夕方のスーパーで、私は半額の弁当を三つ買った。一人で暮らす六十八歳の女が、なぜ三つも買うのか。レジの子が不思議そうな顔をしたけど、私は一度に持っていけなかった。二度に分けて、別々に並んだ。誰にも数えられたくなかった。外は雨で、傘を差しながら、帰り道をわざと長く歩いた。団地の四〇二号室。ドアの前に、買ってきた弁当を二つ、音を立てずに置く。ノックもしない。声もかけない。奥の部屋からは、ゲームの光…

夕方のスーパーで、私は半額の弁当を三つ買った。一人で暮らす六十八歳の女が、なぜ三つも買うのか。レジの子が不思議そうな顔をしたけど、私は一度に持っていけなかった。二度に分けて、別々に並んだ。誰にも数えられたくなかった。外は雨で、傘を差しながら、帰り道をわざと長く歩いた。団地の四〇二号室。ドアの前に、買ってきた弁当を二つ、音を立てずに置く。ノックもしない。声もかけない。奥の部屋からは、ゲームの光...

四十二歳の息子がいる。それだけのことが、黒沢し子の口から出ることは何年もなかった。夕暮れのスーパー、食品コーナーに、しず子は体ごと傾けるようにして立っていた。六十八歳。小柄で、肩幅が狭い。どこへ行く時も、上半身をやや前に傾ける独特の歩き方をする女性だ。目的は、午後七時四十五分前後に始まる刺身コーナーの値引きだった。店員がシールを貼って回る時刻を、彼女は長い年月をかけて体で覚えていた。七時半を過ぎると、棚の前で買い物かごを持ったまま立っている客が、一人、また一人と増えてくる。皆、同じ目的で来ている。しず子もその一人だということは分かっていた。分かっていたが、それを顔に出すことは絶対にしなかった。

黄色い半額シールが貼られた弁当を、彼女は三つ取った。一つは唐揚げ弁当、一つは幕の内弁当、もう一つはチキン南蛮弁当。合計で六百九十円。それを一度に持ってレジへ向かうことを、しず子はしなかった。まず幕の内弁当だけを持ってレジに並び、二百二十円を支払い、袋に入れてもらった後で、もう一度列の最後尾に並び直して、残りの二つを購入した。店員の女の子が不思議そうな顔をしていても、しず子は気にしなかった。六十八歳の老婆が弁当を三つ買う姿を、誰にも見られたくなかった。誰かに数えられたくなかった。一人暮らしの老人が弁当を三つ、その事実が、周囲に何を想像させるか、それを考えるだけで息が詰まった

外に出ると、雨がまた降り始めていた。傘を差しながら、しず子は足早に夜の道を進んだ。バス停二つ分の距離を、彼女はいつも歩いて帰る。バス代の節約のためでも、健康のためでもない。ただ、帰路を少しでも引き延ばすために。

やがて古い団地が見えてきた。昭和五十年代に建設された四階建ての集合住宅が、四棟並びに立っている。外壁はくすんだクリーム色で、所々に雨染みが走り、エレベーターはない。夜になると、廊下の蛍光灯が一つ、二つと散らつく。ここに越してきて三十年以上になるが、建物が新しくなることはない。住む人間が少しずつ死んでいくだけだ

四〇二号室の前で立ち止まり、しず子は鍵をゆっくりと差し込んだ。音を立てないように気をつけながら、丁寧に回す。ドアが開いた瞬間、部屋の中の空気が流れ出てきた。生活の匂いが籠もっている。換気が足りていない。玄関の電気はつけなかった。廊下の薄暗い光だけを頼りに靴を脱いで、三足に揃えた。奥の寝室のドアの隙間から、青白い光が漏れていた。ゲームの画面の光だ。しず子は台所へ向かう途中、立ち止まった。奥のドアの前に、買ってきた弁当の入ったビニール袋をそっと置く。唐揚げ弁当とチキン南蛮弁当の二つ。ドアはノックしない。声もかけない。ただ置くだけだ

こうしてから、しず子は台所へ戻り、残った幕の内弁当を一人で食べた。流し台の前に立ったまま、蓋を外して箸を動かした。味はほとんどわからなかった。食べ終わったプラスチックの容器を水で軽く流し、燃えるゴミの袋に入れた。奥の部屋のゴミ袋は別にある。息子が自分で捨てることはないから、それはしず子が夜中に回収して処理する。風呂に入り、歯を磨き、布団に入った。時刻は午後十一時を過ぎたところだった。翌朝は五時四十五分に起きなければならない。区役所の清掃員として出勤するための、始発バスに乗るために。それでも目はさえていた。眠れない夜が、もう何百と続いているかわからない

天井の染みを見つめながら、しず子は今月の収支を頭の中で繰り返した。区役所の清掃の給料が月に約八万円、亡くなった夫・信の遺族厚生年金が月に約六万二千円、合わせて十四万二千円ほど。そこから家賃四万八千円、光熱費、食費、通信費を引くと、月の終わりにはほとんど残らない…今月は電気代が予想より四千円高かった。息子の部屋のエアコンとパソコンが、一日中動いているせいだ。ノブルは今月も一円も入れていない.そのことを責める気力は、しず子にはもうなかった.責めたところで、奥のドアが開くことはない.開いても、ろくなことにならない.だから、しず子は黙って計算を続ける.布団の中で指を折りながら…

翌朝、六月四日の木曜日,アラームが鳴る前に目が覚めた.しず子は、暗い部屋の中で五分ほど天井を見ていてから、静かに起き上がった.台所でインスタントコーヒーを一杯だけ作り、窓の外を見た.雨はまだ続いていた.空が鉛色をしている.制服に着替え、エプロンを畳んでバッグに入れた.玄関に向かう途中,郵便受けの場所が頭に浮かんだ.昨日帰宅した時にポストを確認していなかった.しず子は一度立ち止まり、それからドアを開けた.

外廊下に出ると、雨の匂いと錆びた鉄筋の匂いが混じって鼻に入ってきた.外付けの集合郵便受けは、一階の階段脇にある.四〇二号室のカギと同じキーで開く,小さな金属の扉.中に何かが入っていた.一枚のチラシと,茶色い封筒.封筒の左上には,日本年金機構のロゴが印刷されていた.しず子の手が一瞬止まった.これが何であるかは,見た瞬間に分かった.年に一度か二度,こういう封筒が届くことがある.大抵は現況届の催促か,年金額の変更通知だ.どちらも,開封するだけで胃が重くなる類のものだ.しず子は封筒を折りたたまず,そのままバッグの横のポケットに差し込んで,区役所へ向かうバスに乗った.

午前八時,区役所の清掃員専用の更衣室で制服に着替えながら,しず子はバッグの中の封筒のことを考えていた.開けるのが怖かった.怖いという感情が自分の中にあることに,しず子は少し驚いた.もう随分長い間,怖いとか辛いとかいう感情をきちんと感じることができていなかった.どこかが麻痺しているような状態が続いていて,日々の動作を淡々とこなすことだけが習慣になっていた.それでも,この封筒は怖かった.

午前中の清掃作業が始まった.しず子は一階のトイレ担当だ.男女それぞれのトイレを順番に清掃し,便器を磨き,洗面台を拭き,床をモップがけする.九時になると窓口が開き,廊下に公務員たちの足音が響き始める.その音の中で,しず子は体を折り曲げ,できるだけ小さく目立たないように動く.一階のホールに出た時,しず子はちらりと四番窓口を見た.福祉生活相談と書かれたプレートが掲げられている.長椅子に老人が二人,書類を膝に乗せて待っている.その窓口に近づいていく人々の背中を見ながら,しず子はモップの柄を握り直した.自分もあそこへ行けばいい.そう思った.茶色い封筒のことを,専門の担当者に聞けばいい.何が問題で,何を提出すればいいのかを聞けばいい.それだけのことだ.しかし,しず子の足は窓口へ向かわなかった.

この建物で,自分は清掃員だ.水色のネームプレートをぶら下げ,モップを持って廊下を歩く人間が,同じ建物の窓口に書類を持って並ぶことは,心の中の何かがとして拒否だ.誰かに見られるかもしれない.同僚に気づかれるかもしれない.六十八歳の清掃のおばさんが,生活相談の窓口に並んでいる.その絵が頭に浮かんだだけで,胸の奥が縮み上がった.モップを押して,次の廊下へ移動した.

昼休み,更衣室で弁当を食べながら,しず子はようやく封筒を開いた.中には二枚の紙が入っていた.一枚目は,「生活状況確認のお知らせ」というタイトルの書類で,「令和八年度の給付継続審査のために,世帯全員の所得証明書及び居住状況申告書の提出が必要」だという内容が書いてあった.二枚目は,記入用の申告書だった.しず子は二枚目の用紙をゆっくりと読んだ.「同居している方全員のお名前,生年月日,収入状況をご記入ください.」その一項で,しず子の頭の中が真っ白になった.

信の遺族厚生年金を受け取り続けるためには,この書類を提出しなければならない.そして書類には,同居人である夫の長男,黒沢登の名前と,その収入状況を書かなければならない.登は四十二歳,収入ゼロ,無職.この事実を役所に申告することになる.それだけではないと,しず子は考え続けた.この書類は区役所に提出される.窓口を担当する職員が読む.もしかすると,複数の目に触れるかもしれない.登のことを知っている人間が,この建物のどこかにいないとも限らない.ここで働いている清掃員の一人の息子が,四十二歳で無職の引きこもりだということが,書類を通じて明らかになる…

もっと差し迫った問題もあった.書類の記入欄には,「収入がない場合は,その理由と現在の生活状況をご説明ください」という注記があった.理由を書かなければならない.なぜ四十二歳の成人男性が無収入なのか.ハローワークに通っているわけでも,療養中でもない.ただ部屋に閉じこもっているだけだ.それを何と書けばいいのか.締め切りは二週間後だった.

昼休みが終わりを告げるチャイムが鳴った.しず子は書類を封筒に戻し,バッグの奥に押し込んだ.午後の清掃は,二階の廊下から始まった.ワックス掛けのかかった床に,自分の姿が映っている.ネームプレートをつけた小柄な老婆の影.しず子はその影から目をそらして,モップを動かし続けた.

退勤は午後三時だった.バスの時間まで少し間があったので,しず子は区役所の前のベンチに腰を下ろした.梅雨の空は低く垂れ込め,,小雨が断続的に降っていた.傘を差すほどでもない降りだ.靴の先が少し濡れてきても,,しず子は立ち上がる気になれなかった.封筒のことを登に話さなければならない.この一文が頭の中で繰り返された.話すのではない.頼まなければならない.書類に名前を書いてもらわないと,,印鑑を押してもらわないといけない.もしかすると,,顔写真何かを用意する必要があるかもしれない…登が最後にドアを開けたのはいつだったか.しず子は記憶を辿った.先週の月曜日深夜に,台所で水を飲む音がした.それが最後だ.しず子が意図的に声をかけようとした時に,登がドアを開けたのは,,もっと前のことになる..二月か三月か,記憶が曖昧だ.ドア越しに話をすること自体は,,月に一度か二度ある.ただし,,それはしず子が一方的に言葉を投げかけて,,登が短い返事を返すか,,黙っているか,,どちらかだ.登に申告書のことを頼んだ時,,何が起こるか.それを想像するだけで,,しず子の両手が膝の上で小さく握られた.

バスが来て,,しず子は乗り込んだ.車内はガラガラだった.窓の外に雨に濡れた住宅街が流れていく.しず子は視線を窓に向けたまま,,頭の中の計算を止められなかった.申告書を出さなければ,,来月から年金が止まるかもしれない.登に話せば,,どんな反応が返ってくるか予測できない..ドアを蹴倒れるような起こり方をする時もあれば,,そのまま何日も完全に無反応になることもある.どちらにせよ,,自分一人で申告書に登の名前を書いて提出することはできない.同居人の署名欄がある.それは偽造になる.

バスが団地前の停留所に着いた.雨が少し強くなっていた.傘をさして敷地内に入ると,,一階の集合郵便受けのそばで誰かが立っているのが見えた.五十代後半くらいの女性で,,白いカーディガンを着て,,グレーのパンツを履いている.紙を短く切り,,首から名札のような小さな板を下げている.四棟の管理を取り仕切っている,,自治会の班長,,井上正代だ.しず子は無意識に肩を縮めた.井上はしず子が近づいてくるのを見ると,,顔に笑みを作った.福祉施設のボランティアでもやっていそうな,,親切そうな笑顔だ.しかしその目は,,常に何かを観察している.

「あら,黒沢さん,,お帰りなさい.今日も早いこと.お仕事ご苦労様ですね.」

しず子は頭を下げた.

「お帰りなさいませ.いつもお世話になっております.」

「いえ.あのね,,黒沢さん,,先日の階段班見ていただきましたか? 来週の月曜日のゴミ当番なんですけど,,四〇二号室は七時から七時半の担当になってるんですよ.」

しず子は頭の中で月曜日の自分のスケジュールを確認した.月曜は六時のバスに乗らないと,,区役所の開館準備に間に合わない.ゴミ当番の時間と,,完全に重なっている.

「あの,,すみません.月曜日は,,ちょっとお仕事が…」

「あら,,そうなんですか」と井上は言った.笑顔のままだったが,,声の質がほんの少し変わった.「でもね,,黒沢さん,,去年の秋も一度お休みになりましたでしょう.他の方に頼んで変わっていただいたんですけど,,やっぱり皆さん公平にやっていただかないと,,ちょっと不満が出るんですよ.」

しず子は頭を下げたまま,「本当に申し訳ございません」と言った.

