「この商品は大ヒットしそうで楽しみだわ。私が引き継ぐから安心して。あんたは首よ。あはは。」
部長が高笑いをしている。俺が苦労して開発した商品を横取りして発売するつもりだ。その上、俺を首にするだと。
部長は社長の御一門だからと言って、そんなことができるのか。俺は頭が真っ白になり、何も考えられなくなった。
「今までご苦労様。悪く思わないでね。社長も大喜びだし。これで私も安心できるわ。もうあんたはお払い箱よ」
部長は何ともいやらしい表情で笑っている。
これは俺の商品だ。部長なんかに渡さない。怒りが込み上げ、震えが止まらない。
しかし、その時、俺はあることを思い出した。
これで見返すことができる。俺は絶対に負けない。首にされるくらいなら、俺の方から辞めてやる。俺はあることをして、部長を見返してやると決めた。
「ちょっと、一体どうなってるの? これはうちの商品と同じじゃないの?」
部長は窮したように、退職した俺に電話をかけてきたが、もう遅い。五億円は俺のものだ。
「だから言ったでしょ。忘れたんですか?」
俺はそう言ってやると、笑った。いい気だ。俺をバカにするから、こうなったのだ。
俺の名前は吉田新一。両親は小さな繊維工場を営んでいる。小さい頃から工場に行くのが好きで、学校が終わると、いつも工場で働く両親の姿を見て育ってきた。物づくりを間近で見ていた影響もあり、次第に自分も物づくりに携わりたいと思うようになった。両親の工場に就職することも考えたが、大学までサッカーを続けていたこともあり、その経験も生かそうとスポーツメーカーの開発部に就職した。
「これ、どうでしょう? 試作品ですが」
出来上がったばかりの試作品を部長に見せて、顔色を伺う。
「お、もう新作ができたのか。さすがだなあ。うん。なかなかいいけど、もう少し生地がしっかりしているといいかな」
「そうですね。いざ出来上がってみると、少し違いますね。これだと生地が薄すぎて使いにくいですよね。もう一度、工場に確認してみます」
「ああ、頼んだよ。君に任せておけば安心だ」
開発部と言うと、なんだか華やかな響きだが、作ってはやり直し、また作ってはやり直す。そんな地道な作業の繰り返しである。とても地味な日々を過ごしている。
それでも、この会社を選ぶ際に考えていた通り、実際にスポーツをしていたことは、スポーツ用品を作る上でも生かせる場面が多く、やりがいはあった。自分で言うのもなんだが、俺は同期の中でも仕事はできる方だと思う。そのことは上司を始め、周りの社員にも認めてもらえており、信頼して仕事をさせてもらっていた。
俺が就職して十年が経った頃、開発部の部長が定年退職を迎えることになった。入社以来、一緒に働き、仕事を一から教えてもらった人で、別れは辛く寂しいものになった。
「部長、本当にお世話になりました。部長に教えていただいたことは、決して忘れません」
退職当日、俺は帰り際に部長へ別れの挨拶をした。
「いやいや、こちらこそお世話になったね。この十年で君は本当に一人前になった。もう私が教えることは何もないよ。はは」
部長がちょっと寂しそうに笑う。
「そんなこと言わないでください。まだまだ一緒に働いて、教えてもらいたいことがあったのに」
俺が落ち込んだ顔をすると、部長が肩をポンポンと叩いてくれた。そして、時間がある時にでも食事に行こうという約束をして別れたのだった。
その数日後のことだ。今日は新しい部長が赴任してくる日である。新しい部長は役員たちに挨拶してから、少し遅れてくるということで、皆待ち構えていた。その時、俺の隣に座っている同僚が俺の肩をつついた。
「おい、聞いたか?」
なんだか内緒話でもするかのように、同僚が俺の耳元に近づき、小声で言った。
「何をだよ」
何のことか分からず、俺は急ぎの書類に目を通す。
