「母子家庭ってことは貧乏ってことだろう。お前、まさかうちに金があるから息子に擦り寄ったのか?」
ある日、交際期間半年の恋人からプロポーズされた私は、挨拶のために彼の実家を訪れていた。そこで彼の父に私の父親について聞かれ、父はすでに亡くなっていると正直に話した途端、これである。事前に父のことを話してあったのに、恋人まで一緒になって私を罵ってくる。
「この泥棒猫。なんだよ、俺のことをそんな目で見ていたのか。失望したわ」
私が何も言えないのをいいことに、二人はとんでもない言葉を次々と並べ立てた。
「父さん、貧乏親子はうちで雇ってやろうよ。母親と一緒に家政婦やるって」
「おお、いい考えだな。家の隅から隅まで掃除してもらうか」
好き勝手に言う二人を、怒りを込めて思いきり睨んだ。
「おお、怖い、怖い。主人に向かってなんて顔をするんだよ」
主人ですって。まだ結婚したわけでもないのに、まるで所有物のような言い方。私は悔しさで震えながら、その場に立ち尽くすしかなかった。
「親の顔を拝んでみたいわ」
そう言われたので、私は母に電話をかけた。その間も、二人は嫌な笑顔を浮かべ続けている。まさか、その数十分後に笑えなくなるとは知らずに。
私は小林ゆき、三十歳。幼い頃に父を亡くし、それ以来、母の理恵が女手一つで私を育ててくれた。母はお金を稼ぐために朝早くから夜遅くまで働き詰めだった。それでも、入学式や授業参観、発表会や卒業式など、学校の行事には毎回出席してくれた。運動会の親子で参加する種目では、周りは父親と参加するクラスメイトが多い中、母は負けないように必死に走ってくれたのを今でもよく覚えている。
「何も気にしないで、部活でも何でも好きなことをやりなさい」
高校生になって、部活に入らずにバイトをしようとしていた私に、母が言ってくれた言葉だ。中学生の頃から美術部に所属していて、本当は高校でも続けたいと思っていた。でも、少しでも家計の助けになればという私の考えを見抜いていたらしい。そのおかげで、私は高校でも部活を続けることができた。
そんな母への恩返しがしたい。いい大学に入り、大手企業に就職して、母を楽させたいという一心で勉強を頑張り、その甲斐あって大手企業に内定が決まった。今もそこで経理の仕事をしている。時々、母を旅行に連れて行ったり、美味しいものを一緒に食べたりしている。少しは親孝行ができているのかなと思いたい。
同期には結婚している人が増え始めていたが、私はまだ独身だった。しかし、私には社内に恋人がいた。営業部に務めている結城ケントさんである。彼は私より年上の三十五歳だ。彼は営業部で頻繁に外回りがあるので、あまり社内で顔を合わせる機会はない。入社してから接点はそんなになかったが、ケントさんの方から声をかけてくれるようになった。どうやら部署の垣根を超えて交流するために開かれた飲み会で少し話したのをきっかけに、気に入ってくれたらしい。そこで連絡先を交換した。最初の頃は仕事の話をする程度だったが、いつの間にか好きな食べ物や趣味、学生時代の思い出など、プライベートについて話すことが多くなっていった。そのうちメッセージだけでなく電話もよくするようになり、一緒に食事に行った帰りに告白された。こうして私たちの交際は始まったのだ。
「俺の父さんはすごい人なんだ。俺の憧れなんだよ」
付き合う前から、彼は父親についてよく自慢をしていた。どうやら若い頃に起業してから順調に利益を伸ばし、成功を収めているらしい。
「俺の家は五億円もするんだぜ。めっちゃ広いし、部屋も多いし、庭もあるし」
それに豪邸なんてどんな感じなのだろう。床は大理石だったりするのだろうか。お風呂は体がすっぽりと入ってしまうくらい広いのかな。掃除が大変そうだし、ハウスキーパーさんを雇ったりしているのだろうか。ケントさんの話を聞きながら、私は想像を膨らませていた。それだけ大きな家なら、一人暮らしをせずにずっと実家にいるのも納得だった。
