靴を履く私の背中に、妹が笑いを投げた。「ただのレジ打ちのお姉ちゃんじゃ、どうせ1時間で断られるよ」。翌日、私は断るために見合いの席に座った。相手は時グループの社長。でも「お仕事は?」と聞かれて「スーパーでネジを売っています」と答えた瞬間、彼の視線が私の右手で止まり、こう言った。「僕と結婚してください」。あの人が見ていたのは、私の顔ではなかった。私は32歳、ネジではなく金属を削る自分の工房を持…

靴を履く私の背中に、妹が笑いを投げた。「ただのレジ打ちのお姉ちゃんじゃ、どうせ1時間で断られるよ」。翌日、私は断るために見合いの席に座った。相手は時グループの社長。でも「お仕事は?」と聞かれて「スーパーでネジを売っています」と答えた瞬間、彼の視線が私の右手で止まり、こう言った。「僕と結婚してください」。あの人が見ていたのは、私の顔ではなかった。私は32歳、ネジではなく金属を削る自分の工房を持...

見合いの前日、実家の玄関で靴を履く私の背中に、妹の美ゆが笑いを投げた。ただのレジ打ちのお姉ちゃんじゃ、どうせ1時間で断られるって。母は奥から声だけ飛ばした。相手は時グループの社長。妹が写真を見て「つまんなそう」と放り出した縁談だった。断ってもらうつもりで来た。だから「お仕事は何を?」と聞かれた時、私は迷わず答えた。スーパーでネジを売っています、と。

これで終わる。そう思った。

ところが、時優馬という人は眉ひとつ動かさなかった。話は途切れず、私はグラスに手を伸ばした。その瞬間、彼の目が止まった。私の右手で。

「まさか」

低い声だった。

「僕と結婚してください」

私は水を飲むのを忘れた。

あの人が見ていたのは、私の顔ではなかった。

私は瀬彩佳。32歳。東京の御徒町に小さな工房を借りている。表に看板は出していない。2階の窓で古い換気扇がひとつ回っているだけの建物だ。そこで私は毎日金属を削っている。週に1度、火曜の夕方だけ、工房から歩いて5分のスーパー「港屋」のレジに立つ。3時間だけの登録パートだ。

店長の井原啓吾さんは52歳。私のことを「金属を作っている人」だと思っている。

「瀬さん、今日も指先が真っ黒だよ」

「すみません。洗ってきます」

なぜレジに立つのか。一度、井原さんに聞かれた。人の手がいちばんよく見える場所だからだ。1日に何百人もの手が、私の目の前に千円札を置いていく。節くれだった手。指輪の跡だけが白く残った手。爪を塗って飾った手。見ていると、次に作りたい形が浮かぶ。時給は1300円。嘘はひとつもない。私に別の仕事があることは、井原さんも知っている。ただ「細工」とだけ聞いている。会社をやっているとは思ってもいない。

港屋のレジは2台しかない。混む時間だけ、私が2台目に入る。連れの田島さんという80を過ぎた女性は、小銭を数えるのに時間がかかる。その人の左手の薬指には、細い金の指輪が食い込んでいる。40年前に買ったものだといつか話してくれた。指が太くなってもう抜けないのだと笑っていた。私はその指輪の細さを毎週見ている。40年で金の輪は人の指に負ける。

実家は埼玉の川口にある。父の正は61歳。瀬金属工業という会社の社長で、従業員は12人。母の紀子は58歳。妹の美ゆは28歳で、化粧品を紹介する動画を出している。9年前、私が勤めをやめて自分の工房を始めた時、父はこう言った。

「勤めもしないで遊ぶなら、家に10万入れろ。それが筋だ」

「遊びじゃない。工房を借りたの」

「同じことだ。会社に所属してないやつは、全部遊びだ」

父の中では、給料をもらう者だけが働いていた。その月から毎月10万円を実家に振り込んでいる。9年、1度も欠かしていない。合計は1080万円になった。振り込みの控えは全部取ってある。几帳面なのではない。数字を覚えるのが苦手だから、紙に残す。工房を始めた日からの癖だ。

2年前の秋、母から電話があった。

「美ゆが独立するのよ。撮影の機材と部屋の保証金でね。200万」

翌日、振り込んだ。美ゆからは礼の一言もなかった。母からもない。その正月、母と美ゆは九州へ行った。温泉の前で笑う写真が送られてきた。私は工房にいた。

実家では私の席は決まっている。食事が終わると母が言う。「彩佳、あんたは手が開いてるでしょ」そして私は台所に立つ。父と美ゆはテレビの前から動かない。母は茶を飲みながら流しの私に言う。「美ゆは指を痛めたら仕事にならないんだから。あんたは元々汚れてる手だし、ちょうどいいわ」

その手で何を作っているのか、母は1度も聞いたことがない。1度だけ、父が私の作った小さなブローチを手に取ったことがある。銀の地に細い線で葉脈を彫ったものだ。3日かけた。父はそれを2秒見て、裏返しに置いた。

「こんな細かいもの、誰が買うんだ」

私は黙って鞄にしまった。それきり、家に自分の作ったものは持っていっていない。

2年前の春だったと思う。美ゆが私の隣に座って、画面を見せてきた。

「ねえ、お姉ちゃん、これ知ってる? 彩やかっていうブランド」

アルファベットで並んだ名前を、妹の細い指がなぞった。

「デザイナーが女の人で、顔を絶対に出さないの。映るのは手だけ。ミステリアスでしょ」

知ってる。

「あのさ、笑っちゃうんだけど、この会社の社長、お姉ちゃんと同姓同名なんだって。彩佳。ネットに出てるよ」

美ゆは口に手を当てて笑った。母も笑った。「やめなさいよ。彩佳がかわいそうでしょ。でも本当に同じ名前なのね」

私は湯飲みを持ったまま、何も言わなかった。言っても信じない。9年かけて、それだけは分かっていた。

6月の夕方。工房で指輪の石座を削っていると、携帯が鳴った。父からだった。年に2度あるかどうかの電話だ。

「彩佳、土曜、実家に来い」

「何かあるの?」

「見合いの話が来てる」

父の声は機嫌のいい時の声だった。

「相手は時グループの社長さんだ。分かるか? 時グループだぞ」

その名前は知っていた。知っているどころではなかった。時グループは、私の工房の請求先に毎月載っている。

見合いの前日の土曜、その午前に私は川口の実家へ行った。居間のテーブルに、白木さんという人が持ってきたという釣書と写真が広げてあった。白木常夫さん、父の取引先の社長で65歳。時グループの役員と古い付き合いがあるらしい。母と美ゆは写真を挟んで大騒ぎだった。

「ホテルが12巻ですって」

「12巻よねえ。社長夫人って、どれくらいのバッグ持つの?」

父は腕を組んで鼻の穴を膨らませていた。「白木さんに3回も頭を下げた。3回だぞ。分かるか?」

「お父さん、頑張ったのね」

母が声を潜めた。「白木さんも最初はしぶったのよ。うちみたいな小さいところの娘じゃ釣り合わないって」

その時、美ゆが写真を持ち上げて光にかざした。35歳の時優馬さんは、灰色のスーツを着てまっすぐこちらを見ていた。美ゆはおもむろに、写真をテーブルに放った。

「うーん。なんか真面目そう。つまんなそう。私、こういうきっちりした人ダメなんだよね。写真くらい笑えばいいのに」

母が慌てた。「美ゆ、そんなこと言わないで。社長さんよ」

「じゃあお母さんが行けば」

美ゆは立ち上がって台所の冷蔵庫の方へ行った。しばらくして、父が私を見た。

「彩佳、お前でいいから行ってこい」

「お前でいいから」。父は本気でそう思っている。それが分かる言い方だった。

「私は断るのは向こうだ。お前は座ってればいい」

母が横から手を振った。「そうよ。どうせ一度きりなんだから。ねえ、彩佳、変に張り切らないでね。三度とないから、いつも通りの格好で行きなさい」

いつも通りの格好。つまり、着るもので恥をかかせるなということだ。服くらい買ったらと言われたことは、9年間で1度もない。

父がもう1枚の紙をこちらへ滑らせてきた。「こちらから出す釣書だ。それと、お前の仕事のところは開けてある」職業の欄だけが白かった。

「なんで開けるの?」

「内職なんてかけられるか。恥ずかしい。先方に聞かれても、細かいことは言うな。白木さんには『細工をしている』と言ってある。聞かれたらそれで通せ。内職とは言うな。いいか? 彩佳、向こうと話が続いたら、うちの会社の名前を出せ。瀬金属工業だ。2度言うぞ。時さんは商業施設もホテルもやってる。金属の仕事はいくらでもある。取引の話まで持っていければ、それでいい」

