ったのよ」
初代としての父を知っている咲士さんは、先ほどよりも震え上がっていた。これ以上は下げられないと思うほど、頭を床につけて土下座している。
「こ、これは、初代。申し訳ありません。白木組の組長とは知らず、俺の妻が出過ぎた真似をして、2人を殴ってしまいました」
「ちょっと、中野さんを殴ったのはあんたじゃない。私は子供の方しか殴っていないわよ」
父がくみ子さんをにらみつけたが、彼女はその威圧に屈さず言い返してきた。
「大体、どうして初代のような人がこんな便利なところへやってくるのよ。都合が良すぎるわ。まさか仕組んでいたんじゃないでしょうね」
「おかしいですか。わざわざしなくても、お父さんが私たちのところへやってくるのは不思議なことじゃないわ。スマホに位置情報共有アプリを入れてあるのよ。そもそも今日のピクニックは、私ともみじだけでなく父も参加する予定だったの。父とは駐車場で待ち合わせをしていたんだけど、集合時間になっても来ない私たちを心配して迎えに来たのよ。お父さんみたいな風貌の人がショッピングモールにいたら目立つでしょ。だから、屋外で一緒に過ごす予定だったのよ」
一通りの説明が済んだところで、私はくみ子さんに尋ねた。
「そういうこと。緑川さん、さっき仲間を呼ぶって言っていたわよね。どこに集合する予定なの?是非ともご挨拶したいんだけど。私の娘を殴りに来た変態どもに」
「俺の孫に手を出したってことは、白木組に喧嘩を売ったってことだからな。これから緑川組に乗り込んでもいいんだぞ」
父の言葉を聞き、逃げられないと悟ったくみ子さんは、観念した様子で口を開いた。
「裏の駐車場の……裏の、人が滅多に来ないところに」
それを聞いた私は、父に合図を送った。父は電話で部下を数人呼び出すと、くみ子さんと咲士さんを引きずるように連行していった。ちなみにえみちゃんはトイレの前で待っていたので、部下の1人に保護を命じている。私はもみじの手当てを部下に頼むと、父と一緒に駐車場の裏へ向かった。
くみ子さんが呼び出した仲間は、部下たちが手際よく捕まえていた。
「こいつら、全員緑川組の組員か。たく、無関係な奴らを巻き込みやがって。お前ら、恨むなら若頭夫妻の愚かさを恨むんだな」
父の言葉を合図に、部下たちは一斉にくみ子さんたちを殴り始めた。
「あんたたち、何やられているのよ。男ならやり返しなさいよ。せっかく腕の立つ奴らを呼んだっていうのに、全然役に立たないじゃないの。この役立たず」
殴られながら、くみ子さんが組員たちを罵倒する。しかし、体格が良くても有能な白木組の部下に敵うわけがない。そうして部下たちがくみ子さんたちを痛めつけている傍らで、私は緑川組の組長へ電話をかけていた。
「いやあ、どうも。白木組の組長ですが」
「今日はどのような要件で?」
あらかじめ通話をスピーカーにしているので、組長の声は周囲に響いていた。これならたとえ殴られていても、くみ子さんたちの耳に入るだろう。父からスマホを受け取った私は、怒鳴りつけたい気持ちを抑え、努めて冷静に状況報告を行った。
「オタクの若頭夫婦から暴力を受けたんです。私の娘の不注意でくみ子さんの服を汚してしまったんですが、それに腹を立てて娘を殴ったんですよ。まだ小学2年生の子供なのに」
電話口の向こうで「まさか」とつぶやく組長の声が聞こえた。
「それは本当ですか?いくらヤクザの妻とはいえ、そんな年端もいかねえ子供相手に本気で腹を立てたって言うんですか?」
「それだけじゃありません。クリーニング代と損害賠償で1000万を請求してきました。私も若頭に殴られて、しまいには1000万を追加して2000万だなんて言い出したんです」
「そんなことを言うなんて。うちの若頭は仕事は真面目にやっているはずです。夫婦揃ってそんな当たり屋みたいな真似をするとは、とても思えません」
どうやら緑川組の組長は、くみ子さんたちが不祥事を起こしたことを認めたくないようだ。
「緑川組の組長、聞こえますか?今ちょうど私の部下たちが若頭夫婦を痛めつけているところなんですが」
私はスマホを突き出し、部下がくみ子さんたちを殴りつけている音を組長に聞かせた。
「うちのもみじも、今の2人と同じようにくみ子さんに殴られ続けていたんですよ。私がどれだけ腹を立てているか分かりますか?」
私が父の方を見ると、父は組長に向かって声をかけた。
「信じたくねえなら、勝手にすればいい。だがな、俺の孫が怪我したのは事実なんだよ。なんだったら、今から医者の診断書を持って事務所まで行ってやろうか」
父の言葉を聞いてことの深刻さに気づいた組長は、慌てて父に懇願してきた。
「も、申し訳ない。どうか報復だけはご勘弁を。白木組に睨まれたら、緑川組じゃとても立ち打ちできない。どうすれば許してもらえるでしょうか?」
「娘の治療費と慰謝料として、私に1億払ってください。払えなければ、緑川組を潰すことになりますが、よろしいですよね。こっちは被害者なんですから、当然の金額です」
私がそう告げると、組長の悲鳴に近い声が聞こえた。
「そ、そんな、1億なんて大金、ウチにあるわけがない。おい、くみ子。そこにいるんだろう。元はといえば、お前が巻いた種じゃないか。お前の口座から振り込め」
