「お母様」…

「お母様」...

三年後、十三歳になったお隅は大官の前に座り、二十六軒分の米の数を一桁も間違えずにそらんじることになる。だが、この時はまだ誰もそれを知らなかった。この物語は、そこへ至るまでの三年と、その前にあった一人の男の死の物語である。誰も気に留めなかった小さな娘が、なぜ算盤一つを頼りに村を揺るがす真実を掘り起こすことになったのか。全ては一つの家の一つの座から始まっている。土間に敷かれた薄い筵の上、そこに毎朝座らされていた一人の女の姿から。

昔、東獄のある畔に梨の木村という村があった。田は広く、川は緩やかに村を巡り、秋になると稲穂が一面に頭を垂れた。村の子らは川辺で遊び、年寄りたちは縁川で日向ぼっこをしながら、代々変わらぬ暮らしを送っていた。表向きはどこにでもある穏やかな農村であった。

村の真ん中に、川吹きの大きな屋敷が一軒立ち、門は高く扉は厚く、通りかかる者は知らずと足を緩めた。その屋敷のあるじを相米という豪農で、村の年貢と貸付を取り仕切る王城であった。大官は数年ごとに江戸から下って入れ替わるが、王城は代々その土地に根を張る。土地の細かな事情も、家柄の内も、王城の方がよほど詳しく知っていた。ゆえに村のことを一番よく知るのは大官ではなく王城であった。新しい大官が着任するたび、村の者たちはまず王城の顔色を伺った。大官の裁量よりも王城の一存の方が日々の暮らしを左右することを、誰もが知っていたからである。

東米は五十を数え、額が広く眉が太く、黙っていても威圧感が漂った。村の者は誰一人その目をまともに見返せなかった。声はいつも低く柔らかであった。声を荒げたところを見た者は誰もいない。「そうしなさい」。その一言だけで、下の者の背に汗が滲んだ。村の者は皆、相兵の屋敷の前を通る時、無意識に頭を垂れた。理由を問われても、うまく答えられる者はいなかった。ただ、あの屋敷に足を踏み入れてまともに戻ってきた者は少ないという噂だけが、井戸端から井戸端へと伝わっていた。

梨の木村では、田植えの時期が過ぎると誰もが空になりかけた米蔵を気にし始めた。春になると陣屋から車窓の米が貸し出された。冬を越して蔵が空になった家に米を貸し、秋に少しの利をつけて返させる仕組みである。元は民を救うために作られたものであった。ところが梨の木村では、春に受け取る米はいつも少なく、秋に返す米はいつも多かった。なぜかと尋ねれば、神社の帳面にそう書いてあると言われた。帳面を見せてくれと頼めば、下地の見るものではないと言われた。文字を知る者が村にほとんどいなかったからである。何が書いてあるか分からぬのに、何を言い争えようか。村人たちはそれを笑って済ませた。笑わなければ腹が立ち、腹を立てれば恐ろしいことが起きたからである。

冬の終わりに蔵の底を見せる家は年々増えていた。百姓たちは春の貸し出しを指折り数えて待った。それでも受け取る量は年ごとに減っていくように思われた。誰もが同じ違和感を抱きながら、誰一人それを口にする勇気を持たなかった。だが、その中でただ一人決して笑わなかった男がいた。

萬造と言った。年は三十七。下草の村に住み、幼い頃から書物を手放さなかった。村の子供たちは萬造の家の前を通るたび、書物を読む声に耳を済ませた。貧しい暮らしの中にあっても、その声には不思議な落ち着きがあった。落ちぶれた豪農の血筋ゆえに道は断たれていたが、自身はそれを恨みに思う風でもなかった。「私には私の役目がある」とよく言っていた。それでも文字を読み書きに明るかった。村では所役と呼ばれ、神社から証文が来れば読んでやり、村から出す書き物があれば書いてやり、車窓の米を配る時は立ち会い、どの家がいくら受け取ったかを書き留めた。それが萬造の仕事であった。村の者は文字が読めぬ分、萬造の言葉をそのまま信じた。萬造もまた、その信を裏切らぬよう寸分違わず書きすことに己の誇りを置いていた。「私が正しければ村が正しい」。萬造は常々そう言っていた。貧しい暮らしの中でも、その誇りだけは誰にも譲らなかった。

萬造には一人娘があった。お隅と言った。息子がなかったので、萬造は娘を膝に乗せて算盤を教えた。人が見れば顰め面をした。「女の子に算数教えて何になる?随分変わり者よ」。萬造はそう言われても笑うだけであった。

「豆がここに十二。あそこに九つあったら、いくつだ?」
「二十一です」
「そのうち誰かが五つ持っていったと言えば?」
「十六です」
「けれど四つしか持っていってないと言ったら」
六つの隅は首をかしげた。「それなら嘘です」
「そうだ。だが、世の中にはこの嘘を見抜けぬものの方がずっと多い。数を数えられる者は少ないからだ」
「なぜですか?」
「読み書きを知らぬからだ。だから読み書きを知る者が代わりに数えてやらねばならぬのだ」
「私がですか?」
「私が年を取ったら、お隅が数えてくれ」

萬造は笑った。その時はまだ、それはただの親子の戯れ言だと思っていた。お隅は毎晩、父の膝の上で算盤の引き方を教わった。田の子が竹とんぼで遊ぶ頃、お隅は玉の並びを目で追い、指先で弾く音を覚えた。近所の子はそれを見て笑ったが、お隅は気にしなかった。父が教えてくれることはいつも面白かったからである。

