佐原水希が一人辞めたところで、会社は痛くも痒くもない。人事部長の蒲生浩司はそう言って、机の上の退職届を指で弾いた。水希は何も言わず、小さく頭を下げただけだった。
数分後、社長室に呼ばれた水希に、社長の柊木正一郎は青ざめた顔でこう言った。
「待ってくれ。君には毎年、特別手当てを払っていたはずだ。年480万円」
部屋の空気が一瞬で固まった。
水希は33歳。柊木制御に入社して10年になる。月給はずっと24万円のままだった。その年間480万円という金額は、一度も彼女の口座に振り込まれたことがない。
水希の仕事は、ビル向け省エネ管理システムの保守と改良だった。故障の原因を探り、深夜まで残ってでも直す。それが彼女のやり方だった。朝は誰よりも早く出社し、稼働ログを一通り確認してから席に着く。
口数は少なく、会議で自分の手柄を主張したこともない。その分、後輩の宮下琢磨がいつも代わりに前へ出た。
「これ、僕がまとめました」
宮下は、水希が作った資料を自分の言葉で説明するのがうまかった。水希は訂正しなかった。面倒だったからではない。訂正するたび、場の空気が重くなることを知っていたからだ。
昼食はいつも休憩室で一人、おにぎりを食べた。帰り道のコンビニで割引きシールのついた弁当を選ぶのが習慣になっていた。
机の引き出しには、入社1年目から続けているノートが13冊ある。故障の原因、直した日付、対応にかかった時間、現場で言われた一言まで、全部そこに書き留めてきた。
「記録は自分を守る」
現業監督だった亡き父が、よく口にしていた言葉だった。父は水希が二十歳の時に事故で亡くなった。水希はその意味を、まだ半分しか理解していなかった。
月給は24万円。10年前とほとんど変わっていない。残業代を入れても、都内で一人暮らしをするのがやっとの額だった。実家の母は膝を悪くし、来月には手術が必要だと言われていた。貯金の額を数えるたび、水希はノートをそっと閉じた。
机の上には、いつも同じ位置に置かれた古い置き時計があった。その日も定時を一時間過ぎ、水希は静かにパソコンを落とした。帰りのエレベーターには、いつも自分一人しか乗らなかった。
半年に一度の評価面談で、水希の評価はいつもAだった。それなのに月給は毎年五千円ずつしか上がらない。
「今期は経営環境が厳しいから」
蒲生は毎回そう言って、評価シートを机に置いた。
「他の会社もこんなもんだ」
蒲生はそう付け加えて、資料をまとめて立ち上がった。評価シートの下にはいつも同じ判子が押されていた。水希はその判の形を、覚えてしまうほど見ていた。
「来年こそは」という言葉も、もう何度聞いたか数えられなかった。
蒲生は人事と経理をほぼ一人で統括している男性だった。指輪をつけた右手の指で机を一定のリズムで叩く癖がある。
トントントン。
水希はその音を聞くとなぜか、落ち着かない気持ちになった。
ある日、契約更新の手続きで人事ファイルの控えを見る機会があった。入社三年目までの記録は分厚いのに、その後は驚くほど薄い。控えの中には、六年前と三年前の申請書だけが不自然に抜けていた。手当ての申請書も、契約更新の控えも、ほとんど残っていなかった。
「紙の時代の書類でして」
総務の若い担当者が困った顔で言った。水希は聞き返そうとしたが、担当者はすぐに別の電話を取った。仕方なく水希は控えのコピーだけもらって席に戻った。
抜けている年をノートに書き移し、誰にも見られないよう引き出しにしまった。
同じ頃、後輩の宮下が新しい腕時計をつけて出社してきた。
「ボーナスですよ。ボーナス」
宮下は笑いながらそう言い、鼻の横を軽くこすった。何か言いにくいことがある時の癖だと、水希は知っていた。
面談室の壁には創業当時の白黒写真が一枚だけ飾られていた。だが、その時はまだただの偶然だと思っていた。
その夜から、水希はノートに新しい欄を作った。「疑問」とだけ書いた欄だった。
蒲生が机を叩く癖。宮下の新しい腕時計。薄すぎる人事ファイル。気づいたことを、事実だけ淡々と書き留めていく。感情は書かなかった。怒りや不満を書けば、いつか誰かに読まれた時に言い訳できなくなる。そう思っていたからだ。
