十年ぶりに東京のIT企業へ戻ってきた高梨健太郎は、エレベーターが静かに上昇する間、窓の外に広がる景色を眺めながら、長かった日々を思い返していた。ドリームテック株式会社。かつては無名のベンチャー企業だったが、今や社員数一千人を超える大企業へと成長している。ガラス張りのオフィスフロアは、最新設備に囲まれた洗練された空気に満ちていた。かつてのアットホームで少し雑然とした雰囲気は、見る影もない。
廊下を歩いていると、若い男性が立ち止まり、俺の全身をじろじろと眺めた。二十代前半といった風貌だ。彼は笑みを浮かべながら言った。「おじさん中じゃ、トイレ掃除くらいしか仕事ないね」と。俺が挨拶を返すと、彼は「中途採用のおじさん」だと決めつけ、自分の社員証を掲げた。営業部、山田淳。有名大学を卒業したエリートだと自負しているらしく、俺にトイレ掃除を命じてきた。「ちょうどぴったりなのがあるんだよね。高さん、トイレ掃除やってよ」と、俺の腕をぐいっと引っ張り、トイレの前まで連れて行った。
仕方なく袖をまくり、中に入ろうとしたその時だった。「何をしているんですか?」廊下に響いた声に、俺たちは同時に振り返った。そこには、クールなショートカットに整った顔立ちの美女が立っていた。山田君は「社長」と呼びかける。彼女は厳しい目つきで山田君を咎めた。「見ていたわよ。あなた、高さんに何をさせようとしていたの?彼が誰かも知らないで」と。山田君は混乱しながら、「高さんってまさか」と呟く。彼女は「彼はこの会社を設立した人間よ。高梨健太郎さん。ドリームテックを作ったのは大学で同級生だった二人組。そのうちの一人よ」と告げた。山田君の顔は見る見る青ざめていき、「もちろん僕が掃除してきます」と大慌てで男子トイレへ逃げ込んでいった。
すると、大股で近づいてきた男性が、いきなり俺の肩を掴んだ。「よく戻ってきてくれたな、健太郎。十年間お疲れさん」と。俺は「ただいま戻りました。村上社長」と返したが、彼は「おいおい、そんな片苦しい喋り方はよせよ。寂しいだろ」と笑った。親友の村上達也、ドリームテックのもう一人の設立者だ。「おお、帰り」と、彼が差し伸べた手の力強さに、俺は密かに目頭を熱くしていた。
あの日、俺たちは三人で飲みに出かけた。俺の復帰を祝う会を、舞が計画してくれていたのだ。大学四年の時、俺と達也はインターネットで資金を募り、本当に起業してしまった。その後、マネジメントの才能を見込まれた舞も仲間に加わり、三人で一緒に苦労を乗り越えてきた。世界中の人をITの力で幸せにするという夢を追いかけてきたのだ。
飲み会の帰り道、舞と二人で歩いていると、彼女が静かに口を開いた。「あなたが帰ってくる日を、十年間ずっと待っていたの」。それから、俺がかつて彼女に告白され、返事もできないまま去ってしまったことを告げた。「まだ待ってるのよ。あの時の返事、今度こそちゃんと聞かせてね」と微笑む舞に、俺は何も言えなかった。俺は舞が好きだったが、彼女と達也の関係を思うと、それ以上踏み込めなかったのだ。
翌日、俺は開発部のエンジニアたちの前で、AI技術を用いた最新のプログラミング支援システムを発表した。コーディング速度は三倍、エラー検出率は八十パーセントから九十八パーセントに向上した数値を示すと、会場からは驚きの声が上がった。「ドリームシステム。オンラインショップの決済機能を作成して」とマイクに向かって話すと、スクリーンにコードが次々と表示され、完璧な決済システムのコードがわずか数秒で完成した。会場は割れんばかりの拍手に包まれた。十年間の苦労が報われた瞬間だった。
それから三ヶ月後、支援システムは予想以上の効果を発揮していた。売上は右肩上がりで、達也は興奮を隠せない。「まさに右肩上がりだ。こんなの会社が始まって以来だぞ」。しかし、俺には気になることがあった。社員たちの残業が多すぎるのだ。定時にオフィスを出ると、いつも誰一人廊下を歩いていない。俺が「社員の健康管理も経営者の大事な仕事だ」と達也に訴えると、彼は「それがどうした?みんな仕事が好きなんだよ。やりがいを持って働いているんだ」とあっさり言い放った。「社長がそんな考えでは、残業が一向に減らないじゃないか」と食い下がるも、達也は「減らないだろうな。あいつらが勝手にやるんだから」と笑っていた。
