廊下で「中卒なんて、本当にどん臭いわね」という冷たい声が響いた瞬間、私は足を止めた。非正規スタッフの女性が俯いて肩を震わせていて、罵っていたのは営業部長の白井なお、四十五歳。その女性が顔を上げた時、私は息が止まった。相澤み——かつて天才と呼ばれ、誰よりも眩しかった幼馴染みだった。目が合った瞬間、みは凍りついた表情で視線をそらし、足早に去っていった。「ああ、うちに出入りしてる派遣ですよ。使えな…

廊下で「中卒なんて、本当にどん臭いわね」という冷たい声が響いた瞬間、私は足を止めた。非正規スタッフの女性が俯いて肩を震わせていて、罵っていたのは営業部長の白井なお、四十五歳。その女性が顔を上げた時、私は息が止まった。相澤み——かつて天才と呼ばれ、誰よりも眩しかった幼馴染みだった。目が合った瞬間、みは凍りついた表情で視線をそらし、足早に去っていった。「ああ、うちに出入りしてる派遣ですよ。使えな...

「中卒なんて、本当にどん臭いわね。だから中卒は協調性がなくて困るのよ。数字一つ覚えられないなんて、使えないわ。」大企業の本社ビルの廊下に、冷たい罵声が響き渡った。非正規スタッフの女性を一方的に攻め立てていたのは、営業部長の白井なお、四十五歳。事務服を着たその女性は、俯いたまま肩を小さく震わせていた。

廊下を歩いていた神矢琢磨は、思わず足を止めた。まさか……み? 相澤み。かつて天才と呼ばれ、誰よりも眩しかった幼馴染み。しかし今の彼女からは、当時の輝きは欠片も残っていなかった。目が合った瞬間、みの表情が凍りつく。そのまま視線をそらし、足早にその場を離れていった。周囲の社員たちは視線をそらし、誰一人として口を挟もうとしなかった。琢磨は怒鳴り返すことも、白井の腕を掴むことも、何もできなかった。「白井さん、今の方は……」「ああ、うちに出入りしてる派遣ですよ。く使えなくて困ってるんです」「まあ、中卒ですから、協調性がなくて仕方ないですね」白井は鼻で笑い、書類の束を軽く叩いた。琢磨はただ、彼女が消えていった廊下の先を見つめていた。十五年前は、俺は何も言えなかった。彼らはまだ知らなかった——この日、「中卒」と笑われた女性が、四十五億円の審査会場に現れることを。そして、白井がその女性の前で必死に言い訳する日が来ることを——

時は、同じ日の午後に遡る。これは、中卒を笑い、天才を踏みにじった者が、真の実力の前に崩れる因果応報の物語である。

神矢琢磨、三十一歳。都内で「創生テクノロジー」を経営する若手社長だ。鍛え抜かれた体にオーダーメイドのスーツが静かに馴染み、口数が少ないのに、場の空気が自然と彼に引き寄せられる。「神矢社長には独特のオーラがある」と、業界の人間は口を揃えていた。創生テクノロジーは、峰岸ソリューションの下請けIT企業だ。創業三十二年、社員五百五十名の峰岸から、システム開発を受け取っていた。その日、琢磨は峰岸の本社ビルを訪れ、正式な打ち合わせを終えて廊下を歩いていた。廊下の角で目にした光景を思い返すと、十五年前の記憶が蘇ってきた。

