「この家にはもったいないよね」
その言葉が耳に入った瞬間、私は手を止めました。玄関で靴を脱いでいた手が、まるで時間が止まったかのように動かなくなります。リビングから聞こえてくる息子と嫁の声。二人は私が帰宅したことに気づいていないようでした。
「この立派な家にあの地味なおばさんが住んでるなんてね」
嫁の声が、まるで他人事のように軽やかに響きます。私の胸に冷たい何かが流れ込んでくるのを感じました。
「まあまあ、そう言うなよ。でも確かに図書館のパートなんかでよくこんな家を買えたよな」
息子の大輔の声。笑いを含んだその声に、私は息をすることさえ忘れてしまいそうです。この家は夫のかず彦と二人で、どれだけの思いを込めて手に入れたものだったでしょうか。二十七年間、図書館で真面目に働き続けた日々。昼休みも惜しんで残業を厭わず、ただひたすらに貯めてきたお金。そのすべてが、たった一言で否定されていくような気がしました。
玄関に立ち尽くす私の目に、涙が滲んできます。
私は小川とし子。今年で六十歳になります。市立図書館で司書として働き始めてから、二十七年が経ちました。派手な仕事ではありません。でも、本を通じて多くの人の役に立てる。そんな日々に誇りを持ってきたのです。
「小川さん、いつもありがとうございます」
利用者の方々からいただく感謝の言葉が、どれほど私の支えになってきたことでしょう。地味かもしれない。でも、この仕事を通じて積み重ねてきた時間は、確かに私の人生そのものでした。
夫のかず彦と出会ったのは四十年前のことです。図書館で本を探していた彼に声をかけたのが、すべての始まりでした。結婚して息子の大輔が生まれて、家族三人で過ごした日々は何ものにも代えがたいものでした。
そして十五年前、私たち夫婦は決断しました。この家を買おうと。頭金八百万円。そのうち五百万円は、私が長年働いて貯めた貯金でした。毎月十五万円のローンを二人で必死に返し続けた十五年。ようやく完済したのは三年前のことです。
「とし子、この家で二人で年を取ろう」
あの日、かず彦がそう言ってくれた時の笑顔を、今でもはっきりと覚えています。
それは三ヶ月前のことでした。息子の大輔から電話がかかってきたのです。
「母さん、ちょっとお願いがあるんだけど」
声の調子が、いつもより少し低く感じられました。
「今住んでるマンションをリフォームすることになってさ、一ヶ月くらい家に泊めてもらえないかな」
息子からの頼みです。断る理由なんてありませんでした。
「もちろんよ。いらっしゃい」
そう答えた私の横で、かず彦も優しく頷いてくれます。家族なのですから当然のことだと思っていました。
けれど、一ヶ月が過ぎても息子夫婦は出ていく気配を見せません。
「母さん、リフォーム業者が遅れててさ、もうちょっとだけいいかな」
大輔の言葉に、私は何も言えませんでした。二ヶ月目に入った頃、私たちの寝室にまで息子夫婦の荷物が入り込んできます。
「ここ、収納スペース広くていいですね。少し使わせてもらいますね」
嫁のえりがそう言いながら、次々と段ボール箱を運び込んでいきました。
「でも、ここは私たちの……」
言いかけた私の言葉を、大輔が遮ります。
「母さん、ケチ言わないでよ。部屋余ってるんだし」
その言葉に胸が詰まる思いがしました。でも、家族だから。そう自分に言い聞かせて、私は黙って頷くしかありませんでした。
ある日、リビングに置いてあったソファが見慣れないものに変わっていました。かず彦と二人で選んだ、思い出の詰まったソファです。
「このソファは、俺たちが選んだものなんだが」
かず彦が困惑した声で尋ねると、えりが笑いながら答えます。
「古臭いんですよ。新しいのを買ってあげたんです。喜んでくださいよ」
喜ぶ? 私たちの思い出を勝手に処分されて。言葉が喉の奥で固まってしまいました。
夕食の時間も、次第に居心地の悪いものになっていきます。
