市場の外れ、崩れかけた秋屋の前。か護が一丁、四条の真ん中でぴたりと止まった。。物乞いの娘の前だった。上下姿の役人たちが道を開け、その中央ではこの土地を預かる若い大官が、娘へ深く腰を折っていた。。三日ほど前まで娘を語り物にしていた人々は、その場に凍りついたまま動けずにいた。。なぜ大官ともあろう者が、名家も持たぬ娘に頭を下げているのか。ただ一つ確かなのは、崩れかけた秋屋で過ごしたわずか三日間が、娘の運命を変えたということだけだった。
物語りは、その三日前から始まる。春の終わりの、死の立つ朝だった。大州海道沿いの宿場町は、大所が救い米を放出するという噂を聞きつけた人々でごった返していた。空の袋を手にした者たちが、通りの橋まで長い列をなしている。その一番後ろに、十九になる娘が立っていた。服という名だった。着物の裾はすり切れ、草履から覗くつ先には泥がこびりついている。前に並ぶ行商人が振り返り、「乞食が何を貰い前だ、匂いから離れていろ」と鼻先で笑った。服は言い返すこともなく、半歩だけ後ろに下がった。それでも列を離れることはなかった。
服が物乞いになったのは、三年前、母をなくしてからだった。それからというもの、腹が減っているか、寒くないか、そういう問いを服に向ける者はいなくなった。服自身もそれを寂しいと思うことすらやめていた。物乞いという暮らしは、誰にも頼らず、誰にも期待しない代わりに、誰からも顧みられない暮らしでもあった
その頃、街道の少し先では、一丁のか護が難航していた。乗っているのは、これより一日ほど北の古い屋敷に仕える老女だった。「若い頃に育った村へ、一目だけ里を見に行きたい」と、今日の者にも強く言いはって出てきたという。年を取ると、忘れていたはずの故郷の景色が急に恋しくなるものらしい。道中、駕籠かきの一人が石につまずいて足を痛め、その拍子に担ぎ棒まで大きく歪めてしまった。紐が切れかかっていた。今日の者たちは、駕籠かきを宿へ運ぶ者と、代わりの担ぎ棒を探す者とに分かれた。慌ただしいその様子を、老女は少し離れた場所から眺めていた…
老女はその騒ぎの向こうに、若い頃に歩いた旧道のかげを見つけた。「ほんの少し確かめるだけだ」と言い残し、女中が煮物を整えている隙に、一人で旧道へ入ってしまったのである。若い頃に何度も歩いた道のはずだったが、記憶というものは当てにならない。ああ、昔とは形を変え、目印にしていた大木も見当たらなかった。気づけば、今日の姿はどこにも見えなくなっていた…元より胸に古い病を抱えていた老女だった。歩き疲れと夕暮れの冷気が、その病を呼び覚ました。目の前が暗くなり、老女はふらつきながら、崩れかけた一軒の秋屋に転がり込むように身を寄せた
その日の夕暮れ、店先の市場を服は一巡りした。日が傾くと、行商人たちは店を畳み始める。服が手に入れたのは、大根の切れ端と、一軒の飯屋の裏口で洗い物を手伝った礼にもらった、冷たい握り飯半分だけだった。「日飯一つでもありがたく思え、さっさとお行き」と、女将は器を片付けながら手を振った。服は頭を下げて背を向けた。その握り飯をすぐには食べず、懐にしまった。「今日食べる分と、明日食べる分を分けておかなければ、明日は腹をすかせたまま、もう一日を過ごすことになる」から、母をなくしてから三年、そういう算段が体に染みついていた
眠る場所を探して市場の外れへ足を向けた時だった。「小本、小本」と、秋屋だと思っていた家から、かすかな息の音が漏れてきた。服は足を止めた。屋根は半分崩れ、戸板は傾き、長らく人が住んでいないはずの家だった。戸の隙間から覗き込むと、暗がりの中で何かがかすかに動いた「どなたかいらっしゃいますか? 」返事の代わりに、苦しげな吐息が帰ってきた。服は戸を開けた。見知らぬ老婆が、土間に横たわり震えていた。「かけるものが一枚もない」。服は自分の肩に羽織っていたむろを脱ぎ、老婆の体にかけた。額に手を当ててみると、冷えているのに汗ばんでいるのが分かった。「息が浅く、早い」。服にも、ただの疲れではないことだけは分かった…老婆の目が薄く開いた。「商店の定まらない瞳が、しばらく服の顔の上を彷徨った……」それから、乾いた手のひらが服の手首をいきなり掴んだ「嫁か、はい。うちの嫁がやっと来たか”。服が「違います」と答える間もなかった。老婆の目尻から涙がずっと流れ、白髪混じりの鬢を濡らした上の「上ご」の一言に、服は掴まれた手を振りほどけなかった「はい、はい。ここにおります。どこにも参りません」。服の口から、思わずそんな答えが出ていた…老婆の手からようやく力が抜けた。ところが、老婆はもう一つ、どうしても尋ねずにはいられないことがあった「遊気は済ませたか? ”」服は胸のうちが騒いで、すぐには答えられなかった。「寝込んでいる人が、真っ先に他人の食事のことを尋ねてきたのだ」。「済ませました、たくさんいただきました」言い終わらぬうちに、空きっ腹がぐうと鳴った。服は思わずお腹を抑えた…
服は井戸へ駆け出し、冷たい水を汲んできた。着物の裾を一枚引き裂いて水に浸し、老婆の額に乗せた…懐にしまっていた握り飯を思い出したのは、その時だった…明日の分として取っておいた、その半分だった…服はためらわなかった…井戸水で握り飯をふやかしておかゆのようにし、匙で少しずつ老婆の口に運んだ「飲み込めますか? ”」「そう、もう一口」。なぜ自分がここまでするのか、服自身にも分からなかった…この老婆に何かを期待していたわけではない…ただ誰かのために手を動かしている間だけ、三年間ずっと胸の底に沈んでいた何かが、少しだけ軽くなる気がした…母を見送ってからというもの、服を必要とする者はどこにもいなかった…「介抱というものが、こんなにも人を満たすとは、服は知らなかった」。誰かの口に匙を運ぶ…ただそれだけの動きが、これほど胸を温めるとは…夜が更けても、老婆の息はなかなか落ち着かなかった…服は布を変えては絞り、絞っては変えた…そのうち、老婆の手を握ったまま壁に凭れて、うつらうつらと眠ってしまった…夜明け近くになってようやく、老婆の息が少し落ち着いてきた…空が白み始めた頃、老婆は目を開けた…今度は瞳の焦点がはっきりしていた…老婆は、自分の体にかけられたむろと、額に乗せられた濡れた布と、自分の手を握ったまま眠っている、見知らぬ娘の姿を、一つ一つ目に焼きつけた…その視線に、服はっと目を覚ました「お気づきになりましたか?