私はその時初めて、父の顔をまともに見た。父はこの縁談で娘を嫁がせようとは思っていない。私を使って時グループに入り口を作ろうとしている。

「縁談の話じゃないの?」

「同じことだ。家のためだろう。誰のおかげでお前が好き勝手できてると思ってる」

誰のおかげで。その言葉を、私は9年間で何十回聞いただろう。振り込んだ額を口にすれば、この人は多分黙る。言わない。言えば父は金額の話しかしなくなる。そうなったらもう戻れない。

帰り際、玄関で靴を履いていると、美ゆが見送りに出てきた。麦茶のコップを持ったままだった。

「ねえ、お姉ちゃんが行くの? 大丈夫? 相手は社長だよ。話合わないでしょ。ネジ打ちのお姉ちゃんじゃ、どうせ1時間で断られるって」

美ゆは私の肩を叩いた。悪気のない手付きだった。悪気がないから、立ちが悪い。

帰りの電車で、私は窓に映る自分の顔を見ていた。断ろうと思えば断れる。だが父はまた白木さんに頭を下げる。母は1ヶ月泣き言を言い続ける。美ゆは「お姉ちゃんが逃げた」と近所に話す。なら行けばいい。そして向こうから断ってもらえばいい。社長さんが結婚相手に望まないものを、私は全部持っている。安い服も古い鞄も、そして肩書きのない仕事も。

どうすれば断ってもらえるか。私は電車の中で指を折った。1つ、服は1000円台のブラウスでいい。2つ、鞄は角のすり切れたものを持っていく。3つ、仕事は父が開けた欄を自分の口で埋める。スーパーでレジを打っています。嘘ではない。火曜の夕方、私は本当にそこに立っている。その気になれば1時間もかからないはずだった。私はそう考えて、気が楽になった。

決めていなかったのは、手のことだけだった。

見合いの日、私は1000円台のブラウスと角のすり切れた鞄で家を出た。待ち合わせは都心のホテルのラウンジだった。天井が高く、白い花が活けてある。通された席まで歩く間、隣の席の女性が私の鞄を見た。悪気のない目だった。私はそれで安心した。この日はこれでいい。

5分前に、相手が来た。

「時優馬です」

灰色のスーツ。写真の通りの人だった。写真より目が優しかった。向かいに座った時さんは名刺を出さなかった。初めの10分は、天気とこの店のコーヒーの話をした。それから時さんが湯のみの向こうで言った。

「お仕事は何を?」

来た、と思った。私は背筋を伸ばして、はっきり答えた。

「スーパーでレジを打っています」

一拍の間があった。私はその一拍で、その日が終わったと思った。ところが時さんはカップを置いて、こう言った。

「立ち仕事は大変でしょう。夕方の時間は特に」

「え」

「レジは、足が疲れます。うちのホテルにも売店がありますから、聞いています」

話が終わらない。私は慌てた。

「あの、お給料もそんなに高くないんです」

「はい。それが結婚と、何か関係ありますか?」

私は口を開けたまま黙った。関係あると言って欲しかった。時さんは続けた。

「うちのホテルに、30年お客様の荷物を運んでいる者がいます。給料の額でその人の値打ちが決まるなら、僕はとっくにその人に負けています」

そういう話ではなくて。同じ話ですよ。穏やかな声だった。押し付けがましさがない。だから困った。

「お休みの日は、何をされているんですか?」

今度はこちらが詰まる番だった。片付けとか。本当は日曜も図面を引いている。言えるはずがない。時さんはそれ以上聞かなかった。仕方がないので、もう1段深く掘った。

「実家にも毎月お金を入れているので、貯金もほとんどなくて」

「毎月?」

「はい。9年になります」

時さんはカップに伸ばしかけた手を止めた。そして姿勢を戻した。

「親御さんを支えていらっしゃるんですね」

「支えているというか。レジのお仕事だけで、毎月ですか?」

「掛け持ちをしていますので」

「9年は長い。続けられるものじゃありません」

そこで初めて、私は言葉に詰まった。9年間、誰にも言われたことのない一言だった。父は当然だと言った。母は足りないと言った。妹は知らないふりをした。続けられるものじゃないと言った人は、いなかった。

「今日は、断るつもりで来られたんじゃないんですか?」

「なぜ?」

「私みたいなものと、釣り合わないでしょう」

時さんが顔を上げた。それからまっすぐこちらを見た。

「白木さんからは、工房で細工をされている方だと伺っていました」

私は答えなかった。答えれば嘘になるし、正直に言えば全部が終わる。時さんはそこを追わなかった。追わないことが、なぜか苦しかった。

話題が変わった。祖母の話になった。私が祖母の指輪を今も持っていることを言うと、時さんは自分の母の話をした。3年前に亡くなったこと。母が使っていた小さなブローチを、今も社長室の引き出しに入れていること。

「安いものらしいんです。留め金が硬くて、母はいつも爪で押していました。爪で押すと、そこだけ銀が光ります」

亡くなってしまってから、もう押せない。私は口を抑えたくなった。時さんは目を上げた。「詳しいですね」

「テレビで見たので」苦しい言い訳だったけれど、その人は笑って頷いただけだった。

「金具は残るんです。人がいなくなっても、残ります」

私はそう答えた。仕事の話をしていないのに、仕事の話をしている気分になった。父に言われたことを、私は1度も口に出さなかった。金属工業という名前も、取引の話も出さなかった。出さなかったことに、自分で驚いていた。この席を早く終わらせたかったはずなのに、私はこの人の前で家の道具になりたくなかった。

気づけば3時間近くが経っていた。その気になれば1時間もかからないはずだったと、朝の私は思っていた。喉が乾いた。私は水のグラスに手を伸ばした。

その時だった。時さんの視線が、私の右手で止まった。話が途切れた。ラウンジの音だけが遠くなった。

「失礼」

声が変わっていた。

「その手、どこかで見たことがある気がして」

私はグラスを持ったまま動けなかった。親指と人差し指の先の火傷。中指の側面のタコ。爪は短い。指の腹は硬い。隠しようがない。この手だけは、9年ずっと表に出してきた。時さんの喉が上下した。

「まさか」

私はグラスを置いた。氷が鳴った。

それからその人はテーブルに手をついて、頭を下げるようにして言った。

「僕と結婚してください」

私は水を飲むのを忘れた。

「今、何かに気づきましたよね」

「気づきました」

その人は顔を上げた。「でも、それは半分です。残りの半分は、この3時間です」

店の音が戻ってきた。断られるために来た席で、私はいちばん遠い言葉を受け取っていた。

その場で返事はしなかった。

「今日初めてお会いしたんですけど」

「はい」

「その順番というものがあります」

時さんは真面目な顔で頷いた。それがおかしくて、私は少し笑ってしまった。

「では、返事は後日ということで」

「はい。お待ちします」

別れ際、その人はもう1度だけ私の右手を見た。見て、何も言わなかった。

私は電車で御徒町へ戻り、工房に寄ってから川口へ向かった。報告に行かなければ、父が何度も電話をかけてくる。実家の居間には3人が揃っていた。テレビはついていた。

「どうだった?」

母が身を乗り出した。父は新聞をめくったまま。美ゆは爪を見ていた。

「やっぱり断られたんでしょ」

「1時間で帰ってきた」

「3時間かかりました」

私は鞄を置いて、正直に言った。

「結婚してくださいって言われた」

テレビの音だけが残った。3人が同時にこちらを向いた。1秒、2秒。それから美ゆが吹き出した。

「嘘でしょ」

その瞬間、居間が笑いで埋まった。母が手を叩き、父まで喉を鳴らして笑った。

「あんた、面白いこと言うようになったね。絶対嘘。なしなし。社長がレジ打ち選ぶわけないじゃん」

「彩佳をからかうのはいいのよ。悔しいのは分かるけど、そういうのは女としていちばんみっともないから」

父が新聞を畳んだ。笑いを収めた顔は、笑っていた顔より冷たかった。

「彩佳、相手に失礼なことだけはするなよ」

「していません」

「じゃあ、なんでそんな作り話をする?」

私は説明しなかった。説明しても、この人たちは同じことを言う。9年で覚えた。疲れたので帰ります、とだけ言った。

翌日の午後、工房に花が届いた。白と淡い緑の花束で、抱えるほど大きかった。室井さんが受け取って目を丸くしていた。

「彩佳ちゃん、これ、実家の方にも同じものが行ってるよ」

カードが挟んであった。交際を前提にお付き合いさせていただきたいという一文と日付。差し出し人の欄に、印刷ではない字でこう書いてあった。時グループ代表取締役 時優馬。

