あの朝、同僚が放った「化け物は留守番してろよ」という言葉を、俺は今でも忘れられない。大手清掃用品メーカーに入社して数ヶ月、左頬の傷のせいで俺は社内で噂の的だった。研修旅行のバスに乗り込もうとした瞬間、泉という男が笑いながらそう言い放ち、周囲も同調した。庇ってくれたのは結城彩佳という女性社員だけ。俺は仕方なく一人会社に残ることを選んだ。ところが研修メンバーがホテルに到着すると、フロントから意外…

あの朝、同僚が放った「化け物は留守番してろよ」という言葉を、俺は今でも忘れられない。大手清掃用品メーカーに入社して数ヶ月、左頬の傷のせいで俺は社内で噂の的だった。研修旅行のバスに乗り込もうとした瞬間、泉という男が笑いながらそう言い放ち、周囲も同調した。庇ってくれたのは結城彩佳という女性社員だけ。俺は仕方なく一人会社に残ることを選んだ。ところが研修メンバーがホテルに到着すると、フロントから意外...

「ひっ、相変わらず怖い顔だな。そんな顔でホテルに来られちゃあ、お客さんがビビるだろ。化け物は留守番してろよ」

会社の研修旅行の朝、同僚のその言葉に俺は黙って目を伏せた。大手清掃用品メーカーに就職して数ヶ月。入社以来、左頬の傷跡のせいで俺は噂の的になっていた。車内の誰もが冷たい視線を向ける。俺をまともに扱ってくれるのは、一人の女性社員だけ。そんな彼女も今日の研修には当然参加するだろう。俺は仕方なく、一人で会社に残ることを選んだ。

だが、研修メンバーはホテルのフロントで予想外の事態に直面する。

「坂木様のご同行を条件にした優待プランとなっております。もし本人がお見えにならない場合、宿泊料金は二千万円になりますが、よろしいでしょうか?」

二千万? 誰も知らなかったのだ。俺の正体を。そして、俺の正体が明かされた時、俺を馬鹿にしていた連中は俺に頭を下げることになるのだった。

俺の名は坂木健吾。大手の清掃用品メーカー、桜コーポレーションに入社してから数ヶ月が過ぎた。この会社は業界でも結構なシェアを誇っている。俺はその新入社員として企画や営業の基本を学びながら、雑用に奔走する日々を送っていた。新入社員なんて大体そんなものだろう。特に気にしてはいない。ただ、厄介なのは俺の顔に対する視線だ。俺の顔には左頬に大きな傷跡があり、初対面の人には強烈な印象を与えてしまう。まるで危険人物とでも言わんばかりの視線に、初日は肩身の狭い思いをした。

車内では有名な大学を出ている奴ら、いわゆるエリートと呼ばれる人たちが何人もいる。俺の学歴は高校卒業どまり。そのせいもあって、顔の傷と相まって「どうせ使えない無能だろう」と影で言われていることは知っていた。特に同僚の泉大樹は、俺のことを露骨に見下してきた。俺より三つ年上の二十八歳で、大学も名の通ったところを卒業したらしい。プライドが高くて、いつも傲慢な態度を取る。

その日も休憩室で昼飯を食っていると、泉とその取り巻きたちの話し声が耳に入ってきた。

「いや、あれじゃ車内のイメージ下げまくりだよ。なんと言っても高卒だし、見た目だってまるで化け物じゃん。近寄りがたいんだよな」

「本当怖いんだけど」

「化け物が人間の中に紛れてんじゃねえぞって感じだよな」

聞きたくもない陰口が耳に入る。胸の奥がチリチリと焼けるように熱くなるが、ここで怒鳴り返しても俺が損をするだけだ。ぐっと堪えた。しかし、そんな泉の言葉に対して反応を示したのが、同僚の結城彩佳だった。営業推進部に所属している女性社員で、明るくてよく笑うのが印象的だ。

「泉君、坂木君へのそういう言い方はやめてほしいの。聞いていて気分が悪いわ」

「なんだよ。お前だって本当はそう思ってるんだろ?」

「いいえ、全然思ってないわ。失礼だし、不愉快よ」

彼女の断固とした態度に、泉は一瞬怯えたようだったが、すぐに鼻で笑って背を向けた。

「へっ、女に庇ってもらうようなやつは話にならねえよ」

そう言い捨てて、泉と取り巻きは部屋を出ていく。彩佳はその態度にさらに怒りを燃え上がらせた様子で口を開こうとした。そんな彼女を俺は制した。

「いいよ、彩佳」

でも、彩佳は俺を横目で見て、心配そうに眉を下げる。

「君、あんなこと言われて悔しくないの?」

俺は肩を竦めた。

「くだらない相手に怒っても疲れるだけだろ」

「そうかもしれないけど…。でもね、言いたいことがあったら言い返していいんだよ。無視するだけじゃ、好き放題言われ放題じゃない」

彩佳は心から心配してくれているようだった。普通の社員なら、関わり合いになりたくないと思うところ。彼女はむしろ寄り添ってくれる。これとしては珍しく、ありがたい存在だった。

「ま、慣れてるんだ。あれくらいなら。それより、庇ってくれてありがとな」

俺が頭を下げると、彩佳は優しく微笑んだ。

「うん。気にしないで。私が勝手に腹を立てただけだから」

その言葉だけで、俺はこの会社でまだ頑張れる気がした。

そんなある日のこと、桜コーポレーションの車内研修として、グループ会社が経営しているリゾートホテルで見学と勉強会が行われることになった。ホテルの清掃用品やサービス向上のノウハウを学ぶ場らしい。新人は全員参加が基本。企画開発部や営業推進部の中、若手社員もたくさん行くらしく、かなり大掛かりな研修になると聞いていた。ところが、当日の朝。集合場所となっている会社のロビーで、泉がニヤニヤしながら俺に近づいてきた。

「おい、き、お前も行くつもりなのか?」

「行くつもりって…そりゃ研修だし」

俺が当たり前のように答えると、泉はわざと大げさな仕草で腰を引き、恐怖を演じた。

「ひっ、相変わらず怖い顔だな。そんな顔でホテルに来られちゃあ、お客さんがビビるだろ。化け物は留守番してろよ」

取り巻きたちも大声をあげる。

「そうだぞ。せっかくの研修が台無しじゃん」

「お前が来たらこっちが恥かくわ」

そんな時、彩佳が俺たちの会話に割って入ってきた。

「泉君、そんな言い方は良くないよ。研修は全員参加が基本でしょう」

彩佳の声には怒りが滲んでいた。

「彩佳さん、君はいつも気を回すよね。でも、あいつが来たら研修の雰囲気が台無しになるのは目に見えてるじゃないか」

泉が意地の悪い笑みを浮かべる。うんざりするような嫌味だ。

「分かった。行かないよ」

俺は冷静なふりを装ってそう言った。どうせなら、あいつらと集団行動をするのは正直気が進まなかったのだ。特に泉がいるならなおさら。

「坂木君…」

彩佳が心配そうに俺を見つめる。

「大丈夫だよ。俺が行かないって決めたことだから」

それを見て、泉は勝ち誇った顔をする。

「マジかよ。助かるわ。じゃあ俺たちは行こうか」

あまりにも露骨な態度に腹が立ったが、これ以上は言い返す気力も湧かない。すると、たまたまそこに通りかかった藤本副社長が俺たちの様子を見て、眉を潜めた。

「坂木君、本当に行かないのか?」

「はい」

「まあ、本人が行かないというなら仕方ないだろう」

そう確認だけ取ると、そのままスタスタと通り過ぎていった。俺はロビーを後にし、一人でオフィスに戻る。心のどこかで「これでいいのかな」と小さな疑問が湧いたが、正直、泉たちの言葉に対してこれ以上エネルギーを費やしたくなかった。結局、研修のバスは俺を置いて出発することになった。

研修メンバーが出発した後、俺は雑務を片付けたり、請求書や取引先の情報をまとめたりしていた。昼休憩に入ろうとした時、突然スマホが振動した。画面を見ると、発信者は彩佳だった。

「もしもし」

「あ、坂木君、今大丈夫?」

少し慌てたような声だ。何かあったのかと身構える。

「うん。仕事は一段落してる。どうした?」

「あの、すごく言いづらいんだけど…、やっぱり研修に来てもらえないかな?」

「え? どうして?」

「さっきホテル側から説明があって、もし君が来ないと割引が適用されないって言われたの」

割引? どういうことだ? 俺が促すと、彩佳は詳しい事情を説明してくれた。昼前に研修メンバーはホテルに到着した。そして、チェックインをしようとした。すると、フロントのスタッフが真顔で問いかける。

