隣の席から聞こえてきたのは、こちらを値踏みするような笑い声だった。 「貧乏人がこの店に来るなんて背伸びしすぎだろ」 俺は勇気智。34歳の会社員だ。今日は父の誕生日を家族で祝うために、父が以前から食べたいと言っていた高級焼肉店に来ていた。みんなが美味しいと喜んでくれて、父も大満足そうだった。そんな幸せな時間に、水を差すように隣の席に座ってきたのは、二十代の派手な男女二人組だった。 あの言葉を聞いても、俺は無視を決め込むことにした。今日は目出たい日なのだ。若い人にいちいち反応して喧嘩をするなんて、大人のすることじゃない。ところが相手は、俺が視線を向けないことをむしろ気に食わないらしく、こちらに話しかけてきた。 「おい、無視すんなよ」 仕方なく顔を向けると、男はニヤニヤしながら「貧乏人が睨んできたぞ」と彼女に言って笑った。俺は腹が立ったが、それでも耐えた。父も母も妻も気にしていないふりをしている。六歳の息子に至っては、夢中で肉を頬張っていて、隣の騒ぎなんてまったく気づいていないようだった。 しかし、相手はどんどんエスカレートする。 「家族で焼肉ってダサいよな」 「同じ空気を吸いたくないわ」 そんなことを言われても、俺は拳を握りしめて耐えるだけだ。息子に見せたくない姿は見せられないと思いながら、もう隣の連中はいないものだと思って食事を続けようとした。 だが、連中は俺たちが楽しそうにしているのが気に食わなかったらしい。隣の席にも肉が運ばれ、焼き始めたかと思うと、男が突然立ち上がったかと思う間もなく、熱々の肉をこちらに向かって投げつけてきた。 「貧乏人がいると飯がまずくなるんだよ。帰れ!」 焼き終わったばかりの肉は宙を舞い、俺の腕に当たった。 熱い。痛い。驚きと痛みで俺は思わず立ち上がり、服に張り付く肉を必死に払い落とす。妻と母が慌てて氷の入ったコップを差し出してくれた。腕は瞬く間に赤く腫れ上がり、水膨れができ始めている。 それを見て、隣の男女は腹を抱えて笑い出した。 「なんだよ、今の反応。面白すぎだろ!」 さすがに堪忍袋の緒が切れた。俺は怒りで震えながら怒鳴った。 「あなた、一体何をするんですか! こっちは火傷したんですよ!」 「はあ? 何だよ、文句あんのか?」 「理由もなく危害を加えるのはおかしいでしょう! 俺たちは何もしてないじゃないか!」 「貧乏人がここにいるだけで不快なんだよ! しかも俺たちのことを無視して、バカにしてるのか!」 「俺たち家族がどこで何を食べようと、関係ないだろう!」 「うまい肉がまずくなるって言ってるんだよ!」 「会話もしてないんだから、関係ないはずだ!」 「いいや、問題大ありだね。俺はこの辺りで一番大きい羽根銀行で働くエリート、藤堂だぞ! しかも銀行のトップの息子の友人だ。そんな俺の近くに、やっと貯金を貯めてこの店に来たみたいな人間がいたら、不快になるに決まってるだろう」 メンチを切ってくる男をよく見ると、若者に人気の有名ブランドの服を着ている。女の方はキャバクラ嬢みたいな派手な格好だ。金は持っているのかもしれないが、下品で成金趣味な感じしかしない。 すると、今まで黙っていた父が低い声で言った。 「君たちがしたことを、先に謝らんか」 しかし藤堂とやらは、まったく怖がる様子もなく、ニヤニヤしながら言い放った。 「はあ? じじいが何か言い出したぞ」 そして次の瞬間、また肉を掴むと、今度は父に向かって投げつけた。 「お前にもこの熱いのをくれてやるよ!」 肉は直撃はしなかったものの、脂が父の顔にかかったようだ。父は眉間に深いしわを寄せる。 「父さん、大丈夫か!」 「ああ……」 母と妻が急いで氷を差し出す。