”」老婆はしばらく黙って、服を見つめていた「娘は、この辺りの者か? ”」「家はございません。市場が我が家のようなものです」。老婆の目が、服の荒れてひび割れた手のひらに、しばらく留まった「名は何という? ”」「服と申します…服という、一文字だけの名でございます…母がつけてくれました」。服、老婆はその名を、乾いた唇の間で転がした…それから、もう一つの頼みを聞いてくれぬかと切り出した…乾いた唇が、幾度か動きかけては、また閉じられた…服はせかさず待った…「物乞いをして数年、身についたことがあるとすれば、言いにくい言葉ほどせかさずに待たねばならないということだった」。
「私には、息子が一人おる」「はい」「幼くして父をなくしてから、母の身ばかりを案じ、持ち込まれる縁談を断り続けてきた…年もすっかり過ぎたというのに、嫁を迎えぬまま、今日まで来てしまった…こたび、越せるかも分からぬ病では、それが心残りでな」…老婆の息が荒くなった…服が背中をそっとさすってやると、老婆は息を整えて言葉を続けた「嫁が作ってくれる飯を、一度も受けられぬまま行くのが、悲しくてならぬ…娘、一度だけでいい…嫁のふりをしておくれ」。弱った心が思わずこぼした、老女の願いだった…死を覚悟した心が、見知らぬ物乞いの娘の前で、初めて本音をこぼしたのだった…老婆は震える手で懐中を探った…くしゃくしゃに折りたたまれた布切れが出てきた…布を開くと、銭が何枚か、からりと音を立てた「だちんにするには恥ずかしいが、これしかなくてすまぬ」。服は銭を見下ろした…三日は食いつなげるほどの額だった…世上でその銭を断る者などいない…ところが、服の手が動いた…銭を手に取ると、それを老婆の手のひらに戻し、その上から老婆の指を一本一本折り曲げてやったのだ「だちんは要りません…おばあさん、私は三年前に母をなくしました」…服の声は震えていたが、芯はしっかりとしていた「母と呼べる人ができたのですから、私の方がいただくものが多いございます」。老婆の唇が、ぶるぶると震えた…何か言おうとして、ついに言葉にならず、妹に崩れた…服は老婆を抱き起こし、自分の肩に寄りかからせた…骨と皮ばかりの背中が、服の腕の中でひくひくと震えていた
その日から、服の一日は生まれ変わった…傾いた戸板を立て直し、縄で縛り直した…庭に落ちていた枝屑を吐き集めてかまどを作り、火を起こした…何年ぶりかで、秋屋だった草屋根の煙出しから煙が、ゆらりと立ちのった…井戸を三度往復して、水瓶を満たした…そうする間も、障子を半分開けたままにして、老婆の息遣いを耳で追い続けた…夕方、服は取っておいた握り飯に水を加え、じっくりと煮込んだ…塩一つまみで味をつけた…ぐつぐつと煮た粥をかけた椀に盛り、盆の代わりに板切れに乗せて捧げた…老婆の前で、服はふと立ち止まった…大きく息を一つ吸い込んだ…それから言った「お母様、お食事をどうぞ”」。その言葉が口から出た瞬間だった…服の目から涙が、ぽろりとこぼれた…何年ぶりかに呼んでみる言葉だった…呼ぶ相手がいなくて、ずっと胸のうちにしまい込んでいた言葉だった…粥よりも先に、涙が部屋に入ってしまった格好になった…老婆は体を起こして座り直した…「母が粥を受け取りながら泣く嫁を、どうして黙ってみていられようか…さあ、こちらへおいで”。」老婆は自分の袖で、服の目元を何度も拭ってやった…それから粥を一匙掬って口に運んだ…じっくりと味わうように、飲み込んだ「うまいのを、塩しか入れておりません」「嫁が作ってくれる飯とは、こういう味なのだな”。」老婆は粥匙を掬いかけて手を止め、匙を服の方へ差し出した「嫁も一口食べ”. 」 「私はさっき台所でいただきました」「母の前で嘘をつく嫁が、どこにおる?