エレベーターに乗り込んだ琢磨の脳裏に、中学時代の思い出が押し寄せた。中学時代の琢磨は、極度に引っ込み思案で友達がおらず、常に孤立していた。体育の授業では真っ先に脱落し、班活動でメンバーを決める時は、琢磨の名前だけが最後まで残った。昼休みになるとクラスメイトたちは騒がしく机を寄せ合うのに、ただ一人、窓際の席で静かに弁当箱を開けていた。いつしか一人で弁当を食べるのが、毎日の光景になっていた。そんなある日、隣の椅子が引かれる音がした」たくま君、一緒に食べよう」振り返ると、幼馴染みの相澤みが立っていた。彼女はクラスの中心人物で、勉強も運動も完璧だった。文化祭では毎年ステージの中心にいて、先生たちからの信頼も厚い。男女問わず慕われる、学校の顔とも呼べる存在だった。家が近いだけの幼馴染み——中学での彼女は、自分とは住む世界の違う場所を歩いていた。琢磨は突然隣に座ったみを、驚いた顔で見つめたが、みは気にする様子もなく腰を下ろし、慣れた手付きで弁当箱を開けて「いただきます」と手を合わせた。迷いのないその仕草を前に、琢磨はただ圧倒されていた」それ以来、つみは毎日当たり前のように琢磨の隣に座るようになった。周囲の視線など彼女は気にせず、琢磨を特別扱いせず、普通に隣にいてくれた。みが隣に座るようになってから、琢磨の表情には笑顔が増えていった」ある日、琢磨はぽつりとこぼした」なんで俺の隣に来るの? もっと楽しい場所があるだろう」みは箸を止めて、まっすぐ琢磨を見つめ返した」君は誰の悪口も言わずに頑張ってる。そういう強いところ、かっこいいよ」琢磨は何も言い返せなかった。クラスで一番目立たない少年にとって、自分を「かっこいい」と認めてくれたのは、みだけだった」だがその後、みは突然学校から姿を消した。クラスメートの噂によれば、父親の事業失敗に伴う夜逃げだという」言葉を交わす暇もなく、隣の席は突然空席になった。琢磨はその空席をしばらく見つめた後、再び一人きりの生活に戻った」もし先ほど見かけた女性が本当に見つきだとしたら、今度こそちゃんと話したい——琢磨はビルを出て振り返り、再会への小さな希望を抱いた」それから数日後、琢磨が再び峰岸ソリューションを訪れたが、受付や廊下からオフィスまでくまなく探しても、みの姿はどこにもなかった。打ち合わせを終えた帰り際、琢磨は白井に何気なく訪ねてみた」以前いた派遣の方、最近見かけませんね」「はあ——あの中卒、使えないから契約を切りました。派遣会社にももうこさせなくていいと伝えてあります」うちのような大企業には不釣り合いだったんですよ」そう言い捨てる白井の口元に、人を小にした薄笑いが浮かんでいた”琢磨はエレベーターに乗り込み、閉じるボタンを押した。静かに閉まっていく扉を見つめていると、やりきれない後悔が込み上げてきた”十五年前の再開なのに、言葉を交わせないまま扉が閉じた。未練は琢磨の胸から消えなかった”そんなある夜、琢磨は仕事帰りに近所のスーパーへ立ち寄った。食品コーナーで品物を選んでいると、見覚えのある横顔が視界に入った。値引きシールを黙々と貼りながら棚を整えている女性——間違いなくみつだった」「あの、少しいいかな? 」振り返ったみは琢磨の姿を認めた途端、表情を固くした。峰岸で再開した時と同じ、今にもここから逃げ出しそうな目をしていた」「よかったら、この後少し時間もらえないかな」みはしばらく視線を落としたまま黙り込んでいたが、やがて小さく息をついて答えた」「九時には上がれるよ」「じゃあ、お店の前で待ってる」琢磨は、みが逃げ出さないよう、強引に約束を取り付けた。店の外で仕事が終わるのを待ち、仕事を終えたみを連れて近くのファミレスに入った」向かいの席に座ったみはメニューを眺めたまま、目を合わせようとしない。注文を終えても重い沈黙が続き、たまらず琢磨の方から口を開いた」「み、峰岸ソリューションで働いてたよね」水滴のついたグラスに伸びていたみの手が、ぴたりと止まる」「見てたんだ。声をかけようとしたんだけど、避けられてしまったから」みは少し間を置いてから、消え入りそうな声で答えた」「立派になった琢磨君と、あんな場所で会うなんて思ってなかったから……惨めな姿を見られるのが恥ずかしくて、逃げちゃったんだ」「恥ずかしいって?