付き合って半年が経った頃、彼の方からプロポーズをしてくれた。相変わらず社内では話さないので、私たちが交際していることを知っている人はあまりいない。仕事帰りに食事に行く時などは、会社の近くの公園で待ち合わせてからお店へ向かう。それが秘密を共有しているようで、なんだかドキドキした。
プロポーズをされたのは、交際半年記念日だ。その日、ケントさんの様子はいつもと少し違っていた。お店もいつも行くようなところではなく、高層ビルに入っている有名レストラン。オレンジっぽい色の照明のせいか分からないが、赤くなっているように見える彼の顔。何度もポケットに手を入れたり、そわそわと立ち上がろうとしては座り直す。
どうしたのだろうと思ったその時。
「ゆきさん」
普段は「ゆき」と呼び捨てなのに、急に「さん」をつけられて驚いた。固まってしまった私に、彼は手のひらに乗るようなサイズの箱を差し出してきた。パカッとケントさんが箱を開けると、そこには光を受けて輝く指輪が入っていた。
「俺と結婚してください」
食事の店も、いつもと違う緊張した様子も、全てプロポーズのためだったのかとようやく合点が行く。記念日だからいつもより特別なのかと勘違いしていた私は、まさかプロポーズをされるなんて心構えもしていなかった。あんぐりと口を開けたまま、動きを停止させることしかできなかった。
「はい」
実際には二分くらいしか経っていないだろうが、体感では一時間くらい経過したのではないかと思うくらい固まっていた後、ようやく私は首を動かして頷いた。年齢的にも結婚適齢期だし、頼りないところはあるが、優しいケントさんとならうまくやっていけるだろう。彼にはめてもらった指輪を天井の光にかざす。まだ婚約という段階ではあるが、もう少し先の未来にある結婚生活に胸を踊らせた。
プロポーズから数日後、私の実家へ彼が挨拶に来ることとなった。母に話があると連絡をすると、何かを察したのか休みの日をいくつか教えてくれた。その中でケントさんと私の休みが重なる日を選択し、会うことになったのだ。
彼と一緒に家の玄関の扉を開けると、母が出迎えてくれた。緊張と嬉しさが混ざったような、ややぎこちない笑顔。私も彼女と同じ表情をしていただろう。
「ただいま」
「お邪魔します」
中に上がると、母が三人分のお茶を持ってきてくれた。私とケントさんが横並び、母がテーブルを挟んでその対面に座る。
「お母さん、お付き合いしている人がいて、プロポーズされたの」
「初めまして。ゆきさんとお付き合いさせていただいています。結城といいます」
名前を聞いて、母が驚いたような顔をした。あまり聞かない苗字だったからだろうかと、私は深く考えなかった。
「結城さんのお父様は、何をされている方なの?」
そう質問する母の顔は、穏やかな笑顔に戻っている。
「はい。父は若い頃に起業して、会社経営をしておりまして」
彼は私に話す時もそうだったが、父親について口にする時はいつも目が輝いていた。希望に満ち溢れた少年のような顔で憧れを語っていて、心の底から尊敬しているのだということがありありと分かる。母は頷いたり相槌を打ちながら話を聞いていたが、どんどん険しい顔になっていった。最初はケントさんの目を見ていたが、最後の方には何かを思い出しているかのように、テーブルの隅の方に視線をやっていた。しかし彼は話に夢中になっており、その表情の変化に気がつかない。
「結城さん、今日は来てくれてありがとう。また今度、落ち着いて話しましょうね」
「はい、こちらこそ。お時間を取ってくださり、ありがとうございました」
母はケントさんの話が終わると、申し訳なさそうに「ごめんなさいね。この後仕事が入ってしまったみたいで」と謝った。結局滞在していたのは一時間半くらいだ。私は彼を最寄り駅まで送って帰宅すると、母にどうしたのかと聞く。
「実はね…」
そこで、彼の家と母との関係を知ることになったのだった。
