桜井グループ本社三十階の株主総会会場。総資産二兆円の企業の役員たちが、四人の制服を着た少女を取り囲んでいた。少女の名は桜井歩み。その手には、しわくちゃの株主証明書があった。
受付の名札ケースの中に、歩みの名前はない。ゲートを通ったのも、今日が初めてだ。
「ガキのくせに、よくここまで来れたもんだな」
専務の佐草が歩みの証明書を取り上げ、無造作に破って机に叩きつけた。紙が裂ける鋭い音が会場に響いた。神が避けたかのように、歩みの指先が小さく震えた。
誰もが、この少女がその場で泣き崩れるのを待っていた。しかし歩みは、怒ることも、泣き叫ぶことも、しなかった。
破れた証明書を拾い上げ、静かに一礼をしただけだった。
「わかりました。では、お望み通りに」
佐草は、涙一つこぼさないその態度に、一瞬だけ目を細めた。周囲も思わず言葉を失った。歩みは破れた紙を鞄にしまい、会場を後にした。
おじいちゃん、これ、絶対ちゃんと使うから。
だが、この時、役員たちだけが知らなかった。破れた一枚の裏に、歩みだけが握りしめていた理由があることを。空になった名札ケースと、机の上に残された紙片だけが、そこに残された。
「これで終わりだろう」
役員たちは、自分たちが犯した過ちの代償を、まだ知る由もなかった。
これは、制服を門前払いした者たちが、自ら望んだ一言で代償を払う物語である。
時は八年に遡る。歩みが八歳だった冬の夜。両親と歩みを乗せた車が、凍結した道路でスリップし、大型トラックと正面衝突した。両親は即死し、歩みだけが奇跡的に助かった。心には深い傷が残った。何も出ない。何も感じられない。
葬儀の日、黒い服を着た小さな歩みは、涙も流せずに立ち尽くしていた。そんな歩みの手を、そっと握る老人がいた。
「おじいちゃんが必ず守る。もう大丈夫じゃよ」
祖父は質素な服の、柔和な老人だった。歩みを自分の家に引き取った。しかし、その家は驚くべきものだった。東京都足立区の築四十年のボロアパート。家賃は三万円で、畳の部屋は六畳一間しかなかった。
壁には亀裂が走り、冬は隙間風が吹き込んだ。祖父は優しく微笑んだ。
「狭いけど、二人で暮らすには十分だ」
歩みは悲しみと貧しさに戸惑いながらも、祖父を信じることにした。それから八年間、歩みは祖父と貧しくも温かい日々を過ごした。小学校では古い服でからかわれたが、祖父がいつも温かく迎えてくれた。中学では学年トップの成績を収め、高校へ進んだ。
学費のため、歩みはコンビニでアルバイトを始めた。時給千円で週五日、放課後三時間働いた。仕事はレジ、品出し、清掃だった。ある日、重い荷物を持つお年寄りに声をかけた。
「お手伝いしましょうか」
「ありがとう。優しい子だね」
「桜井さんは本当に真面目だ。うちの店の宝だよ」
月に六万円の収入で学費を賄い、洗いざらした制服で通った。祖父は質素な和食を作り、決して贅沢はしなかった。
「歩み、人の価値はお金では図れない。人を思いやる心が大切だ」
歩みは祖父の言葉を胸に刻み、明るく前向きに生きていた。そして、十六歳の誕生日を迎えた。帰宅すると、祖父が夕食とささやかなケーキを用意していた。
「誕生日おめでとう、歩み」
「ありがとう」
ロウソクに火を灯し、歩みは願い事をした。
「おじいちゃんが、ずっと元気でいますように」
祖父は優しく微笑んだ。食事が終わった後、祖父の表情は、これまでにないほど真剣になった。
「歩み、今日からお前に大切なことを教える」
誕生日の温かさとは一転し、部屋に緊張が走った。
「おじいちゃん、どうしたの?」
「お前はもう十六歳だ。大人になる準備を始める時期だ。これから話すことは、お前の人生を大きく変えることになる」
歩みは息を飲んだ。
