あの日、私は家族みんなで旅行に来ていた。山道を歩いていたら、突然背中を強く押された。振り返ると、義母が笑っていた。「あんたなんか、いなくなればいいのよ」。崖から落ちていく私を見下ろして、夫も義父も義妹も、全員が笑っていた。あの瞬間、私は20億円の保険金のために殺されそうになっていると確信した。でも、彼らは知らなかった。私の本当の名前は木庭さやか。日本を代表する財閥グループの一人娘だということ…

あの日、私は家族みんなで旅行に来ていた。山道を歩いていたら、突然背中を強く押された。振り返ると、義母が笑っていた。「あんたなんか、いなくなればいいのよ」。崖から落ちていく私を見下ろして、夫も義父も義妹も、全員が笑っていた。あの瞬間、私は20億円の保険金のために殺されそうになっていると確信した。でも、彼らは知らなかった。私の本当の名前は木庭さやか。日本を代表する財閥グループの一人娘だということ...

都心から遠く離れた再開発の影もない寂れた町に、平安会館という古びた葬儀場があった。看板の文字はところどころ剥がれ落ち、薄暗い蛍光灯が今にも消えそうな音を立てている。外では冷たい雨がアスファルトを打ち、寒さに震える野良犬が軒先で身を寄せ合っていた。

菊の間と書かれた式場に掲げられた遺影。そこに写る女性はまだ二十七歳という若さだった。田中さやか。写真の中の彼女は控えめで、優しげな微笑みを浮かべている。だが、その遺影の前に座る四人の姿に、涙を流す者は一人もいなかった。

静まり返るはずの葬儀の席で、不謹慎な忍び笑いと甲高い電子音が響いていた。

「ねえ、これ見てよ、お母さん。今日の私のメイク、完璧でしょ」

スマホの画面を鏡代わりに、派手なリップを塗り直しているのは義妹の田中みさだった。二十五歳になっても定職につかず、親の脛をかじり続けている彼女は、義理の姉の葬儀だというのに自撮りに夢中だった。

「あら、いいじゃない。泣き腫らした悲劇のヒロインって感じで、フォロワー増えるんじゃない?」

そう言ってくすくすと笑うのは義母の田中り子だった。五十五歳。小太りの体に無理やり押し込んだ派手な洋服が窮屈そうだが、その顔には隠しきれない高揚感が滲んでいた。

祭壇の横では、義父の田中茂がスマートフォン片手に電卓アプリを叩いている。

「おい、かずや。保険会社からの連絡は本当なんだろうな。あの金、いつ振り込まれるんだ」

最前列に座る夫の田中かずやは、あくびを噛み殺しながら気のない返事をした。

「ああ、大丈夫だよ、父さん。失踪扱いだから死亡確定までは時間がかかるけど、とりあえず先行払いで二億は降りるって連絡があったよ」

二億。その言葉が出た瞬間、四人の目が野獣のようにぎらりと光った。

二億。それがあればあのうるさい借金取りも黙らせられるし、パチンコだってまた好きなだけ打てる。

茂は満足そうに鼻を鳴らし、電卓をさらに激しく叩き始めた。

「残りの十八億は後から入るんだろう。合わせて二十億。へへ、笑いが止まらねえな」

り子が祭壇の前に置かれた棺を、まるでゴミでも見るような目で見下ろした。

「本当に良かったわ。あの役立たずの嫁が、最後にこんな大きな親孝行をしてくれるなんてね」

彼女は棺の蓋を爪でこつこつと叩いた。中に入っているのはさやかの遺体ではない。警察の捜索でも遺体は見つからず、川の激流に流されて海まで運ばれたと断定されたため、中には古着を着せたマネキンが横たわっているのだ。

「棺台も一番安いやつにしたんでしょうね」

り子がかずやに確認する。

「もちろんさ、一番安いベニヤの棺だよ。どうせ燃やしちゃうし、中身も偽物だし。金かけるだけ無駄だろ」

「よくやったわ。花も最低限。お坊さんも呼ばないんだから。この葬式代だって惜しいくらいよ」

葬儀の参列客は、開式早々にぱらぱらと現れたかずやの会社の同僚数人と、近所の物好きな老婆が一人来たきりだった。それも当然だろう。さやかは天涯孤独のみとし、田中家に嫁いできたのだから。親戚もいなければ、友人を呼ぶことも許されていなかった。

最後の参列客が帰ると、かずやは肩の力を抜き、ふうっと大きく息を吐いた。

「ああ、疲れた。なんで俺がこんな演技しなきゃならないんだ。悲しいふりをするのも楽じゃないよ」

「まあまあ、お兄ちゃん、あと二日の辛抱よ。仮装行列の鐘を鳴らしたら、パーっと旅行にでも行きましょうよ」

みさがかずやの肩をもみながら甘えた声を出した。

「それにしても完璧だったな」

茂が声を潜めていった。

「防犯カメラのない道。目撃者ゼロ。お前があいつを突き落とした時、悲鳴一つ上げなかったって」

り子が不気味に口角を釣り上げる。

「ええ、そうよ。私が背中をどんって押したら、あっけなく落ちていったわ。まるでゴミ袋みたいにね」

「恐怖で声も出なかったんじゃないか。はは、傑作だな。自分が死ぬ瞬間まで、私たちが仲良し家族ごっこしてるって信じてたんだから」

四人は顔を見合わせ、堰を切ったように笑い出した。葬儀場に響くのはお経の声ではなく、嘲りの哄笑だった。

「死んでくれて清々したよ。毎日毎日、貧乏臭い顔して掃除だ選択だって。見てるだけでイライラしたんだ」

かずやが冷たい声で吐き捨てる。

「これで俺たちは勝ち組だ。二十億あればもう一生遊んで暮らせる」

その時だった。廊下の奥から奇妙な音が響いてきたのは。

かつ、かつ、かつ、かつ。

重厚で冷ややかなリズム。それは祭壇の床を叩くハイヒールの足音だった。規則正しく、迷いのないその足音は、静まり返った葬儀場の空気を切り裂くように一歩また一歩と近づいてくる。

「誰だ? まだ参列客か」

かずやが警戒して身を乗り出し、入口の方を向いた。り子も化粧直しの手を止め、不満げに顔を上げる。

「ちっ、今頃来るなんて非常識ね。香典だけ置いてさっさと帰ってもらいなさいよ」

足音は菊の間の閉ざされた扉の前でぴたりと止まった。一瞬の静寂。外の雨音がやけに大きく聞こえる。茂が唾を飲み込む音が室内に響いた。

なぜだろう。ただの客のはずなのに、背筋を氷のような指で撫で上げられたような悪寒が走る。

重厚な扉の取っ手がゆっくりと回った。きいという悲鳴のような音と共に、扉が重々しく開かれていく。

そこには漆黒の闇を背負うようにして、一人の女性が立っていた。濡れ羽色の長い髪をきっちりと結い上げ、オーダーメイドの高級な喪服を身に包んでいる。足元には刃のように鋭いピンヒール。その顔は陶器のように白く、そして美しかった。

り子の目が限界まで見開かれた。

「ひっ……」

喉の奥から空気が漏れるような音がした。茂の手からスマートフォンが滑り落ち、硬い床にガシャンと音を立てて砕け散る。みさは口紅を持ったまま凍りつき、その手から血のような赤いルージュがぽろりと落ちて転がった。かずやは座ったまま体を硬直させ、ガタガタと椅子を鳴らして後ずさりした。

「う、嘘だろ……」

全員の視線が一点に釘付けになる。遺影の中の笑顔と同じ顔。だが、その瞳には柔和な光などかけらもなかった。あるのは全てを焼き尽くすような氷の炎。

女はゆっくりと優雅な足取りで祭壇へと歩み寄った。かつ、かつ、かつ。その一歩一歩が彼らの心臓を踏みつけるカウントダウンのように響く。彼女は棺の前に立つと、慈しむような、しかしどこか冷淡な手つきで棺の蓋を撫でた。そしてくるりと棺を背に、青ざめた四人の家族たちを見下ろした。

その唇が美しい弧を描く。

「皆さん、お久しぶり」

鈴を転がすような、しかし絶対零度の声が空気を震わせた。

「私の葬儀に遅れてごめんなさいね」

─────

時計の針を、あの運命の夜から半年ほど前へと巻き戻そう。

季節は春。桜が散り、新緑が眩しい季節だった。だが、私の心の中には常に冷たい隙間風が吹いていた。

私の本当の名前は木庭さやか。日本経済界の重鎮であり、物流、金融まで手掛ける巨大コングロマリッド、木庭グループ会長、木庭鉄三の一人娘だ。世間から見れば、私は選ばれた人間だった。港区の超高層マンションの最上階に住み、移動は常に運転手付きの黒塗りハイヤー。クローゼットには一度袖を通しただけのオートクチュールが溢れ、誕生日には宝石商が新作のカタログを持ってうやうやしく頭を下げる。

だが、そんな生活のどこに幸せがあるというのだろう。母は私が十歳の時に病で亡くなった。父は仕事の鬼で、家に帰ってくるのは月に数回。広すぎるリビングで一人、高級フレンチのデリバリーを食べる夜は、まるで独房にいるような孤独感に苛まれた。

大学時代も社会人になってからも、私に近づいてくる人間は皆、私の瞳を見ていなかった。彼らが見ていたのは、私の背後にある木庭グループという看板と、父の莫大な資産だけ。

お金なんていらない。ただ、私自身を見てくれる人が欲しい。

その切実な願いが、私を狂気とも言える行動へと駆り立てた。私は父に反発し、家を飛び出した。社会勉強がしたいという名目で身分を隠してアパートを借り、コンビニエンスストアでのアルバイトを始めたのだ。時給九百十円。一ヶ月働いて手にする給料は、かつて父が小遣いとして渡していた額の十分の一にも満たなかった。それでもその金で買うコンビニ弁当は、どんな高級料理よりも美味しく感じられた。

かずやと出会ったのは、そんな生活を始めて三ヶ月が経った頃だった。バイト先の近くにある小さな喫茶店。私は財布の中の小銭を数えていた。あろうことか、コーヒー代が五十円足りなかったのだ。

「あの、すみません。カードでお願いします」

「当店は現金のみでして……」

店員の困った視線に、顔から火が出るような恥ずかしさを感じていた時だった。

「これ、使ってください」

背後からすっと差し出された五十円玉。振り返ると、人の良さそうな笑顔を浮かべた男性が立っていた。少し皺の寄ったスーツに、飾り気のない腕時計。決して裕福ではなさそうだけれど、その瞳は春の日差しのように温かかった。それがかずやだった。

「困った時はお互い様ですから」

彼はそう言って、お礼を言う私にコーヒーを奢ってくれた。私たちはその場で話し込んだ。彼は中堅メーカーの営業マンで、真面目だけが取り柄だと照れ臭そうに笑った。私は両親を亡くした天涯孤独のみで、コンビニバイトで食いつないでいる貧乏人という設定を彼に話した。彼は私の嘘を信じた。そして、財閥の令嬢ではなく、ただの貧乏なフリーターのさやかに優しく微笑みかけてくれたのだ。

「大変だったね。でも、さやかちゃんは偉いよ。一人で頑張ってて」

その言葉が乾き切った心に染み渡った。生まれて初めて、鎧を脱いだ素の私を肯定された気がした。

それから私たちは頻繁に会うようになった。デートは公園のベンチで缶コーヒーを飲んだり、商店街のコロッケを半分こしたりするだけのささやかなものだったけれど、その時間が私にとっては宝石よりも輝いていた。

三ヶ月後、夜の公園でかずやは私の手を取り、膝まずいた。

「さやか、僕には金もないし、大した贅沢もさせてあげられない。でも、君を一人にはしない。僕が君の家族になるよ」

差し出されたのは、給料三ヶ月分にも満たないであろう、小さなダイヤのついたシルバーの指輪だった。私は涙が止まらなかった。ハリーウィンストンでもカルティエでもない。この安っぽい指輪こそが、私にとっての世界一の宝物になった。

「はい。私でよければ、お嫁さんにしてください」

私たちは誰にも祝福されないまま区役所に婚姻届を出した。結婚式は挙げず、写真館で写真を撮っただけ。それでも幸せだった。都内の古い賃貸マンションでの新婚生活。狭いキッチンで二人並んで料理を作り、安物の布団で肩を寄せ合って眠る。愛さえあれば何もいらないと、本気で信じていた。

─────

結婚して一週間が経ったある日、かずやが言った。

「週末、実家に行こう。両親と妹にさやかを紹介したいんだ」

私は緊張しながらも頷いた。彼を育ててくれた両親だ。きっと温かい人たちに違いない。家族のいない私にとって、義理とはいえお父さん、お母さんと呼べる人ができることが嬉しかった。

電車とバスを乗り継ぎ、たどり着いたのは郊外の古い団地だった。外壁の塗装は剥がれ落ち、郵便受けにはチラシが溢れている。階段を上がると、どこかの部屋から焼き魚の匂いと夫婦喧嘩のような怒鳴り声が聞こえてきた。胸の奥で、不安の種が小さく芽吹いた。

「大丈夫。かずやさんのご家族だもの」

三階の部屋。錆びついた鉄の扉の前に立つ。

「母さん、かずやだよ。さやかを連れてきた」

かずやがチャイムを鳴らすと、どたどたという荒っぽい足音が近づいてきた。ガチャリと鍵が開く音。重たい扉が開き、隙間から中年女性の顔が覗いた。義母のり子だった。彼女はぼさぼさの髪を手で撫でつけながら、私を頭の先から足の先まで値踏みする。布製のブラウス、すり切れたバッグ、飾りのないパンプス。彼女の視線が下へ降りるたびに、私の肌は粟立った。

「まあ、いいわ。入りなさい」

値踏みが終わった後の彼女の声には、隠そうともしない軽蔑の色が混じっていた。

通されたリビングは淀んだ空気に満ちていた。吸い殻が山盛りになった灰皿、飲みかけの焼酎ボトル、床に散らばったパチンコ雑誌。ソファには義父の茂がだらしなく寝そべり、その横では義妹のみさがポテトチップスを音を立てて咀嚼しながらスマホをいじっていた。