その日の夕方、実家から電話が鳴った。母だった。声が裏返っていた。

「彩佳、あんた本当だったの?」

「本当です」

すぐに電話が代わった。美ゆの声だった。甘く、軽く、機嫌を取る声。

「お姉ちゃん、あのさ。時さんって、どんな人? 優しい?」

「普通の人だけど」

「あのさ、やっぱり私も一度会ってみたいな」

「なんで?」

「なんでって、家族になるかもしれない人でしょ。妹が挨拶するの、普通じゃない?」

母が横から受話器を奪った。

「彩佳、聞いた? 美ゆもそう言ってるのよ。ねえ、一度みんなで食事しましょう」

「まだ交際もしていません」

「だからよ、早い方がいいの。あのね、言いにくいんだけどね。美ゆの方がお似合いじゃない? だって、あの子、華があるでしょう。社長さんの隣に立つなら、そういう子の方が向いてるのよ。あんたは昔から地味だし、話も面白くないし」

「その人が私に言ったんです」

「言われたって、あんた続かないわよ。3ヶ月もしないうちに飽きられるわ。その時にね、美ゆが控えてたら、家として繋がりが残るじゃない」

繋がり。その言葉が、父の言った「2度言うぞ」と重なった。

最後に父が出た。

「彩佳、食事会をやる。日曜だ。場所はこっちで決める。時さんに伝えろ」

「私の予定は?」

「お前の予定なんか、どうでもいい」

電話が切れた。私は工房の椅子に座って、花を見ていた。白と緑、色のない花ばかり選んである。手を怪我しないようにという意味だと、後で知った。

その日から食事会までの6日間で、家の中の空気は変わった。母から毎日電話が来た。9年で数えるほどしかなかった電話が、6日で8回も鳴った。時さんの好きな食べ物は聞いた? まだです。お酒は飲まれるの? お父さんが用意するって。3日目には、母は近所に話し始めていた。美ゆは新しい服を買っていた。母が買った2着だった。

私が急に大事にされ始めたのではない。私の隣にあるものが、急に値打ちを持ち始めただけだった。

食事会の2日前、父から呼び出しがあった。実家ではなく、会社の方へ来いと言われた。瀬金属工業の事務所は、川口の工場の2階にある。階段を上がると油と鉄粉の匂いがした。子供の頃から知っている匂いだ。父は応接のソファーに座って、私を向かいに座らせた。母もいた。テーブルの上に薄い書類が置かれていた。参考の見積もりと、会社の案内だ。

「時グループの商業施設の分、手すりと建具の金物、うちでできる。これを日曜に時さんに渡せ」

「お見合いの席で渡すものじゃないでしょう」

「食事の席だから渡すんだ」

母が横から言った。

「彩佳、あんたがこの家の役に立てる初めての機会でしょう」

初めて。9年で1080万円、2年前に200万円。それは役に立ったうちに入らないらしい。

その時、階段を上がってくる足音がした。白木さんだった。

「おお、正さん、書類はできたかい?」

白木さんは私を見て、人の良さそうな顔で笑った。

「いや、うまくいってよかった。あんな話でもやってみるもんだね」

「白木さん」

父が遮ろうとしたが、遅かった。

「お父さんに3月から頼まれてね。時さんとこの役員に話を通すのに、こっちも骨が折れたよ。断られたら断られたで、次の手を考えようって言ってたんだ」

3月から。私は聞き返した。妹が写真を見て「つまんなそう」と放り出したのは6月だ。父はこの縁談を3ヶ月かけて作らせていた。つまり初めから断られる前提ではなかった。誰が座るかも決まっていなかった。座るのが美ゆでも私でも、父にとってはどちらでも良かったのだ。先に妹に持っていって、妹が蹴った。だから私に回ってきた。

「お父さん、最初から取引のためだったんですね」

父は目をそらさなかった。そらさずに、こう言った。

「両方だ。娘の縁と会社の縁、どっちも家の得だろう」

帰り際、玄関で靴を履いていると、母がついてきた。

「彩佳、日曜、美ゆにも新しい服を買ったのよ。あの子ね、時さんに会うって決まってから、毎日エステに行ってるの。かわいそうに、緊張してるのよ」

「エステ代は、あの子が自分で出してるに決まってるでしょう。何を言ってるの?」

「美ゆの機材の時は、母さんが私に電話してきましたよね」

母の声が1段冷たくなった。

「あれは投資でしょ。美ゆはこれから伸びる子なんだから。あんたはもう32でしょ。伸びないんだから、その分を回すのは当たり前じゃない」

玄関の扉を閉めてから、私はしばらく動けなかった。美ゆからは1円も取らない。私からだけ取る。理由がやっと分かった。理由はなかった。

その夜、工房に戻って私は棚の下から古い箱を出した。振り込みの控えが束になって入っている。9年分、108枚。輪ゴムで12枚ずつまとめてある。その横に、書き慣れた手帳がある。母から何を頼まれ、いついくら出したのか。日付と金額だけを書いてきた。束をめくると、9年が指の下を流れていった。最初の年、私の月の売上は15万円もなかった。それでも10万円を送った。残りで家賃を払い、銀を買った。米を切らした月もある。

私はその夜、控えの束と手帳を鞄に入れた。それから財布を開けて、名刺入れから1枚だけ抜き、入れ物の奥に差した。彩佳ジュエリー株式会社 代表取締役 瀬彩佳。使うつもりはなかった。ただ、もし次に嘘つき呼ばわりされたら、その時は出そうと決めた。

食事会は2日後の日曜だった。出かける前に、園田さんから連絡が入った。「社長、今日の夕方には振り込み先の名義が出ます」分かりました。出たらすぐお伝えします。それまでは、どこにも何も言いません。名前が出るまでは動かない。それは私が決めたことだった。

父が決めた店は、都内の日本料理屋だった。個室に通されると、父は欄間や柱の間を見回していた。値段を気にしている顔だった。

「彩佳、お前は橋に座れ」

私は言われた通り入口に近い席に座った。4分前に時さんが来た。父が立ち上がって、腰から折れそうな角度で頭を下げた。母も釣られて下げた。そこに美ゆが入ってきた。真っ赤なワンピースで、髪は巻いてあった。香水が個室の空気を塗り替えた。

「初めまして。妹の美ゆです。28です」

そして、当たり前のように時さんの隣に座った。私の席からは、いちばん遠い場所だった。

「美ゆ、そこはお姉ちゃんの席じゃない」

「お姉ちゃんは毎日会えるんでしょ」

母が笑った。「まあまあ、下の子も挨拶したいというものですから」

料理が運ばれてきた。父は酒を頼み、時さんに注ごうとして断られ、それでも2度進めた。美ゆは最初の10分で何度も自分の仕事の話に戻した。

「私、美容のお仕事をしていて、動画で化粧品を紹介するんです。お母様が送ってくださいました」

「よく撮れていました。手元の映りが多いですね」

「そうなんです。指先って大事だし」

美ゆが自分の手をひらひらさせた。爪は綺麗に塗ってある。柔らかい手だ。指の腹に、何かを握った跡はない。

「今、企業さんのお仕事もいただいてて。4社目の会社だけ、やたらと出資先のことを聞いてきて、姉との関係を証明して欲しいとか言い出したから、面倒になって止まってるんです」