「実は、お前には大きな財産がある。おじいちゃんが四十年かけて守ってきたものだ」
「え……でも、私たちはこんなに貧しい生活を。おじいちゃんは年金で暮らして、私もアルバイトして」
「それは全て、お前を試すためだった。金の価値を知らなければ、人の上に立ってはいけない。お前は貧しさを体験し、人の痛みを知った。それが最大の財産だ」
歩みは混乱し、涙が溢れそうになった。
「おじいちゃん、私、何もわからない。どういうこと?」
「明日、お前は株主総会に出席する。そこでお前が何を学ぶか。それがお前の人生を決める。おじいちゃんは、お前がどんな選択をするか見守っている」
祖父は歩みに一枚の書類を手渡した。株主証明書には、歩みの名前が記されていた。
「この証明書を持って、明日の株主総会に行きなさい。おじいちゃんは行かない。お前一人で行け。これも試練だ」
歩みは震える手で証明書を受け取った。何が起こるのか、全く分からなかった。ただ祖父を信じることだけが、歩みにできることだった。
翌朝、歩みは洗いざらした制服に身を包み、証明書を鞄に入れた。
「歩み、何があっても、お前の選択を信じている」
「うん。行ってきます、おじいちゃん」
電車に揺られて向かった先は、高層ビルが立ち並ぶ場所だった。巨大な桜井グループ本社ビルは、地上三十階建てだった。歩みは勇気を振り絞り、中に入った。エレベーターで三十階に上がると、赤いカーペットとシャンデリアが目に入った。受付には、高級スーツの役員たちが並んでいる。歩みが株主証明書を取り出すと、男たちが気づいた。
洗いざらした制服と古い鞄の歩みは、明らかに場違いな姿だった。男たちの顔に、嘲笑の色が浮かんだ。
「偽造だな。親なしのクソが、株主だと?」
「じゃあ、俺ら役員全員を解任させてみろよ。制服で総会とか笑えるな」
「貧乏人は妄想してないで、さっさと帰れ」
佐草は証明書を無造作に破り、机に叩きつけた。紙が裂ける音が、また会場に響いた。歩みの指先が小さく震えた。常務の島崎も、あざ笑いながら加わった。
「こんなガキが株主のわけない。証明書も偽造だろ。警備を呼べ」
取締役の西村も続けた。
「時間の無駄だ。門前払いだ。貧乏人は妄想してないで帰れ」
呼ばれた警備員が、会場の入り口までやってきた。
「お客様、ご退場ください。証明書はお預かりします」
「返してください。これは、おじいちゃんがくれたものです」
「偽造品の持ち主が、まだごねるのか。さっさと消えろ」
歩みは唇を噛みしめ、机の上の破れた証明書を拾い上げた。
「わかりました。では、お望み通りに」
歩みは背を向け、会場を去った。役員たちは、勝ち誇ったように笑い合った。
「最近のガキは、何を考えているんだか」
「株主総会に来れば、金がもらえるとでも思ったんじゃないか」
「受付の名簿にないんだから、最初から相手にするな」
彼らは歩みのことなど、すぐに忘れた。ビルを出た歩みは、近くの公園のベンチに座り込んだ。破れた証明書を膝に置き、目から涙がこぼれた。
「おじいちゃん……偽造だって言われちゃった」
歩みは電話を取り出し、祖父に電話をかけた。
「歩みか。どうだった?」
「おじいちゃん、追い返されちゃった。偽造だって言われて……」
「そうか。お前は何も悪くない。お前には大きな力がある。その使い方は、お前自身が決めるんだ」
「おじいちゃん、ありがとう」
「うちに帰っておいで。話をしよう」
歩みは電話を切り、家に向かった。夕方、歩みはボロアパートの居室に戻った。祖父は歩みの前に座り、静かに語り始めた。
「歩み、おじいちゃんの本当の名前は、桜井義明だ。四十年前、桜井グループを立ち上げた。今年、売上二兆円の会社だ」
