仕事中に社長から呼び出され、明日から来なくていいと言われたのは突然のことだった。十三年間、この旅館で働いてきた私にとって、その言葉はあまりにも一方的だった。目の前の新社長は、困惑する私を見てニヤニヤと笑っている。私は七ナな子、二十八歳。中卒でこの旅館に飛び込み、ずっとここで働いてきた。
母は朝から晩まで働きづめだった。高校に行くくらいなら働いて母を楽にさせたいと思い、反対する母を押し切って中学校を卒業するとすぐに働き口を探した。まともな仕事は見つからなかったが、この旅館でアルバイトの募集を見つけた。面接に行くと、当時の社長は「学歴なんて関係ない」と言って雇ってくれた。三年後には正社員にしてくれ、「無遅刻無欠席だね」と声をかけてくれるような、人の良さを大事にする社長だった。その社長のもとで働くのが好きで、楽しく仕事を続けてきた。
だが一年前、社長が体調を崩し、息子が後を継いだ。それから旅館の方針は大きく変わった。前社長は人柄を重視し、子育て中の主婦や私のような中卒でも平等に雇ってくれた。従業員同士の助け合いも自然と生まれ、働きやすい環境だった。ところが新社長は高校生や大学生の短期バイトを低賃金で使い始め、指導もろくにしないので従業員の質は目に見えて落ちた。急なシフト変更を禁止された主婦たちは次々と辞めていき、食事の材料費まで切り詰められてシェフからも不満の声が上がった。
それでも私たちは諦めなかった。前社長が見舞いに行った従業員から、体調が回復したら現場に戻りたいと言っていると聞いたからだ。このままでは前社長が戻ってきたときに悲しむに違いない。そう思って新社長に直談判し、お客様の声も届けた。しかし新社長は「経営は俺が決める」と言い、常連客がいなくなるなら新規客を獲ればいいと、私たちの話をまったく聞こうとしなかった。常連客は減り、新しいお客様も増えず、経営は悪化の一途をたどった。
就任から一年が経った日、私は新社長に呼び出された。何か重要な話だろうと思いながら応接室に入ると、彼は笑みを浮かべて切り出した。「明日から来なくていいから」。私は言葉を失った。意味が分からない。すると新社長は付け加えた。「あんた、中卒なんだって? 中卒を雇ってるなんてうちの恥だろう。なんで進学しなかったんだ? 頭が悪かったのか、それとも不良だったとか? 人間性に問題がある人を雇っていて何かあったら大問題だよ」
私は反論した。「お父様は私が中卒だと知ったうえで雇ってくれました。母子家庭で貧しくて、母を少しでも早く楽にさせたかったので中学を卒業してすぐに働き始めたんです。ここで中卒だと馬鹿にされたことは一度もありません。社長には『母のために頑張りなさい』と言ってもらいました。三年間無遅刻無欠席で働いて、正社員にしてもらいました。騙したことなんてありません」
すると新社長は嘲るように笑った。「中卒は無遅刻無欠席くらいしか誇れることがないのか。かわいそうだな。まあ、その熱意を生かして他の仕事を探してくれよ」私は理由を問いただした。「理由? 簡単だよ。安い外国人留学生を使うから、今日で辞めてくれ。あんたみたいな中卒に正社員と同じ賃金を払うくらいなら、外国人を使って経費を抑えた方が利口だろう」
私はもう何も言う気になれなかった。「分かりました。お世話になりました」と頭を下げてその場を去ると、背後から新社長の馬鹿にした笑い声が聞こえた。悔しさで涙がこぼれたが、他の従業員に見つかってしまい、私は今あったことを全て話した。話したところで、新社長の言葉が覆ることはない。私は仕方なく旅館を去ることにした。
旅館を出るとき、婚約者の勇気が心配そうに駆け寄ってきた。勇気はこの旅館の厨房で働くシェフだ。同い年で話が合い、いつしか交際に発展し、三か月前に両家の顔合わせを終えて婚約したばかりだった。彼は新社長に直接文句を言うと言ってくれたが、彼の立場が悪くなるのが嫌で止めた。「大丈夫。また連絡する」と伝えて、私は自宅に帰った。