止まった。私は箸を置いた。半年前に紹介を断った企業のことが、頭の隅で光った。けれど名前が出るまでは動かないと決めている。

父が話を戻した。

「時さん、うちの会社の話なんですが」

「お父さん」

父は聞こえないふりをした。

「金属の加工をやっておりまして。手すりや建具で、いくらでも」

「今日は、そのお話は伺わないことにしています」

時さんは静かにそう言った。角のない断り方だった。父の顔が赤くなり、逃げた。

そこから美ゆが場を取り戻した。

「時さん、社長夫人って、やっぱりお付き合いとか大変ですか? パーティーとかあるでしょう。私、そういうの慣れてるんです」

「そうですか」

「姉より社交的だから、多分社長夫人向きですよ」

母が声を上げて笑った。

「もう、この子ったら」

「だって本当のことじゃない。時さん知ってます? 姉なんて毎日スーパーのレジですよ。レジ打ち。ピッピって」

美ゆが指で何かを通す真似をした。母がまた笑った。父が酒を置いて言った。

「長女は昔から要領が悪くてね。何をやらせても続かん」

「9年続けてます」

「そんなもの、続けたうちに入るか」

母がすかさず言葉を継いだ。

「本当に地味な子で。友達も少ないし、着るものにも興味ないし。時さんも、どこが良かったんだか」

そこで初めて、時さんが顔を上げた。

「どこが良かったか、ですか?」

「ええ、参考までに」

「まだ全部は分かりません。分かる前に決めてしまったので」

母は意味が取れなかったらしく、曖昧に笑った。それから時さんは、私の家族に質問を始めた。

「お父さんの会社は、従業員が何人ですか?」

「12人です」

「何年になりますか?」

「私の代で26年。親父の代からだと50年ですな」

「50年は簡単じゃない」

父が背筋を伸ばした。褒められ慣れていない人の座り方だった。

「お母さんは、日中は何を?」

「私は家のことばかりで。あとは美ゆの相談に乗ったり」

「美ゆさんは、お仕事はどなたと組んでいるんですか?」

「え、組むって。事務所とか代理店とか。1人でやってます。全部自分で交渉するんですよ。すごいでしょ?」

どれも柔らかい聞き方だったけれど、答えが変わるたびに小さく頷いて、次を聞いた。まるで部屋の中の柱を、1本ずつ叩いて回っているようだった。

私は黙って座っていた。言い返さないのは、我慢しているからではない。その日の夕方までは、誰にも何も言わないと決めているからだ。それに、この人たちが自分の口で何を言うかは、私が言うより正確だった。

デザートの前に、美ゆが身を乗り出した。

「そうだ。時さん、これ見てください」

美ゆは首元に手をかけた。留め金を外して、ネックレスを両手で持ち上げた。18金の細い鎖に、小さな粒が7つ。粒の大きさをわざと揃えず、光の散り方で夜空に見せる。私が3年前に作ったものだ。星屑という名前をつけた。

「これ、彩佳ってブランドの限定品なんです。星屑って言うんですよ。直営だけで100点しか出てないんです。今はもう買えません。定価で48万円ですよ。今中古でも出てこないんです」

「よく手に入りましたね」

美ゆの目が一瞬泳いだ。

「まあ、ルートがあって。そういうの詳しい人がいるんです。私、顔が広いので。お店ではなく、個人の方から」

母が得意げに口を挟んだ。

「この子ね、そういうのを見つけるのが上手なんですよ。安く買えるルートを持ってるって、いつも自慢してるんです」

「お母さん、それ言わないでよ」

美ゆは照れた顔で笑った。3年前、私はこの粒の作り方を決めた。銀を切り分けて炭の上で溶かすと、表面張力で丸くなる。切る量を7段階に変えて、大きさをわざと散らした。揃えると、夜空に見えないからだ。粒を作るのは工房の職人で、100点分で700粒になった。私が1点ずつ見るのは、最後の仕上げと、金具につけた小さなプレートの裏に打つ印だけだ。組む前にプレートだけを鉄の台に伏せて打つ。品番の印と工房の印と通し番号。100点で300回。どの番号がどこへ行ったかは、台帳に残してある。私は数字を覚えられないから、全部紙に書く。

「時さん、彩佳っていうブランドをご存知ですか?」

「知っています」

「やっぱり分かる人には分かるんですよね。あのブランド、社長が女の人なんですけど、絶対に顔を出さないんです。映るのは手だけ。それがまたいいんですよ」

ネックレスは母から父へ回った。父は一目見ただけで、興味なさそうに指で押し返した。

「金具にしては細いな。うちじゃ使えん」

そして最後に、私の前へ来た。テーブルの上を滑ってきた鎖を、私は指先で受けた。

「あ、お姉ちゃんも見たい? 見るだけならただだもんね。お姉ちゃんには一生買えないけど」

母がまた笑った。私は鎖を持ち上げた。粒の並びは合っている。金具の形も、鎖の編み方も、うちのものだ。指を滑らせて留め金を裏に返した。プレートの裏に小さな刻印がある。品番の印と、工房の印と、通し番号。

ある。全部ある。

爪を立てた瞬間、違和感が来た。引っかからない。打った印は、地金が逃げて縁がわずかに盛り上がる。叩けば必ずそうなる。削って掘った印は、盛り上がらない。

番号を明かりにかざして目を細めれば読めたけれど、その番号には見覚えがあった。台帳を引くまでもない。数字は苦手でも、自分の手で直した品の番号だけは忘れない。その番号を持っている千葉のお客様は、今もこれを手放していない。前の年の秋、鎖の直しで預かったばかりだ。つまり、同じ番号が2つある。

私は指の腹をもう一度当てた。見間違いであって欲しかったけれど、爪は正直だった。どこをなぞっても縁が起きていない。削り取った跡だ。

顔を上げると、時さんがこちらを見ていた。留め金を裏返したところから、ずっと見ていたのだと思う。私は鎖を見つめたまま息を整えた。言うのは簡単だった。今ここで「これは違う」と言えばいい。けれど、この子はその晩のうちに出品を消す。買った人たちとのやり取りの記録も、まとめて消してしまう。それに、今の私には偽物だと断じ切る根拠がない。あるのは刻印の癖だけだ。決めつけて動けば、こちらが間違える。名前が出るまでは黙る。それだけを守ればいい。

