その日、病院に休みの者が出たせいで、帰宅は真夜中になった。暗闇に包まれた自宅の門をくぐり、玄関のドアに手をかけた瞬間、急に腕を誰かに掴まれた。思い切り引っ張られ、悲鳴を上げようとした口を、別の手が塞ぐ。そのまま引きずり込まれたのは、庭の隅にある古い物置だった。
恐怖で全身が強張り、もがきながら声を出そうとしたその時、耳慣れた声が聞こえた。
「静かに。声を立てないで」
なんと、私を物置に引きずり込んだのは義母の静子さんだった。意外な声の主に耳を疑ったが、続けて物置の外から漂うガソリンの匂いに気づき、今度は鼻を疑った。そして板壁の隙間から外を覗き込んで、最後に目まで疑うことになる。
そこには、ガソリンの入った携行缶を持った夫の正彦さんと、義姉の和美さんが立っていた。
「まだ帰らないのか。音が聞こえたんだけどな」
「あいつがこの世から消えてくれれば、遺産は全部私たちのものね」
二人は囁き合っている。私を亡き者にしようとしているのか。信じられない光景と会話に、私は震えが止まらなかった。
「あなたも見たわね。いい?私の言う通りにして」
静子さんはそう言うと、ゆっくりと私の口を塞いでいた手を退けた。私は静子さんの話を最後まで聞き、そして言われた通りに行動することを決めた。
私の名前は瑠璃。両親はすでに亡く、今は看護師として地元の市民病院に勤めている。看護学校を卒業してから長年同じ病院で働いているが、職場の人間関係にはずっと悩まされていた。一時は本気で辞めようかと考えたこともあった。そんな私の運命を変えてくれたのが、静子さんだった。
静子さんは肺炎で入院してきた患者さんで、私が担当になった。入院当初は重度の肺炎で、一時はどうなることかと心配されたが、無事に快方へ向かうと、静子さんは私のことを「命を救ってくれた神様みたいな人だ」と言って、とても感謝してくれた。さらには、私が仕事のことで悩んで表情が硬くなっているのをいち早く見抜き、「大丈夫よ」と声をかけてくれる。そんな時は私も患者さんということを忘れて、悩みを打ち明け、相談に乗ってもらった。その関係は退院してからも続き、時間を見つけては二人でお茶を楽しむ仲になった。私も亡くなった両親の話などをして、親睦を深めていった。
看護学校を卒業してからずっと同じ病院に勤めていた私は、男性との出会いがほとんどなかった。三十代になっても結婚の見通しが立たないことを、お茶の席で冗談っぽく静子さんに相談すると、「私の息子で良かったら」と紹介してくれたのが正彦さんだった。同じ三十代で会社員として働く普通のサラリーマンだったが、食事に誘われてから、お互い音楽や映画の趣味が合うなど、何かと縁を感じることが多かった。交際から一年が経った頃にプロポーズを受け、私はその申し出を素直に受け入れた。結婚が決まると静子さんはとても喜んでくれた。私たちは看護師と患者という不思議な縁を経て、嫁と義母という関係になったのである。
正彦さんは結婚しても仕事を続けていいと言ってくれたので、私はそのまま看護師を続けた。人間関係の悩みはあるとはいえ、働き慣れた職場だし、いずれ子供ができたら働けなくなるのだから、今のうちに稼いでおこうと考えたからだ。
しかし、そんな矢先に一家に大きな問題が降りかかることになる。
「お袋から電話があって、親父が自宅で倒れたらしいんだ」
夫は会社から帰るとすぐにネクタイを緩め、冷蔵庫から缶ビールを取り出してその場で飲むのがいつもの習慣だったが、その日も蓋を開けながら淡々とそう言った。
「まあ、それは大変なことじゃないですか」
「まあ、だから明日でも親父の様子を見に行かないか」
「そんなの当たり前ですよ」
私は大変なことになったと落ち着かなかったが、実の父親が倒れたというのに、一向に気にした様子もなく酒を飲んでいる正彦さんの気持ちが、どうしても分からなかった。義母である静子さんのことも気にかかる。きっと今頃ショックを受けて困っているに違いないと思うと、私はすぐにでも駆けつけたい気持ちになった。
翌日、病院にお見舞いに行った私たちは、落ち込む静子さんから辛い事実を聞かされた。
「体の半分に麻痺が残るらしくて、退院しても今までの生活はできないらしいの」
