「お前、俺が出張だからって浮気しただろ。離婚だ。俺の親に家を譲って今すぐ出ていけ」
電話口で声を荒げる夫・新之助。本来ならショックを受けるべき場面なのかもしれない。けれど、彼がこんな言いがかりをつけてくることは、最初から分かっていた。私はため息をついて言い返してやった。
「もう売っ払ったけど」
電話の向こうの気配が、一瞬で凍りついた。この男は本当に、こんな計画がバレないと思っていたのだろうか。あまりにも間抜けすぎる。もともと腹が煮えくり返る思いだったのに、いざ本人の間抜けな声を聞くと、笑えてきた。そして、こう思った。今度はこっちの番だと。
これは、どうしようもない夫が妻である私をはめようとして、見事にしっぺ返しを食らった、その顛末の話だ。
私はまゆき、二十八歳の兼業主婦。主婦とは言っても、短大を卒業した二十歳の頃からアパレルショップの正社員として働いている。二つ年上の新之助は、今でこそ建設会社で事務の仕事をしているが、私と知り合った三年前は無職だった。大学を卒業してすぐに就いた仕事が合わなかったと言って退職し、その後も転職を繰り返していて、何もしていない時期もあった。ちょうどその頃に私と出会い、数ヶ月でプロポーズしてきたのだ。
「いいよ。でも、条件がある」
私が言うと、新之助は不安そうに目尻を下げた。
「何?」
「ちゃんと仕事を見つけること。じゃなきゃ、さすがに結婚は無理だよ。生活のこと考えたら」
「探すよ。もちろん。でも、まゆきは働いてくれてるし、そんなに焦んなくても」
「うちの両親だって、仕事ない男と結婚なんて言ったら心配するよ。結婚前にちゃんと仕事を見つけて」
私が語尾を強めて言うと、新之助は観念したようにため息をついた。
「分かった。見つけるよ。そうしたら結婚してくれるんだよな?」
「うん」
こうして新之助は渋々ながら仕事探しを始め、建設会社の事務を見つけた。そして私たちは晴れて結婚することとなった。当時の私は新之助のことを、お金や仕事に少しだらしない人だと思っていた。けれど、こちらがきちんと話せば素直に聞くので、結婚してから夫を教育していけばいいのかな、と思っていた。新之助の足りないところは私が教えてあげて、その代わりに私にも欠点はたくさんあるだろうから、そういう部分を補ってもらって、いい夫婦になれると信じていた。
けれど、物事はそう簡単にはいかなかった。新之助のだらしなさは、どうやら親譲りのようだったのだ。
結婚して一年が経つ頃、マイホームを探そうと二人で売りに出ている家を探し、ローンの申し込みをしようとした時だった。私は新之助から衝撃の事実を聞かされる。
「実は、俺ローン組めないかもしれないんだ」
「え?」
私が聞き返すと、新之助はヘラヘラ笑って言った。
「ちょっと気になって調べたんだけど、俺、勤続年数が少ないから、ローンの審査には保証人が必要になるかもしれないんだって。頼めるとするならうちの親なんだけど、親父、実はギャンブル好きで借金があってさ。それが結構長く続いてて、多分保証人は無理なんだよ」
「なんでそれを先に言わないの?」
契約書と不動産会社の担当者を目の前にして、いきなりそんなことを言い出す新之助に、私は呆れ果てた。けれど、新之助は悪びれもせずに言う。
「でも、まゆき名義にすれば問題ないじゃん。ずっと同じところで働いてんだから、ローンを組めるでしょ。金は二人で払うんだし、形だけそうなるってだけでさ」
「そういう問題じゃないよ。なんで何の相談もしないの?私名義にするってことは、私にとってもすごく大事なことなんだよ。書類だって準備していないし」
「ごめんごめん」