私は鎖を畳んで、テーブルの中ほどへ戻した。

「綺麗だね」

美ゆは得意に顎を上げた。その時だった。時さんが湯のみを置いて、こう言った。

「買う必要はないでしょうね」

場の空気が一拍遅れて止まった。

「え」

「彩佳さんは、それを買う必要がありません」

「どういう意味ですか? 買えないってこと?」

「逆です」

時さんは初めて、美ゆの方へ体を向けた。

「その星屑を、作った本人ですから」

個室が静かになった。父の箸が止まった。母の口が半分開いた。美ゆは意味を取り損ねた顔で、時さんを見ていた。

「え、あの、何の話ですか?」

「そのままの話です」

「作ったの、誰が?」

「彩佳さんが」

美ゆはテーブルの上のネックレスと、私の顔を2度見比べた。それから笑った。

「やだ、時さん、冗談きついですよ」

「冗談ではありません」

「だって、これ、あの彩佳ってブランドの品ですよ。うちの姉ですよ」

美ゆはネックレスを引き寄せて、胸に押し当てた。

「うちの姉、レジですよ。ピッてやってる人ですよ。作れるわけないじゃないですか」

「作れます」

時さんは短く答えた。

「なんでそんなこと言い切れるんですか? 会ったばかりですよね」

「手を見ました」

美ゆが眉を寄せた。意味が分からないという顔だった。最初に立ち直ったのは父だった。父は箸を置いて、時さんに向かって深く頭を下げた。

「時さん、娘がとんでもないことを吹き込んだようで」

「吹き込まれてはいません」

「いや、うちの長女は昔から見えっ張りで」

「お父さん、黙ってろ」

父は私を見もせずに言った。それから時さんに向き直って、揉み手のような格好をした。

「もう申し訳ない。この場でお詫びします。彩佳、お前も謝れ」

「何をですか?」

「嘘をついたことをだ」

私は膝の上の手を見た。爪が短い。指の腹が硬い。この手で9年やってきた。

「嘘はついていません」

母がテーブルを平手で叩いた。小さな音だったが、皿が鳴った。

「彩佳、いい加減にしなさい」

「母さん、あんた昔からそうよ。目立ちたがりで、話を大きくして。中学の時も作文で嘘書いたじゃない」

「あれは創作の宿題でした」

「口答えするところが、可愛くないのよ」

「私、口答えしましたか?」

「ほら、それが口答えでしょう」

母は自分の言い分に納得して、湯のみを持ち直した。この人の中では、話はもう終わっている。美ゆが笑い出した。笑いながら、目だけが笑っていなかった。

「ちょっと待って。じゃあ何? お姉ちゃんがあのブランドの社長だって言いたいわけ?」

「私は何も言っていません」

「時さんがねえ。時さん、姉に何か言われました? どうせ話を合わせてくれてるんですよね」

「僕は合わせません」

「みっともない。嘘つかないでよ。レジ打ちが世界的デザイナー? 笑わせないで。じゃあ聞くけど、証拠は?」

証拠。半年前から園田さんが集めているものを、私はそう呼んでいる。その場に持ってきていたのは、9年分の振り込みの控えと、入れ物の奥の名刺1枚だけだ。

「証拠を出せって言ってるの。これ作ったって言うなら、今ここで同じもの作って見せてよ。できないでしょ。当たり前だよね。嘘なんだから」

私は答えなかった。今この場で同じものを作れと言われて作れる人間は、この世にいない。鎖を編み、粒を7つ溶かして揃え、留め金をつけて仕上げるまで、工房で手を動かして4日かかる。それを言っても、この子には通じない。

「ほら、黙った。お母さん聞いた? 黙っちゃった」

「彩佳、あんた恥ずかしくないの? もういいから時さんに謝って、この話は終わりにしましょうね。悪気があったんじゃないのは分かってるから」

父が畳みかけた。

「時さん、こんな娘ですが、悪い子じゃないんです。ただ、その頭の中で作り話をする癖があって。妄想癖ってやつですよ」

美ゆが言い添えた。「昔から友達もいないから、そういうことでもしないと」

母が「まあまあ」と手を振った。

「でもね、的外れでもないのよ。この子、小さい頃から1人で何か作ってばかりで」

時さんが顔を上げた。目は母ではなく、美ゆに向いていた。穏やかな人だと思っていた。実際、その日ずっと穏やかだった。けれど、その時だけ声の温度が変わった。

「先ほど、何とおっしゃいましたか?」

「え、妄想癖と」

「あ、いや、例えばの話で」

「例えばって、人にその言葉を使いますか?」

美ゆが口を閉じた。父が慌てて割って入った。

「時さん、身内の冗談ですから」

「冗談ですか?」

「そうです。冗談です」

「では、彩佳さんも笑っているはずですね」

個室が静まった。誰も私の顔を見なかった。見れば、笑っていないことが分かるからだ。

その時、鞄の中で携帯が震えた。失礼します。私は席を立って、廊下へ出た。店の廊下は暗く、床が磨かれていた。襖の向こうで、父の弁解する声が続いている。画面には、園田さんの名前が出ていた。

「社長、出ました」

「はい」

「アプリの外で買った1点です。指定された振り込み先の名義と、荷物の発送元を確認しました。美ゆさん。ご住所は埼玉県川口市」

その後に続いた番地は、私が生まれてから18年住んだ場所だった。郵便受けの位置まで浮かんだ。錆の浮いた蓋を、私は毎朝開けていた。私は襖に手をついた。驚きはなかった。半年前、私はそのアカウントを自分の指で開いて、そして閉じている。あの時閉じた画面の中にいた人が、今そこにいる。分かっていた。分かっていたことが、形になっただけだ。

「社長、聞こえていますか?」

「聞こえています。これから先は、こちらで手順を踏みます。まず書面を出して、事実だけを確認します。断定はしません」

「今、私の家族と食事をしています。妹がいます。その首に、うちの限定品と同じ形のものが下がっています。留め金の刻印は、打ったものではありません」

「今から伺います」

「お願いします」

電話を切って、私はしばらく壁を見ていた。半年前、私はどうして打ち切ったのだろう。化粧品ばかりが並んだ画面を見て、違うと決めた。決めたかったのだと思う。妹だと思った瞬間から、先に進むのが怖かった。進めば、この家に残っている最後の1枚が剥がれる。私はそれを剥がしたくなかった。自分の弱さの分だけ、半年が伸びた。その半年で、買った人が増えた。そこは私の落ち度だ。

私は襖の前に立った。中ではまだ私の話が続いていた。「本当に困った子で」という母の声。「まあ、悪い子じゃないんです」という父の声。「昔からああなんですよ」という妹の声。私は襖を開けた。入れ物の奥に差してある1枚を、指で引き抜く。使うつもりはなかったけれど、2日前に決めていた。次に嘘つきと言われたら、その時は出すと。

襖を開けると、3人が一斉にこちらを見た。私は席に戻らず、テーブルの端に立ったまま、その1枚を父の前に置いた。白い紙が1枚。それだけだった。父は最初、名刺だと分からなかったらしい。老眼鏡を探して、胸を叩き、それから顔を近づけた。

「彩佳ジュエリー株式会社 代表取締役 瀬彩佳」

父の口が動いた。声が出るまで、時間がかかった。母が横から覗き込んだ。読んで、もう1度読んで、それから顔を上げた。

「社長、誰が?」

「私です」

「あんたが?」

「はい」

「どうして」

「出したくなかったからです」

美ゆは動かなかった。胸に押し当てていたネックレスは、気がつかないうちに膝の前まで降りていた。そのまま名刺を見ている。唇が薄く開いて、そこから声が漏れた。

「嘘?」

「本物です」

「だって」

「どうせ同姓同名だって、2年前にみんなで笑ってたよね」

美ゆはそこで言葉を切った。切ってから、自分で自分の口を抑えた。

そこで時さんが口を挟んだ。

「うちのホテルで、大切なお客様にお渡しする品は、全部こちらの会社のものです」

父が跳ねるように顔を上げた。

「いくらだ?」

「うちの側の数字なら、私が言えます」

私は答えた。

「年間で8000万円ほどです。去年からお願いしています。決めたのは僕です。8000万の仕事を、うちの娘の品を見て決めました。うちのお客様は目が肥えています。名前で選ぶと、必ず見抜かれます」

父は口の中で何か言った。言葉になっていなかった。時さんはこちらを見た。

「綾瀬彩佳。同じ名前だとは思っていました」

「なぜ確かめなかったんですか?」

「調べないことにしているんです。肩書きを先に見ると、人を測ってしまう。だから、会う前に相手のことは調べません。今日も、白木さんから伺った以上のことは知らずに来ました。工房の話ですね。ですが、あなたは工房の話を一言もしなかった。だから聞き違いだと思いました」

「私が黙っていたからです」

「そうですね。だから、手を見るまで気づきませんでした」

父はまだ名刺を見ていた。指が震えていた。私は父の向かいに座り直して、静かに聞いた。

「お父さん、1つ伺っていいですか?」

「なんだ?」

「去年の秋、うちの工場が宝飾の会社に売り込みをかけましたよね。手すりの仕事だけじゃ苦しいからって。断られたって、お母さんから聞きました。相手の会社の名前を覚えていますか?」

父の目が泳いだ。

「担当が色も見せずに断ってきたんだ。名前なんぞ覚えてない」

「彩佳ジュエリー株式会社です。2年前、私と同じ名前の社長がいるってみんなで笑いましたよね。お父さんは、売り込んだ会社の代表者の名前すら見ていなかったんですね。あの見積もり書は、担当のところで止まっていません。うちは小さい会社なので、新規の取引は私が全部見ます。あの時は社名が「早瀬金属工業」だったので、なおさら自分で見ました」

「お前が? 私が断りました」

「なぜ宝飾の下請けは? 制度の前に体制です。うちの取引先は、納期に1日の遅れも許しません。それに、材料の金はお客様からお預かりするものです。金庫と保険と、入った重さと出た重さを合わせる帳簿。12人の工場に、それはまだありませんでした」

父は口を開けて、閉じた。

「お父さんのところの曲げは、私が知っている限り綺麗です。子供の頃から見てきました。断ったのは、腕のせいじゃありません。断ってから、私は担当に頼んで、業界の名簿と、小さい仕事から出している組合を教えさせました。返事は来ませんでした」