後日、今度は私が彼の実家に挨拶に来ていた。話に聞いていた通り、彼の家はとても大きかった。三階建てのマンションではないかと見間違うぐらいの大きさ。真っ白い壁、大きな窓、綺麗に手入れされた広い庭。なんと小さめの噴水まである。ハウスキーパーどころか使用人までいてもおかしくない。
「やあ、いらっしゃい。よく来たね」
玄関先まで、ケントさんの父である高正さんが出迎えに来てくれた。今日は仕事休みだと聞いていたが、髪の毛はしっかりとセットされていて、パリッとしたシャツを身につけている。社長という立場から、仕事場に呼び出されることもあったりするのだろうか。
家の中に通してくれて、大きなダイニングに三人で腰かける。私の家での挨拶の時と同じように、私とケントさんが並んで座り、高正さんが向かい合った。
「父さん、お付き合いしている小林ゆきさんだよ」
「初めまして」
「ケントからよく聞いている素敵な女性だと話していたよ」
豪邸に住む経営者ということで、勝手に厳格なイメージを抱いていたのだが、実際は気さくな雰囲気のある方だった。よかった、と私は胸を撫で下ろした。しかし、後に様子は激変する。
「俺は努力と実力でこの地位を勝ち取ったんだ」
用意してくれた紅茶がカップの半分くらいにまで減った頃、高正さんは起業した時の話、それからうまくいくまでの道のりなどを語っていた。ケントさんもそれを聞いて、自分のことのように自慢げに笑顔を浮かべている。
「そうだい」
高正さんの仕事の話から、私の親の話へと切り替わった。隠すことでもないので、正直に言う。
「父はすでに亡くなっていて、母が私を女手一つで育ててくれたんです」
「ずっと働いていて、ですね」
それまでの和やかな雰囲気はどこへやら、急に低い声で遮られ、張り詰めた空気に満ちる。何かまずいことでも言っただろうか。思い当たることなど当然ない私は、ただただ混乱するばかり。
「なんだ。じゃあ、貧乏人か」
「はあ?」
今度は私が「はあ」と言う番だった。義父になる人だろうが関係ない。あまりにも失礼な物言いだったから、私は声を上げたのだ。
「母子家庭ってことは貧乏ってことだろう。お前、まさかうちに金があるからケントに擦り寄ったのか」
先ほどまで「ゆきさん」と呼ばれていたのに、急に「お前」と見下されたような呼び方に変わる。それに、どうしてお金目的みたいな言い方をされなければいけないのか。鼻で笑いながら私の家のことを馬鹿にし続ける目の前の人間のことが信じられず、私は反論もできずに呆としていた。
「何も言わないのをいいことに、この泥棒猫。なんだよ、俺のことをそんな目で見ていたのか。失望したわ」
高正さんは愚か、ケントさんまでひどい言葉で攻め立ててくる。彼はもう私の家族構成について知っていたはずだ。交際を始める前から父のことは話してあった。それなのに、どうして今になって。彼は高正さんに逆らえないようだった。一緒になって私のことを罵倒してくる姿に、私はデート中のことを思い出す。
「ねえねえ、ケントさんはどこ行きたい?」
「ああ、俺はどこでもいいよ。ゆきの好きなところに行こう」
あまり自分の意見を言ってこなかった。その時は私の意見を優先してくれる優しい人と思っていたのだが、そういうことではなかったようだ。自分の意見がなくて流されやすいという、そういうことだったのかと妙に納得してしまう。
「父さん、貧乏親子はうちで雇ってやろうよ。母親と一緒に家政婦やるって」
「え、ちょっと、何を言って」
「おお、いい考えだなあ。家の隅から隅まで掃除してもらおうか」
私の言葉なんて全く耳に入っていないのか、好き勝手に言う二人。家政婦。ケントさんは婚約したら自分のものとして、私のことを好き勝手に扱っていいという考えらしい。家事をさせるためだけに私と結婚しようとしていたなんて。数分前まではあったはずの彼に対する愛情が、急激に冷えていく。
「ゲストはこういう人たちのことを言うのだろうか」
私は怒りを込めて、二人を思いきり睨んだ。
「おお、怖い、怖い。主人に向かってなんて顔をするんだよ」
主人ですって。あんたなんかと結婚する気なんて、私にはない。