「お母さん、この料理、味が薄くないですか?」
えりの声に、私は驚いて顔を上げました。
「そうかしら」
「かず彦さんはいつもこの味付けで」
「年配の方って味覚が鈍るって言いますよね。もっと勉強された方がいいんじゃないですか」
大輔まで笑いながら言葉を続けます。
「そうだよ、母さん。時代遅れだって」
箸を持つ手が小刻みに震えているのを感じました。
別の日、私が図書館での出来事を話そうとすると、えりが大きなため息をつきます。
「図書館司書って、結局本を並べるだけですよね。誰にでもできる仕事じゃないですか」
「そんなことは……」
反論しようとした私の言葉を、また大輔が遮りました。
「母さんの仕事、正直言って大したことないよね。俺なんか営業で、毎日どれだけ大変か」
「そうそう。うちの主人は会社で重要な立場なんです。図書館とは違いますから」
えりの言葉が胸に突き刺さります。二十七年間、真面目に働いてきた日々。それがこんな風に否定されるなんて。
「おい、母さんの仕事をバカにするな」
かず彦が怒りを込めて言いますが、大輔は鼻で笑うだけです。
「父さんこそ、定年後何もしてないじゃん」
ある週末、かず彦と久しぶりに二人で映画に行こうとしました。玄関で靴を履いていると、えりが駆け寄ってきます。
「え、どこ行くんですか? 私も連れてってくださいよ」
「俺たちも行く。家族なんだから一緒だろ」
大輔の言葉に、私は言葉を失いました。結局四人で映画館へ。上映中、えりが大きな声で文句を言い続けます。楽しみにしていた映画も、まったく集中できませんでした。
帰宅後、寝室でかず彦が静かに謝ります。
「とし子、すまない」
「いいえ」
涙をこらえるので精一杯でした。
そしてついに、息子夫婦は友人まで家に呼ぶようになったのです。
「素敵な家ですね」
えりの友人が感嘆の声を上げると、えりが誇らしげに答えます。
「でしょう。私たちの家なんですよ」
私たちの家。
キッチンで一人片付けをしながら、その言葉が耳に焼きついていきました。
深夜まで続く騒音。寝室で耳を塞ぐ私の隣で、かず彦が静かにつぶやきます。
「とし子、もう我慢の限界だ。息子たちに出て行ってもらおう」
でも……言葉が続きません。それでも家族だからと思ってしまう自分がいたのです。
ある土曜日の朝、私は図書館の研修に出かけることになっていました。玄関で靴を履きながら、かず彦に声をかけます。
「今日は夕方には帰ってくるわね。お昼は適当に食べておいてね」
「ああ、気をつけてな」
かず彦の優しい声に見送られて、私は家を出ました。
研修は思ったより早く終わり、予定より三時間も早く、お昼過ぎには帰宅することができたのです。玄関の鍵を開けて、静かに中に入ります。息子夫婦はリビングにいるようでした。靴を脱いだその時、聞こえてきた声に私の動きが止まります。
「ねえ、本当にこのままここに住み続けられるのかな」
えりの声でした。少し不安そうな、でもどこか期待を含んだような声です。
「大丈夫だって。母さんたち、何も言えないから」
大輔の声が、まるで確信に満ちているように響きます。私の手が玄関の壁に触れました。体を支えなければ立っていられないような気がしたのです。
「でもさ、あの地味なおばさん、たまにじっと見てくるのよね。なんか気持ち悪いっていうか」
えりの笑い声が聞こえてきます。地味なおばさん。それは私のことを言っているのでしょう。
「気にすんなよ。所詮図書館のパートのおばさんだろ。何ができるわけでもないし」
大輔まで一緒になって笑っているのが分かります。胸が締めつけられるように痛みます。
「そうよね。で、いつまでここにいられるの?」
「父さんも定年で暇そうだし、二人とも老人ホームにでも入ってもらえばいいんじゃない」
その言葉に、私は思わず息を飲みます。老人ホーム? 私たちを追い出そうとしているのでしょうか?