「お父さん、みさ、かずやの嫁さんだって」

り子の紹介に、茂はテレビから目を離さず「ああ」と短く唸っただけだった。みさに至っては、ちらりと私を見て鼻で笑った。

「ふん。お兄ちゃんの趣味、意外と地味なんだね」

私は膝を揃えて座り、深々と頭を下げた。

「初めまして。木庭……いえ、田中さやかです。至らない点も多いと思いますが、よろしくお願いいたします」

心臓が早鐘を打っていた。嫌われている。直感的にそう感じた。

「で、ご実家はどちらなの? お父様は何をされているの?」

茂が単刀直入に切り出した。お茶の一杯も出されていない。これは挨拶ではなく尋問だった。私はかずやと相談していた通りの設定を口にした。

「両親は私が幼い頃に事故で亡くなりました。身寄りはなく、ずっと一人で生きてきました」

その瞬間、室内の空気が氷点下まで下がった気がした。

「はあ。親なし、か」

茂が初めて私を見た。その目は迷い込んできた野良犬を見るような冷たいものだった。

「じゃあ、何か蓄えもあるのか。土地とか、親の遺産とかは?」

「貯金も、日々の生活で精一杯で……」

私がか細い声で答えると、り子は馬鹿にしたように顔を歪めた。

「ちっ、運の悪い貧乏神を引いたわね。かずや、あんた考えものよ。寄生中を一匹飼う余裕なんて、うちにはないのよ」

「母さん、言いすぎだよ。さやかは働き者だし……」

かずやが弱々しく弁解しようとしたが、り子のひと睨みで口をつぐんだ。私は夫に助けを求めて視線を送ったが、彼は気まずそうに目をそらしただけだった。

その夜の食事は針のむしろだった。出前で取った寿司が並べられたが、私の前には何も置かれなかった。

「あ、ご飯なら台所に冷や飯があるから、振りかけでもかけて食べな」

り子はマグロを頬張りながら私に背を向けた。

─────

それが地獄の始まりだった。

翌日から、私の扱いは家族ではなく奴隷と変わった。「嫁に来たんだから、家のことをするのは当たり前だろう」という茂の言葉を皮切りに、田中家の家事一切を押し付けられたのだ。かずやとの新婚生活は形だけで、私は毎朝四時半に起き、電車で一時間かけて田中家へ通うことになった。

「おい、窓の桟にほこりが残ってるぞ。育ちが悪いと掃除もできねえのか」

茂が怒鳴り散らし、灰皿を床にぶちまける。私は涙を堪えて、這いつくばってそれを拾い集める。

「さやかさん、私のブラウス、手洗いしておいてよ。クリーニング代もったいないし」

みさは脱ぎ散らかした服を私に投げつける。

「ちょっと、味噌汁が薄いじゃない。これだから親に教えられてない子はダメなのよ」

り子は毎食のように料理にケチをつけ、時には私の頭から水を浴びせかけた。手はあかぎれが割れて血が滲んだ。睡眠時間は三時間を切り、体重は一ヶ月で五キロも落ちた。

それでも私は耐えた。かずやさんがいるから。彼だけは私の味方だから。そう信じていた。夜、くたくたになってアパートに帰ると、かずやはいつも優しく抱きしめてくれた。

「ごめんね、さやか。母さんたちも悪気はないんだ。少しずつ認めてもらおう」

その言葉だけが私の命綱だった。

だが、違和感は確実に膨らんでいた。私の給料は全て田中家への仕送りによって消えた。生活費は私の独身時代のわずかな貯金を切り崩していた。かずやは「会社の付き合いがあるから」と、生活費を一円も入れなかったのだ。

財閥としてのプライドなどとっくに捨てていた。ただ愛する夫と平穏に暮らしたい。その一心で、泥水をすするような日々に耐え続けていた。

─────

結婚して三ヶ月が経った、ある湿度の高い午後のことだった。私は田中家でかずやの部屋の掃除を言いつけられていた。彼は週末によく実家に泊まりに来るため、彼専用の部屋が残されていたのだ。散らかった机の上を片付け、引き出しの整理をしようとした時だった。普段は鍵がかかっている一番下の引き出しが、少しだけ開いていることに気づいた。

中には分厚い茶封筒が入っている。何だろう。ほんの出来心だった。夫の秘密を知りたいわけではない。ただ、書類の整理のために中身を確認しようと思っただけだ。

私は引き出しを開け、その封筒を手に取った。ずしりとした重み。封筒の表には「契約書類(中)」と記されている。中から出てきたのは一束の書類だった。一番上にあったのは生命保険の証券。

かずやさん、こんなの入ってたっけ? 何気なく契約内容に目を走らせた。次の瞬間、私の全身から血の気が引いた。指先が震え、書類を持つ手が激しく揺れる。そこに記されていた文字が、脳内で理解することを拒否していた。

被保険者:田中さやか
契約者:田中かずや
受取人:田中かずや

そして死亡保険金の欄に記された数字。ゼロの数が、あまりにも多すぎた。

保険金額:二十億円

呼吸が止まった。心臓が拍動を速めたどころか、破裂しそうなほど激しく脈打っている。私が死んだら、かずやに二十億円が入る。契約したのは私? よく見れば、署名欄の筆跡は私のものではなく、明らかに真似て書かれたものだった。

嘘でしょう。その時、リビングの方から話し声が聞こえてきた。茂と、そして今日会社を休んでいるはずのかずやの声だ。私は本能的な恐怖に突き動かされ、音を立てないように書類を戻すと、ドアの隙間に耳を押し当てた。そこで聞こえてきた会話は、この保険証券よりもさらに恐ろしい悪魔のささやきだった。

「ねえ、かずや。いつまであの薄気味悪い女を置いておくつもり?」

り子の声だ。先ほどまでのヒステリックな金切り声とは違う。低く、ねっとりとした毒を含んだ声。まるで獲物を狙う蛇のようだった。

「母さん、焦らないでよ。まだ結婚して三ヶ月だぞ。今すぐやったら、さすがに警察も怪しむだろう」

耳を疑った。それは間違いなく夫かずやの声だった。私がこの世で唯一信じ、愛し、頼りにしていた人の声だ。だが、そのトーンはあまりにも平坦で事務的だった。まるで明日の天気を話すかのように、妻の死について語っている。

「でもよ、見てるだけでイライラすんだよ。あいつのあのおどおどした目つき。貧乏神が服着て歩いてるみたいでさ」

茂が下品な笑い声をあげた。

「俺のパチンコの借金、もう限度額いっぱいなんだ。早く二億入れてくれよ」

「分かってるよ、父さん。計画は完璧なんだから」

かずやがなめるように言った。

「あいつには身寄りがない。親もいない。親戚もいない。友達もいない。警察が捜査を始めても、熱心に再調査を求める遺族がいないんだ。これほど処理させやすい人間はいないよ」

私の全身からさっと血の気が引いていくのが分かった。膝が震え、立っていられない。私は音を立てないように、その場にうずくまった。彼らが私をいじめていたのは、ただの嫁いびりではなかった。彼らにとって、私は人間ではなかったのだ。二十億円という莫大な金を引き出すための使い捨ての道具。いや、いずれ処分される家畜だったのだ。

「で、どうすんの? 交通事故? それとも火事?」

みさがガムを噛むような軽い調子で尋ねる。

「いいや、山だ」

かずやが答えた。

「来週の三連休、奥多摩の山に連れて行く。あそこなら足場が悪いし、崖が多い。今の時期は人も少ないルートがある。そこで足を滑らせて転落。典型的な山岳事故だ」

「いいね。山なら防犯カメラもないし、目撃者もいない。完璧じゃないか」

茂が手を叩く音が聞こえた。私は逆流してきそうになる胃液を必死に手で口を覆って堪えた。涙が溢れて止まらない。悲しいのではない。悔しいのでもない。ただ恐ろしかった。私が愛した優しいかずやさんは、最初から存在しなかったのだ。あの五十円玉を貸してくれた出会いも、プロポーズの言葉も、全てはこの瞬間のための演出だった。私は悪魔に魂を売った詐欺一家の巣窟に、自ら飛び込んでしまった愚かな獲物だったのだ。

逃げなきゃ。本能が警鐘を鳴らす。今すぐこの家を飛び出し、警察に行くべきだ。だが、証拠は? 保険証券は私の同意なしに作られたものだが、筆跡鑑定や手続きの不備を証明するには時間がかかる。彼らが「妻のためによかれと思って入った」と言い逃れれば、殺人計画の立証は難しいかもしれない。それに、もし今逃げ出せば、木庭グループの令嬢という身分がバレてしまう。父に知られれば、二度と自由な生活は手に入らない。

……いいえ。そんなことを気にしている場合じゃない。命がかかっているのよ。

私は震える手でジーンズのポケットからスマートフォンを取り出した。指がうまく動かない。パスコードを二度間違え、ようやくロックを解除する。ボイスレコーダーアプリを立ち上げ、録音ボタンを押した。赤い丸が点滅し、秒数がカウントされていく。

「高さ五十メートルはある崖を見つけてあるんだ。そこから落ちればまず助からない。即死だ」

「ああ、楽しみね。あの子が死んだら、まずは銀座でブランド物を買い漁るわ」

「俺は高級車だな。ベンツのSクラス」

「私は海外旅行。ハワイって決まってる」

スマホのマイクが、彼らの醜悪な欲望を吸い込んでいく。私の命の値段を賭け、笑い合う声。これが証拠だ。彼らが私を殺そうとしている。動かぬ証拠。

「じゃあ決まりだな。来週の土曜日で結構だ」

かずやが締めくくった。その時、リビングのドアノブが回る音がした。

「さて、あいつ掃除終わったかな? 晩飯の支度させないと」

かずやが部屋から出てこようとしている。私は慌ててスマホをポケットにねじ込み、クイックルワイパーを手に取った。心臓が口から飛び出しそうだった。

ドアが開いた。かずやがそこに立っていた。さっきまで次女の命を奪う計画を話していた男と同じ顔をして、彼はふわりと優しく微笑んだ。

「さやか、掃除ありがとう。ごめんね、母さんたちがうるさくて」

その笑顔を見た瞬間、私は背筋が凍りつく思いがした。仮面。今の私には、彼の笑顔が能面にしか見えなかった。その目の奥には何の感情も宿っていない。ただ残酷な計算と殺意だけが渦巻いている。

「うん。大丈夫」

声を絞り出すのが精一杯だった。震えを誤魔化すために、ワイパーの柄を強く握りしめる。かずやは私の肩に手を置いた。その手は温かいはずなのに、氷のように冷たく感じられた。

「最近疲れてるみたいだね。顔色が悪いよ」

彼は私の顔を覗き込み、慈しむように前髪を撫でた。そして甘い声で囁いた。

「来週の三連休、みんなで旅行に行かないか。奥多摩の方に紅葉の綺麗な山があるんだ。気分転換にハイキングでもしよう」

来た。招待が来た。私の喉元に、見えないナイフが突きつけられている。断れば、別の方法で殺されるかもしれない。この場をやり過ごし、彼らを油断させなければならない。

私は引きつりそうになる口元を必死に動かし、かずやの目を見つめ返した。

「嬉しい。ありがとう、かずやさん。楽しみにしているわ」

「よかった。きっと、一生の思い出になるよ」

かずやは満足そうに目を細めた。その瞳の奥で、死神が鎌を研ぐ音が聞こえた気がした。私は自分の命のカウントダウンが始まったことを悟った。あと一週間。それまでに、私が死ぬか。あるいは─────。

─────

その夜、アパートに戻った私は洗面所の鏡に映る自分の顔をまじまじと見つめた。そこには恐怖に引きつり、冴え渡った女がいた。愛を乞い縋り、それでも夫を信じようとした哀れな女。

「あんたは誰?」

私は鏡の中の自分に問いかけた。

田中さやか。親も金もない。都合のいい家畜。それが今の私。

……本当にそうか。

私は洗面台に水を溜め、顔を沈めた。冷たい水が肌を刺す。息が苦しくなるまで耐え、勢いよく顔を上げた。水滴と共に、目尻に張り付いていた未練が流れ落ちていく気がした。

私は田中さやかではない。日本経済を牛耳る木庭グループの正当後継者、木庭さやかだ。先代から受け継いだ地が、体内で沸騰するように騒ぎ始めた。泣いている場合じゃない。殺されるのを待つなんて、木庭の人間がすることじゃない。

私は寝室のクローゼットの奥底から、古いスマートフォンを取り出した。家を出る時、父との連絡を断つために封印していたものだ。だが緊急時のために、充電だけはしていた。震える指で電源を入れる。電話帳にはただ一件の登録しかない。

「お父様」

発信ボタンを押す親指が重かった。父は私を許してくれるだろうか。勝手に家を飛び出し、こんな男と結婚し、挙句の果てに殺されそうになっている愚かな娘を。……いいえ、私情なんてどうでもいい。生き残るためなら、悪魔に魂を売ってでも力を借りる。