ふと、五年前に辞めた先輩、夏目綾子のことを思い出した。残業続きだった頃、差し入れをしてくれたこともある。
「無理しすぎないでね」
夏目の口癖だった。その声を水希は今もはっきり覚えている。退職の理由は実家の都合とだけ聞かされていた。挨拶もないまま、ある月曜日に机だけがになっていた。
あの時は気にも止めなかった。だが今思えば、あの空いた机も一つの記録だったのかもしれない。水希はノートの隅に、夏目の名前を小さく書いた。理由はまだ自分でもうまく説明できなかった。ただ、書いておかなければ忘れてしまう気がした。
水希には兄弟がいない。父が亡くなってから、母と二人で支え合うように暮らしてきた。生活費の足りない分は、母が知人からの借入れで工面してくれたと後から聞いた。だからこそ母には心配をかけたくなかった。
その週末、水希は久しぶりに実家へ帰った。母の膝は雨の日になると特に痛みが強くなるらしかった。母は膝を抱えながら台所に立っていた。
「無理しないで」
と言うと、母は笑って取り合わなかった。食卓にはいつもよりかずの少ない夕食が並んでいた。実家の柱時計は、父が生きていた頃から時間が少しだけ遅れている。
秋の終わりに、大型案件の成果発表会があった。空調監視システムの大幅な省エネ化を成功させた案件だった。電気代を年間で三割近く削減する、社内でも異例の成果だった。会場には取引先の担当者も招かれていて、拍手はいつもより大きかった。
設計の中心にいたのは水希だったが、発表者は宮下だった。
「チームを引っ張ったのは自分です」
宮下は壇上でそう言い切り、拍手を浴びた。会場の隅で若手社員が小声で感心しているのも聞こえた。社長の柊木正一郎も、満足げに頷いていた。水希は書類の束を抱えたまま、その拍手を静かに聞いていた。
発表後、水希は再び蒲生に呼ばれた。
「お前の評価、もう少し上げてやりたいんだがな」
蒲生は書類を見ながら、独り言のように続けた。
「でもお前、母親と二人暮らしだろ。家のことで頭がいっぱいだと、経営判断は難しいだろうな」
水希は表情を変えなかった。母のことをここで出す意味が分からなかった。
「関係ありません」
短くそう答えると、蒲生は少し驚いた顔をした。
「昇給の話は、また落ち着いたらな」
蒲生は最後にそう付け加え、腕時計にちらりと目をやった。水希はその時計が宮下のものとよく似ていることに気づいた。気づいただけで、何も言わなかった。
トントントン。
机を叩く音が続いた。部屋を出た後、水希は廊下の窓に映る自分の顔を見た。起こっているはずなのに、表情はいつもと変わらなかった。
翌週、後輩の藤井蓮が水希の席に来た。二十四歳になったばかりの技術者で、まだ現場に出て半年だった。
「佐原さん、さっきの発表、おかしくないですか?」
藤井は声を落としていった。
「設計書、全部佐原さんの名前で保存されてましたよ」
水希は少し驚いて藤井を見た。
「気づいてたんだ」
「気づきますよ。見てれば」
藤井は昼休みに一人で図面を見返す癖があり、古い履歴も一通り目を通していた。そのおかげで、誰が本当に何をしたのかがよくわかるのだと言った。
藤井は続けて、気になっていたことを話し始めた。宮下が最近、頻繁に人事部の蒲生と二人で話し込んでいること。その後で決まって機嫌が良くなること。先月、高そうな腕時計をつけてきた日も、その直後だったこと。
「佐原さんが辞めたら、この会社多分回らなくなりますよ」
藤井は真顔でそう言った。
「大げさだよ」
「大げさじゃないです。俺、佐原さんの資料を見て勉強してるんですから。佐原さんみたいになりたくて、この仕事選んだんですよ」
照れ臭そうにそう言うと、藤井は自分の机に戻っていった。水希は答えに困り、パソコンの画面に目を戻した。誰かに憧れられる自分を想像したこともなかった。
水希は昔、自分も誰かに憧れて技術者を目指したことを思い出した。あの頃の気持ちを、いつの間にか忘れていたことに気づいた。それでも藤井の言葉は、思ったより長く胸に残った。
