あの日、銀行の窓口で「一万円ぽっちで来るな、貧乏人は機械でやれ」とママ友に嘲笑された。私は五歳の娘を幼稚園に送ったあと、たまたま近くで仕事があり、いつもの支店ではなく本店に立ち寄っただけだった。窓口にいたのは、同じ幼稚園に娘が通う田辺さ子。普段から私を下に見ていた彼女は、仕事中にもかかわらず「おばさん」「貧乏人」と連呼し、挙げ句の果てに「なんで貧乏人に頭を下げなきゃいけないのかしらね」と吐き…

あの日、銀行の窓口で「一万円ぽっちで来るな、貧乏人は機械でやれ」とママ友に嘲笑された。私は五歳の娘を幼稚園に送ったあと、たまたま近くで仕事があり、いつもの支店ではなく本店に立ち寄っただけだった。窓口にいたのは、同じ幼稚園に娘が通う田辺さ子。普段から私を下に見ていた彼女は、仕事中にもかかわらず「おばさん」「貧乏人」と連呼し、挙げ句の果てに「なんで貧乏人に頭を下げなきゃいけないのかしらね」と吐き...

ああ、本当に嫌になっちゃう。一万円をわざわざ窓口で入金するとか、ありえないんじゃない?こんな仕事、本当にうんざり。なんで貧乏人に頭を下げなきゃいけないのかしらね。どうせ安い金額でしょうに、銀行なんかに来るんじゃないわよ。

窓口の向こうで、田辺さ子さんは私に向かって暴言を吐き続けていた。周りの行員たちはみんな俯いて、誰もそれを止めようとしない。ほらおばさん、入金完了。次からは機械でできるように、ちゃんと機械の使い方を覚えなさいよ。

あまりにひどい言いように、ついに私の怒りが爆発した。そう、分かった。もういいわ。私はそう言うとスマホを取り出し、いつも利用している支店に電話をかけた。電話の内容を聞いたさ子さんは、私をさらに馬鹿にして大笑いしている。しかしこの後、さ子さんは自分が招いた最悪の結果を見ることになる。

私の名前は神田瞳。五歳の娘を持つ兼業主婦だ。今日は娘を幼稚園に送った後、仕事のため外出していた。ついでに銀行へ入金をしようと思い、いつもなら家の近所の支店に行くのだが、たまたま近くで仕事があった都合で、銀行の本店の窓口にやってきていた。同じ銀行だし、本店も支店も同じことだろう。私としてはそんな軽い気持ちだった。

入金窓口に行き、開いていた窓口の女性に声をかける。すみません、入金をしたいんですが。いらっしゃいませ。あら、瞳さんじゃない。え、さ子さん?窓口にいたのは、ママ友の田辺さ子さんだった。私の娘とさ子さんの娘は同い年で、同じ幼稚園に通っている。しかし私とさ子さんは、あまり仲良く話をするような間柄ではない。彼女はどうも高級志向らしく、娘さんにもブランド物の服を着せており、なんとなく自分とは合わないと感じていたからだ。銀行員だとは聞いていたが、ここに勤めていたとは知らなかった。

今日はどうしたの?え、ちょっと入金をお願いしたくて。入金?機械で入金した方が早いわよ。え、だから入口の横にあるでしょう。機械でなら誰の手も煩わせずに済むから、勝手にやってよ。さ子さんはニヤニヤ笑いながら言う。なんだか嫌な感じだ。

いえ、機械は信じられないから、窓口でお願いします。私がそう言うと、さ子さんは私を馬鹿にしたような目で見た。機械が信じられないですって?今時、あんたさん。それじゃおばさんじゃない?おばさんて。

さ子さんは普段から何かと私を下に見ている感じはしていたが、仕事中にこんなことを言うなんて。それに私とさ子さんは、それほど年も違わないはずなのに。おばさん呼ばわりとは、なんて失礼な人なんだろうか。私が少し俯くと、さ子さんはヒラヒラ手を振りながら言う。冗談よ、冗談。冗談を真に受けないでよ。