「失礼ですが、坂木健吾様はお見えですか?」

それを聞いた泉が嫌そうな顔をした。

「はあ? 坂ならいませんよ」

「失礼いたしました。坂木健吾様がお見えにならないとなりますと、今回の優待プランは適用外となります」

「優待? そんなもん聞いてないぞ。何の話だ?」

「恐れますが、こちらでは坂木健吾様のご同行を条件にした特別プランとして予約を受け承っております。もしご本人がいらっしゃらない場合、通常の宿泊料金になります」

フロントの説明は淡々としているが、泉たちは納得いかない様子で声を荒げる。

「冗談じゃない。一体それはいくらになるんだよ」

「えっと、二泊三日、一名様あたり二十万円。参加人数が百三名と伺っておりますので、合計で二千六十万円のご請求になりますね」

二千六十万円? 泉はまさに青天の霹靂といった顔をした。研修参加メンバーも一瞬戸惑い、誰もが呆然としている。

「なんで坂木が来ないとそうなるんだよ。あいつはただの新入社員だぞ」

「坂木健吾様は、桜コーポレーションの社長である坂木哲也様のご子息と伺っておりますが、こちらへの連絡ではそのように」

「そんな話、俺たちは知らないぞ」

「いえ、間違いなくそう聞いております。株主優待プランは、坂木様ご一家とそのご紹介者が利用できる特別プランですので」

「なんだよ、それ」

泉だけでなく、周囲の社員たちもわけが分からないという表情だ。言葉にならない動揺が、まるで波紋のように周囲に広がっていく。

「まさか坂木君が社長の息子…。そういえば、苗字が一緒」

彩佳もそう呟いた。結局その場ではどうしようもなく、研修メンバーはチェックイン手続きを止められたまま立ち尽くすことになった。完全にパニックだ。

その時、彩佳が声を張り上げた。

「みんな落ち着いて。坂木君が来てくれれば済む話じゃない。私が坂木君に頼んでみる」

そう言うと、彩佳は急いで俺に電話をかけた。そして、今に至る。彩佳の話を聞いて、俺は頭の中が一瞬真っ白になった。社長の息子であることは事実だが、車内では伏せていたことだ。なぜそんな話がホテル側に伝わっているのか。

「とにかく、このままだと私たち、宿泊費がすごい金額になっちゃうの。置いて行っておきながらなんだけど…」

「分かった。とにかく今から行けばいいんだろ。それで割引が適用されるなら」

「ごめんね。無理を言って」

「いや、彩佳のせいじゃない」

彩佳が申し訳なさそうに電話を切った後、俺は急いで研修先へ向かった。結局、自力で行くことになったことに、なんだか釈然としない気持ちが渦巻いていたが、今はとにかく向かうしかない。新幹線とタクシーを乗り継ぎ、日が傾きかけた頃に目的のリゾートホテルへ到着した。そこは高台に建てられた豪華なホテルで、海の絶景を一望できるデッキや広々としたロビーが印象的だった。まさかこんな場所に来ることになるとは思っていなかった。

入口には彩佳がいた。俺を見て大きく手を振ってくる。俺は彼女の元へ駆け寄った。

「悪い。遅くなった」

「こっちこそごめんね」

申し訳なさそうな顔をしながら、彩佳がロビーに案内してくれる。俺が姿を表した瞬間、泉も周りの社員たちも何とも言えない顔で俺を見つめた。そんな彼らに構わず、スタッフがペコリと頭を下げて挨拶する。

「お待ち申し上げておりました。坂木様。改めまして、ご着席ありがとうございます」

俺は混乱しつつも、チェックインの手続きを行う。こうして無事に研修メンバー全員が先の特別料金で宿泊できることになり、研修メンバー全員がやっと部屋に入れることになった。

部屋に到着すると、泉とその取り巻きたちが待ち構えていた。出発前は散々俺を馬鹿にしていた彼らだが、今は全員が深刻そうな顔で俺に頭を下げる。

「来てくれてありがとう。本当に助かったよ」

真っすぐな謝罪だった。俺は少しばかり意地悪な気持ちになっていたのだが、素直に謝られるとどう返していいか分からない。

「気にしてないよ。こんなことになるなんて、誰も思ってなかったし。俺だって行かないって言ったしな」

俺なりに誠意を込めて答えたつもりだ。泉はほっと息を吐いたが、すぐに思い出したように頭を掻く。

「いや、でもな、まさかお前が社長の息子だったなんて、全然知らなかったんだ。正直戸惑ってる」

「俺だって戸惑ってるよ。そのことは隠していたんだから。こんな形でバレるなんて」

その時、彩佳が部屋に入ってきた。

「今日はお互い疲れたでしょ。研修は明日からだし、夕食会に備えて少し休憩しよう」

そう言って皆をなだめるように笑う。その言葉に従うようにして、泉たちはそそくさと部屋を出ていった。彩佳が残って、俺の顔を心配そうに覗き込む。

「本当にごめんね。遠くから急に呼び出して、無理させちゃったね」

「いや、いいんだ。連絡くれてありがとな」

「うん」

彩佳は何かを言いたそうだったが、結局それ以上は踏み込んでこなかった。

「そうだ。これからは健吾君って呼んでいい? 社長と同じ苗字なんだもん」

「あ、ああ、別にいいけど」

「ありがとう、健吾君。私のことも彩佳って呼んでいいから。研修頑張ろうね」

彩佳は、あははと照れ臭そうに笑いながら部屋を後にした。俺はその背中を見送りながら深く息をついた。そして、部屋の窓越しに見える広大な海をぼんやりと眺めた。

研修旅行から戻り、会社へ復帰すると車内の空気が一変していた。これまで化け物扱いだった俺が、急に注目の的になった。廊下を歩けば「お疲れ様です、坂木様」なんて慇懃な挨拶が飛んでくるようになった。あまりにギャップが激しすぎて、正直戸惑っている。俺は何も変わっていない。顔の傷も、高卒という事実も、全てそのまま。変わったのは周囲の見方だ。でも、その見方も一枚岩ではないのが厄介で、「社長の息子でしょう」とか「どうせ何もできない無能だろう」という声も影で聞くようになった。とりわけ強く当たってくるのは、やはり泉だ。研修先では一度は頭を下げてきたものの、戻ってからはまたトゲのある態度に戻りつつある。

今日も企画開発部の定例会議に参加した俺は、末端の椅子に座って、ぼんやり周囲を見渡していた。会議室の空気は重く、緊張感に満ちている。皆が真剣な表情で資料を見つめ、意見を交わしている様子が目に入る。

「坂木君、何か意見はあるか?」

突然、部長にそう呼ばれた。周囲の視線が俺に集中する。途端に心臓がドキドキと高鳴り、耳元で血の音が響く。言葉が出てこない。

「…ないのか。ああ、泉君はどうだ?」

部長が泉を指名した。泉はすぐに反応し、まるで待ってましたとばかりに立ち上がる。

「はい、部長。私は最近の市場調査の結果をもとに、新製品の方向性について考えてみました。現在の消費者のニーズは、実用性とデザイン性を両立した製品です。特にエコロジーを意識した商品が求められています。そこで、我が社の製品ラインナップに環境に優しい素材を取り入れることを提案します」

泉はスラスラと話し始める。その声は明瞭で、まるで事前に用意されたスピーチのようだった。

「このアプローチによって、我々は競合他社との差別化を図れるはずです。実際、最近のデータでもエコ商品が売上を伸ばしていることが示されています」

泉はさらに具体的な数値を上げる。周囲の社員たちは彼の意見に真剣に耳を傾けている。彼の話し方には自信があり、明確な論理構成が感じられる。

「この新しい方向性に基づいて、具体的なプロトタイプを作り、上層部に提案するべきです」

泉がそう締めくくると、周囲からは拍手が起こり、彼の意見に同意する声が上がる。俺はその光景を見ながら、ますます心が沈んでいった。自分が何も言えないままこの場にいることが、無力に思えた。

