「そっちがその気なら、俺にも考えがあるぞ。」
取引先の部長がそう声を張り上げた。アポイントもなく事務所に突撃してきて、散々暴言を吐き、勝手に感情的になった挙げ句の言葉だ。一方的な暴言を受ける俺を息子がかばってくれたのだが、その息子が気に入らなかったらしい。次の瞬間、ありえない言葉が飛び出し、俺は取引先との縁を断ち切る決意を固めた。
俺の名は松井。五十六歳で町工場を経営している。社員は五十名未満。年季の入った外壁や看板には、ところどころ錆が浮いている。こんな情報を耳にした人間の大半は、古臭い工場だとネガティブな印象を持つだろう。だが俺も社員たちも、自分たちの仕事に誇りを持っている。少なくとも、表面の情報だけで判断する人間に、わざわざ中身を見せる必要はないと思っていた。
うちの町工場は祖父の代から始まった。地域に根付いた工場ということもあり、見た目の古さとは裏腹に信頼と実績を積んできた。
取引先も多種多様だ。その中に、ある産業機械メーカーがある。この企業とは八年もの付き合いだ。グループ十二社を抱える大きな企業で、長年にわたり信頼関係を築いてきた。
少なくとも、取引先の購買部の部長として神崎という男がやってくるまでは。
神崎は購買部の部長であり、本社社長の息子でもある。なぜそんな立場にいるのか詳しい理由は知らないが、これまでいくつもの部署を点々としてきたという噂だ。うちの担当として名簿に載っているのは部長の神崎だが、実際には課長が実務を担っていることが多い。うちが仕事上のやり取りをするのは、この優秀な課長がほとんどだった。
課長の話では、神崎は名ばかりの部長であり、自ら動くことは滅多にないらしい。そんな人が部長職に就いているのは、取引先としても大丈夫なのかと心配になる。そんなことを考えていると、俺は決まってある会社を思い出す。神崎の会社の他に、別の産業機械メーカーと取引していた時期があったのだ。
しかし祖父から父へ代替わりする前に、社長同士の揉め事が起こってしまった。それがきっかけで、今の今まで疎遠になっている。大昔のことだし、父も話してくれなかったので理由は分からないが、揉め事が起こる前は非常に良好な関係だったという。
「親父、今いいか?」
物思いにふけっていると、聞き慣れた声がした。顔を上げると、手ぬぐいで汗を拭きながら息子が事務所に入ってくるところだった。大柄でがっしりしているため、入ってくると事務所がいつもより狭く感じる。息子は今年三十歳になる一人息子だ。
俺としては好きな道を選んでいいと言っていたのだが、息子は「親父の後を継ぐ」と言って、大学卒業と共にうちで修行を兼ねて働くようになった。息子は俺と違って、同世代の経営者仲間との横のつながりを大切にしていた。業界の飲み仲間も多く、その顔の広さには俺も舌を巻くことがある。
「どうした?」
「いやさ、神崎さんが来てるんだよ。今、作業場を見てる」
「え?」
息子の言葉に俺は目を丸くした。神崎が来る予定など聞いていない。そもそも課長ではなく神崎がやってくること自体、初めてのことだ。
「やっぱり親父も知らなかったんだ」
俺の様子を見て、息子はため息をつく。
「俺たちもびっくりしたんだよ。作業してたら、いきなりズカズカ入ってきて。『困ります』って言ったんだけど、あんな調子だろ? 言っても聞かなくてさ」
息子の言う「あんな調子」に、心当たりがあった。うちと取引先とのやり取りはほとんど神崎の部下である課長が担っていたが、神崎と一切面識がないわけではない。数える程度しか直接話したことはないが、そのどれもが不快な記憶ばかりだ。神崎はうちの表面しか見ず、偏見で工場そのものを馬鹿にしていた。
「分かった。すぐに行こう」
俺は息子に頷くと立ち上がった。息子と一緒に作業場へ向かうと、神崎は作業中の職人たちに声をかけていた。聞こえてきたのは技術的な質問ではなく、「そんなちまちまやってて金になるのか」「こんな廃業寸前みたいなボロい工場で働くなんて割に合わないだろ」「転職しようと思わないのか」といった、かなり失礼な言葉の数々だった。
「神崎さん、今日は約束しておりませんでしたが」
呼びかけると、神崎は俺の存在に気がついた。軽く手を上げる。
「ああ、どうも。まあ、抜き打ち調査みたいなもんだよ。オタクは仮にもうちのような大企業の取引先なんだ。いい加減な仕事をされては叶わんからな」