その夜、水希は古いスマートフォンを充電した。画面には、五年前の夏目綾子とのやり取りが残っていた。仕事の相談も、他愛もない一言も、最後の「お元気で」というメッセージも。水希は返信せず、そのまま画面を落とした。
数日後、知らない番号から短いメッセージが届いた。
「退職の話が出たら、条件にサインする前に人事ファイルを見るの」
送り主は夏目だった。水希はしばらく画面を見つめた。退職の話など、まだ誰にもしていなかった。それなのに、なぜ夏目が知っているのか。
翌朝、水希は社内システムに管理者権限でログインした。五年前、社内の給与システムを構築したのは水希自身だった。だからこそ、どこにどんな記録が眠っているかを知っていた。
自分の社員IDに関する処理履歴を検索すると、「高度技術人材定着支援金」という項目が目に入った。
対象者、佐原水希。交付額、毎年480万円。
過去分の記録を辿ると、金額はずっと変わっていなかった。だが、その金額は水希の口座には一度も振り込まれていない。
検索結果には、承認者の欄に「HS」という管理番号が残っていた。社長の柊木正一郎の頭文字と一致する番号だった。だが水希は、それだけで決めつけないようにした。
さらに調べると、三年前から金の流れが二つに分かれていた。七割は人事部の管理口座、三割は別の内部口座に流れている。口座番号の末尾は、見覚えのある四桁だった。
宮下琢磨の給与口座と、同じ番号だった。
水希は画面を一枚ずつスクリーンショットに残し、時刻とファイル名を書き添えた。作業を終える頃には、外はすっかり暗くなっていた。念のため、ログの複製を個人のUSBにも保存しておいた。
数日後、水希は宮下を昼食に誘った。会社近くの、いつも空いている定食屋だった。
「金のことを、知ってるよね」
いきなりそう聞くと、宮下の箸が止まった。
「蒲生さんに、会社で預かってる金だって言われて」
宮下の目は、最後まで一度も動くことはなかった。宮下はしばらく黙ったまま、味噌汁の碗をじっと見ていた。
「三年前、経費データの整理を手伝った時に数字を見た。蒲生さんに、三割渡すから黙っておけと言われて。悪いとは思ったんです。でも、佐原さんには敵わないから、これくらいはって。ばれたらもう終わりだと思ってました」
消え入りそうな声で、宮下はそう付け加えた。
悪意というより、ただの弱さだと分かった。分かったところで、怒りが消えるわけではなかった。
午後、水希は給与テーブルの規定を初めてきちんと読んだ。評価が五年続けば、階級は自動的に一つ上がる規定だった。水希の評価記録を見ると、八年前から急にBが混じっていた。
五年前、大規模物流案件で水希が出した改善提案があった。あの年の評価だけ、なぜかBのまま据え置かれていた。水希はその案件の顧客からの表彰状を、今もノートに挟んでいる。自分の記録には、あの年も大きな案件の成功しか書いていない。
記録が食い違っていた。
水希は人事評価の原本を確認できないか、総務に相談した。
「原本は人事部長が保管しています」
その人事部長こそ、蒲生浩司その人だった。代わりに毎回自分が受け取ってきた評価シートの控えなら、総務に残っていた。水希は自分のノートとその控えを一つずつ付き合わせた。
A評価だったはずの年が、控えではB評価に変わっている。昇給の基準を満たした年が、なぜか毎回一つだけ足りなくなっていた。差額を計算すると、月給は今頃三十八万円近くになっているはずだった。九年分の差額を合計すると、決して小さな金額ではなかった。
支援金の480万円とは、また別の金だった。会社は水希から、二つの方法で金を奪っていたことになる。
時計はすでに深夜零時を回っていた。水希は電卓を取り出し、九年分の差額を一つずつ足していった。数字が積み上がるほど、指先が冷たくなっていった。それでも計算を途中でやめなかった。
母の手術費用よりはるかに大きな金額だった。だが水希が欲しかったのは、金額そのものではなかった。なぜ、誰が、どうやってこの待遇を決めていたのかを知りたかった。