会議が終わって解散した後、泉がわざわざ俺のところへ寄ってきて、嫌味を言い放った。

「お前さ、何のために来てんだよ。結局名前だけってことか。お前が社長の息子じゃなかったら、この会社にはいられないだろうな」

泉は軽蔑の目を向けてくる。その言葉には容赦がない。

「分かってるよ」

俺はそれしか言い返せなかった。

その日の夕方、残業の合間にデスクで資料をまとめていると、彩佳がひょこっと顔を出した。

「健吾君、ちょっと時間ある? 少し話したいんだけど」

営業推進部のフロアからわざわざ来てくれたらしい。周囲の視線を感じたが、彼女はまるで気にしていない様子で俺を連れ出す。別室のミーティングルームに入ると、彼女がドアを閉めた。少し疲れた表情だが、それ以上に真剣な眼差しだった。

「どうして会議で発言しないの? 入社した頃は、自分のアイデアも出してたでしょ」

「それはまだ、俺が社長の息子だなんて皆が知らなかったからだよ。でも、今はもう違う。周りの目を考えると怖いんだ。社長の息子だから注目されるし、期待される。だからこそ、失敗が許されないっていうか。下手なこと言ったら、『あいつやっぱり無能じゃん』って笑われる。それに、俺は皆のような学歴もないし、高卒なんだ。そんな俺が何か意見を言ったところで、説得力なんてないだろう」

言葉を重ねるにつれ、自分があまりにも小さな男だという気がして、情けなくなってきた。しかし、彩佳がそれを否定するように首を振った。

「失敗するのが怖いのは当たり前だよ。でも、何もしないで黙っている方が、よっぽど格好悪いと思わない? 失敗しても、それをちゃんと受け止めて立ち上がる人の方が、何もしない人よりずっとずっと格好いいと思う」

「そりゃそうだけど…」

「それに、高卒だっていいじゃない。私は全く気にしないよ。学歴なんてものより大切なのは、挑戦するとか、自分を信じてみるとか、そういうことだと思う」

彩佳の声には力がある。彼女の言葉が心にストンと落ちる感じがした。俺はふっと視線を落とし、深く息を吐いた。

「ありがとな。そんな風に言ってもらえると、少しだけ肩の力が抜ける気がする」

彩佳がニコッと笑う。

「うん。やってみようよ。私もできる限り協力するからさ」

彼女の言葉にだいぶ気持ちが軽くなってきたところで、ふと疑問が湧いてくる。

「なんで彩佳は、そんなに俺のことを気にしてくれるんだ。入社した時から、お前だけは俺を怖がらなかったよな」

そう尋ねると、彩佳は目をそらしながら苦笑いした。

「笑わないで聞いてくれる?」

「笑わないよ」

「私、プロレスが大好きなんだ」

思ってもいない答えに、俺は目を丸くする。

「はあ…プロレス?」

「うん。昔、体一つで私のことを助けてくれた人がいてね。それからはまっちゃったの。滑稽らしいけど、何度倒れても立ち上がる姿がすごく格好よくて、ずっと応援してるんだ。選手たちはみんな傷だらけだけど、その傷がまた強さの象徴というか」

そう言いながら、彩佳はちょっと恥ずかしそうな表情だ。

「健吾君の顔の傷を初めて見た時に、ドキドキしちゃったの。変に思われるかもしれないけど、怖いというより、むしろ強さを感じたのよね。だから、全然マイナスだなんて思わなかった。むしろプラス」

「え、プラス?」

俺は自分の頬に無意識に触れる。この傷を格好いいと言われるとは、想像していなかった。

「そう、私にとっては格好いいの。あ、でもね、そういう好きって意味じゃないよ。その…憧れとか尊敬とか、そういう意味で」

彩佳は盛んに手を振って弁解するが、顔が赤くなっているのは隠しきれない。なんだか意外すぎる展開に、俺もどう反応していいか分からなくなる。

「なんか、そんな風に言われるのは初めてだ。ありがとう」

「うん。健吾君が傷のことを気にしてるなら、そんな必要ないよって言いたかったの。むしろ、その傷を抱えたまま頑張ってる姿は、誰にも真似できない強さがあると思う」

その言葉に胸が熱くなる。俺の過去を受け入れてくれる人なんて、これまでほとんどいなかった。ましてや褒めてくれるなんて、想像もしなかった。

「そうか。じゃあ、何もしないでうじうじしてるのはダメだよな」

俺がそう呟くと、彩佳はふわりと笑った。

「そう。プロレスラーは何度倒されても、リングに立ち上がるじゃない。だから、健吾君ももう一度リングに立ってほしいんだ。今度は会社というリングで。失敗してもいい。立ち上がり続ける姿は、きっと誰の目にも格好よく映るよ」

真っすぐな励ましに、俺は胸の奥がじんと熱くなるのを感じた。

「ありがとう、彩佳。俺、もう一度チャレンジしてみるよ。今度の会議では、何か一つでも提案してみる。結果がどうであれ、やってみないと始まらないし」

「うん。私、応援するからね。もし困ったことがあったら、すぐ言って」

彩佳の瞳がキラキラと輝いている。彼女は俺の再起を本気で期待してくれているんだろう。その期待に答えたい。というより、俺自身が負けたくない。ようやくそんな前向きな気持ちが芽生えてきたのを感じる。

部屋を出る直前に、彩佳がはにかみながら口を開いた。

「さっきの話は内緒にしてね。私がプロレス好きなの、あんまり会社の人に知られたくないんだ。イメージってあるし」

「了解。誰にも言わないから安心しろ。教えてくれてありがとう」

そう答えると、彩佳は照れ隠しのように俺の腕を軽く叩いた。

「じゃあ、またね」

そう言って部屋を出ていく。俺は一人ミーティングルームに残り、その姿が見えなくなるまでドアの向こうを眺めていた。

翌週の定例会議。俺は意を決して手を挙げた。

「えっと、その…新商品の広告展開についてなんですけど」

掠れた声で言い始めると、企画開発部の部長や先輩方が一斉にこちらを見る。俺は皆の視線を感じながら、なんとか言葉を繋ごうとする。

「今回のターゲット層は、若いファミリー層ですよね。だから、SNSを中心に広告を展開して、例えばインフルエンサーを起用するのがいいと思います」

その時、近くに座っていた先輩が口を挟んだ。

「確かに、昨年の調査では若いファミリー層は動画コンテンツを好むって出てたね。具体的には、どんな動画が効果的だと思う?」

「えっと、例えば…」

答えようとしたが、言葉が出てこない。インフルエンサーの名前をあげようとしても、誰が適切なのか思い浮かばない。実際のターゲット層がどれだけSNSを利用しているか、どのプラットフォームが効果的なのか、そういった基礎的なデータすら持っていないことが、急に不安として押し寄せてきた。

その時、別の先輩が発言した。

「それに、最近の消費者調査では、ファミリー向けの清掃用品に関心を持っている層が特定されていたはずだ。そのデータは持ってるよね?」

その問いかけに、俺はますます焦りを感じた。周囲の同僚たちの目に移る自分が、ただの「社長の息子」で実力が伴わない無能な新人として写っているのではないかという恐怖が増していく。

「その…あの…」

言葉が詰まる。準備していたはずの情報が、頭の中から消え去っていく。これでは俺の提案は説得力がない。自分の不出来さを痛感する。俺が口ごもっていると、部長がわざとらしくため息をついた。

「坂木君、発言するなら、もっとリサーチを行ってからするように」

部長の冷たい声で、俺の挑戦は失敗に終わった。

会議が終わってから、彩佳にミーティングルームに呼び出された。

「ねえ、どうして途中で止まっちゃったの? あれだけ準備してたじゃない」

彩佳は気遣いを含んだ声で訪ねてくる。俺はため息をつきながら首を振った。

「準備不足だった。先輩に質問されたことを、調べてなかったんだ。それで頭が真っ白になっちゃって」

「そう…。健吾君、一人で全部完成させようとしてない? もっと周りに頼った方がいいよ。ヒアリングするとか、アドバイスを求めるとか」

「他の人に聞くって、具体的に誰に?」

彩佳は少し笑っていった。

「例えば、広告部門の人たちに協力してもらうとか。あとは、先輩社員に目を通してもらうとか。最初から完璧に作ろうとするより、まずは皆の意見を吸い上げて、それを整理するってのも大事だよ」