「そうだったんですか」
ひとまず俺は納得したふりで頷く。
「それにしても、こんなボロいとはな。廃業寸前って感じじゃないか」
見た目が年齢に合っていないという言い方に、胸の中が掻き乱された。仮にも仕事相手に、何という言葉遣いだ。これで部長で、社長の息子だというのだから呆れる。
息子も同じように思ったのだろう。かっと眉を潜めているのが見えた。
「こちらは手作業がメインの作業場ですので、昔からそんなに変わっていないんですよ」
息子がそう説明する。それは事実で、事務所のある敷地内にあるこの作業場は、職人が手作業で仕事を行う専用の場所だ。敷地内の別の場所には、設備が整った新しい工場がある。八年間、書類一枚すら自分で確認したことがないのだろう。おそらく神崎は、この作業場が施設の全てだと思い込んでいる。
「言い訳は見苦しいぞ。ああ、チェックしに来て正解だったわ。こんな何の生産性もない職人を雇っておく意味がないだろ」
その言葉の数々から、不快感がさらに増す。どれほどうちを下に見ているかが、この一言にこれでもかと詰め込まれている。ぐるぐると感情が渦を巻き、負の感情が競り上がってくるのが自分でも分かった。
「確かに外観や内装は昔からあまり変わっていませんが、今まで課長さんに任せっきりだった方に、我々の一体何が分かるんでしょうか。先ほどから『ボロい』だの『廃業寸前』だの、侮辱的な言葉をわざわざ選ばれていますよね。仮にも取引先に向ける言葉だと思いますか? 今後はお控えください」
神崎はじろりと俺を睨んだ。
「ところで松井社長。オタクとの付き合いって、どれくらいだっけ?」
「今年で八年になりますが、それが何か?」
神崎はぐるりと周囲を見渡し、顎をさすった。
「いやさ。オタクの部品って、納品数と価格、納期もどれもまるで見合ってないんだよね。もっと量産できないの? 課長はオタクの部品はピカイチだなんて言うけど、こんなボロっちい工場でちまちま作ってさ、正直そこまでしてオタクと契約してる意味あると思うわけよ」
卑屈な言い方に、息子がいよいよ険しい表情になる。俺は一呼吸置いて口を開いた。
「お言葉ですが、契約分はきっちり納品しております。納期に遅れたことも一度としてございません。量産を希望とのことですが、工程の一部は職人の手作業が入るため、品質を保ちながらの大幅な増産は難しい状況です」
これは曲げようのない事実だ。しかし神崎としては、そんなことはどうでもいいらしい。
「はあ。弱いなら弱いなりに、大手に重宝してもらえるように少しは役に立とうとしてみたらどうなんだ」
大げさなため息と同時に、そんな言葉を吐き出す。
「ご縁ができてから八年間、御社には継続してご契約いただいています。この事実が何より御社のお役に立てている証拠だと思っております」
俺が内心の怒りを隠してにこりと微笑むと、息子も同意するように隣で頷いた。
「ぐっ……言い訳ばかりするんじゃねえよ」
神崎はそう言ったが、一瞬顔をひきつらせたのを見逃さなかった。今にも俺に掴みかかりそうな様子を見て、息子が俺をかばうように前に出る。
「なんだ、お前」
大柄でがっしりした息子が前に出たことで、一瞬神崎が怯んだのが見えた。
「あまり父に強い言葉を使わないでいただきたいです」
息子は礼儀正しくお願いしているだけだが、神崎は「なんだお前? 俺を脅すつもりか」と言い、唇を震わせてさらに声を張り上げた。どうやら激昂してしまったらしい。息子は困った様子で眉を描いた。その間にも、神崎の感情の高ぶりはどんどん増していく。
「そっちがその気なら、俺にも考えがある。俺は社長の息子なんだぞ。いいのか?」
俺は呆れつつ、脅しめいた神崎の発言に眉を潜めた。
「こちらは何もしておりません。質問に答えただけですし、息子は暴言を受けた私をかばってくれただけですよ」
俺が言うと黙っていられなくなったのか、周りからも「そうだ」「そうだ」と声が上がり始める。神崎は顔を真っ赤にさせて、ブルブルと体を震わせている。羞恥心からか、怒りからか。あるいは両方のせいだろうか。
「ああ、そうかい。だったら廃業寸前のボロ工場とは、契約終了だ。どうする? 困るよな。こんなボロくて汚い工場、うちのおかげで成り立ってたんだろ」
神崎は言いながら余裕を取り戻してきたのか、ちょいちょいと指を地面に向けて差し示した。