あのさ、どうせ少額でしょ。わざわざ窓口でやらないでよ。そういうの面倒なのよね。え、面倒?そうよ、面倒なの。あのね、窓口っていうのは結構仕事が多いのよ。どうせ貧乏なんだから、大した額じゃないんでしょ。そういうの本当に手間だから。

これが銀行員の言うことだろうか。私は驚いて、それがさ子さんの仕事でしょう、と言うと、さ子さんはカウンターに肘をついて大げさにため息をついた。はあ。確かに仕事だけど、瞳さんみたいなおばさんのために窓口にいるわけじゃないのよね。やって欲しいなら、ちゃんと金額を入金してよ。それなら喜んでやってあげるわ。

よその銀行はちゃんと入金してくれるけど。そう思うなら、他の銀行に行けばいいじゃない。私は嫌よ。どうせ入金してもすぐに使うんでしょ。何の得があって貯金しようとか思うわけ?全然意味ないわよ。なんて言い草だろう。仮にも娘が同じ幼稚園にいるママなのに。

意味があるかないかは、お客の私が決めることだと思うけど。何よ。ああ、こういうだからおばさんは嫌い。偉そうにしちゃってさ。なんですって。ああ、はいはい。もういいわよ、入金してあげればいいんでしょ?じゃあ、この票に書き込んで持ってきてよ。

なんて失礼な人だろうと思ったものの、せっかく来たのだから用事を済まそうと、私は入金伝票に必要事項を書くと、さ子さんのいる窓口に持っていった。伝票を見たさ子さんは、また大げさにため息をつく。はあ。やっぱりね。何か問題でも?何かはこっちのセリフよ。何よ、一万円って。だから貧乏人の入金は嫌なのよ。

一万円でもお金はお金でしょ。銀行なんだから、客が入れたい金額を入金してよ。あのね、せめて十万くらいは入金しなさいよ。そのくらいの金額も入れられないのに、銀行を使う意味ある?ないわよね。一万ぽっち。やっぱ機械でやってよ。やり方を覚えれば、その方がずっと楽よ。

いえ、私は窓口がいいの。私が嫌なんだってば。なんでこんなに頑固なのよ。ねえ、瞳さん、スマホ使うでしょ。ええ、仕事をするにしても何にしても、スマホは生活の必需品だ。スマホとあっちの機械、どっちが難しい?あなたでもスマホは普通に使えるんでしょ。だったらあっちの機械だって使えるわよ。今回は仕方ないから入金してあげるけど、次からはちゃんと機械でやりなさいよね。

さ子さんのあまりの言い様に、だんだん私もイライラしてきた。だが、こんな勝手なことばかり言う人に言い返したところで、こっちがバカを見るだけだ。そう思い、私はむっとした表情を浮かべるにとどめた。

ああ、全く貧乏人って、どうしてこんな面倒な金額を入れたがるのかしらね。どう考えても無駄なのに。あなた、さっきから人のことを貧乏人だと馬鹿にしているようだけど、失礼だとは思わないの?思うわけないでしょ。間違いなく貧乏人だし。大体、銀行にそんな地味な服で来ちゃうとか、貧乏人の極みものじゃない。自分は超貧乏人ですって宣伝してるようなものよ。

服装で貧乏人呼ばわりされるとは納得がいかない。ブランド好きのさ子さんから見たら、私は確かに地味かもしれないが、別にボロボロの服を着ているわけではない。仕事中だからシンプルな服を着ているだけなのだ。もしかしたら私、ものすごいお金持ちかもしれないわよ。ふざけるのも大概にしてよ。金持ちがそんな超地味な服で来るはずないでしょ。ありえない。それは仕事のついでに来たからよ。あなたの仕事だったら、せいぜい小さい会社の事務とかよね。そういう仕事は金持ちはしないの。ほら、金持ちがやりそうな仕事って言ったら、弁護士とか医者でしょ。そのどっちも、そんな地味な服で銀行に来るとかありえないのよ。

