深夜十一時、グループ本社三十八階の戦略会議室。総額三兆円の物流インフラ事業を巡る入札の最終調整が、今まさに行われていた。
戦略本部長・黒田周一が指を指した先にいたのは、色の合わない作業着を着た清掃員、堀口佐奈だった。机の上には、咲夜、ゴミ箱へ捨てられた一枚の工程表が広げられていた。
そこには、佐奈が引いたわずか三本の青い線が残っていた。
「代表、こんな女の落書きを信用するんですか? 社員の気まぐれで三兆円を失ったら、誰が責任を取るんです?」
「失礼しました」
誰もが佐奈が謝って引き下がると思っていた。だが佐奈は、怯えることも言い訳することもなかった。
静かに一礼すると、工程表を見つめたまま席へ戻ろうとした。
「おい、逃げるのか? お前の線に何の意味がある?」
その言葉に、佐奈の足が止まった。
「この三本を消せば、この案件は最後の審査で落ちます」
「なんだと?」
代表取締役・剣持が工程表を手に取った。
「なぜあなたにそれが分かるんですか?」
佐奈は答えず、黒田を一度だけ見た。七年前にも、同じ男の元で、同じような工程の異常を見ていたからだ。だがこの時はまだ、この件と七年前に葬られた事件が繋がっているとは知らなかった。
ゴミ箱から拾われた三兆円の工程表が、七年前に隠蔽された嘘を暴く最初の手がかりになることを。そして、落書きと笑った三本の青い線が、黒田自身が隠し続けた過去を暴くことになることを。
これは、「ゴミだけ拾ってろ」と笑った男が、自ら捨てた三兆円の工程表によって、七年前の嘘まで暴かれていく物語である。
時は、その前夜の戦略会議室に遡る。
深夜十一時、剣持は三兆円の物流インフラ事業の最終工程表を前にしていた。
「これで勝てると思っているのですか?」
「現在の制約の中では、これが最も現実的な提案です」
「現実的という言葉は、なぜいつも敗北の直前に使われるのですか?」
「無理に期間を短縮すれば、審査側から危険と判断される恐れがあります」
「では、勝率は五十パーセント以上ですか?」
「はい」
「五十パーセントの案に三兆円は投じられません。明朝までに作り直してください」
剣持は工程表を丸めてゴミ箱へ捨て、席を後にした。最後に残った黒田は、丸められた紙を見つめた後、無言で扉を閉めた。
約一時間後、清掃に入った堀口佐奈がその紙を見つけた。黒いゴミ袋の縁にかかった工程表を、そのまま押し込めようとして、手が止まった。
安全性の検証より先に、資金調達の合意書を提出する日程になっていた。
「これ、順序が逆になっている……」
わずか一日の差だったが、審査では決定的な矛盾になり得た。七年前、同じように誤りを正そうとして、濡れ衣を着せられた記憶が蘇る。
全てを失って以来、自分の名前が残る書類を避け、能力を示せば標的にされると学んできた。それでも、この書類を捨てれば、何百人もの社員が準備してきた計画が破綻する恐れがあった。
佐奈は青いペンを取り出し、日付を消し、検証と合意書の順序を入れ替えた。さらに、関連する日程も連動して修正すべきだという注記を書き加えた。
その時、携帯電話を取りに戻った剣持が会議室へ入ってきた。
「何をしているのですか?」
「このままでは敗戦すると思い、日程を直しました」
「あなたの役職は?」
「清掃の委託スタッフです。堀口佐奈と申します」
剣持は険しい表情で、さらに問い詰めた。
「安全性の検証が終わる前に、資金調達の合意書を提出する順序になっています。このままでは審査で矛盾を指摘されます。後段の実行機関も、契約条件を満たせなくなります」
「清掃の仕事をしながら、そのような知識をどこで身につけたのですか?」
「以前、似たような業務を見たことがありました」
「どこでですか?」
「もう、関係のない話です」
剣持は担当者へ確認を取った。
「代表、堀口の指摘が正しいです。関連日程の変更も必要です」
電話を切った剣持は、青い線を見つめた。単なる一日のずらしではなく、工程の時期まで連動して修正されていた。
「ご確認いただけたのでしたら、私は失礼いたします」
「待ちなさい。明朝八時、この会議室に来てください」
「私は会議に出る立場ではありません」
「今夜の指摘が正しかった以上、確認したいことがあります」
剣持の疑問は一つだった。なぜ専門部署が見抜けなかった異常を、清掃員の佐奈が見抜けたのか。
翌朝、佐奈の修正が正式に正しいと確認されると、剣持は彼女を日程検証へ参加させた。