”」服は仕方なく口を開けた…自分で作った粥なのに、人に食べさせてもらうと、違う味がした…喉を通っていくにつれ、鼻の奥がつんとして、服はさっと顔を背け、かまどの火加減を見るふりをした…老婆の言葉遣いには、世上の人々とはどこか違う響きがあった…病の床の間ですら言葉尻が乱れることがなく、乞食だからと見下すこともなかった…服にはうまく言葉にできなかったが、この人のそばにいると、久しく忘れていた何かが胸に戻ってくる気がした
二日目、老婆の熱はいくらか引いたものの、まだ起き上がれるほどではなかった…消えた火種をもらうため、服は朝から何件もの戸を叩いた…ようやく分けてもらった小さな火を両手で守り、秋屋で走って戻った…昼過ぎには裏山に登り、鍬もなく石頃で地面を掘って、薬になる根を掘り出した…斜面で足を滑らせて、膝を擦り剥いた…日が暮れる頃には、爪の間という間に真っ黒に土が入り込んでいた…その根を抱えて降りてくると、水を注いでじっくりと煎じた…煎薬を自分の口で先に確かめた…服の顔が、思わず歪んだ…健やかな者でさえ飲み下し難いほどの苦さだった…病人の口には、この苦さをそのまま含ませるわけにはいかない…服は空の小瓶を手に、宿場の飯屋へ向かった「水飴を少し分けてくださいませんか? ”洗い物なら何でもいたします」「何を言うか、物乞いの分際で水飴とは”。」女将は鼻で笑いながらも、山のように積まれた器を顎でしゃくって示した…服は日が傾くまで器を洗い続けた…冷たい水で手がふやけて赤くなるまで洗って、手に入れたのが水飴の一匙だった…その間、自分の食事はなかった…腹が鳴るたびに、服は水をいっぱい飲んだ…市場にはもう噂が広まっていた…「外れの秋屋の乞食娘が、財産目当てで病人を囲っているらしい」。噂は足がないのに、一日で町中を一巡りし、回るたびに尾ひれがついた…この土地の主も耳にしていたが、商人の娘と新府の大官との縁談にかかりきりで、素性の知れぬ年寄りのことは後回しになっていた…人の目に留まらぬ老婆が一軒の屋根の下にいても、誰の目にも止まらぬまま、日が過ぎていった
夕方、薬を持って戻った服の手を、老婆がじっと見下ろした…水にふやけて青白い手だった…土の入り込んだ爪だった…「服や、どうしてそこまでするのだ…ふりなら、ふりだけで良いものを”。」服は薬を老婆の手にしっかりと持たせながら笑った「お母様、人の世話は元々、嫁の勤めです”。」老婆はしばらく黙っていた…薬を飲み下すのど仏が、何度か大きく上下した…薬が苦いせいだけではないようだった…「服や、私の母は、どのような人であったのだ”。」服の手が、ふと留まった…三年の間、誰も尋ねてくれなかったことを、この老婆が訪ねてくれたのだ…「縫い仕事をしておりました…与動座の下で針を動かし、それでも明け方には、私の着物から先に整えてくれました…優しい人であったのですが、下手の代金を踏み倒されても、人の悪口は口に出さぬ人でした”。」老婆が手を伸ばし、服の乱れた髪を撫でた…乾いた指の間から、髪がさらさらと流れ落ちた「明日は、母が髪を整えてやろう”。」と、そう約束してくれた…服が小指を差し出すと、老婆はその指をじっと見つめてから、自分の小指を絡めた…病人の指に、しっかりとした力がこもっていた…だが、その晩、戸の隙間から部屋を覗く目があった…飯屋の女将だった…水飴を一匙もらっていった後、どこの家に入っていくのか気になって、後をつけてみたのだ…女将はその隙間に目を当てたまま、しばらく立ち尽くしていた…乞食の姿を持った、ぼろを着た娘が、見知らぬ老婆の額の布を変えているところを目にしたのだ…女将の口の端が、にやりと上がった…女将は意地悪でそうしたわけではなかった…ただ、素性の知れぬ者同士が肩を寄せ合っているのを見ると、どうにも落ち着かなかったのだ…身寄りのない者が、身寄りのない者を助ける…そんな話を、女将はこれまで一度も信じたことがなかった…裏に何かあるに違いない…そう思い込む方が、女将にとってはよほど心が休まった
翌朝、市場に噂が広まり始めた…「聞いたかい、外れの秋屋に、病人の年寄りが転がり込んだそうだよ」「あの乞食娘が、いついて財産でも狙っているのさ”。」その日の朝、服は水飴をもらいに飯屋へ行った…女将が腕を組んで、服を上から下まで眺め回した「水飴の礼が上がったよ…昨日の倍だ”“昨日は荒い物で払いましたが、年寄りを貰うにはな”“倍もらわなきゃ、割に合わないさ”。」服は一瞬俯いたが、すぐに顔をあげ袖をまくった「器をください…倍洗います”。」優しくされることに、いつからこんなに弱くなったのだろう…人の陰口には慣れているつもりだった…三年間一人で生きてきて、悪口くらいで揺らぐ自分ではないはずだった…だが、老婆の額の布を変えながら、服はふと思う…「この人の前でだけは、乞食と呼ばれても構わなかったこの心が、他人の口一つでこんなにも痛むのは、なぜだろう”。
その夜、宿の客間にて、仲買人が若い大官の縁談を持ちかけついでに、市場の噂話を添えた…「乞食が考えることなど、所詮そんなものだろう”」と、客間に笑いが起きた…仲買人にとってそれは当然のことだった…良い家に、良い嫁を迎えるとは、家柄と器量を釣り合わせることだ…上役の絆だのは、後からいくらでも作れる…だが身分だけは、後から作ることができない…それが仲買人の物差しだった
秋屋の中の老婆は、その噂話を全て聞いていた…障子を突き抜けて入ってくるその言葉に、老婆は服の顔色を伺った…服の顔色は、全く変わらなかった…陰口を聞かされて帰ってきた日でも、粥はきちんと運ばれてきた…老婆はそんな服を黙って見つめていた…見て、また見た…