「その口の聞き方は何だ? どういう育てられ方をしたのか、親の顔を拝んでみたいわ」
プツッと、自分の中の何かが切れる音がした。私のことも母のことも馬鹿にするなんて許せない。それに、こんな本性を隠していた彼のことを見抜けなかったのが悔しくてたまらなかった。
「今ここにお前の親を連れてきてくれないか? どうせ暇人なんだろう」
早く早くと煽り立ててくる。私は言われた通り、母に電話をかけた。
「もしもし。どうしたの? 結城さんのお家に挨拶に行ったんじゃないの」
電話越しに母の声がする。優しくて大好きな母のことを馬鹿にされたのが蘇ってきて、私は泣きそうになった。唇を噛んで涙を抑えるのに必死で、言葉が出てこない。
「お、今繋がっているのか。早く来てって助けでも求めてみたらどうだ?」
何も言わない私にしびれを切らしたのか、高正さんが大きな声で笑いながら言う。それは母にも届いたようだ。
「今から行くわ」
聞いたこともない、怒りに震えた声。私に向けられたものではないと分かりながらも、それを聞いて背筋に冷たい汗が流れた。
数十分後、ピンポンとチャイムが鳴った。その間、この空間は私にとって地獄のようだった。
「やっぱり物置きの片付けはやってもらいたいよなあ」
「料理も作らせよう。まずかったら全部捨てるから。食材を無駄にしないためにも、俺らの好みの味付けを把握してちゃんと作れよ」
なんてことを好き勝手に話し続けている。私は二人と目を合わせないようにずっと下を向き、膝の上で拳を握りしめていた。
「お、来た、来た」
馬鹿にするように笑いながら、ケントさんが玄関の扉を開けに行く。一度あったことがある母相手に、よくそんな態度が取れるなと逆に関心してしまった。
「お邪魔します」
「え? ゆきの親の顔が見たいらしいじゃない。どうぞ。私の顔でよければ、いっぱい見てくださいな」
にっこりと笑う母とは対照的に、高正さんの顔からは表情が消えていき、真っ青になっていく。
「え? 父さん、なんでそんなに青ざめて?」
「バカ。この方はな、俺の会社の大口の取引先なんだ」
そう。ケントさんがうちに挨拶に来た後に母が語ったのは、高正さんの会社と母の会社とは取引関係にあるということだった。実は母は、亡くなった父が経営していた会社を引き継いで、社長をしているのだ。
気まずくなったのか視線をそらす高正さんの顔を、母がグイッと覗き込む。
「なら、どうして顔を背けるの? までだって見ていていいのよ」
「い、いや、その、えっと…」
先ほどまでの偉そうな態度はどこへやら。よく見ると、高正さんの額がうっすらと濡れている。母の登場で、冷や汗が止まらなくなってしまったらしい。
「挨拶に来て名前を伺った時、『結城』って言ってたから、もしかしたらと思っていたの。その後、お父様の職業の話を聞いて確信したけどね」
母は今度は私の方に向き直った。
「ねえ、ゆき。あなた、ケントさんの本性が分かった後でも、結婚したいって思うかしら」
「うん。全然」
私は迷わず首を振った。もう彼への気持ちは消え去った。私のことだけではなく、ずっと私を大切に育ててきてくれた母のことを悪く言うなんて、到底許せたものではない。
「別れましょう」
「そ、そんな、待ってよ。俺は本当にそう思っているわけじゃ…」
「思っていなきゃ、口から出てこないですよね。たとえ本当に思っていなくて高正さんに乗っかっただけだとしても、ひどいことが言えるような人とは一緒にいられません」
それに、義理の父親となるのがあんな人だなんて、絶対に嫌だ。私はプロポーズの時にもらってからずっとつけていた指輪を外し、テーブルの上に置く。それを見たケントさんは、膝から崩れ落ちた。母は大きく息を吐いた。呆れている様子が分かる。
「ケントさん。あなたのお父さんはね、確かにすごいと思うわ。起業して社長になって会社経営をしてきて、それでこんなに大きな家を買って。でもね、その成功を鼻にかけて、どんどん横柄な態度になっていったの」
母が言葉を重ねていくのに比例し、高正さんの首がどんどん下がっていく。言葉の重りを吊り下げられていくかのように。