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なんで? 」琢磨には、みがなぜそんな感情を抱いたのか分からず、引き返していた「だって君はすごく立派になっているのに、私とは……」「そんなことない」あの頃、みが毎日隣に座ってくれなかったら、今の俺はここにいない”その言葉に、みがはっと顔を上げた”“覚えてたの? 」「そんなこと忘れるわけないだろ”みは少し困ったように笑い、また手元のグラスに視線を落とした」「最初は琢磨君だってわからなかった。でも……優しい目元だけは昔のままで、それで気づいたんだ」「みこそ、あの頃から変わらないね」琢磨の言葉に、みの目がわずかに揺れる”“変わったよ。色々と」自嘲するように、みはぽつりぽつりと空白の十五年間を語り始めた——父親の会社が倒産し、夜逃げ同然の引っ越しを余儀なくされたこと。高校への進学を諦め、長年一人で底辺の生活を耐え抜いてきたこと」高校くらい行けばよかったって、今でも思う”でも当時は生きるだけで精一杯で——状況を変えようと資格の勉強を始めたこともあった”でも中夜働く生活では、勉強する時間さえ作れなかった”“中卒って、履歴書に書いた瞬間に弾かれるんですよね”建設までたどり着けないことの方が多くて”彼女の背負ってきた過酷な運命の重さが、琢磨の胸に痛いほど伝わってきた”みは数年前、峰岸ソリューションに正社員として採用された”だが、企画書を提出した翌月、能力不足を理由に退職へ追い込まれた“その後生活のため登録した派遣会社から、偶然紹介されたのが再び峰岸だった”みは同じ会社へ、今度は非正規スタッフとして戻ることになった“その経緯を話す時だけ、みの声からわずかに温度が失われた”料理が運ばれてきても、みはしばらく黙ったまま、コーヒーカップを両手で包み込んでいた」「たくま君、なんで声かけてくれたの? 」琢磨は少し考えてから、まっすぐにみを見て答えた”“幼馴染みに、ちゃんとお礼が言いたかったから」みは何も言わず、カップを持つ手にきっと力を込める”“幼馴染みだなんて……”「み、一つ提案があるんだけど、俺の会社に来てくれないか?

」驚いたみの目が大きく見開かれた”“学歴だけでみの力まで否定されていいはずがない”ちょうど秘書が一人抜けて、人を探してたんだ”学歴なんて関係ない”俺にはみの力が必要なんだ」「でも私、秘書なんてしたことないし……」「やったことない仕事なんて、最初は誰だって同じだよ”みはしばらく俯いたまま動かなかった”窓の外を、夜の車が静かに通りすぎていく”やがて決意を固めたように、みが顔を上げた”“本当にいいの? ……あ、ありがとう」月は涙をこらえるようにして、深く頭を下げた”翌週から、みは創生テクノロジーに出社し始めた“社内では、周囲への配慮と混乱を避けるため、互いを「神矢社長」「相澤さん」と呼び、徹底していた”最初の十日間こそ慣れない業務に追われていたが、三週間が過ぎた頃から、本来の才能を開花させ始めた”持ち前の記憶力と論理的思考力で、最新のビジネスを独学で吸収していく”まず琢磨が驚かされたのは、その圧倒的な記憶力だった”一度説明したことは決して二度聞かない”取引先の担当者名も、会議の数字も、翌日にはすらすらと口から出てくる”“相澤さん、先週の打ち合わせの件ですが……」「はい、あの時の数字ですね”修正版をまとめておきました”琢磨が指示を出し終える前に、みはすでに完璧な資料を差し出していた”さらに周囲を驚かせたのは、鋭い論理的思考力だった”ある日、取引先との契約内容について社内で議論になった時のこと”ベテラン担当が「この条件で押し切れる」と主張する中、同席していたみが静かに口を開いた”“すみません、一点だけ確認してもよろしいでしょうか? この単価設定だと、半年後に必ずコストが起きます”先方にとっても、うちにとっても損になる契約です”室内が一瞬静まり、慌てて数字を計算し直した営業担当が、小さく感心した声をあげた”みの指摘は完璧に正しかった”入社から四ヶ月が経った頃、琢磨は過去の発注履歴をみに任せた”数日後、みがデスクに資料を持ってきた”“社長、整理が終わりました”確認をお願いいたします」「ありがとうございます”後で見ておきます”“あの……一点だけ」みは資料の一箇所を静かに指差した”“この案件なのですが、私が以前峰岸で関わっていた内容と少し数字が合わなくて……私の記憶違いかもしれないのですが」琢磨は該当の箇所に目を落とした”“確認しておきます」「はい”申し訳ありません”少し気になってしまって”みはそれだけ言って、自分のデスクに戻っていった”その後、みは数字の不一致を案件ごとに整理し、誰にも言わず静かに保存した”みが揃えたのは、自身が保管していた企画書の控えだった”さらに当時の送信記録と、創生側に残る正式な発注履歴を照合していた”それからもみは着実に仕事の幅を広げていく”気づけば社内の誰もが、困ったことがあると真っ先にみへ相談するようになっていた”学歴という壁を取り払われたかつての天才は、琢磨の右腕として欠かせない存在になった”その年の秋、琢磨の元に社内を揺るがす特大の情報が舞い込んだ“売上高八千億円超えの大手製造メーカー「太陽正規」が、全社規模のパートナーを公募するという”契約規模は四十五億円に登り、選ばれた一社が向こう七年間の戦略システムを担う”“社長、これ、うちで取れますかね? 」資料を持ってきた営業担当が、あまりの規模に半信半疑の顔で訪ねてくる”“やってみなければ分かりません”琢磨は資料をデスクに置くと、すぐにみを呼んだ”“相澤さん、少し時間をいただけますか?