その晩、老婆の息がまた乱れた…服は飛び起きて、老婆を抱き起こした…背中をさすり、ぬるい水を匙で少しずつ含ませた「お母様、息をゆっくり、私に合わせて”。」すー、はー…息が収まってからも、服は横にならなかった…自分の膝に老婆の頭を乗せ、壁に背を預けた…老婆が息苦しい合間に言った「膝が痛かろう…下ろしておくれ”。」「嫁の膝は、元々母の枕でございます…おやすみください”。」老婆は、それ以上何も言わなかった…服の膝の上で、老婆の息は少しずつ落ち着いていった…服はそのまま夜を明かした…足の感覚がなくなるまで、微動だにしなかった…
明け方、浅い眠りの中で、老婆が寝返りを打ちながら、唸り声を漏らした…服は思わず、低い声で口ずさんだ…幼い頃、母が歌ってくれた子守唄だった…歌詞はほとんど忘れていたが、節回しは体に残っていた…それはゆっくりと、老婆の苦しい息に合わせて、静まっていった…目を閉じた老婆の睫毛が、暗がりの中でわずかに光った…
夜明け頃、眠っていると思われた老婆が、静かに目を開けた…自分に膝を差し出したまま、柱に凭れてうとうと眠る服を、老婆はしばらくじっと見上げていた…それから頭をそっと持ち上げ、服の膝から下ろした…服は柱に持たれたまま、深く眠っていた…同じ膝を差し出していたせいで、伸ばすこともできなかった足が、その時初めて床に長く伸びていた…老婆は服の足元にしばらく座っていた…荒れてひび割れた足だった…踵には、丸太の輪のような分厚い胼胝ができていた…十九の娘の足がここまでなるとは、この子はどんな道を歩いてきたのだろうか…老婆の目が、その足に長くとまった…草履と呼ぶには、とても草履とは呼べない代物だった…底は穴が開いて肌が覗き、つ先の辺りは何度綴じたのか、布切れが幾重にも、こぼこぼと重なっていた…老婆は病んだ体をゆっくりと起こした…腕が、ぶるぶると震えた…それでも止めなかった…眠っている服の足から、草履をそっと脱がせた…障子の向こうから、明け方の白みが、かすかに差し込んでいた…老婆はその明かりを頼りに、針に糸を通した…三度失敗し、四度目にようやく通った…そして、穴の開いた踵を綴じ始めた…一針一針…震えていた手が、針を握った途端、嘘のように落ち着いた…燭台もない薄暗い明け方に、運ぶ針目が、物差しで測ったように真っ直ぐと進んでいった…長い年月、針を手にしてきた者の、迷いのない針目だった…
針の音もしないのに、服が目を覚ました…足元が、心なしか軽いのだ…「お母様、何をなさっているのですか? ”」服は自分の足と、老婆の手を見比べ、はっとして膝に寄った「お加減の悪い方が、どうしてこんなことを…お休みください”。」「じっとしておいで…母が、嫁の草履一足作らぬとでも思うのか…私の息子のことだ”。」老婆は、聞かれもしない話を始めた…「幼くして父をなくした…それでも曲がることなく、真っ直ぐに育ってくれた…母が自分の重荷になりはしないか、それだけを案じている子だ”。」「息子様は、今どちらに? ”」老婆の針が止まった…何か答えようとして唇が動きかけ、また針に戻った「遠くにおる…役目でな”。」息子が何をしている人なのか、最後まで語らなかった…服も、それ以上訪ねなかった…「息子が、服のような人と出会えていればよかったものを”。」独り言のようなその言葉に、服が首を振った「私のような乞食では、だめでございます…お母様”。」その瞬間だった…老婆が針を止め、顔をあげた…病人の目ではなかった「服そのような言葉は、口にするものではない…人を想う心こそが、何よりの身立てだ”。」部屋の中が静まった…「できた…履いてみよう”。」服は草履を履いた…穴から入り込んでいた明け方の冷気が、もう入ってこなかった…「足はどうだ?
”」「温かいです”“」「服や、草履は足に合わねばならぬし、人は心に合わねばならぬ…無理に履かせた草履は、足を痛めるものだ”。」服はその言葉を噛みしめるように、足の指を軽く動かしてみた…それから鼻の奥が熱くなり、慌てて布団を整えるふりをした「お休みください…お母様…明け方の風は冷えますから”。」老婆は素直に横になった…眠ったふりをして目を閉じたが、服が背を向けてしばらく立っても、老婆の目尻の潤みは、乾かなかった…
ふりから始まった、三日間だった…そのふりが、いつから本物に変わっていったのか、二人とも知らないままだった…服はこの頃、自分でも気づかぬうちに、日が傾くと足を早めるようになっていた…あの人が待っている…そう思うだけで、物乞いの一日がいつもより軽く感じられた…三年間、誰かのために急ぐということを、服はしたことがなかった…
夜が明けた…服は水桶を頭に乗せて井戸へ向かった…朝の水は、一日だって欠かしたことのない仕事だった…ところが、服が出ている間に、部屋の中で一つの出来事が起きた…老婆が寝返りを打った拍子に、布団の下に置いていたものが、ずるりと滑り出てしまったのだ…袋だった…ずっしりと膨らんだ袋が、布団の外に半分身を乗り出すようにして置かれていた…水を汲んで戻った服は、敷居のところで立ち止まった…布団の外に、銭袋が半分はみ出していた…見るからにずっしりとしていた…わずかな銭にさえ、だちんにすることをためらっていた老婆の暮らしから出てくる代物ではなかった…服は水桶を下ろし、近づいて袋を手に取った…重たいものだった…手のひらが下に沈むほど、重たいものだった…世上の相場で言えば、この中身で数ヶ月は米も買わずに暮らせるほどの額だった…服の指が、紐にかかったまま止まった…この重み一つあれば、もう物乞いをせずに済む…今日食べる分と、明日食べる分を分ける算段をしなくて良くなる…頭の中でそんな考えが、ゆっくりと形になっていった…誰も見ていない…誰も知らない…そう思う自分がいたことを、服は後になるまで認めたくなかった…だがすぐに、老婆の乾いた手の感触が蘇った…同じように握っていたあの手…震えながら草履を縫っていたあの指先…服は袋を握ったまま、しばらく動けなかった…長い沈黙の後、服は袋を、老婆の手が届く場所へ戻した…その指は袋を離した後も、しばらく震えていた…