「やっぱり知らないみたいだな。今度の部長は社長の御一門で、高入者らしいぞ」
同僚はなんだか得意げだ。
「そうそう。しかも名門大学卒業だとか。どんな人なんですかね」
後ろの席の後輩まで話に入ってきた。
「そうだったんだ」
俺は独り言のように呟いた。新しい部長のことはかなり噂になっているようだが、俺はあまり関心がなく、それ以上、皆の噂話には入らなかった。
その時だ。フロアの向こうから白いスーツを着た大柄な女性が入ってきた。年は三十過ぎくらいで、多分俺と同年代だ。
「皆さん、おはようございます。開発部の部長になりました五藤です。私は名門大学を卒業して、この地位を確立しました。開発部でも、この能力を生かしていきたいと思います」
五藤部長は皆をぐるりと見渡すように言った。誰もが五藤部長の自信満々の挨拶を聞いて呆気に取られ、ただ頷くしかない。
随分自信があるんだな。名門大学だし。そんなものか。俺もそんな風に思ったのだった。
そんなインパクトのある挨拶から一ヶ月ほど経ったある日。
「あの、先輩。五藤部長からの指示で資料を作っているんですけど、ここおかしいですよね」
後輩社員がパソコンの画面を俺に見せて、ある数値を指している。見ると、明らかに一桁違うと思われる数値がそこにあった。
「そうだな。明らかに一桁違うよな」
俺たちは顔を見合わせて頷き合う。
「そうなんです。まあ、気がついたから訂正すればいいだけですけど。実はこれが初めてじゃなくて、もう何度もこんなことが続いているんです。訂正するだけって言っても、一桁違うって大変なことじゃないですか?」
「そうだよな。一桁違うのは大変なことだ。そんなに訂正が多いのか」
何食わぬ顔で話してはいたが、この一ヶ月の間に、俺も他の部署から何度も書類の訂正を頼まれていた。作成した書類は課長、そして部長に確認をもらってから他の部署や外先などに出すことになっているので、こんなに訂正が続くことはあまりないことだ。
「俺から五藤部長に話してみようか。ちょっと貸してくれる?」
俺は後輩からパソコンを借りて、五藤部長のデスクまで行った。
「五藤部長、少しよろしいですか?」
「え? ああ、いいわよ」
五藤部長はスマホを見ていたが、ビクッとしたように俺の顔を見た。
「この数値なんですが、ちょっとおかしいですよね」
俺はデスクにパソコンを置き、画面を指差すと、五藤部長は一瞬、居た堪れないような表情をした。
「これ、一桁違うわね。こういうのに気付けてもらわないと困るのよ。吉田君もベテランなんだし。それくらい分かるでしょ」
パソコンの画面を見た五藤部長は、そう言って鋭い目で俺を睨みつけた。
なんだ、俺のミスにするつもりなのか? 五藤部長は一瞬気付いて、自分の間違いに気がついたはずだ。それなのに、俺にミスをなすりつけようとしている。後輩にも、今の五藤部長の言葉は聞こえただろう。向こうから確認するように目で合図をしている。
「こんなことも、いちいち言わないといけないの? はあ、困ったものね。開発部に長くいるからって、いい気になってるんじゃないの?」
静かになってしまったフロアに、五藤部長の甲高い声だけが響く。五藤部長のいい加減な発言に、俺は呆然とした。俺がこの一ヶ月訂正してきた書類も、五藤部長のミスだったのではないだろうか。五藤部長は自分の書類を誰にも確認させずに、関係部署に回してしまっている。全く反省している様子のない五藤部長の姿に不審感を抱きながら、俺はおずおずと自分の席に戻ったのだった。
その後も部長はミスを連発させた。さらに問題はミスに留まらず、開発の仕事はど素人なようで、見当違いの指示を出してくる。皆困惑していたが、社長の御一門ということもあって、誰もが腫れ物扱いするような状態で何も言わなかった。
それからさらに数ヶ月が過ぎた。
「ちょっと、吉田君」