「受けられません。私は清掃の委託スタッフです。正規社員でもない者を機密案件に入れるのは問題です」
「正規社員が見落とした欠陥を、彼女は発見しました。まず、その事実からしっかり検証しましょう」
その時、佐奈と黒田の視線が交わった。
「お二人は、本当に初対面ですか?」
「はい」
「私も存じ上げません」
だが剣持には、そうは見えなかった。剣持は追求をやめ、佐奈に臨時の入館許可を与えた。
工程表の片隅には、左が長く右が短い二本の車線が残っていた。佐奈だけが、その癖を黒田の古い印として覚えていた。
工程表を再検証すると、佐奈はさらに四箇所の懸念を発見した。
「この不自然に倒された日付を承認したのは、黒田本部長です」
「承認はしましたが、原案は実務チームから上がったものです」
「原案と更新履歴を保存してください」
責任を先送りする言葉に、佐奈は七年前と同じものを感じた。
午後、発注者側から条件明確化の公文書が届いた。新たな条件を適用すると、従来の工程では最低四日の追加期間が必要だった。
「代替案はあるか?」
「日程をさらに圧縮するしかありません」
「期間を削るのではなく、独立した検証を並行処理してください。財務の精査と承認申請は、列を分けて進められます」
「そんな単純な話なら、なぜ我々が気づかなかったのですか?」
「複雑に作り上げすぎていたからです」
検証してみると、制度を保ったまま四日以上短縮できた。
もはや誰も、彼女の指摘を偶然とは考えていなかった。
剣持は佐奈の過去を調べ、建設コンサルティング会社「正門企画」に辿り着いた。七年前、入札資料漏洩疑惑で自主解散した会社だった。当時の役員名簿には、黒田周一の名があった。
その直後、秘書が慌てて駆け込んできた。
「代表、工程表が再び書き換えられています」
「誰のアカウントだ?」
画面に表示されていたのは、堀口佐奈の名前だった。
佐奈が地下二階の倉庫で片付けをしていると、剣持から電話が入った。
「会社の外へ出ないでください。工程表が再び書き換えられ、操作履歴にあなたの名前が残っています」
「私は午後の会議以降、ファイルを開いていません」
七年前と同じ言葉が、佐奈の記憶を刺した。記録が彼女を犯人にする。その構図まで、同じだった。
三十八階へ戻った佐奈を待っていたのは、自分の名前が表示されたアクセス履歴だった。
「工程表が書き換えられた時間、どこにいましたか?」
「地下二階です。午後の会議以降には触れていません」
入館記録にも、佐奈が地下二階にいたことが残っていた。一方、工程表は社内ネットワークから書き換えられ、操作には佐奈名義の臨時アカウントが使われていた。
「そのアカウントは、共用端末からも使用できます。現時点では、操作した人物までは特定できません」
「ならば、堀口さんは直ちに外すべきです。これ以上の情報漏洩は防がなければなりません」
「もう漏洩と決めるのですか?」
その言葉を聞いた瞬間、佐奈の中で七年前の記憶が蘇った。
「七年前も、同じでした。記録だけで疑われ、最後は情報漏洩の責任を着せられました」
「七年前とは?」
「正門企画です。私は入札工程と事業性の検証を担当していました。そして、黒田本部長は私の直属の上司でした」
剣持の視線が黒田へ向いた。
「堀口さん、お二人は初対面だと言いましたね」
「過去の関係をこの案件に持ち込む必要はないと判断しただけです」
「では、七年前のこともここで確認させてください。私が資料を流出させたという直接的な証拠は、本当にあったのですか?」
黒田はすぐには答えなかった。
「……少なくとも、断定できる証拠はありませんでした」
「証拠がないと分かっていて、彼女に責任を負わせたのですか?」
「会社を守るには、誰かが責任を取る必要がありました」
「その結果、会社は潰れ、私は七年間、専門の仕事から離れることになりました」
七年前は、佐奈のアカウントに残った記録が彼女を犯人に仕立てる材料になった。今、同じように佐奈の記録が目の前に残されている。
「今回のログも含め、会社側で事実を調べます。あなた一人に潔白を証明させるつもりはありません」
「でも、疑われる側に立たされた時点で、私には七年前と同じです」
佐奈は臨時の入館許可を机の上に置いた。
「ここまでにさせてください」
そう告げると、佐奈は会議室を後にした。