看護師の私は、それがどれだけ大変なことなのかをよく知っていた。これから大変な介護生活が始まるのである。介護の知識がほとんどない静子さん一人で義父を支えられるか心配だったが、そこで正彦さんがある提案を出した。
「退院したら、俺たちもお袋の手伝いをする必要があるな。幸い瑠璃は看護師だから、介護も慣れてるだろう」
静子さんは私に遠慮して正彦さんの申し出を断ったが、私も静子さんを助けたいという気持ちが強く、心よく引き受けることにした。しかし帰りの車の中で、夫は予想だにしないことを口にした。
「マンションを引き払って、実家に住むことにしよう。瑠璃も仕事は辞めて、親父の介護に専念してほしい。もちろん何でも協力する」
仕事を辞めるのはまだしも、義母との同居までは考えていなかったので戸惑ったが、義父の今後を考えると、常にそばにいることは賢明だと思った。
「分かったわ」
私は正彦さんの言う通り、仕事を辞めて静子さんの家に同居することにした。静子さんは「何もそこまでしなくても」と申し訳なさそうだったが、私にとっては、義母の前に友人でもあった静子さんの力になりたいという気持ちが勝ったのである。
そして実家での同居生活が始まった。義父は思っていたよりも麻痺が強く、ほぼ全てのことに介助が必要だった。体の半分が麻痺している義父は、一人では食事もうまく口に運べないため、スプーンで口に運んであげなければならない。他にも体を拭いたり、着替えをさせたり、もちろんトイレのお世話もした。それらは介護に慣れていない静子さんには難しいことばかりで、私がそれらの全てを一人で行う状況になっていた。それなのに、当初「何でも協力する」と言っていた正彦さんは、仕事が忙しいという理由で全く介護を手伝ってくれなかった。
看護師として働いていたとはいえ、一日中介護していれば疲れてしまう。それなのに、正彦さんは毎晩遅くに仕事から帰ってきては、「早く飯を作れよ」「風呂を沸かせよ」と命令ばかりするのだ。以前から特別優しい人というわけではなく、口喧嘩になることも結構あったのだが、義父母との同居が始まってから、極端に私に対する当たりが強くなった気がする。
「ごめんなさいね、瑠璃さん。正彦には注意するのだけど、『夫に尽くすのが嫁の勤めだ』なんて言って、考えを曲げないのよ」
静子さんの昼食を終え、一息つく間の休憩がてら、私と静子さんは台所でお茶を飲んでいた。静子さんも正彦さんの態度の悪さに頭を悩ませているらしく、ここ最近は謝罪を繰り返すばかりだった。
「静子さんが謝ることはないですよ。正彦さんも仕事で疲れてるんです。ここからだと通勤時間も長くなりましたし」
「でも、正彦があんな態度を取るなんて、仕事がいくら何でも帰りが遅すぎるし、何かあるんじゃないかしら」
少し考えすぎかなと思ったが、静子さんは友達付き合いをしていた頃から本当に私のことを心配してくれる。義母となった今でも「静子さん」と呼ぶくらい仲が良いし、介護のことだって、自分にできることは精一杯やって、少しでも私の負担を軽くしようと努めてくれているのは伝わってくる。確かに辛い介護生活ではあるが、静子さんの存在が私の大きな支えになっているのは間違いなかった。
しかし、義父は私たちの懸命な介護も虚しく、半年後に亡くなってしまった。悲しみにくれる静子さんを励まそうとする一方で、正彦さんは自分の父親が亡くなったというのに、一向に悲しそうな素振りを見せない。介護を押し付けて命令ばかりし、帰りも遅かったりと、正彦さんの態度は明らかにおかしいと感じていたが、何かそれ以上のことがあるわけでもないのも事実で、私はすっきりしない気持ちを抱えていた。
静子さんは日に日に明るさを取り戻しつつあったが、しばらくはそばにいてあげた方がいいのではないかと思っていた。正彦さんも特に動きがないので、そのまま実家での暮らしが続いたのだが、事態は思わぬ方向へ向かってしまう。
ある日、私よりも少し年上の、見慣れない女性が家にやってきた。
「あら、和美じゃないの?」
玄関で出迎えた静子さんは驚きの声を上げていた。
「お母さん、今まで心配かけてごめんね。お父さんが亡くなったって聞いて、慌てて帰ってきたの。これからは私がお母さんの面倒を見るからね」