五藤部長がいつものように甲高い声で俺を呼ぶ。
「いい? これ、前にも言ったけど、私の言う通りにやってくれないと困るわよ」
五藤部長はさも自信ありげだ。
「え、でも、これは以前から私が抱えている案件で、急に変更はあまり」
無茶な指示を出されて、俺も返答に困り、しどろもどろに答える。
「あのね、私は部長なのよ。名門大学を出て、社長一族の私に逆らうなんて、やめておいた方が身のためよ」
五藤部長はさも見下したような笑みを浮かべている。
「そう言われましても、とにかく変更は無理ですから」
「いいから、さっさとやりなさい。本当、使えないわね。だからその年で未だに平社員なのよ」
部長はこうやって、最近はしょっちゅう俺に突っかかってくる。この会社では、俺の年齢で役職がなくても当たり前だ。自分は実力ではなく社長のコネで部長になったことが明らかだというのに、偉そうなものだ。同僚や後輩から聞いた話によると、五藤部長と最も年の近い俺が開発部で実績があり、皆に一目置かれていることが気に入らないんじゃないかということだ。いい年して、そんな子供みたいな僻みを付けられているとすれば、迷惑極まりないが、あの五藤部長ならあり得ると思えるから恐ろしい。
しかし、やたら変更だの、やり直せだのと俺に言ってくるが、そんなことをしても、結局開発部の仕事が滞り、部長の責任問題だ。俺を困らせて憂さを晴らしているだけなんだろうが、それが自分の首を締めていると分かっていないのか。呆れつつも、俺にはどうすることもできず、五藤部長に振り回されて仕事は遅れるばかりだった。
俺は隣の部署の上司に、五藤部長の赴任以来の開発部での状況を話し、俺を始め皆が困っていることを相談した。
「ああ、五藤部長のことは私ももちろん聞いているよ。特に君のことを、キャリアがあるからと言って目の敵にしているみたいだね。社長の身内だから、直接私が社長に聞いてみるよ」
上司はそう言って俺の相談を引き受け、社長に直談判してくれることになった。だが、結果から言えば、何の解決にもならなかった。社長は身内を急に部長に任命しただけのことはあり、聞く耳を持たず、上司は一部の社員に贔屓をするなと逆に説教をされてしまったそうだ。社長はやはり身内が可愛いのだ。
「そうですか。社長がそんなことを。申し訳ありません。私たちのために色々ありがとうございました」
俺はそう言って上司に感謝した。うまくいかなくても、わざわざ社長に話をしてくれたことが嬉しかったし、開発部の仲間も皆そう思っていた。俺は俺の仕事を続けていくしかない。部長の相変わらずの傲慢とも言える言動は続いたが、気にしないように務め、仕事に集中した。
俺は次の会議で発表するため、以前から温めていた案件の準備を進めていた。特許技術を採用した新素材のスポーツウェアだが、試作品はすでに出来上がっていて、開発部での評判もかなりいい。会議当日、俺は張り切って早めに出社した。そして、誰もいないフロアで会議の資料などを何度も確認し直して万全を期した。
会議が始まると、並べられた試作品と配られた資料を皆、興味深そうに見比べて、熱心に説明を聞いてくれた。その時、五藤部長が顔を上げ、俺の方を見た。
「デザインもいいし、何よりこの生地が今までにない素晴らしいものね」
驚いたことに、五藤部長が一番最初に口を開いたのだ。俺は一瞬耳を疑った。これは褒めているのか? 他の社員たちも驚いたように五藤部長を見る。だが五藤部長は、さっきから試作品を手に取って熱心に見ていた。この会議で誰もが、五藤部長がこの案件に嫌味を言うと思っていただろうし、俺も当然その覚悟でいたので、驚くと同時に、なんだか気が抜けてしまった。
「ええ、肌触りが良くて、柔軟性にも優れています。本当に体にフィットするような、今までにない感触ですね」