稲刈りを終えた田が乾いた土の匂いを漂わせる頃であった。お隅が六つの年の秋、萬造は村を回り始めた。一軒ずついくら受け取ったかを尋ねて回った。夜も行き、雨の日も行き、覚えていない家には二度も三度も足を運んだ。ある家では年寄りが言葉に詰まり、ある家では子供が代わりに答えた。こうして二十六軒全てを合わせると二十八俵であった。ところが夜の帳面に貸し出したと記された米は六十二俵であった。三十四俵が消えていた。米田原に換算すれば、優に何十石にもなるようであった。それだけの米があれば、村のどれほどの子が冬の間、寒い思いをせずに済んだことか。萬造はそれを思うといても立ってもいられなかった。

萬造は算盤を三度引き直した。三度とも同じ答えが出た。夜が更け、燭の火が揺れた。妻のお分が顔を青くして尋ねた。

「何事ですか?」
「明日、王城様の元へ参る」
「行かないでください。何のことか分かりませんが」

お分は夫の腕を掴んだ。「あの家は恐ろしい家です」
「私が読み書きを誤ったやもしれぬならば、詫びを立てて正せば良いだけのことだ」
「あなたが読み書きを誤る人ですか。十数えて十一と数える人ではないでしょう」

萬造は笑った。目は笑っていなかった。「だからこそ、お伺いを立てねばならぬのだ」

翌朝、萬造は算盤を持って家を出た。お分が門の前まで見送った。「夕方には戻る。必ず、必ず」。萬造は笑って手を振った。それが最後であった。

その夜、萬造は帰らなかった。翌日の昼、相米の家の下男たちが単価に乗せて運んできた。顔は白く、唇は青く、息はなかった。医者は心臓が止まったと言った。だが、萬造に持病はなかった。算盤は?

「うちの人が算盤を持ってまいりました。どこにございますか?」お分が叫んだが、男たちは何も答えず、単価を下ろすとそのまま去った。

六つのお隅は庭に立ち、父が単価から下ろされるのを見た。母が座り込むのを見た。近所の者たちが集まっては「気の毒だ」と言いながら、誰一人王城の屋敷の名を出さずに去っていくのを見た。お隅はその時、大人たちの声に潜む何かをまだ言葉にできぬまま感じ取っていた。その夜、母に訪ねた。

「父上、なぜ死んだのですか?」
「病になったのだよ」
「父上、病気ではありませんでした」

お分は娘を抱き、初めて声をあげて泣いた。お隅は泣かなかった。母の背をさすりながら、ただ座っていた。それから幾日も、村では萬造の死のことが囁かれたが、誰もはっきりとは言わなかった。噂は井戸端でひそひそとかわされ、王城の屋敷が見える場所ではふっと途切れた。

失われた算盤の代わりに、お隅は父の残した書物を大事にしまった。母は畑仕事の合間に読み書きを教え続けた。貧しくとも二人で身を寄せ合う日々がしばらく続いた。だが、その平穏は長くは保たれなかった。

萬造が亡くなってから一年が経とうとしていた。その間、お分は女手一つで畑を耕し、木を折り、どうにか娘と二人の暮らしを支えていた。だが、女が一人で支えられる暮らしには限りがあった。田は痩せ、そこへ翌年の春、相兵の家から人が来た。

「萬造殿には車窓の借りが二十俵あるそうな」
「二十俵など、私どもは五俵しか受け取っておりません」
「帳面にそう書いてある」

帳面を見せてくれと頼んでも、「下々の見るものではない」と言われるだけであった。お分は膝をつき、額をつけた。「うちの人が数えたものがございました。あの算盤さえあれば分かります」
「そのようなものはない」

使いの者はそう答えると、一つ告げた。「お分殿が屋敷へ入り働けば、借りをなかったことにしてやろう」
「私が奉公に出れば良いのですか?」
「娘まで連れて来いとは言われておらぬ」

お分は長いこと黙っていたが、やがて立ち上がった。「参ります」。その声には諦めではなく、娘を守るための硬い決意があった。使いの者はそれ以上何も言わず、屋敷への道だけを告げて帰っていった。お分はその晩、娘の寝顔をいつまでも見つめていた。桜の花はとうに散り、青葉の茂る頃であった。

その年、お分は相米の屋敷へ入った。七つのお隅は里のに預けられた。朝、お分は娘を強く抱いた。

「お隅、飯をよく食べ、具合が悪くなれば隣のおばさんに言いなさい。父上に教わったことと、残された書物を大事にするのだよ」

お分の声が震えた。「母を探すな。どこにいようと探すな。約束しなさい」
お隅は首を振った。「約束はいたしません」

その言葉にお分は驚いたように娘の顔を見た。だが、それ以上叱ることはしなかった。お分は娘を強く抱き、そのまま立ち上がって歩いていった。振り返らなかった。七つのお隅はその後ろ姿をじっと見送った。母の背中が村の角を曲がって見えなくなるまで、その場を動かなかった。里の女将が背後からそっと肩に手を置いたが、お隅は振り返らなかった。

それから三年、お隅は里の畑仕事を手伝いながら育った。母のことを思わぬ日は一日もなかった。屋敷へ入ってからの日々、お分は声を立てず、目立たぬよう、ひたすら感情を殺して働いた。それが娘をいつか取り戻すための唯一の道だと信じていたからである。だが、その願いはお隅が屋敷に来た日、思いもよらぬ形で試されることになる。

それから三年が経った。月は静かに、しかし確かに流れていった。十歳になったお隅は、相米の屋敷へ言いつけとして迎えられた。相手は相米の亡き兄の忘れ形見、十七の直次郎であった。縁談を結んだのは相米自身であった。里に人をやり、こう言わせたという。