和美さんは正彦の姉で、長年音信不通になっており、私も初めて顔を合わせた。何でも、勤め先の会社が精神的にきつくて辞めてしまい、今は無職の日々だという。
「瑠璃さん、これまで家のことをありがとう。あとは私に任せて、正彦と一緒に新しい家を探すといいわ。私も今は仕事をしていないわけだし」
これまでの苦労をねぎらってくれた和美さんに感謝の気持ちを抱いた私だったが、正彦さんは突然の姉の気遣いに胡散臭さを感じたという。
「きっと親父の遺産が目当てなんだよ、姉貴のやつ。俺たちの結婚式でさえ顔を見せなかったくせに、見え見えなんだよ」
「親父の遺産って言っても、そんなにあるわけじゃないでしょうし」
「困ったなあ」
仮に和美さんがそのつもりでも、義父が亡くなったばかりなのにそんなことを言う正彦さんも不謹慎だと私は思った。さらに、このまま実家に住んで姉の行動を監視すると言い出す始末。それだけならまだしも、和美さんは当初「家のことは任せて」と言っていたのに、私たちが実家に残る決断をしたと知った途端、態度が急変して冷たくなり、まるで火花のように私をこき使うようになってしまった。正彦さんも和美さんに対してはギスギスしているのに、私に命令する時は一緒になってするのだから、以前よりも立場が悪くなってしまった。
しかし、そんな地獄のような日々を送っていても、いつも私の味方をしてくれる静子さんの存在が唯一の救いだと思っていた。ところが、そんな静子さんから衝撃的な言葉を聞かされるのである。
「あなたは二人の言う通りにしておけばいいの?」
え?静子さんまで、私を攻撃し始めたのだ。あんなに優しかった静子さんまでもが、私に冷たい態度を取るようになった。いきなり背中を押されて崖から突き落とされた気分だった。激しく動揺してしまう。しかし、よく考えてみれば、和美さんが帰ってきてから静子さんは変わってしまった。やはり、いくら静子さんでも、実の娘の方が可愛かったということだろう。こうなってしまっては、私の味方になってくれる人は一人もいない。
耐えきれなくなった私は、正彦さんとの離婚を考えるようになっていく。そして同時に、看護師の仕事を再開することに決め、少しでも家から離れておきたいと思ったのだ。
その日は病院に休みの者が出た影響で、帰りが真夜中になってしまい、辺りは暗闇に包まれていた。疲れてはいたが、さすがにこの時間からこき使われることはないだろうと思い、ほっとして家に入ろうとしていたその時だった。暗闇の中から急に私の腕を掴む手が現れ、思い切り引っ張るのである。とっさに悲鳴をあげようとしたが、その口ももう一本の手で塞がれてしまう。そして腕を引っ張られながら引きずり込まれたのは、自宅の庭にある古い物置だった。あまりの恐怖心から最悪の事態を想像した私はもがきながら声を出そうとしたが、その時、聞き慣れた声が聞こえてきた。
「静かに」
なんと、私を物置に引きずり込んだのは静子さんだったのだ。意外な声の主に耳を疑ったが、続けて物置の外から漂うガソリンの匂いに気づき、私は鼻まで疑った。そして物置の隙間から外を見ると、最後に目まで疑うことになる。そこにはガソリンが入っていると思われる携行缶を持った正彦さんと和美さんが立っているではないか。
「まだ帰らないのか。音が聞こえてたんだけどな」
「あいつがあの世に旅立ってくれれば、遺産は全て私たちのものね」
二人は私を亡き者にする計画を話し合っているのだ。あまりに衝撃的な光景と、自分の身に振りかかるかもしれない出来事に、私は震えた。
「あなたも見たわね。いい?私の言う通りにして」
静子さんはそう言うと、ゆっくりと私の口を塞いでいた手を退けた。私は落ち着いて静子さんの話を聞くことにした。全ての話を聞き終えると、私は玄関の扉を開け、いつもより大きめの声で「ただいま」と言った。しかし、正彦さんも和美さんも姿を現さなかった。