「息子さんに代わりに出てもらえればいいんですけど,,お仕事で東京に出てらっしゃるんでしたっけ? 最近どうされてるんですか? なかなか会う機会がないんで.」

その言葉が,,しず子の胸に細い針のように刺さった.登の存在を,,この団地の住人の中で知っている人間はいないと,,しず子は信じていた.少なくとも,,知っているそぶりを見せる人間はいなかった.引っ越してきた最初の数年は,,登も外に出ていた.近所の人に顔を知られていた時期もある.しかし八年前に仕事をやめてから,,登は完全に姿を消した.しず子は問われるたびに,,東京の会社で働いているとか,,転勤したとか,,その都度その場しのぎの答えを返してきた.

「いえ,,まあ,,忙しくしているみたいで,,なかなか帰ってこられないみたいですが…」

自分の口から出てくる言葉を,,しず子は頭のどこかで聞いていた.八年間,同じことを繰り返してきた.少しもうまくならない嘘を,,繰り返してきた.

「そうですか.でも,,息子さんに代わりにやってもらうのも難しいかしら.まあ,,黒沢さんが都合をつけていただくしかないですね.」

そう言って,,井上はゴミ当番の紙をしず子に渡した.しず子は「はい,,ありがとうございます」と言って受け取った.井上が立ち去る背中を見送りながら,,しず子は傘の柄を握り直した.

夜,,布団の中で,,しず子は改めて茶色い封筒のことを考えた.月曜のゴミ当番のことも考えた.登が代わりに出てくれるわけがない.誰かに頼もうにも,,その誰かは同じ棟の住人で,,何かのはずみに登の存在を知ることになるかもしれない.かと言って,,しず子が仕事を遅刻するわけにもいかない.清掃員の時給は高くない.一時間の遅刻で,,収入が削られる.封筒とゴミ当番と登のこと.問題は繋がっていた.どれか一つを解決しようとすると,,別の問題にぶつかる.その構造が,,何年も前から変わっていない.

翌朝,,六月五日の金曜日,,しず子は仕事前に郵便受けを確認する習慣があったが,,その日はためらった.またあの茶色い封筒が増えていたら,,と思うと足が重くなった.それでも確認しないわけにはいかない.何かを先延ばしにすることで,,事態が好転した試しがない.階段を降りて,,郵便受けの前に立った.鍵を差し込んで開けると,,チラシが数枚と,,白い封筒が一通入っていた.差出人は水道局だった.水道料金の領収書だ.茶色い封筒は増えていない.しず子は小さく息を吐き出した.しかし安心したのは数秒だけだった.

郵便受けを閉めようとした時,,隣の棟の方向から人の声が聞こえてきた.振り向くと,,一階の廊下に数人が立って話しているのが見えた.ゴミ袋を手に持った老人と,,その周りに三人ほど.声の内容までは分からないが,,笑い声が混じっている.しず子はその光景から目を背け,,足早に階段を登った.

四〇二号室のドアの前で立ち止まる.奥の部屋の光は消えていた.登は明け方まで起きていることが多く,,昼過ぎまで眠っているパターンが多い.今は眠っているはずだ.しず子は鍵を開けて中に入り,,昨夜置いておいた空の弁当容器が,,ドアの前から消えていることを確認した.二つとも消えていた.食べた.それだけで十分だった.

その日の夜,,仕事から帰ると,,台所のテーブルの上に一枚の紙切れが置いてあった.レシートの裏に,,走り書きがあった.筆圧の強い荒々しい字で,,こう書いてあった.

「冷蔵庫のプリン食べた」

それだけだ.しず子はその紙切れをしばらく見た.プリンは昨日,,賞味期限が今日までのものが半額になっていたので,,一つだけ買ったものだ.登が食べたことを責める気にはなれなかった.ただ,,この走り書きが登の意思表示であることは分かった.存在しているという通知だ.

翌日の土曜日の午前中,,しず子は仕事が休みだった.台所で洗い物をしていると,,奥のドアが静かに開く音がした.続いて,,トイレに入り,,水を流す音.台所に来て,,冷蔵庫を開ける気配.しず子は洗い物の手を止めなかった.体を向けなかった.気づいていないふりをした.冷蔵庫が閉まった.登の足音が,,台所の入り口の辺りで止まった.しず子の背中に視線を感じた.二人とも,,何も言わなかった.十秒か二十秒か,,時間の感覚が崩れた.やがて登の足音が奥へ戻っていき,,ドアが閉まった.カチリとかぎがかかる音がした.しず子は洗い物の手を止め,,流し台の縁を両手で握った.何か言えばよかったのかもしれない.おはよう.でもご飯食べる?

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でも…しかし何を言うべきかを考えているうちに,,機会は消えた.それがもう何百回と繰り返されてきた.言葉を選んでいるうちに,,相手がいなくなる.

その夜,,しず子は再び茶色い封筒を取り出した.テーブルの下にある古い貸箱に,,この種の書類をまとめて入れてある.年金の通知,,健康保険の書類,,固定資産税の通知.それらをめくりながら,,しず子は申告書の締め切り日を確認した.二週間後の,,六月十九日,,木曜日…登に話さなければならない.今夜ではない.今夜は無理だ.でも,,今週中には…いや,,来週の頭には…自分に言い聞かせながら,,しず子は申告書を封筒に戻した.貸箱の中に戻して,,テーブルの下に押し込んだ.窓の外では,,梅雨の雨が重たく降り続けていた.しず子はしばらく窓を見ていた.ガラスに映った自分の顔は,,思っていたよりずっと老けていた.それとも,,自分がいつの間にか本当に老いたのだろうか,,よくわからなかった.台所の時計が,,午後十一時を差した.奥の部屋では,,ゲームの効果音が低く続いていた.しず子はその音を聞きながら,,明日のバスで区役所へ向かうことを考えた.モップを持って廊下を歩き,,便器を磨き,,水色のネームプレートを下げて,,廊下で誰かとすれ違うたびに頭を下げる.そして夜に帰ってきて弁当を買い,,ドアの前に置く.それだけのことが,,明日も続く.

水色のネームプレートというものは,,持ち主の職業を,,言葉よりも正確に語る.黒沢しず子が首から下げている.それには「清掃スタッフ」と印字されている.地は水色,文字は黒,,プレート自体は薄いプラスチックで,,角が少し擦れて白くなっている.朝,,更衣室のロッカーからそれを取り出して,,ネックストラップに通す時,,しず子はほんの一秒だけ,,手の動きが止まる.それから,,何事もなかったように首にかけて,,モップを手に取る.

二〇二六年六月八日,,月曜日.梅雨の雨は明け方に一度強くなり,,しず子が始発バスに乗る頃には小ぶりになっていた.バス停には,,しず子の他に若い女が一人いた.ノートパソコンのスーツを着て,,スマートフォンの画面を見ている.しず子よりも二回りほどは若いだろう.ヒールのある靴を履いていて,,傘を差していても髪が乱れていない.区役所に務める職員か.その周辺に通う会社員か.バスが来て,,二人とも乗り込んだ.女は前の方の席に座り,,しず子は一番後ろの席を選んだ.慣れた位置だった.誰かと目が合う確率が,,最も低い場所だ.

区役所の職員用入口は,,建物の裏手にある.表玄関からは見えない位置で,,清掃員や業者が使う出入り口だ.しず子は傘を畳んで傘立てに差し,,タイムカードを押した.午前六時五十二分.更衣室で制服に着替えながら,,しず子は月曜日のゴミ当番のことを考えていた.結局,,どうにもならなかった.登に代わりを頼む気になれなかったし,,仕事を休む理由もなかった.井上班長に頭を下げて「今月は本当に難しい」と伝えた時,,井上は「では,,代わりの方を立てていただかないと」と言った.代わりの方.それを誰に頼むかを考えていたうちに,,時間が経って,,月曜日が来てしまった.今頃,,ゴミ置場の前に誰かが立って,,しず子の代わりを待っているかもしれない.あるいは,,誰も来ない.四〇二号室のゴミ当番を,,誰かが苦い顔でこなしてくれているかもしれない.どちらにせよ,,しず子には今日の仕事をやめる選択肢はなかった.

午前七時,,清掃作業が始まった.最初は一階トイレの清掃だ.まず換気扇のスイッチを確認し,,便器を確認し,,便座の裏を順番に拭き取っていく.しず子が来るよりも前に,,誰かが使用した形跡があることも珍しくない.清掃員が入る前に,,施設を使う職員がいる.そういうものだと,,しず子は思っている.トイレを出て廊下へ.モップバケツを引きずりながら,,しず子は窓口エリアの方向へ向かった.月曜日の朝は,,人の出入りが多い.朝礼に溜まった書類を持ってくる市民や,,週末に届いた郵便物を処理しにくる職員たちが,,開館前から建物の中を動き始めている.しず子はその流れに逆らわないよう,,廊下の端を歩いた.四番窓口の前を通った時,,ちらりと視線を送った.福祉生活相談の窓口は,,今日もすでに,,町の市民が三人いた.月曜日の朝は多い.週末に考えてきたことを,,月曜に持ってくる人が多いのだろうと,,しず子はなんとなく思った.週末に一人で考えすぎて,,それを抱えきれなくなって,,月曜日に役所へ来る.しず子自身が,,まさにそうかもしれない.ただし,,しず子が違うのは,,いつまで経っても,,このモップを置いて,,列に並ぶことができないという点だった.

清掃の休憩は,,午前十時だった.更衣室に戻り,,ロッカーからペットボトルのお茶を出して飲んだ.同僚の村田さんという五十代の女性が,,向いのベンチに座って,,缶コーヒーを飲んでいた.彼女も,,同じ清掃業者から来ているパートタイマーだ.村田は「月曜日って,,なんでこんなに疲れるんですかね」と言いながら首を回した.「黒沢さんは,,お元気ですよね.まい,,や,,さすがですね.」しず子は小さく笑って「そんなことはないですよ」と言った.それ以上の言葉が出なかった.村田との会話は,,いつもこんな風に数往復で終わる.特に,,どちらが悪いわけでもない.共有できるものが,,それほどないのだ.

休憩が終わって,,更衣室を出る時,,しず子は一度廊下で立ち止まった.茶色い封筒の申告書,,登の名前,,六月十九日の締め切り.窓口へ行って相談するだけなら,,五分もかからないはずだ.同居人の署名が絶対に必要なのか,,あるいは別の方法があるのか,,それだけでも確認すれば,,次の手が打てる.相談することと,,書類を出すことは,,別の話だ.しず子は廊下を,,四番窓口の方向へ向かって,,数歩歩いた.そこで止まった.前から,,清掃業者の上司にあたる,,係りの男性が歩いてくるのが見えた.四十代くらいの男で,,いつも足早に歩いていて,,あまり清掃員に声をかけない人だ.それでもしず子は自動的に壁際に寄って,,頭を下げた.係りは一瞬こちらを見て,,小さく顎を引いて通りすぎた.しず子は顔を上げ,,改めて四番窓口を見た.行けなかった.理由を言葉にするのは難しかった.ただ,,この建物の中でモップを持って歩くことと,,市民として窓口に並ぶことは,,同じ自分にはできなかった.それだけだ.

午後,,仕事を終えて,,木に着いた時,,しず子は珍しく遠回りをした.団地へ向かうバスの前に,,一本早いバスに乗って,,二駅先の商店街で降りた.特に用があったわけではない.ただ,,まっすぐ帰りたくなかった.商店街はアーケードで雨が防がれていて,,夕方の買い物客がちらほらいた.しず子は野菜の安売りをしている店の前で,,少しの間立ち止まり,,それからそのまま通りすぎた.野菜は,,近くのスーパーの方が安い.ここで買う理由はない.それでも足が止まったのは,,ただ人のいる場所を通りたかったからだと,,後から気がついた.

帰宅したのは,,午後四時半を過ぎた頃だった.玄関を開けると,,奥の部屋からゲームの音が聞こえていた.しず子は靴を脱ぎ,,台所に入り,,今日の特売で買ってきたもやしとキャベツを冷蔵庫に入れた.それから湯を沸かして,,インスタントの味噌汁を作った.登の分も一つ作って,,ドアの前に置こうかと思ったが,,今日はやめた.理由はなかった.ただ,,そうする気になれなかった.台所のテーブルに座り,,一人で味噌汁を飲んだ.テーブルの上の貸箱のことを考えた.昨日も,,昨日も,,開ける気になれなかった.封筒を見るだけで,,登の顔が浮かんで,,その先の会話が浮かんで,,そこから先は,,考えたくなかった.

食器を洗い終わった時,,廊下の奥で音がした.登の部屋のドアが,,ほんの少し開いた音だ.次に足音.トイレへ向かう音.水を流す音.それから,,台所へ向かってくる気配.しず子は流し台に立ったまま,,体を動かさなかった.登が冷蔵庫を開ける音がした.中を見て,,何かを取り出す音.プルタブを引く音.缶ジュースだろうか? それとも,,しず子が先週買ったプリンの残りがあったか.いや,,それはもう食べてしまったはずだ.