「萬造の娘の縁談がまだ決まっておらぬそうな。うちにはちょうど釣り合いがある」

里の者は驚いた。「あちらの若旦那は障がい者と伺っておりますが、それに十歳ではあまりに幼うございます」
「幼くて何が悪い。大きくなりながら覚えれば良いことよ」

相兵の一存に逆らえる者は村になかった。里はそれ以上何も言わず、話を受け入れた。相米には相米なりの見込みがあった。十歳の幼子ならば、まだ物事の善悪も知らず、文字も読み書きも知らず、父が何を調べていたかも知らぬはずだ。それにしても、いずれよそで妙な噂を耳にするよりは、自分の目の届く場所に置いておくに越したことはない。そう考えたのである。相米にとってそれはほんの小さな手打ちのつもりであった。

屋敷の奥には代々の位牌を祭る祠があり、朝夕に線香の匂いが漂っていた。お隅と直次郎の部屋は、一つの襖で隔てられ、隣合っていた。夜になると、その襖越しにお互いの息遣いが聞こえるほど静かな屋敷であった。屋敷に来た初めの晩、お隅は襖越しに声をかけた。

「私、お隅と言います」

しばらく返事がなかった。
「直次郎だ」

ようやくそう返ってきた。お隅はその名を繰り返した。
「直次郎様」

襖の向こうで直次郎はしばらく目を閉じた。この屋敷で己の名を呼んでもらったのは、いつ以来であったか。

直次郎は痩せた若者であった。色あせた着物を着て、滅多に口を開かなかった。相米はいつも「あの子」と呼び、名を口にすることはなかった。直次郎は相米の亡き兄の子でありながら、この家では影のように扱われていた。幼い頃に両親を失い、頼れる者もないまま、この屋敷の片隅で育った身の上であった。奥座敷の隣にある一番良い部屋はいつも開けられたままで、直次郎自身はその隅にすら足を踏み入れなかった。屋敷は広く、廊下は幾つにも曲がり、蔵と炊事場と奉公人部屋がそれぞれ離れて立っていた。お隅は幾日か迷った末に、ようやくどこに何があるかを覚えた。誰もいない廊下を歩くと、板の音だけが響いた。

翌朝、障子越しに柔らかな光が差し込む中、お隅は大広間の膳に着いた。白飯に身の焼き魚、煮物、漬け物が並んでいた。見たこともないほどの品数であった。お隅は膳を見て目を丸くした。

「これ、全部食べていいのですか?」

隣に座った奥方のお菊が笑みを潜めた。相米の正室で、年は三十四であった。この屋敷の奥向きは全てお菊の手のうちにあった。誰が何を食べ、誰がどこに座るか、その一切を取り仕切っていたのはお菊であった。相兵はそれを黙って許していた。相兵の嫡男、金太郎が鼻で笑った。二十歳、体付きがたくましく、常に父の顔色を伺いながらも、弱い者には意地悪であった。

その時、お隅が飯を食べる手を止め、戸口の方へ顔を向けた。座敷の戸は開いており、式を降りた土間の隅に誰かが座っていた。女であった。もめんの着物を着て、髪は木の串で束ね、膝に飯櫃を一つ乗せ、一枚の漬け物だけを食べていた。お隅の箸が膳の上に落ちた。心臓の鼓動が早鐘のように打った。目に映るその後ろ姿を何度も何度も確かめた。

「お母様」

誰もその声に気づかなかった。

「お母様」

二度目は大きかった。座敷の者たちが一斉に顔を上げた。膳の上のものなど目に入らなかった。お隅は土間の縁から女の腕を掴んだ。

「私です。お隅です」

一瞬の静けさが満ちた中、女はゆっくりと顔を上げ、ほんの一瞬お隅を見た。その目の奥に確かな光が揺れた。それから伏せた。

「人違いでございます。私はこの屋敷の下女にございます」

お隅の手が離れた。相兵が奥から静かに声をかけた。

「新入りを驚かせたか。世の中には似た顔の者が多い。それに幼くして母と離れれば、恋しさに幻を見ることもあろう」
「幻ではありません」
「ならば、あの者にもう一度尋ねてみるが良い。違うと申したではないか」

金太郎が横で小さく笑った。その笑いの意味をお隅はまだ知らなかった。だが、後になってそれが人を見下す者特有の笑いであったと気づくことになる。お隅は口をつぐんだ。相兵の言い分は、なるほど正しかった。私の目で見て、私の耳で聞きました。母が違うと言いました。

「席に戻りなさい。飯が冷める」

お隅は席には戻ったが、箸を取らなかった。土間に残された漬物の皿をいつまでも見ていた。

その晩、お隅は台所へ行った。年寄りの下女が竈の前に座っていた。お末と言った。年は六十一。左目が濁っていた。この屋敷に来てから四十年、竈の前に座り続けてきた人であった。誰よりも多くを見てきたはずなのに、誰よりも多くを飲み込んできた人でもあった。

「あの方の名は、お手が止まりました」
「お分と申します」
「うちの母の名もお分です」

お末は何も答えず、両手で顔を覆った。肩が細かく震えていた。

「おばあさん、なぜお泣きになるのですか?」
「煙がしみるのでございます」

お隅が竈を見た。煙は煙はしへまっすぐ抜けていた。

「煙、しみませんよ」

お末は袖で目を拭った。「お嬢様、こ宵いお尋ねになったことは、よそでは二度とお尋ねになりませぬよう」
「なぜですか?」
「尋ねた者が傷つく家だからでございます」

お隅はその意味をまだ知らなかった。ただ、お末の顔を見て、それ以上は問わなかった。台所を出る時、背後から声がかかった。

「お嬢様、一つだけ覚えておいてくださいませ。座というものは、座った者が決めるのではございません。座らせた者が決めるのでございます」

お末の声は低く、しかし芯があった。まるでそれが己自身に言い聞かせてきた言葉であるかのようであった。お隅は頷いた。その時はまだ、その言葉の意味を知らなかった。ただ、大人がよく口にする難しい言葉だろうと思った。