その光景を見ていた者がいた…老婆だ…半目を覚ましたまま、初めから終わりまで見届けていたのだ…試そうとしたわけではなかった…寝返りを打った拍子に落ちた袋を、唄の合間に偶然目にしただけだった…だが、その偶然が、老婆の心に釘を打つように、何かを決定付けてしまった…
昼になった…秋屋の庭に、見知らぬ人影が入ってきた…仲買人の女だった…噂を聞くだけ聞いて、自分の目で確かめずにはいられないと、市場の外れまで足を運んできたのだ…仲買人は戸に立って首を伸ばし、部屋の中を覗き込んだ…それから庭にいる服に向かって、顎をしゃくった「やはり噂は本当だったか…病気の年寄りは、大役所に届け出て任せてしまえば、それで済むのだよ…乞食の分際で、何が孝行だ…嫁のふりだ…今日にでも手を引きなさい”。」庭が静まった…服は箒を立てかけたまま、しばらく地面を見つめた…人の陰口を聞いても言い返さなかった服が、初めて口を開いた…声は荒々しくなかった…静かで、落ち着いていた「ふりでも、三日もあれば、情が映ります“…何だと? ”」「ふりは私がいたします…けれど、情が映ることまでは、私にはどうにもできません”。」仲買人の口が、半分開いたままになった…何か言い返そうにも、言葉が見つからない様子だった「頭のおかしな女だ…乞食にも、情もあるものか”。」仲買人は裾を翻して庭を出ていった…出ていきながらも、何度も振り返った…部屋の中では、老婆がその一言を聞いていた…「ふりでも、三日もあれば、情が映ります”」。その一言が、障子を通って、老婆の胸に落ちた…老婆は天井を見上げた…死ぬ前に嫁の顔を一目見たいという願いが、いつの間にか別のものへと変わっていた…この子でなければならぬ…ふりの嫁ではなく、本当の嫁として…老婆の皺だらけの手が布団の襟を、ぐっと握りしめた…
屋敷の広間にはいつも、冷たい静けさがあった…誰もが老女を敬ったが、誰も老女に「今日は何を食べたか」「疲れてはいないか」と、そう尋ねてはくれなかった…服だけが、その問いを持っていた…
その日の午後、老婆は服に隠れて体を起こし、その隙間に目を当てた…庭では、服が粥を炊く薪を割っていた…薪を割る合間から、鼻歌が漏れていた…先日の明け方に、服の耳元で口ずさんだのと同じ節だった…老婆は隙間から、しばらく目を離せなかった…「長生きして、残ったものといえば、人を見る目一つよ”。」老婆が低く独り言を言った「その目が、今、間違っているはずがない”。」
夕食の前、老婆はいつもより長く粥を味わった…服の顔を一度見ては一匙、また一度見ては一匙…そしてふと尋ねた「服や、お前はこの三日間が、惜しくはないか”“」「ございます…惜しくてなりません”。」服はためらいなく答えた…老婆の手が止まった…服は笑いながら言葉を続けた「一日過ぎるたびに、惜しくてなりません…お母様と呼べる日が、一日ずつ減っていくのですから”。」老婆は匙を置いた…そして服の手を引き寄せ、自分の両手で長く包み込んだ…骨と皮ばかりの手なのに、その温もりは不思議なほど深いものだった…「服や、母の体が治ったら、…”」老婆は言いかけて、言葉を止めた…服が首をかしげた…「治られたら、お前に見せたいものがある”“」「何でございますか? ”」「治ったら見せてやろう…それまで、母の薬を一日も欠かさぬように”。」服はわけも分からないまま頷いた…老婆の目が笑っていたので、服も釣られて笑った…服の中で迷いがなかったわけではない…この暮らしが長くは続かないことを、服自身が一番よく分かっていた…老婆が回復すれば、あるいは息を引き取れば、服はまた一人に戻る…それでも、この三日を悔む日は来ないだろうと、服は思った…母と呼べる誰かがいる…それだけで、これまでの物乞いの日々よりも、よほど満たされていた…
ちょうどその夕方だった…とっと、とっと、市場の方から、馬の蹄の音が響いてきた…一頭ではなかった…何頭もの馬が、土埃をあげながら通りに入ってきていた…馬から降りた男たちが、行商人を捕まえ、何かを急いた様子で訪ねていた…行商人の指が、市外れの秋屋を差した…馬から降りた男たちが、秋屋の沓脱ぎで膝をつき、土間に上がってきたのは、粥を下げた直後だった…先頭は役人の小姓だった…その後ろから、年老いた女中が一人、草履が脱げるのも構わずに駆け込んできた「奥方様、奥方様、こちらにいらしたのですか? ”」女中は敷居で転びそうになり、その場に崩れ落ちた…老婆に取りすがって激しく泣くのだが、言葉は尻切れとんぼだった…「薬を求めに出て、戻ってみたら、いらっしゃらなくて…この何日か、道を間違えて同じ方を探し回り、大役所に届け出ましたのです…万一のことがあれば、どう報れば良いかと…”」女中は何度も声を詰まらせた…だが服を凍りつかせたのは、その鳴き声ではなかった…後から入ってきた役人たちだった…屈強な男たちが、土間のど真ん中に一斉に膝をついて、額ずいたのだ「奥方様、私どもの不届きでございます…”。」乞食でもなく、行商人でもなく、女中に仕える役人たちだった…その役人たちが、今にも崩れそうな秋屋の土間に、額を擦りつけて額ずいていたのだ…服は台所の柱にすがりついたまま、その光景を眺めていた…「奥方様”」とは、あの病んだ貧しい老婆が奥方様と呼ばれること…それが何を意味するのか、服はまだ理解できなかった…ただ胸の奥が、すとんと落ちるような感覚だけがあった…
小屋はあっという間に、見知らぬ人々でいっぱいになった…駕籠が運び込まれ、薬箱が運び込まれ、医者が脈を取りに入ってきた…それまで服一人が守っていた部屋が、またたく間に、服の居場所のない部屋になっていた…「服、服はどこにおる?