「それいいな。そうすればこの家、完全に俺たちのものだ」
大輔の声が嬉しそうに弾みます。そして、次に聞こえてきた言葉が、私の心を完全に打ち砕きました。
「っていうか、こんな立派な家、あの地味な母さんにはもったいないよな」
もったいない。その言葉が頭の中で何度も響きます。
「本当それ。図書館なんかのパートでよくこんな家のローン返せたよね」
「父さんの稼ぎだろうね。母さんのパート代なんてスズメの涙だったはずだし」
二人の笑い声がリビングから聞こえてきます。私はそっと玄関のドアを開けて、外に出ました。家の中にいることが耐えられなくなっていたのです。
気がつくと、近くの公園のベンチに座っていました。どうやってここまで来たのか、よく覚えていません。ただ、涙が頬を伝って落ちていくのを感じます。もったいない。その言葉が胸の奥で何度も繰り返されました。
二十七年間、毎日図書館に通い続けた日々。夏の暑い日も冬の寒い日も、休むことなく働き続けてきたのです。昼休みも惜しんで、残業代を少しでも多く稼ぐために夜遅くまで資料整理をしていたこともありました。同僚が心配そうに声をかけてくれた日のことを思い出します。
「小川さん、無理しないでね」
「いえ、大丈夫です。家のローンがありますから」
そう答えて笑顔を作っていた自分。そのすべてが、息子には見えていなかったのでしょうか。
かず彦と二人で毎月のローン返済表を見ながら話し合った日々。「あと十年だね」「ええ、頑張りましょう」そう言い合いながら、二人で支え合ってきました。貯金の五百万円をすべて頭金に当てた時のこと。老後の蓄えにしようと思っていたお金でした。でも、この家でかず彦と二人で暮らせるなら、それが一番の幸せだと思ったのです。
「大輔も安心して独立できるわね」
そう言ってかず彦と喜び合ったことを覚えています。息子の将来を思って、私たちは必死に働き続けてきました。それなのに。
携帯電話が鳴ります。かず彦からでした。
「とし子、どこにいる? 心配したぞ」
電話の向こうから、かず彦の不安そうな声が聞こえてきます。
「かず彦さん、聞いてしまったの。息子たちの会話」
「何を?」
私はさっき聞いたすべてをかず彦に伝えました。電話の向こうで、かず彦の怒りに満ちた声が響きます。
「許せん」
「かず彦さん。この家は私たちの家よね。私たちが汗水たらして手に入れた大切な家」
「ああ、そうだ。間違いない」
かず彦の声が力強く答えてくれました。その声を聞いて、私の中で何かが変わっていくのを感じます。
「私、決めた。もう我慢しない」
公園のベンチで、私は静かに涙を拭いました。悲しみではありません。これは決意の涙です。もう二度とこの屈辱に耐えることはしません。私たちの家を、私たちの人生を守るために。今こそ立ち上がる時が来たのだと、そう思いました。
顔を上げると、雲の切れ間から眩しい日の光が差し込んできます。その光が、まるで私の決意を後押ししてくれているように感じられました。
翌日、私はいつもより少し早く図書館に出勤しました。利用者の方々が来る前の静かな時間帯です。館内を歩きながら、書架へ向かいます。法律書のコーナーでした。
「小川さん、珍しいですね。法律書なんて」
同僚が不思議そうに声をかけてきます。私は穏やかに微笑みました。
「ちょっと調べたいことがあって」
そう答えて、私は書架から何冊か本を取り出します。不動産登記法の基礎。家族法入門。相続と財産管理。二十七年間、この仕事を続けてきました。本の中から必要な情報を見つけ出し、整理し、活用する。それが私の専門なのです。
閲覧用のテーブルに座って、一冊ずつ丁寧にページをめくっていきます。大事な箇所には線を引き、ノートにメモを取りました。所有権。登記名義。無断居住。不法占拠。法律用語が次々と私の目に飛び込んできます。読み進めるうちに、一つの事実が明確になっていきました。この家の所有者は私とかず彦。息子夫婦には一切の権利がないということ。