」みが資料に目を通す間、社長室には張り詰めた静寂が落ちた”やがて顔を上げたみが、真剣な様子で口を開く”“うちの力なら十分に戦えます“相手は大企業、提案の中身で圧倒するしかありませんね」「同感です”やりましょう」それから三ヶ月間、会社が一つになった”連日深夜まで会議室に明りがともり、琢磨とみは最後まで残って作業を続けた“太陽正規の業務フローを一一から調べ上げ、課題を徹底的に洗い出していく”琢磨が提案書の骨格を作り、みが膨大なデータから数字の裏付けを取って論理の穴を塞ぐ”ある日の深夜、二人きりの会議室で、みがそっと手を止めた”“ねえ、たくま君、これ見てくれる? 」「どうした? 」琢磨が覗き込んだ画面には、競合他社のコンペ参加情報が映し出されていた”みが公開情報を丁寧に拾い集め、各社の動向を整理していた”“峰岸ソリューションも参加するみたい”琢磨は画面を見たまま、しばらく言葉を発さなかった……「続けよう」琢磨は小さく名付き、再びペンを取った”コンペ前夜、創生テクノロジーの会議室には資料の山だけが残っていた”琢磨とみは、太陽正規の審査資料を最後まで読み返していた”みが黙って差し出したのは、峰岸の過去案件を整理した熱いファイルだった”“明日使うものです”白井部長の提案書の控えも、全て揃えてあります”琢磨はファイルの表紙に触れた——かつて廊下で俯いていた幼馴染みの手が、今証拠を握っていた”“本当に覚悟してるのか? 」「十五年、覚悟だけは毎日してきました”“明日こそ、全て返してもらいませ」みは証拠ファイルの背に、白井の名前と数字を静かに並べていた”琢磨は短く頷いた——反論はみに委ねる”彼女を信じる”それだけだった”コンペ当日の朝、太陽正規本社の待合室で、白井が腕を組んでこちらを見下ろした”“あら、神矢社長”中卒の秘書ごときが、四十五億円の舞台に立てると本気で思ってるの?