”」部屋の中で、老婆が服を探した…服は着物の裾を整えて、部屋に入った…人々に囲まれて座る老婆が、手を伸ばして服の手首を掴んだ…三日前のあの夜と同じように、しっかりと「行かないでおくれ”。」「お母様、これから良いところへ帰られるのです…おめでたいことでございます”“」「服や、左右には、ぬるいうちに水飴を溶かして差し上げてください…苦いものは、お飲み込みになりにくいので”。」服は老婆の手を握ったまま、女中に向かって言葉をかけた…「明け方に痰が出ましたら、背中をさすって差し上げてください…”。」自分の身の先を思っての言葉ではなかった…ただ、残していく人を案じる言葉だった…
服はそこで初めて、自分の手首を掴む手を見下ろした…そして部屋の中を見回した…二十畳の畳が敷かれ、薬籠が並び、役人たちがその外に列をなしていた…乞食が座っていられる場所など、その部屋のどこにも、残っていなかった…三日前まで、ここは服だけの部屋だった…服だけが知っている畳の音があり、服だけが知っている老婆の癖があった…それが今、見知らぬ人々の手によって、あっという間に取り上げられていくようだった…服は老婆の手を両手で包んだ…三晩の間に握っていたあの手だった…それから、手をそっと解いて、額に押しいただき、下がって、深く頭を下げた「娘、何をするのです”“」「ふりは、ここまででございます…お母様”。」服の額が、床板についてから離れた「三日間、私にはお母様が降りました…”。」頭をあげた服の目尻は赤くなっていたが、頬は笑っていた「おかげ様で、三年ぶりにお母様の粥を、整えることができました…この恩は、何を持ってもお返しできません”。」服の胸のうちには、二つの思いが同時にあった…この人が良いところへ帰れることが嬉しい…だが、自分がここにいる理由は、もう終わってしまった…喜びと、痛みが、同じ場所から込み上げてきた…老婆の言葉が、咳で途切れた…こほん、こほん…女中と医者が駆け寄って、背中をさすった…その隙だった…服が一歩、また一歩と後ずさったのは…咳の合間に顔をあげた老婆の声が、震えて出てきた「何か、一言でも、何か言い残しておくれ…”。」服は笑うだけだった…そして、去る前にただ一言だけを残した…「この上、尊いお方に、何の役に立ちましょうか”。」声にした瞬間、服は自分の言葉に自分で刺されたような気がした…役に立たないのは、己だけではない…乞食のこの身のものがあの人の生きる世界には、もういらないのだ…服は闇の中へ下がっていった…役人たちの間をすり抜けていく…綻び切れた裾を、誰も引き止めなかった…
秋屋には、服一人が取り残された…部屋には、老婆が横たわっていた場所が、そのままの形にへこんでいた…入り口の辺りには、縫われた草履を履いた服の足が、ぼつんと立っていた…かまどの火種が、ぱちんと音を立てて消えていった…服はそのそばに、長い間しゃがみ込んでいた…「行ってしまわれた”。」独り言が、かまどの灰の上に落ちた「夕べのお粥も、お出しできずにお見送りしてしまった…”。」服は、老婆の使っていた薬碗を水で洗い、棚の上の一番高い場所に伏せておいた…いつかまた使う日が来るかのように、きちんと伏せておいた…誰がまた来るわけでもないのに、服はそれでも、きちんと伏せておいた…
一方、大所へ向かう駕籠の上でのことだった…老婆が、女中の袖をぐいと引き寄せた…とても病人の声には聞こえなかった…一言一言を押し出すような、しっかりとした声だった「伝えておくれ”“」「はい…奥方様”“」「母は、もう一人の娘を見つけた…そして、お前に、その娘に会ってほしいとな”“」「息子には、道中であった娘のことを、隠さず話してやってほしい…あの子がいなければ、私はあの夜を越せなかったやもしれぬ…それだけは、正しく伝えておくれ”。」女中は駕籠の揺れに合わせて、その言葉を何度も胸のうちで繰り返した…
翌朝、服はまた一人になった…空の袋を手に出かける、市場への道だった…数日ぶりに歩く道なのに、足がやたらとつまずいた…市場はいつもと変わりなかった…飯屋の湯が立ち、露天が並び、呼び合う声が賑やかだった…変わったものは何もなかった…変わったのは、服一人だけだった…「服屋”」と呼ぶ声のような気がして振り向くと、行商人の呼び込みだった…三日間で、情がここまで深くなるとは、服自身も思っていなかった…
「ほら、来たよ…孝行娘のお通りだ”。」行商人の一人が、くすくすと笑った…飯場の向こうで、女将が杓子をかき回しながら受けた「聞いたかい? ”あの年寄り、ただの年寄りじゃなかったんだってね…身分の高い奥方様だったらしいよ…役人たちが土下座して、連れて行ったってさ”“」「それであの乞食は、何をもらったって? ”」「何も…もらうも何も、しがみつくだけしがみついて、振り向きもされなかったってさ…ただで看病だけして、捨てられた後悔さとやら香う娘さん…財産にありつくかとありつくも、これしか手に入りませんでした”。」服が、荒れてひび割れた手のひらをそっと差し出すと、噂話をしていた者たちは決まり悪そうに目をそらした…くすくすという笑い声だけが、服の背中を追ってきた…服はその言葉を全て背中で受け止めながら、市場を回った…空の袋は、今日もなかなか膨らまなかった…
秋に戻ると、土間には老婆が寝ていた場所が、まだそのままの形で残っていた…服はその場所をどうしても踏むことができず、入口の辺りに座った…そして、自分の足元に目を落とした…草履があった…踵を丁寧に縫われた、あの草履だった…服は草履を脱ぎ、両手で捧げた…手のひらに、明け方の白みの下で、一心に進んでいったあの針が、こぼこと触れた…「三日で母を得られたのなら、それはむしろ、得な取引だった”。」口ではそう言ったが、草履を持つ手の甲に、涙がぽたぽたと落ちた…服は声を立てずに泣いた…肩だけが、ひくと震えていた…三年前、母を見送った夜も、こうして泣いた…声を出すと隣の家に迷惑がかかるから、服の泣き方は、いつも声のないものだった…泣きながら、服は老婆が寝ていた場所に向かって、話しかけた「お母様、お食事は、召し上がりましたか? ”」返事があるはずもなかった…「あちらでは、お粥ではなく、白いご飯を召し上がってください…私は、元気にしております…”。」喉が詰まって、言葉が続かなかった…元気だという言葉が、この世で一番難しい嘘だった…