さ子さんは私の仕事を勝手に決めつけている。弁護士や医者ならスーツが仕事じゃないの?そうそう。だからそういう服装をする人が、金を生む仕事をするってこと。地味な事務仕事してるようなおばさんは、どこまで行っても貧乏人なわけ。さ子さんって、誰にでもそういう態度なの?そんなわけないでしょ。金持ちには金持ち対応。貧乏人には貧乏人対応ってね。大した金も預けないような貧乏人のおばさんにVIP対応してどうするのよ。もったいないだけよ。この銀行は客を選ぶってこと。ええ、ここは本店だもの。貧乏人は小さな支店に行けばいいのよ。支店なら喜んで一万円を入金してくれるわよ。

あなた、本当に態度が悪いわね。こんなに態度の悪い銀行員は初めてだわ。私の態度が悪くなるのは、あんたのような勘違いした貧乏人が来るからに決まってるでしょう。こっちはたくさんのちゃんとした客を毎日捌いてるんだから、貧乏人にまで丁寧な対応なんてやってられないわよ。丁寧な対応を求めてるなら、大金を預けることね。

さ子さんは私のことをあんた呼ばわりし始め、完全に私を下に見ているのを隠そうともしなかった。最低ね。私がそう言うと、さ子さんは聞こえよがしに大きな声で嫌味を言い出した。

ああ、本当に嫌になっちゃう。一万円をわざわざ窓口で入金するとかありえないんじゃない?こんな仕事、本当にうんざり。なんで貧乏人に頭を下げないといけないのかしらね。どうせ安い金額でしょうに、銀行なんかに来るんじゃないわよ。

あまりの傲岸不遜さに、徐々に上がっていた私の怒りメーターは爆発寸前だった。ほらおばさん、入金完了。次は機械でできるように、しっかり機械の使い方を覚えなさいよ。そう言い放つさ子さんの声を聞きながら窓口の向こうを見てみると、他の行員はみんな俯いてしまっている。彼女の言動は確かに耳に届いているはずなのに、誰もそれを止めようとはしないのだ。

ちょっとおばさん、終わったんならそこどいて、さっさと帰りなさいよね。いい加減にして。とうとう私の怒りが爆発してしまった。あまりにも大きな声で怒鳴ったものだから、他の客も驚いてこちらを見るほどだった。何よおばさん、頭おかしいんじゃないの?わざわざおばさんのために時間を作ってあげたのに、どうなるとかわけわかんない。そんなに気に入らないなら、貧乏人のくせに本店なんかに来るんじゃないわよ。

そう、分かった。もういいわ。私はそう言うとスマホを取り出し、いつも行く支店に電話をかけた。支店長を出してくれる?ああ、支店長、神田です。うちの会社の三百億の法人口座を解約します。え、今すぐに。すぐ解約の手続きを始めてください。私はそう言うと電話を切った。

目の前でさ子さんは目を丸くしている。これで私がお金持ちであるとさ子さんにも分かっただろう。そう思っていたのだが、なんと彼女はいきなり笑い出したのだ。おばさん、何金持ちのふりしてんのよ。いくら何でも法人口座に三百億って、夢見過ぎじゃない?それで私が驚くとか思ったの?ない。やっぱり貧乏人が考えることって、その程度よね。どうせ自分の旦那とかに電話して、人芝居打っただけでしょ。実はそういうのやってみたかったとか。

さ子さんがゲラゲラと笑う中、私は黙って相手を見つめていた。この笑いはもうすぐ引きつった表情へと変わる。私はそれを知っていて、楽しみにしているのだから。

さ子さんが笑い転げているところに、予想していた通り奥から店長が走ってきた。こ、これは神田様。何か窓口で失礼なことがございましたでしょうか?あなたは?私はこの本店の店長で、祝部と申します。たった今、支店の方から神田様の法人口座の解約手続きの連絡を受けまして、これは是非ご挨拶をさせていただかねばと思い、馳せ参じました。そう、でも遅かったわね。私はもう解約するって決めたから。どうかあの奥でちょっとお話をさせていただけませんでしょうか?きっと何か勘違いがあったのではないかと思いますし。いえ、勘違いなんてありません。