母が父を見た。

「あんた、そんな話知らん」

「知らないんですよ。お父さんは断られた相手の名前を覚えていない。私は断った相手の名前を覚えています。娘の会社だったからです」

父の顔から血の気が引いていった。そこで初めて、私は自分の中の何かが冷たく落ち着くのを感じた。怒りではなかった。9年分の、静かな片付けだった。

母が急に高い声を出した。

「ちょっと待って。じゃあ彩佳、あんた、お金は?」

「お母さん」

「だって、社長さんなら、その、いくらくらいか」

「その話を、今しますか?」

母は口をつぐんだ。つぐんだのは、3秒だった。

「だってあんた、うちに10万しか入れてないじゃない。10万を9年です。そういうことを言ってるんじゃないの? もっとあるでしょって話をしてるの」

父が母を制した。制した父の顔にも、同じ色が浮かんでいた。美ゆはまだ動かなかった。けれど、その手だけが動いていた。膝の前に下ろしたままの星屑へ、ゆっくりと手が伸びていく。指先が鎖に触れる寸前だった。

伸びた手より、時さんの方が早かった。その人は鎖を指で救い上げると、誰の前でもない場所へ置いた。テーブルのちょうど真ん中だった。

「しばらく、ここに置いておきましょう」

「え、それ、私のですけど」

「はい。ですから、今は誰も手を触れない方がいい」

美ゆは口を尖らせたが、手は引っ込めた。

沈黙を破ったのは、母だった。手のひらを返す音が聞こえた気がした。実際には、何の音もしていない。

「彩佳、あんた、やっぱりね。お母さんね、昔から思ってたのよ。この子は手先が器用だって。ほら、小学校の図工でね、賞をもらったことがあるの」

「もらっていません」

「あら、そうだった? でも器用だったのは本当よ」

「図工の賞をもらったのは、美ゆです」

「そうそう。いいものね、姉妹揃って器用なのよ」

母の中では、話はいつもそこへ戻る。父が身を乗り出した。

「彩佳、なんで言わなかった?」

「言ったら、どうなりましたか?」

「そんな話をしてるんじゃない。親に言うのが筋だろう」

「筋? 当たり前だ。家族なんだから」

美ゆが椅子ごと近づいてきた。さっき私の顔に妄想癖と投げた口が、そのまま笑っていた。

「お姉ちゃん、すごい。なんで教えてくれなかったの? ひどくない? 私、お姉ちゃんのブランド、めちゃくちゃ好きだったんだよ。知ってたら、自慢したのに」

「さっきまで、ネジ打ちって笑ってたよね」

場が止まった。

母がすぐに取り繕った。「あら、彩佳。家族の冗談じゃない? そうよ、身内だから言えることってあるでしょう」

「私は1度も笑えなかったけど」

母の笑顔が半分残ったまま、固まった。母は湯のみを置いて、携帯を探し始めた。

「お母さん、どこに電話するの?」

「おばさんによ。あの人、いつも美ゆばっかり褒めるから。彩佳が社長だって聞いたら、どんな顔するかしらね」

「やめてください。私の仕事は、お母さんの自慢の材料じゃありません」

母はぼんやりと携帯を置いた。美ゆが横から言った。

「ねえ、お姉ちゃん。私、あのブランドのファンだったんだよ。だから、宣伝してあげよっか。フォロワー4万人いるから。お姉ちゃんのブランドですって出せば、絶対バズるよ」

妹の顔に嘘はなかった。本気で、それが姉への贈り物だと思っている顔だった。自分が今まで何を言ってきたかは、この子の中でもう片付いている。

父が咳払いをして、話を戻そうとした。

「まあ、その話は後だ。彩佳、それより会社のことだが」

「お父さん、うちの見積もり書、時さんじゃなくてお前のところでもいい。宝飾なら、うちの技術が」

「その話は、さっきしました」

父は黙った。母がすかさず違う角度から入ってきた。

「ねえ、彩佳。それならそうと、もっと早く言ってくれたら、お母さんだって色々してあげられたのに」

「例えば?」

「例えば、例えば、お世辞とか」

そこで美ゆが笑った。母も笑った。父も笑った。私は笑わなかった。9年間、この人たちが私に何かをしてくれた記憶を探した。見つかったのは、2年前に母が送ってきた梅干しの瓶1つ。それも、美ゆがいらないと言ったものだ。

不思議なもので、腹は立たなかった。この人たちは今も私を見ていない。名刺を見ている。会社の名前を見ている。8000万円という数字を見ている。見るものが変わっただけで、見方は9年前と何も変わっていなかった。

時さんはその様子を黙って眺めていた。何も言わずに茶を一口飲んだ。その横顔を見て、私は少しだけ救われた。この場で、私の顔を見ている人が1人だけいた。

料理が下げられ、茶が出た。店の人が去って襖が閉まったところで、私は湯のみを置いた。

「ところで、美ゆ」

「うん」

妹の声はまだ軽かった。

「あなた、ネットで売り物を出してるよね」

「私、出してないよ。紹介だけ」

「じゃあ、聞き方を変える。ネットで、カタカナで美ゆって名乗ってるよね。その美ゆが、彩佳というブランドの社長の妹だって言って回ってるよね?」

茶碗を持ち上げかけた妹の手が、そのまま空中で止まった。湯気だけが立ち上っていた。母が「え」と言った。父が「何の話だ」と言った。美ゆは答えなかった。答えないまま、指がテーブルの縁をなぞった。

「美ゆ、何?」

「名乗ってるよね。何の話か、分かんない」

その時、廊下から店の人の声がした。

「失礼します。お連れ様がお見えです」

襖が開いて、園田まりさんが立っていた。黒いスーツに、大きめの鞄。この人がその鞄を持って現れる時は、中身が全部揃っている。園田さんは畳に膝をついて、丁寧に頭を下げた。

「彩佳ジュエリーで法務を担当しております。園田と申します」

園田さんは私の隣に座り、鞄から書類の束を出した。半年分だ。薄い紙が重ねてあって、日付順に並んでいる。右上に番号が振ってあった。

「真面目に申し上げますが、私はこれから、分かっていることだけをお話しします。分かっていないことは、言いません」

父が身構えた。

「半年前、ある企業様から当社に紹介がありました。当社の社長の親族と名乗る方から商品を仕入れているという人物がいるが、事実かと。当社の商品は、直営店と正規の取り扱い店以外に下ろしていません。社員が身内へ譲ることも、社内規定で禁じています。ですので、そのような取引は存在しません。そこで調査を始めました」

園田さんは小さな箱をテーブルに置いた。中に、白い紙に包まれたものが6つ並んでいる。

「実際に買ってみました。全部で6点です。うち5点がアプリの中。最後の1点は、アプリの外で買いました。まとめて仕入れたいと持ちかけると、値段の話になる時、相手はアプリの外へ出てきます」

園田さんは1枚の紙を出して、テーブルに置いた。

「振り込み先の口座の名義と、送られてきた荷物の発送元です」

父がその紙を覗き込んだ。読んで、それから読み返して、動かなくなった。母が横から見た。

「早瀬美ゆ」

母の声が小さくなった。

「これ、うちの住所よ」

美ゆは動かなかった。膝の上で手を握って、下を向いていた。園田さんが続けた。

「取引の実績と評価の記録から、数えられる範囲で申し上げます。この1年2ヶ月で200点。1点あたり5万円、合わせて1000万円ほどです。正規の値段の、5分の1ほどです」

私はその数を頭の中で人の形に直した。200人。うちの店に来たことがない200人が、うちの名前が入った箱を持っている。誕生日に開けた人もいるだろう。娘に譲った人もいるかもしれない。その人たちの手に、私が打っていない印が乗っている。そして、売る時にこう説明されている。姉から特別価格で仕入れていると。

「待って」

美ゆが顔を上げた。

「待ってよ。それは、本当のことだもん。私、本当に社長の妹じゃん」

個室が静まった。私は湯のみを置いた。

「美ゆ。さっきまで、私が社長だって知らなかったよね。1年2ヶ月前から名乗ってたんだよね。私が社長だと知ったのは、今日この席でだよね。知らなかった。じゃあ、姉からどうやって仕入れたの? 順番を教えて。まず私に頼んだのはいつ? 何を頼んだの? 私は何て答えたの?」