その夜、大干所の方の空が、明るく染まっていた…灯りがいつになく多くともされて、夜空がぽっと色づいていた…服はその明かりに背を向けて、横になった…大役所の灯りも、尊いお方も、全て自分とは関わりのない別の世界の出来事だった…「明日は、店先の前の南の市場に場所を移してみようか…”。」服は、明日の算段をしながら目を閉じた…懐のうちで温もりが残っているのは、縫われた草履だけだった…
その夜、大干所の奥座敷では、床に伏す母の傍らで、若い大官が一部始終を聞いていた…母を三晩支えたのが、素性も知れぬ物乞いの娘であったこと…看病の甲斐と差し出した銭にさえ、頑として受け取らなかったこと…息が乱れるたびに膝を貸し、眠る間も惜しんで薬を煎じたこと…話を聞き終えた若い大官は、しばらく黙り込んだまま、庭の暗がりを見つめていた…それから、深く息を吐いた「母上が身分を隠さぬまま助けられ、差し出した銭にまで拒まれたのであれば、その娘の心に偽りはございません…まずは、母上の恩人として、私自身が礼を申し上げとうございます”。」
翌日の朝、市場の外れで、先払いの声が響いた「控えをろう”。」一度ではなかった…声は次第に近づいてきた「控えろ、控えろ”。」粥をよそっていた飯屋の女将が、杓子を持ったまま顔をあげた…露天を片付けかけていた行商人たちの手が、一斉に止まった…「また来た…あの行列だ…それにしても、何のご用だろう”“」「忘れ物でもされたか…”」人だかりが波のようにうねった…土埃が舞う通りの向こうから、一丁の駕籠が市場に入ってきていた…駕籠の後ろには、馬に乗った役人たちが、幾人も続いていた…服は、お救い米の列の一番後ろに立っていた…物乞いは人に近づきすぎると押しのけられることを知っているので、服はいつも三歩離れて立っていた…
真っ先に飛び出してきたのは、商人の家の者たちだった…表門を大きく開け放ち、商人が裾を翻しながら門前に立った…「それ見ろ…あの尊いお方が、霊を弔いにお戻りになるのだ”。」世上の人々も、駕籠は当然そちらへ向かうものだと信じて疑わなかった…あの秋屋の乞食娘のことなど、誰の頭にもなかった…
ところが、駕籠は商人の屋敷の門前を、そのまま通り過ぎた…歩み一つ緩めず、通り過ぎたのだ…腰を折ったまま固まってしまった商人の背後で、仲買人の笑みが、音を立てて崩れた…駕籠は宿の前も通り過ぎた…女将が前掛けで手を拭きながら出迎えの支度をしかけて、慌てて手を下ろした…駕籠は、まっすぐをお救い米の列の方へと向かった…並んでいた人々は騒めいた…駕籠が近づくにつれ、人々は押されるように散っていった…そして、ついに、よりによって、その列の一番後ろ、物乞いの娘の前で、か護がぴたりと止まったのだ…
がちゃんと、女将の杓子が地面に落ちた…役人たちが一斉に、服の方を向いた…世上は、水を打ったように静まり返った…誰も、口を利かなかった…長い静けさの中で、駕籠の簾だけが、ゆっくりと上がっていった…中にいたのは、あの老婆だった…秋屋の土間でがたがたと震えていたあの老婆だったが、表情がまるで別人だった…美しく結い上げた髪に、簪が真っ直ぐに挿され、深い緑の打掛が肩を包んでいた…病の色はまだ抜け切ってはいなかったが、目の光だけは、三日間、服が握っていたあの目のままだった…
先頭の役人が前に進み出て、声を張り上げた「この土地を納める大様の御母道様でいらせられる…御郎様の奥方にして、大様様の御母でいらせられる…”。」市上に立つ誰もが、その名を耳にするのは初めてだった…世がひっくり返ったような騒ぎになった…「御母藤様、御郎様の奥方、大様様の御母…”」その言葉が、人々の口から口へと飛び交った…立っていた人々が、波のように地面に平伏した…昨日まで服を嘲っていた口が、一斉に閉じられた…人々は地面に額を伏せたまま、誰一人として、服の顔を見ることができなかった…ざわめきが引いていくにつれ、市上を包んでいたのは、重い沈黙だった…仲買人の顔から、血の気が引いた…女将は落とした杓子を拾うことも忘れて、立ち竦んでいた…
老婆は、駕籠から降り立った…女中が支えようとするのを、静かに手で制した…そして、土の上に立つ服に向かって、歩み寄った「服や”。」寝込んでいた間は、夢の中でしか呼べなかったその言葉が、今度ははっきりとした意識の下で、市場の真ん中に響いた「母が、迎えに来た”。」服は、その場にへなと座り込んだ…空の袋が、手からするりと落ちた…何か言わねばと思うのに、言葉が出ず、立ち上がらねばと思うのに、足に力が入らなかった…ただ涙だけが、溢れてきた…いつも声を立てずに泣いていた服が、初めて声をあげて泣いた…老婆は服の手を取り、そっと立たせながら言った「母が約束しなかったか…良くなったら、見せてやるものがあると”。」老婆の目が、駕籠の脇に並ぶ行列をゆっくりと見渡し、また服へと戻った「これのことだ…母が見せてやると言っていたのは、母の健やかな体と、母の生きるこの世のことだ…お前を、迎えに来た”。」
その時、馬が一頭、前に進み出た…若い大官が、馬から降りた…役人小姓の整った男だった…新しく着任した大官、黒衣の織物だった…いよは、座り込んで泣く物乞いの娘の前まで歩み寄ると、驚くべきことに、先に深ぶかと腰を折った「母を助けてくださった方と伺いました”。」大官ともあろう者が、物乞いに礼を尽くす光景に、平伏する人々の背中が、もう一度ざわめいた…男は、腰を折った後も、声を落とさなかった…市場中に聞こえよという声だった「水飲み知らずの陋屋で、三晩寝ずに看病して、助けてくださった方です…母が申しておりました…産んだ恩と、生かした恩は、重さが等しいのだと”。」いよは、服に向かってもう一度、頭を下げた「大官としてではなく、一人の人間としての礼でございます”。」頭を下げたままの背中を、市上の人々は言葉もなく見つめていた…服は、涙にまみれた顔をあげた「私は、後悔です”。」声が嗄れていた…「それでも、よろしいのでしょうか?