「小川さん、すごい集中力ですね」
同僚の声に顔を上げると、もう二時間が経っていました。でも、必要な情報はすべて手に入れることができたのです。
「必要なことですから」
そう答えて、私は静かに微笑みました。司書として働いてきた二十七年間。その経験が、今こうして役に立っているのだと実感しました。
仕事を終えて帰宅すると、かず彦が待ってくれています。息子夫婦はまだ帰宅中のようでした。
「かず彦さん、調べてきたの」
リビングのテーブルに、私が集めた情報を広げます。かず彦が真剣な表情で私の話に耳を傾けてくれました。
「この家の所有権は、完全に私たちにあるのよ」
「当然だ。俺たちが買った家なんだから」
かず彦の言葉に私は頷きます。そして引き出しから、大切な書類を取り出しました。不動産登記簿。事前に法務局で取り寄せておいたものです。
「ここを見て。所有者の欄」
かず彦が書類を見つめます。そこにははっきりと記されていました。小川とし子。小川かず彦。息子の名前は一文字も入っていません。
「息子たちの名前は、一文字も入っていないわね」
「ああ、そうだな」
次に、住宅ローンの完済証明書を取り出します。十五年、毎月欠かさず支払い続けた証です。毎月十五万円、十五年間で二千七百万円。
「俺たち二人で必死に働いて返したお金だ」
かず彦の声が少し震えているように感じました。
「頭金の八百万円。そのうち五百万円は私の貯金だったわ」
「とし子……」
「法律上、この家は完全に私たちのもの。息子たちには一切の権利がないの」
そう言い切った時、私の中で何かが確かなものになっていくのを感じます。これは正当な権利の行使なのだと。ノートを開いて、計画を書き始めました。かず彦が黙ってそれを見守ってくれています。
ステップ一。正式な退去要請。内容証明郵便で送ること。ステップ二。期限の設定。法律書には、相当な期間を設けると書かれていました。ステップ三。弁護士への相談と準備。必要に応じて法的措置を取るという姿勢を示すこと。ステップ四。最終手段として、鍵の交換と荷物の撤去も検討すること。
一つ一つ丁寧に書き出していきます。かず彦が心配そうに私を見つめていました。
「とし子、本当にやるのか?」
その問いかけに、私は静かに顔を上げます。
「かず彦さん、私たち何か悪いことをしてる?」
「いや、何も」
「なら、当然の権利を行使するだけよ。もう我慢する必要はないわ」
かず彦がゆっくりと頷いてくれました。その表情には、私への信頼が満ちています。
二十七年間、情報を扱う仕事をしてきました。必要な知識を見つけ出し、整理し、活用する。それが司書の本領なのです。今、その力を使う時が来たのだと私は確信していました。
翌日、私は一本の電話をかけます。図書館の常連利用者で弁護士の先生です。いつも法律の専門書を借りに来られる、信頼できる方でした。
「小川さん、お久しぶりですね。どうされましたか?」
電話の向こうから穏やかな声が聞こえてきます。私はこれまでの経緯をすべて説明しました。息子夫婦の居座り。そして、聞いてしまった会話のこと。
「なるほど。完全に小川さんご夫婦に権利がありますね。内容証明郵便を送りましょう。それでも出ていかない場合は、法的措置も可能です」
「お願いします」
私の声は驚くほど落ち着いていました。
「小川さん、あなたは何も間違っていません。自分の家を守る権利があるんです」
その言葉を聞いて、胸の奥が温かくなるのを感じます。
「ありがとうございます。もう迷いません」
電話を切った後、私は深く息を吐きました。準備は整ったのです。法律的な根拠も専門家の支援も、すべて揃いました。あとはたった一言、息子夫婦にその言葉を伝えるだけです。
窓の外を見つめながら、私は静かにつぶやきます。