「ぎゅうにゅう,,切れてる.」

登が言った.声の方を向いた.声を聞いたのが,,久しぶりすぎて,,その声が登のものだと,,すぐには認識できなかった.低く,,少し枯れた声.それが確かに登だと分かった瞬間,,しず子はゆっくりと振り向いた.登は冷蔵庫のドアに片手をかけたまま,,こちらを見ていた.四十二歳とは思えない体躯をしていた.肩幅は広いが,,全体に締まりがなく,,Tシャツがたるんでいる.髪は伸び放題で,,顎に無精髭がある.肌が白すぎる.日光にほとんど当たっていない白さだ.目の下には色素の沈着があって,,いつも疲れているような顔をしている.

「牛乳,,切れてる.」

それだけだった.しず子は「ええ,,昨日使い切ってしまって」と言った.声が,,思ったより普通に出た.「明日買ってきます.何か他にいるものはありますか? 」

登は冷蔵庫のドアを閉め,,無言で台所の入り口に立った.しず子のいる流し台からは,,二メートルほどの距離がある.

「風呂,,早く入っていい? 」

「もちろんです.どうぞ.」

また,,無言になった.登はしばらく,,台所を見渡した.何かを言おうとして,,やめたような沈黙だった.それから,,踵を返して,,廊下へ出ていき,,しばらくして,,シャワーの音が始まった.

しず子は流し台の縁に両手をついて,,しばらくそのままでいた.十分間のシャワーの音が止まった.足音が廊下を通り,,ドアが閉まった.カチリと鍵がかかる.また,,元の距離に戻る.今,,話しかけるべきだったかもしれない.封筒のことを,,今夜,,話しかけるべきだったかもしれない.機会は,,確かにあった.登が自分から台所に来た.それは,,珍しいことだった.でも,,しず子は,,何も言わなかった.牛乳のことと,,風呂のことだけを話した.それ以上,,今夜は,,言えなかった.

その夜遅く,,しず子は寝つけないまま,,電気を消した台所で,,麦茶を飲んでいた.電気代のことを考えていた.先月の電気料金は,,予算より四千円以上多かった.今月も,,同じような傾向が続いている.登の部屋のエアコンが,,夜間も動いていること,,パソコンの電源が,,ほぼ切れないこと.それが,,主な原因だ.節電をお願いするメモを書いたのは,,先月のことだった.レシートの裏に,,しず子は丁寧な字で「電気代が少し多くなっています.就寝の際に,,エアコンをタイマーに設定してもらえると助かります」と書いた.それを,,ドアの隙間に差し込んだ.翌日,,そのメモは,,くしゃくしゃに丸められた状態で,,ドアの前に戻っていた.返事の代わりだった.それ以来,,しず子はそのことを,,口にしていない.

今月の給与振り込み日は,,二十日だ.現在の通帳残高は,,しず子が先週確認した時,,十一万三千円だった.家賃の引き落としが十五日にあって,,四万八千円が出た.残りは,,六万五千円ほど.食費,,光熱費,,登の食料分を含めると,,今月末には,,ほぼ底を突く計算だ.夫の遺族年金が振り込まれるのは,,偶数月の十五日だ.今月は,,先週すでに,,六万二千円が入金されていた.ただし,,その年金も,,申告書を期日までに提出しなければ,,止まる可能性がある.止まれば,,月の収入は,,自分の給与の約八万円だけになる.家賃だけで,,半分以上が消える.

登に,,申告書の話をしなければならない.今夜の会話で,,登が自分から台所に来たことは,,一つの変化だったかもしれない.そう考えようとして,,しず子はすぐにその考えを知り消した.希望的観測だ.牛乳が切れていたから来ただけだし,,風呂を使うタイミングを確認したかったから,,来ただけだ.それ以上の意味を読み込むことが,,しず子には,,長年の経験から,,許せなかった.読み込んで,,裏切られることが,,もう何度もあった.麦茶を飲み干して,,コップを流し台に置いた.

翌日の火曜日.しず子は仕事を割いて,,区役所の近くにある病院の清掃の,,追加アルバイトを受けることにした.元々,,区役所の業者から打診されていた案件で,,週三回,,夕方の一時間半,,廊下と待ち合い室を清掃するというものだ.時給は少し上がる.一ヶ月で換算すると,,プラス二万円弱になる計算だった.上司の係員に話すと,,すぐに手続きをしてもらえた.水曜,,金曜,,土曜の夕方という条件で,,翌週から始めることになった.帰り道,,バスの中で,,しず子はその二万円の使い道を考えた.まず来月の光熱費の余裕分に回す.それから,,登の食料の質を,,少しだけ上げることができるかもしれない.今は毎日,,半額の弁当か,,インスタント麺ばかりだ.もっとも,,登がそれを喜ぶかどうかは,,別の話だ.

団地に帰り着いて,,階段を登りながら,,しず子は,,ふと足を止めた.三階と四階の踊り場に,,ダンボール箱が一つ置いてあった.以前から,,置きっぱなしになっているものだ.誰のものかは,,知らない.このまま放置されるのか,,誰かが片付けるのか,,一年以上変わっていない.こういうものが,,少しずつ積み重なって,,この団地の空気を作っている.四〇二号室のドアの前に着くと,,今日は,,何も変化がなかった.昨夜のメモも,,何かが落ちているわけでもない.しず子は鍵を開けて,,中に入り,,弁当を買ってきていたことを思い出した.バッグから,,半額シールの貼ったパック寿司を,,二つ取り出した.一つは,,登の分だ.ドアの前に置こうとして,,しず子は一度,,立ち止まった.今夜こそ,,話しかけてみようか.封筒のことでなくてもいい.ただ一言,,声をかけてみようか.しかし,,奥から聞こえてくるゲームの音が,,断絶の確かさを知らせていた.ドアの向こうに存在している人間は,,今この瞬間,,完全に別の世界にいる.声をかけること自体は,,難しくない.難しいのは,,その後に来るものだ.返事がなかった時,,あるいは,,乱暴な言葉が帰ってきた時,,しず子はそれを受け取るだけの余裕が,,自分の中にあるかどうかを測った.ないと判断した.パック寿司を黙って,,ドアの前に置き,,台所に戻った.

水曜日の夕方,,病院での初日の清掃を終えて,,帰宅したのは,,午後八時を過ぎていた.病院の清掃は,,役所とは違う種類の疲労があった.特有の消毒液の匂いが,,制服に染み込んでいて,,着替えても,,しばらく,,鼻の奥に残った.待合室には,,夕方まで患者が残っていることがあり,,そのそばでモップをかける作業は,,最新の注意が必要だった.

台所で遅い夕食を食べていると,,廊下の向こうで物音がした.登が部屋を出て,,トイレへ向かっているのが分かった.しず子は箸を持ったまま,,食べ続けた.トイレが終わって,,足音が,,台所の方向へ向いた.冷蔵庫の前で止まる.扉が開く.しず子が昨日買い直した牛乳を取り出して,,コップに注ぐ音がした.

「帰り,,遅かったね.」

登が言った.コップを手に持ったまま,,台所の入り口に立っている.しず子は「ええ,,少し遠い場所まで,,行っていたので」と答えた.病院の仕事のことは,,言わなかった.余計な話だと思った.登は少しの間,,台所の中を見ていた.目がどこを見ているのかは,,しず子には分からなかった.

「最近,,弁当,,続いたけど」

批判なのか,,ただの観察なのか,,判断できなかった.しず子は「そうですね.お総菜も,,飽きますよね.明日は,,炊き込みご飯を,,作ろうかと思っています」と言った.登が好きだった料理の一つだ.子供の頃,,秋になると,,必ず作っていた.登は,,何も言わなかった.コップの牛乳をもう一口飲んで,,それから,,コップを流し台の横に置いた.洗いもしないで,,置いた.

「ゴミ,,多くなってるから,,明日の朝,,捨てといて.」

それだけ言って,,踵を返した.足音が廊下を渡り,,ドアが閉まった.しず子はコップをそのまま手に取り,,洗って,,乾燥棚に置いた.ゴミを捨てるのは,,いつも,,しず子だ.これは,,以前からそうだ.ただ,,登が自分から,,ゴミが多いと告げてくることは,,珍しかった.それが何かを意味するのか,,意味しないのか,,しず子には,,判断できなかった.

木曜日の夜,,しず子は珍しく早く床に着いた.しかし,,眠れなかった.いつものことだった.目を閉じると,,封筒のことが浮かんだ.締め切りまで,,あと九日になっていた.登に話しかけるタイミングを,,ここ数日,,ずっと探していた.完全に無視されるのではないかという恐れがある.感情的になって,,物を投げるかもしれないという恐れもある.しかし一番を恐れているのは,,登が何かを言った時,,自分が正しい言葉を返せないことだ.何度も頭の中でシミュレーションをした.「登,,少し聞いてもらいたいことがある」から始める.それとも,,書類を先に見せる方がいいか?

署名のお願いをするのか? まず内容を説明するのか? どういう言葉を選べば,,登が怒り出さないか.八年间,,考えてきて,,その答えは,,まだない.

金曜日の夜,,仕事と病院の清掃を,,両方終えて,,帰ってきたのは,,午後八時半だった.バッグを玄関に置いた瞬間,,台所の方から音がした.何かが,,割れるような,,硬い音だ.しず子は反射的に,,台所へ向かった.登が,,台所に立っていた.足元に,,コップの破片が,,散らばっていた.棚から取ろうとして,,落としたらしい.登は破片を見下ろしたまま,,動かずにいた.

「大丈夫ですか? 」

しず子は言った.

「…大丈夫」

登は「別に」と言った.声にトげはなかった.ただ,,平坦だった.しず子はほうきとちり取りを取り出し,,破片を掃いた.登は,,脇に避けて,,流し台の縁に手をついて,,それを見ていた.しず子が破片をまとめて,,ゴミ袋に入れるまで,,二人とも,,何も言わなかった.

「炊き込みご飯,,冷蔵庫に入ってます.昨夜作りました」

しず子が言うと,,登は少し間を置いてから,,冷蔵庫を開けた.タッパーに入った炊き込みご飯を出して,,電子レンジに入れた.

「…ありがとう」

小さい声だった.電子レンジのうなる音で,,ほぼ消えそうな声だった.しかし,,確かに,,聞こえた.しず子は「どうぞ,,ゆっくり食べてください」と言って,,台所から出た.廊下で,,一度だけ,,目をつぶった.「ありがとう」という言葉は,,何年ぶりだったか,,わからない.それが心からのものかどうか,,それさえ,,考えても,,仕方なかった.ただ,,今夜の台所の空気は,,いつもより,,ほんの少しだけ,,軽かった.

土曜日の昼過ぎ,,しず子は午前中に,,病院の清掃を終えて,,帰宅した.洗濯物を済ませ,,台所を掃除し,,それから,,貸箱を取り出した.テーブルの上に置いて,,茶色い封筒を,,抜き出した.申告書を,,広げる.締め切りまで,,あと七日か.同居人の署名欄を見た.登の名前を書く場所だ.今夜,,話す.今夜,,しかない.そう決めて,,封筒を畳んだ.それを,,テーブルの上に置いたまま,,台所で,,炒め物を作り始めた.今夜は,,登の分も,,一緒に作る.ドアの前に置くのではなく,,台所のテーブルに出しておく.もし登が出てきた時,,自然に話ができるような状況を作る.

夕方五時を過ぎた.登は,,出てこなかった.六時になった.七時になった.炒め物は,,とっくに冷めていた.しず子は,,一人で食べて,,登の分は,,ラップをかけて,,テーブルに置いておいた.八時,,奥でドアが開く音がした.足音が,,トイレへ向かい,,戻り,,冷蔵庫の前で止まった.それから,,テーブルに近づいてくる気配がした.

「これ,,食べていい?

登の声がした.しず子は「はい,,どうぞ」と言った.今度は,,声だけを返した.登がラップを外して,,テーブルに向かった.椅子が引かれる音,,箸を取る音.食べ始めた.しず子は,,流し台に戻った.登はテーブルに向かって座り,,炒め物を食べていた.正面から見ると,,思っていたよりも,,姿勢が良かった.それだけが,,かつての登の,,名残りのように見えた.

「あのね,,登」

しず子は言った.声が出た.自分でも,,意外なほど,,落ち着いた声が出た.登は,,箸を止めずに,,ちらりとこちらを見た.

「年金のことで,,役所に書類を出さないといけないの.お父さんの遺族年金を,,続けてもらうために,,あなたの名前を,,書いてもらう必要があって…来週の木曜日が,,期限なんです.」

登の箸が,,止まった.

「何を,,書くんだ? 」

「名前と,,生年月日と,,今の状況.収入がないということを,,書くんだけど」

しず子は,,言葉を選びながら,,続けた.「あなたが,,何か問題になるわけじゃないです.役所の人が確認するだけで,,それで年金が,,続けてもらえる.それだけのことなんです.」

登は,,しばらく黙った.炒め物を,,一口食べた.

「…また,,来るんだ.そういうの.」

しず子には,,その言葉の意味が,,分かった.確認の書類が来るたびに,,自分の状況が公的な記録に残ることへの,,嫌悪を,,それを,,しずめる気にはなれなかった.

「ごめんなさい.でも,,出さないと,,来月から,,年金が止まってしまうかもしれなくて…」

「分かった.」

思ったより,,短い返事だった.登は,,炒め物の残りを食べて,,箸を置いた.

