あの瞬間、課長の「あとは任せろ。俺が契約を取り付ける」という一言で、私の人生は一変した。45歳、片山孝太。高卒というだけで見下され続け、必死に掴んだ契約を横取りされた。営業部に異動してから、彼はいつもこうだった。「君、高卒なんだってな。それでよくうちにいられるな」と笑い、挙句の果てには「君じゃ、先方も頼りないだろう。だから俺が行く」と言い放った。悔しさで震えながら辞表を書いた私に、彼は「おお…

あの瞬間、課長の「あとは任せろ。俺が契約を取り付ける」という一言で、私の人生は一変した。45歳、片山孝太。高卒というだけで見下され続け、必死に掴んだ契約を横取りされた。営業部に異動してから、彼はいつもこうだった。「君、高卒なんだってな。それでよくうちにいられるな」と笑い、挙句の果てには「君じゃ、先方も頼りないだろう。だから俺が行く」と言い放った。悔しさで震えながら辞表を書いた私に、彼は「おお...

「後は任せろ。俺が契約を取り付ける」

課長はそう言い放った。しかも、俺が行った方がいいに決まっている、とまで言い切ったのだ。この男は、俺が必死に取り付けた契約を横取りするつもりらしい。なぜ俺がこんな目に遭わなければならないのか。俺は45歳の片山孝太。そういえば、そもそもの話から始めなければならないな。

俺は男二人兄弟の次男として、少し貧しい家庭に生まれた。地元の図書館が、名の知れた建築家の設計した建物だと知った時、俺は建築に強い興味を抱いた。地元の高校の建築科に進学し、中学から続けていたバスケットボールにも熱心に取り組んだ。本当は大学にも行きたかったが、家の経済事情で進学は断念せざるを得なかった。そこで俺は設計事務所でアルバイトをしながら、CADを独学で学び続けた。23歳の頃、建設会社に就職した。最初は建築士の補佐だったが、そのうち設計の仕事も任せてもらえるようになった。二級建築士の資格は持っていたが、就職後も勉強を続け、一級建築士も取得した。

それから長年、同じ仕事を続けてきた俺だったが、ある日突然、営業部への異動を命じられた。営業の人員が足りず、新しいスタッフがなかなか見つからないのが理由だという。社長の指示で、俺は建築関係の業務も続けながら、営業の仕事も掛け持ちすることになった。正直、業務的な負担はかなり大きかった。慣れない営業の仕事には、宿泊を伴う出張もあった。通常であれば断るような働き方かもしれない。だが、与えられた仕事には責任を持って全うしなければならないと思った。

異動してきた俺を、営業部の連中はよそ者を見るような目で見てきた。それも仕方ないだろう。別の部門にいた人間が途中から営業に移ってくれば、違和感があって当然だ。ところが課長は、俺が高卒だと知るなり、見下すような態度を取り始めた。

「君、高卒なんだってな。それでよくうちに務めていられるな」

営業に来てからまだ間もないのに、なぜそんなことを言われなければならないのか。俺がどういう意味かと尋ねると、課長はこう言った。

「俺は有名国立大学を出てるんだよ。高卒なんかに営業ができるのか?」

「確かに、これまでは違う仕事をしてきましたから、慣れるまでは苦労しています。でも、俺なりに頑張っているつもりです」

「ふん。君、営業以外の仕事もしているそうだね。社長から聞いたけれど」

課長は疑いの目で俺を見てくる。

「はい。設計の方も続けて担って欲しいと言われましたので」

「両方やるのは大変だろう。どちらも中途半端になっちゃ困るんだよね」

確かにそうだ。営業を本職とする課長にとって、俺が部署の仕事以外の業務を抱えているのは面白くないのかもしれない。俺は「両方ともおろそかにならないように取り組みます」と答えた。すると課長は、高卒の脳でできるのかね、と言い放った。