水希はノートを閉じ、しばらく動けなかった。悲しみより先に、乾いた笑いが漏れた。こんな単純な仕組みに、十年も気づかなかった。
翌週、水希は有給を使い法律事務所を訪ねた。対応したのは、労働問題に詳しい弁護士、霧山薫だった。
「まず、何を望みますか?」
霧山は資料を並べながら、静かに尋ねた。
「お金より先に、何が起きたかを記録に残したいです。会社を潰したいわけではありません」
水希がそう付け加えると、霧山は少し表情を緩めた。
「その言葉、多くの依頼人は最初は言えないんですよ。なら、順序を間違えないことです。制度の運営機関への確認、会社への説明要求。その先の対応。感情で押すより、証拠で十分勝てる話です」
帰り道、水希は夏目綾子に連絡を取った。
「あの時、本当は何があったんですか?」
夏目はしばらく黙った後、静かに話し始めた。五年前、支援金の存在に気づき蒲生に確かめたこと。半年分の給与を上乗せするから外で話すなと言われたこと。怖くて逃げるしかなかったこと。
「あの時、味方が一人でもいたら、違ったと思う」
夏目は最後にそう言った。
「証言が必要なら、協力する」
夏目の声は、五年前より少しだけ強くなっていた。藤井も、仕事帰りに覚えている限りの日付をメモにまとめて渡してくれた。
「佐原さんのためなら、これくらい」
照れ隠しのように、藤井は早口でそう言った。
霧山の事務所を出ると、外はもう夕方になっていた。街路樹の葉が、風もないのに一枚だけ落ちてきた。水希はそれを見送ってから、駅への道を歩き出した。
その夜、水希はスクリーンショットを一枚ずつ印刷し、日付順にファイルへまとめた。証拠と証言が、少しずつ一本の線になっていった。
退職届を出す日、水希はいつもより早く出社した。リュックには十三冊のノートが入ったままだった。総務に書類を提出すると、十分もしないうちに社長室へ呼ばれた。
「本気か」
柊木正一郎は水希を見て、開口一番そう言った。
「はい」
「十年だぞ。信じてたんだ」
柊木はそう言いかけて、途中で言葉を止めた。
「じゃあ、聞くが」
社長は少し焦った様子で机の上の資料をめくった。
「君には毎年の特別手当てを払っていたはずだ。年480万円」
水希は静かに社長を見返した。何も答えず、リュックの口に軽く手を添えた。
「その手当て、一度も受け取っていません」
社長の顔から、みるみる血の気が引いていった。
「そんなはずはない。蒲生に確認させる」
社長は震える手で内線を掴んだ。呼ばれた蒲生は、部屋に入るなり表情を強ばらせた。
「確かに処理しています」
「処理の中身を、今この場で説明してもらえますか?」
水希がそう言うと、蒲生の指が机の縁を叩き始めた。
トントントン。
蒲生の顔から表情が消えていくのを、水希は初めて正面から見た。社長がその音に初めて気づいたように、蒲生の手を見た。社長は椅子から立ち上がりかけ、また力なく座り直した。
数秒の沈黙が、部屋の温度を下げていくようだった。誰も何も言えないまま、時間だけが過ぎていった。廊下の時計の音だけが、やけに鮮明に聞こえた。
「こ、この……まさか」
社長の声は、最後まで震えていた。
霧山弁護士を同席させ、翌日改めて話し合いの場が設けられた。水希は十三冊のノートとシステムのログを机に並べた。霧山は一枚ずつ資料をめくりながら、日付と金額を丁寧に確認していった。支援金の七割が人事部の口座へ、三割が宮下の口座へ流れていた記録。さらに九年分の評価改ざんの痕跡。
霧山が淡々と数字を読み上げていく。社長は、その資料に一度も目を通したことがなかったと認めた。
「見なかったんじゃない。見ようとしなかったんだ」
柊木は自分にそう言い聞かせるようにつぶやいた。
蒲生は最初、「経営判断の一環だ」と言い張った。
「会社を守るために必要な処置でした」
だが、評価シートの改ざんだけは言い逃れができなかった。
「あなたが一人で決めていいことじゃないでしょう」
社長が声を荒げると、蒲生は初めて表情を崩した。