その夜遅く、お隅は奉公人部屋の戸を叩いた。中から何の音もしなかった。

「お母様、私です」

なおも沈黙であった。

「お母様の左手の指に、ほくろが三つございましょう。さっき茶碗を持たれた時、数えました」

そのうち、息をのむ小さな音がした。

「私がお隅だと分かっていて、なぜ違うとおっしゃったのですか?私が何か悪いことをいたしましたか?」

戸は開かなかった。お隅はその前にしばらく座っていた。冷えた夜風が着物を揺らした。やがて立ち上がり、二歩ほど歩いた時、背後で戸の開く音がした。振り返ると、戸が一寸ほど開き、女の顔が覗いていた。

「お嬢様、お戻りください。夜風は冷えます」
「なぜ違うとおっしゃったのか、それだけ教えてください」
「知らぬから、知らぬと申したのです」
「嘘です。お母様、嘘をついていらっしゃいます。私には分かります」

女の手が戸から滑りかけた。震えていた。

「お嬢様、この屋敷では何も尋ねられませぬよ。おばあさんもそうおっしゃいました」
「なぜですか?なぜ何も尋ねてはいけないのですか?」
「お嬢様が私を母と呼べば、お嬢様も同じ座に落とされます。だから、お呼びくださいますな」
「母のそばに座るのが、なぜ悪いのですか?私は土間で飯を食べても構いません。母と一緒に食べれば良いだけです」

その隙間から見える女の顔が歪んだ。そして、戸は静かに、しかし固く閉じられた。中からはもう何の音もしなかった。お隅はその前に座り込んだ。涙は出ず、代わりに何か硬いものが胸に残った。何に対する怒りかも分からぬまま、ただ怒りだけがあった。その頃、中では母もまた感情を殺して座り込んでいた。娘の足音が遠ざかるまで身じろぎ一つしなかった。膝の上には、いつか渡そうと思って渡せずにいた古い櫛が握られたままであった。

翌朝、お隅は変わらず大広間の膳に着いた。だが、今日は飯を三口食べただけで、茶碗を持って立ち上がった。

「どこへ行く?」お菊が尋ねた。
「あちらで食べます」

お隅はすでに縁を越えていた。土間の隅、母の隣に座り、漬け物に手を伸ばした。「私も少しいただきます」
「お嬢様、お戻りください」
「嫌です。お母様がここで食べるなら、私もここで食べます」

相兵がそれを見ていた。箸を持ったまま、何の表情も見せなかった。金太郎が笑った。

「父上、あれをご覧ください。嫁が土間で飯を食うと知れば、世間は何と申しましょう」

相兵は箸を置き、ゆっくり立ち上がり、土間の方へ歩いた。

「新入りを土間にやったか。気に入りました。ならば明日からそこで食べるが良い」

お分が声を上げかけた。「旦那様、台所の者のことは?」相兵は取り合わなかった。それから毎朝、お隅の膳は土間へ出された。飯一膳、汁一膳、漬け物だけ。大広間の膳とは比べ物にならなかったが、お隅は不満一つこぼさなかった。むしろ母のそばにいられることの方が、どんな膳にも勝さると思っていた。土間から見上げる空は、大広間から見るよりも、なぜか広く感じられた。母の隣にいると言うだけで、冷たい土間の床もさほど寒くは感じられなかった。

母は初めの数日、お隅を避けた。台所へ逃げればお隅、井戸端へ逃げればお隅。五日目、母が降参したように訪ねた。

「私がどこへ行けば、追ってこられませぬか」
「追わないところはありません」

二人は土間の端に並んで飯を食べた。言葉はなかったが、その日以来、母は避けなくなった。土間には隙間風が吹き込み、冬はことのほか冷えた。それでも、それから毎朝二人は土間で肩を並べて飯を食べるのが習いとなった。母は多くを語らなかったが、時折り、父の話をぽつりぽつりとするようになった。

「あの人はいつも、人の話をよく聞く人だった」

お隅はそれを聞く父の顔を思い出そうとした。次第に輪郭がぼやけた記憶の中に、確かな温もりだけが残った。

屋敷に来て二か月ほど経った頃であった。お隅はこの屋敷に来てから、夜になるとよく目を覚ました。母のことを思うたびに、胸の奥が締めつけられたからである。その夜も眠れず台所へ降りると、お末が一人座っていた。

「おばあさん、父の算盤はこの屋敷にあるのですか?」

お末の手が止まった。「四年前のことでございます。旦那様が燃やせとおっしゃったものの中に、あの算盤がございました。半ば焼けたところで、私がこっそり火から引き出し、裏の土に埋めましてございます」

お末は立ち上がり、土間の隅の土を手で叩いた。「お嬢様はこれを知れば、二度と後戻りはできません。まだ十歳でいらっしゃいます」
「私は後戻りいたしません」

二人は土を掘った。年寄りの爪の間に土が入り込んだ。お隅も共に掘った。一尺ほど掘ると、油紙に包まれたものが出てきた。木の枠は焼け焦げていたが、玉はいくつか残っていた。かつて父の指がそこを滑らせていた感触を、お隅は思い出そうとした。だが、思い出せるのはただ温かかったということだけであった。それでも、その温もりだけでお隅には十分であった。もう一つの束もあった。父の字で、家の名と数が記されていた。合計二十八俵。その下に六十二俵とも記されていた。お隅の目から涙がこぼれた。