」白井は高笑いしたが、みは資料を胸に抱えたまま静かに前を見ていた”琢磨は答えなかった——結果で全てを語ればいい”やがて案内の声が響き、広い会議室へと通された”審査員が並ぶ会議室で、琢磨とみが着席するとは、白井が最前列の席から無遠慮な視線を向けてきた“みは、射抜くような視線で黙って見つめ返している”琢磨がプレゼン資料を握り直すと、みがそっと背中を叩いた”“琢磨君は強いから、自信を持って」——他人には聞こえない囁きだったが、あの頃と同じ、強い響きだった”琢磨は深く頷き、決意を込めてマイクを握った”プレゼンは一時間滞りなく進んだ”琢磨が太陽正規の課題を具体的な数字で解き明かすたび、審査員たちの表情が真剣になる”質疑応答に移ると、それまで沈黙を守っていた白井が、獲物を狙う目で口を開いた”“その提案は、コスト試算が楽観的すぎるのではありませんか? 我々のような実績ある企業に比べ、リスク管理の甘さが露呈しているように感じますが」白井は実績や肩書きを盾に、実態のない反論で揺さぶりをかけてくる”会議室の空気が張り詰める”“神矢社長、小さな会社が背伸びをしても、実績の差は埋まりませんよ”ましてや、中卒の秘書に頼っているようでは、四十五億の案件は荷が重いでしょう」「実績ではなく、今日ここに出した提案で判断していただきます」「異性だけは立派ね——下請け企業の若い社長さん」白井が笑う一方、みは膝の上のファイルを静かに開いた”表紙には日付と案件番号が並び、会議室の照明に白井の髪が光った”琢磨はみの横顔を見た——今日話すのは、彼女だ”琢磨は静かに一歩下がり、みの後ろに控えた”その瞬間、みが凛とした佇まいで静かに立ち上がった”“では、峰岸ソリューションさんの提案についても、確認させてください」静かだが驚くほどよく通る声が、室内に響き渡った“審査の担当者が一斉に資料を手に取った”“御社の第三フェーズにおけるコスト試算ですが、現在の市場価格と比較して約三十五%も割りに設定されています」「それは我が社の実績に基づいた適正な数字よ」白井が顔色を変えて反論するが、みは表情を一つ変えず言葉を続けた”“この分野のシステム単価は、ここ二年で劇的に下落しています“御社の試算は、三年前の古い市場価格をそのまま適用しているのではありませんか? 」白井の表情が凍りついた“言い返す言葉も出ない”“第一フェーズの単価も、市場平均より十八%高い設定です”白井の手が資料の端を白く抑えた”“実に見事なデータ分析だ”“もう一点——この提案書の第二フェーズに記載されている業務改善案ですが、私には見覚えがありません」室内の空気がわずかに揺れた”“以前、峰岸ソリューションの正社員として在籍していた頃に作成した企画書と、ほぼ一致しています」「何を言ってるの? あなたのような派遣が作った資料なんて……」白井が声を荒げるが、みは静かに一枚の書類をテーブルに置いた——作成日と「相澤み」の名前が明記された、当時の企画書だった”“その企画書を白井部長に提出したのは、私がまだ在籍していた頃のことです“その直後、この内容はそっくりそのまま、白井部長名義で役員会に提出されました“こちらが当時の社内メールの送信記録です”翌日、私はパフォーマンス不十分という理由で退職を告げられました」「そもそもあなた、今は峰岸の社員でもないでしょ。そんな資料を持ち出す権利がどこにあるの?

」「持ち出した資料ではありません“私自身が作成し、当時正規の手順で提示した控えです」」「企画は会社のものよ”部長だった私が整理して提出して、何が悪いの? 」「整理したのであれば、作成者名を消す必要はありません“白井の指が止まり、会議室から笑い声が消えた”“さらに申し上げます——峰岸から弊社への過去の発注履歴を確認しました“すると、見積もり額と作業内容に不自然な差が、見つかりました”“不自然な差額が生じている案件は、例外なく全て白井部長が承認したものです“七件、合計二千三百万円超え、全て白井部長の決裁印が押されています”スクリーンに投影された数字の列に、白井の肩が落ちた“淡々と示された不自然な差額に、担当者たちの表情が一斉に凍りついた”“それは……経費処理上の問題で、単なる処理漏れで……」「そんな古い書類、偽造の可能性だってあるわ”“必要であれば、原本を第三者に確認していただいて構いません”白井が資料を乱暴にめくろうとした手が、途中で止まった”“私を恨んで、証拠を作ったんでしょ? 中卒のくせに……」「恨みではありません“数字と日付が、そのまま残っています」「神矢社長、あなたがこの女にやらせたんでしょ? 峰岸を落とすために」「違います“私が頼んだのは、提案書の分析です“過去の記録に気づいたのは、相澤さん自身です」「だったら止めるのが社長でしょ?