1つも答えられるはずがない。そんなやり取りは存在しないからだ。存在しないものを、200回人に説明した。その200回のうち1度でも、この子が私に電話をかけていたら、全部その場で終わっていた。

父が椅子を鳴らして立ち上がった。

「美ゆ、お前、何をした?」

「何もしてない」

「何もしてないなら、なんでこの人が来る?」

園田さんが手を上げて、父を座らせた。

「お父さん、今は事実だけを確かめさせてください」

それから園田さんは、テーブルの中央にあるネックレスを指した。

「そちらを拝見してもよろしいですか?」

美ゆは膝の上で手を握ったままだった。園田さんはネックレスに手を触れなかった。代わりに私が手を伸ばした。見るのは私がやります。作ったのは私なので。留め金を裏返して、明かりの下に持っていく。

「うちの限定品には、留め金のプレートの裏に3つあります。品番の刻印と、工房の印と、通し番号です。印はあります。形も合っています。ただ、これは掘ってあるんです」

「掘る?」

父が聞き返した。

「機械で削った跡です。うちのは、刻印を当てて金槌で叩きます。叩けば銀が逃げて、印の縁が盛り上がる。削ったものは、盛り上がりません。爪を立てれば、触ったものには分かります。そして、この番号の品は、3年前に千葉のお客様へお渡ししています。去年の秋、鎖の直しでお預かりしました。今も、その方が持っています。つまり、同じ番号が2つあるということです」

母が息を飲んだ。

「じゃあ、うちの美ゆは騙されてたってことじゃないの?」

「その可能性はあります。ただ、買われた200人の方から見れば、売ったのは美ゆさんです。星屑は100点しか作っていません。ですが、この1年2ヶ月で200点が売られています。数が合わない」

それは、聞いた誰にでも分かる話だった。

「念のために申し上げます。私はまだ、これが偽物だと断定していません。断定するのは、ここにある現物を当社の工房で確認し、銀の成分も外の機関で調べてからです。今日申し上げられるのは、この刻印は当社が打ったものではないということだけです。買った6点も、今この場で封を切りました。通し番号は、全部同じです」

「同じことじゃないですか?」

「同じ意味に聞こえても、手順が違います。決めつけで動くと、私たちの方が間違えます。ですから、順番にやります」

父が助けを求めるように、時さんを見た。時さんはネックレスを見たまま、静かに言った。

「うちがギフトに使わせていただいているブランドの品として、これは説明がつきません」

美ゆが口を開いた。

「あの、私は、本物だと思ってた。本当だよ。ちゃんとした人から買ってたもん。知り合いの紹介で、社員向けの譲渡品だって」

園田さんが手帳を開いた。

「最初に買われたのは1年半くらい前。自分用に1つ。おいくらでしたか?」

「18万」

「定価48万の18万。社員価格だからって。届いた箱も袋も、本物と同じで。その後は、まとめてなら1. 3万で下ろせるって。海外の工房で同じ型を作らせてるから、数はいくらでも用意できるって言われた」

「変だとは思ったよ。ちょっとは。最初のは特別に譲ってもらったんだって、売ってた相手が言うから」

「確かめましたか?」

「確かめてない。だって、本物かどうかなんて、私が確かめる話じゃないでしょ。売ってる人が、本物だって言ってるんだから」

買った人はみんな、そう思って買っている。この子から買った人たちも、同じだった。

「美ゆ、もう1つだけ聞く。あなたはそれを売る時に、私の名前を使った。それは、確かめる話じゃなかったの? 本物かどうかは、あなたには分からなかったかもしれない。でも、姉から仕入れたかどうかは、あなたにしか分からない。私に1度も聞かずに、あなたはそう言った。なんで、そんな嘘がつけたの?」

長い沈黙の後、美ゆが小さく言った。

「どうせ同姓同名だと思ってたから。2年前に、彩佳ってブランドの会社のページを見たの。代表者のところに、瀬彩佳って書いてあって、びっくりして笑っちゃって。でも、お姉ちゃんのわけないじゃん。スーパーでレジ打ってるんだよ。他人だと思った。そしたら、使えるなって。同じ苗字なんだもん。誰も調べないし」

園田さんが補った。

「実際、こちらへの問い合わせは、半年前の1件だけでした」

私は園田さんに聞いた。

「なぜ、他は問い合わせなかったんですか?」

園田さんが書類から読み上げた。

「紹介をくださった4社目の企業様から、やり取りの写しをいただいています。この一文がありました。『姉は完全に非公開なので、会社への問い合わせは絶対にしないでください』」

母が口を抑えた。

「契約中の3社については、当社は何も把握していません。紹介をくださったその4社目だけが、この条件に従わず、契約を止めたままになっています」

私は父を見た。

「お父さん、もう1つ、はっきりさせておきたいことがあります。今日の食事会、何のために開いたんですか?」

「何って、時さんへのご挨拶だろう」

「3月から白木さんに頼んでいましたよね。妹に断られたから、私に回ってきた。お父さんには、座るのが美ゆでも私でも、良かった」

父の声が裏返った。

「家のためだと言ってるだろう。うちは今、仕事が減ってるんだ。12人いるんだぞ」

「分かります。私も40人います」

父が黙った。母が急に泣き出した。

「お母さんはね、彩佳のことも心配してたのよ。ただね、美ゆは体が弱いから」

「美ゆは健康です」

「そういう意味じゃなくて」

「お母さん、私は手帳を出した。書き慣れた表紙の、日付と金額しか書いていない手帳だ。9年で1080万円、2年前に200万円。合計1280万円です。美ゆからは、いくら受け取りましたか? 1円も受け取っていませんよね。私が28の時、母さんに旅行代を渡しました。その分も、この中に入っています」

畳の外を店員が通っていった。足音が遠ざかるまで、誰も口を聞かなかった。

それから時さんが口を開いた。

「1つだけ、僕の話をさせてください。僕は3年前に母をなくしました。僕の母は、時の会社の人間から、ずっと肩書きで扱われた人でした。社長の妻として丁寧にされて、1人の人としては、誰にも扱われなかった。だから、僕は決めました。会う前に、相手のことを調べないと。あなたがレジ打ちだと答えた時、僕は別人だと思いました。名前は、会社の案内で一度見たきりでした。まさか、そんな偶然があるわけないと。順番が逆で良かった。先に知っていたら、僕はあなたを社長としてしか見なかったはずです」

私は自分の指先に目を落とした。5年前に別れた人の言葉が浮かんだ。「会社と付き合っていたようなものだ」と言われた時のことだ。あの日から、私は顔も名前も表に出さないと決めた。決めたはずなのに、名前だけは会社の案内に残っていた。残していた理由が、その日やっと分かった。どこかで、気づいて欲しかったのだと思う。ただし、正しい人にだけ。

「園田さん。これから、どうしますか?」

園田さんは書類を揃えて、静かに言った。

「まず書面を出します。事実の確認と、販売の停止のお願いです。取引先の企業様には、当社が把握している事実だけをお伝えします。買われた方への返金について、当社が申し上げられるのは、当社が返金の義務を負わないということだけです。返金などの請求先は、販売した方になります。ただ、買われた方はそのままにしません。お持ち込みの品は、無償でお調べします。同じ星屑は作れませんので、ご希望の方には、同等の品を無償でお取り替えします。かかった分は、売った方へ請求します」

美ゆが顔を上げた。

「私、そんなお金ない」

園田さんの声が柔らかくなった。

「今日ここで何かが決まるわけではありません。ただ、明日から売るのは、やめてください」

その日は、そこで終わった。父が「来週、もう1度うちで話そう」と言った。私は「分かりました」と答えた。話すことは、まだ残っていた。

次の日曜、私は川口へ向かった。時さんも一緒だった。食事会の帰り道、私は返事をしていた。

「結婚は、まだ早いです。始めるなら、交際からにしてください」

「はい。お願いします」

その人はそう言って、頭を下げた。

実家の居間には、4人分の座布団が並べてあった。母が朝から掃除したのが分かる匂いがした。父はネクタイを締めていた。家でネクタイを締めている父を、私は見たことがなかった。茶が出た。菓子も出た。9年間、私1人で来た時に菓子が出たことは、1度もない。