俺は独断で、AI支援システムを開発部以外の部署でも使えるよう改良し、各部署の責任者を集めて試験的な導入を提案した。当初は懐疑的な目で見られていたが、根気強く説明すると、営業部長が「わかった。私たちのためになるのなら試してみましょう」と同意してくれた。導入から二週間、若手社員が「おかげでかなり残業が減ったんです。本当にありがとうございます」と報告に来てくれた。残業時間は会社全体で大幅に減り、売上は右肩上がりを続けている。これなら達也も文句はないはずだと、俺はほっとしていた。
だが、そんなある日、若手社員が口にした言葉に俺は衝撃を受けた。「高さんが社長だったらいいのに。みんな言っていますよ」。その話を詳しく聞くと、達也が社員たちに圧力をかけ、残業を強制している実態が明らかになった。逆らう社員を退職に追い込むこともあるらしい。俺は達也を問い詰めた。「お前は彼らに圧力をかけているそうだな。」達也は「残業が減って今の数字なら、残業させればもっと売上を出せたということだ。ミスミスチャンスを逃して、お前は会社に損害を与えたも同然なんだよ」と逆ギレした。「今のお前に社長である資格はない」と言い放つと、達也は「あまり逆らうと、例えお前でも首にするぞ。実質の共同代表と言っても、今のお前は平社員だ。追い出すのは簡単だからな」と脅してきた。親友だったはずの二人の間には、深い溝ができてしまった。
そんな中、ドリームテックを最大のピンチが襲った。開発部の若手社員が慌てて駆け寄ってくる。「D社の案件で重大なミスが見つかりました。納品スケジュールの変更が共有されていなかったんです。このままだと、あと一ヶ月で納品しないといけません」。D社の案件は、ドリームテック始まって以来の大型案件だ。完成まで一年はかかるはずだった作業を、いつの間にか半年も短縮されていたのだ。達也は俺の胸ぐらを掴んで壁に押し付けた。「お前が残業を減らしたせいだ。そのせいで重要な引き継ぎがおろそかになり、スケジュールの変更が見過ごされた。これはお前の一人よがりな理想が招いた結果だ」と。俺は反論できなかった。残業を減らしたことで、社員同士のコミュニケーションの機会が減ったのも事実だった。達也は「解決できなければ責任を取って首だ。損害賠償もお前が払うんだな」と捨てゼリフを残して去っていった。
俺は開発部のオフィスでエンジニアたちに向かって声を張り上げた。「今から一ヶ月後の納期に間に合わせるのは、はっきり言って不可能です。しかし、諦めるわけにはいきません。AI支援システムをフルに活用すれば、二ヶ月あれば納品できるはずです」。舞も隣で声を張り上げる。「このピンチを協力して乗り越えましょう。ドリームテックの未来は皆さんにかかっています」。俺たちは一丸となって行動を開始した。俺は開発チームの最前線に立ち、技術的な難問を片っ端から解決していった。舞が率いる特別対策チームは、D社との交渉を続けてくれた。
しかし、時間は残酷に過ぎていく。D社の開発部長からは「いい加減しつこいですよ」と怒声が飛び、「すぐにでも契約を破棄したいくらいだ」と電話を切られた。疲労が蓄積し、社員たちの目の下に隈が目立ち始める。納期まで残り半月足らずとなった頃、会社中に緊張と焦り、そして諦めの空気も充満していた。D社から最後通告が来た。「五日後の納期に遅れるなら契約破棄。損害賠償を請求するって」と舞が沈んだ顔で報告してくる。八割、いや九割型完成しているのに、たった五日で終わらせるのは不可能に思えた。「もう無理だ」という諦めの言葉が、オフィスに広がり始めた。その時、舞が困ったような顔でオフィスの入り口に視線を向けた。そこには、初日に俺をトイレ掃除に連れていった山田君が立っていた。