彩佳のアドバイスに、俺は視線を足元に落とした。

「俺…、正直、人をあまり信用できないんだ」

「え?」

「昔、仲間だと思っていた奴らに裏切られたことがあって。そいつらは俺を一方的に仲間外れにして、言い分も聞いてくれなかった。それ以来、人に頼るのが怖いんだ」

彩佳は黙って俺を見つめていたが、やがて優しい声で言った。

「そっか…。でも、全員が全員そんな人ばっかりってわけじゃないよ。とりあえず、私が協力するから、一緒にやってみよう。誰かに頼ってみるっていうのは、悪いことだけじゃないよ」

その言葉が温かくて、思わず胸が締め付けられる。

「頼む。色々教えてくれ」

俺が頭を下げると、彩佳は小さく頷いてくれた。

彩佳の助言をもとに、俺は改めて案を練り直した。今度は会社の広告部門の先輩に意見を求めたり、デザイナーとのコラボが可能か調べたり、各部署の声を拾って提案書を作成した。最初はおっかなびっくりだったけれど、意外にも皆普通に話を聞いてくれ、アドバイスをくれた。そして挑んだ次の会議。今回はしっかり準備を重ね、実際の広告イメージやターゲット市場のデータも織り交ぜてプレゼンを行う。

「…それで、このアプローチを行うことで、若いファミリー層に訴求しやすいと考えています。SNS動画広告との相性もいいはずなので、予算の範囲内で試験的に実施したいと思います」

話し終えた後、静寂が訪れる。俺は心臓がバクバクしていたが、なんとか最後まで言葉を詰まらせずに済んだ。すると、部長がゆっくり頷いた。

「なるほど。面白いね。うちの製品イメージを損なわないような動画企画なら、検討の余地がある。泉君、そっちの部署とも連携して、もう少し詰めてみると良いかもしれない」

「はい、了解しました」

泉は少し気まずそうな顔をしたが、否定する言葉は口にしなかった。周囲の社員たちも、「いいんじゃない」と肯定的な反応を示している。初めて俺の案が車内で認められたのだ。俺は心の底からほっとした。

それからも、俺は積極的にアイデアを出すようになった。新商品の販売戦略や広告キャンペーンについて、これまでの自分とは違って具体的なデータや市場のトレンドを確認しながら発言するよう努力した。周囲の同僚たちも、その変化に気づき始めたのか、反応が少しずつ変わっていった。ある日、先輩の一人が話しかけてきた。

「最近、坂木君変わったよな。前は全然意見を出さなかったのに、今は自分から提案してくる。頼もしくなったな」

「確かに、あの広告戦略は良かったですよね。特にファミリー層をターゲットにしたアイデアは新鮮でした」

同僚が先輩の言葉に同意する。俺は心が躍った。自分の努力が少しずつ認められているのを実感できた。

「これからも是非、意見を出してほしい。坂木君の意見は皆の参考になるから」

そう言われた瞬間、俺の胸の中に温かいものが広がった。自分の存在意義を感じることができ、周囲の仲間たちと共に成長しているという実感があった。

「これからも頑張ります」

そう素直に返すと、皆が温かく微笑んでくれた。その笑顔を見て、俺はさらに成長していこうと決意した。

ある日の午後、俺は彩佳と一緒に廊下を歩いていた。

「健吾君、最近の活躍すごいじゃない? 皆もあなたのことを認めてるし、私も本当に嬉しいよ」

彩佳が笑顔で言った。その言葉に、俺は思わず頬が緩む。彩佳の存在が、俺にとってどれほど大きな支えになっているかを感じる。しかし、その時、廊下の先から親父が歩いてくるのが見えた。親父はいつも通り忙しそうで、表情は硬い。俺はドキリとしたが、彩佳の横にいることで少し安心感を覚え、気を取り直してそのまま歩き続ける。親父が俺の存在に気づいて、すぐに冷たい視線を向けてきた。

「お前、最近は少しは仕事に参加しているようだな」

親父は無関心とも取れる口調で言った。俺は思わず体が硬くなる。

「はい。なんとか頑張っています」

そう返すと、親父は俺の言葉を軽く笑うように鼻で笑った。

「頑張るのは勝手だが、私の足を引っ張るようなことはするなよ」

そう言い捨てて、親父は一瞥もせず俺の横を通り過ぎていった。俺は何も言えずに立ち尽くしていることしかできない。

「健吾君、大丈夫?」

彩佳が心配そうに声をかけてくれたが、俺はその言葉に一瞬答えられなかった。

「大丈夫だよ」

なんとか笑顔を作って答えたが、その笑顔には虚しさが混じっているだろうことには気づいていた。彩佳がふと真面目な表情になった。

「ねえ、健吾君って、お父さんとの仲は良くないの?」

急に核心を突く質問が来て、俺は少し驚いた。

「正直、最悪だよ」

俺は思わずぽつりと口を開いた。

「俺が高校生の時に、母が病気で亡くなってさ。それから父は仕事ばかりになってしまった。だから俺は、置き去りにされたような気持ちになって、家でも学校でも自分の居場所が見つからなかったんだ」

「そっか…」

彩佳は悲しそうに眉を下げる。その反応に、俺は少し安心した。自分の気持ちを理解してくれる人がいるというだけで、心が軽くなる気がした。

「卒業後は定職につかずに、バイトや派遣を点々としていたんだ。だけど、社会の厳しさに追い込まれてしまって。そんな時、父から会社に来てみないかという打診があったんだ。見放されていたとはいえ、完全に捨てられたわけじゃなかったと知った時、すごく複雑な気持ちになったよ。最初はその申し出を拒否したんだけど…、ある日、母の遺品を整理していた時に、『健吾が大人になったら、きっとお父さんを手伝ってくれる』って書かれたメモを見つけたんだ。その瞬間、母が俺と父のことを信じてくれていたんだなと実感して、心が揺れたんだ」

彩佳は黙って聞いてくれている。俺は続けた。

「それを見た時、俺はこのままじゃダメだって強く思った。いつまでも父から逃げていたら、母にも顔向けできない。だから、どうせなら父の会社で俺自身の力を証明してやろうって決意したんだ。それで、独学で簿記や経営学、会社の商品知識を一生懸命勉強して、最低限の準備を整えてから入社したんだ」

「それが、今の君に繋がってるんだね」

俺は小さく頷いた。彩佳がふわりと笑みをこぼす。

「きっと大丈夫だよ。今の健吾君は、すごく強くなってると思う。社長も、そのうち健吾君を認めるはずだよ」

「ああ…、ありがとう」

午後の柔らかい日差しに照らされたその横顔が、やけに眩しく見えた。俺は言葉に詰まるほどの感謝を感じながら、一歩踏み出す勇気を噛みしめた。

そんなある日、桜コーポレーションから新製品が発売された。その名も「エコリーナーpro」。環境に優しい素材を使用し、従来の製品よりも格段に強力な洗浄力を誇る。特に家庭やオフィスでの使用を想定しており、頑固な汚れを簡単に落とせるのが特徴だ。デザインもシンプルでスタイリッシュ。使う人の気持ちを考えた設計が施されている。発売当初、俺たちは寄せられる好評に胸を躍らせていた。しかし、そんな平穏は長続きしなかった。

ある朝、出勤すると部内はいつにも増して騒がしく、電話が鳴り止まない様子だった。周囲の同僚たちは疲れきった顔で対応に追われている。

「何があったんだ?」

「ああ、坂木君。新製品の一部パーツに重大な欠陥があるらしいという噂が広がって、顧客企業が一斉にクレームを入れてきているんだ。中には、このままでは取引を続けられないとまで言い放つ企業も」

同僚の言葉を聞いて、胸がざわつく。

「こんなに多くのクレームが来るなんて、何が起こっているんだ」

「技術部のデータでは異常はないし、製品の品質は保証されているはずなのに…」

同僚が呟く。部内の空気は張り詰めており、焦りが広がっていた。そんな中で、先輩社員が顔色を変えて部署に戻ってきた。

「おい、今週発売の週刊誌見たか? うちの社長が息子の不良歴を隠蔽してたとか、書かれてるんだとよ」

「え、社長の息子?」

それは紛れもない、この俺のことだ。

「不良って…、坂木君、本当なのか?」

周囲の同僚たちが俺に視線を向けてくる。緊張が走り、心臓がドキッとした。

「…本当です」

俺は小さく答えた。言葉が喉を通り抜けるのが辛い。確かに高校時代、俺は不良と呼ばれる仲間とつるんで喧嘩に明け暮れていた過去がある。だが、それを記事にされるとは思っていなかった。