「土下座だよ。『生意気な口を聞いてすみませんでした』って謝罪すれば、見逃してやるよ。俺は社長の息子だけあって心が広いからな」
こいつは一体何を言っているのだろう。おそらく神崎以外の人間は、揃ってこう考えたに違いない。困惑した息子に、俺は黙って首を横に振る。謝罪も土下座も必要のないことだ。
「どうした? ほら、土下座しろよ。お前の大好きな父親の工場が仕事を失っていいのか? でかいだけの図体で俺を脅しやがって」
勝手に怯えただけの間違いだろう。俺は喉まで出かかった言葉を飲み込み、神崎に向かってゆっくりと深く頭を下げる。
「親父!」
息子が慌てたように言うが、俺は手で静止する。
「ふん。俺は土下座しろって言ったんだぜ」
完全に調子に乗った神崎の発言に、俺は顔を上げる。
「勘違いされては困ります。これは謝罪の意志ではありません。八年間、大変お世話になりましたという意味です」
神崎がポカンとしたのを見て、思わず苦笑する。
「どうされました? 契約終了されるんですよね。部長が言い出したことじゃありませんか」
「そ、それはそうだが……まさか俺があっさり受け入れるとは思わなかったのだろう」
「ふん。その潔さだけは評価してやる。後で泣きついても受け入れてなんかやらないからな」
「それはこちらのセリフです」
もうこれで縁は切れる。その気持ちから、いつもの俺なら言わないであろう言葉が出た。
「何?」
神崎が俺を睨んだが、息子が再び俺の前に進み出る。
「もう関係がなくなるのですから、お引き取りを」
息子の淡々とした言い方と、その風貌から出る威圧感に、神崎は情けない声を漏らして逃げ去っていった。その背中を見送った後、作業場の職人たちから拍手が湧いた。
それから約半月が経過した。
俺の目の前で、ある人物が深く頭を下げている。
「この度は、息子が本当に申し訳ございませんでした」
事務所の来客用のスペースで、神崎の父、取引先本社の社長が必要以上に丁重に謝罪していた。その隣で、神崎は顔面蒼白になりながら視線を彷徨わせている。
「社長がどれほど謝罪されても、もう私どもの気持ちが変わることはございません」
俺は毅然として告げた。なぜこんなことになったのか。経緯はこうだ。
俺は神崎が帰った後、すぐに契約終了に関して動き始めた。グループ十二社との契約になるため少々手間と時間がかかったが、思っていたよりはスムーズだったと思う。神崎は神崎で、うちに代わる会社を探していたそうだ。しかし勝手にうちとの契約終了を決めたのが良くないと分かっていたのか、代替先を見つけるまではうちとの契約終了を周りに隠していたらしい。
ボロくて廃業寸前の町工場の代替先なら、神崎からすればすぐに見つかると高を括っていたのだろう。しかしその考えは非常に浅墓だった。
普段何も仕事をしない神崎が、あれこれ動き回っていることに不審感を覚えた課長が、すぐに勘付いたそうだ。
「勝手に契約を終了したんですか? なんてバカなことだ。松井社長の特許がどれほど我々にとって重要か、まさか知らないわけありませんよね」
課長の言葉はまさにその通りで、うちの特許は神崎の会社にとって非常に重要なものだった。「ボロいだの廃業寸前だの」と侮辱されたうちの町工場は、特許だけでも年商五十二億は下らない。その特許というのは、極限環境でも対応できる精密部品の加工技術である。高温、高圧、腐食性の高い環境でも劣化しづらいのが独自の特徴だ。
取引先にとって、産業機械の心臓部の部品に使われる、いわば変えの効かない技術である。そして肝心なのは、工程の一部が熟練職人の手作業に頼っていることだ。機械だけでは絶対に出せない微細な精度。その一点こそがうちの強みであり、八年間契約が継続されてきた本当の理由だった。
「特許なんか知らなかったんだ」
神崎のこの訴えに、さぞ課長は頭を悩ませたに違いない。挙句の果てには「もうこれ以上はお前がなんとかしろ」と、神崎は課長に言ったらしい。課長は溜まりに溜まったストレスが爆発したのだろう。
「いい加減にしてください。このことは、上に、あなたのお父様に全て報告します”
「ま、待ってくれ。親父に知られたら……」
神崎は止めたらしいが、こうなった以上課長は止まらなかった。「そんなの知りません」と神崎を振り切り、すぐに社内が大騒ぎになったのだとか。こうして今に至る。