これから何も知らないふりをし続けるのは大変だが、やらなければならない。私は普段通りシャワーを浴び、終わるとそのまま冷蔵庫へ向かった。入浴後にペットボトルのお茶をコップ一杯飲むのが私の毎日のルーティーンとなっている。その日もなるべく普段通りにコップにお茶を注ぐのだが、その手は震えていた。そして目をつぶり、今後のことがうまくいきますようにと願いながら、私はお茶を一気に飲み干した。
ベッドに入り、明かりを消して布団を被るのだが、やはりこれから起こるかもしれないことを考えると、落ち着いてはいられなかった。そのまま三十分ほど経った頃、何か焦げた匂いがしてきたなと思うと、台所がある辺りから音が聞こえ始める。この匂いとパチパチというその音は、火が燃える音に間違いなかった。やはり静子さんが話していた展開通りになりそうで、私は唾をゴクリと飲んでベッドから起き上がった。
「きゃあ、大変。火事よ。お母さん、早く逃げなきゃ」
「おふ。さあ、早く一緒に逃げよう。俺がいれば安心だから」
声が聞こえてきたので窓の外を見ると、二人が静子さんを抱えて家から飛び出す姿が見えた。私は部屋を出て台所に向かうと、火は勢いよく燃え広がっており、素手では手がつけられない状態になっていた。私は、さっきまでの落ち着かなかった心が嘘のように、冷静にその燃え盛る炎を見ていた。不思議なもので、いざその場面に直面すると、意外と冷静でいられるものである。
私は静子さんと打ち合わせしていた裏庭に通じる窓から、あの二人に気づかれないようにそっと避難した。外では近隣住民が野次馬として集まり、騒然としていた。
「話してくれ。妻がまだ中にいるんだ」
「正彦、もう手遅れよ。今入ったらあなたまで危険だわ」
「愛する妻を見捨てるわけにはいかないだろう。頼む、話してくれ」
野次馬の最前列で、正彦さんが私の名前を叫んで家に戻ろうとするのを、和美さんが必死で止めようとしている姿があった。私は遠目でその光景を見ながら、鼻で笑ってしまった。あんな茶番を見せられて、本当に恥ずかしい限りである。私なら無事よ。これ以上恥をさらさないでほしいと思ったので、物陰から姿を現した。
「え?瑠璃、どうしてお前がここに?」
「う、嘘。なんで生きてるの?」
私の姿を見た二人は、まるで幽霊でも見るかのような顔をしていた。
「全く、兄弟揃って芝居が下手なこと」
私が不気味に笑うと、二人は青ざめた顔をして、その場に膝から崩れ落ちていった。
「瑠璃さん、怪我はない?よかったわ。無事で。警察には私が連絡しておいたから、心配ないわ」
「ありがとうございます。静子さん。私は見ての通り、怪我一つしていません。でも、どちらかと言うと、この二人の方が平気じゃなさそうですね。私より先に避難したくせに、おかしなことですね」
「おい、一体これはどういうことだ?」
正彦さんは取り乱しながら、私と静子さんを交互に見る。
「なんで瑠璃がここにいるんだ?計画と違うじゃないか。姉貴、さては知ってたな」
正彦さんは鋭い目を向けて和美さんを睨みつけた。
「ちょっと待ちなさいよ。なんで私のせいになるわけ?そもそもあんたの計画が間違いだったんじゃないの?」
依然として野次馬が集まり騒然とする中、二人はお構いなしに相手のせいばかりにして、見苦しく罵り合っていた。
「やめなさい。あんたたちは本当に、なんて恥知らずなんでしょう」
いつもは優しい静子さんが、こんなに声を張り上げるのを私は初めて見たので、驚いてしまった。
「あなたたちの計画は、事前に静子さんから聞かされて、全部知っていたのよ。だから私は、騙されたふりをしていただけなの」
「な、なんだって?お、お袋が、どうして俺たちの計画を?」
「あんたたちが、瑠璃さんが受け取っているご両親の遺産目当てで火事を起こして、瑠璃さんを亡き者にしようと話し合っているのを、聞いてしまったのよ」
静子さんの告白に、二人は顔を見合わせて驚いていた。
「思えば、私がいけなかったんだよ。前に瑠璃さんのご両親が、大変な資産家で土地を多く所有しているという話を正彦にしてしまったのが、いけなかったんだ」
静子さんは涙を浮かべて後悔しているようだった。
「静子さんは何も悪くないですよ。私が静子さんとお茶をしている時に、世間話のつもりで亡くなった両親の話をしたのが発端なんですから」