「父上、これがどういう意味かお分かりですか?」
「私には存じません」
「三十四俵が消えているという意味です」

その数の重さにお末が息を飲んだ。年寄りの下女にとっても、それは初めて耳にする恐ろしいほど大きな数であった。

「お嬢様、この話は決してよそにしてはなりません。萬造様も、これゆえに命を落とされたのでございます」

お隅は頷いた。「それでも、私は知らぬふりをいたしません」

お末はその夜、何も言わずお隅の手を握っていた。算盤は油紙に包み、直次郎の部屋の床板の下に隠した。父の書きつけだけは、お隅が自分の部屋へ持ち帰り、襖の下にしまった。

お隅はそれから幾晩も考えた。父が命をかけて数えたものを、このまま土の下に眠らせておいて良いものか。答えは決まっていた。だが、十歳の子供が一人で何をなすべきか、見当もつかなかった。まずは父がしたことをもう一度、最初から始めるほかなかった。誰にも気づかれぬよう、少しずつ、一歩ずつ。それだけがお隅に残された道であった。焦れば、父と同じ道をたどりかねぬ。お隅はそれを幼いなりに肝に命じていた。

夏の日差しが照り付ける中、その年の夏から、お隅は村を回り始めた。寺参り、実家、遊びと、口実は様々であった。相兵は眉をひそめた。「嫁がどこをうろついておるのだ」
「十歳が家にばかりいると、退屈で病気になります」

そうして始まったのだった。村の小道にはいつも同じ景色があった。曲がり道、苔むした地蔵、川辺りの柳。お隅はその道を幾度も幾度も歩いた。最初に訪ねたのは村外れの百姓であった。耳が遠く目が悪く、文字も知らぬ老人であったが、腕は確かで、来る客に縄ないを分けていた。孫を早くになくし、以来一人で暮らしていると聞いていた。お隅が尋ねると、老人は初めは怪しむ顔をしたが、すぐに座を勧めた。庭先で縄を編みながら言った。

「わしの帳面はこれでございます」

差し出したのは縄で、結び目が二つ、その脇に小さな結びが五つあった。

「これで、二月八日に受け取った印にございます」
「どうしてそんなに細かく分かるのですか?」
「文字は知らずとも、勘定はできます」

お隅はそれを算盤に移した。「これをお借りしても?」
老人は驚いた。「値打ちのないものでございますが、世で一番値打ちのあるものです」

お隅はその年の秋、もう一度百姓を尋ねて確かめ、翌年の春にも訪ねて数を確かめ直した。三度目に訪ねた時、老人はもう驚かなかった。

「またでございますか?」
「間違えたくないのです」

老人は笑った。「萬造の所役様も、そういう几帳面なお方でございました」。老人はそれからというもの、お隅が尋ねてくるたび、縁川に座らせ、茶の代わりに瓜を出してくれるようになった。何を話すでもなく、ただ並んで座っている時間が、お隅にとっては貴重なものであった。

お夏という居酒屋の女将、寺の和尚、正右衛門。その他の家にもお隅は同じように通った。それぞれの家に、それぞれの暮らしと苦労があった。お隅はその一件一件に耳を傾け、一つの数字の裏にある一つの暮らしを覚えていった。縄で記した百姓の勘定、棒で記した居酒屋の勘定、柱に刻んだ傷、亀に入れた豆。数え方は違ったが、そのどれもがその家なりの精一杯の知恵の結晶であった。文字を持たぬ者たちが、それぞれの工夫で数を守ってきたのだと、お隅は知った。それは父が生前によく口にしていた言葉と、どこか重なるものであった。読み書きとは、暮らしを守る術の一つだと。

お隅は一つ一つを算盤に移し、夜ごと紙に清書した。夜が更けるたび、行灯の油が尽きかけるまで、二人は算盤を引き続けた。直次郎が灯を近づけて手伝った。手は震えていたが、目は真剣であった。

「なぜ何度も同じ家へ行く?」
「一度切りでは間違いに気づけません。二度、三度と確かめてこそ、証になります」

二年目、三年目と季節が巡る。お隅は同じ家を何度も何度も尋ね直した。和尚はこう言った。

「お嬢様が二度、三度と足を運ばれるので、村の者もこれは下調べではないと知りました」

季節は幾度も巡った。春には蛙が鳴き、夏に日照りが続き、秋に稲が実り、冬に雪が降るたび、お隅は少しずつ背が伸び、言葉遣いも磨かれていった。だが、村を歩く足取りだけは変わらなかった。村の暮らしは相変わらず貧しかった。田の実りは年によって変わり、飢えと隣り合わせの日々が続いていた。だが、お隅が訪ねるようになってから、村人たちの間に小さな変化が生まれていた。誰かが困っていれば互いに助け合う。そんな当たり前のことが、少しずつ戻りつつあった。

直次郎もまた変わっていった。初めは行灯を近づけるだけであった手が、いつしか算盤の玉を弾く手伝いをするようになり、村の名をそらんじるまでになっていた。

「なぜそこまでする?」お隅が問うと、直次郎はしばらく黙り、やがて答えた。
「十三の年、聞こえた声を忘れられぬからだ」

その声には、長年押し殺してきた悔しさが滲んでいた。窓の外では月が雲間から静かに顔を出していた。お隅はそれ以上何も聞かなかった。ただ、隣に座る直次郎の存在が、いつしか大きな支えになっていることに気づいていた。二人の間には、いつしか言葉にせずとも通じる合図のようなものができていた。

ある晩、台所でお末が言った。「お嬢様、直次郎様のお顔つきが、この頃お変わりになりました」
「どう変わりましたか?」
「人らしい顔にでございます」

十歳から十三までの三年は、お隅にとって、一つの季節がまた次の季節へと静かに移り変わっていくような日々であった。表向きは大人しく屋敷の用事をこなす言いつけであり、裏では村を歩き回る子供であった。誰に見咎められても、ただの遊びと言い晴らせるよう、お隅は常に用事を怠らなかった。噂話一つが命取りになりかねぬことを、幼いなりに悟っていたからである。