「確かにそうですね。この家は、あなたたちにはもったいないですね」
その言葉を心の中で何度も繰り返しました。冷静に、そして毅然と。感情的にならず、ただ事実を伝えるのです。
かず彦がそっと私の手に手を重ねてくれます。
「俺も一緒だ」
「ありがとう、かず彦さん。二人で決めたことです。私たちの家を、私たちの人生を守るために」
もう後戻りはできません。そして、後戻りする必要もないのだと、私は思いました。
数日後の夕食時でした。息子夫婦はいつものように傲慢な態度でテーブルについています。
「お母さん、今日の料理もいまいちですね」
えりが箸を置きながら言います。
「料理の勉強した方がいいんじゃない?」
私は静かに手を止めます。かず彦も同じように箸を置きました。この瞬間を、私たちは二人で決めていたのです。
「大輔さん、えりさん。少しお話があります」
いつもと違う私の声のトーンに、二人が顔を上げます。
「何? 後にしてよ。今食べてるんだけど」
大輔が面倒臭そうに言いますが、私は首を横に振りました。
「いいえ、今です」
その静かだけれど強い口調に、息子夫婦の動きが止まります。リビングに緊張した空気が流れました。
「先日、あなたたちの会話を聞いてしまいました」
「何の話ですか?」
えりの声が、わずかに震えているように聞こえます。
「『こんな家にはもったいない』という話です」
その言葉を口にした瞬間、大輔の顔色が変わるのが分かりました。
「あ、あれは冗談だよ、母さん」
慌てて言い訳をする息子。えりも取り繕うように笑います。
「そうそう。深い意味なんてないですから」
二人の慌てた様子を、私は静かに見つめていました。そして、ゆっくりと微笑みます。
「確かにそうですね」
「え?」
息子夫婦が同時に私を見ました。その表情には困惑が浮かんでいます。
「この家は、あなたたちにはもったいないですね」
深い沈黙がリビングを包み込みます。時計の秒針の音だけが、不規則に響いていました。
「お母さん、何を……」
大輔が言いかけた言葉を遮るように、私は用意していた封筒を二人の前に置きます。茶色の、少し厚みのある封筒でした。
「内容証明郵便です。弁護士の先生に相談して作成していただきました」
えりが震える手で封筒を開けます。中の書類を読み始めた彼女の顔が、見る見るうちに青ざめていくのが分かりました。
「な、何これ?」
「退去要請です。この家から出て行っていただきます」
私の声は、驚くほど冷静でした。
「冗談だろ、母さん」
大輔が立ち上がって叫びます。でも、私は揺らぎませんでした。
「冗談ではありません」
そう言って、私は次の書類を取り出します。不動産登記簿です。
「この家の所有者は、私とかず彦さんです。ここを見てください」
テーブルの上に広げた書類を、二人が釘付けになったように見つめます。
「あなたたちの名前は一文字も入っていません。続けて、住宅ローンの完済証明書も提示しました。十五年間、毎月十五万円。総額二千七百万円。すべて私たちが支払いました。頭金の八百万円。そのうち五百万円は私の貯金から出したのです」
一つ一つの事実を、淡々と述べていきます。えりが慌てた様子で声を上げました。
「で、でも私たち家族でしょう」
その言葉に、私は冷たく微笑みます。
「家族ですか? ゆっくりと二人の顔を見つめました。私のことを『地味なおばさん』と呼んだ家族ですか? 『図書館のパート』とバカにした家族ですか? この家を奪おうと企んでいた家族ですか?」
一言一言が、まるで刃物のように二人の心を切り裂いていくようでした。大輔が言葉に詰まります。
「それは……」
「あなたたちは私の二十七年間の仕事人生を否定しました。かず彦さんとこの家を買うためにどれだけ働いたか。昼休みも惜しんで残業代を貯めたか。そのすべてを『もったいない』の一言で否定したのです」
かず彦も静かに立ち上がりました。