”」その問いが、市のただ中に落ちた…男は、静かに首を振った「母の命を支えたのが誰であったか、この目で見た上でなお、その人の心を問う者がおりましたら、その者の心の方こそ疑いましょう…人の値打ちは、生まれた場所では決まりませぬ”。」服は言葉を失い、ただ涙をこぼした…老婆は、差し伸べた手を引っ込めなかった…それどころか、世上の人々が見守る前で、服の両手を自分の両手でしっかりと包み直した…水にふやけてひび割れたその手を、老婆は自分の方に押し当てた「服や、母が何と言った? ”」「人を想う心が、何よりの身立てだと言わなかったか…嫁のふりは、これで終わりだ…まずは、母の娘として、私どもの家へ来ておくれ…その上で、息子と心を通わせ、互いに望むなら、本当の嫁になっておれ”。」服の鳴き声が、また高くなった…今度は、老婆も一緒に泣いた…大官の見る前で、地に伏す市場の人々の見る前で、二人は長い間、泣き続けた…その様子をそっと見ていた奥女中たちの間からも、すすり泣く声が漏れてきた…いよは、少し離れた場所からその様子を見つめ、静かに言葉を添えた…「母の恩としてだけではなく、一人の人として、あなたのことを知る時をいただきたい”。」その声には、急いで答えを求める響きはなかった…
服を先に立てて向かった先は、日の当たらない裏山の、何もない小さな墓だった…女中が低く、膝にも届かない、服の実の母の墓だった…老婆はその前に酒を一献備え、裾を整えて立ったまま、静かに手を合わせた「娘さんは、これより私の娘です”。」風が、墓と草を撫でて過ぎていった…「娘を、語り継いでくださって、ありがとうございます…これほど遠くに残されて、さぞ心を痛められたことでしょう”。」服は、墓の前でもう一度泣いた…三年間、一人で通っていた墓参りの道に、初めて、隣に人がいた…山を降りる道すら、老婆は服の手を握って歩いた…「墓前には、毎年一緒に来ようね…そなたの実の母上へのご挨拶を兼ねて”。」服が泣きながら笑った…笑う顔の上に、涙の跡が、てらてらと光っていた…二人の影が、夕暮れの山道に長く伸びていた…
服が屋敷に迎えられてから、幾月かが過ぎた…屋敷の暮らしは、物乞いの日々とはまるで違っていた…それでも服は、市場で身につけた癖を手放さなかった…粥の残りを無駄にせず、使用人にも丁寧に頭を下げた…いよは、服が身分によって人への態度を変えぬことを知った…服もまた、容利が役目の重さを人に見せず、両内の訴えに耳を傾ける人であることを知った…二人が言葉をかわす夕べが、少しずつ増えていった…庭の松の下で、他愛もない話に笑い合う日もあれば、互いの過去について静かに語り合う夜もあった…やがて二人は、自らの意思で、終の日を決めた…やがて二人が自ら決めた、終の日が訪れた…その日は朝から、一郭中が祝いの席のような賑わいに包まれた…
女将は、服と目を合わせることができず、祝いの粥を黙って炊き続けた…杓子を動かす手が、いつもより不器用に動いていた…やがて、水飴の壺を一つ、老婆の薬箱のそばへ、そっと置いた…祝いの会を受けた、いよの従者が、女将に向かってぽつりと言った「俺たちは、人を見る目がなかったな”“」「全く見抜けなかったのではない…見る力が、なかったのさ”。」女将が杓子で鍋を掻き回しながら答えた…自分自身への答えでもあった…
綿帽子を被った服に、老婆が近づいて、風呂敷包みを一つ差し出した…開けてみると、草履だった…雪のように白い、新しい草履…と足かとの張り目が、物差しで測ったように整っていた…秋屋での明け方の白みの下で見た、あの張り目だった「あの手で、新しく仕立てた”。」服は草履を胸に強く抱きしめた…祝いの晴れ着の袖が濡れるほど、長く抱き締めていた…かつて穴の開いた草履を縫ってくれた、同じ手が、今度は、真新しい婚礼の足を仕立ててくれたのだった…
歳月が流れた…市場の外れの家は、取り壊されなかった…屋根を新しく吹き換え、戸を直し、庭を広げた…老婆と服は、折に触れてその家を訪れ、並んで縁側に座りながら、市場を生きる人々を眺めた…腹をすかせた子供が通りかかると、服の方が真っ先に気づいた…人と三歩離れて歩く子…空の袋を抱えた子…物乞いは、人に近づきすぎると押しのけられることを知っているので、いつも三歩離れて立つものだった…服はそんな子を呼び寄せて、縁側に座らせ、粥を整えてやった…子供が粥を食べ終えると、服はその手に、握り飯をもう一つ持たせた…「今日の分と、明日の分は、分けておくものですよ”。」老婆が笑って尋ねた…「服や、その知恵は、どこで身につけたのだ”“」「今日と明日に分けることは、物乞いの日々に覚えました…自分の分を誰かに差し出すことは、ある秋屋で教わりました”。」しばらくの間、二人は顔を見合わせて笑った…市上に、夕方の風が吹き、縁側をさらさらと撫でて過ぎていった…