数回のコールの後、聞き慣れた低く威圧的な声が鼓膜を振わせた。

「私だ」

三年ぶりに聞く父の声。涙腺が熱くなったが、私はそれを奥歯で噛み殺した。

「お父様、さやかです」

電話の向こうで息を飲む気配がした。沈黙が流れる。父は怒るだろうか。電話を切るだろうか。

「……どこにいる? 今すぐ迎えに行かせる」

意外なことに、父の声はかすかに震えていた。怒りではない。それは娘を案じる、父親の響きだった。その優しさに触れた瞬間、張り詰めていた緊張の糸が切れそうになった。

「お父様、助けて。私、殺されそうなの」

「何?」

電話越しでも分かる。父がまとう空気が、重厚な社長から修羅場のような殺気へと変わったのだ。

「夫とその家族が、私に二十億の保険金をかけて殺そうとしているの。来週の土曜日、山で突き落とす計画を立てているわ」

「詳しく話せ。一言一句、漏らさずにな」

私は全てを話した。身分を隠して結婚したこと。日々の虐待。そして今日盗み聞きした殺人計画の内容まで。話を終えると、父は氷のように冷たい声で言った。

「その虫けらどもの名前と住所を言え。今夜中にこの世から消してやる。東京湾の底に沈めれば、それで終わりだ」

父なら本気でやるだろう。木庭グループの裏の力を使えば、一般家庭の一つや二つ、闇に葬ることなど造作もない。だが、私は首を横に振った。

「ダメよ、お父様。そんな簡単に終わらせたくない」

私の中で、どす黒い感情が頭をもたげていた。ただ助かるだけでは足りない。警察に突き出すだけでも足りない。私が味わった屈辱、絶望、そして裏切りの痛み。それを何倍にもして、彼らに返さなければ、私の魂は救われない。彼らは金のために私を殺そうとした。だったら、その欲望の頂点で全てを叩き落としてやりたい。私が死んだと思って歓喜している、その瞬間に地獄を見せてやりたいの。

私の言葉に、父は一瞬沈黙し、やがて低く笑った。

「ふふ……はは。さすがは私の娘だ。その心意気が気に入った」

父の声に力が戻っていた。かつて私が恐れ、そして反発した、絶対王者の響きだ。

「いいだろう、さやか。最高の舞台を用意してやる。お前が望む通りの復讐劇を演じて見せろ」

「ありがとう、お父様。お願いがあるの。来週の土曜日、北側斜面の崖の下に……」

私は頭の中で描いた計画を伝えた。山岳救助隊の手配、特殊な安全ネットの設置、ドローンによる証拠撮影、そして弁護団の準備。それは一人の人間を社会的に抹殺するための、あまりにも大掛かりな仕掛けだった。

「全て任せろ。木庭グループの総力を上げてバックアップする。お前はただ、悲劇のヒロインを演じきればいい。愛しているぞ、さやか。無事に帰って来い」

通話が切れた後、私は携帯電話を握りしめ、暗い部屋で一人、微笑んだ。恐怖はもうない。あるのは冷徹な計算と、燃え上がるような闘志だけ。

─────

それからの数日間は、私の人生で最も長い演技の時間だった。私はこれまで以上に大人しく、従順な嫁を演じた。

「お義母さん、肩もみしましょうか?」
「みさちゃん、欲しがってた雑誌買ってきたよ」
「かずやさん、今日もお仕事お疲れ様」

彼らは私の笑顔を見るたび、背後で牙を出して嘲笑っていたことだろう。こいつ、自分が死ぬとも知らずに。……だが、私も同じだった。彼らの醜悪な笑顔を見るたび、心の中で呟いていた。笑っていられるのも、今のうちよ。

そして運命の土曜日がやってきた。皮肉なことに、天気は雲一つない快晴だった。

「絶好の登山日和ね」

私は鏡の前で用意された地味な登山ウェアに着替えながら呟いた。これが、私の死装束になるはずの服。

午前八時。かずやがレンタカーを借りて迎えに来た。マンションの下に降りると、大きめのSUVが止まっている。後部座席には茂とり子、そしてみさが乗っていた。

「おはよう、さやかさん。今日は楽しみね」

窓を開け、り子が満面の笑みで手を振った。その笑顔はあまりにも明るく、そして不気味だった。まるで遠足に行く子供のような無邪気さだが、その目が少しも笑っていない。

「おはようございます、お義母さん。誘っていただいて嬉しいです」

私は精一杯の演技で答えた。

「さあ、乗って。助手席が開いてるよ」

かずやがドアを開けてくれた。

「ありがとう」

車に乗り込むと、車内には余談たる芳香剤の匂いが充満していた。バックミラー越しに、後部座席の茂と目があった。彼はにやりと唇を歪め、すぐに視線をそらした。みさはイヤホンをして音楽を聞いているふりをしていたが、スマホの画面にはブランドバッグの新作の検索画面が表示されているのが見えた。もう隠す気すらないのかもしれない。彼らにとって、私はもう人間ではなく、間もなく換金される小切手でしかなかった。

「じゃあ、出発するよ。奥多摩までドライブだ」

かずやがハンドルを握り、アクセルを踏み込んだ。車は静かに走り出す。流れる景色を見ながら、私は心の中で父に語りかけた。お父様、行ってきます。次に会う時は、全てが終わった後ね。

車は高速道路に入り、都心を離れていく。コンクリートのジャングルから、緑深い山々へ。この道は、彼らにとっては完全犯罪への道であり、私にとっては人生をかけた復讐への花道だった。

「さやか、お腹空いてない? コンビニでおにぎりでも買おうか」

かずやが気遣うように聞いてきた。

「ううん、大丈夫。胸がいっぱいで」

私は嘘をついた。実際は、緊張と吐き気で何も喉を通らない状態だった。

「そうか。ああ、山頂に着いたら、美味しい空気でお腹いっぱいになるさ」

かずやが意味ありげに笑った。

「そうだね。本当に楽しみ」

トンネルに入る。オレンジ色の照明が、私たち五人の顔を交互に照らす。明暗が切り替わるたび、かずやの横顔が悪魔に見えたり、天使に見えたりした。だが、トンネルを抜けた先に待っているのは、もう引き返せない断崖絶壁だ。

─────

「さあ、着いたぞ」

二時間後、車は人気のない登山口の駐車場に滑り込んだ。他の車は一台もない。鳥のさえずりだけが響く静寂の中、四人が車から降り立った。全員リュックサックを背負い、手には軍手をしている。準備万端だ。私を殺すための準備が。

「行こうか、さやか」

かずやが私の手を取った。その手は汗ばんでいた。私はその手を、強く握り返した。これが、夫の手を握る最後になるだろう。

「はい、行きましょう」

私たちは森の奥へと足を踏み入れた。木漏れ日が地面に斑模様を描く中、死のパレードが始まった。木々のざわめきが、まるで死者たちのささやきのように聞こえた。

舗装された登山道を外れ、かずやが先導して進んでいく。それは人が一人ようやく通れるほどの、細く荒れた獣道だった。

「こっちだよ。この先に、ガイドブックにも載っていない絶景ポイントがあるんだ」

かずやが振り返り、爽やかな笑顔で手招きをする。その笑顔は、かつて私が恋に落ちたものと同じだった。だが今の私には、それが罠が獲物を誘い込む時の表情にしか見えない。

「へえ、すごい冒険みたいですね」

私は息を切らせたふりをして、かずやの背中を追った。その後ろにり子と茂、そしてみさが続く。普段なら「汚れる」「疲れる」と文句を言って絶対に歩かないような獣道を、彼らは黙々と登ってきていた。その執念深さに背筋が寒くなる。二十億円という金は、彼らの怠惰な性質すら超越させる魔力を持っているのだ。

足元で落ち葉がからりと乾いた音を立てる。自分の命が削り取られていくような錯覚に陥る。湿った土の匂い、不気味な花の香り。森の深部へ進むにつれ、鳥のさえずりすら途絶え、不気味な静寂があたりを支配し始めた。

「ねえ、お兄ちゃん、まだなの? 足痛いんだけど」

みさが不満げな声をあげる。

「もう少しだ。我慢しろ」

茂が声を潜めるようにして叱りつけた。

「誰にも見られない場所じゃなきゃ、意味がねえだろう」

その言葉は小声だったが、静かな森の中では私の耳にはっきりと届いた。意味がない。そう、彼らが探しているのは絶景ではない。完全犯罪の現場だ。

三十分ほど歩いただろうか。茂みを分けて進むと、突然視界が開けた場所に出た。そこは山の斜面がナイフで削ぎ落とされたように垂直に切り立った断崖絶壁の上だった。

「わあ……」

私は演技ではなく、思わず声を漏らした。目の前には紅葉に染まった奥多摩の山々がパノラマのように広がっている。はるか下には豆粒のような大きさの集落と、銀色の糸のように蛇行する川が見えた。そして足元を見下ろせば、吸い込まれそうなほどの深い谷。柵もロープもない。一歩踏み外せば、遮るものは何もないまま五十メートル下の岩場に叩きつけられる。

「どうだ? すごいだろう」

かずやが満足そうに言った。

「本当にすごい景色。こんな場所があったなんて」

「ああ。ここなら誰も来ない。私たち家族だけの秘密の場所だ」

かずやの言葉に、り子が追いついてきた。息を切らせながらも、その目は爛々と輝き、崖の下を覗き込んでいる。

「ひゃあ、高いね。ここから落ちたら、ひとたまりもないわね」

「ああ、即死だろうな」

茂が呟き、周囲をきょろきょろと見回した。ハイカーの姿はない。遠くにも人影は見えない。完全な密室。

私の心臓が肋骨を突き破るほどの勢いで騒ぎ出した。ここね、ここが私の処刑場。

私はさりげなく崖の下の方を確認した。北側斜面。父に伝えた通りの場所だ。この断崖の視界に入らない直下の岩壁に、父が手配した特殊部隊と安全ネットが待ち構えているはずだ。もし位置がずれていたら、もし準備が間に合っていなかったら、私の体は文字通り肉塊となって谷底に散らばることになる。恐怖で膝が震えそうになるのを、私は下腹に力を入れて必死に堪えた。信じるしかない。父を。そして、木庭の血を。

「さあ、せっかくだから記念写真を撮ろうよ」

かずやがリュックからミネラルウォーターを取り出し、私に手渡しながら言った。

「喉乾いただろう。これ飲んで落ち着いて」

毒が入っているかもしれない。一瞬そう疑ったが、キャップが未開封であることを確認して口をつけた。冷たい水が乾いた喉を通っていく。

「さやかちゃん、あそこの岩の上に立ってみてよ。背景に山が入って、綺麗に撮れるわ」

り子が指差したのは、崖の縁からわずか数十センチしか離れていない場所だった。いよいよだ。

「ええ、いいですね。お義母さんも一緒にどうですか?」

私が提案すると、り子は慌てて手を振った。

「私はいいわよ。主役はあんたなんだから」

そう、今日の主役は私だ。悲劇の転落事故を遂げるヒロイン。私は覚悟を決め、岩場へと歩を進めた。

風が強くなってきた。髪が乱れ、視界を遮る。崖の縁に立つと、重力が私をそこへと引っ張り込もうとするかのような浮遊感に襲われた。怖い。本能が「逃げろ」と叫んでいる。だが、私はここで逃げるわけにはいかない。

「もっと後ろに下がって。そう、もう少し」

かずやがスマホを構えながら指示を出す。私はじりじりと足を後ろへ滑らせた。靴底の小石がからからと音を立てて、崖下へと落ちていく。

「いいよ。すごく綺麗だ」

かずやがシャッターを切るふりをした。その背後で、茂とみさが何やら目くばせをしているのが見えた。彼らは私の逃げ道を塞ぐように、さりげなく左右に展開していた。

「あ、そうだ。ちょっと髪が乱れてるわ」

突然、り子が声をあげた。

「私が直してあげる」

り子がゆっくりと私の方へ歩み寄ってくる。その足取りは、猛獣が獲物に忍び寄るかのようだった。彼女の手には何も持っていない。だが、その瞳には明確な殺意が宿っていた。

私はカメラを構えるかずやの方を見つめたまま、動かなかった。かずやはスマホの画面越しに私を見ていたが、止めるそぶりは一切なかった。それどころか、微笑んだようにさえ見えた。

り子の足音が背後で止まった。私の首筋に、彼女の息がかかるほどの距離。

「さやかさん」

耳元でり子が囁いた。それは先ほどまでの猫撫で声ではなく、地獄の底から響くような怨嗟の声だった。

「あんたなんか、いなくなれば私たちは幸せになれるのよ」

彼女の手が私の背中に触れた。温かみなどない、死神の手。

次の瞬間、どんという鈍い衝撃が背中を襲った。私の体は宙へと投げ出された。視界が反転する。青い空、白い雲。そして、崖の上から私を見下ろす四人の悪魔たちの顔。驚愕? 悲しみ? いいえ。彼らは全員、笑っていた。歪んだ、醜悪な哄笑の笑顔を浮かべていた。

重力が私を捕まえた。風の音がごうごうと耳元で唸りを上げる。私は叫び声をあげなかった。ただ落下しながら、彼らの顔を網膜に焼きつけた。見ていなさい。これが終わりじゃない。

私の体は急速に奈落へと吸い込まれていった。これは落下ではない。これは復讐劇の幕開けだ。引力が私の内臓を上方へと引きずり上げる。轟音が鼓膜を打ち、世界が上下に引き裂かれていく。空が遠ざかる。崖の上に立つ四つの人影が、またたく間に小さな点と変わっていく。

お父様。

私は目を閉じ、身体を胎児のように丸めた。恐怖がないと言えば嘘になる。いくら計算された計画とはいえ、生身の体で虚空へ飛び出す恐怖は、細胞の一つ一つを凍りつかせるほどだった。無限の時間にも感じる数秒間。走馬灯のようにかずやとの思い出が駆け巡るかと思ったが、そんなものは何ひとつ浮かばなかった。脳裏にあったのはただ一点。必ず生きて、あいつらを地獄へ落とす。その執念だけが、恐怖に震える私をつなぎ止めていた。

ばさっ、ぐしゅっ。

突然、猛烈な衝撃が全身を襲った。だが、それは硬い岩盤に骨を砕かれる激痛ではなかった。強靭な繊維が私の身体を受け止め、トランポリンのように大きく沈み込んだのだ。肺の中の空気が一気に押し出される。網の目が身体に食い込むが、痛みはない。

私は荒い息のまま、空を見上げた。止まった。生きてる。

そこは崖の上からは死角となる、岩壁が大きくオーバーハングした窪みの直下だった。岩肌に打ち込まれた太いハーケンに、黒い特殊素材の安全ネットが蜘蛛の巣のように張り巡らされている。