それから就職先を探し始めたが、同じ業種の旅館はこの田舎町ではほとんど見つからなかった。県外や住み込みならあるが、結婚してもこの町に住む予定だし、それもできない。煮詰まって家で塞ぎ込んでいると、勇気から連絡が来て気分転換に会うことになった。彼は話を聞いてくれて、他の仕事をやってみないかとか、専業主婦でも構わないと言ったが、やってみたい仕事は思いつかなかったし、専業主婦は自分に合わない気がした。無職のまま結婚するのも彼に迷惑をかけるようで嫌だった。そう伝えると、勇気は難しそうな顔をして黙り込んだ。
そこに近づいてくる足音がして、顔を上げると新社長が立っていた。「あれ? お前らなんで二人でいるんだ? もしかして付き合っているのか? でもなんか深刻そうだな。別れ話か?」ここはこの町で数少ないショッピングモールだ。顔見知りに会うことくらい珍しくない。新社長は驚く私たちを無視して、ひとりで喋り続けた。勇気の方を向いて「あんたの実家、あの有名なレストランなんだろ。こんな中卒の女を選ぶわけないよな。しかも無職なら付き合っているメリットも何もないだろうし、別れて当然だよ」と笑った。
勇気が激怒した。「あんたに七子の何が分かるんだ? 彼女はあの旅館のために十三年も懸命に働いてきたんだぞ。何も知らないあんたがくだらない理由で解雇するなんて、絶対に後悔するからな」。新社長は一歩も引かず、「あんたも雇われだって分かってんの? そもそもなんで実家のレストランじゃなくてうちで働いてるわけ? 出来が悪くて実家を追い出されたとか、わけありなのか? まあ、二人まとめて路頭に迷うのもありだよな」と笑いながら立ち去った。私は自分のせいで勇気の仕事まで奪ってしまったのかと落ち込んだが、彼は「首になっても他のところで修行するから大丈夫だ」と笑ってくれた。
しかし新社長の言葉は現実になった。翌日の夜、勇気から連絡があり、彼もまた外国人を使うからという理由で首になったのだという。他にも長年勤めていた従業員数人が同じ理由で辞めさせられたらしい。そして勇気は、ある計画を私に話した。
一か月後、私も勇気も、他の辞めさせられた従業員も、新社長から旅館に呼び出された。「どうしても来て欲しい」と言われたので、とりあえず顔を出すことにした。足を踏み入れると、旅館は以前と違い薄暗く、掃除も行き届いていない。日本語もままならない男性スタッフに案内され、かつての活気が嘘のように感じられた。呼び出された理由は察しがついた。
案の定、新社長は私たちの前に現れると、再雇用したいと言い出した。提示された雇用条件を見て私は驚いた。「この給料は合ってるんですか?」と聞くと、新社長は「中卒で無職のあんたなら、この金額で十分だろう」と悪びれもせず答えた。他の元従業員たちも、今までよりはるかに安い給料を提示された。彼が首にしたのは、中卒の私や主婦、年配の従業員がほとんどだった。仕事が見つかっていないと思ってのことだろう。しかし、誰一人として首を縦に振る者はいなかった。
新社長は顔を真っ赤にして怒り出した。「なんでだよ。雇ってやるって言ってるんだからありがたいだろう。どうせあんたらは学歴も職歴もないんだし、他に働き口なんてないだろう」。一瞬の沈黙を破ったのは私だった。「お言葉ですが、私たち全員、すでに他の働き口が決まっています」。新社長は私を睨みつけた。「はあ? あんたらがどうせ低賃金だろう」。私はため息をついた。「世の中、あなたみたいな社長ばかりじゃありません。あなたのお父様みたいに人柄を重視して雇ってくれるところもたくさんあります。確かに学歴で見られることもありますが、それはこちらとしてもありがたい話です。だって、その人たちは学歴でしか人を見られないんだと分かりますからね」。周りの元従業員たちがうなずいた。
続けて私は言った。「私たちは元々あなたについていけませんでした。何度も話しましたが、あなたは聞く耳を持たない。外国人留学生を使うと言うから、日本語が話せるのかと思えば、ほとんど会話ができない。そんな従業員ばかりでは、この旅館に来たお客様も困りますよ」。すると勇気が続けた。「それに料理の味が落ちたって噂になっていますよ。俺たちシェフの首をほとんど切って、きちんと修行した人がいなくなったんだから当然ですよね」。新社長は顔を赤くしたまま唇を噛んだ。