」「不自然な数字を見つけて、確認を止める理由がありません“特定の承認者の案件にのみ、不自然な差額が集中することなどありえません”白井部長」——審査主任が、静かに口を挟んだ”“神矢社長の会社は、今回の最終候補です“技術、運用体制、費用——現時点では全項目で最高評価を得ています」「最高評価? 」白井が初めて琢磨を正面から見た”“そんなはずないわ“峰岸の下請けだった会社でしょ」「会社の価値を決めるのは、元請けか下請けかではありません“そこで働く人間が、何を積み上げてきたかです”白井の唇がわずかに震え、握っていたペンが机に落ちた”拾い上げる指先も、まだ止まらなかった“白井の隣に座っていた峰岸の若手担当が、小さく立ち上がった”“部長……あの企画書、私が受け取った時、相澤さんの名前が表紙にありました“部長に名前は消しておけと言われて、黙っていました」「嘘よ……あなたまで私を売るの? 」「違います“もう嘘をつき続けられません」「誰のおかげで本社案件に入れたと思ってるの? だから今まで黙っていました”“でもそれが、間違いでした”重い沈黙が割れた瞬間、会議室中の空気が一変した”“部長、私を信じてください“会社のためにやったんです”“会社のためなら、なぜ作成者の名前を消した?

」「それは……」「なぜあなたの承認案件だけに集中している? 」「違う、私は——」「そこまでだ」白井は、糸が切れたように椅子へ崩れ落ちた”“私は……あの企画書は、部下の案を整理しただけで……差額だなんて、そんなつもりは……誰もの言い訳に、頷く者はいなかった”——峰岸ソリューションの担当者が立ち上がり、静かに告げた”“当社管理責任者として、深くお詫び申し上げます“白井は、本日より本件業務から外させます“また、社員証は社内規定に従い回収します“本社へ直ちに報告し、内部監査を開始します“箱案件も再調査します”“峰岸ソリューションからの出入りは、本日を持って停止します“不正が疑われる案件については、本社監査部門から正式に調査要請を行います“当社でも法務部と協議し、必要に応じて刑事告発の準備を検討します”峰岸ソリューション様の本日の提案は、審査対象から除外します」白井は、提案書の束を抱え、震える手で机から下りた“会議室中がざわついた“峰岸の他社員が一斉に、白井から距離を取った“琢磨は静かに立ち上がり、白井の前で一礼した”“白井さん、初めてお会いした日、廊下で「中卒だから」と笑いましたね”“今日、その中卒が、御社の提案を全て読み解きました”“あなたに何が分かるの? 」「分かりませんでした“だから黙っていました”“でも彼女は、十五年間の全てを覚えていました”“あなたごときが私の人生を——」「あなたが先に、彼女の人生を踏みにじりました”白井は口を開きかけ、力なく閉じた“周囲を見渡しても、誰も白井の側に立っている者は見えなかった“学歴ではないものがある“今日、その証拠を見ました”静かな拍手が、一人、また一人と広がっていった“その後、正式な審査結果が発表された“四十五億円、七年間の契約を勝ち取ったのは、創生テクノロジーだった”コンペ会場を出た白井は、一人廊下に立ち尽くし、同僚は誰一人として声をかけてこなかった“一方、会場に残った琢磨の元へ、太陽正規の担当者が歩み寄った”“神矢社長、本日の対応は見事でした“琢磨は深く一礼し、振り返ってみに目を向けた”“み、ありがとう”“私こそ……琢磨君があの時、声をかけてくれなかったら……”琢磨はみの手をそっと握った“十五年前にかわされた、無言の約束だった“みは目を潤ませ、静かに息を整えた“肩の力がわずかに抜けていく“教室の端で隣に座ってくれた少女が、今、四十五億円の未来を取り戻した“それから数ヶ月後、四十五億円の大型プロジェクトが本格始動し、創生テクノロジーのオフィスは活気に満ちていた“峰岸本社の内部監査で、企画書の無断流用と作成者名の削除が確認された“虚偽報告の疑い、不自然な経費処理、部下への口止めも洗い出された“白井は本社の会議室に呼び出され、人事責任者と向き合った”“白井なおさん——社内調査の結果を通告します」「待ってください“私は二十年以上、この会社に尽くしてきたんです”“年数は、確認された行為を許しはしません“降格でも異動でも受け入れます“だから……クビだけは——」「本日付けで、懲戒解雇とします”白井の机の上には、解雇通知書が置かれていた“さらに会社は、不自然な経費について返還と損害賠償を求める方針を示した“法務部は、刑事告発の準備についても検討が始まっていた“懲戒解雇から数ヶ月——白井は毎朝、求人サイトを開く生活を続けていた”“職歴は懲戒解雇となっています”“理由を説明していただけますか? 」「部下との認識の違いが大きくなっただけです」「提出された経歴説明とは、内容が一致しません」「私は二十年以上、営業で結果を出してきたんです」「その実績ではなく、今回の退職理由を確認しています”数日後、白井の元へ不採用通知が届いた“封筒を開ける指先が、わずかに震えていた”“この会社、従業員五十人しかいないじゃない」画面を閉じた直後、白井の手が止まった——かつて自分が、会社規模や学歴だけで人を貶めていた時と同じ言葉だった”高い家賃は維持できず住居を見直し、ブランド品も手放していく“会社名の名刺も役職も使えず、元部下への便宜も得られない”ある日、白井はかつての部下へ電話をかけた”“私よ——取引先を一社、紹介してもらえない?