「お嬢様!」

岩陰から、黒い作業服に身を包んだ男たちが数名、物音もなく飛び出してきた。父が手配した救助チームだ。彼らは手慣れた手付きでネットに飛び乗り、私を抱え起こした。

「怪我はありませんか? 意識は?」

リーダー格の男が私の瞳孔を確認しながら、低い声で尋ねる。

「だ、大丈夫。生きてる」

声が震えていた。アドレナリンが過剰に分泌され、指先の震えが止まらない。

「よかった。作戦成功です。すぐに安全な場所へ」

男たちは私をネットから引き上げ、岩場の奥にある小さな洞窟のようなスペースへと誘導した。その時だった。リーダーが唇に人差し指を当て、合図を送った。そして高性能な集音マイクを崖の上へと向けた。手渡されたイヤホンを耳に押し込む。そこから聞こえてきたのは、五十メートル上の地獄の音声だった。

「やった。やったわよ!」

り子の甲高い叫び声だ。

「見た? あいつ、石みたいに落ちていったわ」

「ああ、間違いなく即死だ。あの高さじゃ、人間の形も残ってねえだろうよ」

茂の興奮した声が続く。

「すっごい。本当にあっけなかったね。映画のワンシーンみたい」

みさが手を叩いて笑っている音が聞こえる。そして、かずやの声。

「はは……あっけないもんだな」

かつて「私に一生守ると誓った」口で、彼は乾いた笑い声を漏らしていた。

「これでやっと自由だ。貧乏神が消えて、俺たちの口座に二十億が入ってくる」

「ねえ、あなた、早く警察に電話しなさいよ。妻が足を滑らせたって、泣きながらね」

「分かってるよ、母さん。任せてくれ。俺は演劇部だったんだから」

ざわ、ざわ。彼らがハイタッチでもしているのか、軽い音が聞こえた。

「さあ、行こう。届け出の準備をしなきゃな。今日は特上の寿司でも取るか」

彼らの足音が遠ざかっていく。その一言一言が、私の心臓に焼き印のように押し当てられた。

涙は出なかった。悲しみなどという生ぬるい感情は、落下に耐えるための緊張と共に蒸発していた。残ったのは、純粋な、混じり気のない漆黒の怒り。

洞窟の中で、私は膝を抱え、ガタガタと震えながら笑い出した。

「ふふ……」

「お嬢様?」

救助隊員が異様な様子で私を見る。

「聞こえた。あの人たち、お寿司を取るんですって。私が死んだと思って、お祝いするんですって」

私の声は、自分でも驚くほど低く、冷たかった。

「素敵じゃない」

私は立ち上がり、泥で汚れた登山ウェアを払った。

「隊調、ドローンの映像は完璧に取れています。突き落とす瞬間も、今の会話も、全て記録されております」

隊員がタブレット端末を差し出した。画面の中で、り子が私の背中を押し、落ちていく私を見下ろす四人の顔が高精細度で映し出されている。これだけあれば、彼らを逃すことはない。

「ありがとう。お父様に伝えて。『獲物は網にかかった』と」

「了解しました。すぐに下山ルートへ案内します。裏手にカモフラージュした車両を待機させています」

私はもう一度、崖の上を見上げた。青空は変わらず澄み渡り、鳥たちが平和そうに飛んでいる。あの上で彼らは今まさに、悲劇の遺族の仮面を被り、警察に通報しているのだろう。「妻が、妻が落ちたんです」と泣き叫びながら。

精一杯楽しみなさい。この祝勝の美酒は、すぐに猛毒に変わるから。

私は救助隊員に支えられ、険しい獣道を下り始めた。足取りは重かったが、心はかつてないほど澄んでいた。もう迷いはない。愛していた夫は死んだ。いいえ、最初からいなかったのだ。ここに生まれたのは、怨嗟と反骨に燃える、木庭さやかだけ。

─────

山を下った場所には、窓ガラスを黒く塗りつぶした救急車のような車が止まっていた。スライドドアが開くと、そこにはスーツ姿の初老の男性が待っていた。父の懐刀であり、木庭グループの牙を全て取り仕切る鬼の弁護士、黒田だった。

「お嬢様、ご無事で……」

普段はいつも冷静沈着な黒田が、涙ぐみながら私を迎えた。

「黒田さん、心配かけたわね」

「いいえ。よくぞご無事で。会長もモニターの前で震えておられました」

車内に入ると、大型モニターにいくつもの映像が映し出されていた。崖の上の様子、警察署に向かうであろう彼らの車の追跡映像。そして、彼らの自宅リビングに仕掛けられた隠しカメラの映像。準備は万端だ。

「警察への根回しも、マスコミ対策も、全て完了しております」

黒田が冷徹な業務モードに戻り、眼鏡の位置を直した。

「あとは、彼らがどれだけ踊ってくれるか、ですね」

私はシートに深く身を預け、モニターの中のかずやたちの車を見つめた。赤信号で停車した車内で、かずやがハンドルを指で叩きながらリズムを取っているのが見える。人を殺した直後だというのに、鼻歌でも歌っているのだろう。

「ねえ、黒田さん。葬儀の日取りが決まったら、教えて。私が彼らに送る、最後の手紙を準備しなくちゃいけないから」

車は静かに走り出した。私は窓の外を流れる景色を見つめながら、静かに目を閉じた。脳裏に浮かぶのは、かずやがくれたあの安物の指輪。私は指からそれを抜き取り、車の灰皿へと放り込んだ。からん、という乾いた音が、私の過去との決別を告げた。

「さようなら、田中さやか。そして、おかえりなさい、木庭さやか」

─────

奥多摩の渓谷には、ものものしいサイレンの音がいつまでもこだましていた。赤い灯が回転し、警察の山岳救助隊や機動隊員たちが渓流沿いを捜索している。上空ではヘリコプターが旋回し、強烈なサーチライトで川面を照らし出していた。

「さやか! さやか!」

川岸には、泥だらけになって慟哭する男の姿があった。夫のかずやだ。彼は両手で顔を覆い、泣き崩れている。その背中を、り子がさすりながらハンカチで目頭を押さえていた。

「ああ、なんてこと。嫁に来てまだ三ヶ月だっていうのに」

茂とみさも悲痛な面持ちで、警察官の質問に答えている。

「ええ、写真撮影をしていて足元の岩が崩れて、私たちが止める間もなく……」

警察官は同情的な眼差しでかずやに声をかけた。

「お気を確かに。現在、火流にネットを張って捜索中です。ですが、昨日の雨で増水しておりまして……」

「見つけてください! どんな姿でもいいから、妻のさやかを家に返してやってください!」

かずやの絶叫が渓谷に響き渡る。その姿を見た若い女性警察官が、もらい泣きをしているのが見えた。完璧な演技だった。アカデミー賞ものでしょうね、かずやさん。

その光景を、私は冷えたシャンパンを片手に眺めていた。場所は都心にある木庭グループ系列の総合病院。その最上階にある、セキュリティ万全の特別VIP病棟の一室だ。壁一面に設置された大型モニターには複数の映像が映し出されている。一つは現地のドローンが捉えた彼らの大根役者ぶり。そしてもう一つは、彼らが帰るべき場所。田中家のリビングだ。

「この……よくも……ぬけぬけと」

私の隣で、父が重厚な革張りのソファのアームレストを握りつぶさんばかりに震わせていた。

「落ち着いて、お父様。あれはただの茶番劇よ」

私はバスローブの襟を正し、静かに言った。崖下のネットから救出された私は、極秘裏にこの病院へ搬送された。外傷はほとんどなかったが、精神的なケアと、何より「死んだ人間」として身を隠すために、この要塞のような病室にこもっているのだ。

「しかし、許せん。あんな男に、私の大切な娘が」

「だからこそ、完膚なきまでに叩き潰すのよ。中途半端な制裁じゃ、気が済まないわ」

私はモニターの映像を切り替えた。時刻は午後三時。捜索が日没で打ち切られ、田中家の四人が自宅に戻ってきたところだった。玄関のドアが閉まり、鍵がかかる音がスピーカーから聞こえる。その瞬間だった。

「ああ、疲れた。マジでしんどかったわ」

みさが玄関にヒールを蹴り飛ばし、どかどかとリビングに入ってきた。先ほどまでの悲痛な表情はどこへやら。不貞腐れた態度でソファに倒れ込む。続いて入ってきたり子も、地味な服を脱ぎ捨てながら大きなあくびをした。

「本当、やりすぎなくらい泣いちゃって、目が痛いわよ」

「警察もしつこいんだからな」

かずやが冷蔵庫から缶ビールを取り出し、ぷしゅっ、と音を立てて開けた。

「まあいいさ。警察は完全に事故だと思い込んでる。俺の演技、見事だったろ? あの不審な女刑事なんて、泣いてたぜ」

彼はビールを煽り、けらけらと笑った。

「傑作だったな。お前、俳優になれるぞ」

茂も焼酎のボトルを抱えて上機嫌だ。私はモニターを見つめる目を細めた。これが彼らの本性。私が愛したと信じていた家族の、裏側にある中身だ。

「おい、寿司はまだか? 特上寿司、五人前頼んだんだろう」

茂が急かす。

「もうすぐ来るよ。さやかが死んだし、今日はパーっとやろうぜ」

かずやが言い放った言葉に、父が立ち上がりかけたが、私はその手を制した。

「見てなさい。ここからが本番よ」

─────

しばらくして、チャイムが鳴り、寿司桶が運び込まれた。彼らは私の死を寿司で祝い始めた。

「うん、美味しい。やっぱり高い寿司は違うわね」

り子が醤油の入った小皿を掲げながら叫ぶ。

「これからは毎日こんな飯が食えるんだ。夢みたいだな」

食事が進み、アルコールが回ると、話題は自然と金のことになった。

「で、保険とは話がついたのか」

茂がかずやに尋ねる。

「ああ。遺体が見つからないから失踪扱いになる。死亡確定までは法的に時間がかかる。でも、状況証拠が揃ってるし、警察の事故証明があれば推定死亡として処理できるそうだ」

かずやはマグロをほおばりながら、にやりと笑った。

「とりあえず先行給付金として二億。これは来週にも振り込まれるってさ」

二億。四人の視線が重なった。

「残りの十八億は一年後だ。まあ、二億あれば当面は遊んで暮らせるだろう」

「借金返して、車買って、旅行行って……」

「私のバッグも忘れないでよ」

「分かってるって。山分けだ」

彼らは電卓を叩き、まだ手に入っていない金の配分で盛り上がっている。私の命がブランドバッグや高級車、そしてパチンコ台に換算されていく。怒りを通り越して、哀れみさえ感じた。彼らは知らないのだ。その二億円が、彼らを破滅させるための罠であることを。

「そういえば、葬式はどうすんだ?」

茂が爪楊枝で歯をしししし言わせながら言った。

「やらないとまずいだろう。近所の目もあるし、会社の手前もある」

「やるわよ。形だけはね」

り子が面倒くさそうに手を振った。

「でも金はかけないわよ。どうせ死体もないんだし、燃やすものもないんだから」

「一番安いプランでいいよな」

かずやがスマホで検索を始めた。

「お、ここ安いぞ。一時間プラン九千円。これにしよう」

「棺桶はオークションで一番安いのがある。ベニヤ板みたいなやつだ。中身は……そうだな。リサイクルショップで買ったマネキンでも入れておけば、重さの誤魔化しになるだろ」

「ぶ、あはは。マネキンだって」

みさが腹を抱えて笑い転げた。

「受ける。お義姉ちゃん、最後はマネキンになっちゃうんだ」

「花もいらないわね。菊の花一本あれば十分よ。もったいない」

り子が冷冷と言い放つ。

「遺影は? 結婚式の時の写真、あれ使えばいいわ」

「あの地味なやつ? 修正アプリでちょっと見栄えよくしておいてやるか」

彼らの会話が、高感度のスピーカーを通して病室に響き渡る。私の葬儀を、ゴミ処理のように語る彼ら。マネキン、ベニヤ板、花一本。それが彼らが私に用意した、最後の舞台装置だった。

父の顔色は、怒りで紫色になっていた。

「殺す。今すぐ特殊部隊を突入させて、全員八つ裂きにしてやる」

「待って」

私は静かに立ち上がり、モニターの電源を切った。ぷつん、という音と共に、彼らの醜悪な笑顔が暗転する。

「彼らは葬式をすると言ったわ。なら、その願い、叶えてあげましょう」

私はサイドテーブルに置いてあった内線電話の受話器を取り上げた。相手は隣室に待機している弁護士の黒田だ。

「黒田さん、聞こえていたわね」

「はい、お嬢様。鳥肌が立つ思いです」

黒田の声も震えていた。

「彼らが予約した葬儀場、すぐに特定して。そして、木庭グループの力で、その葬儀場の予約枠を全て押さえなさい。ただし、彼らの予約だけはそのまま生かしておいて」

「とおっしゃいますと?」

「会場は貸し切りにするの。一般の参列客なんて来させない。その代わり、私はガラスに映る自分の顔を見つめた。そこにはもう、涙の跡はなかった。冷徹な復讐者の瞳が光っているだけだ。

「私が参列するわ。私の葬儀にね。最高の演出をしてあげる。彼らが腰を抜かして、二度と立ち上がれなくなるような、痛快なサプライズを」

「承知いたしました。警備チーム、弁護団、そして警察への根回し。全て完了させます」

受話器を置くと、私は父に向かって微笑んだ。

「お父様、久しぶりにお父様のお力をお借りしてもいいかしら?」

父は深く頷き、私の肩を抱いた。

「木庭鉄三の娘を敵に回したことを、後悔させてやろう」

─────

槍は投げられた。次は、嘘の葬儀が行われる葬儀場が舞台だ。そこで私は、棺の中からではなく、正面玄関から堂々と帰還する。地獄の底から這い上がってきた悪夢として。

確認しました。かずやの震える声が、高性能のマイクを通じて病室に響いた。モニターの中の彼らは、リビングのローテーブルに置かれたノートパソコンを、まるで神棚でも拝むかのように取り囲んでいる。かずやがエンターキーを押し、ネットバンキングの残高画面を更新した瞬間だった。