私は新社長を見据えて言った。「私たちは前社長が戻ってくるかもしれないと聞いて、なんとか前の状態を保とうと頑張っていました。でもあなたのせいで台無しです。お父様がかわいそうです。ただ、もう私たちはここには戻りません。だって、この旅館はあと少しで取り壊しが決まっていますから」。新社長は目を丸くした。「は? どういうことだ?」
「ここは勇気さんの実家が買い取る予定なんです。私たちはそこで新しく働くことが決まっています」。新社長は声も出ないようだった。私はさらに続けた。「ここにいる全員で、あなたに首にされた後、お父様のところへ伺いました。最後に挨拶だけでもと思ったんですが、あなたは見舞いに行ってなかったんですって。私たちが首になったことを知って、お父様は相当怒っていましたよ」。経営のことは詳しくなかったが、実際の代表権は前社長のままだったらしい。前社長は自分の息子に現状維持を頼んでいたのに、新社長が独断で暴走していた。実際の社長でもないのに、新社長が勝手に社長を名乗っていたことも、前社長は怒っていた。
勇気が続けた。「そこでうちの実家が長年計画していたホテル事業の話をさせてもらいました。お父様も乗り気で、つい先日契約を終えてきたんですよ。あなたへは、そのうち話があると思います」。新社長はようやく事態を理解したようで、顔が青ざめていった。「ちょっと待ってくれ。じゃあ、俺はどうなるんだ?」勇気は容赦なく告げた。「うちではあなたを雇う気はありませんから、就職先を探したらどうですか?」
集まった元従業員たちは新社長の慌てぶりを見て笑った。私は新社長を見下した。「あなたは私と違って、大学に進学していますものね。でも、あなたみたいな三流大学を中退している人でも、就職は余裕なんですか?」私たちが前社長に見舞いに行ったとき、学歴の話を引き合いに出されたと言うと、前社長は「あの大学は金さえ払えば誰でも入れる三流大学で、しかも中退だ」と怒っていたそうだ。新社長は今度は顔を真っ赤にして怒鳴り始めたが、そのときドアが開いて前社長が入ってきた。父親の顔を見た新社長は、また青ざめて慌て始めた。
前社長は一喝した。「私が築いてきたものをめちゃくちゃにして。お前は今日で首だ。今すぐ出ていけ」。縮み上がる新社長を見て、私たちは胸がすく思いだった。実は、私たちの働き口が決まった頃、前社長からもうすぐ退院できると連絡があった。復帰のお祝いをしようとみんなで話していたところに、新社長からの呼び出しがあったので、前社長に相談すると「自分も駆けつける」と言ってくれたのだ。後日、私たちは不当解雇として解決金を支払ってもらい、前社長が全て息子の懐から出すと約束してくれた。今、新社長は実家で監視されながら、他の業種で働いているらしい。社員としての就職先は見つからず、アルバイトをかけ持ちしているという。
私は勇気の実家が立ち上げるホテルでチーフとして働くことになり、今は他のホテルで修行中だ。勇気は実家のレストランでシェフとして働き、ホテルが完成したらそちらに移る予定になっている。他の元従業員たちも、それぞれ別のホテルやレストランで学んでいて、またみんなで働ける日を楽しみにしている。ちなみに、このホテルには前社長が役員として関わっていて、採用と教育を担当してくれるそうだ。前社長は「息子のような人間は絶対に雇わないから安心してほしい」と言い、私たちは笑ってしまった。
私と勇気は結婚が決まり、今は結婚式の準備をしている。苦労して育てたかいがあったと喜んでくれた母を見て、私も安心した。新しいことを学び、結婚式の準備をし、忙しいけれど充実した毎日を送っている。あの日、旅館を追い出されたときは本当に悔しかったけれど、今はあの経験があったからこそ、自分たちの新しい道が開けたのだと思えるようになった。