「あまり高卒であることを馬鹿にしないでもらえますか?」

「おっと、悪かったな。だって、低学歴なのは確かだろう」

課長はそう言って笑った。

またある時、営業の仕事に関して課長の説明を、どうしても理解できない部分があった。そのことを聞き返すと、課長はこう言った。

「え、そんなことも分からないのか? これだから高卒は」

腹は立ったが、俺は感情を抑えた。

「すみません。勉強不足でした」

「君の頭、小中学生並みじゃないか。だから高卒は嫌なんだよな」

悔しかった。だが俺は、もっと営業について勉強して、この部署で役に立てるようになろうと思った。この場所にいる意味があるのなら、今いる環境で頑張らなければならない。

そんなある日、俺は社長から、とあるプロジェクトの話を持ちかけられた。それは設計と営業の両方に関わる仕事だった。ある企業のビルを設計する案件が、俺たちの会社に舞い込んだのだ。社長は、その設計に俺も携わって欲しいと言った。それだけでなく、設計に携わる者の観点から、営業としても先方と交渉して欲しいと言う。俺にとってはまたとないチャンスだが、かなり重大な仕事になるはずだ。

俺は悩んだ末に、社長からの依頼を受けることにした。なお、社長は課長にも俺がプロジェクトに加わることを伝えてくれたらしい。課長は、どうせ俺には大した仕事ができないだろうと、高をくくっていたようだった。俺はそんな課長を見返してやろうと、入念に準備をして本番に臨んだ。すると、思いのほか交渉はスムーズに進んだ。先方の担当者には「見事な設計ですね」とまで言ってもらえた。俺の説明も真剣に聞いてもらえて、契約してもいいとの回答を得ることができたのだ。正式な契約書を作成して、後日、交わすこととなった。

契約にこぎつけ、俺は安堵の息をついた。これで課長も俺のことを認めてくれるだろうかと思った。しかし、そんな淡い期待はあっけなく裏切られることになる。俺が先方から契約してもらえることになったと報告すると、課長はこう言った。

「君が契約を取り付けた? そんなのありえない。一体どんな手を使ったんだ?」

「いえ。特に何もしていません。ただ建物の設計について準備をして臨んだだけです」

「ふうん。君が準備したもので、よく契約すると言ってもらえたものだな。あとは任せろ」

俺は目が点になった。あとは任せろとは、一体どういう意味なのか。

「君じゃ、先方も頼りないと思うだろう。だから俺が代わりに行ってやるって言ってるんだ」

課長によると、自分が行った方が先方も納得するだろうとのことだった。

「え、いえ。俺が設計したものですし、俺に行かせてください」

「駄目だな。俺が行った方がいいに決まっている」

何度頼んでも、課長は自分が行くと言って聞かない。俺はこう言うしかなかった。

「……わかりました」

俺は自分の席に戻ると、辞表を書いた。その辞表を課長に提出したが、特に引き止められることもなかった。「おお、そうか」と言われたくらいだった。最初から、この部署での俺の扱いなど、その程度なのだと思い知った。俺はそれでもいいと思った。これで、すっきりと転職できるだろう。これまで頑張ろうという意欲はあったが、それも今では消え失せてしまっていた。腹が立った俺は、あの契約の引き継ぎをすることもなく、会社を辞めた。自分から「引き継ぎをしますか」とは言わなかったが、課長からも何も言われなかったのだ。正直、引き継ぎなしで契約ができるなら、やってみればいいという心境だった。投げやりな気持ちで、俺は家に帰った。

その翌日、高校時代のバスケ部の先輩だった鏡先輩から電話がかかってきた。気分を晴らしたい気持ちもあり、俺は鏡先輩と久しぶりに飲むことになった。酒の席で、最近どうしているんだと聞かれたので、俺は仕事を辞めたことを包み隠さず話した。すると鏡先輩はこう言った。

「お前、建築会社にいたんだよな。だったら、俺のところに来ないか?」

鏡先輩は俺がいた会社のライバル会社に長く勤めていて、設計を担当しているのだという。会社も一人技術者が辞めたばかりで、俺のことを社長に話してくれると言う。俺は喜んでその提案を受け入れた。翌日、俺は履歴書を作成して鏡先輩の会社に提出した。するとすぐに連絡が来て、面接してもらえることになった。面接は社長が直接行ってくれたが、終始、和やかな雰囲気の中で行われた。数日後には、俺の転職が決定した。俺は一級建築士として、設計の仕事を主に担い始めた。営業の業務がないので、仕事面での負担が軽減されたのはありがたかった。