十二の年の冬、小正月の頃であった。凍てつく道の霜柱を踏みながら、お隅は陣屋への道を急いだ。案内した手代は、かつて萬造と共に村を回ったことのある男であった。年は四十ほど、几帳面な人柄であったが、お隅の顔を一目見るなり、何か思い当たる様子であった。

「あなたは、萬造様の娘御でございますか?」
「はい」

手代は辺りを見回し、声を落とした。「あの方にはよくしていただきました。文字も読み書きの元も、あの方に教わったようなものでございます」

手代は幼い頃、まず左団左衛門ゆえに寺にも通えなかった。それを見かねた萬造が、糸間を見つけては手ほどきをしてくれたのだという。その恩を、手代はずっと胸に留めていた。辺りに人影のないのを確かめると、手代は震える手で蔵の奥から車窓の文の控えをそっと持ち出し、お隅の前に広げた。

「これは他言無用でございます。書き移すだけになさいますよ」

お隅はその場で震える手で、一つずつ書き移した。二十六軒の名と数、合計二十八俵。これがあれば。

「お隅が写すと?」お隅が尋ねると、手代は首を振った。「原本はここに置いておかねばなりません。写しだけをお持ちください」

帰り道、懐に入れた写しの重みが、いつもより確かに感じられた。お隅は頷いた。持ち帰ったのはその写しだけであった。手代はそれからも、お隅が陣屋へ使いに出るたび、さりげなく声をかけてくれた。多くは語らなかったが、その静かな気遣いが、お隅にとって大きな支えとなっていた。

「萬造様の娘が、こうしてお続けになっているとは」

手代はある日、独り言のように呟いた。

三年という歳月をかけて、ようやくその日が来た。十三の春、お隅は最後の一軒を数え終えた。直次郎が見守る中、算盤を三度引いた。三度とも同じ答えが出た。

「二十八俵です」

父が七年前に数えた時も、二十八俵であった。数字は違えど、そこに込められた無念は同じであった。お隅はしばらくの間、算盤の上に手を置いたまま動かなかった。三年という月日の重みが、その一瞬に凝縮されているようであった。

「毎年これほどの差があったとすれば、村の何十もの家が、幾度も冬を越せるほどの米が消えていることになります」

直次郎が両手で顔を覆った。「それを、あの座敷に座る人が」その声は低く震えていた。長年疑いながらも口にできなかった思いが、ようやく形になった瞬間であった。お隅は何も言わず、その肩にそっと手を置き、それから算盤を布に包み、床板の下へ戻した。長い道のりの果てに立っているという実感が、ようやく胸の底に落ちてきた。

十三の春を迎える頃には、お隅の動きに気づく者も出始めていた。台所で交わされる噂話にお隅の名が踊ることが増えていた。その年の夏、相兵が王城となって二十年になる祝いがあった。空は青く晴れ渡り、祝いにはまたとない日和であった。近郷の豪農や名主が集まり、屋敷は朝から賑わった。庭に幕が張られ、膳がいくつも並んだ。二十年という歳月は、相米の力がこの村に深く根を張ったことの証でもあった。招かれた者たちは口々に祝いの言葉を述べたが、その裏で交わされる目くばせの意味を、お隅はもう読み取れるようになっていた。陣屋からも人が来た。お隅は一日、雑用に走り回った。

日が暮れる頃、お隅は相米の前に出た。

「王城様、陣屋へ祝いの品をお届けしましょうか?」
「祝いの品とな。今日は陣屋から大儀ではなく?」
「お礼の品をお送りするのが礼儀ではございませんか?」

お菊が目を見開いた。「この子が、今日はどうしたことか」。いつもと違うお隅の様子に何か違和感を覚えながらも、相兵はそれ以上深くは考えなかった。相兵は少し考え、頷いた。

「私が参りましょうか」

翌朝、お隅は金太郎と共に陣屋へ行った。金太郎が小姓にうたた寝する間、お隅は馬の近くであの手代を見つけ、深く頭を下げて礼を言った。手代は目を伏せたまま、小さく頷き返した。

何事もなく過ぎていく日々に、お隅は少しずつ気を緩めていたのかもしれない。だが、秋の初め、村から戻ると部屋が荒らされ、父の字で記された帳面の束も、陣屋で書き移した控えも、両方とも消えていた。長持の中も下も、全て引っかき回されていた。胸の中で何かが崩れていくような音がした。お隅は走り出した。直次郎が庭に立っていた。顔色が悪かった。

「持って行かれた」
「誰にですか?」
「叔父上に」

お隅が奥座敷の方へ駆けた。息が上がっていた。相兵が火鉢の前に座り、その二つの紙の束を手にしていた。焔に照らされたその横顔は、いつもと変わらず穏やかであった。

「王城様」
相兵が顔を上げた。「来たか」。その声にいつもの落ち着きがあった。
「それは私のものです」
「これは萬造の書いたものと、陣屋の品を移したものだ。盗んだと知れば私が咎めを受ける。だから始末してやっておるのだ」

二つとも火にくべられた。黒焦げの灰になった。三年の月日、幾度も歩いた道、幾度も確かめた数が、一握りの灰となって崩れていった。お隅は膝から崩れそうになるのをじっとこらえた。だが、諦めるという考えは、なぜか一度も頭をよぎらなかった。