「うおおお! 入った! 本当に入ってるぞ!」

かずやが野獣のような咆哮を上げた。

「見ろよ、このゼロの数。二億だ! 二億一千万……間違いない、二億円だ!」

その瞬間、田中家のリビングは狂乱の宴と化した。

「やったあ!」

みさが奇声を上げながらソファの上で飛び跳ねる。

「これで人生逆転だ! もう底辺生活とはおさらばだ!」

茂がビールの空缶を床に叩きつけて叫ぶ。

「これで全部終わりよ!」

り子は画面上の数字に目を輝かせ、涙を流していた。

「長かった。本当に長かったわ。借金に怯える日々も、安売りのスーパーをはしごする惨めな生活も、これで全部終わりよ!」

私は冷めた紅茶を一口含み、その醜悪な光景を見つめていた。私の命の対価。彼らにとって、私は妻でも嫁でもなく、単なる換金可能な小切手だったことが、この上なく明確に証明されていた。

「よし、まずはあのクソみたいな借金取りだ」

茂が震える手でスマートフォンを取り出した。

「おい、俺だ。田中だ。うるせえ、金ならあるんだよ。今から全額振り込んでやるから、借用書用意して待ってろ。二度と俺の家の前をうろつくんじゃねえぞ!」

電話を切った茂は、ふんぞり返って高笑いした。

「はは、ざまあみろ。あの高圧的な態度が、ぺこぺこしやがって」

「私はエルメスよ。今すぐ銀座に行くわ」

みさが上着をひっつかんだ。

「お兄ちゃん、私の取り分、三千万だよね。先に五百万くらい振り込んでよ」

「バカ野郎。今はまだ、目立つような金遣いはするなと言っただろう」

かずやがいさめるが、その顔は緩みきっている。

「まあいい、カードで買っておけ。引き落としまでには、俺の口座から振り込んでやる」

「やった! 愛してるよ、お兄ちゃん。あ、違うか。愛してるよ、死んだお義姉ちゃん」

みさが天井に向かって投げキスをした。

死んだお義姉ちゃん、か。私はカップをソーサーに置いた。かちゃり、という高価な音が病室に響く。隣に座る父は、怒りのあまり顔を覆っていた。気持ちは分かる。あまりにも耐え難いのだろう。自分が手塩にかけて育てた娘が、こんな卑劣な人間たちに「死んでよかった」と感謝されているのだから。

「ねえ、あなた。私はリフォーム業者を呼ぶわ」

り子がうきうきとした声で言った。

「このボロ団地ともおさらばしたいけど、まずは実家を綺麗にしなきゃ。キッチンはドイツ製のシステムキッチンにして、お風呂はジャグジー付きにするの」

「車だ。俺はずっと欲しかったベンツのGクラスを買う」

かずやがパソコンで高級車のサイトを開き始めた。

「オプション全部のせで二千五百万。へえ、二億あれば余裕だな」

彼らの欲望は止まらない。私が死亡確認されてからまだ一週間も経っていない。警察はまだ捜索を縮小しながらも続けているというのに、彼らの頭の中には喪失感など一片たりとも存在しなかった。あるのは底なしの物欲と欲望だけ。

「そういえば、かずや。葬儀屋の予約は取れたのか」

茂が思い出したように尋ねた。

「ああ、明後日の午前十時からだ。場所は駅前の平安会館。一番小さい菊の間だ。家族葬プランで、費用は全部込みで三十万。香典が入ればトントンか、少しプラスになるくらいだろう」

「三十万? 安いわね」

り子が感心したように言った。

「あの子、最後まで親孝行だね。死ぬ時まで、金をかけさせないなんて」

「参列者は知れてるよ。俺の会社の同僚数人と、近所の連中くらいだ。あいつには親も友達もいないってことになってるからな」

かずやは冷淡に言い放った。

「まあ一応、涙くらいは流してやるさ。それが旦那としての最後の仕事だからな」

「大変ね。目薬、用意しておきなさいよ」

みさがけらけらと笑う。

「葬式なんて、ただの儀式よ。誰かが見てるからやる。社会的な体裁のためにやる。それだけだ。中身のない棺桶に向かって念仏を唱えて、早く終わらせて焼肉でも食いに行こうぜ」

ぷつん。私の中で何かが完全に切れる音がした。それは我慢の限界ではない。彼らを人間として扱う理性の糸だ。

「黒田さん」

私は受話器を取った。声は自分でも驚くほど落ち着いていた。

「はい、お嬢様」

「明後日の午前十時、平安会館、菊の間。承知いたしました。すでに手配は完了しております」

黒田の声は氷の刃のように研ぎ澄まされていた。

「木庭グループ法務部精鋭三十名、警備部二十名、そして警視庁捜査一課の担当刑事。全てスタンバイ可能です」

「ありがとう。それと、彼らが注文した一番安い棺桶だけど、中身のマネキンは抜いておいて。私が戻る場所を開けておいて欲しいの。ただし、棺の中に入るつもりはないけれど」

私は電話を切ると、立ち上がった。父が異様な様子で私を見上げる。

「さやか、本当に行くのか? お前が直接手を下さなくても、我々だけで十分に……」

「いいえ、お父様」

私は首を横に振った。

「これは私の戦いなの。私が始めた物語は、私の手で幕を下ろさなきゃいけない」

私は窓辺に歩み寄った。眼下に広がる東京の夜景。その無数の光の一つ一つに、人々の営みがある。かつては、あの小さな灯りの中でかずやと慎ましく生きることを夢見ていた。五十円玉を貸してくれた優しさ、プロポーズの言葉。それら全てが、二十億円という金の前では紙くず同然だったのだ。

かずやさん、あなたは「役者だ」と言ったわね。窓ガラスに映る自分に向かって、私は語りかけた。

ええ、その通りよ。それは役になるわ。ただし、脚本を書くのはあなたじゃない。私よ。主役は死んだはずの妻。そして観客は警察とマスコミ、そして日本中の人々。あなたたちには、最高の悪役を演じてもらうわ。

私はクローゼットを開けた。そこには明後日のために用意された特注の喪服がかけられていた。漆黒のシルク。シンプルだが、見る者が息を飲むほどに洗練されたデザイン。それはかつての地味で貧乏な田中さやかが、一生かかっても手に入れられない木庭家の風格だ。

待っていなさい、かずや。お義母さん、お義父さん、みさちゃん。あなたたちが手に入れたのは、ただの仮払い金に過ぎない。その代償として、あなたたちは自由と未来の全てを支払うことになるのよ。

─────

翌日、田中家は葬儀の準備に追われていた。と言っても、彼らが気にしていたのは、いかに安く済ませるか、いかに悲劇の家族に見えるか、という点だけだった。

「ねえ、私のネイル、黒にした方がいいかな。それとも肌色にしておく? 派手すぎると怪しまれるし」

「お父さん、明日が本番なんだから、パチンコ屋に行くのはやめろよ」

「分かってるよ。終わったら行くさ」

彼らは知らない。その「本番」が、彼らの人生における転落への階段であることを。

そして、運命の朝がやってきた。空は皮肉なほどに青く晴れ渡り、絶好の葬儀日和になっていた。私は病院の鏡の前で、最後の身支度を整えた。黒のストッキング、黒のピンヒール、髪を一分の隙もなくまとめ、薄く、しかし凛としたメイクを施す。仕上げに、真珠のネックレスを首にかけた。それは母の形見であり、木庭家の女性が代々受け継いできた「戦いの守り」でもあった。

「行こう、さやか」

タキシードに身を包んだ父が、扉を開けて待っていた。その背後には屈強なSPたちと、黒いスーツの弁護団がずらりと並んでいる。まるでこれから国葬に向かうかのような気迫。

「はい、お父様」

私はハイヒールを鳴らし、一歩踏み出した。かつ、かつ、かつ。その音は復讐へのカウントダウン。さあ、開幕だ。

─────

午前十時。東京都郊外の寂れた葬儀場、平安会館。一階の間には湿った線香の匂いと、安っぽい芳香剤の香りが立ち込めていた。収容人数三十名ほどの小さなその部屋は、私の人生の幕引きをする場所としては、あまりにも寒々しく、そして空ろだった。祭壇はカタログの中で最も安価なプランのものだ。白い布がかけられただけの、朽ちかけた白菊が数本、無造作に花瓶に投げ込まれている。遺影の額縁はプラスチック製で、照明の角度によっては安っぽく光を反射していた。写真は、結婚式の時に写真館の隅で撮ったスナップ写真を、かずやがコンビニのプリンターで引き延ばした粗い画質のものだった。

そして中央に鎮座する白木の棺。その中には、私の亡き骸の代わりに、リサイクルショップで三千円で買ってきたというマネキン人形が横たわっている。私が普段着ていたユニクロのフリースを着せられ、顔には白い布がかけられていた。「仮焼場で燃やす時に、服だけ燃えれば骨っぽく見えるだろう」と、かずやが笑いながら言っていた言葉を思い出す。

参列者の席にはパイプ椅子が二十脚ほど並べられているが、埋まっているのは最前列の四席だけだった。最前列に座る夫のかずや。その隣に義父の茂、義母のり子、そして義妹のみさ。全員が黒い喪服を着ているが、その姿から「哀悼」の文字など、かけらも感じられない。

「ああ、眠い」

みさが大きなあくびを噛み殺しもしないで、長い付け爪でスマホの画面をかちかちと叩いた。

「ねえ、見てよ、これ。このブランドの新作バッグ、限定色だって。三百万もするけど、今のうちなら余裕だよね」

「バカ、声が大きい」

かずやが小声で叱るが、その視線はみさのスマホ画面を覗き込んでいる。

「三百万か。まあ、二億入れば誤差みたいなもんだな。買っちまえよ」

「やった。さすが太っ腹」

「おい、香典はまだ集まらねえのか」

茂が受付の方を気にしながら貧乏ゆすりをしている。

「会社の連中が来るのは昼休みだろ。それまで辛抱しろよ。ちっ、パチンコ屋の開店時間に間に合わねえじゃねえか」

り子は祭壇の横に置かれた花瓶の名札を見上げて鼻を鳴らした。

「田中かずや様……これ一つ出すのに一万五千円も取られるの? 信じられないわ。スーパーで買えば千円もしないのに」

「形式だよ、形式。これがないと格好がつかないだろう」

かずやがネクタイを緩めながら答えた。その時、入口の自動ドアが開く音がした。

「来たぞ。会社の部長だ」

かずやが鋭く囁く。その瞬間、四人の空気が一変した。だらけきっていた背筋が伸び、スマホはポケットに隠され、顔には悲劇の遺族の仮面が貼りつく。

「さやかぁ……どうして……」

かずやが両手で顔を覆い、肩を震わせ始めた。り子はハンカチを目元に当て、隙なく演技に入る。みさと茂も渋面で俯いた。

「この度はご愁傷様です」

初老の男性が二人、気まずそうに入ってきた。かずやの上司と同僚だ。遺影の前で手を合わせ、かずやに向かって頭を下げる。

「奥様、まだ若かったのに。本当に残念です」

「ありがとうございます。妻も、皆様に来ていただいて喜んでいると思います」

かずやは充血した目を擦った。さっきまで目薬をさしていたのだ。

「山が好きだったんです。あんなに楽しみにしていたのに……僕がもっと注意していれば……」

「自分を責めないでくれ。これは不幸な事故だったんだ。仕事のことは忘れて、ゆっくり休むといい」

部長がかずやの肩を叩く。五分ほどの滞在で、弔問客たちはそそくさと帰っていった。気まずい空気に耐えられなかったのだろう。あるいは、あまりにも寂しい会場の雰囲気に居心地が悪かったのかもしれない。

自動ドアが閉まり、足音が遠ざかるのを確認すると、かずやは即座に泣き顔を解除した。

「ふう。言えたか」

「お疲れ。すごい演技力だね。アカデミー賞ものだよ」

みさがけらけらと笑う。

「香典は? 幾らだった?」

茂が受付台にあった香典袋をひったくるように開けた。

「一万か。けち……いや、まあ、ないよりましよ。これで今日の寿司代にはなるわ」

り子が袋から札束を抜き取り、自分のバッグにねじ込んだ。

その後、近所の主婦が一人顔を出した以外、参列客は現れなかった。正午を回ると、会場は完全な静寂に包まれた。お経を上げる僧侶もいない。BGMとして流れる安っぽいクラシック音楽だけが、空虚な空間を漂っている。

「もう来ないわね」

り子がパイプ椅子に踏ん張って座り直し、退屈そうに言った。

「ああ、お腹空いた。出前でも取れないのかしら」

「我慢しろよ、母さん。あと一時間くらいしたら、仮焼場へ移動だ」

かずやが腕時計を見た。

「移動車も一番安いのを手配したから、裏口に回してもらうことになってる」

私はその時、会場に向かう車の中で、リアルタイムの盗聴音声を聞いていた。思わず、乾いた笑いが漏れる。彼らは私の「最後の旅立ち」を、まるで荷物配送のように済ませるつもりなのだ。

会場では、手持ち無沙汰になったり子がふらりと立ち上がり、棺の方へと歩み寄っていった。白木の棺に窓が開いている。本来なら、最後に故人の顔を見て別れを告げるための窓だ。り子はその窓から、白い布を被せられたマネキンの顔を覗き込んだ。

「ねえ、さやかさん」

り子がマネキンに向かって話しかける声が、マイクに聞こえてくる。

「あんた、本当にいい嫁だったわよ。最後にね、生きてる時は暗いし、貧乏臭いし、目障りなだけだったけど、死んで二十億に化けてくれるなんて、最高の錬金術じゃない」

り子は棺の縁をばんばんと叩いて笑い出した。

「ああ、清々した。これで家の中の空気が綺麗になるわ」

「全くだ」

かずやも近づいてきた。彼は棺の中の「妻」に向かって、吐き捨てるように言い放った。

「愛してたよ、さやか。お前のその値段でな」

「ぶはっ。お兄ちゃん、さすがにひどい」

みさが手を叩いて爆笑する。

「でも本当だよね。お義姉ちゃん、生きてる時より今の方がずっと価値あるもん」

「えげつねえな。骨も残らねえのが残念だが、マネキンが残ればそれでいい」

茂も笑い、四人で棺を囲んで嘲笑った。

「さあ、そろそろ閉めるか。マネキンが風邪引いちまう」

かずやが棺の蓋に手をかけた時だった。

「本当に、死んでくれてよかったわ」

り子がしみじみと言った。

「これで私たちの人生、バラ色よ。ねえ、聞こえてる? さやかさん。地獄で指くわえて見てなさいよ」

その瞬間─────。ぶおおんっ。という重低音のエンジン音が、建物の壁を震わせるほどに響き渡った。一台ではない。何台もの大型車のエンジン音が重なり合い、地響きのように近づいてくる。砂利を踏みしめるタイヤの音、金属的なブレーキ音、ばたん、ばたん、と重厚なドアが開閉する音が連続して聞こえた。

