「どうしてあなたがここにいるの?」
高級レストランの個室。バースデーケーキでも出てくるのかと思っていたテーブルの上に、夫と、その隣に座る見覚えのある女が、私に向かって突きつけたもの。それは、一枚の離婚届だった。
しかも、夫の欄にはすでに判が押されている。私は冷めた目でそれを見つめた。
何年も冷え切っていた夫婦関係。それでも夫が私の誕生日を祝ってくれると言い出した時点で、何か裏があるとは思っていた。だが、まさか浮気相手と揃って、こんな趣味の悪いサプライズを仕掛けてくるとはね。
私はテーブルの上の離婚届を手に取ると、にっこり笑って言った。
「そう。なら、これはもらっておくわ。その代わり、あなたたちには私からの最後の贈り物をあげる」
そう言って、私は事前に用意していた一通の手紙をテーブルに置いた。
「ちゃんと読んでね」
二人の勝ち誇った笑い声を背中に聞きながら、私はレストランを出た。
私の名前はアキナ。もともとは一般企業でOLとして働いていたが、夫・シンゴの強い勧めで結婚を機に退職し、専業主婦になった。
夫とは同期入社で、共通の趣味がきっかけで親しくなった。話が上手で甘いところがある彼に、私の方から積極的にアプローチして、付き合って結婚した。もともと引っ込み思案なところがあった私は、彼の言うことにできるだけ従ってしまう癖があった。それがうまくいっている証拠だと思っていた。
会社からの評価も高く、出世コースにいたシンゴは、結婚後すぐにこう言った。
「仕事に打ち込みたいから、お前は辞めて家庭に入ってくれ」
「でも、私、今の仕事好きだし、やっと任されたプロジェクトもあるの」
「女がどれだけ頑張ったって、俺より出世できるわけないだろう。だったら今のうちに家庭に入って、俺を支えてくれた方がいい」
そう言われて、私は納得するしかなかった。本当は仕事を続けたかったけれど、彼の言う通りなのかもしれないと自分に言い聞かせて、退職した。
結婚後も、シンゴの態度はどんどん強くなっていった。
「次の休みに実家に行こうと思うんだけど」
「俺がそういう義理堅いことが嫌いって知ってるだろ。仕事で疲れてるんだ。休みの日は自分の時間が欲しい。お前の親なんだから、お前だけで行けばいいだろう」
結婚前の挨拶と式以来、彼が私の両親と顔を合わせることは一度もなかった。私は時々一人で実家に帰って両親に会っていたが、そのたびに大好きな両親を蔑ろにされているようで悲しかった。
そんな夫婦生活も十年が経った。
「お帰りなさい。ちょうどあなたの好きな料理を作っていたところよ」
仕事を終えて帰宅したシンゴを明るく出迎える。しかし彼は私の顔を見ると、うんざりしたようにため息をついた。
「ああ、そういうの、もういいよ。恩着せがましくてうんざりする。疲れてるから今日は飯いらない。寝るために帰っただけだ。明日も早いから、放っておいてくれ」
冷たく言い放って、寝室にこもろうとする背中を、私は呆然と見つめた。今日も食べてもらえなかった。
最近は特に帰りが遅く、夕食を外で済ませてくることがほとんどだった。それでも私は専業主婦として料理を作って、夫の帰りを待った。いつからこんなにすれ違うようになったのだろう。目に涙を滲ませながら、食べてもらえなかった料理にラップをかけて冷蔵庫に入れた。
最初こそうまくいっていた夫婦関係も、シンゴが役職付きの立場になってからおかしくなった。仕事のストレスが溜まっているのか、家に帰っても疲れたからと言ってコミュニケーションを拒否することが増えていった。それでも諦めずに話しかけると、彼はさらに苛立つだけ。私が何をしても空回りした。
時が解決してくれると思ったが、月日が経つほど溝は深くなっていった。仕事が忙しいせいで攻撃的になっているのだろうと自分に言い聞かせ、私はできるだけ彼の感情を逆撫でしないように、おとなしく彼の帰りを待つだけの日々を送っていた。
そんな私の気持ちを踏みにじる事件が起きたのは、ある日のことだった。
帰宅したシンゴが入浴していると、家の電話が鳴った。
「もしもし。こちら、部長のお宅でしょうか? 会社にスマートフォンを忘れていらっしゃるようなので」
声からして若い女性だった。
「本人はお風呂に入っているので、出たら伝えておきますね」
「ああ、それでしたら届けに行きますよ。部長の家、知ってますから」
「いえ、そんなわけには。夫に後で取りに行かせますので」
「私、時間ありますから大丈夫です。じゃあ、今から向かいますね」