「冗談だろう。なんで、このタイミングで?」

先輩の一人が怒りを露わにする。彼の表情には、驚きと失望が混ざり合っていた。

「やっぱり、あの傷だらけの顔、物騒だと思ってたんだよ。不良上がりがうちの社員になってるなんて。これじゃ、俺たちの努力が水の泡だ」

周囲の反応は激しく、社員たちの間で不満の声が広がっていく。俺は胸に重い石がのしかかったような苦しさを覚えながら、その声に耳を澄ませることしかできずにいた。

その後の噂は、すぐに耳に入ってきた。取締役の面々が緊急の株主総会や取締役会を開き、社長の責任問題を問いただす可能性が高いらしい。そして、藤本副社長が社長代理として一時的に指揮を取る案が急浮上していると。俺は拳を握りしめる。会社が大混乱になって、親父が社長を辞めさせられるかもしれない瀬戸際に立っているのに、俺は何もできない。むしろ、いるだけで混乱をさらに悪化させている。仕事用のデスクに戻っても、全然手がつかない。情けなくて、何をしていいか分からなかった。

夕方、休憩所で一人思い詰めていると、背後から足音が聞こえてきた。

「あ、こんなところにいたの」

声の主は彩佳だった。

「ああ、悪い。ちょっと一人になりたくてさ」

彩佳は心配そうに眉を寄せて、俺を見つめた。

「聞いたよ。社長が引責とか、藤本副社長が代理になるとか、大変なことになってるね」

「そうみたいだな」

思わず吐き捨てるように言ってしまうが、彩佳は特に驚いた様子も見せず、そっと俺の肩に手を置いた。

「健吾君、落ち着いて。これ、ただの偶然じゃないと思うんだよね」

「偶然じゃないって、どういうことだ?」

彩佳の瞳は鋭い光を帯びる。

「新製品のパーツが不具合なんてありえない。技術部の人は『問題ないはずなのにおかしい』って言ってたし。それに、このタイミングで健吾君の不良歴がリークされたのも、どう考えても狙い打ちだよ」

「じゃあ、誰かが仕組んでるってことか」

俺が顔を上げると、彩佳は小さく頷く。

「うん。私、少し調べてみる。車内の誰か、あるいはライバル企業か。とにかく、何かしらの意図を感じるの。だって、こんなに短期間でここまで情報が拡散されるなんて、不自然だもの」

彼女の言葉に、俺は胸の奥がざわつく。確かに、この状況は不可解だ。その時、不意に俺のスマホが振動した。ポケットから取り出してディスプレイを見てみると、そこに表示されていたのは「宮川真吉」という名前だった。かつての不良仲間であり、俺が一番の相棒だと思っていた男の名だ。何年も連絡を取っていなかったはずなのに。なぜ今更。胸がざわっと騒ぎ出す。通話ボタンを押すか迷っていると、着信は切れた。すぐにショートメッセージが届いた。

「お前の会社、大変みたいだな。もしかしたら力になれるかもしれない。話がある」

読んだ瞬間、俺は困惑に駆られた。

「健吾君、誰からだったの?」

彩佳の問いかけに、俺は少し考えた後、小さく首を振った。

「前に、俺のことを友達だと思っていた奴らに裏切られて、人間不信になったって話をしただろう。その時の仲間だよ」

彩佳は驚いた顔をしながらも、じっと俺の言葉に耳を傾けている。俺は改めて、あの苦しい出来事を思い返す。

「俺たちはつるんで喧嘩ばかりしていたけど、本当に信頼していたんだ。でも、ある日、別のグループとトラブルになったんだ。それで俺が倒れた。顔に傷ができたのは、その時だ」

俺は無意識のうちに頬の傷を撫でていた。

「結局、父の力で示談がまとめられて、すぐに退院もできた。けど、そのことで仲間たちに知られてしまったんだ。俺が大企業の御曹司だってこと。そしたら、あいつらは突然手のひらを返してきたんだ。『金持ちの息子だったなんて騙された』とか、『俺たちと違う世界の人間じゃねえか』なんて罵倒もされた。『汚い金で全て片付けられるんだろう』なんてことも言われて、すごく悔しかった。俺は親父に何とかして欲しいなんて頼んだ覚えなんかないし、そんなことで仲間外れにされるなんて思いもしなかった。だけど、あいつらは俺が何を言っても聞いてくれなかった。それ以来、俺は完全に人間不信になってしまったってわけさ」

俺の言葉が静寂に溶けていく。彩佳は優しく頷いた。

「君、それは相当辛かったね。でも、前に進むことも大切だよ。これを機会に、会って話をしてみたらどうかと思う」

「できると思うか? あんな裏切りをされたのに、話し合っても何も変わらないだろう」

「それは、実際に会って確認してみないと分からないじゃない。勇気を出してみる価値はあると思うよ。それに、彼ら、何か情報を持っているみたいじゃない? それを聞きに行くだけでも、いいじゃない」

彩佳は強い眼差しを向ける。その一言に、俺は背中を押されたような気がした。

「分かった。会ってみるよ」

俺はそう決意をした。数日後、俺は過去の仲間たちと再会するために、待ち合わせの場所に向かった。心臓が高鳴る。あの頃の仲間たちのことを思い出すと、どうしても不安が押し寄せてきた。ついに彼らの姿が視界に入ってきた。元気そうな顔が並んでいて、懐かしい雰囲気が漂った。真吉がその中からそっと前に出てきた。

「け…、連絡に応じてくれてありがとうな。あの時はすまなかった。あの時、お前がどれだけ辛い思いをしたか、気づいてやれなくて。でも、今度は信じてほしい。お前のために、なりたいんだ」

俺は彼らの前に立って、睨みつけた。

「お前らに何ができる? 何を言っても信じられない。俺が大企業の御曹司だったことを知ったら手のひらを返したお前たちに、今更仲間面されても、結局また裏切るんだろう」

俺は壁を作った言い方で言い放つ。真吉は一瞬沈黙したが、心の奥から溢れ出たかのように言葉を吐き出した。

「あの時、俺たちはお前に嫉妬してたんだ。金持ちなんて関係ないのに、勝手に遠ざけちまった。俺たちが間違っていたんだ。だから、許してくれ。この通りだ」

真吉がその場に膝をつき、頭を下げた。後ろに並んでいた仲間たちも、それに倣う。その瞬間、俺の中で長い間閉ざしていた感情が、ほんの少しだけ流れ出すような感覚を覚えた。

「俺は…、俺もお前らと同じだって思って欲しかった。裏切って欲しくなかったんだ」

口からそんな言葉が自然と漏れ出てしまった。真吉は俺を見つめ、強い眼差しで頷く。

「け、お前は悪くない。これからは一緒に歩いていこう。仲間だろ」

周りの仲間たちが頷き、真吉の言葉に賛同するように「そうだ。俺たちは仲間だ」「本当に悪かった」などと声を上げる。俺の心が一気に軽くなった。過去の傷はまだ完全に癒えていないことは事実だが、自分を受け入れてくれる存在がいることに、少しずつ希望が見えてきた。仲間たちとの和解を果たすことで、信じられる未来を一緒に作り上げていく決意が芽生えた。

「ところで真吉、お前が言っていた『力になれる話』ってのは、一体何なんだ?」

俺は真吉に尋ねた。真吉は少し考え込みながらも、しっかりとした口調で説明を始めた。

「俺たちの仲間の中に、情報収集が得意で、いろんな人脈がある奴がいるんだ。そいつの情報によると、お前の会社の副社長の手下が、ここ最近お前の会社にある倉庫に頻繁に出入りしてるらしいんだ」

「副社長の手下?」

「ああ。その倉庫に忍び込めば、何か証拠が掴めるかもしれない。もちろん、お前一人にやらせはしない。俺たちも協力する」

その言葉に、俺の胸が熱くなる。

「分かった。やってみよう」

そう答えてから数日後、夜の闇に包まれたオフィスの周囲で、俺たちは慎重に行動を開始した。

「警報が鳴ったらまずいから、できるだけ静かに進もう」

そう促しながら、俺は静かに倉庫へ向かう。時折り遠くから聞こえる足音に緊張感が高まるが、仲間たちの存在が心強い。倉庫の扉を静かに開け、中に入った。真吉が鍵を開けて懐中電灯を取り出す。