そこへさ子さんが口を挟む。店長、なんでこんなおばさんに頭を下げるんです?相手は貧乏人なのに。貧乏人にそんなへこへこしても、何も出ませんってば。いや、田辺君、それは失礼だからね。何が失礼なんです?貧乏人に時間を使うなんてもったいないし、意味のないことでしょ。あの、ちょっと君、黙ろうか。なぜか店長はさ子さんを怒鳴ることも止めることもしない。それどころか、店長の方が押され気味だ。あの、申し訳ございません。どうか奥にお越しいただいて、お話をさせていただきたいのですが。そんなことをしても何も変わりません。そこをなんとか。店長はすがりつくような目をして、私に頭を下げながら両手を揉みしごいている。お願いします。神田様。なんとかお話だけでも。

あまりに必死な店長の姿を見て、私は話だけなら、と奥へと足を向けた。通されたのは、こぢんまりとした和室で、高そうなケーキと紅茶を用意していた。私は進められるがままソファーに座ったが、一切出されたものには口をつけなかった。

神田様、窓口のことで何がございましたでしょうか?支店の方からどうなっているのかと連絡がありまして、もしよろしければ何があったのかお聞かせいただきたいのですが。さ子さんを伴って入ってきた店長が、私に事情を聞いてきた。構いませんよ。まあ、問題なのは彼女ですけれど。田辺君ですか?そうです。本来なら支店に行くところを、今日は近くで仕事をしていたので、ちょっと入金してもらおうと思ってきたんですが、あまりにも彼女の態度が悪すぎて。あんな対応をされるんなら、解約しようと思ったんです。貧乏人と馬鹿にされた上、たった一万円の入金じゃ窓口では手間がかかるから、扱いたくないとのことなので。そ、そんなことが。店長は信じられないといった表情だ。まあ、それが普通の反応だろう。私は話を続けた。それに彼女が窓口であれだけの暴言を吐いているのに、どうして他の行員は誰も何も言わないんですか?暴言です?え、それはもうありえないくらいにひどい暴言でしたよ。だ、例えばどんな。私の口からは言いたくありません。彼女の隣に座っていた誰かにでも聞くなりしたら、いいかがですか?あそこにいた人はみんな聞こえていたはずですから。そう、そうなんですか。銀行の本店って、そんなにも偉いものなんですね。本当に驚きました。

神田様、本当に申し訳ございません。お詫び申し上げます。店長は私に向かって、体を二つ折りにする勢いで頭を下げた。あなたに頭を下げられても困ります。これがこの銀行の教育方針なら、私が何か言うのもおかしいことでしょうし。彼女には今後このようなことがないよう、言って聞かせます。いいえ、結構です。

店長が必死に頭を下げ、汗を拭っているそばで、当の本人は涼しい顔だ。自分が原因でこんな事態になっていることが、理解できていないらしい。それどころか、さ子さんは喚き出した。店長、なんでそんなにペコペコ頭を下げるんです?さっきも聞いたけど、このおばさんが何なわけ?おい、田辺君!そうでしょ?この人が貧乏人なのは見れば分かるのに。なのにどうしてそんなに小さくなる必要があるのよ。ここは本店なんだから、貧乏人相手にそんなに小さくなる必要ないわよ。本店だろうと何だろうと、相手はお客様ですよ。それにこの方は有名アパレル店の社長さんで、うちの大得意様です。バカなこと言わないでよ。こんな地味なおばさんが、どうして有名アパレル店の社長なのよ。そんなことあるわけないでしょ。バカなことを言ってるのは君の方だ。謝るんだ。とにかく謝って、三百億の取引をこのままにしてもらわないと、我が銀行がどうなるか。どうにもならないから。三百億なんて嘘よ。嘘なわけないだろう。

とうとう店長も我慢の限界が来たらしい。ところが大声を出した途端、自分はっとしたようで口を閉ざしてしまった。しかもさ子さんの顔色を窺っているような気がする。一体、さ子さんが何だというのか。私は店長を探るように見ていた。店長は私に向き直ると、あの、神田様、彼女は新人なもので、物事がよく分かっておりませんで、としどろもどろに言い訳を始めた。新人だったら、物事が分かっていなくてもいいと?あ、いや、決してそんなことは。私の指摘に、店長は目を泳がせている。これでは埒が明かないと、私はさ子さんに話を向けた。