「なりません」

お隅が駆け寄ったが、金太郎に腕を掴まれた。振りほどこうとしたが、力の差はどうにもならなかった。

「それは私の父が命がけで数えたものです」

お隅は叫んだ。相兵の顔から、あの柔らかさが消えた。

「誰が、そのようなことを申した?」
「私が数えました。父が数えかけたことを引き継ぎました」

相兵はしばらく黙り、それから静かに言った。

「縁の届けを取り下げ、奉公人として届け直す。金太郎。この者を今日から土間に置け」

その声には怒りも高ぶりもなかった。ただ、決められたことを告げるだけの平坦な響きがあった。それが却って、お隅の胸を凍らせた。この人は人を裂くことを、まるで飯を食うほどのこととも思っていない。そう、お隅は悟った。恐ろしいのは怒鳴り声ではなく、この静けさの奥であった。

「叔父上、この人は私の言いつけでございます」

直次郎が言いかけたが、相米は取り合わなかった。

「人とも土間へ出しておけ」

季節は秋の初めであった。その日から、お隅は土間の隅で眠るようになった。母の隣であった。冷え込む夜には、互いの体温だけが頼りであった。冷たい夜風が忍び込むまで、二人は身を寄せ合った。夜、母がお隅に問うた。

「全部燃やされました。父の書きつけも、写しも」
お隅は体を丸めた。母がその背に手を置いた。

「お隅、母は六年、お前の名を呼べなかった」

お隅が言いつけとして屋敷へ迎えられた晩、旦那様が私を呼び、こうおっしゃった。「あの子がお前を母と呼ぶ日には、あの子も奉公人に乗せてやろう」と。お隅の名を出すことも、母と名乗ることも許されなかった。

「それで、知らぬと申したのだ。私が母と名乗らなければ、お前は言いつけとして部屋で飯を食べられようと思ったのだ」

お隅は母を抱きしめた。「お母様、すまないなどとおっしゃらないでください。お母様は私を守ってくださったのです」

その夜遅く、土間の隅に座っていると、お末が粥の椀を持ってやってきた。お末は椀を差し出しながら、静かに問うた。

「お隅様、お忘れではございますな。座は座った者が決めるのではなく、座らせた者が決めるという言葉を」
「忘れておりません。今、分かりました」

お隅は目を閉じ、記憶の糸をたどるように、一つ一つそらんじ始めた。

「百姓は二俵と、正右衛門は五俵と、他平は一俵と、お夏の店には三俵と」

声が次第に落ち着いていった。お末が両手で口を覆った。

「髪は燃えましたが、ここは燃えませんでした」

お隅は自分の額を指した。

「私も一つだけ、隠しておいたものがございます」

お末は懐から古びた紙切れを取り出した。

「旦那様が手代に渡されたものにございます。数を書き換えよとの走り書きで、旦那様の指跡がございます。後始末を片付ける折に拾いましてございます」

「なぜ今まで黙っておられたのですか?」お隅が尋ねると、お末は静かに答えた。

「時が来るまでしまっておくのも、役目のうちでございます」

その秋、新しい大官が着任した。江戸から来た三十過ぎの若い役人で、着任して間もなく帳を開けさせ、帳面を洗い直すと言い出した。相兵が慌てると、大官は後を追うように言った。

「二十年見てこられたなら、よくご存知でございましょう。ならば、お伺いすることがございましたら、お尋ねいたしましょう」

夜に紛れて、大官の手の者が一軒一軒を尋ね、二十六件それぞれから話を聞き取って回った。相兵の耳に入らぬよう、ことは静かに進められた。他の誰も、それに気づかなかった。その後、寺の和尚が代表して目安を差し出した。それから間もなくのことであった。冷たい朝霧が村を包んでいた。相兵は陣屋に呼び出された。

「そなたの家の者にも、聞きたいことがある」

まず、お隅が呼ばれた。十三であった。

「私が数えました」

相兵が横から静かに言った。「幼子の戯言にございます」。その口調はあくまで穏やかであった。

「証拠はあるか」

お隅は一瞬だけ言葉に詰まったが、すぐに顔を上げた。

「燃やされました。王城屋様が焼かれました」

大官はしばらくお隅を見つめ、そのまなざしの奥に何かを押し量るような色を浮かべた。それから、控えていた手代に合図した。あらかじめ聞き取っておいた控えと、お隅の言葉とを読み合わせるためである。部屋の隅には筆と紙を構えた手代が控え、障子の光がお隅の小さな影を畳の上に落としていた。相兵は脇に座り、表情を変えずにこれを見ていた。

「百姓、二俵」

お隅が言うと、手代が控えを読んだ。「縄の結びと一致いたします」。大官が帳面を改めさせた。「一俵と記してある。二との差は一俵であった」。一件の、たった一度の受け取りだけでも、これほどの開きがあった。

「正右衛門、五俵」
「居酒屋の勘定と一致いたします。帳面には一俵」
「他平、一俵」
「控えと一致いたします。帳面には二俵」

残る二十三件についても、お隅は一つずつそらんじ、手代がその都度、控えと帳面を読み合わせた。声を上げる者はなかったが、皆が固唾をのんでその読み合わせを見守っていた。百姓、寺、百姓、百姓、又作、吉郎、民事。村の住人たちの名が次々と読み上げられていった。一つの名の後ろに、一つの暮らしがあった。全て数が違っていた。合わせて配られた分は二十八俵。帳面に記されていたのは六十二俵。差は三十四俵であった。座敷の中に、しばしの沈黙が流れた。誰もが次の言葉を待っていた。障子を通る風の音だけが響いていた。手代の声が読み上げるたび、部屋の空気が少しずつ張り詰めていくのが分かった。相兵が言った。

「手代の過ちにございましょう。手代が怠けて数字を映し違えたのでございましょう」

相兵はここでも声を荒げなかった。あくまで静かに、筋の通った言い分を通そうとした。それが二十年の間、村を支配し続けてきた相兵のやり方であった。声を荒げずとも従わせる術を、相兵は誰よりも心得ていた。だが、大官が帳面を書いた手代を見て、その平坦さに初めて罅が見えた。