組長がくみ子さんに声をかけたので、部下たちは手を止めて彼女の反応をうかがった。
「嫌ですよ。私の口座はプライベートなんですから」
くみ子さんはボロボロになりながらも、強気な姿勢を崩さなかった。
「組の存続がかかっているんだぞ。どうしても振り込めないって言うなら、お前の口座を担保に借金してやる」
「はあ?個人の私物に手をつけるつもりなんですか?組長ともあろうお方が、そんな泥棒みたいなことを?」
咲士さんや他の組員たちが大の字になって倒れている中、くみ子さんだけが体を起こし、声を張り上げて論じていた。
「いいから口座の暗証番号を伝えろ」
「言えるわけないじゃないですか」
このままではらちが明かないと感じた私が、部下にくみ子さんを締め上げさせようとした時、咲士さんが急に大声を出した。
「ちょっとくみ子、勝手に暗証番号を言わないで」
「うるさい。組が潰されるくらいなら、お前みたいに迷惑なやつを切った方がまだましだ」
咲士さんがそう言って、くみ子さんの口座情報を組長に伝えた。すると、くみ子さんが咲士さんの腹を思い切り踏みつける。その間に組長は借金の手続きを進めていた。
「話が済んだぞ。くみ子。お前の名義で闇金から1億を借金してやったから、それを慰謝料として渡せ。これで組は安泰だ」
呆然とした顔で組長の話を聞いていたくみ子さんは、すぐに怒りの矛先を咲士さんに向けた。
「あんたが、あんたが暗証番号なんか叫ぶから、借金させられたじゃないの。どうしてくれるのよ。1億なんて大金」
「元はといえば、お前が勘違いを起こしたからだろう。相手をタチの悪い奴だと思って、話を合わせておけばこんな大事にならなかったんだ。一々当たり屋みたいな真似をするから」
「何よ。自分は中野さんに手を出しておいて、私1人に責任を押し付けるつもりなの?さっきだって、まるで私が全部やったみたいに言ったじゃない」
2人が見苦しい言い争いを続けていると、スマホから組長の凄まじい怒号が響いた。
「お前ら、いい加減にしろ。顔に泥を塗りやがって。それでも反省していないのなら、こっちにも考えがある。咲士、お前から若頭の地位を剥奪してやる」
それを聞いた瞬間、咲士さんの顔が真っ青になった。
「組長、待ってください。俺は今まで組のために尽くしてきたんですよ。それなのに、あんまりじゃないですか」
「それとくみ子、自分だけ逃げられると思うなよ。2人揃っての下働きをしてもらう。1億の肩代わりを思えば、安いもんだろう」
「さっきまでの暴言は謝ります。それだけはご勘弁ください。お願いします、組長」
くみ子さんは必死に謝罪していたが、組長は聞く耳を持たなかった。
「後で幹部の奴らを回収に向かわせる。事務所に戻ってきたら、すぐにでも労働をやってもらうからな」
組長に電話を切られ、途方に暮れたくみ子さんは、崩れるようにその場に座り込んでしまった。そこへ父が近づいて、静かに語りかけた。
「なあ、あんた。これで全部済んだと思っているだろう」
「これ以上、何があるって言うのよ」
口調こそ強気だが、くみ子さんの口から漏れた声はか細く、先ほどまでの覇気はすっかり失われてしまっていた。
「まだ1つ残っているんだよ。俺が楽しみにしていたパンをぐちゃぐちゃにしたバツだ。おい、お前ら、とどめにどついてやれ」
父が部下たちに指示を出すと、くみ子さんたちは再びボコボコに殴られ始めた。
「さてと、こいつらのことは部下に任せるとするか。帰るぞ。もみじの怪我も医者に見てもらわねえとな」
そうして殴られるくみ子さんたちをその場に残し、私と父はもみじを連れて帰宅するのだった。
それから数週間が経過したある休日、私ともみじは再びショッピングモールへ買い物に訪れていた。前回と違う点は、今度は夫が一緒だということだろう。一通り買い物が済んだ頃、もみじが私の足にまとわりついてきた。
「ねえ、お母さん、ソフトクリームが食べたい。前に来た時は食べられなかった。いいでしょ」
正直、あんな恐ろしい目にあったのだから、ソフトクリームがトラウマになっているかもしれないと思っていた。しかし、目を輝かせるもみじを見て、私は安心して笑みを浮かべた。
「いいわよ。何にする?」
もみじが選んだのは、前回と同じくチョコレート味だった。
「今度はちゃんと周りに注意して食べるのよ」
「分かってるよ」
もみじは私の言いつけを守り、周囲をキョロキョロしながら食べていたけれども、今は以前ほど警戒する必要はないだろう。あの一件の後、緑川組の組長が白木組の事務所へ謝罪に訪れたことがあった。その時に聞いた話だと、ことの発端であるくみ子さんは咲士さんと共に緑川組の下働きを続けているそうだ。それと同時に、娘のえみちゃんはどこかの施設に預けられたらしい。離婚していないとはいえ、夫婦揃って過酷な労働をしている現状では、子供も育てられないだろう。ましてやくみ子さんは、人の子供に手を上げるような人物だ。引き離した方が子供のためにもなるだろう。
「今度はおじいちゃんも一緒に、4人でピクニックに行こうね」
「そうね。約束するわ」
私たち親子は、穏やかで楽しい時間を過ごすのだった。