歩みは、目の前の祖父があの巨大企業の創業者だと知って、驚いた。
「八年間の貧しい生活は、お前が人の痛みを知るための教育だ。もうお前の名義に全株式を移してやる。時価総額五千億円、議決権百パーセント。唯一の支配株主だ」
歩みは息を飲んだ。自分があの巨大企業の支配株主だと知った。今日、自分を嘲笑した役員たちは、実は自分の部下だったのだ。
「おじいちゃん、私、どうしたらいいの?」
「歩み、お前には二つの選択肢がある。一つは、何もしないこと。彼らの過ちを許し、忘れること。もう一つは、株主としての権利を行使することだ。彼らに、自分たちが犯した過ちを知らしめることだ」
歩みは黙って考えた。今日受けた屈辱と嘲笑。理不尽な扱いが胸に残っていた。破れた証明書の角が、指の腹に当たった。
「復讐したいわけじゃない。でも、これは違う」
歩みは祖父を見つめた。
「おじいちゃんは、どう思う?」
「おじいちゃんは、お前の選択を尊重する。ただ、人を見た目で判断する経営者は、トップとして失格だ」
歩みは深呼吸をし、決意を固めた。
「おじいちゃん、私、臨時株主総会で発言したい。彼らに知ってもらいたい」
「そうか。では、準備をしよう。お前はまだ十六歳だ。大きな財産を動かすには、後見人のおじいちゃんも同席する」
十六歳の歩みが株式を動かすには、保護者の立ち合いが必要だった。翌日、歩みと祖父は顧問弁護士の村田賢一を呼んだ。
「桜井会長、お久しぶりです」
事情を聞いた村田は、資料をまとめ始めた。
「臨時株主総会を開催しましょう。歩み様が支配株主として、役員の解任を行います」
「私に、そんな大きなことができるでしょうか?」
「歩み様。議決権百パーセント。法的に完全に正当な権利です」
「歩み、お前は正当な権利を行使するだけだ」
歩みは深く頷いた。一週間後、臨時株主総会の開催が通知された。桜井グループ本社ビル三十階の、同じ会議室だった。
「臨時株主総会の招集者は、桜井歩み?」
「誰だ、それ?」
「小株主の嫌がらせだろ。証明書を破って追い返した制服のガキと同じ苗字だな。気にするな。あんな偽造持ちが総会を開けるわけない」
苗字が同じでも、あの少女が招集者だとは本気で思っていなかった。臨時株主総会の当日、会議室に役員たちが集まった。
「で、この桜井歩みとやらは、来るのか?」
その時、会議室のドアが開いた。入ってきたのは、制服の少女、桜井歩みだった。その後ろに、顧問弁護士の村田と、質素な服の老人が立っていた。役員たちの顔が、一斉に凍りついた。
「お前、あの時の……なぜここに。警備は何をしてる?」
歩みは静かに席に座った。鞄から破れた株主証明書を取り出した。
「皆様、お集まりいただきありがとうございます。本日の臨時株主総会は、桜井歩み様の招集によるものです。こちらが株主名簿の写しです。名義人は、桜井歩み様。持ち株比率は百パーセント。唯一の支配株主であります」
株主の名前を記した正式な名簿だった。会議室が一瞬にして静まり返った。
「本当だ。桜井歩み、持ち株百パーセント。印鑑も本物だ」
「そんなガキが全株を持つわけがない」
「株式の名義を管理する会社にも、確認済みです」
机の電話が鳴り、村田がスピーカーに切り替えた。
「名義人は、桜井歩み様です。後見人も同席されています」
「そんな電話まで仕組んだのか」
「待ってくれ。全株式が、この子の名義だと?」
「名義の移転日も、歩み様の誕生日当日です」
「その老人まで連れてきたのか」
「後見人は、私だ」
「このガキが……まさか、名簿が本物だというのか」
歩みは静かに立ち上がった。
「先日、私は株主証明書を持って株主総会に参加しようとしました。しかし皆さんは、私を追い返し、証明書を偽造だと決めつけました」