「書類,,ドアの前に,,置いといて.後で,,見る.」

「ありがとう.本当に,,助かります.」

しず子は,,頭を下げた.登は,,それには答えず,,椅子から立ち上がって,,コップに水を注いで,,飲んだ.それから,,台所から出ていき,,廊下を通り,,ドアが,,閉まった.

しず子は,,テーブルの上の皿を,,片付けた.登の使った箸とコップを洗いながら,,しず子は,,今夜のことを,,頭の中で繰り返した.話ができた.怒鳴られなかった.書類を見ると,,言った.それが,,起きた.それだけで,,今夜は,,十分だった.

翌日の日曜日,,登の部屋のドアの前に,,申告書を置いた.月曜日の朝,,確認すると,,書類は,,なくなっていた.火曜日の昼,,ドアの前に,,書類が,,戻ってきた.同居人の欄に,,黒いボールペンで「黒沢登」と書いてあった.筆圧が強く,,少し崩れた字だった.印鑑は,,押されていなかった.印鑑がなくてもいいかどうか,,しず子には,,分からなかった.とにかく,,名前は,,書いてあった.しず子は,,その書類を,,手に取り,,しばらく見ていた.インクの乾いた字を,,指でなぞることは,,しなかった.ただ,,そこに,,登が存在していることの,,証拠として,,紙の表面に残った,,跡を見た.

来週の木曜日,,区役所に行く.表玄関から入って,,番号札を取って,,四番窓口に並ぶ.清掃員の制服ではなく,,普通の服を着て,,一人の市民として.そう決めた時,,しず子の胸の中の何かが,,ほんの少しだけ,,緩んだ.窓の外では,,梅雨の空が,,まだ低く垂れ込めていた.かつて,,夫の信が言っていた言葉を,,しず子は,,ふと思い出した.何かにつけて,,動けなくなるしず子に向かって,,信は,,いつも,,同じことを言った.

「一つずつ,,やれ.全部を,,一度に,,やろうとするな.」

その声は,,もう十年も,,聞いていない.でも,,時々,,こういう夜に,,はっきりと,,耳に蘇る.しず子は,,台所の電気を,,消した.廊下を歩いて,,寝室に入り,,布団を敷いた.奥の部屋からは,,ゲームの音が,,今夜も,,続いていた.それは,,いつもの夜だった.何も,,変わっていない.ただ,,書類に,,名前が,,書いてあった.それだけのことが,,今夜だけは,,少し違う重さを持って,,しず子の中に,,あった.目を閉じても,,すぐには,,眠れなかった.それも,,いつもと,,同じだった.

夜中の,,十二時を過ぎた,,廊下というのは,,昼間とは,,別の場所だ.蛍光灯は,,半分が消えていて,,残りの半分も,,チラチラと点滅している.壁の染みが影になって,,広がり,,非常口の緑のランプだけが,,黙って光っている.その廊下を,,黒沢し子は,,二つの大きなゴミ袋を,,両手に下げて,,音を立てないように,,歩いていた.スーパーの半透明の青い袋を,,二重にしたものだ.中身が外から透けて見えないよう,,さらにもう一枚,,袋を重ねてある.それでも,,袋の膨らみから,,その量だけは,,分かった.一人暮らしの,,老婆が出す量では,,ない.

二〇二六年,,六月十二日,,金曜日の深夜.梅雨の雨は,,昼から,,断続的に続いていて,,しず子が帰宅したのは,,午後十一時を過ぎていた.病院の清掃を終えて,,バスを二本乗り継いで,,坂道を上がってきた,,夜だった.登の部屋のゴミを,,回収するのは,,いつも,,深夜だ.昼間にやれば,,誰かに,,見られる可能性がある.朝のゴミ出しの時間に,,出せば,,量を,,誰かに,,確認される.だから,,しず子は,,夜中に,,他の住人が眠ったのを,,確認してから,,ゴミ袋を抱えて,,階段を降りる.それが,,この数年の,,週間になっていた.

今夜の袋の中身は,,登の,,一週間分のゴミだ.インスタントラーメンの空袋が,,十七枚.大きいサイズのペットボトルが,,四本.カップ麺の容器が,,九個.コンビニのパッケージが,,数枚.それに加えて,,缶が,,六本.登は,,いつの間にか,,ビールを飲むように,,なっていた.しず子が買っているわけではないから,,登が自分で,,どこかから,,取り寄せているのだろう.それが,,どこからかは,,しず子には,,聞けなかった.聞く権利が,,自分にあるかどうか,,判断できなかった.

階段を,,一段,,一段,,かかとを着地するように,,降りていった.三階の踊り場で,,一度,,止まった.踊り場の小窓から,,外を見ると,,敷地内の街灯が,,雨に滲んでいた.ゴミ集積所は,,建物の,,植え込みの脇にある.距離にして,,五十メートルほどだ.雨の中を行くかどうか,,一秒だけ,,考えた.傘を取りに戻れば,,また部屋の前を,,通る,,ことになる.登が起きていれば,,気配を,,感じるかもしれない.深夜に,,ゴミを捨てに行く,,母親の姿を,,登がどう受け取るかを,,考えると,,踵に戻る気に,,なれなかった.

一階まで降りて,,外に出た.雨は,,小雨だった.傘なしでも,,走れば,,濡れない,,程度の降り方だ.ただし,,しず子は,,走らなかった.重い袋を,,両手に下げた状態で,,走れば,,袋の底が,,割れる可能性がある.それだけは,,避けなければ,,ならなかった.ゆっくりと,,でも,,確実な足取りで,,ゴミ集積所へ,,向かった.

集積所の近くまで,,来た時,,暗がりの中で,,何かが,,動いた.最初は,,野良猫か,,と思った.この敷地内には,,数匹の野良猫がいて,,夜になると,,ゴミ集積所の周りを,,うろつく.しず子はそれを,,知っていて,,袋を遠ざけるように,,持ち直した.しかし,,動いたのは,,猫ではなかった.灰色のカラスが,,低空から,,突っ込んできた.翼を広げた瞬間,,羽音が,,闇を叩いた.しず子は,,反射的に,,袋を引いたが,,間に合わなかった.カラスの嘴が,,右手の袋の,,中程に,,刺さった.バリという音と,,同時に,,袋が,,裂けた.二重にしていた袋の,,外側だけが破れ,,内側が,,たわんで,,中身が,,重みで,,傾いた.しず子はとっさに,,袋を地面に下ろしたが,,その拍子に,,傾いていた内袋が,,倒れ,,結び目が,,緩んだ.次の瞬間,,カップ麺の容器と,,空缶と,,ペットボトルが,,雨に濡れた,,アスファルトの上を,,転がった.カラスは,,それを見て,,一歩,,引いたが,,逃げなかった.二メートルほどの距離から,,首を傾けて,,こちらを,,観察している.

しず子は,,しばらく,,その場で,,固まった.散らばった,,ゴミの量を,,目で,,確認した.容器が,,四つ,,缶が,,三本,,ペットボトルが,,二本.インスタントラーメンの袋が,,数枚,,濡れて,,アスファルトに,,張り付いていた.一人暮らしの,,六十八歳の,,女が出す量では,,絶対に,,ない.

しず子は,,拾い始めた.缶を拾い,,ペットボトルを拾い,,容器を拾った.雨水が,,手の甲を,,伝っていた.カップ麺の容器には,,残り汁が,,わずかに,,残っていて,,その液体が,,指の間を,,流れた.

「お,,黒沢さん.」

背後で,,声がした.しず子の,,手が,,止まった.全身が,,止まった.ゆっくりと,,振り向いた.一階に住む,,田中という男が,,傘をさして,,立っていた.六十代前半,,体格が良く,,元工場勤めだったと,,聞いている.夜勤のある仕事を,,退職してから,,帰宅することが,,多い男だ.しず子とは,,挨拶程度の,,関係だった.顔は,,知っている.名前も,,知っている.それ以上の,,関係では,,ない.田中の視線が,,アスファルトに,,散らばったゴミの上を,,走った.次に,,しず子の手元を見た.インスタントラーメンの袋を,,持った,,しず子の手を,,見た.二人の間に,,雨の音だけが,,あった.

田中は,,ゴミの量を,,見た.インスタント食品の容器の数を,,缶の数を,,ペットボトルの数を,,目で,,数えた.そうでなくても,,この量が,,何を意味するかは,,長年,,この団地に,,住んでいる人間には,,伝わる.

「すみません」と,,しず子は言った.声は,,出た.「散らかして,,しまって…」

田中は,,何も,,言わなかった.数秒が,,経った.田中は,,小さく,,頷いて,,視線を,,外した.そのまま,,傘を傾けて,,建物の入り口の,,方へ,,歩いていった.振り返らなかった.足音が,,遠ざかり,,ドアが開く音がして,,そして,,消えた.

しず子は,,ゴミを,,拾い続けた.缶が,,また一本,,植え込みの縁まで,,転がっていた.それを,,拾いに行き,,袋に,,入れた.破れた袋の中身を,,残った左手の袋に,,詰め直した.容量が,,ギリギリだったが,,押し込めば,,入った.口を,,しっかりと,,結んで,,集積所の中の,,所定の場所に,,置いた.終わった.そう思った時,,両膝が,,かすかに,,揺れた.地面に残った,,雨を見た.雨がそれを,,洗い流していた.もう,,何も,,残っていない.ゴミもなく,,破れた袋の破片も,,ない.物理的には,,何も,,起きなかったのと,,同じだ.それでも,,田中の目が,,あの量のゴミを,,見た,,事実は,,雨では,,消えなかった.

しず子は,,立ったまま,,ゆっくりと,,深呼吸した.雨の匂いと,,コンクリートの匂いと,,ゴミ集積所の,,わずかな,,匂いが,,混じっていた.唇を引き結んで,,靴の先を,,見た.雨に濡れた,,ベージュのスニーカーが,,街灯に,,照らされていた.

建物に戻り,,階段を,,登った.四〇二号室のドアを,,開ける時,,手が,,少し,,震えていた.震えていることに,,気づいたが,,止める方法が,,分からなかった.玄関で靴を脱ぎ,,台所に,,入り,,流し台の前に,,立った.水を出して,,手を,,洗った.石鹸をつけて,,ゴミの汁が,,触れた,,指の間を,,丁寧に,,洗った.洗い終わっても,,もう一度,,洗った.それでも,,何かが,,残っているような,,気がして,,三度,,洗った.

奥の部屋からは,,相変わらず,,ゲームの音が,,聞こえていた.深夜に,,ゴミを持って,,外に出た,,母親が,,戻ってきたことを,,登は,,知らない.知ろうとも,,しない.それが,,今の,,二人の関係だと,,しず子は,,分かっていた.分かっていて,,それでも,,明日の夜も,,ゴミを回収して,,同じことを,,する.

タオルで手を,,拭きながら,,しず子は,,今夜,,田中が見た,,光景を,,田中の目から,,想像した.深夜,,零時過ぎに,,年配の女が,,大量の,,インスタント食品の容器を,,抱えて,,ゴミ場に,,いた.あの量は,,一人分では,,ない.では,,誰の,,分か.この女には,,息子が,,いた.昔,,団地で,,たまに,,顔を,,見かけたが,,ここ何年も,,見ていない.東京で働いているとか,,転勤したとか,,誰かから,,聞いた気も,,する.しかし,,田中が,,明日,,誰かに,,その話を,,するかどうかは,,分からない.するかもしれない.しないかもしれない.田中は,,無口な人間だという,,印象が,,あったが,,それは,,昼間の,,話だ.深夜に,,見た,,もの,,翌朝,,誰かに,,話すかどうか,,までは,,分からない.分からないまま,,耐える,,しかなかった.

翌朝,,土曜日,,しず子は,,仕事が,,休みだった.洗濯物を,,干しながら,,廊下に,,出た時,,向かいの,,棟の,,ベランダで,,洗濯物を,,干している,,女性と,,目が,,あった.見知った,,顔だったが,,名前は,,思い出せない.女性は,,一瞬,,しず子を,,見た後,,視線を,,下に,,落とした.普段は,,にこやかに,,挨拶する,,人だ.今日は,,違った.気の,,せいかもしれない.そう,,思おうとして,,でも,,気のせいでは,,ないかもしれないという,,考えを,,打ち消すことが,,できなかった.

昼過ぎ,,しず子は,,スーパー,,まで,,行った.店内で,,同じ団地の,,住人と,,思われる,,女性と,,すれ違った.四十代くらいで,,二階に,,住んでいる.顔は,,知っているが,,会話したことは,,ほとんど,,ない.その女性が,,しず子を,,見た瞬間に,,歩く速度を,,上げた.それだけの,,ことだ.それだけの,,ことだったが,,しず子は,,野菜売り場で,,しばらく,,同じ場所に,,立ち続けた.人参を,,手に取って,,戻した.また,,手に取って,,かごに,,入れた.何かが,,変わったかどうかは,,まだ,,分からなかった.

日曜日の,,夕方,,団地の,,敷地内を,,通ると,,ベンチに,,三人の,,老人が,,座って,,話して,,いた.しず子が,,近づくと,,会話が,,止まった.三人が,,しず子の,,方を,,見た.しず子は,,頭を,,下げて,,通りすぎた.ベンチを,,通りすぎて,,十歩,,ほどで,,低い,,声が,,した.