「な、なんだ?」

茂が驚いて入口の方を振り返った。

「トラックでも来たのか? うるせえな」

「ちょっと見てくる」

かずやが警戒した顔で立ち上がり、ホールの入口へと向かった。

ガラス張りの入口の向こう。そこには、信じられない光景が広がっていた。寂れた平安会館の駐車場を埋め尽くすように、黒塗りの高級車がずらりと並んでいる。ベンツ、BMW、ロールスロイス。その全てが漆黒に輝き、威圧的なオーラを放っている。そして、それぞれの車の周りには屈強な男たちが直立不動で並んでいた。全員が黒いスーツにサングラス、耳にはインカムを装着している。その数、五十人は下らない。

「な、なんだあれ? ヤクザの親分でも死んだのか? 場所間違えてんじゃ……」

かずやの声が上ずる。男たちの中央、最も大きなリムジンのドアが、うやうやしく開かれた。そこから降り立ったのは、仕立ての良いスーツを着た初老の紳士。鋭い眼光、圧倒的なカリスマ性。かずやはその顔に見覚えはなかったが、本能的に後ずさった。

そして、その紳士のエスコートを受けて、車内から一人の女性が姿を現した。ハイブランドの喪服、顔を覆う黒いベール。その隙間から覗く、血のように赤いルージュ。

かずやの心臓が、どくん、と嫌な音を立てた。まさか。ありえない。そんなはずはない。だって、あいつは死んだんだ。五十メートルの崖から落ちて、激流に飲み込まれたんだ。

女性はゆっくりと顔を上げ、かずやの方をじっと見据えた。距離はある。ガラス越しだ。だが、かずやには分かった。その目が、かつて自分が葬ったはずの妻の目であること。

女性が歩き出す。かつ、かつ、かつ。アスファルトを叩くハイヒールの音が、かずやの鼓膜に死刑執行の足音として響いた。自動ドアが、ウィーン、という無機質な音を立てて開いた。

かずやは亡霊を見たかのように顔面を蒼白にし、後ずさりしながらロビーから式場内へと転がり込んだ。

「お、おい、かずや。どうした? 顔色が悪いぞ」

茂が警戒した声をかけるが、かずやは口をぱくぱくさせるだけで、言葉が出てこない。喉の奥が引きつり、声帯が凍りついているのだ。

その時、葬儀場の静寂を切り裂く音が響き始めた。かつ、かつ、かつ、かつ。祭壇の床を叩く、重厚で規則正しいハイヒールの音。それは単なる足音ではなかった。まるで処刑台へと続く階段を登る死刑執行人の足音のように、重く、鋭く、そして確実に近づいてくる。

「な、なんだ? 客か? 今頃?」

り子が不満げに顔を歪め、腰を浮かせた。

「香典なら受付に置かせなさいよ。全く、間の悪い……」

だが、次の瞬間、彼女の言葉は喉の奥で消滅した。菊の間の入口に、黒いスーツを着た男たちがなだれ込んできたのだ。一人や二人ではない。五人、十人。屈強な体格の男たちが無言のまま次々と入室し、壁際へと整列していく。全員が耳にインカムを装着し、サングラスの奥から鋭い眼差しを放っている。狭い式場は、またたく間に異様な緊張感に包まれた。

「な、なんだ! 君たちは! どこの組の人だ!」

茂が震える声で怒鳴るが、男たちは微動だにしない。そして、黒い壁が左右に割れ、その中央から一組の男女が姿を現した。初老の紳士にエスコートされ、ゆっくりと歩みを進める女性。漆黒のベールを上げると、そこには陶器のように白く、冷徹な美しさを湛えた顔があった。

り子の手からハンドバッグが滑り落ちた。どさっ、という鈍い音が静寂の中でやけに大きく響く。みさはスマホを取り落とし、画面が床に当たってぴしりとひび割れた。茂は口を半開きにしたまま、顎が外れそうなほど驚愕している。そして、かずやは腰が抜けたようにその場にへたり込み、ガタガタと震えながら指をさした。

「さ……さや……か……」

私は能面のような無表情で彼らを見回した。かつて私をゴミのように扱い、奴隷のようにこき使い、そして崖から突き落として高笑いしていた家族たち。今の彼らの顔色は、死人のように土気色だ。

私はゆっくりと口を開いた。その声は、かつてのおどおどした私のものではなく、氷点下の刃のようだった。

「あら、驚かせてごめんなさい」

私は優雅に微笑んだ。唇の端だけを釣り上げる、冷たい笑み。

「私の葬儀だと聞いて駆けつけたのだけれど……少し、遅かったかしら」

「ひっ……幽……幽霊!」

り子が短い悲鳴をあげ、パイプ椅子ごと後ろにひっくり返った。

「来るな! こっちに来るな! 悪霊……悪霊が!」

茂もほうきを振り回しながら叫んでいる。無理もない。彼らは確かに見たのだ。私が五十メートルの断崖絶壁から落下し、姿を消した瞬間を。あの高さから落ちて生きているはずがない。つまり、目の前にいるのは復讐のために黄泉の国から舞い戻った怨霊だと、信じ込んでいるのだ。

「お義母さん、そんなに怯えないで」

私は一歩、また一歩と祭壇へ近づいていく。私の動きに合わせて、黒服の男たちが壁のように囲みを狭めていく。

「幽霊なんて失礼ね。ちゃんと足もあるわ」

私はこつん、とヒールを鳴らして見せた。

「う、嘘だ……嘘だ……嘘だ……嘘だ……」

かずやが床に這いつくばったまま、涙目で首を横に振っている。

「お前は死んだはずだ! 俺が見たんだ! あの崖から落ちて、水しぶきが上がって……」

「ええ、落ちたわ。あなたが『絶景だ』と言って連れて行ってくれた、あの場所から」

私はかずやを見下ろした。

「でも残念ながら、私を抱き留める運命の網があったの。…………ちょっと高かったけどね。昔、あなたが貸してくれた五十円玉みたいに」

皮肉を込めてそう言うと、かずやの顔が絶望に歪んだ。

「生きてるのか……?」

「ええ、ピンピンしているわ。あなたたちが私の命の値段で賭けをして、お寿司を食べている間もね」

私は祭壇の前に立った。ここには白い布をかけられたマネキンが横たわっている棺がある。私は無造作に布をめくった。現れたのは無機質なプラスチックの顔。私が着古したフリースを着せられ、顔を覆われた哀れな人形。

「これが私」

私は人形の顔を指でなぞった。

「随分と安上がりな舞台装置ね。私の命は、このプラスチックの塊と同じ価値だったのかしら」

「ち、違うんだ!」

かずやが必死に弁解しようと立ち上がろうとするが、足に力が入らず、再び崩れ落ちる。

「誤解なんだ! 俺たちは……お前が死んだと思って、悲しくて! それで……」

「悲しくて?」

私は花で笑った。

「悲しくて、前祝いに特上寿司を五人前も食べたの? 悲しくて、私の保険金でベンツのGクラスを買おうとしたの?」

かずやの目が点になった。なぜそれを知っているのか。家の中での会話を。なぜこいつが知っているのか。恐怖が混乱へと変わっていく。

「どういうことだよ! なんで家の会話を……」

茂が意味もなく詰め寄ろうとする。

「あんた、まさか最初から……」

「お黙りなさい」

私の隣に立っていた紳士、父の木庭鉄三が、雷のような一喝を放った。その声の圧力に、茂はびくっと肩を震わせて口を閉ざした。父は一歩前に出ると、軽蔑しきった眼差しで四人を見回した。

「貴様らがどこの馬の骨とも知れぬ者だと思っていたが、まさかこの娘が誰だか分かっているのか」

り子が震えながら顔を上げた。

「だ、だって……あの、親なしの貧乏人の田中さやかでしょう?」

まだ理解していない。彼らの脳内では、私はまだ「いじめてもいい弱者」のカテゴリーにいる。偶然生き延びただけの生意気な嫁。そう思っているのだ。

「ふざけるな」

父の怒声が、びりびりと空気を震わせた。

「この娘は田中さやかではない。私、木庭鉄三の、たった一人の娘。木庭さやかだ」

「木庭……?」

みさが呆けたように呟いた。

「まさか、あの木庭グループの……」

「そのまさかだ」

父が懐から名刺を取り出し、ひらりと床に放った。金縁で縁取られた黒い名刺が、かずやの目の前に舞い落ちる。

「木庭グループ会長、木庭鉄三」

かずやは震える手でそれを拾い上げ、息を飲んだ。日本で生きていて、木庭グループの名を知らない者はいない。建設、金融、流通。あらゆる産業を牛耳る巨大財閥。その頂点に立つ男が、今目の前に立っている。そして、自分が「貧乏神」と蔑み、崖から突き落とした妻が、その令嬢だったという事実。

「あ……ああ……あああ……」

かずやの口から、言葉にならない空気だけが漏れる。事態の大きさが、ようやく彼らの愚かな脳みそにも浸透し始めたようだ。殺人未遂、それだけでも重罪だが、相手が悪すぎた。彼らは虎を踏んだのではない。ドラゴンの尾を踏んだのだ。

「う、嘘よ……そんなの嘘!」

り子が現実逃避するように頭を抱えた。

「だって、あんた言ったじゃない! 親は死んで、施設育ちで、コンビニでバイトしてるって!」

「ええ、言ったわ」

私は冷やかに答えた。

「あなたたちが、金や肩書きのない私自身を愛してくれるかどうか、知りたかったから。でも結果はこれよ」

私は棺をこん、と叩いた。

「あなたたちが愛したのは私じゃなかった。私の命にかかった保険金だけ。違う?」

「違う! 誤解だ!」

かずやが叫んだ。

「俺は……俺は知らなかったんだ! お前がそんなお嬢様だなんて、知ってたらこんなこと……」

「知っていたら殺さなかった?」

私はかずやの目の前まで歩み寄り、見下ろした。

「それとも、木庭家の令嬢だと知っていたら、もっと上手に取り入って、私を利用し尽くしたのかしら?」

かずやは言葉に詰まった。どっちにしろ、あなたは私を食い物にするつもりだった。その薄汚い本性は、変わらないわ。

「さやかちゃん!」

突然、り子が土下座の姿勢を取った。額を床に擦りつけ、必死に哀願し始める。

「ごめんなさい! 私が悪かったわ! 出来心だったの! 魔が差したのよ! 許してね! 私たち、家族じゃない!」

「家族?」

私はり子の顔を覗き込んだ。

「家族を崖から突き落とすのが、田中家の流儀なの? そう、それはほら、親子喧嘩みたいなもので。殺人未遂を親子喧嘩で済ませるなんて、随分とファンキーなご家庭ね」

私は立ち上がり、黒田弁護士に目くばせをした。黒田が頷き、スーツケースから分厚い封筒を取り出した。

「茶番は終わりだ」

父が告げた。

「これより、貴様らに現実を見せてやる。木庭家に対する暴挙の代償が、どれほど高いか。その身を持って知るがいい」

黒田が封筒から取り出したのは、一枚のDVDと数枚の書類だった。そして、黒服の男たちが式場の壁にあるプロジェクター用スクリーンを、するすると下ろした。

「な、何をする気だ!」

茂が怯えた声で尋ねる。

「上映会よ」

私は優雅に椅子に腰かけ、足を組んだ。

「タイトルは『欲望に溺れた家族の記録』。主演は、あなたたち。ハンカチの用意はいいかしら? きっと、涙なしでは見られないわよ」

─────

式場の照明が落とされた。暗闇の中、スクリーンに青白い光が投影される。そこに映し出されたのは、数日前の奥多摩の山頂。り子が私の背中に忍び寄る姿。

「ひっ……」

り子が息を飲む音が聞こえた。映像の中のり子は、獲物を狙う猛獣の目をしていた。そして、決定的瞬間。彼女が私の背中に両手を添え、躊躇なく突き飛ばすシーンが、スローモーションで流れる。

「あんたなんか、いなくなればいいのよ!」

ドローンの高性能マイクが拾ったり子の叫び声が、スピーカーから大音量で響いた。私の体が宙に投げ出され、小さくなっていく。その直後、崖の上に残った四人が顔を見合わせ、ハイタッチをして歓喜する様子まで、余すところなく映し出されていた。

「こ、これは……シンジラレナイ! 合成だ! でっち上げだ!」

かずやが叫んだ。顔面は蒼白で、脂汗が滝のように流れている。

「今の技術なら、こんなの簡単に作れる! 罠だ! 俺たちを陥れるための捏造だ!」

「往生際が悪いわね」

私はリモコンのボタンを押した。画面が切り替わる。今度は映像ではなく、音声波形が表示された。

『いつ殺せるんだ? 結婚三ヶ月後なら自然だろ。山に連れて行って突き落とせば、事故で処理される。二十億……へへ、笑いが止まらねえな』

かずや、茂、り子、みさ。それぞれの声が、言い逃れできないほど明瞭に再生された。それは私が保険証券を見つけた日に、彼らがリビングで交わしていた、あの悪魔の作戦会議だった。