「これで照らす。おい、ちょっとこっちを見てみろよ」

彼が指示した方向を照らすと、数枚の書類が散乱しているのを見つけた。

「これは…パーツの製品データか」

俺は思わず口に出し、その書類を慎重に確認する。すると、その書類に明らかに本来のデータとは異なる数値が記載されているのを見つけた。公式なデータでは、新製品エコリーナーproが特定の種類の汚れに対する洗浄力は90%以上と記録されていたはずだが、ここに記載されているのは75%となっている。これでは製品の信頼性が著しく下がる。顧客の不安を煽るには十分だった。さらに、材料の耐久性に関するセクションにも目を奪われた。耐久試験結果では、本来、耐久性テストのクリア数値は1000サイクルだった。しかし、ここには500サイクルと記載されており、商品が市場に出ている間に故障が頻発する可能性を示唆していた。

「これを持っていこう」

俺は急いで数枚の書類を手に取る。証拠が掴めた喜びが胸に広がる。

「他にも、何か重要なものが隠されているかもしれない」

真吉が周りを見渡す。すると、奥の方から何か音が聞こえてきた。声を出さずに移動しながら、その音の正体を探る。

「多分、パソコンがある部屋だ。ここでデータを改ざんしていたのかもしれない」

真吉が囁く。皆でその場所に向かうと、また大きな音がする。何かが動いているのが分かる。周囲を監視しながら静かにドアを開けた。気を引き締めながら中の様子を見てみると、デスクの上にパソコンがあった。俺たちは中に入り、扉を静かに閉める。

「頼んだぞ」

俺は仲間のうちの一人でハッキングが得意である有之助に言った。彼はパソコンの前に立ち、落ち着いた様子で操作を開始する。しばらくすると、パソコンがロック解除され、有之助がデータフォルダーの中にあるあちこちのファイルを検索していく。やがて、目を引くタイトルの資料が表示された。

「これだ」

有之助がファイルを開く。画面には、顧客から寄せられたクレームの詳細が記録されているだけでなく、誰がその情報を流したのかが示唆されたデータもあった。

「それだけじゃない。闇取引資料もあるぞ」

有之助が驚きの声を上げる。そこには、偽情報を流しパーツの品質を貶めるために、ライバル企業と接触しているという詳細な記録が含まれていた。偽の数値とデータが列挙され、それによって営業妨害を狙って行われた計画が浮かび上がってくる。さらに、ファイルの末尾には重要な注釈があった。

「副社長、藤本正彦の指示によるもの」

これによって、スキャンダルを仕掛けたのが副社長であるという証拠が、これでついに明らかになった。俺の胸には高揚感が渦巻く。

「これなら、副社長の陰謀や不正を暴くことができる」

「この証拠を使って、親父と話をつける」

俺が力強く言うと、仲間たちが頷いた。

翌日、俺は早速親父に会いに行くことにした。少し息を整え、社長室の扉をノックし、声をかける。

「失礼します。健吾です」

返事を待たずに扉を開く。デスク周りの散乱した書類や、電話が鳴り続ける音が緊張感を強めていた。親父は忙しそうにパソコンに向かっていた。視界に入る姿は、疲れ果てているようだ。

「今は忙しい。後にしてくれ」

親父は冷たく言った。

「少しだけ、話をさせてほしい。実は昨日、昔の仲間たちと新製品の件で一緒に調査したんだ」

「それで、お前、不良と会っていたのか?」

突然、親父は怒りを露わにする。

「スキャンダルを知らないのか? 今この状態で、お前が不良たちとつるんでいることが明らかされてみろ。さらにうちの評判が悪化することが分からないのか。これ以上会社に迷惑をかけるのならば、会社をやめろ」

その言葉は、まるで氷の刃のように俺の心を刺した。

「分かった。辞職するよ。ただ、その前に、けじめをつけたい。今回の件は、副社長の陰謀なんだ。だから、副社長をぶっ潰したい」

意を決していった俺の言葉に、親父は驚きの表情を浮かべるが、すぐに眉を潜める。

「何を言っている? 藤本が陰謀だと」

「仲間たちと協力して、証拠を集めてきたんだ。ここにある。これを見れば、副社長の指示によってパーツの改ざんや偽情報が流されたことが分かる」

俺は昨日、真吉たちと一生懸命になって集めた証拠を親父に渡した。部屋の空気がピリと張り詰める。親父はその書類を手に取り、目を通し始める。そんな親父に向かって、俺は言葉を続けた。

「俺は、こんな悪巧みをする副社長なんかに、この会社を売る気はない。俺だって、この会社を守りたいと思っているんだよ。母さんの遺言もある。『健吾が大人になったら、きっとお父さんを手伝ってくれる』。その言葉がずっと心に残ってるんだ。俺は、母さんの思いを無駄にしたくない」

親父が顔を上げた。その目が少し大きくなり、驚きを隠せない様子で俺を見つめている。

「お前が、会社のことを…。そんなことを本気で思うようになったのか」

俺は頷く。

「ああ。これまで何度もくじけそうになったけれど、彩佳の言葉や仲間たちの励ましがあった。だから、もう逃げたくない。俺は親父の息子として、この会社に全力を尽くす覚悟がある」

その瞬間、親父の目に何かが宿った。厳しい表情に、少しずつ変化が見え始めた。

「なるほど。お前がそんな風に考えているとは思わなかった。正直、俺はお前を信じられなかった。だが、こうやってしっかりと自分の意見を持っているということは、成長した証なのかもしれないな」

親父の声に、少しだけ柔らかさが混じった。俺はその言葉に少し驚くが、心が温かく満たされていくのを感じた。

「健吾。やってみろ」

親父の声が、突然俺を現実に引き戻した。

「え?」

「藤本をぶっ潰すんだろう」

親父の目には、今まで見たことのない期待と信頼、そして父親としての愛情のこもった光があった。

「お前は自分の道を選んだ。そして、それを証明して見せただろう。お前の中に流れる血は、単なる社長の息子としてのものじゃない。お前自身の意思でこの会社を選んだ。その覚悟と決意を、俺は信じたい」

親父の言葉一つ一つが、重みを持って胸に響く。

「分かった。やってみる」

俺の答えに、親父は静かに頷いた。その瞬間、俺たちの間に新しい絆が生まれた気がした。

数日後、緊急の株主総会が開かれた。総会が始まると、緊張感が会場を包んだ。各方面から集まった取締役や株主たちが、その行方を静かに見守っている。俺は準備した資料を手にしながら、壇上の端で親父を見守っていた。親父は壇上に立ち、緊迫した雰囲気の中で発言を始めた。

「本日はお忙しい中、集まっていただきありがとうございます。現在、当社は新製品に関する不当なクレームが相次いでおり、特にその内容については、私たちの製品に対する信頼性に大きな影響を及ぼす可能性があると認識しています。この問題を解決するために、私たちは全力を尽くす所存です。まずは現状を正確に把握し、適切な対策を講じる必要があります」

そういった親父の表情は厳しく、会場の空気は緊張感で満ちていた。取締役たちの間には深刻な表情が浮かんでいる。その中に並んで座っている副社長の表情は、緊張感で引き攣っているように見えた。

「これからの状況については、私の息子、健吾に話をさせます」

親父はそう言うと、壇上を降りた。入れ替わりに、俺が登壇する。周囲の視線が俺に集中した。緊張で心臓が高鳴る。

「ご紹介に預かりました、坂木哲也の息子の健吾です。今日はこの場で、私たちが抱えている問題の真相を明らかにしたいと思います」

声が震えるのを感じたが、意を決して続ける。

「当社に数多く寄せられているクレームの数々を調査した結果、新製品のパーツに関する虚偽の情報が流布されていることが分かりました。これは、車内の誰かが意図的に行った行為です」

一瞬の静寂が会場を包み込む。副社長が微妙に顔を歪めた。

「健吾君、何を根拠にそんなことを言っているんだ?」

副社長が冷たく言い返す。俺は手に持っていたUSBをノートパソコンに差し込むと、壇上のスクリーンにパソコン画面を映し出す。

「根拠は、ここにあります。このデータは、パーツの改ざんや偽報の流出を示しているものです。実際には製品には問題がなく、デマによって我が社の信用を損ねる目的で動いていたことが明らかになりました。そして、調査の結果、これらは全て藤本副社長の指示によるものだと明らかになりました」