佐奈が去った後、剣持は改ざん前後の工程表を並べ直した。すると、一つの不自然な点が浮かび上がった。
佐奈が提案したのは、独立した検証を並行させて工程を短縮する方法だった。ところが、佐奈名義で行われた改ざんは、その並行工程をわざわざ直列へ戻していた。
「これでは、彼女が自分で作った改善案を自分で潰したことになります。しかも、一目で破綻する。表面上は期限に間に合うよう作られている」
最初の審査では異常に気づかれず、後になって小さな矛盾が積み重なる。そんな改ざんだった。
その夜、佐奈は自宅で、七年間開けることのなかった正門企画時代の資料箱を取り出した。現在の手口に、どうしても覚えがあったからだ。
古いノートをめくると、黒田が当時語っていた言葉が記されていた。
「一気に破綻すれば人は疑う。小さな誤差が積み重なっても、最後まで稼働する計画でなければならない」
さらに、当時の工程図を確認した佐奈の手が止まった。図面の片隅に、左が長く右が短い二本の車線が残されていた。それは、現在の工程表にも残されていた、黒田特有の印と同じだった。
もちろん、二本の車線だけでは黒田が改ざんした証拠にはならない。だが七年前と現在で一致しているのは、印だけではなかった。小さな矛盾を散りばめ、すぐには破綻させず、最後に敗北へ導く。その手口まで酷似していた。
翌朝、提出期限が迫る三十八階の会議室に、佐奈は再び姿を表した。
「戻ってきたのは復帰するためではありません。確認してほしいことがあります」
佐奈は七年前の工程図と現在の工程表を並べ、二本の車線を指で示した。
「この印だけなら、ただの偶然です。これだけで誰かを犯人にはできません。でも、工程の崩し方まで七年前と同じです」
「何を調べれば確認できますか?」
「私のアカウントではなく、書き換えられた項目の大元を追ってください。日付だけではなく、計算式の構造まで同じなら、どの部署のテンプレートから複製されたのか分かるはずです」
剣持はすぐにセキュリティ部門へ、原本となったテンプレートと更新履歴の追跡を命じた。
追跡の結果、改ざんデータの元は戦略本部の内部テンプレートだった。
「佐奈のアカウントで修正されたファイルは、新規作成ではなく別テンプレートからの複製でした。その原本は、戦略本部の内部サーバーから複製されたものです」
「戦略本部の資料が戦略本部にあるのは当然でしょう。作成者と更新履歴まで調べろ。今なすべきは、犯人探しではなく提出を完了させることです」
「何者かが工程に手を加えている以上、原因を放置したまま提出するわけにはいきません」
同時に、佐奈は改ざんの目的を見抜いた。
「完全に破綻させるのではありません。最初の審査か最終評価で落とすよう作られています」
「自然な失敗に見せるためか?」
「はい。失敗の原因を、市場環境や日程のせいにできるようにするためです」
剣持は戦略本部の元データを凍結した。佐奈は工程全体を組み直し、削れない検証と並行できる工程を分離した。
「私たちが見落としていたのは、記述そのものではありません。順序です。速さではなく、途中で破綻しない計画を示します」
「直前に期間を伸ばすのですか? 競合は短い工期を提示してくるはずです」
「先方が恐れるのは価格ではなく、中断です。履行できることだけを約束します。変更しよう」
その決定が下されると、会議室全体が一斉に動き始めた。財務は収益構造を、技術は並行工程を、法務は条件付き契約を急いだ。佐奈は全体の日程に新たな矛盾が生じないかを確認し続けた。
その間に、問題のテンプレートが黒田の管理端末から生成されたことが判明した。ただし、黒田本人が直接入力したという決定的な証拠までは残っていなかった。
「それで私を犯人にするおつもりですか?」
「まだ断定していません」
「七年前の堀口佐奈とは、随分対応が違うのですね」
「だから、また同じことを繰り返したのですか?」
「私は、この無謀な事業を止めようとしただけだ」
「だから、自然に敗戦するよう工程を歪めたのですか?」
「会社を守るためです」
「七年前も同じ言葉でした。私が流出させていないと分かっていたはずです」
黒田は長く黙った。
「……少なくとも、私が犯人だという確証がなかったことは、分かっていたはずです」
「分かっていた」
会議室が静まり返った。彼が初めて、過去の確信を認めた瞬間だった。
「しかし、あの時私は、会社を存続させることが何より重要だと判断したのだ」