歩みの声は震えていたが、目には強い意志が宿っていた。
「私は貧しい服を着ていました。だから、笑われました。人を見た目で判断する。それが皆さんのやり方なのですか?」
役員たちは何も言えなかった。
「祖父は教えてくれました。人の価値は、お金や見た目では図れないと。でも皆さんは、その教えとは真逆のことをしました」
その時、入り口にいた警備員が小さく口を開いた。
「門前払いを指示したのは、佐草専務です。私は記録に残しています」
「お前は黙ってろ。部下の分際で」
「佐草さんが証明書を破って机に叩きつけたのも、あなたですよ」
「島崎、警備を呼べと言ったのはお前だろう」
「俺は時間の無駄だと言っただけだ。主犯は専務だろ」
次々と責任の押し付けが始まった。
「私は止めなかった。見て見ぬふりをした私も同罪です」
「社長まで、これはあまりにも一方的すぎる。そうだ。我々全員に弁明の機会があるはずだ」
「弁明の機会は、今です。どうぞ」
佐草は歩みに向かって言った。
「歩みさん。いや、桜井様。不適切な対応でした。しかし、それは誤解です。制服姿では、株主だと思えなかった」
「誤解ですか? ではお聞きします。もし私が高級スーツを着てきていたら、追い返しましたか?」
佐草は言葉に詰まった。
「豪華な車で来ていたら、証明書が偽造だと決めつけ、破りましたか?」
島崎も何も言えなかった。
「私が追い返されたのは、貧しい服を着ていたからです。見た目だけで人を判断した。それが誤解で済むことでしょうか」
会議室に重い沈黙が流れた。
「祖父は私に、八年間、貧しい生活をさせました。金の価値を知るためです。人の痛みを知るためです。コンビニでアルバイトをして、学費を稼ぎました」
歩みの目から涙がこぼれた。
「それなのに、皆さんは貧乏人の妄想だと笑い、証明書まで破りました」
佐草と島崎はうつむいた。自分たちがどれだけ残酷なことをしたのか、今になってわかった。
「私は復讐がしたいわけではありません。ただ、人を見た目で判断することがどれだけ人を傷つけるか。それが経営者としてどれだけ恥ずべき行為か。知ってほしいのです」
歩みは涙を拭った。
「今日、私はお望み通りのことをします。では、役員全員の解任決議を」
会議室が再び凍りついた。
「待て。解任させてみろと言ったのは佐草だ」
「全員はひどい。主犯は佐草だ」
「私は従っただけだ」
「俺も口を出しただけだ」
「仮に専務だけでいい」
「歩み様、残りの役員は残してください。会社が止まります」
佐草が議案書を奪い取ろうと手を伸ばした。
「触らないでください。これは正式な議案です」
「十六歳に会社を預ける方がおかしいだろう」
「預けるのではありません。皆さんがやれと言ったのです」
「親なしのクソが。本当に株主なら、役員全員を解任してみろ」
佐草の顔から血の気が完全に消えた。
「待ってくれ。俺は帰る。今日は見逃してくれ」
「出口はこちらで止めています」
「総会を延期しろ」
「招集者の歩み様が、延期を認めていません」
「金なら払う。この件はなかったことに」
「金で人の痛みは買えません。人を見た目で切った者に、会社は預けられない」
歩みは手元の議案書を見つめた。そこには、佐草、島崎、西村、藤崎、出席役員の名前が並んでいた。
「それでは議案に入ります。第一号議案、出席取締役全員の解任について」
触れられない。ここで止まっちゃだめ。
会議室の時計の音だけが残った。
「手を上げるな。上げたら終わりだ」
「採決は明日にしてくれ」
「家族に連絡を」
「休憩も、延期も認めません」
「手を上げるな。頼む。手だけは」
「歩み様。最後に一言だけ」