さ子さん。え?何よ、おばさん。田辺君、おばさんじゃないだろう。だっておばさんだし。あなた、新人なの?まあね。でも新人とかって関係ないわよ。なんせ私はこの銀行の頭取の孫だもの。頭取の孫?え、そうよ。頭取の孫だから、私がすることが正義なわけ。なるほどね。頭取の孫だから、さ子さんはあんな態度を取れると。そして今まで何をしても許されてきたってことなのね。そういうこと。そして頭取の孫だから、同僚も上司もみんな見て見ぬふりをするということですか?おっしゃる通りです。

やっと店長の態度と、さ子さんが平然としている理由が分かり、その馬鹿らしさに私はため息をついた。これじゃあ、まともな人が育つはずがないですね。お恥ずかしい限りですが、おっしゃる通りでございます。うるさいわね。何を偉そうに言ってるのよ。頭取の孫が銀行で一番偉いのは、言うまでもないでしょ。だからみんな私に何も言わないの。それのどこに問題があるっていうのよ。それとも妬んだりするの?気にはならないわ。下げすむ気持ちは生まれてもね。なんですって。つまり、頭取の孫なら何をしてもいいと思ってるってことでしょ。当たり前じゃない。私以上に大きなコネを持ってる人なんていないんだから。コネって言ってみれば、それがなければ単なる脳なしということでしょ。何よ。コネも才能の一つなんだから。コネも才能って、面白いこと言うのね。だから客よりも自分の方が偉いって言うのね。当たり前でしょ。

申し訳ございません。大変失礼いたしました。今後はしっかり教育いたしますので、どうか今回だけは見逃してください。お願いします。店長は米つきバッタのように頭を下げ続けている。いいえ、店長さん。これは物事が分かっていないというレベルではありません。失礼にもほどがありますよ。大体、見逃すって何です?こっちは不愉快で仕方がないんです。散々嫌な思いをしたのに、新人だから見逃せって言うんですか?傍から見たら、彼女は新人である以前に、この銀行の行員なんですよ。おっしゃる通りです。田辺君、神田様に謝罪するんです。謝罪してください。なんで私が謝らないといけないのよ。そんなに謝りたいなら、店長が謝ればいいでしょ。私には関係ないわ。私は間違ってないんだから。

さ子さんの言い草を聞いて、店長の顔には絶望感が広がっていた。もはや何を言っても、さ子さんが事態を理解しないことが分かったらしい。そういうことだから、三百億は解約してください。支店まで行かなくても、ここで解約できますよね。ああ、そうなんですが、今一度お考え直しいただけませんか?さすがに三百億全部というのは。それはそこの彼女に行ってください。私はこのまま預けていようと思っていたんですから、その気持ちを返させたのは、彼女の態度です。そしてあなたたちの頭取の孫の対応でしょう。ああ、確かに。しかし、一度に全額というのは。大丈夫です。とりあえず、この銀行に入れてください。私はそう言うと、別の銀行の通帳をテーブルに置いた。ここの銀行に三百億を、そうです。別に構いませんよね。この通帳の銀行は大変小さいですが、対応も良くて、私としては気に入ってる銀行の一つなんですよ。それにこの銀行とは取引をするつもりはありませんし、ここに預けているよりは数段ましです。

分かりました。がっくりと肩を落とした店長は、しぶしぶながら解約手続きをし、手続きが終わると私はすぐに立ち上がり、部屋から出ていった。私が出ていった後、店長はソファーに崩れ落ちた。

田辺君、なんてことをしてくれたんだ。何よ店長、そんなに顔真っ赤にして怒らなくてもいいでしょう。何よじゃないんですよ。神田様は大事なお得意様なんです。あの三百億の契約がなくなったら、当行は潰れてしまうかもしれない。銀行が潰れるわけないじゃない。それ、本気で言ってるんですかね?もちろん、銀行が潰れるなんて話、聞いたことがないし。おじいさんも、銀行は潰れないって言ってたもの。だから安心安全な就職先ってことでしょ。なんてことだ。最近、アメリカの銀行が二行も破綻したのを知らないんですか?銀行が潰れないという神話は、もう消え去ったんです。それはアメリカの話でしょ。ここは日本よ。外国の話を気にしてどうするの?日本だって潰れないとは言い切れないんですよ。大丈夫、大丈夫。