「その結果、会社は消え、私は七年間仕事を失いました。それが、あなたの選択の結果です」
「本部長は、提出が終わるまでこのフロアに待機してください。総務が退室を案内します」
退室へ下がる直前、剣持は佐奈に深く頭を下げた。
「私が、あなたに同じ傷を再び負わせるところでした」
「負わせそうになったのではなく、負わせました」
「その通りです」
「今後、疑念が生じた時は、事実を一緒に検証しましょう。あなた一人に証明させる真似はしません」
「それでは、まずはこの案件を終わらせましょう」
締め切りまで四十分。最終案は完成したが、財務上の調整が一つだけ残っていた。
「総収益が認証範囲内なら、配分を調整すれば対応できます」
再検証は数分で通った。
「異論はありませんか?」
「ありません。最後に決めるのは代表です」
「では、送ります」
締め切り十一分前。最終提案書が送信された。
しかし、全てが終わったわけではなかった。
「代表、追加の確認が取れました。剣持本部長も同席させてよろしいですか?」
数分後、黒田が戻ってきた。
「個人認証端末から、問題のテンプレートが生成されたこと。複数回にわたり、計算式が意図的に書き換えられた形跡があること。さらに、最初の変更時期は、入札の公募が発表される前の内部検討段階からであったこと」
「ログから、黒田本部長の指示で修正した部下のアカウントが特定されました。『懸念事項の反映について、代表のリスクを現実的に反映させるため、過激に見える工程を調整するよう』とあります。ここの数値は、こちらで再統合するとあります。送信元は、黒田周一の社内アカウントです」
読み上げが終わると、誰も弁護の言葉を発しなかった。
「それは、部下の独断を防ぐための監督指示です。改ざんの指示ではありません」
その時、扉の外で控えていた若い社員が、警備に伴われて入ってきた。
「あなたが修正を実行したのですか?」
「はい。計算式の差し替えと直列化への戻しは、私が行いました。ですが、どの項目をどう歪めるかは、本部長の指示でした」
「黙れ! お前は自分の責任を私に転嫁するつもりか?」
警備が黒田の方を向いた。
「転嫁ではありません。メールにも口頭でも、はっきりとそう指示されました。私は本部長の指示に従っただけです。計画を破綻させる目的までは知らされていませんでした」
さらに、臨時アカウント発行の申請経路も判明していた。
「堀口佐奈名義で使われたアカウントは、戦略本部経由の臨時申請でした。発行申請の起案者は本部長直属の窓口で、承認欄の一次確認は黒田本部長です」
「本人が申請した痕跡はありません。ログに佐奈の名前が残ったのは、経路そのものが黒田本部長を経由していたからです」
冤罪の矛盾が、ここで初めて一本に繋がった。
証拠は揃い、逃げ道は残されていなかった。
「黒田周一、これよりあなたを本案件及び関連データ改ざんの調査対象とします。この会議室からの退去を仮に命じます。懲戒手続きを直ちに開始し、結果は取締役会へ正式に報告します。会社に生じた損害については、損害賠償を検討します。犯罪の成立が認められる部分については、刑事告発も検討対象とします」
「代表、それは手続きを踏みすぎです。まだ最終の処分決定ではないでしょう」
「だから仮の退去命令です。処分の確定は、調査と取締役会に委ねます。ただし、今夜以降、あなたは戦略本部の端末にもサーバーにも触れません」
「本部長の社員証と支給PCを、今回収してください。画面は即時ロック。私物の持ち出しは、総務立ち合いのもと最小限に限る」
総務が社員証を受け取り、警備がノートPCを開かせた。画面が一瞬で暗転した。処分が書類の話ではなく、今この場で始まっている実感が、会議室を満たした。
佐奈は数日前に剣持が丸めて捨てた最初の工程表を、黒田の前へ差し出した。
「これが、代表が捨て、私が拾って直した紙です。七年前も今日も、あなたは記録の上だけで人を測りました。今夜は、その記録があなた自身を指しています」
「だからと言って、私を晒し者にするつもりか」
「晒したいのではありません。ただ、逃げ道のない形で事実を残してほしいだけです。人にゴミだけ拾っていろと言う前に、ご自分が捨てようとした事実を見るべきでしたね」
「今回は、最初から人を切り捨てるような真似はなさらないでください。指示に従わざるを得なかった人間も、他にもいるかもしれません。本部長の責任は追求すべきです。でも、部下まで、かつての私のように追い詰めないでください」