「とし子と二人で築いた家だ。お前たちに渡すつもりは一切ない」
その言葉に、えりが泣き出します。
「お母さん、許してください」
涙を流しながら、彼女は私に頭を下げました。でも、私の心は動きません。
「もう遅いです。七日以内に出て行ってください」
「母さん、お願いだ。俺が悪かった」
大輔も必死に謝罪の言葉を重ねます。
「許してくれ。もう二度とあんなこと言わないから」
その姿を、私は静かに見下ろしていました。二十七年間、真面目に働いてきた私。司書として誇りを持って生きてきた私。そのすべてを否定した代償を、今彼らは支払っているのです。
「謝罪は受け入れません。七日です」
翌日から、息子夫婦は何度も謝罪に来ました。朝も昼も夜も。でも、私とかず彦の決意は変わりません。
「母さん、俺が間違ってた。本当に反省してる」
「お母さん、心から謝ります」
三日目の夜、二人は涙ながらに訴えてきます。私は静かに首を横に振りました。
「反省ですか? では、私の仕事をバカにしたこと、覚えていますか?」
えりが俯いて答えます。
「ごめんなさい」
「では、この家を奪おうとしたこと、どう思いますか?」
大輔も小さな声で謝ります。
「すみませんでした」
「言葉だけなら、何とでも言えます。あなたたちの本心は、もう分かっています」
かず彦が力強く言い放ちます。
「決定は変わらん。七日以内に出ていけ」
六日目の朝でした。息子夫婦が荷物をまとめ始めます。段ボール箱を運び出す二人の姿を、私は静かに見つめていました。玄関でえりが最後に振り返ります。
「お母さん……」
私は毅然とした声で言いました。
「この家は、司書として働く女とその夫が、汗水たらして手に入れたものです。もったいないのは、あなたたちに使った時間と感情です」
その言葉に、二人はもう何も言えませんでした。深く頭を下げて、玄関を出ていきます。ドアが閉まる音が、静かに響きました。
リビングに戻ると、かず彦が立っています。二人でしばらく黙って立ち尽くしていました。
「終わったな」
かず彦の声が安堵を含んでいます。
「ええ、やっと私たちの家に戻りました」
以前と同じ古いソファに、二人で座ります。あの日、勝手に処分されたソファは、物置から出して元の場所に戻しておいたのです。静寂が心地よく感じられました。もう誰かに侮辱されることも、家を奪われる心配をすることもありません。
「確かにそうですね」
その一言が、すべてを変えたのです。たった一言。でも、その言葉には私たちの二十七年間の誇りと、この家への愛情が込められていました。
窓の外を見ると、夕日が美しく輝いています。新しい明日が、静かに始まろうとしていました。
息子夫婦が出ていって数日が経ちました。目を覚ますと、家の中に静けさが戻っているのを感じます。リビングに降りていくと、かず彦がコーヒーを入れてくれていました。
「とし子、おはよう」
「おはよう、かず彦さん」
二人でテーブルに座り、ゆっくりとコーヒーを飲みます。何でもない普通の朝。でも、この静かな時間がどれほど貴重なものか、今は深く理解できるのです。
「庭の手入れでもしようかしら」
そう言って私は庭に出ました。かず彦がコーヒーカップを持って、後からついてきます。二人で庭のベンチに座ると、春の風が心地よく頬を撫でていきました。
「静かだな」
かず彦が穏やかにつぶやきます。
「ええ、やっと二人だけの時間が戻ってきたわね」
リビングのソファも、元の場所に戻しました。かず彦と二人で選んだ思い出の詰まったソファです。写真もまた飾ることができました。家族三人で撮った、大輔が小さかった頃の写真。あの頃は、こんな日が来るなんて想像もしていませんでした。
「かず彦さん、覚えてる? この家で、二人で年を取ろうって言ってくれたこと」
「ああ、それは今も変わらない」
かず彦の声が温かく響きます。
「私もよ」