「…登,,君,,でしょう.やっぱり」

という,,言葉の,,断片が,,風の,,中に,,混じって,,聞こえた.聞き違い,,かもしれない.でも,,しず子の,,足は,,一瞬だけ,,遅く,,なった.それから,,早く,,なった.建物の,,中に,,入り,,階段を,,登った.踊り場の,,小窓の,,前で,,立ち止まり,,外を,,見た.老人たちは,,まだ,,ベンチに,,いて,,話し,,続けていた.こちらを,,見ている,,様子は,,なかった.

四〇二号室に,,入り,,ドアを,,閉めた.鍵を,,かけた.鍵を,,かけてから,,その,,動作に,,特別な,,意味が,,あるわけでは,,ないと,,思ったが,,かけた,,ままだい,,台所に,,向かった.インスタントの,,コーヒーを,,作り,,テーブルに,,座った.

この,,団地に,,登の,,ことが,,広まっている.その,,事実と,,今夜,,初めて,,向き合った.噂が,,広まる,,速度は,,自分の,,想像より,,早かった.田中が,,ゴミ置場で,,見た,,ことを,,誰かに,,話したのかもしれない.あるいは,,田中以外にも,,誰かが,,何かを,,見ていたのかもしれない.あるいは,,噂の,,発端は,,田中では,,なく,,別の,,ところに,,あるのかもしれない.もう,,どこから,,広まったかを,,追っても,,意味が,,なかった.コーヒーを,,飲み終えて,,カップを,,洗いながら,,しず子は,,来週の,,申告書,,提出の,,ことを,,考えた.木曜日に,,区役所へ,,行く.それだけは,,決まっている.それさえ,,終われば,,年金の,,ことは,,一段落,,する.次に,,何が,,来るかは,,来てから,,考える,,しかない.

月曜日の,,朝,,区役所に,,向かう,,バスの,,中で,,しず子は,,窓の,,外を,,見ていた.梅雨空は,,今日も,,重く,,雨の,,予報が,,出ていた.バスには,,出勤途中の,,サラリーマンや,,学生が,,乗っていて,,誰も,,しず子に,,目を,,向けなかった.この,,乗客の,,誰も,,しず子の,,ことを,,知らない.四十二歳の,,息子が,,部屋に,,閉じこもっている,,ことも,,深夜に,,ゴミを,,捨てに,,行く,,ことも,,田中の,,目が,,自分を,,見た,,ことも,,誰も,,知らない.その,,当たり前の,,ことが,,今日は,,少し,,ありがたかった.

区役所に,,ついて,,更衣室で,,制服に,,着替えた.水色の,,ネームプレートを,,首に,,かけた.午前中の,,清掃を,,初めて,,一時間,,ほど,,経った ,時,,しず子は,,一階の,,トイレを,,出て,,廊下に,,向かった.ちょうど,,四番窓口の,,前を,,通る,,ルートだ.いつもの,,ように,,横目で,,見ると,,窓口は,,今日も,,列が,,できていた.月曜日の,,朝は,,やはり,,多い.七,,八人が,,座って,,待っている.その,,中に,,見覚えの,,ある,,横顔が,,あった.田中,,だった.一階の,,田中が,,四番,,福祉生活相談の,,窓口の,,前の,,椅子に,,書類を,,膝に,,置いて,,座って,,いた.

しず子は,,足を,,止めた.一,,止めた.それから,,また,,動かした.田中が,,何のために,,相談窓口に,,来ているかは,,分からない.自分の,,年金の,,ことかもしれない.介護の,,ことかもしれない.田中には,,田中の,,事情が,,あって,,それは,,全く,,別の,,話かもしれない.でも,,しず子の,,頭の,,中で,,金曜日の,,深夜の,,光景と,,今日の,,田中の,,姿が,,重なった.それを,,理性で,,切り離しながら,,モップを,,動かし,,続けた.

火曜日,,登の,,部屋の,,ドアの,,前に,,一週間分の,,ゴミ袋を,,しず子は,,一つに,,まとめて,,おいた.以前は,,登が,,自分で,,袋に,,入れて,,出して,,いたが,,いつの,,間にか,,それも,,しず子が,,やるように,,なって,,いた.ドア越しに,,「ゴミを,,まとめて,,おきましたから,,私が,,捨てて,,きます」と,,声を,,かけた.返事は,,なかった.しず子は,,袋を,,手に,,取って,,階段を,,降りた.今日は,,昼間,,だった.敷地内で,,二階の,,住人の,,老夫婦と,,生き,,合った.老夫婦は,,しず子を,,見て,,互いに,,目を,,合わせた.その,,やり取りを,,しず子は,,見た.見た,,上で,,「こんにちは」と,,頭を,,下げた.夫婦は,,「あ,,はい」と,,だけ,,言って,,通りすぎた.

ゴミを,,捨てて,,建物に,,戻る,,途中,,井上班長が,,敷地内の,,掲示板の,,前に,,立って,,いた.しず子に,,気づいて,,井上は,,「あら,,黒沢さん」と,,言った.声は,,穏やか,,だったが,,目が,,穏やかでは,,なかった.

「先日の,,夜,,田中さんが,,ちょっと,,教えて,,くれて,,ね.ゴミ置場で,,カラスが,,来た,,とかで,,大丈夫で,,したか? 怪我は,,なかったかしら.」

「はい.おかげ様で.ご心配を,,おかけして,,申し訳,,ありません.」

「そうですか.大変でしたね.」

井上は,,一拍,,置いた.

「ゴミ,,深夜に,,捨てに,,来てたんですね.うちの,,規則では,,ゴミ出しは,,朝七時,,から,,八時半の,,間という,,ことに,,なって,,いるんです,,けど」

しず子は,,頭を,,下げた.

「はい,,申し訳,,ございません.体の,,具合が,,悪くて,,夜中,,しか,,動け,,なかったもので…以後,,気をつけ,,ます.」

「体の,,具合…大丈夫,,ですか? でも,,毎朝,,お仕事に,,行かれてる,,でしょう.」

「いえ,,まあ,,おかげ様で」

井上は,,少し,,考える,,顔を,,して,,それから,,「そうですか」と,,言った.

「あの,,黒沢さん,,この,,ご時世,,お一人で,,色々,,抱えている,,ことも,,ある,,でしょうけど,,何か,,困った,,ことが,,あれば,,相談して,,くださいね.」

その,,言葉の,,意味を,,しず子は,,二通りに,,解釈,,できた.純粋な,,親切心,,からか,,それとも,,探りを,,入れている,,のか.どちらに,,せよ,,しず子には,,「ありがとう,,ございます.でも,,大丈夫,,です」という,,,,しか,,選択肢が,,なかった.

「ありがとう,,ございます.本当に,,助かります」と,,だけ,,言って,,頭を,,下げた.井上は,,「お体に,,気をつけて」と,,言って,,掲示板の,,方に,,向き,,直った.しず子は,,建物の,,中に,,入り,,階段を,,登った.四〇二室に,,戻り,,鍵を,,閉めた.台所に,,入り,,椅子に,,座った.手を,,膝の,,上に,,置いた.指の,,先が,,冷えて,,いた.梅雨の,,湿気が,,染み込んだ,,ような,,冷たさ,,だ.田中が,,井上に,,話した.話した,,のか,,自然に,,出た,,のか,,聞かれて,,答えた,,のか,,それは,,分からない.ただ,,深夜の,,ゴミ,,上の,,ことが,,もう,,一人の,,耳に,,届いて,,いた.

水曜日,,しず子は,,午後から,,病院の,,清掃に,,向かった.往復の,,バスの,,中で,,ずっと,,窓の,,外を,,見ていた.考えて,,いたのは,,木曜日の,,申告書,,提出の,,こと,,だった.区役所へ,,行って,,書類を,,出す.登の,,名前が,,書いて,,ある,,書類を,,黒沢登,,四十二歳,,無職,,という,,事実が,,記載された,,書類を,,公的,,機関に,,提出,,する.それを,,する,,ことの,,意味を,,今更,,ながら,,改めて,,考えて,,いた.今まで,,しず子は,,登の,,ことを,,外の,,世界,,から,,隠して,,きた.隠す,,ことに,,疲弊,,しながら,,も,,隠す,,ことを,,辞める,,選択肢を,,持て,,なかった.隠す,,ことは,,登の,,ためでも,,あり,,自分の,,ためでも,,あり,,夫の,,信の,,名前を,,守る,,ためでも,,あった.しかし,,金曜日の,,夜,,田中に,,見られた.そして,,今,,井上も,,何かを,,知って,,いる.隠せて,,いなかった.八年间,,隠せて,,いる,,と,,思って,,いた,,だけで,,隠せて,,いなかった.

バスが,,病院前の,,停留所に,,ついた.清掃の,,仕事を,,始めると,,余計な,,ことを,,考え,,ずに,,済んだ.待合室の,,椅子の,,足の,,汚れを,,落とし,,廊下の,,端を,,丁寧に,,モップがけ,,し,,ゴミ箱を,,空にして,,ライナーを,,取り替える.手,,が,,動いて,,いる,,間は,,頭の,,中の,,音量が,,少し,,下がった.仕事を,,終えて,,帰宅したのは,,午後八時半,,だった.台所で,,一人で,,食事を,,しながら,,しず子は,,登の,,ことを,,考えた.登は,,今夜も,,部屋に,,いる.電気が,,ついて,,いて,,音が,,聞こえて,,いる.それだけが,,しず子が,,確認,,できる,,存在,,だった.

月曜日に,,炊き込み,,ご飯を,,作った,,時,,登は,,「ありがとう」と,,言った.あの,,声は,,本物,,だったと,,しず子は,,今でも,,思って,,いる.短く,,ぶっきら棒,,で,,電子レンジの,,音に,,消え,,そう,,だったが,,本物の,,声,,だった.あの,,声を,,思い出す,,と,,胸の,,奥が,,少し,,柔らかく,,なる,,気が,,した.それから,,田中の,,目を,,思い出した.雨に,,濡れた,,アスファルトに,,散らばった,,ゴミの,,上を,,走った,,あの,,視線.何も,,言わずに,,頷いて,,立ち,,去った,,田中の,,背中.二つの,,ものが,,しず子の,,中で,,同時に,,ある.どちらが,,本当の,,ことか,,と,,問われる,,と,,答えられ,,なかった.

木曜日の,,朝,,しず子は,,休みを,,取った.前の,,週に,,申請,,して,,あった,,ので,,上司に,,は,,特に,,何も,,言わなかった.理由は,,私用の,,ため,,と,,書いた,,書類が,,すでに,,出して,,ある.自宅の,,押入れ,,から,,薄い,,グレーの,,ジャケットを,,出した.冠婚葬祭の,,時に,,使う,,一着で,,普段は,,ほとんど,,着ない.アイロンを,,かけて,,皺を,,伸ばした.それを,,着て,,鏡の,,前に,,立った.制服でも,,エプロン姿でも,,ない,,自分を,,久しぶりに,,見た,,気が,,した.

登に,,声を,,かけて,,から,,出発,,しようか,,と,,一瞬,,思った,,が,,やめた.今朝は,,登は,,まだ,,眠って,,いる,,だろうし,,申告書を,,出しに,,行くと,,わざわざ,,告げる,,ことに,,意味が,,ある,,と,,も,,思え,,なかった.ただ,,玄関を,,出る,,前に,,一度だけ,,振り返った.奥の,,部屋の,,光は,,消えて,,いた.登は,,眠って,,いる.

しず子は,,靴を,,履いて,,外に,,出た.区役所への,,道を,,歩き,,ながら,,今日は,,制服では,,ない,,ことを,,意識,,した.同じ,,道を,,同じ,,バスに,,乗って,,いく,,のに,,自分の,,体の,,重さが,,今日は,,違う,,気が,,した.軽い,,わけでは,,ない.ただ,,違う.

区役所に,,着いた.表玄関,,から,,入った.自動ドアが,,開いて,,ロビーが,,広がった.いつも,,清掃,,して,,いる,,場所,,だ.モップで,,隅々,,まで,,知って,,いる,,床,,だ.でも,,今日は,,初めて,,来た,,場所の,,ように,,見えた.番号札を,,取った.四番,,窓口の,,前の,,プラスチックの,,椅子に,,座った.待って,,いる,,間,,しず子は,,周りを,,見た.自分と,,同じ,,くらいの,,年齢の,,老人が,,二人,,いた.若い,,女性が,,一人,,書類を,,抱えて,,立って,,いる.誰も,,しず子を,,見なかった.誰も,,しず子が,,ここで,,清掃を,,して,,いる,,人間だと,,は,,知ら,,なかった.

「四十七番の,,方,,どうぞ」

しず子は,,席を,,立ち,,窓口へ,,向かった.

噂という,,ものは,,誰かが,,意図,,して,,広め,,なくても,,広まる.それが,,しず子に,,は,,長年,,分かって,,いた,,はず,,だった.分かって,,いて,,八年间,,最新の,,注意を,,払って,,きた.それでも,,防げ,,なかった.金曜日の,,深夜の,,ゴミ場の,,ことが,,田中,,から,,井上班長,,へ,,伝わった.そこから,,先は,,しず子の,,知らない,,経路,,を,,通った.