「お望みはもう聞きました。皆様、立たないでください。その手を下ろせ」
議案書の角が照明に光った。歩みは破られた証明書を胸の前で抑えた。歩みの手が議案書の端に触れた。村田が静かに頷いた。佐草は大きく唾を飲み込んだ。誰もがその手が上がるのを、息を止めて見守っていた。
「では、採決に移ります。出席取締役全員の解任に、賛成します」
歩みは手を上げた。議決権百パーセントという、圧倒的な力だった。
「議決権百パーセントにより、本議案は可決されました。本日を持って、皆様は取締役を解任されます」
誰も次の言葉を出せなかった。
「解任に伴い、役員の戴を解消します」
「鍵を渡すな。俺はまだ」
「すでに解任名簿へ記載済みです」
佐草と島崎は、その場に崩れ落ちそうになった。長年積み上げてきたキャリアも地位も、一瞬で失われた。
「俺の人生が……これで終わりなのか」
「門前払いだと言った、あの一言が」
「私は社長だ。残してくれ。会社がもたない」
「土下座でも何でもする。帰りだけは」
佐草は床に膝をつき、額を下げた。高級スーツの膝が、カーペットの埃を拾った。
「佐草さんの独断です。私は巻き込まれた被害者だ」
警備員が録音を再生した。佐草の「警備を呼べ」という声が、会議室に流れた。
「止めろ。消してくれ」
「指示者の録音も残っています。消せません」
言い訳の道は、その場で塞がれた。
「その上で、一つだけ言わせてください」
全員が歩みを見た。歩みは、鞄の破れた株主証明書を静かに机に置いた。
「これが、皆さんが偽造だと言って破った紙です。返してくださいと頼んでも、消えろと言われました」
破れた角が、照明の下ではっきり見えた。
「この紙を机に叩きつける資格は、お前にはなかった」
「その老人は、一体何者だ?」
「創業者であり、祖父の桜井義明会長です」
質素な服の老人が創業者だと知った瞬間、島崎の膝がガクガクと震えた。
「会長、知らなかったんです。本当に」
「知らなかったで済むなら、誰でも人を切れる」
「解任は、佐草さんが私にやれと言ったことです。お望み通りにやりました」
佐草は言葉を失った。
「続きがあります。歩み様は、保有する全株式の売却を決断されました」
時価総額五千億円の株を、全て売るということ。
「待ってください。五千億円分の株を市場に出したら、株価が暴落する。わかるのか?」
「見下した会社に、私は一株も残しません。相手は従業員の雇用を維持する条件で合意しています。現場の仕事は守られます。暴落するのは、旧経営陣の信用です」
「俺たちの退職金は」
「役員の報酬や退職金は、解任と同時に止まります」
「歩みは十六歳だ。売却の手続きは、後見人の私も行う」
祖父が静かに書類に印をした。印の音が会議室に小さく響いた。
「これより、全株式の引き渡しが成立します」
「従業員まで路頭に迷うぞ」
「従業員は守ります。守らないのは、人を切った皆さんです」
「お願いだ。待ってくれ。俺は何でもやる。残してくれ」
「先日、門の外へ追い出しましたよね。今さら頼まれても、遅すぎます」
「俺は口だけだ。許してくれ」
「時間の無駄とおっしゃいました。今日で終わりです」
売却の知らせが、社内の端末に流れた。支配株主が全株を手放し、旧経営陣の信用は一瞬で崩れた。
「取引先が、次々と契約を止めると言っている」
「俺のローンが、会社の信用で組んでいたのに」
島崎の携帯に、銀行から着信が入った。
「会社の信用で組んだローンは、今日から見直しです」
「待ってくれ。家族が住んでる」
「ご本人と、これから手続きの話をします」
その時、会議室の電話が再び鳴った。
「追い返された株主が、実は支配株主だと聞きました。見た目で人を切る会社とは、付き合えません」