「この人の息子だって分かった時、一瞬不安になったのよ。父親みたいな性格だったらどうしようって。挨拶の時は違うと思ったのに」
「いえ、もう二度とこんなことは言いません。反省します。だから別れるのは…」
「それを決めるのは私ではないわ」
高正さんが勢いよく私の方に振り向く。その目から、捨てないでくれという懇願の気持ちが伝わってきた。だけど、指輪を外したのが答えだ。私が首を横に振ると、再び彼はがっくりとなった。
「結城さんの会社の業績は、傾きかけているのよね」
どうやら高正さんは、悪い意味で業界内では有名人のようだった。無理な取引をしてこようとする。自分の思い通りに行かないと怒り出す。それで、一緒に仕事をしてくれる企業がどんどん減っていったのだという。
「だから、もううちの会社との取引を継続させるメリットもないし。ここで、うちとの契約は終了とさせていただきます」
「ま、待ってくれ」
母が宣言すると、先ほどまで項垂れていた高正さんが大声を出した。青ざめていた顔はさらに色を失い、もはや真っ白である。
「い、いや、待ってください。お願いします。助けてください」
高正さんは母にすがりついた。消えそうなほど弱々しく、遅い声だ。
「悪いけど、私にはどうすることもできない。あなたは何度も気がつくタイミングがあったはずよ。自分が間違っているって。他の会社から取引終了を持ちかけられた時に、言われたことがあったんじゃないかしら。あなたの態度をどうにかした方がいいって」
それでも彼は直さなかった。自信過剰がゆえに、間違いに気がつくことができなかったのだろう。
「社長という地位を得たからと言って、それに天狗になっていてはダメなのよ。それに、早いうちに気がつけていたら、何か変わっていたかもね」
そう言い放つと、高正さんはヘナヘナと床に崩れ落ちる。私と母は立っていて、高正さんとケントさんは座り込んでいるという、不思議な光景。もう何も言わない二人を残し、私たちは足早に結城家を後にしたのだった。
それから間もなくして、高正さんの会社は倒産した。どうやら母の会社との契約を切られたのが大打撃だったようだ。業績を回復させるために高正さんは社員に毎日の残業、休日出勤などきつい労働を課した。その結果、元々社長の傲慢さに辟易していた社員たちが、次々と辞めていったのだ。ケントさんは会社を去って父親の会社の手伝いをしていたが、それでどうにかなるはずもなく。息子一人の手助けでどうにかなるくらいなら、ここまでひどい状況にはなっていないだろう。
あの親子の噂を聞いた母は、やれやれというように肩を竦めながらそう言っていた。こうして会社は倒産。二人は路頭に迷うこととなった。あの五億円の家も売りに出したらしい。先日たまたま近くを通りがかることがあったが、中の良さそうな上品な老夫婦が庭で犬と戯れているのを見た。二人がどこにいるのかは知らないが、どうやらアルバイトをして生計を立てているらしい。
会社を辞めたのは彼だけではなく、実は私もだった。元々いつか母の会社で働きたいと思っていたのだが、今回の件で一念発起し、環境を変えようと思ったのである。退職日になると、仲良くしてくれていた同期や後輩が花束やちょっとしたプレゼントを渡してくれた。
「ねえ、営業部の結城さん、お父さんの会社が潰れちゃったんだって」
「前に五億円の家を自慢されたけど、もう住んでいないでしょう」
そんな会話が耳に入ってきて、私は心の中で「その通りです」と頷いたのだった。
母の会社で働き始めた頃。
「娘だからと言って、甘やかさないわよ」
そう笑いながら言っていた通り、母は時に厳しく、だけど優しく業務について教えてくれた。今は仕事始めでバタバタしてしまっているが、落ち着いたら母と旅行でも行きたいものだ。今回の件で少し疲れてしまったので、私にはしばらく恋愛はいらないかもしれない。それに、上司として母として素晴らしい彼女に恩返しができるように、頑張らなければいけないのだから。