二〇二六年,,六月,,十六日,,火曜日.朝,,区役所へ,,向かう,,バスに,,乗る,,ために,,団地の,,敷地を,,出よう,,と,,した,,時,,一階の,,前で,,立ち,,話を,,して,,いた,,二人の,,女性が,,しず子の,,姿を,,見て,,声を,,止めた.止めて,,から,,片方が,,もう,,片方に,,何かを,,囁いた.潜めた,,声の,,輪郭だけが,,風に,,乗って,,届いた.しず子は,,頭を,,下げて,,足を,,止め,,ずに,,歩いた.

バスを,,降りて,,区役所の,,通用口に,,向かう,,途中,,同じ,,業者の,,清掃員の,,村田と,,並んで,,歩いた.

「黒沢さん,,最近,,お顔の,,色が,,優れ,,ない,,ですね.お体は,,大丈夫,,ですか?

村田は,,言った.

「ありがとう,,ございます.少し,,寝不足が,,続いて,,いる,,だけで,,体は,,問題,,ありません」

しず子は,,答えた.村田は,,それ,,以上は,,聞か,,なかった.ただ,,更衣室で,,着替えて,,いる,,時,,村田の,,目線が,,一度だけ,,しず子を,,確認,,する,,ように,,向いた.気の,,せいでは,,なかった.

午前中の,,清掃を,,終えて,,昼の,,休憩に,,更衣室へ,,戻ると,,村田と,,一人の,,清掃員が,,話して,,いた,,声が,,しず子が,,ドアを,,開けた,,瞬間に,,途切れた.二人は,,特に,,動揺,,した,,様子も,,なく,,「お疲れ様,,です」と,,言った.しず子も,,「お疲れ様,,です」と,,言った.それだけの,,こと,,だった.それだけの,,こと,,だったが,,しず子は,,ロッカーの,,扉を,,開け,,ながら,,自分の,,顔が,,いつもより,,強張って,,いる,,ことに,,気が,,ついた.

木曜日,,しず子は,,申告書を,,四番,,窓口に,,提出,,した.登の,,名前が,,書いて,,ある,,書類を,,若い,,女性の,,担当者に,,手渡した.担当者は,,書類を,,確認,,し,,登の,,欄を,,一度だけ,,見て,,しず子の,,顔を,,見た.それから,,引き出しを,,開けて,,一つの,,パンフレットを,,取り出した.

「こちらも,,一緒に,,お持ち,,ください.ご家族の,,方の,,ご支援に,,つながる,,かもしれません.」

引きこもりの,,家族,,向けの,,相談窓,,案内,,だった.地域の,,社会福祉協議会が,,作って,,いる,,もので,,表紙に,,は,,「一人で,,抱え込ま,,ないで,,ください」と,,書いて,,あった.しず子は,,それ,,を,,受け取り,,鞄の,,中に,,入れた.

区役所を,,出て,,バス停へ,,向かい,,ながら,,しず子は,,今朝の,,一階の,,女性,,たちの,,ことを,,考えた.昨日の,,更衣室の,,空気の,,ことを,,考えた.それから,,手の,,中に,,ある,,パンフレットの,,ことを,,考えた.提出,,した.それだけは,,終わった.次に,,何が,,来るかは,,まだ,,分から,,ない.

金曜日の,,朝,,エレベーターの,,ない,,四階,,建ての,,段地で,,しず子は,,毎朝,,階段を,,使う.その,,日,,三階の,,踊り場で,,三階の,,村瀬という,,男性と,,生き,,合った.六十代,,後半で,,ゲートボールを,,やって,,いる,,人,,だ.以前は,,夫の,,信も,,顔,,知り,,だった.村瀬は,,しず子を,,見て,,一瞬だけ,,歩みを,,緩めた.

「黒沢さん,,息子さんの,,件,,大変,,ですね」

直接,,だった.潜めた,,声でも,,遠回し,,でも,,なかった.ただ,,平坦な,,声で,,そう,,言った.

しず子は,,「はい」と,,言った.他に,,言葉が,,出,,なかった.

「まあ,,色々,,ある,,もんです,,よ.うちも,,昔,,子供の,,ことで,,ね」

それだけ,,言って,,村瀬は,,階段を,,降りて,,いった.しず子は,,その場に,,数秒,,立って,,いた.情けな,,のか,,慰めな,,のか,,それとも,,単なる,,事実の,,確認,,だった,,のか,,判断,,でき,,なかった.ただ,,登の,,ことを,,「息子さんの,,件」と,,呼ばれた,,ことが,,何かを,,決定的に,,した,,気が,,した.もう,,隠れ,,ていない.隠れて,,いない,,ことが,,公式に,,確認,,された.

土曜日の,,夕方,,しず子が,,病院の,,清掃,,から,,帰ると,,四〇二号室の,,前の,,廊下に,,井上班長が,,立って,,いた.

「ちょうど,,良かった.黒沢さん,,少し,,よろしい,,ですか? 」

しず子は,,鞄を,,持った,,まま,,「はい」と,,言った.

「息子さんの,,こと,,なんですが」と,,井上は,,声を,,落とした.落とした,,が,,廊下に,,響く,,程度の,,声量は,,保った.「どちら,,としても,,コミュニティの,,安全を,,考える,,と,,あまり,,その,,外との,,接触が,,ない,,方が,,長期,,いらっしゃる,,の,,は,,ちょっと,,気に,,なって」

「ご本人は,,お変わり,,なく」

「はい,,変わり,,なく,,過ごして,,おります」

「そう,,ですか」と,,井上は,,一拍,,置いた.

「ゴミの,,問題も,,できれば,,規則,,通りに,,して,,いただける,,と,,他の,,住人の,,方々も,,安心,,される,,と,,思うんです,,よねえ.ゴミ当番は,,難しい,,として,,せめて,,朝の,,ゴミ出し,,だけでも,,自分で,,やって,,もらえる,,と」

しず子は,,すぐに,,は,,返事を,,しなかった.井上が,,言って,,いる,,ことは,,間違いでは,,ない.規則は,,規則,,だ.そして,,登に,,ゴミ出しを,,させる,,ことが,,現実的,,かどうかを,,井上は,,知らない.知らない,,ままで,,「せめて,,ゴミ出し,,だけでも」と,,言って,,いる.

「ご迷惑を,,おかけして,,申し訳,,ございません.以後,,気をつけ,,ます」

しず子は,,頭を,,下げた.井上は,,「よろしく,,お願い,,します」と,,言って,,階段の,,方へ,,歩いて,,いった.

四〇二号室に,,入り,,鍵を,,閉めた.台所に,,立って,,水を,,一杯,,飲んだ.コップを,,流し台に,,置いた,,時,,水音が,,大きく,,感じた.奥の,,部屋,,から,,ゲームの,,音が,,低く,,聞こえて,,いた.しず子は,,その,,音を,,聞き,,ながら,,台所の,,椅子に,,座った.申告書は,,出した.年金は,,続く.それだけは,,終わった.でも,,終わった,,ことと,,続く,,ことは,,別の,,話,,だ.

日曜日,,仕事は,,休み,,だった.洗濯を,,して,,部屋を,,掃除,,して,,夕方に,,買い物へ,,行った.生き,,返りの,,道で,,誰かと,,目が,,合う,,たびに,,しず子の,,中で,,何かが,,一ミリずつ,,削れて,,いく,,感覚が,,あった.気の,,せいかもしれない.実際に,,誰かに,,何かを,,言われた,,わけでは,,ない.ただ,,目が,,あった,,時,,相手の,,目に,,何かが,,浮かんで,,それが,,すぐに,,消える.その,,瞬間の,,間が,,少しずつ,,長く,,なって,,いる,,気が,,した.

夜,,台所で,,夕飯を,,一人で,,食べ,,ながら,,しず子は,,今月の,,残高を,,計算,,した.年金の,,振り込みは,,先週,,すでに,,あった.給与の,,振り込みは,,明後日,,だ.しかし,,今週末の,,段階で,,通帳の,,残高は,,四万二千円,,しか,,ない.病院の,,清掃で,,増えた,,収入も,,登の,,食料費と,,光熱費に,,消えた.来月の,,家賃の,,引き落とし,,まで,,二週間,,以上,,ある.数字を,,頭の,,中で,,並べ,,直して,,も,,同じ,,答えが,,出た.

月曜日の,,夜,,しず子は,,区役所,,から,,帰宅,,して,,台所で,,登の,,分の,,夕飯を,,作り,,ドアの,,前に,,置いた.それから,,自分の,,分を,,食べて,,食器を,,洗った.奥の,,部屋,,からは,,今夜も,,ゲームの,,音が,,して,,いた.洗い物を,,終えて,,しず子は,,押入れを,,開けた.一番,,下の,,段の,,奥に,,古い,,貸箱が,,入って,,いる.その,,中に,,夫の,,信の,,遺品の,,書類を,,まとめて,,ある.死亡診断書の,,写し,,銀行口座の,,解約,,手続きの,,書類,,そして,,一通の,,封筒.封筒の,,表に,,は,,信の,,字で,,「しず子,,へ」と,,書いて,,あった.しず子は,,それを,,取り出さ,,なかった.ただ,,封筒の,,存在を,,確認,,して,,また,,貸箱に,,戻した.

その,,貸箱の,,隣に,,別の,,書類が,,入って,,いた.薄い,,緑色の,,ファイル,,だ.中身は,,しず子,,自身の,,生命保険の,,証書,,だった.夫が,,死んだ,,翌年,,しず子は,,保険の,,見直しを,,した.担当者に,,進められる,,まま,,死亡保険金,,五百万円の,,就学,,保険に,,加入,,した.保険料は,,月に,,七千円.十年間,,それを,,払い,,続けた.解約は,,して,,いない.しず子は,,ファイルを,,手に,,取り,,証書を,,確認,,した.受け取り人は,,黒沢,,登に,,なって,,いた.証書の,,数字を,,しず子は,,眺めた.五百万円.今の,,相場で,,タッパーに,,入れた,,炊き込み,,ご飯が,,何食分に,,なるか,,すぐに,,計算,,できた.登の,,インスタント,,ラーメンが,,一食,,百円,,として,,五万食分,,だ.毎日,,三食,,食べて,,も,,四十五年以上分,,だ.もちろん,,家賃も,,払わ,,なければ,,ならない,,から,,実際に,,は,,そこ,,まで,,持た,,ない.それでも,,今の,,生活を,,続ける,,より,,は,,長く,,持つ.そういう,,計算を,,し,,終わって,,して,,から,,自分が,,何を,,計算,,して,,いる,,かに,,気が,,ついて,,ファイルを,,閉じた.押入れに,,戻して,,扉を,,閉めた.

台所に,,戻り,,お茶を,,沸かした.湯が,,湧く,,までの,,時間,,しず子は,,ガスの,,火を,,見て,,いた.青い,,炎が,,揺れ,,ずに,,燃えて,,いた.お茶を,,入れて,,テーブルに,,座った.窓の,,外では,,雨が,,降って,,いた.梅雨は,,まだ,,続いて,,いる.この,,雨が,,いつ,,終わる,,かは,,予報を,,見て,,も,,長期では,,分からない,,と,,書いて,,あった.

火曜日の,,夜,,登が,,また,,台所に,,来た.しず子が,,食器を,,洗って,,いる,,と,,廊下,,から,,足音が,,して,,台所の,,入り口に,,登が,,立った.今日は,,少し,,顔色が,,悪かった.目の,,下の,,色素の,,沈着が,,いつも,,より,,濃く,,見えた.

「ちょっと,,頭,,痛い.バファリン,,ある? 」

「あります.少し,,待って,,ください」

しず子は,,薬箱を,,出して,,バファリンを,,二錠,,取り出した.それを,,登に,,渡した,,時,,指先が,,わずかに,,触れた.登の,,手は,,冷たかった.六月の,,夜,,エアコンを,,かけ,,続けた,,部屋に,,いる,,と,,そう,,なる.

「水も,,持って,,きましょう,,か? 」

「いい.自分で,,やる」

登は,,コップに,,水を,,汲んで,,薬を,,飲んだ.それから,,椅子に,,寄りかかる,,ように,,立って,,しばらく,,目を,,閉じた.しず子は,,洗い物を,,再開,,した.登が,,いる,,間は,,背中を,,向けて,,いた,,方が,,登が,,楽,,そうだ,,という,,ことを,,長年の,,経験で,,知って,,いた.

「最近,,外,,うるさく,,なって,,きた.」

登が,,言った.しず子の,,手が,,少し,,遅く,,なった.

「うるさい,,って,,いう,,のは…廊下,,とか,,声が,,する,,から」

しず子は,,何も,,言わ,,なかった.登が,,何を,,感じ,,取って,,いる,,かは,,分からない.部屋の,,中に,,いて,,も,,廊下の,,音は,,聞こえる.住人の,,話し声が,,ドア,,越しに,,届く,,ことも,,ある.

「気の,,せいかもしれない,,けど」と,,登は,,続けた.「なんか,,変な,,感じが,,する」

「そう,,ですか」と,,しず子は,,言った.それ,,以上は,,言わ,,なかった.登は,,コップを,,流し台の,,横に,,置いて,,台所,,から,,出て,,いった.ドアが,,閉まり,,鍵が,,かかった.

しず子は,,洗い物の,,手を,,止め,,流し台の,,前に,,立った,,まま,,目を,,閉じた.登は,,何かを,,感じて,,いる.廊下の,,空気の,,変化を,,ドア,,越しに,,感じ,,取って,,いる.登が,,感じて,,いる,,という,,ことは,,しず子の,,思って,,いた,,よりも,,ずっと,,登は,,この,,団地の,,空気を,,読んで,,いる.閉じ,,こもって,,いて,,も,,外の,,変化は,,伝わる.その,,ことが,,しず子の,,胸の,,中で,,重く,,なった.