「最後まで公正に調査します。部下については、指示系統と認識の範囲を切り分けて扱います」
黒田はそれ以上、言葉を返せなかった。社員証もPCもないまま、警備と総務に挟まれるように会議室を後にした。
静まり返った会議室に、最初の工程表が透明なファイルに納められていた。青いペンで佐奈が引いた三本の線は、今も鮮やかに残っていた。
「あの日、私がこれを捨てていなかったら、どうなっていたでしょうか?」
「その時は、私がただ掃除して立ち去っていただけです。そして、誤った提案書を提出していたでしょう」
提案書の最終確認には、戦略検証担当・堀口佐奈の名前が刻まれていた。彼女はその名前をしばらく見つめ、削除してほしいとは口にしなかった。
最終提出の後、結果発表まで数日あった。佐奈は再び清掃の勤務表へ戻った。
「プロジェクトには、もう必要ありません。結果が出るまでは、本来の持ち場に戻ります。私は結果ではなく、自分がどんな選択をしたのかを、まず自分の中で整理したいのです。失敗すれば私が間違っていたと非難され、成功すれば急に天才だと持て囃される。どちらも望んでいません」
「調査の結果は、決して隠蔽しません。誰にとって不利でも、原則通りに対処します」
社内調査は時間を要した。剣持は最初から黒田を即座に処分しなかった。関連する全ての記録と指示の系統を、正確に把握する必要があったからだ。復元された電子メールや決済履歴から、事実が裏付けられた。
黒田が戦略チームの部下二名に対し、日程の算定基準を複数回にわたり変更するよう求めていたのだ。ただし、その部下たちは、計画を破綻させる意図までは知らされていなかった。
懲戒委員会に呼び出された黒田は、言い逃れできなくなった。
「私はこの事業を止めるべきだと考えていた」
「それで、正当な手続きを取る代わりに、書類を改ざんしたのですか?」
「代表には何度も危険性を進言しましたが、聞き入れてもらえなかったのです」
「ならば、取締役会に正式に反対意見を上申すべきでした。改ざんする権利は生まれません」
懲戒委員会は、黒田が今回の案件を意図的に歪めた責任を精査した。正門企画でも、証拠がないまま、さらに彼女に責任を負わせた事実が、正式に記録された。
七年前の事件について、グループに法的な結論を下す立場にはなかったが、事実は正式に記録された。それだけで全ての過去が帳消しになるわけではなかった。しかし、少なくとも彼女が信じてきた記憶が、決して独りよがりの妄想ではなかったことが証明された。当時の元社員への聞き取りでは、問題発覚直前に佐奈が社内日程の異常を指摘していたことも裏付けられた。
黒田は戦略本部長を解任され、調査結果は取締役会へ正式に報告された。その後、懲戒処分によってグループを去り、名刺も社員証も、三十八階のアクセス権も全て失った。
私物を整理して地下駐車場へ向かう途中、黒田は佐奈とすれ違った。
「謝罪したところで、何かが変わるわけではないな」
「変わりません。それでも、口にすべき言葉があります」
「あの時、君ではないと分かっていながら切り捨てた。すまなかった」
「失われた年月は戻りません。ですが、その過去のために自分の人生を無駄にはしません」
佐奈は彼の横を通り過ぎた。駐車場での短い謝罪の後、黒田は静かに去った。七年間思い描いてきたどんな復讐よりも、静かな幕だった。
十日後、入札結果の発表当日の朝。三十八階には再び重役たちが集結していた。午前十時ちょうど、発注機関から優先交渉権者の選定結果が通知された。
最上段に、グループの名前が表示された。
評価されたのは初期収益ではなく、実行の確実性と長期運用の安定性だった。
「本当に、工程の安定性で評価が覆りました」
「最終戦略を構築したのは、堀口佐奈です。私一人ではありません。各部署が数字と契約へ落とし込んでから完成しました。私が清掃の業務についていたから特別だったわけでもありません。ただ、今着ている服や役職だけで、人の過去や能力を決めつけないでください」
案件の貢献者名簿に、堀口佐奈の名前が正式に刻まれた。
数日後、剣持は新設するプロジェクトリスク検証チームのシニアマネージャー職を提示した。机の上には華やかな契約書もなく、採用通知書が一枚だけ置かれていた。