新たな職場で再出発したばかりの俺のところに、前の職場の社員から連絡があった。課長は俺から契約を横取りした後、契約のために先方へ出向いたのだという。課長である自分なら何の問題もなく契約をまとめられると思っていたのだろう。しかし、そうはならなかったらしい。設計の件で先方の担当者に質問されたが、知識がなくうまく答えられなかったのだ。課長は設計の仕事から長く離れていたから、無理もない話だ。出世したがために、技術的な仕事から遠ざかっていたのだろう。それでも、契約のために来た人間がそんなことも分からないようでは話にならない。結局、課長は先方から「片山さんでなければ契約しません」と言われてしまったらしい。連絡をくれた社員によると、課長から俺に電話がかかってくるかもしれないとのことだった。

課長と話なんてしたくなかったので、俺は携帯の電源を切っておこうかと思った。ところが、そう考えてから30分ほど後、社員の言った通り、今度は課長から電話がかかってきた。仕方なく電話に出ると、課長の怒鳴り声が耳に飛び込んできた。

「お前、なんで引き継ぎしないで退社したんだ?」

「なんでって……課長が何も言いませんでしたし、なくても大丈夫なんだろうなと思ったんです」

「自分のやっていたことは、ちゃんと引き継いでから辞めろ!」

俺が辞める時には何も言わなかったくせに、いざ自分が困るとその言い草か。俺はため息を飲み込みながら、すみませんでした、と謝った。

「せっかくこの俺が契約に行ったのに、お前じゃないと駄目だと言われたんだぞ」

「それは課長がしっかりと内容を把握していかなかったのがいけないんじゃないですか」

「だから、お前が引き継いでいかなかったせいだ」

「俺のせいにばかりされても困ります」

「契約ができなかったせいで、損害を出してしまったじゃないか」

「俺はもう退職者なので」

俺はそう返した。すでに辞めてしまった人間に、前の職場の責任を負わせるのはおかしい。ところが課長は話を変えて、こう言い出した。

「お前、一級建築士の資格を持っているんだってな。しかもスキルが高いらしいじゃないか」

課長によると、俺が辞めた後に、他の社員から俺のことを聞いたらしい。俺は高校の建築科で学んだことや、独学していたことを伝えた。

「そういうことだったのか。単なる高卒じゃなかったのか」

今さらそんなことを知ったところで、遅すぎる。俺は「それがどうしたんですか」とそっけなく答えた。

「それがどうしたじゃない! なぜそれをもっと早く言わなかったんだ? 俺はお前が前にどんな仕事をしていたかなんて知らなかったんだ」

「俺自身、営業の仕事を覚えるのにも大変でしたし、課長は俺に関心がないようでしたから」

「俺はお前をただの能なしだと思っていたんだぞ」

そんなことを、このタイミングで言われても困る。それに、今さら俺に電話をかけてきて、どうするつもりだったのだろうか。

「お前ほどの設計ができるスタッフがいないんだよ。お前を呼び戻すように、社長からもきつく言われたんだ」

「それは……俺に会社に戻れということですか? 俺、すでに転職先が決まってるんで」

俺がそう言うと、課長は「なんだ」と驚いた。

「そちらの会社には、もうお力添えできません」

俺はきっぱりと断った。課長は「そこを何とか」と言っていたが、俺に許す気などなかった。せっかくの俺の契約を横取りしたのだから、課長に情けをかけるつもりはない。俺は「今後は関わることもありませんので」と言って、電話を切った。

少しだけモヤモヤとした気分になったが、転職に向けて心の準備をしようと思った。転職については、緊張よりも期待の方が大きかった。そして俺は新しく、新しい職場で働き始めた。鏡先輩は新入りの俺にとてもよくしてくれた。そのおかげで、俺も働きやすいと感じた。業務に関しても、設計に専念できる環境でありがたかった。

前の職場では、俺がいなくなったことで契約が打ち切りになっていたらしい。断られるケースも相次いでいると聞いた。契約がほぼない状況になり、業績が急激に悪化してしまっていたのだ。課長が俺にしたことが、業界内で噂になってしまったこともあるかもしれない。誰が噂を流したのかは分からないが、噂というものはあっという間に広まるものだ。一度流れた噂はなかなか消えることもなく、イメージダウンにつながったのだろう。おまけに従業員も次々と辞めていってしまったらしい。前の職場は破綻状態になっていた。