会場がざわつき始める。取締役たちが驚きの表情を浮かべ、様々な声が交錯する。

「それは本当なのか」

誰かが呟く。副社長の表情は一層険しくなり、俺の言葉を否定しようと口を開くが、俺はその瞬間を逃さず続けた。

「この資料には、藤本副社長が関与していることを示す具体的な証拠が記載されています。そして、私の過去に関する情報、すなわち不良時代の経歴が社内外にリークされ、『社長の息子は暴力事件を起こした問題児だ』というイメージが広められたことも、副社長の意図の一環なのです」

副社長の表情は驚愕に包まれ、冷静さを失ったように見えた。彼は言葉を失い、困惑の色を隠せない。

「何を言っているんだ、そんなこと…」

副社長は声を震わせながら言った。証拠の資料を指差し、慌てた手の動きでそれを否定しようとするが、すでに遅し。周囲の視線が副社長に集中する。取締役たちは互いに顔を見合わせ、緊張した雰囲気が漂い始めた。

「これは誤解だ。私がそんなことを指示したわけがない」

副社長は焦った様子で声を上げるが、表情は冷静さを失っていた。

「実際に、あなたの指示の元でこの情報が流れたことは、証拠の中に明記されています。このような不正を見逃すわけにはいきません。あなたの行動が会社にどれほどの影響を与えたのか。これから評価されることになるでしょう」

俺が言い放つと、副社長の顔色は次第に蒼ざめ、額には汗が浮かんでいるのが見えた。副社長は言葉に詰まり、ガクガクと膝を震わせている。

「こ、これは違う。私は会社のために…」

「会社のため? 自分の野心のために社員を落とし入れ、会社の信用を落とし、そして最後は父を追い落とそうとした。それのどこが会社のためですか?」

俺の言葉に、会場から「そうだ」という声が上がる。これまで副社長の意向に黙っていた社員たちからも、非難の声が次々と飛び出した。

「お前の仕業だったのか?」

「社長を裏切るなんて、やめろ」

副社長は取締役たちの厳しい視線に耐えられず、その場に崩れ落ち、膝をついた。

「警備を呼んでくれ。藤本にはこの場から退場してもらう」

親父の一言で、副社長は警備員に両脇を抱えられ、哀れな姿で会場を去っていった。彼を一人として見送るものはいない。これで終わりだ。全ての陰謀が、光の元にさらされた瞬間だった。

総会が終了した後、緊張感が残る会場を後にした俺は、外の空気を吸うために階段を降りた。すると、屋外で騒がしい声が聞こえてきた。週刊誌の記者たちが集まり、カメラを構えている。彼らは俺たちの動向を追い、真実を暴こうとしている様子だった。

「健吾君、こっち」

彩佳が元気な声を上げながら駆け寄ってくる。彼女の背後には、泉や真吉、昔の不良仲間たちが続いていた。彼らは一丸となって、俺の元に集まってきた。

「健吾君の仲間から話は聞いたわ。私たちも一緒に戦う」

彩佳が力強くそう言った。俺は彼女の顔を見て頷く。

「分かった。行こう」

俺たちはそのまま記者たちの元へ向かう。すると、報道陣がマイクとカメラを一斉に俺に向けてきた。

「坂木健吾さんですよね。今回の桜コーポレーションの一連の騒動についてのコメントはありますか?」

一人の記者が質問を投げかける。俺は一瞬躊躇したが、彩佳と仲間たちの存在が背中を押してくれた。

「私の過去が不良だったというのは本当ですが、新製品に関する噂は全てデマです。明確な証拠を、先ほど総会で示してきました」

周囲の社員たちが頷き、俺の発言を支持する。泉が前に出た。

「我々は、この状況を乗り越えるために結束しています。会社を守るために、真実を明らかにします」

その言葉に、周囲の記者たちも興味を示し始めた。そこに、真吉が資料を掲げる。彼の手には、集めた証拠が入ったファイルがあった。記者たちはそれを熱心に撮影し、メモを取る。周囲がざわめき、少しずつ注目を集める。俺は再びマイクに向かった。

「これからの桜コーポレーションを信じてください。我々は真実を守るために戦います」

力強く宣言したその言葉が、記者たちの心に響いたのか。彼らはさらに質問を投げかけてくる。

「坂木君、あなたの過去が会社に与える影響については、どう考えていますか?」

「過去は過去であり、今の自分をどう生きるかが重要です。俺はこの会社を守りたい。だから、今は仲間と共に前に進むことが大切だと信じています」

カメラのフラッシュが次々と俺に向かって焚かれる。社員や仲間たちは、そんな俺の背中を押すように、最後までしっかりとそばに立ってくれていた。

数日後、桜コーポレーションの取締役会が開かれた。不正が明るみに出たことで、副社長は即日解雇処分が決定した。これまでの功績を考慮しても、会社の信用を著しく損ねる行為は許されるものではなかった。一方で、親父は続投が決まり、会社の信用も徐々に回復に向かい始めていた。新製品の品質に問題がなかったことが証明され、顧客からの信頼も少しずつ戻りつつある。

そんなある日の夕方、俺は社長室に呼び出された。ドアを開けると、大きな窓から差し込む夕日に照らされた部屋の中に、親父が立っていた。

「健吾」

親父が振り向く。普段は厳しい声が、今日は少し違う。柔らかく、どこか懐かしい響きを持っていた。親父はゆっくりと椅子から立ち上がり、俺の前まで歩み寄ってきた。

「正直に言うよ。お前は何もできないと思っていた。高卒で、不良だった過去もある。そんなお前に、会社を任せられるはずがないと。でも、俺が間違っていた」

突然、親父が深々と頭を下げた。その姿に、俺は言葉を失う。

「ありがとう、健吾。あの日、お前が証拠を持ってきてくれなかったら、この会社は違う道を歩んでいたかもしれない。お前は、立派な私の息子だ」

その言葉を聞いた瞬間、俺の視界が歪んだ。目に涙が溢れてきて、慌てて拭おうとしたが、止まらない。

「俺は…、ずっと親父に認められたかっただけなんだ」

声が震える。長年抱えていた思いが、一気に溢れ出してくる。俺の肩に、温かい手が置かれた。見上げると、親父も目を潤ませている。

「すまなかった。お前の気持ちに気づかなくて。母さんが亡くなってから、俺は仕事に逃げ込んでいた。本当は、もっとお前と向き合うべきだったんだ。これからは、親子として、いや、経営者として、一緒に会社を支えていこう」

その言葉に、俺の中で長年凍りついていた何かが、少しずつ溶けていくような気がした。俺はこくりと頷いた。窓の外では夕日が沈みかけており、新しい時代の幕開けを告げるかのように、オレンジ色の光が俺たちを優しく包み込んでいた。

それから数日が過ぎ、社員たちの俺に対する態度は大きく変わっていった。廊下を歩けば「おはようございます」と明るい挨拶をしてくれ、会議でも積極的に意見を求められるようになった。以前のような白い視線は消え、代わりに尊敬の眼差しが向けられるようになっている。

そんなある朝、いつものように出社すると、泉が俺の机の前で待っていた。普段の横柄な態度は影を潜め、何とも言えない申し訳なさそうな表情を浮かべている。

「坂木…」

泉は俺の名前を呼び、一瞬言葉をつまらせた。その様子に、周囲の社員たちの視線が集まる。泉は深々と頭を下げた。

「すまなかった。これまでお前のことを散々見下して、バカにして、本当に申し訳なかった」

その言葉に、フロア中が水を打ったように静かになる。俺は複雑な表情を浮かべながら、少し考え込んだ。確かに、泉からは散々な仕打ちを受けた。でも、今こうして真摯に謝罪している姿を見ていると、なんだか昔のことが遠い過去のように感じられる。

「別にいいよ」

俺はそう言って、軽く肩を竦めた。

「え?」

泉が驚いた顔を上げる。

「俺は、泉が言うように、最初は何もできないただの社長の息子だった。でも、それを変えようと頑張って来られたのは、周りの支えがあったからだ。泉の厳しい指摘だって、今思えばいい刺激になってたよ」

その言葉に、泉の目が潤んでいく。

「坂木…、お前、本当に変わったな」

泉は感極まったように言うと、改めて頭を下げた。

「これからは、一緒に会社をよくしていこう。今度は本気でな」

「ああ」

俺は微笑みながら頷いた。周囲からは小さな拍手が起こり、温かな空気が車内に広がっていった。以前なら考えられなかった光景だ。でも、不思議とこうして和解できたことが嬉しかった。人は変われる。そして、許し合える。その事実が、俺の心に深く刻まれていった。