手を合わせて謝ってきたが、その態度に真剣さは感じられなかった。何なのよ、と文句を言いつつも、すでに用意された契約書と担当者のことを思うと、ここで喧嘩するのも気が引けた。仕方なく私は大急ぎで収入証明書などの書類を準備しに走り、ローンの審査をしてもらうことになった。信じられない出来事に頭に血が上り、勢いで自分名義の家を購入してしまったが、すぐに不安に襲われた。こんな男と、これから一緒に暮らしていけるのだろうか。あの時、慌てて書類を準備なんかしないで、「じゃあ買わない」と突っぱねるべきだったのではないか。
さらにその不安を強めたのが、義両親の存在だ。
「この間、親父と話したんだけどさ」
新之助が切り出した。
「前に話した借金の件で、家、取られそうなんだって。だから、うちと同居したいらしいんだけど、いいよな」
「は?何なのそれ?」
私が語尾の上がったきつい調子の声を出しても、新之助はヘラヘラ笑い続けていた。
「だって、うちの親、困ってんじゃん。兄貴は一人だけど、仕事で海外に行っちゃってるしさ。俺しか頼る相手いないんだって」
「それって、そんな軽々しく言うこと決めること?家が見つかるまでならまだしも、同居ってことなら、もっと真剣に話し合うべきことでしょ」
新之助は顔をしかめた。
「お前、同居が嫌だからって言ってるんだろ。いいじゃん。一緒に住めば生活費だってみんなで払うことになるから、金銭的に楽になるぞ。お前、金の文句ばっか言ってんじゃん」
「金の文句って、新之助がちゃんとお金払ってくれないからでしょ。ローンの返済だって二人で払うって言ってたくせに、私の給料から引かれてるだけで、後から新之助の払う分を渡してくれたりはしてないじゃん」
「夫婦の金は二人の金だろ。お前の金だけじゃなく、俺の金だって二人のものだよ。たまたまお前の名義にしたから、お前の口座から引き落とされてるだけで、夫婦の財布から出てるってことには変わりないだろ」
「屁理屈ばっか言わないでよ」
私が声を少し荒げると、新之助は「ああ、金の話は嫌だ」と言って、部屋から出て行ってしまった。
そんな言い争いが何度も起こった。その度に新之助は私の言葉を軽く受け流し、最終的に逃げていく。話は平行線で、何も解決しなかった。けれど、新之助も彼の実家の問題について、何もしていないわけではなかった。建設会社の現場事務という仕事柄、不動産会社に知り合いが多かったのだ。彼は特に繋がりの強い不動産会社に、実家の件を相談していた。家を売ってお金にしたいけれど、どうすればより高値がつくのか。今後、家の売却をするならどんな風に動けばいいのか。その話を何度も何度も聞いていたのだ。何も考えていないわけではないということには、少し安心した。でも、やはり売却した後、当然のように私たちと同居しようと考えているのだろうということは、ずっと気がかりだった。
新之助は不動産会社や両親との話し合いを、私の目の前で行うようになり、休日も家を開けることが多くなっていった。そんな折、新之助が数ヶ月の出張に出ることになった。受け持った現場が遠いので、建物の完成まで現場近くに滞在しなくてはならなくなったのだ。私はまだ気がついていなかったが、私たちの駆け引きは、この時始まっていたのだ。
ちょうど新之助が出張に出て数日のことだ。私は買い物がてら、お茶をしに出かけた。
「こんにちは」
声をかけてきたその男には、確かに見覚えがあった。記憶の糸をなんとか辿ると、新之助が一度家に連れてきた人だと思い出した。何でも、取引先の不動産会社に務める若手社員だということだ。木村さんという人だ。入社してまだ一年も経っていないペーペーだと、新之助が言っていた。
「あ、こんにちは。前に家にいらっしゃった方ですよね」
「はい。あの時はいきなり訪ねていって、食事までご馳走になってしまって、すみませんでした」
「いえ、こちらこそ、お構いもできませんで」
流れで一緒にお茶をすることになったが、木村さんはとても気さくで、優しい雰囲気の人だった。それに、若くはあっても新之助よりよほど常識のある人だ。二人で話しながらお茶をして、すぐに別れた。この時は信じられなかった。この、たった数十分の出来事が、浮気と言われるなんて。