水曜日,,仕事,,から,,帰宅,,して,,階段を,,上がって,,いる,,時,,四階の,,廊下に,,人の,,気配,,した.四〇二号室に,,近い,,場所,,だ.廊下に,,出る,,と,,隣の,,四〇三号室の,,前に,,見知らぬ,,女性が,,立って,,いた.四十代,,くらいで,,エプロンを,,して,,いる.四〇三号室に,,は,,最近,,新しく,,入居,,した,,家族が,,いる,,と,,聞いて,,いた.その,,家族の,,一人,,だろう.女性は,,しず子を,,見て,,会釈,,した.しず子も,,会釈,,した.

「お隣,,ですか?

」と,,女性が,,言った.

「はい.四〇二の,,黒沢と,,申します.よろしく,,お願い,,いたします」

「ああ,,よろしく,,お願い,,します.あの,,ちょっと,,お聞き,,して,,も,,いい,,ですか? 」

しず子は,,「はい」と,,言った.

「夜中に,,ゲームの,,音が,,少し…うちの,,子供の,,部屋が,,壁,,一枚で,,隣に,,なって,,いる,,みたい,,で」

しず子は,,即座に,,頭を,,下げた.

「大変,,申し訳,,ありません,,でした.すぐに,,対処,,いたします」

女性は,,「ご事情が,,ある,,と,,は,,思う,,のです,,が」と,,言って,,それ,,以上は,,続け,,なかった.しず子が,,下げた,,頭を,,しばらく,,見て,,から,,「よろしく,,お願い,,します」と,,言って,,自室に,,入った.しず子は,,廊下に,,一人,,残った.

登に,,音量を,,下げる,,よう,,伝え,,なければ,,ならない.それは,,分かって,,いた.ただ,,それを,,どう,,伝えるか,,が,,問題,,だった.メモを,,書いて,,ドアの,,下,,から,,差し,,込む,,か,,声を,,かける,,か,,ドアを,,叩く,,か.いつも,,なら,,メモに,,する.しかし,,先月,,節電の,,メモを,,丸め,,て,,返された,,経験が,,しず子の,,中に,,残って,,いた.

夕飯を,,作り,,登の,,分を,,ドアの,,前に,,置いた,,後,,しず子は,,ドアの,,前に,,立った.三回,,軽く,,ノック,,した.

「登,,少しいい,,ですか? お隣に,,新しい,,方が,,越して,,きて,,いて,,夜の,,音が,,少し,,聞こえて,,いる,,みたい,,で…できれば,,ヘッドフォンを,,使って,,もらえる,,と,,お互い,,助かるん,,です,,が」

沈黙が,,あった.十秒,,ほど,,経って,,から,,ドアの,,向こうで,,何かが,,動く,,音が,,した.それから,,低い,,声が,,言った.

「分かった」

それだけ,,だった.しず子は,,「ありがとう」と,,言って,,台所に,,戻った.翌日,,から,,深夜の,,ゲームの,,音は,,聞こえなく,,なった.代わりに,,薄い,,音で,,流れる,,動画の,,声が,,時々,,廊下,,まで,,届いた.ヘッドフォンを,,して,,いる,,のか,,音量を,,絞って,,いる,,のか,,そこ,,まで,,は,,分から,,なかった.ただ,,以前,,より,,静かに,,なった.

木曜日の,,夜,,しず子は,,布団に,,入った,,が,,一時間,,経って,,も,,眠れ,,なかった.今月の,,残高の,,ことを,,考えた.来月の,,出費を,,考えた.登の,,保険証が,,来年の,,春に,,更新に,,なる,,ことを,,考えた.国民,,健康,,保険料の,,支払いが,,追いついて,,いない,,ことを,,考えた.それぞれが,,独立,,した,,問題では,,なく,,全部が,,繋がって,,いた.

二時間,,後,,しず子は,,布団,,から,,出た.台所で,,麦茶を,,飲んで,,から,,台所の,,窓を,,少し,,開けた.雨は,,止んで,,いた.夜の,,湿った,,空気が,,入って,,きた.押入れの,,ことを,,また,,考えた.考えて,,しまう,,ことを,,止める,,方法が,,分から,,なかった.

台所の,,窓を,,閉め,,廊下を,,通って,,ベランダ,,へ,,続く,,窓の,,前に,,立った.カーテンを,,少し,,開ける,,と,,夜の,,敷地が,,見えた.街灯の,,下,,雨上がりの,,アスファルトが,,光って,,いた.ベランダに,,出た.手すりの,,錆びた,,金属が,,冷たかった.四階の,,高さ,,から,,見る,,と,,敷地内の,,様子が,,よく,,わかった.誰も,,いない.深夜の,,団地は,,静か,,だった.向かいの,,棟の,,いくつか,,の,,窓に,,まだ,,灯りが,,ついて,,いる.どこかで,,誰かが,,起きて,,いる.

しず子は,,手すりに,,手を,,かけた,,まま,,しばらく,,そこに,,立って,,いた.五百万円,,という,,数字が,,また,,頭に,,浮かんだ.登の,,手に,,触れた,,時の,,冷たさが,,指先に,,残って,,いた.バファリンを,,渡した,,時の,,その,,数秒,,「頭,,痛い」といった,,声,,「分かった」と,,言った,,声,,「ありがとう」と,,言った,,声.言葉は,,少ない,,が,,確かに,,届いた,,声,,たちが,,しず子の,,中に,,あった.

夜風が,,来た.廊下の,,奥で,,音が,,した.かさり,,と,,いう,,音,,だった.登の,,部屋の,,ドアが,,動く,,音,,だ.しず子は,,耳を,,澄ました.廊下を,,歩く,,足音.台所の,,冷蔵庫が,,開く,,音.水の,,注がれる,,音.それから,,低く,,抑えた,,咳払いが,,一つ.登が,,起きて,,いる.深夜に,,登が,,部屋,,から,,出て,,水を,,飲んで,,いる.

しず子は,,ベランダの,,手すり,,から,,手を,,離した.部屋の,,中,,から,,聞こえて,,くる.水を,,飲み,,終えた,,後の,,足音を,,聞き,,ながら,,しず子は,,ゆっくりと,,ベランダ,,から,,室内に,,戻った.カーテンを,,閉めた.

廊下に,,出る,,と,,登の,,部屋の,,ドアは,,もう,,閉まって,,いた.かすかな,,光の,,筋が,,ドアの,,下,,から,,漏れて,,いた.しず子は,,その,,光を,,しばらく,,見て,,いた.細い,,光,,だった.この,,世に,,確かに,,存在,,して,,いる,,ことを,,それだけが,,静かに,,示して,,いた.その,,光が,,消えて,,しまった,,ら,,もう,,ここに,,何も,,ない,,のだ,,と,,しず子に,,は,,思えた.

台所に,,戻り,,椅子に,,座った.押入れの,,保険証の,,ことは,,もう,,考え,,なかった.考えよう,,と,,する,,と,,登の,,咳払いの,,音が,,戻って,,きた.「頭,,痛い」といった,,声が,,戻って,,きた.それで,,十分,,だった.

お茶を,,入れ,,直して,,両手で,,持った.温かかった.窓の,,外は,,まだ,,夜,,だった.梅雨の,,雨が,,また,,降り,,始めて,,いた.屋根を,,叩く,,音は,,小さく,,静か,,だった.しず子は,,その,,音を,,聞き,,ながら,,お茶を,,少しずつ,,飲んだ.眠くは,,なかった.眠れ,,なくて,,も,,いい,,と,,思った.ここに,,いる.それだけが,,今夜の,,答え,,だった.

人は,,ある,,朝,,突然,,何かを,,決める.大きな,,理由が,,ある,,わけでは,,ない.昨日と,,今日の,,間に,,劇的な,,出来事が,,起きる,,わけでも,,ない.ただ,,布団,,から,,出る,,時の,,体の,,傾き,,方が,,今日は,,いつも,,と,,少し,,違う.それだけの,,ことが,,その,,日,,一日の,,方向を,,変える,,ことが,,ある.

二〇二六年,,六月十九日,,金曜日.梅雨の,,雨は,,夜明け,,頃に,,一度,,上がり,,朝の,,空は,,白く,,持って,,いた,,が,,傘が,,必要な,,ほどでは,,なかった.黒沢,,しず子は,,仕事を,,一日,,休んだ.前の,,夜の,,うちに,,上司の,,係り員に,,連絡を,,入れて,,あった.私用の,,ため,,という,,理由,,だ.病院の,,清掃の,,方も,,同じ,,理由で,,休みを,,申請,,した.一日に,,二つの,,仕事を,,同時に,,休む,,のは,,今年,,初めての,,こと,,だった.

朝,,六時に,,起きた.いつもと,,同じ,,時刻,,だ.アラームが,,鳴る,,前に,,目が,,覚めた,,点も,,いつも,,と,,変わらない.違う,,のは,,起き,,上がって,,から,,台所へ,,向かう,,途中で,,押入れを,,開けた,,こと,,だ.薄い,,グレーの,,ジャケットを,,取り出した.先週,,区役所へ,,行く,,時に,,着た,,もの,,だ.ハンガーに,,かけた,,まま,,一度,,手で,,撫でて,,皺を,,確認,,した.大きな,,皺は,,ない.アイロンを,,かける,,ほどでは,,ない,,が,,念の,,ために,,蒸気を,,当てた.

台所で,,コーヒーを,,飲み,,ながら,,今日,,する,,ことを,,頭の,,中で,,整理,,した.一つ目は,,区役所の,,四番,,窓口に,,行く,,こと.先週,,提出,,した,,申告書に,,印鑑が,,足りて,,いなかった.登の,,署名は,,あった,,が,,印影が,,何も,,押されて,,いなかった.後日,,担当者,,から,,連絡が,,来て,,確認が,,必要,,だ,,と,,言われた.それを,,自分で,,解決,,して,,窓口で,,確認,,する.二つ目は,,その,,後で,,商店街に,,よる,,こと.二つ目の,,要件に,,ついては,,まだ,,自分,,の中では,,はっきり,,と,,言葉に,,なって,,いなかった.ただ,,昨夜,,台所で,,お茶を,,飲み,,ながら,,頭に,,浮かんだ,,ことが,,ある.登が,,子供の,,頃,,夏に,,なる,,と,,必ず,,食べて,,いた,,もの,,が,,ある.

コーヒーを,,飲み,,終えて,,コップを,,洗った.身支度を,,整え,,ながら,,鏡の,,前に,,立った.グレーの,,ジャケット,,白い,,ブラウス,,黒い,,スラックス.髪は,,後ろで,,まとめた.化粧は,,薄く,,した.六十八歳の,,顔が,,鏡に,,映って,,いる.目の,,下の,,皺が,,深い.肌の,,色も,,ない.でも,,今日は,,それで,,いい.整える,,だけで,,十分,,だ.

玄関を,,出る,,前に,,廊下の,,奥を,,見た.登の,,部屋の,,ドアは,,閉まって,,いた.光は,,消えて,,いる.今の,,時刻,,登は,,まだ,,眠って,,いる,,はず,,だ.しず子は,,声を,,かけ,,なかった.今,,声を,,掛ける,,必要は,,ない,,と,,思った.ただ,,台所の,,テーブルに,,小さな,,メモを,,置いた.

「今日は,,夕方,,まで,,外出,,します.夕飯は,,帰って,,から,,作ります」

それだけ,,だ.

外に,,出る,,と,,空気が,,湿って,,いた.梅雨らしい,,重さが,,肌に,,触れた.しかし,,雨は,,降って,,いない.傘を,,持って,,いく,,か,,どうか,,一瞬,,考えて,,折りたたみ,,傘を,,鞄に,,入れた.

バス停,,まで,,歩く,,途中,,敷地内の,,ベンチの,,前を,,通った.ベンチに,,は,,誰も,,いなかった.朝の,,早い,,時間帯で,,住人,,たちは,,まだ,,動き,,出して,,いない.しず子は,,ベンチの,,前を,,通り,,過ぎ,,ながら,,先週,,ここで,,老人,,たちの,,話し声の,,断片を,,聞いた,,ことを,,思い出した.「登,,君,,でしょう」という,,声.それを,,聞いた,,瞬間,,足が,,早く,,なった,,ことも,,思い出した.今日は,,足が,,早く,,なら,,なかった.普通の,,速度で,,歩いた.ベンチの,,前を,,通り,,すぎて,,敷地の,,外に,,出た.

バスで,,区役所へ,,向かい,,ながら,,窓の,,外を,,見て,,いた.梅雨の,,空の,,下,,町並が,,灰色に,,沈んで,,いた.信号,,町の,,車,,自転車で,,急ぐ,,人,,コンビニの,,前に,,立って,,携帯を,,見て,,いる,,若い,,男.誰も,,が,,それぞれの,,朝の,,中に,,いた.しず子も,,自分の,,朝の,,中に,,いた.