強引な彼女に押し切られて、結局届けてもらうことになった。
「ねえ、あなたの部下の人がスマホを忘れてるから届けに来るって。若い女の子の声だったけど」
上がってきた夫にそう伝えると、シンゴは明らかに目を泳がせて挙動不審になった。
しばらくしてインターホンが鳴り、玄関を開けると、そこには二十代前半くらいの若い女性が立っていた。ミニスカートに少し濃いめの化粧をした、男の人に好かれそうな見た目。甘えたような口調で我が家の玄関を覗き込むその女を、直感的に嫌な感じだと思った。
「メグミ君、わざわざすまなかったな」
私の横を通り抜けて、夫はその女の前に立った。親しげな雰囲気でスマートフォンを受け取っている。
「またね、シンゴさん」
そう言って彼女は去っていった。玄関には彼女がつけていたブランドものの香水の匂いが残っていた。
「随分、部下の人と仲がいいのね」
「なんだ、急に。メグミはただの部下だぞ」
「その割には、お互いを名前で呼び合ってるのね。電話では部長って呼んでたのに、来た時はわざと私に聞かせるようにシンゴさんって呼んでたわ」
「人懐っこいところがあるんだ。俺以外の人間も下の名前で呼んでるよ」
「それに、よく家が分かったわね。上司の自宅なんて普通覚えないでしょうに」
「何が言いたいんだ」
私の探るような言動に、夫がとうとう逆上した。普段の私ならこんな風に問い詰めることはなかった。だが、夫に浮気相手がいるのではないかということは、女の勘で薄々感じていた。相手を調べるまでには至っていなかったが、直感でさっきのメグミが相手で間違いないと思った。
「いつも仕事で帰りが遅いって言ってたけど、本当は別の理由があったんじゃないの? 浮気相手と会ってたんでしょう?」
「うるさいな。彼女とはただの遊びだよ」
「認めるのね」
「仕事でストレスが溜まってるところに、彼女の方から誘いを受けて、それで流されただけだ。食事に行ったくらいで、体の関係なんてない。それくらい浮気のうちに入らないだろう」
しつこく問い詰める私に根負けしたのか、シンゴは浮気を認めた。しかしあくまで肉体関係はないと言い張る。二人の雰囲気からして、プラトニックな関係のはずがない。だが、今の私にはそれを証明する証拠もなかった。
「そもそも俺が浮気したからって、どうするんだ? 離婚するか? 専業主婦で仕事のブランクがあるお前が、俺と別れて就職できるわけないだろ。そうなって生活に困るのはお前だぞ」
自分の行いを棚に上げて、シンゴは私を馬鹿にしたように意地悪く笑った。夫の言う通り、私は十年仕事をしていない。彼は私が簡単に離婚できないことを分かって、高をくくっていた。
「俺に養ってもらっている分際で偉そうに。ちょっと若い子と話したくらいで、お前に叱られる筋合いはない」
「もういいわ」
私は呆れて話を切り上げた。
「美人の若い子に嫉妬してるのか? 専業主婦のババアは、おとなしく俺に従っていればいいんだよ」
鼻で笑って暴言を吐くと、夫はリビングへ戻っていった。
あれだけ好きだった相手なのに、今回のことがきっかけで気持ちが急速に覚めていくのが分かった。このままやられっぱなしにはしない。絶対に謝らせてやるから。私は心の中で復讐を誓った。
それから、表面的にはいつもの日常を過ごした。シンゴは悪びれた様子もなく、帰宅はいつも遅い。唯一私が変えたことと言えば、彼の料理を作るのをやめたことくらいだ。一度帰ってきた彼に「飯は」と聞かれたことがあったが、いつ帰ってくるか分からない人間には作る気がないと伝えた。彼は自分勝手に怒って、「もう二度とお前の料理なんて食べない」と言った。
そうやってどんどん冷めていく夫婦関係の中、私の誕生日が近づいたある日、珍しく夫の方から話しかけてきた。
「おい、今度のお前の誕生日、レストランの予約を取っておいたから」
もちろん近年、誕生日を祝われたことなんてない。急にどういう風の吹き回しかと思ったが、私は特に追求せずに「ありがとう。楽しみにしてる」とだけ言った。何を企んでいるのかは分からない。だが、彼の態度からして本当に祝おうとしているわけではないことは見えていた。
念のために準備をしておいた方がいいかもしれない。私は信吾と、そして浮気相手のメグミにも大ダメージを与えるであろうものを用意することにした。
誕生日当日。夫は本当に店を予約していた。雑誌でよく取り上げられている高級レストランだ。中に通され、私と夫の二人で席に向かう。