この時は。
「お前、俺が出張だからって浮気しただろ。離婚だ。俺の親に家を譲って今すぐ出ていけ」
新之助に言われた瞬間、私が真っ先に思ったのは、あの話は本当だったんだ、ということだ。新之助が、私が浮気をしていることにして離婚しようとしている、という話。私にそのことを教えてくれたのは、他でもない、浮気相手にされたあの木村さんだ。彼は一緒にお茶をした翌日、私の家に尋ねてきたのだ。
「突然すみません。昨日のことなんですが、実は僕、旦那さんに頼まれて、奥さんに近づいたんです」
「はあ」
まさに晴天の霹靂だった。何を言っているのかも、よく分からない。
「とりあえず、上がってください」
そう言って招き入れ、話を聞いた。新之助は私と離婚したいがために、私が浮気をしていると見せかけようとし、浮気の証拠をでっち上げろと彼に言ったらしい。離婚を望む理由は二つ。一つ目は、私からあの家を取り上げるためだ。両親の家のことで気を揉んでいた彼は、私たちの暮らすあの家で両親と暮らすことが一番簡単だと考えていたようだ。けれど、私は同居に反対した。だから、私を追い出して、あの家を自分たちのものにしようとしたのだ。もう一つは、彼自身の浮気だ。両親との話し合いと言いながら、休日に出かけては浮気をしていたらしい。その彼女に入れ込んでしまい、妻である私は邪魔だ、ということだ。自分ではなく私の浮気が原因ということにすれば、私から慰謝料も巻き上げられると思っていたらしい。
私は新之助のことを、頭の回転はあまり速くないと思っていたが、変な方向には頭が回るようだ。頭を回す方向がおかしいので、バカでしかないのだけれど。
「最低」
私がつぶやくと、木村さんは「すみません」と言った。
「でも、僕は初めからあの男に協力しようとは思ってませんでした。こんなどうしようもないことに利用されるなんて、嫌ですから。だから、彼にやり返すため、一度協力するふりをしたんです」
それから彼は、不動産会社に務めているからこそ分かる様々なアドバイスをくれた。そうして、最終的にこう言ったのだ。
「あの家、あの男の出張中に売っ払った方がいいですよ」
「売り払った」
と聞いた新之助は、「え」という間抜けな声以外、何の言葉もないようだった。私はさらに追い打ちをかける。
「木村さんから、全部聞いたからね。木村さん、新之助が木村さんに、私と浮気してるように見せかけるために近づけって言っていた時の音声も録音してるってよ。これで離婚したら、こっちから慰謝料の請求できるから」
新之助は「ええ」と言うばかり。けれど、私にはさらなる切り札があった。
「あとね、新之助は気づいてないみたいだけど、木村さん、ただの新入社員じゃないんだよ。あの人はね、あの会社の社長の息子さんなの」
「え?」
これまでよりさらに大きく、喉で引っくり返った声が返ってきた。本当にこの男は大バカだ。自分が誰を相手にしているか、全く分かっていなかったのだから。
「木村って、社長さんの苗字と同じなんでしょ?なんで気づかないのよ」
「え、だって木村なんて珍しい苗字でも何でもないし。え、さすがに嘘だろ?」
「嘘じゃないよ」
新之助が青ざめていく様子が、目に見えるようだった。木村さんの会社は、新之助が受け持つ中でも最も重要な取引先。さらに言えば、実家の家の件でお世話になっている会社でもある。もしこれが社長の耳に入れば、ただでは済まない。いや、もうとっくに、木村さんが報告しているのだけれど。
「おい、そ、分かった。確認してやるよ。嘘だったらすぐバレるからな」
新之助はそう言って電話を切った。そうして数分後、取り返しのつかない事態になったことを悟ったのだ。