区役所に,,着いた,,のは,,開館,,直後の,,九時,,過ぎ,,だった.今日も,,表玄関,,から,,入った.清掃員の,,通用口で,,は,,なく,,市民が,,使う,,自動ドア,,から,,ロビーに,,入る,,と,,モップを,,かけた,,ばかりの,,床が,,光って,,いた.昨日,,か,,昨,,誰かが,,ここを,,拭いた.自分が,,使う,,道具と,,同じ,,道具で,,誰かが,,拭いた,,床を,,今日は,,革靴で,,歩いて,,いる.

四番,,窓口の,,前で,,番号札を,,取り,,椅子に,,座った.待って,,いる,,間,,しず子は,,鞄の,,中,,の,,書類を,,確認,,した.登の,,署名の,,ある,,書類,,それと,,担当者,,から,,後日,,送られて,,きた,,補足,,説明の,,手紙.手紙に,,は,,「本人,,または,,同居人の,,印鑑が,,必要」という,,旨が,,書いて,,あった.

印鑑の,,話を,,した,,のは,,三日前の,,夜,,だった.台所に,,登が,,水を,,飲みに,,来た,,時,,「一つ,,お願いが,,あります」と,,しず子は,,切り,,出した.

「書類に,,印鑑を,,押して,,もらえます,,か? あなたの,,印鑑で,,なくて,,も,,構い,,ません,,そう,,です」

登は,,コップを,,持った,,まま,,少し,,間を,,置いた.

「印鑑,,どこ,,ある?

「押入れの,,書類,,箱の,,中に,,昔の,,が,,あります.認め,,印,,ですが,,それで,,大丈夫,,です」

翌朝,,ドアの,,前に,,申告書が,,戻って,,いた.印鑑が,,押して,,あった.黒沢の,,三文判が,,補足,,説明の,,手紙の,,指定,,欄に,,綺麗に,,押されて,,いた.それを,,鞄に,,入れて,,今日,,ここに,,いる.

番号が,,呼ばれた.

「四十七番の,,方,,どうぞ」

しず子は,,席を,,立ち,,窓口へ,,向かった.担当者は,,先週と,,同じ,,若い,,女性,,だった.書類を,,受け取り,,印の,,欄を,,確認,,して,,もう,,一度,,しず子を,,見た.

「確認,,できました.これで,,手続きは,,完了,,です.来月,,以降も,,引き続き,,遺族,,厚生,,年金の,,お振り込みが,,続きます」

「ありがとう,,ございます.大変,,お世話に,,なりました」

しず子は,,頭を,,下げた.深く,,ゆっくりと.担当者は,,「お気をつけて,,お帰り,,ください」と,,言った.

窓口を,,離れて,,ロビーへ,,向かい,,ながら,,しず子は,,今,,終わった,,ことの,,重さを,,測った.登の,,名前が,,書類に,,残った.黒沢,,登,,四十二歳,,無職,,同居,という,,事実が,,公的な,,記録に,,なった.それは,,八年间,,隠し,,続けて,,きた,,ものが,,一枚の,,紙に,,書かれて,,役所に,,収まった,,という,,こと,,だ.恥ずかしい,,とか,,悔しい,,とか,,そういう,,感情が,,出て,,くる,,と,,思って,,いた,,が,,出て,,こ,,なかった.ただ,,終わった,,という,,感覚だけが,,あった.

自動ドアを,,抜けて,,外に,,出た.曇り,,空の,,下,,役所,,前の,,広場を,,歩いた.ベンチに,,老人が,,一人,,座って,,遠くを,,見て,,いた.噴水は,,止まって,,いた.梅雨の,,季節は,,噴水を,,止める,,のかもしれない,,と,,しず子は,,なんとなく,,思った.

バスは,,すでに,,商店街へ,,向かった.商店街の,,アーケードに,,入る,,と,,午前中の,,ため,,まだ,,人が,,少なかった.八百屋,,魚屋,,薬局,,クリーニング店が,,並んで,,いる.週に,,一度,,か,,二度,,しず子が,,通る,,ことも,,ある,,道,,だ.目当ての,,店は,,アーケードの,,中程に,,ある.「福田」という,,看板の,,和菓子屋,,だ.「創業,,昭和,,三十年代」と,,書かれた,,木の,,看板が,,軒先に,,下がって,,いる.ガラスの,,小ケースの,,中に,,季節の,,生菓子が,,並んで,,いた.

店先に,,立って,,ショーケースを,,見た.練り切りで,,作られた,,味噌の,,和菓子が,,今日の,,主菓子として,,並んで,,いた.薄紫と,,白の,,花びらを,,持した,,小さな,,菓子,,だ.梅雨の,,季節に,,合わせた,,意匠な,,のだろう.

「いらっしゃい,,ませ」

店の,,奥,,から,,白い,,割烹着を,,着た,,女性が,,出て,,きた.六十代,,くらいで,,髪を,,後ろで,,まとめて,,いる.

「味噌の,,歯,,菓子を,,一つ,,ください」

「はい,,ありがとう,,ございます.本日の,,賞味,,期限が,,本日中と,,なって,,おります,,が,,よろしい,,でしょうか? 」

「はい,,大丈夫,,です.帰宅,,中に,,食べます,,ので」

女性は,,菓子を,,一つ,,小さな,,菓子箱に,,入れて,,薄い,,紙で,,包んだ.丁寧な,,手付き,,だった.

「お一つ,,で,,よろしい,,ですか? 」

「はい,,一つ,,で」

代金を,,払って,,包みを,,受け取った.手の,,中の,,軽さが,,不釣り合いに,,感じた.こんなに,,軽い,,ものを,,買う,,のに,,ここ,,まで,,来た.しかし,,軽い,,ことが,,今日は,,重要,,だった.

アーケードを,,出て,,バス停へ,,向かい,,ながら,,しず子は,,手の,,中の,,包みを,,見た.登が,,小学校に,,上がる,,前の,,夏,,夫の,,信が,,和菓子を,,買って,,きた,,ことが,,あった.当時,,住んで,,いた,,アパート,,から,,少し,,歩いた,,ところに,,和菓子屋が,,あって,,信が,,たまに,,買って,,くる,,ことが,,あった.登は,,その,,中,,の,,練り切りが,,特に,,好きで,,他の,,もの,,より,,先に,,食べた.あの,,頃の,,登の,,顔を,,しず子は,,まだ,,覚えて,,いる.前歯が,,抜け,,かけて,,いた,,夏の,,顔,,だ.それが,,三十年,,以上,,前の,,こと,,だ,,とは,,自分で,,も,,うまく,,信じ,,られない.

バスで,,団地の,,最寄り,,停留所,,まで,,戻った.降りて,,から,,敷地に,,入る,,前に,,少し,,立ち,,止まった.今日は,,誰かに,,会う,,かもしれない.井上班長に,,会う,,かもしれない.村瀬に,,会う,,かもしれない.田中に,,会う,,かもしれない.あったら,,挨拶,,する.頭を,,下げる.それだけ,,だ.今日は,,不思議と,,それだけの,,ことが,,それだけの,,ことに,,見えた.

敷地に,,入った,,ベンチに,,今度は,,人が,,いた.二階の,,老夫婦,,だ.しず子が,,近づく,,と,,二人が,,こちらを,,見た.しず子は,,「こんにちは」と,,言い,,ながら,,頭を,,下げた.老夫婦は,,しばらく,,しず子を,,見て,,から,,「こんにちは」と,,返した.それだけ,,だった.しず子は,,そのまま,,歩き,,続けた.

階段を,,登り,,ながら,,手の,,中の,,包みを,,持ち,,直した.四〇二号室の,,ドアを,,開けて,,中に,,入った.台所の,,テーブルに,,置いた,,メモは,,そのままに,,なって,,いた.登は,,起きて,,いる,,か,,どうか,,奥の,,部屋を,,見る,,と,,ドアの,,下,,から,,薄い,,光が,,漏れて,,いた.起きて,,いる.

台所で,,鞄を,,椅子に,,かけ,,ジャケットを,,脱いだ.お茶を,,淹れて,,から,,包みを,,開けた.小さな,,菓子箱の,,中に,,味噌の,,練り切りが,,一つ,,入って,,いた.薄紫と,,白が,,重なった,,花びらの,,形が,,箱の,,中で,,静かに,,あった.

しず子は,,お茶を,,一杯,,入れて,,練り切りの,,箱を,,持って,,廊下に,,出た.登の,,部屋の,,ドアの,,前に,,立った.ノックを,,三回,,した.

「登,,今日,,区役所で,,書類が,,受理され,,ました.年金の,,ことは,,一段落,,しました.ありがとう.」

沈黙が,,あった.

「これ,,今日,,だけ,,賞味,,期限が,,ある,,お菓子,,です.ドアの,,前に,,置いて,,おきます.よかったら,,食べて,,ください」

そう,,言って,,練り切りの,,入った,,小さな,,菓子箱を,,ドアの,,前に,,置いた.台所に,,戻った.お茶を,,両手で,,持って,,テーブルに,,座った.

今日,,一日の,,ことを,,順番に,,思い,,返した.バス停,,まで,,歩いた,,こと.区役所の,,ロビーの,,床の,,光り,,方.担当者の,,「手続きは,,完了,,です」という,,言葉.商店街の,,和菓子屋の,,割烹着の,,女性が,,菓子を,,包む,,手つき.バスの,,窓,,から,,見えた,,曇り空.これだけの,,ことが,,今日,,あった.それほど,,多くは,,ない.しかし,,今日の,,しず子に,,は,,それで,,十分,,だった.

お茶を,,半分,,飲んだ,,ところで,,廊下の,,奥で,,音が,,した.登の,,部屋の,,ドアが,,開いた.しず子は,,台所,,から,,動か,,なかった.廊下を,,見,,なかった.ただ,,音を,,聞いた.足音が,,ドアの,,前で,,止まった.何かを,,拾い,,上げる,,音.紙箱,,だ.それから,,足音が,,戻り,,ドアが,,閉まった.鍵の,,かかる,,音は,,し,,なかった.

しず子は,,お茶の,,残りを,,飲んだ.台所の,,時計を,,見る,,と,,午後二時を,,少し,,過ぎて,,いた.夕飯の,,支度,,まで,,は,,まだ,,時間が,,ある.今日は,,何を,,作ろうか,,と,,しず子は,,考えた.昨日の,,残りの,,もやし,,炒めが,,ある.豆腐が,,一丁,,ある.冷蔵庫に,,卵が,,三つ,,ある.卵豆腐に,,しようか,,それとも,,卵焼きに,,しようか.そういう,,ことを,,考え,,ながら,,しず子は,,台所の,,椅子に,,座って,,いた.

梅雨の,,曇り,,空,,から,,また,,小雨が,,落ち,,始めた,,音が,,屋根に,,届いた.強くは,,ない.しばらく,,すれば,,止む,,かもしれない.奥の,,部屋,,から,,音は,,聞こえ,,なかった.しず子は,,立ち,,上がり,,冷蔵庫を,,開けた.卵を,,取り出して,,手の,,中で,,転がした.今日の,,夕飯を,,作る,,ための,,卵が,,手の,,ひら,,の中に,,あった.それだけの,,ことが,,今夜も,,ここで,,続く,,という,,こと,,だった.

劇的な,,和が,,あった,,わけでは,,ない.抱き,,合った,,わけでも,,涙を,,流した,,わけでも,,言葉を,,交わした,,わけでも,,ない.ただ,,練り切りを,,一つ,,ドアの,,前に,,置いて,,登が,,それ,,を,,持って,,部屋に,,戻った.それだけの,,ことが,,今日,,起きた,,全部,,だ.それで,,十分な,,のか,,と,,問われる,,と,,しず子に,,は,,答えられ,,ない.十分では,,ないかも,,しれない.もっと,,多くの,,ことが,,必要な,,のかも,,しれない.登に,,は,,いつか,,外の,,世界へ,,出て,,欲しい,,と,,思って,,いる.でも,,それが,,いつに,,なる,,かは,,今日の,,しず子に,,は,,見え,,ない.見え,,ない,,まま,,今夜の,,夕飯を,,作る.それが,,今日の,,しず子に,,できる,,ことの,,全部,,だ.

台所の,,窓,,から,,雨が,,少し,,強く,,なって,,きた.雨粒が,,アスファルトを,,叩く,,音が,,建物の,,外,,から,,届いた.梅雨は,,まだ,,終わって,,いない.明日も,,明後日も,,この,,湿めった,,空気の,,中で,,目が,,覚める,,朝が,,続く,,のだろう.それでも,,しず子は,,今日の,,練り切りを,,登が,,受け取った,,ことを,,知って,,いる.確認,,した,,わけでは,,ない.見た,,わけでも,,ない.ただ,,足音が,,止まって,,何かを,,拾う,,気配が,,あって,,また,,部屋へ,,戻って,,いった.それが,,確かに,,あった.鍵の,,かかる,,音が,,し,,なかった.それだけが,,今日,,一日の,,中で,,しず子が,,密かに,,気に,,留めた,,こと,,だった.

卵を,,ボールに,,割り,,入れて,,箸で,,解いた.醤油を,,少し,,垂らして,,出汁を,,足した.フライパンを,,温め,,ながら,,しず子は,,奥の,,部屋の,,方,,を,,一度だけ,,見た.光が,,漏れて,,いた.ドアの,,下,,から,,細く,,静かに,,今夜も,,ここに,,いる.しず子も,,登も.それだけが,,今日の,,終わりに,,しず子の,,中に,,ある,,こと,,だった.雨の,,音が,,続いて,,いた.