「今日は、私から話します。3つあります」

父の顔が硬くなった。

「1つ目、実家への振り込みは、今月で終わりにします」

母の手から茶碗が滑って、畳に落ちた。

「なんで? 9年続けたじゃない」

「十分だと思います。スーパーのレジ打ちの娘から、毎月10万円もらうなんて、申し訳ないでしょ。ネジ打ちの娘からは9年もらってよかったんですか? 地味で、要領が悪くて、妄想癖のある娘からは?」

母は言い返せなかった。

「これはお返しします」

私は鞄からあの見積もり書を出して、テーブルに置いた。父が先週、私に渡したものだ。

「うちとの取引は、お受けできません」

「なんでだ? 娘の会社だぞ」

「親の会社だからです。お父さんは去年の秋、うちに断られています。理由は先週話しました。あれから、体制は変わりましたか? 変わっていないなら、答えは同じです。娘だからという理由で通すことはしません。それをやったら、同じ理由でお断りした他の会社に顔が立ちません」

「時さん、あんたからも言ってやってください」

父が隣に向き直った。時さんは湯のみを置いて、答えた。

「僕からは、何も言いません。うちの調達に口を出したことは、1度もありません。贈り物は別です。あれは僕が選びました」

「うちは品で決まっています。だから、続いています」

父の顔が赤くなった。

「お前は、親の会社をパート以下だと思ってるのか?」

「逆です。お父さんが、私の会社をパート以下だと思っていたんです。それは、聞いてなかったからだ」

父が怒鳴った。

「知った途端に利用しようとするから、言わなかったんです」

父の口が動いて、音が出なかった。

「お前、少しは家のことを」

「お父さん、あの日、何とおっしゃったか覚えていますか? 見合いに行く前、お父さんはこう言いましたよね。『お前でいいから行ってこい』。母さんも聞いてる。美ゆも聞いてる。私はそれで行きました。行った先で、結婚してくださいと言われました。お父さん、あの縁談、私で本当に良かったですね」

父は何も言わなかった。

その時、母が急に時さんの方へ膝を向けた。

「時さん、お願いがあるんです。彩佳に言ってやってください。家族を大事にするようにって。結婚なさるなら、この子の家族は時の家族でもあるでしょう。娘に援助を続けるように言ってください」

時さんはまっすぐ母を見た。

「あれは、彩佳さんのお金ですよね。家族なら、その人は1度も、どうして彩佳さんの成功をご存知なかったんですか? 9年です。会社を作って、人を40人雇って、海外で評価されるまでの9年。家族の誰1人、ご存知なかった。それは、彩佳さんが黙っていたからだと思いますか? 僕は3時間で気づきました。手を見ただけです」

そこへ美ゆが入ってきた。その日も来ていたけれど、先週より化粧が薄く、目の下に隈があった。妹は座らずに、時さんの前に立った。

「時さん、あの、私、私の方が若いし、社長夫人として、ふさわしいと思います。姉は地味だし、写真映えもしないし。私なら、時さんの会社のことも、いっぱい宣伝できます」

時さんは立ち上がった。そして妹に向かって、静かに言った。

「あなたがお姉さんをどう扱ってきたか、先週よく分かりました。あなたは、僕の名前と会社しか見ていない。僕は、まだ何も持っていない人として、彩佳さんに会いました。肩書きしか見ていない人とは、結婚したくありません」

美ゆは口を開けたまま、私の方を見た。そして最後にこう言った。

「でも、あの見合い、最初は私だったんでしょ? 私が行っても、良かったんだよね」

私は妹を見た。かわいそうだとは思わなかった。哀れだとも思わなかった。ただ、はっきり言った。

「良かったね。行かなくて」

美ゆが座り込んだ。私は鞄を引き寄せて、最後の1つを言った。

「3つ目です。これから、この家との連絡を減らします。絶縁はしません。用がある時は、電話をください。出ます。ただし、お金の話なら、出ません。9年、線がなかったから、こうなりました」

父は反論しなかった。母も何も言わなかった。話はそれで終わった。私は座布団を戻して、鞄を持った。母が慌てて立ち上がった。

「彩佳、お茶。もう1杯入れるから、台所から持ってきて」

9年間、私はその言葉で立ってきた。手が開いてるでしょ、あんたが持ってきて。

「今日は座っていました。座っていた側の人間なので、持ちません」

母は何も言えなかった。玄関で靴を履いていると、時さんが後ろから言った。

「いい家ですね。柱が太い」

「そうですか?」

「ええ。ずっと誰かが支えてきた家の柱です」

私は靴を直して、扉を開けた。外は、よく晴れていた。

その夏から秋にかけて、園田さんが順番通りに肩をつけた。書面を出し、販売を止め、取引のあった企業には事実だけを伝えた。買った方には、品物を無償で確かめる窓口を作った。窓口に来た方には、私が印を打った代わりの品をお渡ししている。妹の仕事は、秋を待たずに消えたそうだ。まず投稿を下げるよう言われ、次に経歴の説明を求められ、答えられないと分かると、離れていった。妹のところには、買った人からの問い合わせが今も届いているという。本当に社長の妹なのかと。本当だった。ただし、名乗った時点では、本人が信じていなかった。妹が自分でついた嘘が、そのまま帰っただけだった。

父は私や時さんの名前を使えなくなった。使えなくなって、自分の会社を自分で立て直すしかなくなった。秋に1度だけ電話があり、原板の記録を残す仕組みを入れたと言っていた。その話だけは、最後まで聞いた。母は、旅行をやめ、買い物を減らしたらしい。お茶の手紙で知った。3人とも、同じことを言っているそうだ。「彩佳が、そういうことを言うから」。私は連絡を最低限にした。電話がなれば出る。金の話なら切る。それだけだ。

工房は変わらない。室井さんは相変わらず、朝から作業台に座っている。私が刻印を打っていると、後ろを通りながら一言だけ言う。

「そこ、浅い」

「打ち直します」

そういう日々が、私にはいちばん向いている。1度だけ、室井さんが手を止めて聞いてきた。

「あんた、結婚するんだって」

「まだ交際です」

「手を見た人かい?」

「はい」

「そうかい」

それだけ言って、また作業に戻った。

10月の火曜、港屋のレジに立っていると、井原さんが通りがかりに言った。

「瀬さん、最近、ちょっと顔付きが変わったね」

「そうですか」

「なんていうか、肩の力が抜けた感じ」

私は笑って、次の客を引き寄せた。田島さんだった。指輪の抜けない、あの人だ。

「瀬さん、今日は冷えるね」

「はい。もう10月ですから」

小銭を数える手を、私は見ていた。細い金の輪が、指の肉に埋まっていた。40年。私は、まだ9年だ。

年末に母から電話があった。要件は金の話だった。私は切った。切った後、しばらく携帯を握っていた。切るのは簡単だった。その簡単なことを、私は9年やらなかった。

年が開けて、春になった。私と時さんは婚約した。指輪は自分で作った。祖母の指の細さを測って、同じにした。室井さんに見せたら、一言だけ言われた。

「浅いね」

「打ち直しました。2回」

「じゃあ、いい」

婚約の日、2人で小さなレストランへ行った。料理の途中で、私はグラスに手を伸ばした。向かいで視線が動いた。

「また見てる」

「すみません。もう正体はバレてますけど」

その人は笑って、それから真面目な顔になった。

「その日、この手を見つけて、本当に良かった」

「最初はレジ打ちだと思ってたくせに」

「思っていました。それで、結婚したいって言ったんですよね」

「はい」

「変な人」

「その時から、好きでしたよ」

私はグラスを置いた。親指と人差し指の先の火傷は、まだ消えない。中指の側面の硬いところも、多分、一生このままだ。肩書きを隠したら、人が何を見ているのかがよく分かった。私の金しか見なかった家族と、私の手を見た人がいた。それだけの話だ。

これからも私は、名前も顔も出さずに作り続ける。そして週に1度、レジに立つ。あの場所には、まだ私の知らない手が、いくらでも並んでいる。その手を見て、私はまた何かを作る。それが、私の仕事だ。

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