「待ってください。長年の付き合いです」
電話が切れた後、高級スーツの背中が小さく震えていた。
「さらに、もう一つあります。旧役員の方々には、本日中に社宅を明け渡していただきます」
「社宅まで……俺の寝る場所が」
佐草のスマホに、不動産会社から着信が入った。
「本日、家の差し押さえ予告を送りました。鍵の返却をお願いします」
「待ってくれ。荷物も出せない」
「期限は本日中です。ご家族にも連絡済みです」
続けて、社宅の写真が届いた。荷物が廊下に出されている。
「強制執行のため、先に搬出を始めました」
「勝手にするな。あれは俺の部屋だ」
「解任後は、その家に住む権利がありません。社宅の鍵も、本社へ返却済みです」
「取引先の集まりへ、指名入りの注意リストを送っています」
会議室の大型画面に、注意リストの氏名が映った。画面には、佐草、島崎、西村、藤崎の四人の名前が並んだ。
「画面を消せ」
「全事業所へ、同時に配信されています」
「氏名を出すなら、家族が傷つく」
「妻からメールだ。帰ってくるなと」
画面の下に、取引禁止の赤い文字が出た。画面のリストは消えなかった。
「門前払いの指示は、先ほど再生した通りです。刑事告訴も検討対象です」
「口を出しただけなのに。せめて私の名前だけ外して」
「お名前は全員分です」
「謝罪する。新聞にも出す」
「だから、それだけは」
「記録は残します。消してほしいという願いは聞けません。人を偽造した事実は消えない。謝罪は今日の総会で記録済みです。手続きは止めません」
「俺は現場へ行く。土下座でもして、取引を回る」
「鍵も名札も、もう皆さんのものではありません」
「残りの資産を差し出す。命だけは」
「資産の差し押さえは、銀行側が進めます」
「俺の子供の学校に、連絡が行くのが」
「名前が届くのは、取引する会社までです」
西村は椅子から動けなかった。
「社長室の鍵も、もう回らない。俺のカードも止まっている」
佐草の手が震えながら、画面を握りしめた。
「解任させてみろと笑ったのは、俺だ」
地位も、家も、信用も、次々と失われていった。四人の顔から脂汗が落ちた。高級スーツの背中が、小さく丸まった。
「役員室の荷物は、段ボールへ移しています」
段ボールの側面には、役職の文字がなかった。
「専務の二文字すら、もう書けないのか……」
「家族には、俺が悪かったと伝えてくれ」
佐草は、まだ膝をついたままだった。
「これで、お望み通りは終わりです。よくやった。復讐ではなく、お望み通りにしただけだ」
歩みは破れた証明書を鞄にしまった。解任された役員たちは、会議室を出ていった。受付で、元役員の名札が次々と外された。
「これは俺の席だ。まだ専務だ」
「解任済みです。お引き取りください。名札は回収します」
「証明書の確認は、もう必要ありません」
「警備を呼ぶんじゃない。俺たちを通せ」
「お客様、ご退場ください」
受付の名札ケースから、元役員の名前が消えていた。エレベーター前で、従業員の一人が頭を下げた。
「現場の仕事は、残してもらえたんですか?」
「はい。皆さんの仕事は、残します」
「……門前払いだと言ったのは、俺だ」
総会が終わり、歩みは質素な部屋へ帰った。
「お疲れ様、歩み。よく頑張ったな」
歩みは祖父に抱きついた。
「おじいちゃん、私、これで良かったのかな?」
「ああ。人を見た目で切る器に、株は置けない。それが真の持ち主の選択だ」
歩みは祖父の胸で泣いた。緊張と不安、大きな決断の重さが、涙になって流れ出た。
「歩み、お前は立派に成長した。誇りに思う」
祖父の温かい手が、歩みの頭を撫でた。鞄の中で、破れた証明書の角が指先に触れた。この紙は、もう机に叩かれることはない。