「私が書き写しました」

手代は膝をつき、体を伏せた。声は枯れ、体は小さく震えていた。

「私は配られた通りに印す時、王城様が別の帳面を渡されました。その通りに移しただけにございます」

部屋の空気はもはや張り詰めるを通り越し、切り裂くほどであった。誰もが次に何が明かされるのかを、息を詰めて待っていた。そこへお末が呼ばれた。腰を折り曲げながらも、足取りはしっかりしていた。

「懐から紙切れを取り出しました。旦那様の指跡にございます。数を書き換えよとの走り書きにございます」

大官がそれを改め、相兵の顔を見た。

「これは、そなたの筆であるか」

相兵は答えなかった。ただ口元がわずかに震えただけであった。長年、村の誰も見たことのない表情であった。お隅はその横顔をじっと見つめた。かつて自分を怯えさせたあの静かな声が、今はもう何の力も持たぬように思えた。お隅が続けた。

「七年前、私の父がこの勘定を先に数えました。算盤を持って王城様の元へ参り、翌朝、亡き骸で運び出されました」

陣屋の外で控えていた直次郎が呼ばれた。ここまで長い道のりであった。声はまだ固かったが、目はもう逸らさなかった。

「あの夜、声を聞きました。二十八俵なのに六十二俵とは、これはどういう勘定だと。私は十三でございました。十三で言えなかったことを、今、申し上げます」

その一言を口にするまでに、七年もの月がかかった。だが、その七年は決して無駄ではなかった。お隅という小さな同志を得て、ようやく声を上げる勇気を持てたのだから。しばらくの間、誰も口を聞かなかった。やがて、大官が手代に命じた。

「王城を差し控えさせよう。この件、私の一存では裁けぬ。上申を建てる」

その場にいた誰もが、長年の重しが取れたような思いであった。相兵は静かに立ち上がった。手に両脇を固められながらも、その足取りは乱れなかった。連れて行かれながら、一度だけ振り返り、お隅を見た。何か言おうとしたが、結局何も言わなかった。

その後さらに、あの夜、萬造に酒を勧めた奉公人が呼び出され、震える声で、王城の命により薬を混ぜたと自ら白状した。長らく胸に抱えてきた重荷をようやく下ろしたような声であったという。この知らせはまたたく間に村中に広まった。誰もが、長年抱いていた違和感の正体を、ようやく言葉にすることができた。秋が過ぎ、木々の葉がすっかり落ちる頃になっても、村では上からの沙汰を待つ日々が続いた。誰もが不安と期待の入り混じった思いで、その知らせを待ち続けた。

冬、上の沙汰が下った。相兵は車窓の米を横領した罪と、人を死に至らしめた罪により、死罪となった。金太郎もまた、横領を運び出し、川向こうで密かに売りさばいていたことが明らかとなり、遠流を申し渡された。お菊は屋敷を追われた。奪われた米のうち、残っていた分は村人に返還され、田を取られていた家は地面を取り戻した。また、直次郎の母の人別帳の記載が、十四年前に書き換えられていたことも明らかになった。直次郎の母の人別帳には、正しくは「死去」と記されていたのである。長年書子として扱われてきたが、ようやく覆された瞬間であった。家は直次郎の元に戻った。

村人たちは、それまで口にできなかった萬造の名を、ようやく大声で語れるようになった。長い冬が開け、雪の下から新しい草が顔を出す頃には、村の空気も少しずつ変わっていった。長い冬が終わり、村の田にも青い芽が顔を出し始めていた。春であった。裏山の桜が誇り始めていた。

屋敷の広間に、膳が整えられた。白飯と身の焼き魚と、漬け物が並んだ。お隅が庭に向かって呼びかけた。

「お母様」

土間に女が立っていた。もう奉公人ではなかったが、それでも式の前で足を止めた。

「お隅」
「あの座は、お母様が座りたくて座ったのではございません。座らせた者は、もういません」

お隅が庭に降り、母の手を取った。朝の光が土間にまで差し込んでいた。かつて、この同じ場所で母は一人、膝を抱えて座っていた。あの日から、数えていくつの季節が巡ったことか。冬の寒さも、夏の暑さも、幾度となくこの土間で耐え忍んできた母であった。

「どうぞ、お入りください」

母の手が震えた。「怖い」
「何がでございますか?」
「あの座に座って良いものか、分からぬ」
「私がお座らせいたします」

母は娘を見て、しばらくその場に立ち尽くした。六年という歳月が、その顔にも刻まれていた。頬はこけ、髪にも白いものが混じっていたが、その目だけは昔と変わらぬ優しさを湛えていた。それからようやく足を踏み出し、式をまたいだ。土間から広間へ。たった一段の高さであったが、母にとっては六年分の重さがあった。その一段を踏み出すのに、どれほどの勇気が要ったことか。お隅にも分かるようであった。膳の前に座り、飯椀を手に取り、一口食べた。それから箸を置き、両手で顔を覆った。

「泣いておられるのですか?」
「泣いておらぬ」
「お泣きでございましょう」
「泣いておらぬ」

二人は顔を見合わせて笑った。お末と直次郎がそれを見ていた。

「おばあ様、お入りください。おばあ様があの紙切れを隠しておいてくださらなければ、今日はございませんでした」

お末も式をまたいだ。外では鳥が鳴き、遠く畑の方から鍬を打つ音が聞こえていた。四人が向かい合って飯を食べた。膳には、漬け物が一皿添えられていた。母がそれを見て尋ねた。

「これは、なぜお好きでございましょう」

母は微笑んだ。窓の外では、桜の蕾が膨らみかけていた。三年

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