「僕にも何か手伝えることはありませんか?」という山田君の言葉に、俺は驚かされた。彼は言った。「僕には、高さんみたいに何かを一から作ったり変えたりするような力はなかった。何もできないのに、あんな風に言っていたのがめちゃくちゃ恥ずかしくて」。俺は励ました。「君のように、自分で気づいて変われる人はそう多くない。きっと、いつか誰よりも多くのことができるようになるはずだ。それまで、この会社がなくなったら困るんだよ」。山田君は「もちろんです。僕に任せてください」と不敵に笑い、営業部のオフィスへ駆けていった。
俺は、その言葉で再び集中力を取り戻し、作業に没頭した。翌日から四日間、全ての社員が自分の仕事に全力で取り組んだ。そして、納期の前日、十七時五十五分。俺の手はぴたりと動きを止めた。「終わった。完成だ」と椅子を立ち上がると、舞が勢いよく俺に抱きついてきた。同時に、開発部のオフィスには割れんばかりの拍手が巻き起こった。不可能と思われた納期を半年短縮するという難題を、俺たちは解決してみせたのだ。
帰りのエレベーターで出会った山田君は得意げに言った。「僕、この四日で三つも案件を獲得しましたよ。社長になってくださいよ、高さん。僕らみんな、あなたについて行きたいと思ってるんです」。
翌朝、俺は重い足取りで社長室に向かった。達也は余裕の表情で俺を見上げた。「無事にD社へ納品できたようで何よりだ。首は保留してやる」と。俺は「もう終わりにしよう」と言って、黒いUSBを取り出した。これは舞から託されたものだった。彼女は達也に従うふりをしながら、社員たちへの暴言を記録してきたのだ。「今回の事態を引き起こしたのが、お前だという証拠だよ」と俺は告げた。「AIが検知した無断アクセスの記録。日付は、D社との納期が変更された日だ。深夜一時過ぎ、社長のカードキーで誰かが社内に入った形跡もある」。達也は「悔しいか」と吐き捨てた。「お前らがいつも俺じゃなくて健太郎ばかり。俺を必要としない会社なんて潰れればいいと、本気で思ったんだよ」。それに、舞が「そんなことないわ。私たちにはあなたが必要だった。だから本当のことを話して。私たちはあなたを信じるから」と、まっすぐに達也を見つめ続けた。
しばらくすると、達也の背中から力が抜けていくのが見えた。「俺は苦しかった。最近は業績が伸び悩んで、その責任は全部社長である俺が背負っていた。それなのに、みんなは『ここに高さんがいれば』って目で俺を見るんだ。俺じゃなくて、いつも健太郎ばかり」と。俺は厳しい口調で言った。「お前は自分から人望を手放したんだよ。強制や圧力ではなく、信頼で人をまとめる努力をすべきだった」。達也は「その通りだ。俺は、目指していた社長にはなれなかった」と認め、労働基準監督署に行って、全てを話してくることを決意した。俺たちが夢を再確認すると、達也は「またな」と微笑んで、社長室を出ていった。
それから一年が経ち、ドリームテックは大きな変革を遂げていた。残業の徹底的な削減に成功し、社員たちは生き生きと働いている。業績は順調に右肩上がりだ。達也が自ら社長の座を降り、俺が新たに社長に就任した。俺の希望で、舞には副社長になってもらった。そして、十年越しに彼女への返事を伝えた。俺も舞も、今は恋人同士だ。
さらに一年後、達也がドリームテックに戻ってきた。自ら労働基準監督署に申し出て、罰を受けた後、社員全員に心から謝罪し、修行のため遠方の親戚の会社で働いていたのだ。「また一年後、俺の姿を見てもらえませんか」という言葉を残して。今、達也は営業部に所属し、一から仕事を覚えている。若手のエースである山田君に指導を受け、早くも契約を獲得して会社に貢献している。「世界中の人をITで幸せにする。忘れていないだろうな、達也」と問いかけると、彼は「ああ、もちろん。健太郎」と、かつてのような笑顔を浮かべた。立場は違っても、俺たちは今再び、同じ夢を追いかけている。