脳天気なさ子さんの言い草に、ついに店長の我慢は限界を迎える。いい加減にしてくれ。頭取の孫だからって、なんだ。これは仕事だぞ。君がしたことは、銀行員として社会人としてあるまじきことだ。そんな腐った考えでいられたら、銀行が潰れるばかりか、本店だけじゃない。支店の全員が路頭に迷うはめになるんだ。頭取の孫なら、それくらいのことを考えてみろ。君はそんなことも分からないほど、頭が悪いのか。

店長の説教に、さすがのさ子さんも、今まで自信たっぷりに話していたのがまるで嘘のようにしどろもどろになった。え、だってそんなこと言われても、あんな格好してたら金持ちだなんて分からないじゃない。貧乏人だから何なんです。貧乏人でも同じお客様でしょ。え、もうみんな休憩時間に、貧乏人が窓口に来るなって言ってるし、少ない金額を入金されたら仕事が増えるって。だから私はみんなのために言ったのに。窓口業務はそれだけ忙しいんだから。それをみんなが言ってることも間違いですが、それをお客様に言うのは、もっと間違いです。でも一万円ぽっち、時間の無駄になるし。だから機械でやればって言ったのに、あのおばさんが嫌だって言うから。子供のような言い訳を続けるさ子さんに、店長はもういい、君は首だ、と指を突きつけた。え、首になんてできるわけないでしょ。私は頭取の孫なのよ。それでも自分が首になるはずはないと信じきっているさ子さんに、店長は頭取には私から話しておきます、ときっぱり告げた。さすがのさ子さんも、店長が本気だと分かり、慌て始める。こ、こんなことぐらいで私を首になんてできるはずない。こんなこと?どこがこんなことなんですか?首にされたくなかったら、三百億の解約を取り消してもらってこい。嘘よ。私は頭取の孫なのに、なんでこんなに怒られるのよ。初めて怒られたさ子さんは、どうしたら良いか分からないようだった。それから彼女が取った行動は、私に謝りに来るわけではなく、祖父である頭取に泣きつくことだった。

ねえ、おじいさん、助けて。なんだ、顔色が悪いじゃないか。どうした?助けてって。まあ、それは神田の三百億の件か?祖父からその言葉を聞き、さ子さんは顔を真っ赤にして、それ、そのことよ。店長が私を首にするとか言ってて。こんなバカな話あるわけないわよね。私は何も悪くないのに、なんで首にならなきゃいけないのよ、と大声で喚き出した。しかし祖父は真剣な表情で彼女を見る。何も悪くないだと?仕事で三百億もの損失を出したんだ。首になる程度で済んで、良かったな。おじいさん、なんてこと言うのよ。孫が首になるのよね。おじいさんなら、首を取り消すことぐらいできるでしょ。いくら頭取でも、それは無理な話だ。どうしてよ。どうしてもだ。首を繋げたかったら、自分の行いを反省して、心から神田様に謝罪するんだな。え、そして改めて契約を取り付けてこい。そんなの嫌よ。頭を下げろってことでしょ。そんなの私のプライドが許さないわ。それができない限り、お前の解雇は撤回されることはない。孫が解雇されてもいいの?お前の首よりも、社員の生活の方が大事だ。そんなことを言われ、頭取に泣きつけば何でも解決してくれると思っていたさ子さんは、自分より銀行や行員が大事だと言われ、驚いたようだった。

祖父に助けてもらえなかったさ子さんは、今まで努力することなどなかった自分は、他の会社では務まらないと判断し、私に謝罪することにしたようだ。

申し訳ありませんでした。さ子さんは私の前で深々と頭を下げたが、とりあえず頭さえ下げておけばなんとかなると思っているのが見え見えだった。この通りです。だから三百億の契約を解約しないでください。どうして私が口座を解約しても、さ子さんには関係ないでしょ。あるから来たんじゃない。来たんです。このままだと私は首になっちゃう。うん。なるんです。へえ、頭取の孫なのに首になるの?そうなのよね。おかしいと思うのよ。なんで頭取の孫なのに首になるのか。店長も感情的だし、信じられないわよ。信じられないのは、あなたの言動と態度よ。