それから数ヶ月が経った。元専務の佐草が、別会社の受付に立っていた。スーツの袖は擦り切れ、名刺入れは空に近かった。
「元桜井グループ専務の佐草です。営業で貢献できます」
「申し訳ありません。当社は、桜井グループ元役員の採用を禁じています」
「門前払いか……待ってくれ。話すだけでも」
「お引き取りください。警備を呼びます」
かつては自分が言った言葉が、そのまま返ってきた。貧乏人は帰れと笑ったのは、俺だ。
一方、島崎は人材紹介会社の入り口で止められていた。
「お客様、ご退場ください。こちらのリストに乗っています」
「リスト? 俺は常務だったんだ。人材のプロだ」
「氏名と一致しています。お引き取りください」
警備を呼べと指示した男が、今は警備に止められていた。証明書が偽造だと言った日に、全て終わっていた。
西村は日雇いの列に並んでいた。洗いざらした作業着の手元で、番号札が風に揺れていた。
「時間の無駄だと言ったな。俺が一番、無駄だった」
誰も彼の名前を呼ばなかった。
藤崎は、かつての取引先の前で頭を下げていた。
「長年の付き合いです。仕事を」
「お引き取りください。担当は変わりました」
それから惨めな日々が続いた。佐草は毎朝、手書きの履歴書を書いた。学歴も肩書きも、もう使えない。履歴書の角は折れて、突き返された。島崎の手には、荷物でできた傷が増えていた。元常務の手だなんて、今は言えない。西村は夜の清掃で、自分の名前を出せなかった。名刺入れが空だ。捨てるものも、残っていない。西村の作業着は、歩みが着ていた制服より色あせていた。
四人とも、制服の少女を笑った日の続きを、生きていた。夜になると、四人は安い食事でその日を終えた。佐草の弁当は、コンビニの袋のままだった。
桜井グループの現場は、新たなオーナーの元で動き続けていた。雇用は守られた。でも、あの役員たちは来ない。
「現場は、最初から現場で回っていたんだよ」
一方、歩みの生活は、以前とほとんど変わらなかった。足立区のボロアパートは、家賃三万円の六畳一間だった。
「歩み、五千億円を売った金は、手をつけなくていいんだぞ」
「うん。見せびらかすためには使わない。おじいちゃんと、ここでいい」
歩みは学校へ行き、洗いざらした制服のまま、アルバイトも続けた。
「桜井さん、相変わらず真面目だね。うちの宝は健在だよ」
「ありがとうございます。優しい子だね」
五千億円を売っても、私の場所はここだ。破れた株主証明書は、引き出しの奥にしまってあった。破れた角が、あの日の痕跡を残していた。
一年後、歩みは十七歳になっていた。ある夕方、コンビニの前で肩を落とした男とすれ違った。元専務の佐草だった。目が合い、佐草は顔を背けた。
「すまない。あの日の制服を、今も覚えている」
「覚えていてください。見た目で切った先が、どこだったかを」
佐草は深く頭を下げ、路地へ消えた。
その夜、歩みは祖父と質素な夕食を囲んだ。
「歩み、お前は本当に立派になったな」
「おじいちゃんのおかげだよ。人の価値は、お金では図れないって」
「金を手放しても、心は残る。それがお前の持ち分だ」
「うん。このままでも、私は幸せだよ」
窓の外の隙間風が、いつものように部屋を撫でた。しかし、部屋の中は貧しくても温かかった。
理不尽に追い返された十六歳が、お望み通りの解任をし、全株を売った。歩みは、ちゃんと選んだ。元役員たちは路頭に迷い、同じ夜、歩みの部屋では味噌汁の湯気が立っていた。誰を大切にして生きるかが、真の豊かさなのだと。
制服の十六歳が、破れた紙で返した答えは、解任と全株の手放しだった。人の価値は、見た目ではなく、誰を大切にして生きるかで決まる。