「どうは言っても、瑠璃さんには本当に申し訳ない思いでいっぱいよ。二人の悪事を止めるためとはいえ、あなたにわざと辛く当たる演技をして距離を取って、今回の計画を探ろうとしていたんだから」
「いいんですよ。それに、逆に感謝していますし、ほっとしているんですよ、私。やはり静子さんは、いつもの優しい静子さんだったんだって、分かったんですから」
私は静子さんに優しく微笑む。すると少しほっとしてくれたのか、静子さんは涙を拭いて私の手を取ってくれた。義母と嫁という関係よりも、また仲の良い友達関係に戻れたようで、私はとても幸せだった。そんな私たちに対し、二人は虫を噛みつぶしたように見苦しい表情をしながら、その場に座り込んで呆然と見ているしかなかった。
やがて静子さんが呼んだ消防車が到着すると、火は何とか消し止められ、近隣住宅に被害はもたらさなかったものの、自宅は半焼状態になってしまう。野次馬たちもいなくなり、私たちは消防隊の人に言われた通り庭に待機していた。二人は初め何も語ろうとしなかったが、これから火災の実況見分があると伝えられた途端、観念して私たちに全てを白状した。
それによると、風呂上がりに毎日必ず私がお茶を飲むことを知っていた二人は、あらかじめお茶の中に睡眠導入剤を入れて、私が寝ている間にガソリンを巻いて火をつけ、巻き込もうとしたらしい。静子さんは事前にその計画を聞いていたから、二人に気づかれないようにこっそりお茶をすり替えてくれていたのだった。私はその話を事前に物置で聞かされていたから、何も知らないふりをして普段通りに振る舞っていたけど、お茶を飲んだり布団を被る時は、さすがに緊張した。心のどこかで半信半疑な気持ちはあったのだが、実際に火災が発生し、二人の計画が本当だったと確信すると、私は二人に対して本当に愛想が尽きてしまい、逆に落ち着きを取り戻したのであった。
「ちっ、今までの計画が全部台無しだよ。これも全部お袋のせいだ」
「そうよ。こいつの遺産があれば、お母さんだって楽できるじゃないの」
二人は揃いも揃って静子さんを罵倒し始めたが、なんて愚かな兄弟なんだろうと、私は冷ややかな目で見ていた。
「お父さんも草の陰から泣いて見ているに違いない。子供が犯罪を犯そうとしているのを黙って見ていられるわけないじゃない。少しは親の気持ちになってみなさいよ」
静子さんはまた涙を浮かべて、必死に愚かな二人に訴えていた。
「静子さん、大丈夫ですか?」
「ええ、ごめんなさいね。瑠璃さんには本当に見苦しいところを見せてると思うわ」
「私は大丈夫です。それに、話はまだ終わりじゃないですし」
私がそう言うと、静子さんはゆっくりと頷き、ポケットから一枚の紙を取り出して正彦さんに突きつけた。
「正彦、あんたは今回の騒動を引き起こしたばかりか、瑠璃さんに隠れて不倫をしていたね。それがこの証拠」
それは静子さんが探偵に依頼していた、正彦さんの不倫の調査報告書であった。
「え、う、嘘だろ?そんなことまで知っていたなんて」
正彦さんは開いた口が塞がらず、呆然としていた。
「あんたは瑠璃さんのご両親の遺産を独り占めにして、その不倫相手と海外に逃げようとしていたんでしょ」
「な、なんでそんなことまで知ってんだよ。探偵がそこまで調べたのか」
「いいえ。探偵さんから浮気相手の女性の家を聞いて、私が直接話を聞いてきたの。もちろん、その時の証言もちゃんと録音しているわ」
淡々と事実を語る静子さんを前に、正彦さんはなす術もないといった感じだった。
「ちょっと、遺産は山分けにするんじゃなかったの?あんた、私を騙して独り占めにしようとしてたっていうの?」
和美さんが激しく怒って詰め寄る。
「うるさい。瑠璃の遺産は、夫である俺が相続するのは当たり前だ。姉貴は無関係なんだよ」
「あんたね、話が違うじゃないの。私はお金が必要なの」
消防車が到着した後も、私の遺産を巡って大声で罵り合う二人は、あまりに醜かった。