その後、新之助は木村さんのお父さんの経営する不動産会社から、取引も、実家についての相談も、断られた。私が家を売り払っていたので、帰る場所もなく、出張後は仕方なく実家へ戻ったようだ。もちろん、私は家を売ると同時に、手頃なマンションを木村さんから紹介してもらっていたので、一つも困らなかった。
離婚に向けて動き出した私に、新之助は何度も連絡を寄越した。
「悪かったよ。まゆき、許してくれ」
「今更遅いよ。人を使って私をはめようとしたんじゃん。あんたの言うことなんて信じられると思う?」
「そんなこと言わないでくれよ」
「私と離婚したら、彼女と結婚でも何でもすればいいじゃん。そうしたかったんでしょ」
「そうだけど、その子、他に本命がいたらしくて振られちまったんだよ」
なんとも情けない話だ。
「だからって、手のひら返して私にすり寄ってこないで」
電話をガチャりと切り、ため息をつく。今まで押しかけてこないように、今住んでいる場所は教えていないが、その代わり、しっきりなく電話がかかってくる。その度に「俺を捨てないでくれ」「助けてくれ」「いい旦那になるから」と、その場しのぎの言葉を並べ立てていた。離婚の手続きさえ終われば、こんな男の連絡先なんか削除し、LINEはブロックして、完全に縁を切れるのに。
挙句には、義両親までが電話で泣きついてきた。
「お願い、まゆきさん。あなたがいなかったら困るのよ」
「私じゃなくて、家が欲しかったんですよね。でも、もう家はありませんよ」
「家が目当てだったなんて。私たち、そんなにひどい人間じゃないわよ」
「目当ては、お金の方だって」
「そうじゃないわ。意地悪な人ね」
「だって、私に同居を拒否されたら、新之助は私を罠にはめて慰謝料を巻き上げようとしていたんですよ。そんな相手を信用なんてできませんよ。お金としか考えられません」
そう言って突っぱね続けていると、義父が電話してきて、なぜか偉そうに太い声で言った。
「止めに入ってるんだから、義理の親に少しは尽くすのが役目ってもんじゃないのか」
「それ、あなたが言います?全部、あなたが作った借金のせいでしょ」
私がはっきり返してやると、電話口の声は耳が痛いくらい大きくなった。
「血も涙もないな。困ってる義両親を見捨てる上に攻めるなんて。殺してやる、この鬼畜女」
私は電話を切り、録音した電話の音声を添付して弁護士に相談した。義父の言葉は、脅迫罪に相当するとの話になった。それで、「離婚してくれないと訴える」と言ってやった。新之助はすっかり慌てふためき、他にどうしようもないと、離婚に同意した。
こうして、やっと私はあのとんでもない家族と縁を切ることができたのだ。
離婚後、新之助は職場での信頼を失い、ほとんど仕事を任せてもらえなくなったそうだ。また、借金の問題も親に降りかかったため、実家を安値で売り払う以外に術がなく、今は安いパートに両親と三人で暮らしているそうだ。しかし、大した仕事を任せてもらえなくなったことで給料は下がっている。さらに、私への慰謝料の支払いもある。その状態で両親のことまで養わなくてはならず、苦しい毎日を送っているようだと言う。これらは全て、木村さんから聞いた話だ。
そう、私は今でも木村さんと親交がある。彼は、私がそれまで務めていたアパレルショップでの接客術を、人事の仕事で生かしてみませんか、と誘ってきた。ちょうど人事に空きが出てしまい、コミュニケーション能力の高い人材を探しているのだということだった。色々と相談し、考え抜いた結果、私はその話を受けることにし、不動産会社へ転職した。木村さんとはずっと親しく交流を続け、そのうちに恋愛に発展した。そして一年の交際を経て、結婚。私は晴れて、社長夫人となったのだ。
新之助は、自分が浮気をでっち上げてやろうとしていた二人が、まさか結婚までしてしまうとは、考えていなかっただろう。今回の結婚は、本人はもちろん、両親もしっかりした人だ。今後は、彼と共に素敵な家庭を築いていこうと思う。