しかし、案内されたテーブルには信じられない人間が座っていた。
「どうしてあなたがここに?」
「あら、奥様、お久しぶりです。私も奥様のお誕生日をお祝いしたくて、シンゴさんにお願いしたんですよ」
以前家に訪ねてきた時と同じように、露出の高い服に濃い化粧の女。そこにいたのは、浮気相手のメグミだった。
「あなた、これはどういうこと?」
隣にいた夫を問い詰めるが、シンゴはそ知らぬ顔で何も答えない。
「まあまあ、座ってくださいよ。これを見たら、全て分かりますから」
メグミはそう言って、私の目の前に一枚の紙を突きつけてきた。
「奥様へ。私とシンゴさんから誕生日プレゼントです」
それは一枚の離婚届だった。よく見ると、夫の欄にはすでに判が押されている。
「お前との生活にはもう飽きたんだよ。離婚してほしい」
なんて趣味の悪いサプライズだろう。わざわざレストランを予約して。普通に離婚届を渡せばいいものを、最後まで私を馬鹿にしたいのね、あなたたちは。
「最後に美味しいものでも食べて、すっきり別れて欲しいと思っただけですよ」
メグミは底意地の悪そうな表情でニヤニヤしながら、私の反応を見ている。この悪趣味なシチュエーションは彼女が考えたのだろう。
「ちょっとしたジョークみたいなものだろう。そんなにショックだったか? まさか本当に俺に誕生日を祝ってもらえると思ってたのかよ」
「そこまで私もおめでたくないわ。何か企んでるんじゃないかとは思ってたけど、まさかここまでわけの分からないサプライズだとはね」
「なら、負け惜しみですか?」
「そうね。私の負けよ。浮気相手と一緒になって、人を馬鹿にして喜ぶようなつまらない男。あなたにあげるわ。これは提出させてもらうから」
私はそう言って、テーブルの上の離婚届を取った。
「代わりに、あなたたちにはこれをプレゼントするわ。私からの最後の贈り物よ。ちゃんと読んでね」
私は事前に用意していた一通の手紙をテーブルに置くと、二人に背を向けてレストランを出ようと歩き出した。背後からは、二人の勝ち誇ったような下品な笑い声が聞こえてきた。
私は離婚届を手に、足早にある場所へ向かった。離婚届は二十四時間受理が可能なことを知っていた。幸い、ここから役所は近い。すぐにでも出しに行こうと歩き出す。あんな男との縁など、早く切ってしまいたかった。
思っていた通り、役所の窓口はまだ開いていた。これでやっとあの男から解放される——そう思っていると、大声で私を呼ぶ声が聞こえてきた。
「おい。アキナ、待ってくれ」
役所の入り口。私の姿に気づいた信吾が呼び止めてきた。よほど急いで駆けつけてきたのだろう。息が荒い。その隣には浮気相手のメグミもいた。彼女の髪は、さっき店で見た時とは打って変わってボサボサになっている。二人とも私を追いかけるために走ってきたのだろう。
「あら、何の用?」
あの手紙を見て二人が慌てて追いかけてくることは分かっていたが、私はわざとしらじらしく聞いた。
「離婚は冗談だ。浮気も全てお前の気を引くための作り話だ。サプライズだったんだよ。ほら、俺たち、仲が良かっただろう?」
「随分苦しい言い訳ね」
「本当なんです。私は部長に頼まれて、サプライズに協力しただけで」
必死な表情で言い訳を繰り返す二人を無視して、私は役所の中に入ろうとした。二人が手のひらを返したような態度を取ってくるのは、私が渡したあの手紙を読んだからだ。
あの手紙には、信吾の会社にとって最も重要な取引先である会社の社長が、実は私の父親だということを書いておいた。シンゴは私の父親が会社を経営していることは知っていたが、結婚式以来一度も顔を合わせていないことと、私の旧姓がごくありふれたものだったため、取引先の社長が私の父親だとは全く気づいていなかった。
事実を知ったシンゴは、さぞ顔面蒼白になっただろう。父の力を使えば、同じ会社に務めている二人の首を飛ばすことなど容易いからだ。
「今ならまだやり直せる。戻ってきてほしい。頼む。この通りだ」
シンゴは人通りのある役所の前で、見苦しくも地面に土下座をした。メグミもそれを見て、同じように地面に突っ伏す。二人はよほど仕事を失うのが嫌らしい。
「あら、もう遅いわ。そんな情けない格好を見せてくれたのに悪いけど、すでに離婚届は提出した後ですもの」
「嘘だ。つくな!」
「期待させてしまって悪いけど、窓口に鞄を忘れちゃったから、取りに行くところだったのよ。ごめんなさいね、勘違いさせて。もうすでに私とあなたは赤の他人よ」