会社自体や社長に恨みがあったわけではない。そこまで行くと、俺も少し罪悪感が湧いてくる。しかし俺もすでに再スタートを切ってしまっているのだから、仕方のないことだった。課長はどうなったかと言うと、多大なる損失の責任を取る形で左遷されたらしい。課長の座を追われ、総務部の一般社員に格下げとなったそうだ。もしかしたら、俺があの時、我慢して会社に残っていれば、前の職場は危機に陥らなかったかもしれない。そう考えると、やはり胸が痛む。しかし、前の職場の社長は、自身も大変であろう時期に俺に電話をくれた。社長は俺を責めるわけでもなく、今どうしているかと気遣ってくれたのだ。その優しさに胸が締めつけられそうになった。

「突然辞めてしまい、申し訳ありませんでした」

俺が謝ると、社長は「気にするな」と言ってくれた。「もう戻る気はないか」とも言ってくれたが、俺は丁重にお断りした。やはり、あの課長が社内にいるのなら、お互いに顔を合わせることもあるかもしれないからだ。正直に言うと、もう課長の顔は見たくなかった。だから社長には悪いが、俺は新しい環境に目を向けることにした。

それからしばらくして、俺は所用のために街を歩いていた。すると、そこで思いもよらぬ人とばったり会ってしまったのだ。それは、どこか覇気を失ったような印象の課長だった。目が合ってしまったので、無視するのも変な気がする。俺が「お久しぶりです」と声をかけると、課長は目を見開いた後、すごんだ。

「なんでお前がここにいるんだ?」

「仕事で、建築予定地の現地調査に来たんですよ」

俺はすぐそばの空地を指さした。設計する上で、実際に現場を見ること。それが俺の流儀なのだ。ところで、と俺は続けた。

「課長こそ、ここで何をしているんですか?」

「課長と呼ぶな! 俺はもうお前の上司でも何でもない!」

課長はそう吠えた。それはそうだ。だが、以前まで課長と呼んでいた相手に、突然「村山さん」などと呼べるものだろうか。そんなことを考えながら周囲に目をやると、通りの少し先にハローワークの看板が見えた。そういえば、この辺りにハローワークがあったことをすっかり忘れていた。

実を言うと、課長はつい最近、前の職場を辞めてしまったらしい。課長の座を失ったことがショックだったようで、一般社員に戻るのはプライドが許さなかったのだろう。課長はいつか部長になりたいと考えていたそうで、その自尊心は深く傷ついたのかもしれない。どうやら新しい職場を探しに、ハローワークを訪れようとしているようだった。俺はそのことに触れないでおくことにした。本人にいちいち聞くようなことではないと思ったからだ。ただ、一つだけ言うべきことがあった。

「そうだ。社長から契約を横取りした件について、謝罪していただいておりませんが」

「なんだと? 俺に謝れと言うのか?」

少しだけ惨めな印象の課長を見て、俺も少しは溜飲が下がる思いだった。だが、きちんと謝罪してほしかった。俺は部下だった立場だが、こうなった原因は課長にあるのだから。

「うるさい。俺にそんなことできるはずがないだろう」

「そうですか」

俺はため息をついた。

「課長。後悔先に立たずですよ」

俺はそう言い残して、その場を立ち去った。人に謝罪もできないとは、哀れな人だと思った。正直に言って、俺はあのような人間にはなりたくなかった。

その後の俺は、前の職場で取引をしていた企業との契約を取り付けた。俺の設計に対して、営業の社員が契約を取ってきてくれたのだ。俺が設計したと知った先方は、「是非、頼みたい」と言ってくれたという。そう言ってもらえるのは、建築士としてこの上ない喜びだった。数年後には、俺の設計した建物が街に建てられる予定になっている。自分が設計した建物を自分の目で見ることは、仕事をやってきて良かったと思える瞬間だ。新たな職場での仕事は順調そのものだった。

今度は、とある地域の図書館の設計を担当させてもらえることになった。俺の転職した会社では、俺が設計の仕事に専念していることもあり、契約数が増加していた。それは、俺が転職したという噂が広まったためらしい。いつの間にか俺は、業界でも少しは知られるようになっていたようだ。会社は業績がアップし、どんどん大きな仕事が舞い込んでくるようになった。今いるスタッフでは業務が追いつかないほどになり、事務所の拡大も視野に入れているという。一緒に働いている鏡先輩からは「お前をうちの会社に誘ってよかったよ」と言ってもらえた。そう言ってもらえたからには、俺はこれからも頑張っていかなければならない。いつかは国内に名を馳せられるような建築家になりたい。俺はそう思いながら、今日も設計図に向き合っている。

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