「今回の件を受けて、同様の事故を防ぐには独立した検証組織が不可欠だと判断しました。あなたが断っても、この組織は作ります。必要だと学んだからです」
「私のために用意した席ではない、ということですね」
「あなたのおかげで必要性に気づかされた席だとは言えます。決めるのは、あなた自身です」
「条件があります。代表自身の判断も、検証できる権限をください」
「分かりました」
佐奈は採用通知書へ、自分の名前を書いた。七年前に会社の書類から消された堀口佐奈が、自らの意思で企業の名簿へ戻った。
佐奈は新設されたリスク検証チームを率い、役職に関係なく数字と根拠を照合する仕組みを整えた。
「肩書きではなく、根拠を確認してください」
剣持の判断も、例外ではなかった。
数ヶ月後、三兆円事業は正式に着工した。プロジェクト名簿には、リスク検証責任者・堀口佐奈の名前が刻まれていた。
かつて、目立たず生きることが安全だと思っていた佐奈は、もう自分の判断を隠さなかった。姿を隠すことが安全なのではない。自らの判断を自分自身で見捨てないことだと知ったからだ。
やがて、第一工事も予定通り完了した。
「この事業を支えたのは、速さではなく、小さな異常を見逃さない仕組みです。三兆円の案件であっても、根拠のない進捗は一行足りとも公式文書に載せない」
佐奈は完成した物流拠点を見つめた。
「あの青い線が、ここまで繋がったんだ」
そして翌日も、彼女は次の工程表を確認するため、持ち場へ戻った。
同じ頃、黒田の転落は解任の日から静かに続いていた。荷物を抱えて再就職を試みても、受付で拒否され、かつての本社フロアには二度と足を踏み入れられなかった。
履歴書の職歴を見た担当者が、顔を曇らせる場面が何度も繰り返された。建設系の求人は、どこも門前払いが続いた。
「入札資料改ざんに関与した方ですね。当社ではコンプライアンス上、お受けできません」
「きれいな字ですね。でも、うちでは使えません」
ある現場系の受付では、冗談めかした声が飛んだ。
「書類に触るな。ゴミだけ拾ってろ。うちにいるのは現場の人手だけですよ。偉そうな肩書きの人は要りません」
かつて自分が清掃員や部下に向けた言葉が、そのまま返ってきた。
「申し訳ありません。私の立場では推薦できません」
かつての部下は、会釈だけして足早に去った。避けられていると分かっていても、追いかけて弁解する資格はないと、黒田は自分に言い聞かせた。
求人が途絶えた末に残ったのは、夜間の清掃補助と、小さな倉庫での書類整理だった。深夜のフロアでゴミ袋をまとめ、午前の倉庫では他人の決算書類を番号順に並べ直した。
かつて部下を何人も従えていた黒田に、今は指示を出す権限など一つもなかった。
「黒田さん、そこまだ汚れてます。やり直してください」
「先ほど確認したはずですが」
「確認するのは私です。あなたは言われた通りに掃除してください」
「分かりました」
翌朝、倉庫へ移れば、今度は年下の社員から書類の並べ方を注意された。
「勝手に順番を変えないでください。決められた手順があります」
「この並べ方では効率が悪い。以前の私なら……」
「以前の肩書きは関係ありません。ここでは新人ですよ」
誰も黒田に声をかける者はなく、彼は一人で壁際の席に座った。スマートフォンを開いても、かつて毎日のように届いた仕事の連絡は一筋もない。
「本部長だった私が、どうしてこんな……」
だが、責任を押し付けられる部下はもういなかった。失敗も屈辱も、今度は全て黒田自身が受け止めるしかなかった。
かつて彼が「誰にでもできる仕事」と笑い、現場の仕事を見下していた。その労働そのものが、今度は自分の番だった。
「あなたは整理だけしてください。間違えて重要書類に触れただけで、注意を受けそうに釘を刺される日もあった。かつての部下が使う会議室の後を掃除しながら、自分の名刺が回収された日を思い出す夜もあった。
しかし、華やかな再起も、温かい席も、誰かの許しによる救済も、彼の元には訪れなかった。
テレビには、グループの大型契約が映り、リスク検証責任者・堀口佐奈の名前が紹介された。画面の向こうで名前を呼ばれる佐奈と、業界の名簿から消えた黒田。
かつて自分が選んだ選択が、今、自分へ帰ってきているのだと、黒田は悟った。それでも翌朝になれば、同じ作業着を着て現場へ向かうしかない。
そこに華やかな再起はなく、静かな労働の日々だけが残されていた。