「な……」

茂が膝から崩れ落ちた。

「家の中の会話まで……まさか盗聴していたとは……」

「盗聴? 人聞きが悪いわね。身の安全を守るための記録よ」

私は冷たく言い放った。

「あなたたちが私の命を狙い、殺害計画を練り上げ、実行し、そして死んだと思って祝杯を上げていた、全ての瞬間。その全てが、証拠として保存されている」

さらに音声が切り替わる。

『一番安い棺桶でいい。マネキン入れても、燃やせば骨っぽくなるだろ』
『どうせ親なしの貧乏人だ。誰も悲しまない』

葬儀の準備をする彼らの、あまりにも非道な会話が会場に響き渡る。

「やめて! もうやめて!」

り子が耳を塞いで絶叫した。自分たちの醜悪な本性が大音量で暴露される羞恥と恐怖に、耐えきれなくなったのだ。

「こんなの……こんなの聞かせないで!」

「残念だけど、これはとても素敵な家族の会話よ」

私はマイクを握り、静かに、しかし会場の隅々まで届く声で言った。

「これがあなたたちの正体よ。偽りの微笑みの下に隠された、腐った本性。あなたたちは金のために家族を殺し、その死を利用して富を得ようとした、醜悪な犯罪者集団」

会場の照明が一斉に点灯した。眩しい光が、彼らの浅ましい姿を白日のもとに晒す。かずやは床に手をつき、荒い息を吐いていた。

「さやか……頼む、話を聞いてくれ! 俺は……俺は反対したんだ! 母さんたちがどうしてもって言うから……」

「嘘をおっしゃい!」

り子が食ってかかった。

「あんたが一番乗り気だったじゃない! 『これでベンツが買える』ってカタログ見てたのは、どこの誰よ!」

「うるせえ! お前が突き落としたんだろう! 実行犯はお前だ!」

「なんですって?! あんたが山に行こうって誘ったんじゃない!」

「やめろ! どっちもどっちだろ!」

茂が怒鳴るが、みさが泣き叫ぶ。

「私は関係ない! パパとママとお兄ちゃんが勝手にやったの! 私はただついていっただけよ!」

醜い。あまりにも醜い。先ほどまでの結束した家族の姿は、どこにもない。沈没船から我先にと逃げ出そうとする、ネズミの群れそのものだった。

「静まれええええっ!」

父の一喝が、彼らの醜悪な言い争いに終止符を打った。父はゆっくりと彼らの前へ歩み出た。その一歩ごとに、床が震えるような錯覚を覚えるほどの気迫。日本経済界を半世紀に渡って支配してきた巨人の覇気に、小悪党たちが立ち打ちできるはずもなかった。

「貴様らが殺そうとしたのは、ただの娘ではない」

父の低い声が、重い響きとなって彼らを押し潰す。

「木庭の未来そのものだ。私の命よりも大切な宝だ。金のために傷つけるた罪、万死に値する」

「会長! どうか! もちろん償います! 頂いた香典も、保険金の二億も、全部お返しします! だからどうか、警察沙汰だけは……」

茂が震えながら上目遣いで父を見る。父は鼻で笑った。

「二億? 笑わせるな。私の娘の、髪の毛一本の価値にも満たんわ」

父は黒田弁護士に手を伸ばした。黒田がうやうやしく、一枚の書類を手渡す。

「これは、貴様らが保険金詐欺のために提出した書類のコピーだ。そしてこっちは、貴様らが消費者金融や知人から借りまくった借用書のリストだ」

茂の顔色が、土色から灰色へと変わった。

「な、なぜ……そんなことを……」

「調べ上げることなど、造作もない」

父の声は氷のように冷たかった。

「貴様らは刑事罰を受ける前に、社会的に完全に抹殺される。木庭グループの総力を上げて、貴様ら一族が二度と太陽の下を歩けないようにしてやる」

父の宣告は、死刑判決よりも重く響いた。木庭グループを敵に回すということは、日本という国の中で居場所を失うことと同義だ。就職も、住居も、金融取引も。あらゆるライフラインが断たれることを意味する。

「そ、そんな……」

みさがへなへなと座り込んだ。

「私、まだ二十五よ。これから結婚もして、幸せになるはずだったのに……」

「幸せ?」

私はみさを見下ろした。

「他人の不幸の上に築く幸せなんて、蜃気楼みたいなものよ。波が来れば、一瞬で崩れる。まさに今のようにね」

「さやか!」

かずやが這うようにして、私の足元にすがりついてきた。私の靴に、涙と鼻水を擦りつけようとする。

「愛してるんだ! 信じてくれ! 俺たち、やり直せる! そうだろう! あのアパートで暮らした日々は、嘘じゃなかったはずだ!」

私は虫唾の走るものを見る目で彼を見下ろし、足を引いた。

「ええ、嘘じゃなかったわ。私にとってはね」

私は冷徹に告げた。

「でも、あなたにとっては演技だったんでしょう? 自分で言っていたじゃない。『役者だ』って」

「ち、違う……」

「それは、アカデミー賞を上げるわ、かずやさん」

私はハンドバッグから一枚の紙を取り出して、彼に投げつけた。ひらひらと舞い落ちたのは、離婚届だった。私の欄には、すでに署名と捺印がしてある。しかも、証人の欄には父、木庭鉄三の署名と押印がされている。これほど効力のある離婚届は、世界中を探してもないだろう。

「主演男優賞の代わりに、離婚届をあげるわ。サインして、今すぐ離婚してちょうだい」

かずやが呆然とする。

「嫌だ……別れたくない……俺は木庭家の婿になるはずじゃ……」

「まだそんな夢を見ているの?」

私は哀れみすら込めて、ため息をついた。

「あなたは婿になるんじゃない。被告人になるのよ」

その時、葬儀場の入口から、サイレンの音が近づいてくるのが聞こえた。一台や二台ではない。パトカーの大群だ。

「時間ね」

私は背を向けた。

「お父様、警察の方々をどうぞお通しして」

「ああ」

父が黒服の男たちに合図を送る。入口を封鎖していた男たちが道を開けると、そこには制服警官と刑事たちが、手錠を構えて待ち構えていた。

「あ……ああ……」

り子が絶望の声をあげる。

「警察……警察だ!」

「お前、親なしの貧乏人じゃなかったのか!」

茂が最後の悪あがきのように叫んだ。血走った目で私を睨みつける。

「騙したな! 俺たちを騙しやがったな!」

私は振り返り、この日一番の冷たい微笑を彼らにプレゼントした。

「ええ、騙したわ」

私は胸を張って言い放った。

「でも、あなたたちが普通の人間だったら、こんなことにはならなかった。ただの貧乏な嫁だとしても、家族として大切にしてくれていたら、私は一生正体を隠して、あなたたちに尽くしていたでしょうね」

私の言葉に、四人は顔を見合わせた。もし、もしも。優しくしていたら。彼らは二十億どころか、木庭グループという莫大な後ろ盾と、本当の家族の絆を手に入れていたはずなのだ。彼らが捨てたのは、邪魔な嫁ではない。幸福へのチケットそのものだった。逃した魚は大きかった。あまりにも、大きすぎた。

「確保!」

刑事の怒号と共に、制服の警官隊が菊の間に雪崩れ込んできた。

「動くな! 全員その場に伏せろ!」

刑事の一人が、震え上がるかずやの前に立ち、一枚の紙を突きつけた。

「田中かずや、田中茂、田中り子、田中みさ。以上四名に対し、殺人未遂及び保険金詐欺未遂の容疑で、逮捕状が出ている」

「た……逮捕?」

かずやは無力者のようにその言葉を反芻し、へなへなと崩れ落ちた。

「違う! 俺は殺してない! あいつは生きてるじゃないか!」

「結果的に生きていただけで、殺害の実行行為は確認されている。言い訳は署で聞く」

刑事はかずやの腕を乱暴にねじ上げ、背中に回した。がちゃり、という金属が擦れ合う、冷たく乾いた音が静寂を一瞬にして切り裂いた。手錠だ。かつて私の指に安物の結婚指輪をはめた、その手首に。今は逃れられない罪の証が食い込んでいた。

「痛い! 痛いよ!」

隣ではみさが泣き叫んでいる。女性警官に取り押さえられ、ブランド物のネイルが施された手が、無慈悲にも拘束されていく。

「話してよ、パパ、ママ、助けて! 私、刑務所なんて行きたくない!」

「うるせえ! 暴れるな!」

茂もまた、二人の警官に地面に押さえつけられていた。喪服は乱れ、禿げ上がった頭には冷や汗とほこりが貼りついている。

「俺は悪くない! 全部、息子の計画だ! 俺は止めたんだよ、本当は!」

そんな、罪を息子に擦りつける姿は、あまりにも醜悪だった。そしてり子。彼女は床に額を擦りつけ、念仏のように何かを呟いていた。

「許してください……許してください……許してください……」

警官が彼女を引き起こそうとすると、彼女は私の足元へ這い寄り、ドレスの裾を掴もうとした。

「さやかちゃん、お願い! 私たち、家族じゃない! 義理の母よ! 親を刑務所に送るなんて、そんな親不幸なこと、できないでしょう!」

私は虫唾の走る虫を払うように、ドレスの裾を払った。

「親不幸?」

私は冷淡に彼女を見下ろした。

「私の親は、あそこに立っている木庭鉄三、ただ一人。私を崖から突き落とすような人間を、親と呼んだ覚えはないわ」

「そ、そんな……」

り子の顔が絶望に歪む。

「連れて行け」

刑事の合図で、四人は無理やり立ち上がらされた。嫌だ、嫌だと抵抗する彼らだが、鍛え上げられた警官たちの力には敵わない。ずるずると引きずられるようにして、式場の外へと連れ出されていく。

─────

「さあ、最後の仕上げよ」

私は父と顔を見合わせ、彼らの後を追った。

葬儀場の正面玄関を出た瞬間、世界が真っ白に染まった。ぱしゃ、ぱしゃ、ぱしゃ。稲光のようなカメラのフラッシュの嵐。父の手配により、テレビ局、新聞社の記者たちが黒山の人だかりを作って待ち構えていたのだ。

「出てきたぞ! 殺人未遂の一家だ!」

「カメラ回せ! 生中継だ!」

「眩しい!」

り子が手錠をかけられた手で顔を隠そうとする。だが、容赦のない光の雨は、彼らの怯えた表情、乱れた髪、そして手首の銀色を見逃さなかった。国中のお茶の間に、完璧に届けていく。

レポーターがマイクを突きつけた。

「田中さん! 嫁いびりが原因ですか? それとも、最初から保険金目当てだったのですか?」

「二十億円の保険金詐欺というのは事実ですか?」

「息子の嫁が財閥だと知って、今どんなお気持ちですか?」

質問の矢が、彼らに突き刺さる。

「やめてくれ! 撮らないでくれ!」

茂が呻くが、その声はシャッター音に掻き消される。これはただの逮捕ではない。社会的な公開処刑だ。彼らの顔と名前は、この瞬間を持って、日本が軽蔑する極悪非道な一家として、永遠に刻まれることになる。

警官たちが彼らをパトカーへと押し込もうとする。その時、かずやがふと足を止め、私の方を振り返った。逆光の中、彼の顔は涙と鼻水でぐしゃぐしゃになっていた。かつて爽やかだった面影は、どこにもない。ここには、ただ怯え切った小動物のような男がいるだけだった。

「さやか……」

かずやがかすれた声で私を呼んだ。

「本当に……楽しかったんだ。ボロアパートで二人で鍋を囲った夜も、公園で話した日も……金目当てなんかじゃなくて、俺は本当に、お前のことを……」

私は一歩、彼に近づいた。周りの記者たちが、固唾を飲んでその様子を見守る。かずやの目に、かすかな期待の光が宿ったのが見えた。土下座して懇願すれば、あるいは私なら許してくれるかもしれない。彼はまだ、そう思っているのだ。

私は彼の耳元に顔を寄せ、誰にも聞こえない声で囁いた。

「知ってる? ええ、あのボロアパートの近くのコンビニで、あなたが私に五十円玉を貸してくれたあの日。あなたは、レジの募金箱から小銭をくすねていたわよね」

かずやの目が、限界まで見開かれた。

「な……んで……あの時から、見てたのか?」

「ええ、最初から」

私は淡々と告げた。

「それでも、あなたを信用したかったの。あなたが私に見せてくれた優しさが本物だと思いたくて、見て見ぬふりをした。でも、あなたは変わらなかった。あの時の小銭泥棒が、二十億円の強盗殺人犯に成長しただけ」

かずやの顔から、最後の希望の色が消え去った。

「あなたとの思い出なんて、最初から泥まみれの偽物だったのよ。さようなら、小銭泥棒さん」

「うわああああ!」

かずやは獣のような叫び声をあげ、崩れ落ちたところを警官に担ぎ上げられた。後部座席に放り込まれる。続いて茂、り子、みさも、それぞれ別の車両へと押し込まれていく。

「お義姉ちゃん、ごめんなさい! ごめんなさい!」

みさの泣き叫ぶ声が、重厚な鉄の扉が閉まる音と共に途切れた。ばたん、という音。閉ざされた扉の向こう、金網の貼られた窓から、かずやが私を見つめているのが見えた。その目は虚ろで、焦点が合っていない。

エンジンがかかり、パトランプが回転し始める。私はその窓に向かって、口パクで最後の言葉を送った。「十五年。指を一本。そして五本立てて見せたわ。殺人未遂と詐欺未遂、組織的な犯行。父の最強チームが全力で立証すれば、実刑十五年は堅いだろう」

かずやが、がくりと首を垂れたのが見えた。

パトカーの列が、サイレンを鳴らしながらゆっくりと動き出す。記者たちが、それを追って走っていく。赤い灯の光が遠ざかり、やがて町の雑踏へと消えていった。

後に残されたのは、私と父。そして、静まり返った葬儀場だけ。足元には、踏みつけられた白木の花が一輪、無惨な姿で落ちていた。

「終わったな」

父が私の肩に手を置いた。

「いいえ、お父様」

私は落ちていた白い花を拾い上げ、指先で花びらをちぎった。

「これは始まりに過ぎないわ。これから、裁判という名の大舞台が待っている」

空を見上げると、いつの間にか太陽は西に傾き、空を赤色に染めていた。それは血の色にも似ていたが、不思議と恐ろしくはなかった。全てを浄化する炎の色のように、美しく見えた。