」「申し訳ありません“今の白井さんに、会社の取引先は紹介できません」「私が部長だった頃、あなたを何度助けたと思ってるの? 」「だからこそ——もう、会社を巻き込まないでください”通話が切れ、白井は肩書きの消えた古い名刺を見つめた“夜、狭い部屋で履歴書を書き直していると、テレビで緊急ニュースが流れた“画面に映ったのは、神矢社長と、その隣で資料を抱える相澤みだった”“中卒だったくせに——“白井はそこまで口にして、言葉を止めた“画面のみは、資料を手に説明していた——学歴ではなく、結果でその席に立っていた“「どうして私じゃなくて——」返事をする者は、いなかった“創生テクノロジーのオフィスでは、平穏な日常が戻っていた”“神矢社長、来月のスケジュールと人事配置の修正版です“確認をお願いいたします」「ありがとうさん——いつも助かります”社内では、二人は社長と秘書として一定の距離感と敬語を保って仕事をしている“しかし、金曜の夜、残業を終えた二人は、いつものファミレスで向かい合って座っていた”“本当にみのおかげだよ“あの時、スーパーで声をかけてよかった”コーヒーカップを両手で包みながら琢磨が笑いかけると、みも柔らかく微笑み返した”“私も、あの時たくま君が見つけてくれなかったら、今もずっと下を向いたままだったと思う”“みは才能があるんだから、もっと自分に自信を持っていいんだよ」「琢磨君がそう言ってくれるから、信じられるんだよ——昔からずっとね”二人の間には、峰岸で再開した時のような怯えた空気や、見えない壁はもうなかった”“これからもずっと——隣で支えてくれるか」琢磨がまっすぐに尋ねると、みは目を丸くして、大粒の涙をこぼした”“もちろん——琢磨君が頑張ってる限り、私はどこにも行かないよ”みは涙を流しながら、あの頃のように力強く頷いた“十五年という長い遠回りを得て、二人は本当の幸せを掴んだ“教室の隅にいた琢磨を救ったその手は、時を越え、今度は会社を支える右腕となっていた“学歴で踏みにじられた天才が、データと誠実さで全てを取り返した逆転劇だった“過去に下された傷さえ、共に歩んだ絆の証になるのかもしれない——