さすがの騒ぎに、ようやく状況を理解したのか、息子の目に涙が溜まり始め、ついに声を上げて泣き出してしまった。妻が必死に息子をあやすが、そんな様子を見ても、藤堂はまだ言い募る。 「ガキもうるせえな! ここにいたら邪魔だから、底辺どもは早く帰りやがれ!」 女の方も、「せっかくの肉が台無しよ」と切れ出す始末だ。 あまりの騒ぎに店員が心配して様子を見に来たが、藤堂たちは「邪魔だ」と言って追い払う。店員にまで怒鳴り散らす姿を見て、俺の方が怒りで頭がどうにかなりそうだった。 こんなことになるなら、個室を予約しておくべきだったと後悔しても、もう遅い。俺が拳を握りしめ、相手を睨みつけて言葉で反撃しようとした、その時だった。先に口を開いたのは父だった。 「今すぐ、銀行の頭取を呼べ。すぐに謝ったら温情で済ませてやろうと思っていたが、ここまでされたのなら、絶対に許さんぞ」 「え?」 一瞬、言葉を失っていた藤堂だったが、すぐに「何言ってんだ、じいさん」と笑い出した。 「銀行の頭取を呼ぶわけないだろ!」 そして手をヒラヒラと振って、馬鹿にするように笑う。 しかし、それは父の恐ろしさを理解していないからだ。俺たち家族は、こいつら終わったな、と思って、怒りよりも哀れみの視線を送り始めていた。それに気づかず、藤堂はまだ続ける。 「うちの銀行に文句つけるつもりか? やめとけって。俺は有名大学を卒業して即採用されたエリートなんだぞ。将来有望だし、お前らが痛い目に遭うぞ」 自信満々にそう言い放つ藤堂に、父は呆れたように鼻で笑った。 「自己評価が高すぎるな。きっと職場でも苦労しているんだろう。主にお前さんの先輩や同期たちに、な」 「はあ? バカにしてんのか!」 怒り出す藤堂を無視して、父は背を向ける。 「頭取が来れば分かることだ。それまで大人しくしておけ」 藤堂は「お前みたいな貧乏じじいなんて、どうせうちの銀行を利用させてもらってるだけだろ! 頭取に言って、あなたにしてやるからな!」 と捨て台詞を吐き、スマホを取り出して誰かに電話をかけ始めた。しばらく話した後、こちらを見て勝ち誇ったように言う。 「これでお前らは一生、うちの銀行は使えないな!」 しかし俺たちは微動だにしない。むしろ哀れみの視線をさらに強くして、頭取が来るまで食事を再開しようとしている。俺は「焦げたら肉がもったいない」と言って、泣きやんだ息子にも肉を食べさせてやった。 俺たちのその様子に、藤堂は焦り始めた。 「なんでビビらないんだよ! まさか他の銀行に預けてるとか言うのか? ここら辺に住んでるのなら、絶対にそれはありえねえだろ!」 父はそれを聞いても、笑って流すだけだった。 それから三十分もしないうちに、羽根銀行の頭取がやって来た。藤堂が慌てて話しかけようとするが、頭取はそれを制し、挨拶するより早く、父に頭を下げた。 「勇気様、ご無沙汰しております」 「お久しぶりです。金を預けさせてもらってありがとう」 「それはこちらこそです。勇気様がいらっしゃるから、うちの銀行は成り立っているようなものですから」 それを聞いて、藤堂と女はポカンと口を開けて呆けている。藤堂がようやく声を絞り出した。 「あ、あの、頭取、これは一体……」 すると頭取は、驚いた顔で藤堂を見て、そして父を指さして答えた。 「この方は、うちの銀行で一番お金を預けてくれている、勇気浩司様だよ。大きな会社を経営していらっしゃるんだ」 その言葉に、藤堂の顔色が一瞬で青ざめていく。実は父は、グループ企業の社長だった。羽根銀行に会社のお金を預けているだけでなく、自身の資産も預けている。さらに母の両親は元々地主で、母も同じようにマンション経営をしているし、親戚たちも同等にお金持ちで羽根銀行に入金し続けている。