私は両手を見せて、鞄を持っていないことをアピールした。二人は役所の入口にいた私に追いつけたのだと勘違いしてしまったようだが、すでに私は窓口で離婚届を提出していたのだ。
「くそっ。浮気もしてない夫と離婚なんて、後で後悔するのはお前だぞ!」
「そうよ。ただのサプライズを真に受けて、冗談も通じないの?」
離婚届を出させないために慌てて追いかけてきたのに、結局それも無駄に終わったことに腹を立てたのか、二人は再び態度を変えて悪態をつき始めた。
「あら、あくまで白を切り通す気なのね。あなたたちの関係を証明する証拠は、とうの昔に集めて終わってるわ」
「証拠だって?」
「ええ。あなたは私が離婚されたら生活に困るから、あのまま浮気を認めるだろうと思ってたんでしょうけど、残念ね。私はあそこまでコケにされて黙っていられるような女じゃないのよ」
私は水面下で探偵事務所に依頼し、二人の行動を監視してもらっていた。調査の結果、シンゴもメグミも日常的に密会を繰り返していたことが分かった。ホテルに二人が仲睦まじく入っていくところの写真もある。肉体関係はないという主張は、もうできないだろう。
「あなたたちがいくら不倫を否定しようと、証拠は全部揃ってるわ。今後は弁護士経由で話をさせてもらうから、楽しみにしていてね。二人にはたっぷり慰謝料を払ってもらうから」
真っ青になった二人に、私はにっこり笑ってそう言い放った。
「嫌だ! 俺を捨てないでくれ!」
すると信吾が立ち上がり、私に追いすがって泣きついてきた。
「やめてよ、情けない。思ってもないことを。仕事を失いたくないからって、よく言えるわね。私みたいなおばさんより、若いあの子と仲良くすればいいじゃない」
私が振りほどこうとしても、信吾はわあわあ泣きながら決して離れようとしない。どうしようかと困っていると、騒ぎに気づいたパトロール中の警察官が何事かと声をかけてきた。事情を話して、信吾を取り押さえてもらう。
「うぅ……どうしてこんなことに……」
信吾は地面に突っ伏して泣いていた。
「全部あなたの自業自得よ。じゃあね」
私は警察にその場を任せ、信吾に別れを告げてその場を後にした。
その後、私は弁護士を通して二人に慰謝料を請求した。二人の関係を証明する証拠が全て揃っていたこともあって、言い逃れができないと悟ったのか、二人ともしぶしぶ慰謝料を払うことに合意した。
父と母に離婚したこと、そしてその理由を伝えると、二人は激怒した。今まで付き合いを避けてきた信吾に元々いい感情を持っていなかったこともあって、父は信吾とメグミの会社に「社員教育はどうなっているんだ」と詰め寄ったらしい。父の剣幕に会社の重役たちは青い顔になり、二人を懲戒処分にするから怒りを納めて欲しいと懇願したようだ。
信吾は部長職を剥奪され、出世コースから完全に外れ、地方の支社へ左遷された。メグミも同じく地方へ飛ばされたが、二人が左遷された経緯はすでに社内で大きな噂になっていて、不倫カップルとして周囲から白い目で見られることになった。二人は社内の冷たい雰囲気に耐えられず、結局は自主退職をすることになったようだ。
それから風の噂で聞いた話だが、退職後、収入が減った二人の生活はそれはひどいものだったらしい。最初はメグミが夜の仕事を始めて信吾を支えていたが、エリート社員から転落したことにプライドが耐えられなくなった信吾は働く意欲を失い、ニートになっていた。そんな信吾に愛想を尽かしたメグミとは言い争いが絶えなかったらしい。結局、メグミは信吾を捨てて去っていった。
メグミに捨てられた信吾は人間不信になり、働くこともできず、今は生活保護を受けながら引きこもっているらしい。
以前の信吾からは想像できない転落ぶりに少し哀れみを覚えたが、結局は妻である私を軽んじて好き放題やった結果の自業自得だと思った。
ただ、私にも悪いところがあったと思う。信吾の一方的な要求に答え、我慢して結婚生活を続けた結果、彼の暴君的な態度をエスカレートさせてしまったのだ。
私は今、父の会社でOLとして働いている。ここで知り合った管理職の独身男性と交際し、私たちは近々結婚することになっている。彼とは何でも話し合い、お互いを尊重する関係を築けているつもりだ。それは前の結婚生活での失敗を生かせているからだった。
きっと今度こそ、信頼できる相手と幸せになれるだろう。私の料理を「美味しい」と毎日食べてくれている彼の顔を見て、そう思った。