「社長だって薄々分かってたはずです。資金繰りが苦しい時、私に丸投げしたのはあなたじゃないですか」
部屋に長い沈黙が落ちた。テーブルの上のコーヒーは、誰も口をつけないまま冷めていった。
藤井の証言メモと、夏目の話した内容も全て一致していた。食い違いはどこにも残らなかった。宮下も、受け取った金額を全て申告した。
「全部、自分の意思です。誰かのせいにはしません」
蒲生だけが、最後まで視線を上げなかった。水希はその場に長くいたが、誰も彼女を責めなかった。
社長は深く息を吐き、深く頭を下げた。
「運営機関への申告も、外部審査も、全部受け入れる」
水希はその言葉を、ノートの最後のページに書き留めた。長かった十年間が、ようやく一つの結論にたどり着こうとしていた。感情ではなく、事実として。
二週間後、柊木制御は臨時株主総会を開いた。会場には社員代表として藤井と数人の若手社員も同席していた。蒲生浩司は懲戒解雇となり、業務上横領と私文書偽造の疑いで告発された。蒲生は最後まで一度も水希の方を見なかった。支援金の不正受給についても、運営機関への返還と刑事告発が決まった。
宮下琢磨は減給と降格の処分を受け、受け取った金は全額返還することになった。
「もう一度、ちゃんとやり直します」
宮下はそれだけ言って、深く頭を下げた。処分後、宮下は地方の営業所への移動願いを自分から出した。「もう一度、現場からやり直したい」。それだけを理由に添えて。
柊木正一郎は代表取締役を辞任し、私財の一部を支援金の返還に当てた。柊木は退任後も、支援金の返還手続きにだけは最後まで立ち合い続けた。新しい社長には、外部から招いた社外取締役が就任した。
全社員への説明会で、社長だった柊木は最後にこう言った。
「十年間、一人の社員の名前を利用し続けた。それは事実だ。本当に申し訳ないことをした」
頭を下げる社長の姿を、水希は少し離れた場所から見ていた。説明会の後、水希は静かに会場を後にした。拍手も罵声もなかった。ただ社内に、重く静かな空気だけが流れていた。
会社が潰れることはなかった。水希はそれを望んでいなかったし、望む必要もなかった。事実が事実として認められた。それだけで十分だった。
水希はリュックの中のノートを、そっと手のひらで抑えた。十年分の記録が、ようやく役目を終えようとしていた。窓の外では、いつも通りの夕日がビルの谷間に沈んでいった。
半年後、水希はアルテミス制御という会社で働いていた。面接で技術本部長の立花誠は、履歴書よりも先に過去の案件を尋ねた。
「佐原さんが設計した空調システム、うちでも参考にしてます」
給与は月給三十八万円。正当な評価制度もある会社だった。昇給の基準も、社員なら誰でも社内ポータルで確認できた。新しい職場では、改善提案が一つ通るたびに理由付きで手当てが上乗せされた。金額よりも、その理由が明記されていることが嬉しかった。
母の膝の手術は無事に終わり、今は近所を散歩できるまでになった。
「無理しないでね」
母に言われる度、水希は今度は素直に頷けるようになった。窓辺のカレンダーには、来月の温泉旅行の予定が書き込まれていた。
藤井とは今も時々連絡を取り合っている。
「佐原さんの記録、俺も見習ってノートつけてます」
先日届いたメッセージにはそう書いてあった。水希はその文面を少しの間だけ見つめてから、返信した。
「無理しない程度にね」
それだけ返した。
机の上には、十四冊目のノートが置かれている。前の会社を辞めてから、書く内容は少しだけ変わった。故障や不満ではなく、今日できるようになったことを書く。
「記録は自分を守る」
父の言葉の意味を、水希はようやく理解できた気がした。記録は自分を疑うためのものではない。自分がここまで歩いてきた証を、自分自身に見せるためのものだった。
ある土曜日、水希は柊木制御の前を通りかかった。社屋は変わらずそこにあり、看板も同じだった。中には入らず、水希はただ少しだけ立ち止まった。それからいつものように、駅へ向かって歩き出した。
ノートに書くべきことは、まだこの先にたくさん残っている。