そういう背景があるため、羽根銀行は問題なく経営できていると言っても過言ではない。頭取は父には頭が上がらないのだ。 説明を聞いた藤堂は、自分の置かれた状況を理解したのか、体を震わせて顔を真っ青にしていった。 頭取は二人の様子を見て、「何かあったんですか?」と俺に聞いた。 「貧乏人は出ていけと言って、焼きたての肉を投げてきたんです」 俺がそう伝えると、藤堂は「ちょ、何言ってんだよ!」と焦るが、頭取は眉間にしわを寄せて彼を睨みつけた。 「どういうことだ? なんで勇気様たちにご迷惑をかけたんだよ!」 「違うんです! ちょっと誤解があったみたいで……」 「俺たちは食事をしていただけですよ。あなたたちに何も迷惑をかけていなかったのに、急に見た目がミスぼらしいとか、同じ空気を吸いたくないとか言ってきたじゃないですか」 「そ、そこまで言ってない!」 「どこが違うって? 俺たちのことをバカにしたのも、熱い肉を投げて俺が火傷を負ったのも、本当でしょう?」 「まさか怪我まで! どうしてそんな危ないことができるんだ!」 「あれは手が滑っただけなんです!」 「思いっきりこっちに投げましたよね? 貧乏人は帰れって言いながら」 俺と父が詰め寄ると、藤堂は言葉に詰まる。それを見て頭取は深くため息をついた。 「お前は、なんてことをしでかしたんだ……」 そして頭取は俺たちに深々と頭を下げた。 「勇気様、本当に申し訳ございませんでした」 それを見て、自分だけ責められるのが怖くなったのか、藤堂もようやく口を開いた。 「……申し訳ありませんでした」 「人に言われてから行動するのは遅すぎる。社会人として、これはいかがなものですかね」 俺の苦言に、頭取は頷いて同意した。 「おっしゃる通りです。藤堂君がしたことは、常識がなっていない」 頭取に叱られても、藤堂はふて腐れた顔をしている。 「……なんで勇気さんにご迷惑をかけるようなことをしたんだ」 「銀行の大口顧客だとは思わなかったんです」 「どうして俺たちに迷惑行為をしたのかを聞いてるんだ。日本語が通じていないのか? 英語で話した方がいいかな?」 父の言葉に、藤堂は少し頭に来たのか目つきが悪くなる。すると頭取が「なんだその目は!」と怒った。 藤堂は下を向いて大人しくなったが、やがてポツリと言った。 「……せっかくここにデートに来たから、気分よく食べたかったんです」 「え?」 思わず聞き返してしまう。彼女の前で見栄を張りたいから、迷惑行為をしたというのか。そんなことで俺たちが被害に遭ったのか。 考えると、怒りで頭に血が上るのを感じた。 「お前のデートの邪魔なんて、俺たちは微塵もしてないだろ! 何か冷やかしでもしたか? していないよな? ふざけたことを言うなよ!」 「俺は金持ちアピールしてたし、優秀だって自慢もしてたんですよ。ここの焼肉店も高級なんだって言って誘ったのに、見た目が悪い家族連れが隣にいたら、雰囲気ぶち壊しだって思うだろ。それくらいさせてくれよ!」 「そんなの分かるはずないだろ! 勝手にデートしてるのはそっちだ! どんな客が来ようと、お前が文句を言う資格なんてないんだよ! そんなに周りが気になるなら、個室でも予約しとけ!」 俺が怒鳴ると、藤堂はびっくりして肩を揺らした。彼女の方も黙ったままで、腕時計をチラチラと見ているだけだ。 「あんたの見栄のために、俺は怪我をしたんだ。父さんも顔に油がかかって少し赤くなった。息子が火傷しなくて良かったと思うけど、お前のしたことは俺たちにとっては重罪だよ。家族団らんで父さんの誕生日を台無しにしたんだからな」 その言葉を聞いて、頭取の顔色がさらに悪くなった。 「勇気様の誕生日を台無しに……?」 すると父は、落ち着いた声で言った。 