「本当に報告を聞いた時は、耳を疑いました」
社長は頭を下げた姿勢のまま言う。謝罪と再契約を頼みに来たのだ。とはいえ、ことの発端である神崎からは、まだ一度も謝罪の言葉を聞いていない。
「先ほども言いましたが、私どもの気持ちは変わりません。それに、すでに新しい取引先と結ぶことが決まっておりますのでな」
俺の発言に驚きの声をあげたのは、神崎だった。社長は渋い表情のまま、深く頷いている。
「御社ほどの優秀な部品ですから、すぐに次の契約先が決まっても納得です」
社長は顔を上げ、せめてどこの会社と再契約となったかお聞きしても、と尋ねてくる。俺はため息をつき、教えてやることにした。契約の話を進めている時に、万が一契約先を聞かれることがあったら教えて良いかと、先方に確認を取ってあったのだ。
「御社にとっては、ライバル会社に当たる会社です」
その会社は県内では名の知れた産業機械メーカーだ。神崎の会社ほどの知名度こそないが、歴史があり、信頼と実績のある会社である。その会社というのが、うちが祖父の代に喧嘩別れした取引先だ。
神崎が契約終了を宣言した後、俺は息子と話し合った。
「実は親父に言ってなかったんだけど、俺、隣の会社の社長と付き合いがあるんだ」
「隣の会社」というのは、喧嘩別れした取引先である。俺が目を丸くしていると、息子が言う。
「いや、仕事関係じゃなくて、たまにプライベートで飲むくらいの付き合いなんだけど。どうもうちとの関係を修復したいみたいで、俺も同じような考えがあったから、たまに話してたんだよ」
そうだったのか。実を言うと、俺もかつての取引先が頭に浮かんだことは何度もあった。息子の話だと、先方の社長はかなり人柄がいいようで、一度正式に話をさせてもらえたらとお願いしたのだ。こちらの願いに対し、先方はとても歓迎してくれた。こうして、再び縁が結ばれたというわけだ。
そこまで話し終えると、社長はため息をついた。
「息子の愚かささえなければ……」
「それは違います」
社長のつぶやきを、俺は真っ向から否定した。いい機会だから、俺は思っていたことを全て打ち明けた。
「どういう意図があるかは存じませんが、息子さんを購買部の部長にして、一切を任せていたあなた自身にも、大いに責任があると思います。そのせいで俺たちだけでなく、神崎さんのいる購買部の人間には、多大な迷惑がかかっているはずです」
俺の指摘に、社長は重く頷いた。
「さっきからずっと無言ですが、あなたは何も責任を感じていないのですか? お父様にここまでさせて、あなたは何も感じないのですか?」
俺は、ずっと俯いて黙り込んでいる神崎に視線を向ける。びくっと肩を震わせ、恐る恐る顔を上げる。
「お、俺は……」
神崎はようやく話し始めた。そもそも、いきなりうちの工場にやってきたのは、最近になって父親から「いい加減にしっかりして成果を出せ」と言われたのがきっかけらしい。そこで、手っ取り早く古臭くて利益が少なそうな取引先に圧力をかけることを思いついた。圧力をかけて成果が出ればそれで良し。言うことを聞かないなら切り捨てればコスト削減。そんな浅い考えでの行動のようだ。
「なるほどな」
俺は今更ながらに合点がいった。
「だから……」
神崎は話を終えると、床に膝をつこうとする。
「おやめください。私はあなたと違って、土下座を見ても何も感じません。全てが遅すぎました。私たちは神崎部長を、いえ、御社をもう信用できないのです」
土下座まで封じられ、神崎は救いを求めて社長に目を向ける。しかし社長に視線をそらされ、今度こそ神崎は絶望した。
その後、神崎は懲戒解雇になったらしい。無断での契約解除、その後の隠蔽工作、対策を講じられなかった失態など、理由には事欠かなかった。今も元取引先は混乱していて、業界内に噂が広がり、他の取引先からも契約を解除されるような状況が続いているそうだ。
うちはといえば、新しい取引先と少しずつ関係を深めている。古い因縁が解けた分、これからはより強い絆を築いていけそうな気がする。
「親父、終わったよ」
事務所に息子が顔を出す。俺は外に出た。息子の提案で、レトロな雰囲気を残しつつ塗装し直された看板が、太陽の光に照らされている。少しだけ残した錆も、いい味を出しているように見えた。
「次はお前がこの看板を守っていくんだな」
俺が言うと、息子が照れ臭そうに、そして誇らしそうに笑った。