休日の夕方、久しぶりに実家に帰ると、意外なことに親父が家にいた。テーブルの上には出前の寿司が並び、親父は珍しく上着を脱いで寛いでいる。

「お帰り」

親父の声が、以前より柔らかい。

「ただいま。珍しいな、家にいるなんて」

「たまには家で過ごすのもいいだろう」

親父が苦笑する。その表情には、昔は見られなかった緊張の溶けた雰囲気が漂っている。

「お前も座れよ。腹が減っているだろう」

促されるまま、俺は親父の向かいの席についた。久しぶりの親子二人での食事。最初は少し気まずさを感じたが、次第に会話が自然と流れ始める。

「この間の新商品の提案、良かったぞ」

親父が寿司を口に運びながら言った。

「ありがとうございます。若い世代の意見を聞いてみたんだ。環境配慮型の商品って、時代に合ってるよな」

俺の言葉に、親父は満足そうに頷く。

「実は、取締役会でも話が出ていたんだ。お前を次期社長候補として、正式に育成していきたいという意見が出ているんだよ」

俺は箸を止めた。親父の真剣な表情に、思わず息を飲む。

「まだ俺には早いんじゃないか」

「早くはない。むしろ、今からしっかり準備していくべきだと思う。お前には、この会社を変えていく力がある。昔の俺には見えていなかった。お前の中にある、人を思う気持ちや、新しいものを受け入れる柔軟さ。そういったものが、これからの時代には必要なんだ」

親父の言葉には確信が込められていた。テーブルの上に置かれた写真が目に入る。母さんと三人で映った、古い写真だ。母さんの優しい笑顔が、今の俺たちを見守っているような気がした。

「母さんが喜んでくれるといいな」

俺がそう呟くと、親父も写真を見つめながら静かに頷いた。

「ああ、きっと喜んでいるさ。お前を誇りに思うよ、健吾」

その言葉に、胸が熱くなる。テーブルの向こうで、親父が優しく微笑んでいた。夕暮れの光が差し込む部屋の中で、俺たちは久しぶりに本当の意味での親子の時間を過ごしていた。

週末、俺は思い切って真吉たちに連絡を入れた。

「今度、飲みに行かないか?」

「お、いいぞ」

真吉たちの返事は、意外にも早かった。数日後、俺たちは駅前の居酒屋に集まった。カウンター席に座った真吉、隣でビールを注ぐ有之助。昔と変わらない顔ぶれに、懐かしさを覚える。

「お前、随分と偉くなったみたいじゃないか。次期社長だって?」

真吉が笑いながら言う。俺は言葉を選びながら、ゆっくりと口を開いた。店内の喧騒が遠ざいていくような気がした。

「そうだ。俺は確かにお前らの言う通り、御曹司だ。お前たちからしたら、楽して生きてるボンボンに見えるかもしれない。それでも、またこうして一緒に飲んでくれるか?」

グラスを握る手に力が入る。緊張で背筋が硬くなる。あの時の痛みが、今でも心の奥底に残っていた。しかし、帰ってきた答えは意外なものだった。

「当たり前だろ、バカ野郎」

真吉が豪快に笑う。他の連中も「何を今更」と声を上げた。

「お前は今でも俺らの仲間だ。金なんて関係ねえよ」

「そうだぜ。お前がどんな家の息子だろうと、俺らにゃ関係ねえ」

有之助も大きな声で言う。その言葉に、胸の奥が熱くなる。真吉は真剣な表情で続けた。

「今のお前を見てると分かる。金持ちだからじゃなく、自分の力で頑張ってるんだろう。そんなお前を、俺らは誇りに思ってるぜ」

「真吉…」

「よし、今日は朝まで飲むぞ」

有之助が大きな声で叫ぶ。店内に笑い声が響き渡る。

「おい、明日仕事なんだけど」

俺がツッコミを入れると、大笑いが起きた。グラスを合わせる音が鳴り、昔のように賑やかな空気が広がっていく。金持ちも貧乏も関係ない。ただ互いを認め合える仲間として、純粋に酒を酌み交わす。そんな時間が、俺たちにはようやく訪れたのだった。

その時、店の入り口から彩佳の声が聞こえた。

「あ、健吾君。遅くなってごめんね」

何と俺が今日仲間たちと飲み会に行くと話したところ、彼女も行きたいと言ったのだ。

「お、これは美人さんじゃないですか?」

有之助が目を輝かせる。真吉も「おお」と声を上げた。

「紹介するよ。桜コーポレーションの結城彩佳さん。いつも俺のことを支えてくれる同僚なんだ」

「よろしくお願いします」

彩佳が笑顔で挨拶すると、場の空気が一気に和んだ。酒が進むにつれ、話題は昔の思い出話へと移っていく。そして、自然と俺の顔の傷跡の話になった。

「健吾君、その傷の話、詳しく聞いてもいい? ライバルグループとの喧嘩でできたってのは、聞いたけど」

彩佳が尋ねる。その瞬間、俺は少し言葉に詰まった。それから、ゆっくりとグラスを置いた。

「高校の最後の頃だったかな。夜の公園で、ライバルグループと小競り合いになったんだ。そしたら、たまたま通りかかった女子高生が、巻き込まれそうになったんだ」

記憶が鮮明に蘇ってくる。暗い公園で土煙が飛び交う中、怯えた表情で立ち尽くす制服姿の女の子。その子に向かって、相手グループのリーダーが振り上げた金属バット。とっさに飛び出して、その子を庇った。でも、バットの先が頬をかすめて、それで傷ができたんだ。

「そうだったの…」

彩佳が小さな声で呟いた。どこか遠くを見ているように思えた。彩佳の反応を不思議に思っていた、その時。彼女が突然立ち上がった。目に涙が光っている。

「あの時の人…、やっぱり健吾君だったのね」

俺が驚いて顔を上げると、彩佳は震える声で続けた。

「私が、その時の女子高生なの」

「え?」

「高校の帰り道、偶然途中の公園で不良たちが喧嘩をしてるところに遭遇しちゃって、怖い思いをして。でも、その中の一人が助けてくれて。私、ずっとその人のことが忘れられなかったの」

彩佳の言葉に、店内が水を打ったように静かになった。俺は目を見開いたまま、彩佳をじっと見つめる。周りの連中は息を飲んで見守っている。彩佳の目から、大粒の涙がこぼれ落ちる。

「私ね、あの後、何度も公園に行ったの。でも、もうその人には会えなくて」

俺は思わず立ち上がり、彩佳の前に立った。

「俺も…、お前のこと、ずっと気にかけてたんだ。あの後どうなったのか、ちゃんと無事だったのか。でも、名前も知らなくて、連絡する術もなくて」

「健吾君…」

「傷のことを気にしないで、お前に俺はすごく救われた。化け物って呼ばれても、お前だけは違った。そんなお前との出会いは偶然の奇跡だと思っていたけど、違ったんだな」

彩佳が震える手で、そっと俺の頬の傷に触れる。温かい指の感触に、心が震えた。

「私ね、会社で健吾君と接していくうちに、あなたのことを好きになってた。気づいたら、すごく。でも、私、あの時からずっとあなたのことが好きだったのかもしれない」

彩佳の告白に、真吉たちから「おお」という歓声が上がった。

「剣が峰だぞ。しっかり答えろよ」

背中を押してくる声も聞こえる。俺は彩佳の手を取った。互いの手が、少し震えている。

「俺も…、彩佳のことが好きだ。支えてくれて、認めてくれて。そして、こんな運命みたいな再会があって」

「うん」

彩佳が涙を拭いながら、幸せそうに微笑んだ。

「これからも、俺が守るよ。もう二度と怖い思いはさせない」

「私も、君のことをちゃんと支えていきたい」

俺たちの言葉に、居酒屋中から祝福の拍手が湧き起こった。真吉が「よっしゃあ!」と叫び、有之助は感動で号泣している。窓から外を見れば、満点の星空が広がっていた。

人は誰でも、心のどこかで逃げ出したくなる時がある。でも、逃げないことで初めて見えてくるものがある。俺の場合は、仲間との真の絆であり、親父との和解であり、彩佳との出会いだった。本当の強さというのは、問題から目を背けずに立ち向かう勇気なのかもしれない。その勇気があれば、どんな傷だって、いつか誇りに変わるはずだから。

Thumbnail