「俺の誕生日はもういい。十分祝ってもらったし、焼肉も美味しかった。ただ、一番気になるのは、自分の都合で無知な人間を苦しめることだな。次に不愉快だと思ったのは、この店や他のお客さんの迷惑を考えなかったことだ」 父は堂々と藤堂を睨みつける。 「俺たちのことを罵倒して嫌な気持ちにしたことは、もちろん腹立たしい。でも、それと同等に、店員たちも困っているんだ。高級店だから店内は綺麗に保たれているのに、肉を投げられて床が汚れてしまった。それに、さっき店員に向かってきつい態度を取っていたのも気にかかるな」 確かに、他の客もこちらをチラチラ見たり、コソコソと話して様子を伺っている。藤堂は、俺たちだけでなく、多くの人に迷惑をかけているのだ。 自分が指摘されているのを理解したのか、藤堂は罰が悪そうな顔をした。 すると突然、藤堂の連れの女性が立ち上がった。 「あの、もう時間なので、帰らせてもらいます」 俺たちはみんな「え?」と驚いた。非常識だと思ったが、藤堂は慌てて彼女を呼び止める。 「待ってよ、ゆみちゃん! 延長料金を払うから、まだ一緒にいて!」 どういうことだと思って聞いていると、何とその女性は「レンタル彼女」というものだったらしい。藤堂がお金を払って一緒に食事をしていた、いわば他人だったのだ。レンタル時間が過ぎていることに気づいた女性は、これ以上は無理だと言って、そのまま帰ってしまった。 女性がいなくなった後、哀愁漂う藤堂を見て、少し気まずい雰囲気になってしまった。 頭取がゴホンと咳払いをして、話し始める。 「勇気様にご迷惑をかけたこと、そして銀行を出し抜いて店内で暴れ、多くの人にご迷惑をかけたこと。その責任を取らせるつもりです。解雇は免れないでしょう。覚悟しておけ」 「え、ちょっと待ってください!」 藤堂が抗議するが、頭取は構わず続けた。 「君が、うちの息子と仲がいいからという理由で、銀行員の間で偉そうな態度を取っているのは知っている。それも踏まえての判断だ」 その言葉に、藤堂は絶望したような顔をした。 そこに、俺が追い打ちをかけるように言った。 「それと、俺は肉を投げられたことに対して、被害届を出させてもらいます。こっちは火傷しましたし、おそらく受理されるはずです」 その言葉に、藤堂は今までで一番顔色を悪くすると、その場に土下座して何度も謝罪してきた。 「すみませんでした! 本当にすみませんでした!」 しかし、誰も許すはずもない。頭取は「後は任せてください」と俺たちに言うと、藤堂に俺たちの食事代を払わせて、連れて帰っていった。 その後、俺が提出した被害届により、藤堂は傷害罪で罰金が言い渡された。罰金に治療費や慰謝料を合わせて払うことになったのだが、貯金が全くないため、借金して一括で払ってもらうことにした。毎月少しずつ払うという選択肢もあったが、もう俺たちと関わりたくないと思ったのだろう。もちろん、頭取に解雇を言い渡されたため、今は仕事探しをしているらしい。仕事ができるのかは知らないけれど、新しい職場では問題を起こさず、迷惑をかけないようにしてもらえたら幸いだ。 ちなみに、レンタル彼女の女性からは「もう二度と利用しないで欲しい」と言われてしまったらしい。お気に入りの子だったようだが、今回のことで藤堂は多くのものを失ってしまっただろう。 一方、俺たちは家族と話し合った結果、父の誕生日を祝い直すことになった。頭取から「お詫びだ」と言って旅行券をもらったため、次は温泉旅行に行くつもりだ。父は誕生日にこんなに思い出を作れるとは思わなかったと笑っていた。ちょっとやりすぎなくらい大きな思い出になってしまったけれど、これから家族で少しずつ取り返していけたらいいと思う。