「行きましょう。美味しいものでも食べに」

私が微笑むと、父も安堵したように目尻を下げた。

「ああ。何がいい? 寿司か?」

「寿司以外でお願いするわ」

私たちは顔を見合わせて、小さく笑った。黒塗りのリムジンが滑るように近づいてくる。ドアが開けられ、私はその革張りのシートに身を沈めた。心地よい疲労感が、全身を包む。もう、四時半に起きて冷たい水で米を研ぐ必要はない。罵声に怯える必要もない。命を狙われる恐怖も、ない。

私は木庭さやか。地獄から生還し、悪魔たちを葬り去った女。車窓に流れる東京の街並みは、昨日までとは全く違って見えた。それは、私が自分の足で歩いていく、新しい戦場の景色だった。

─────

季節が二つ巡り、冬の寒さが緩み始めた頃。東京地方裁判所の大法廷は、開廷前から異様な熱気に包まれていた。傍聴券を求める列は裁判所を取り囲むように伸び、倍率は過去最高を記録したという。「財閥殺人未遂事件」。世間を震撼させたこの事件の判決を聞こうと、マスコミ各社と野次馬たちが詰めかけていたのだ。

重厚な扉が開き、私は父と共に被害者席へと座った。今日の私は、一点の曇りもない純白のスーツに身を包んでいた。それは、かつて彼らが汚した私の人生を、白紙に戻すための決意の装束だった。

「被告人の入廷を許可します」

裁判長の低い声と共に、法廷の左側の扉が開いた。刑務官に挟まれて入ってきた四人の姿に、傍聴席からどよめきが漏れる。かつて私の葬儀で喪服を着て、ブランド品の話をしていた彼らの面影は、そこにはなかった。全員が灰色のスウェットのような囚人服を着せられ、手には手錠、腰には鎖が巻かれている。かずやは頬がこけ、目は落ちくぼみ、まるで十年は老け込んだようだった。り子の髪は白髪交じりのぼさぼさになり、常に何かに怯えるようにきょろきょろしている。茂は背中を丸めて足を引きずり、みさに至っては、化粧のない顔を晒すのが嫌なのか、ずっと下を向いて震えていた。

「これより、判決を言い渡します」

裁判長が厳粛に告げると、法廷内の空気がぴんと張り詰めた。四人が証言台の前に並ばされる。手錠が外される、かちゃり、という音が静寂の中でやけに大きく響いた。

「主文」

裁判長が書類を読み上げる。その瞬間、私の心臓が、どくん、と強く鳴った。これが、彼らの人生を断ち切るギロチンの刃が落ちる音だ。

「被告人、田中かずや。及び、被告人、田中り子。それぞれ、懲役十五年に処する」

かずやが、くん、と膝を折った。り子は言葉を失い、白目をむきそうになっている。十五年。彼らが夢見た二十億の共有生活の代償は、鉄格子の中での十五年という重い刑罰だった。

「被告人、田中茂。懲役十二年。被告人、田中みさ。懲役十年に処する」

「嫌だ! 十年なんて! 私、おばさんになっちゃう!」

みさが泣き崩れ、刑務官に支えられた。裁判長は無慈悲に続ける。

「未決拘留日数は参入しない。また、被告人らは連帯して、被害者に対し、慰謝料及び損害賠償金として、金五億円を支払うこと」

五億円。それは、彼らが一生かかっても、いや、何度生まれ変わっても支払えない金額だ。父の最強弁護団が勝ち取ったのは、単なる刑務所送りだけではない。彼らが出所した後も、死ぬまで借金地獄という鎖で繋ぎ止める、経済的死刑だった。

「判決理由を述べる」

裁判長が眼鏡の位置を直し、四人を鋭く見据えた。

「本件は、保険金詐取という利欲的な動機に基づき、身内である被害者の信頼を逆手に取った、極めて卑劣かつ計画的な犯行である。被害者を事故死に見せかけるため山岳地帯へ誘い出し、背後から突き落とすという手口は、冷酷の一言に尽きる」

モニターには、証拠として提出されたあの映像の静止画が映し出されていた。り子が私の背中を押す、決定的瞬間だ。

「また、犯行直後に被害者の葬儀を偽装して行い、棺の中にマネキンを入れるなど、その場での言動は、人の死を冒涜するものであり、酌量の余地はまるでない」

法廷内に、彼らの葬儀場での音声データが短く再生された。

『マネキン入れても、燃やせば骨っぽくなるだろ』

傍聴席から、ひどすぎる、鬼畜だ、というささやきが漏れる。かずやはうつむき、り子は耳を塞いでいた。

「よって、主文通りの刑を科するのが相当である」

判決の言い渡しが終わった瞬間、法廷は異様な雰囲気に包まれた。

「嘘だ……嘘だと言ってくれ!」

茂が叫び、床に頭を打ちつけた。

「俺はもう定年なんだぞ! 十二年なんて、生きて出られるかどうかも分からねえ!」

「お母さんのせいよ! 私を巻き込んで!」

みさがり子に掴みかかろうとし、刑務官に羽交い締めにされる。り子は腰が抜けて立ち上がれず、床に這いつくばったまま、「神様、神様」と念仏のように繰り返していた。

そして、かずや。彼はふらりと立ち尽くしていたが、ゆっくりと首を回し、傍聴席にいる私を見た。その目は虚ろで、涙で濡れていた。

「さやか……」

静寂が一瞬戻った法廷で、彼のかすれた声が響いた。

「俺を……待っていてくれないか?」

法廷内の誰もが、息を飲んだ。この期に及んで、何を言っているのか。

「十五年、罪を償ってくる。真面目に働くよ。だから、出所したら……もう一度、あの公園で……」

私はゆっくりと立ち上がった。父が止めようとしたが、私はそれを制し、被告人席の彼を見下ろした。表情には、怒りも悲しみも浮かべなかった。ただ、道端の石ころを見るような無関心さだけを込めた。

「かずやさん」

私の声は、マイクを通していないのによく通った。

「あなたは刑務所で十五年。自分が何をしたかを考える時間があるわね」

かずやの顔に、かすかな期待の色が浮かぶ。

「でも、覚えておいて。私が過ごすこれからの十五年。あなたの名前を思い出す時間は、一秒もないわ」

かずやの顔色が、さっと青ざめた。

「ええ、あなたは私の人生から削除されたの。データ復旧も不可能なほど、完全にね。さようなら、他人さん」

かちり、と、心の扉を閉ざす音が、誰の耳にも聞こえた気がした。

「嫌だ……嫌だ! さやか! 見捨てないでくれ! 俺には、お前しかいないんだ!」

「被告人、静粛に」

刑務官たちが四人に再び手錠をかけ、腰を引きずって連れて行く。

「うわあああ! 助けてくれ!」

慟哭の叫び声を残し、四人は法廷の奥へと引きずられていった。その姿が見えなくなると、閉ざされたドアの向こうから、重い鉄の扉が閉まる音が低く響いた。それは、彼らの人生の終焉を告げる音だった。

─────

「終わったな」

隣で、父が深いため息をついた。

「ええ、お父様。完全にね」

私は父の手を取り、法廷を後にした。廊下に出ると、窓から春の日差しが差し込んでいた。

裁判所の正面玄関を出ると、待ち構えていたカメラのフラッシュが一斉に焚かれた。

「木庭さん! 今のお気持ちは! 元夫に対して、何か言葉は?」

私は立ち止まり、無数のレンズに向かって、一度だけ微笑んだ。それは演技ではない。心の底から湧き上がる、解放感に満ちた笑顔だった。

「正義は下されました。今の私は、とても清々しい気分です」

それだけ言い残し、私は父のエスコートで黒塗りの車へと乗り込んだ。

車が動き出す。遠ざかる裁判所の建物を見上げると、屋上にはためく旗が風に揺れていた。空は青い。あの時、崖から落ちていく時に見た空と同じくらい青い。けれど、今の私は落ちていない。私は今、自分の足で、自分の空へ向かって飛び立とうとしている。

「さやか、これからどうする?」

車内で、父が尋ねた。

「会社に戻るか? それとも、家でゆっくり休むか?」

私は窓の外を流れる東京の街並みを見つめた。かつては灰色に見えた景色が、今は鮮やかな色彩を帯びて輝いている。

「いいえ、お父様。行きたいところがあるの」

「どこだ?」

私はバッグから、新しいプロジェクトの企画書を取り出した。表紙にはこう記されている。『DV被害者支援、自立支援財団設立計画書』。

「私のように、泣きながらも助けを求められない人たちを、救い出すための場所よ」

父は企画書を受け取り、満足そうに頷いた。

「いいだろう。木庭グループが、全力でバックアップする」

車はスピードを上げ、未来へと続くハイウェイを走り出した。私の手首には、もう手錠も、安物の指輪もない。あるのは、自分で選び取った自由な時間と、揺るぎない誇りだけだった。

─────

あれから、一年という月日が流れた。

東京、大手町にそびえ立つ木庭グループ本社ビル。その最上階にある役員室から、私は眼下に広がる春の東京を見下ろしていた。かつてスーパーの特売チラシを握りしめ、百円単位の節約に頭を悩ませていた田中さやかは、もうどこにもいない。私のデスクには、「木庭グループ副社長、木庭さやか」というプレートが輝いている。

「副社長、次のミーティングのお時間です」

優秀な秘書が、タブレットを抱えて入室してきた。

「ええ、すぐ行くわ」

私は書類を置き、立ち上がった。今日の議題は、私が立ち上げた女性自立支援財団の活動報告だ。この一年、私は自分の経験を糧に、DVや虐待、そして経済的搾取に苦しむ女性たちを救う活動に没頭してきた。私の元には、かつての私のように声を上げられずにいる女性たちから、毎日何件ものSOSが届く。私はその一つ一つに目を通し、父から譲り受けた資金と権力を使って、彼女たちを物理的、法的に保護している。

「あなたが生きている限り、人生は何度でも書き直せる」

それが、この財団のスローガンであり、私自身の誓いでもあった。

─────

一方、その頃。壁の向こう側では、全く別の時間が流れていた。

北関東にある女子刑務所。薄暗い作業場の片隅で、一人の老婆が洗濯物を畳んでいた。田中り子、五十六歳。かつてはブランド品を身につけ、嫁を奴隷のように扱っていた彼女の姿は、見る影もなくやつれ果てていた。

「おい、手が止まってるぞ。早くしろ」

刑務官の怒声が飛ぶ。り子はびくりと肩を震わせ、「はい」と小さく呟く。ここでは、彼女は「お義母さん」ではない。ただの受刑者番号だ。作業の手が遅いと、若い受刑者たちから「とろい」「役立たず」と嘲られる。かつて私に浴びせていた罵詈雑言が、そのままブーメランのように、彼女に突き刺さっていた。あと十四年。彼女が出所する頃には、七十歳を迎えている。残されているのは、五億円の賠償金という借金地獄と、孤独死へのカウントダウンだけだ。

そして、男子刑務所の独居房。田中かずやは、コンクリートの冷たい壁に背を預け、虚空を見つめていた。面会者は、この一年で一度も来ていない。友人も、親戚も、誰も彼に関わろうとしなかった。

「あの時……」

かずやは、乾いた唇で呟く。

「あの時、五十円を貸さなければ。あの時、さやかを愛していれば……」

彼の脳裏に浮かぶのは、木庭グループの令嬢として毅然と立つ私の姿ではなく、ボロアパートで笑い合っていた頃の、さやかの笑顔だった。失ったもののあまりの大きさに、彼は目を潤ませ、おえつを漏らしているという。だが、その涙を拭ってくれる人は、もう二度と現れない。

─────

夕方。私は仕事を終え、父の住まいへと戻った。港区の豪邸の大広間には、以前のような冷たい静寂ではなく、温かな会話と笑い声が溢れていた。

「さやか、今日の講演会はどうだった?」

父がワイングラスを傾けながら尋ねてくる。

「大盛況だったわ。被害者の方たちが、『勇気をもらいました』って泣いてくれて。私の方が、励まされちゃった」

「そうか。お前が苦しみを力に変えて、誰かを導く姿。天国の母さんも、きっと誇りに思っているだろう」

父の目が、優しく細められた。

私はグラスを置き、バルコニーへと出た。夜風が心地よい。一年前、私は奥多摩の崖から突き落とされた。その瞬間、私の人生は終わったと思っていた。けれど、それは終わりではなく、本当の自分を取り戻すための通過儀礼だったのかもしれない。

私は手すりによりかかり、空を見上げた。星が、輝いている。かつて見上げていた狭い団地のベランダからの星空とは違う。どこまでも広く、自由な空だ。

ふと、スマートフォンの通知が鳴った。財団のスタッフからだ。

『副社長、先月保護したAさんが、新しい職場で正社員になれたそうです。笑顔の写真が届きました』

送られてきた写真には、晴れやかな笑顔の女性が映っていた。その笑顔を見た瞬間、私の胸の奥に残っていた、最後の氷の塊が、完全に溶けて消えていくのを感じた。

復讐とは、相手を痛めつけることだけではない。最大の復讐は、私自身が誰よりも幸せになり、彼らが手出しできないほどの高みへと登り詰めること。そして、彼らが私の名前を耳にするたび、逃した魚の巨大さに絶望し続けること。

かずやさん、聞こえる? 私は心の中で、遠い檻の中にいる元夫に語りかけた。私は今、幸せよ。あなたがいなくても。いいえ、あなたがいないからこそ、私はこんなにも自由に羽ばたける。

「さやか、デザートができたぞ」

父が、リビングから呼んでいる。

「はあい」

私は夜景に向かってもう一度だけ微笑むと、くるりと背を向けた。もう、過去を振り返ることはない。ハイヒールの音が、軽やかに響く。その足取りは軽く、未来へ続くレッドカーペットの上を、私は堂々と歩いていく。

これが、私の選んだ結末。そして、新しい物語の始まりだ。

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