え、そう。結構ちゃんと謝ってると思うんだけど。一応謝罪と言われて会っては見たが、強気な態度は長くは持たず、さ子さんの口調があっという間に元に戻ったことに、私は呆れてしまった。あなたは未だに自分の方が格上だと思ってるのね。そんな人の謝罪を受け入れるほど、私は優しくはないの。そうかな。別に問題はないと思うんだけど。とにかく私は謝ってるんだし、本当に申し訳ないと思ってるんだから。ほら、頭も下げてるし。だからね、頼むから解約を取り消してよ。ふざけないで。そんな態度で許すと思ってるの?私が首になっちゃうじゃない。そんなこと、知りません。もう話すことはないから、帰って。

結局、謝罪するということの意味も分からずにやってきたさ子さんは、表面的な謝罪の言葉のみを並べて、なんとか自分の首を繋ごうとしていた。それがあからさまだったので、私は許すことはしなかった。自分のことしか考えていない彼女が、許せなかったのだ。

私に許されなかったさ子さんは、三百億の損失を出したとして、銀行を解雇されることとなり、頭取の孫という肩書きもなくなった。頭取の孫ではなくなったさ子さんは、親からも縁を切られた。さらに夫からも離婚を告げられ、子供の親権も夫が持つことになり、養育費や何やらで一瞬で一文なしになった。さ子さんは初めて自力で働くことになり、就職先を探そうとしたが、元々コネで銀行の仕事をしていたこと。また、せっかく入社した会社でも性格の悪さが職場内での人間関係に悪影響を及ぼしたせいで、色々な仕事を経験したものの、どれもうまくはいかず、今はコンビニのバイトとして働き詰めの日々を過ごしているという。

私は法人口座にある三百億の契約を解約した後、夫が働く会社の上司から紹介してもらった銀行でお金を預けることにした。さすがに三百億ともなると、どこの銀行も平服で特別室に案内されての契約だ。しかし大事なのはそこではない。私は今回のことがあって、余計に地味な服装で銀行へ行くようになった。社長という肩書きを捨てた人間が、どんな扱いをされるのか興味が湧いたからだ。ところが今度の銀行では、前回の銀行とはまるで違う扱いを受けた。

果たしてこの銀行は、誰にでもこんなに親切なのかと思って見ていると、ある光景を目にした。ある日、一人の老婆がやってきた。どう見ても裕福とは思えない彼女は、杖をつきながら、よたよたとした足取りで一歩一歩踏みしめるように歩いていた。一旦は機械に向かったものの、やはり慣れないのか、彼女は窓口に向かい、窓口の女性に一万円を差し出すと、入金をしたいと申し出た。窓口の女性は、機械で入金をした方が早いと説明はしたものの、老婆は機械の使い方が分からないという。すると窓口の女性はにっこりと微笑み、分かりづらいですよね、と言ったのだ。そして入金票を差し出し、ここに記入して持ってきてもらえますか?と言ったが、ここでもまた目が見えないから、という老婆。高齢になると目が見えづらくなるのは当然のことだ。さて、銀行側はどんな対応をするのかと思っていると、窓口担当は接客担当の行員を呼び、丁寧に老婆に書き方を教えていた。なんとか記入することができると、今度は接客担当が窓口に繋ぎ、行員同士もありがとうございます。よろしくお願いします、と微笑ましく言葉を交わしていた。

老婆は椅子に案内され、座って待つように言われていたが、今度は呼び出しの声に反応しない。これでまたしても先ほどの接客担当が登場し、呼ばれましたから、あちらにどうぞ、と老婆のそばまで行き、声をかけて案内する。こうして一連の作業が終了すると、老婆は何度も頭を下げ、感謝の言葉を口にしていた。行員の方を見ると、ニコニコと笑顔を絶やすことなく、お気をつけて、と頭を下げて見送っていた。なんとも心温まる光景に、私はこの銀行に三百億もの預金を預けたことが間違いではなかったと、心から思い安心したのだった。

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