私は、静子さんに物置で今回の計画を聞かされた時、ショックというよりも、むしろ「そうだろうな」という気持ちの方が勝っていた。静子さんは、二人が今回の計画を話し合っているのを聞く前から、正彦さんの異変を感じていたらしい。私に対して急に当たりが強くなっていた正彦さんに、ずっと違和感があったそうだ。それに、そもそもあの兄弟と亡くなった義父は、昔から仲が良くなかったそうだ。和美さんが家を出て行ったのも、義父の影響だったそうだし、正彦さんも義父が倒れたことを知っても、特別心配するとは思えなかったそうだ。そう言われれば、義父が倒れたことをビールを飲みながら淡々と喋っていたことも、辻褄が合う。
ところが静子さんの予想に反し、正彦さんはアパートを引き払ってまで義父の看病のために実家に帰ってきた。予想外の正彦さんの行動に、静子さんは不思議に思ったそうだが、二人が今回の放火を計画している話の中で、実家に引っ越してきた理由も語っていたという。義父が亡くなった際の遺産を少しでも多くもらえるように、静子さんに媚びを売るためというのも理由だったそうだが、一番の目的は、私をこの家で亡き者にしようと企んでいたからなのだそうだ。マンションだと火事を起こした場合、防災設備も整っているからうまく火が回らない可能性があるし、二人暮らしだったら自分が疑われる可能性が高くなるからというものだった。そこで、古い実家なら火も回るだろうし、静子さんがいれば自分が疑われる心配もないと考えたのだそう。そして、いずれ亡き者にしようとしている相手だったから、あれだけ当たりが強く冷たい態度を取っていたのだそうだ。
正彦さんの計画はあまりに残酷なものであったが、物置でこの話を聞いても、私は冷静だった。さらに不倫に関しても、静子さんが正彦さんを疑ったのは、毎晩仕事の帰りが遅くなっていたからで、そこで探偵に頼んで調査を行ってもらったところ、随分前から不倫をしていたという事実が判明したのだそうだ。浮気相手の家が、住んでいたマンションよりも遠くなったため、帰りが遅くなったというわけだ。全ての話をあの物置で聞かされても、私は正彦さんから裏切られた気持ちは全く湧き起こらず、それだけ私もあの過酷ないびりに心が冷え切ってしまったんだろうなと感じるのであった。
「あんたたちがこの計画を話し合っている声も録音してあるし、瑠璃さんに飲ませようとしていた睡眠導入剤入りのペットボトルも、ちゃんと物置に保管してあるんだから、きちんと警察に届けさせてもらいます」
いつもの優しさは今はなく、厳しく毅然と満ちた静子さんの姿に、二人は完全に意気消沈してしまっていた。そして最後に、静子さんは二人に言い放つ。
「あんたたちは、もう私の子供でも何でもないからね」
何も言い返せない二人は、小さくなって俯くしかなかった。
その後、二人は放火及び殺人未遂の容疑で逮捕された。お茶から出された睡眠導入剤は、和美さんが処方されたものだった。正彦さんの不倫についてもその後詳しく分かり、以前から女遊びが激しかったらしく、高級ブランドや宝石類を貢ぐ日々。最初は自分のお金で賄っていたが、職場で経理の仕事をしていた正彦さんは、その立場を悪用して会社のお金にまで手をつけ始めた。ところが最近になって役員が一新されたらしく、経理に対するチェックが厳しくなるという噂が広がり、正彦さんは使い込みが発覚することを恐れた。そのタイミングで父に介護が必要になり、ゆくゆくの遺産相続を有利にするため引っ越しを決意したのと、私の資産のことを静子さんから聞いていたことを思い出した。そこで和美さんと共謀して私を亡き者にして遺産を受け取り、その一部を使い込みの穴埋めに回そうと考えたのだそうだ。裁判が始まっても、「残りは愛人と海外で過ごすつもりだったのに、お袋のせいで邪魔された」と、正彦さんは反省の色を全く見せない。
こんな最低な人間とは、ゆくゆく離婚するつもりなのだが、私はその前にやりたいことがあった。家が半焼した自宅が再建されるまでの間、私は静子さんと新しく借りたアパートで暮らすことを提案する。静子さんは今回の二人の恥辱を何度も謝罪したが、静子さんは何も悪くないので、私はこれまで通りの関係を望んだ。そして、嫁と義母の関係のうちに、私は亡くなった親の遺産である土地を全て売却すると、そのお金で静子さんの自宅の再建費用に充て、残りは慈善事業に寄付した。静子さんは涙を浮かべて感謝してくれたが、私は、たとえ他人同士になってからも、ずっと静子さんと友達でいたいと思っている。