そう答えて、私は微笑みました。私たちの家が、やっと本当の意味で戻ってきたのです。
翌週、私は図書館での仕事に戻りました。いつもの書架。いつもの利用者の方々。変わらない日常が、こんなにも愛おしく感じられます。
「小川さん、なんだか晴れやかなお顔ですね」
同僚が嬉しそうに声をかけてきました。
「ええ、少し片付きましたから」
「そうですか。良かったです」
その言葉に、心から感謝の気持ちが湧いてきます。利用者の方がカウンターに本を返しに来られました。
「小川さん、この本探してるんですが」
「はい、こちらですね」
本を手渡しながら、いつもの会話を交わします。
「いつもありがとうございます。小川さんがいらっしゃると、本当に助かります」
「いえいえ、こちらこそ」
その方が去った後、私は静かに本棚を見つめていました。二十七年間、この場所で働いてきた日々。地味な仕事かもしれません。でも、この仕事に私は誇りを持っているのです。
夜、かず彦と二人でリビングに座っていました。テレビを消して、静かに話をする時間。こんな時間がどれほど大切だったか。
「とし子。あの時の決断、間違ってなかったな」
かず彦がしみじみとした声で言います。
「ええ。でも、悲しかったわ」
正直な気持ちをかず彦に伝えます。
「息子が私たちをあんな風に見ていたなんて」
「そうだな」
かず彦も同じ気持ちだったのでしょう。でも、だからこそ、私は気づくことができたのです。
「私ね、分かったの」
「何が?」
「理不尽に耐え続けてはいけないって。窓の外を見つめながら、私は続けます。我慢することが必ずしも美徳とは限らないって。自分の権利は自分で守らなければいけない。たとえ相手が家族でも、間違っていることには毅然とした態度を取るべきだって」
かず彦が静かに頷いてくれました。理不尽に耐え続けることが、必ずしも正しいわけではないのです。自分を守ること。自分の権利を主張すること。それは決して悪いことではありません。
私は一人で庭に出て、夕暮れの空を見上げました。心の中で静かにつぶやきます。
「私は六十歳。人生の大半を真面目に働いてきました。地味かもしれない。華やかではないかもしれない。でも、この人生は私とかず彦さんのものです。誰にも『もったいない』なんて言わせません」
真面目に生きてきた人生を、誰かに否定される筋合いはないのです。自分の価値は自分で決めるもの。そして、その価値を守るために戦うことは、決して間違っていません。
因果応報という言葉があります。悪いことをした人には必ず報いが来るのです。そして、正しく生きた人には必ず平和が訪れます。もし誰かが理不尽な扱いを受けているなら、一人で我慢し続ける必要はありません。あなたには自分を守る権利があるのです。
正当な権利を主張する勇気を持ってください。たった一言でも、世界は変わります。「確かにそうですね」。私のその一言がすべてを変えました。
かず彦がそっと庭に出てきてくれました。二人で並んで夕焼けを眺めます。オレンジ色に染まる空が、とても美しく感じられました。
「とし子」
「何?」
「ありがとう。俺と一緒に戦ってくれて」
「私こそありがとう。二人で手をつなぎます。この手で、これからも一緒に人生を歩んでいくのです。強く、そして誇りを持って。私たちの家で、私たちらしく。もう誰にも邪魔されることなく、静かにでも確かに、幸せな日々を重ねていきます」
図書館での仕事も、これからも続けていくつもりです。二十七年間培ってきた経験を、多くの人のために役立てていきたい。それが私の生きがいなのですから。
夕日が沈んでいきます。新しい明日がまた始まるのです。家族に負けず、自分の価値を守り抜いた私たち。この先もきっと、穏やかな日々が続いていくでしょう。
かず彦と二人、笑顔で家の中に戻ります。私たちの家。私たちの人生。誰にも奪わせません。