他の社員たちも安心したのか、次々と口を開き褒めてくれた。全員の意見が一致して、俺の試作品は役員会議で発表されることが決定した。そして皆が俺に拍手する中、五藤部長までもが俺に笑顔を向けて拍手をしていた。
それからは、五藤部長の嫌がらせや尊大な態度もなくなっていったように思う。最初のうちはなんだか気味が悪かったが、部長の態度が変わったのは、きっとこの素晴らしい試作品を見て、少しは俺を見直したのかもしれない。そう考えることにした。
役員会議当日、俺はなんだか浮き足立っていた。役員会議は通常、役員を中心に部長以上の役職が出席して行われるが、今日は役員だけでなく常務や社長も出席するらしい。そして俺は先日の五藤部長の言葉を思い出していた。開発部の会議が終わった後、俺は五藤部長に呼び止められた。
「吉田君、素晴らしい試作品だったわね。私は次の役員会議で商品化を提案しておくわ。もちろん、おじさんの社長にもお願いするつもりよ」
五藤部長は俺の耳元で囁くように言った。商品化の提案。今まで俺のチームの案件が商品化されたことは何度もあったが、個人の案件ではまだそういったことはなかった。夢のような話に、俺は舞い上がった。
昼近く、そろそろ会議が終わり、決定事項が発表される時間だ。俺は会議の詳細を確認するためにパソコンを開いたが、その時、俺は信じられないものを画面上に見た。議事録に、特許技術を採用した新作ウェア商品化とある。それは喜ばしいことなのだが、責任者名が開発部長、五藤となっている。発案者の名前が責任者として記載されるのが、うちの会社では通例だった。
俺は一瞬、頭の中が真っ白になった。俺の名前がない。どういうことだ? 何かの間違いだろうか? これは俺の作ったものだというのに。俺はわけも分からず、パソコンの画面を何度も更新したが、責任者は五藤部長の名前のままだ。俺は誰も座っていない部長席を見たが、五藤部長はまだ会議が終わってからデスクに戻っていない。
まさか。いや、いくら何でもそんなこと。俺はパソコンの画面上の五藤部長の名前を見つめながら、しばらく考え続けた。ふと気がつくと、部長がこちらに歩いてくる姿が見えた。
「ああ、疲れた。やっと終わったわ」
五藤部長は大げさなため息をつきながら帰ってきたが、いつになく晴れやかな表情だ。
「五藤部長、これはどういうことですか?」
俺は即座に立ち上がり、さっきから開いていたパソコンの画面を見せた。
「どう? 見ての通りよ。この商品は大ヒットしそうで楽しみだわ。あとは私に任せて」
「任せてって。これは俺の案件じゃないですか」
俺は体の力が抜けていくようだった。
「だから、私が引き継ぐから安心してね。とってもいい商品になりそうだから、私が頂いたわ。悪く思わないでね。ふふ」
五藤部長は俺の言葉を遮るように、不敵な笑みを浮かべた。
「役員にもう一度話して……」
俺は力を振り絞り、吐き出すように言った。
「ふん。もう遅いわよ。さっき私が役員会で発表して、すごく評判もいいの。社長のおじ様からも褒められたのよ」
五藤部長は恍惚とした笑顔を浮かべ、自信たっぷりだ。なんだ、この自信に満ちた表情は。堂々と俺の商品を盗んでおきながら、なんという図太さだ。こんなこと許されるのか? 俺は五藤部長の言うことが信じられない思いだった。
「ふざけるな。この商品は俺がずっと前から考えていたものです」
「うるさいわね。平社員は黙りなさい。もうあんたは用済みだから、首ね」
「首? なんで俺が首なんだ? 社長の御一門だからって、いい気になりすぎだ。調子に乗って、俺を首になんてできるはずないだろう」
俺は五藤部長を睨みつけた。
「そうだ。いい加減なことを言わないでください」
俺の背後から声がした。いつの間にか、数人の社員たちが俺の後ろに立っていた。皆、思い詰めたような表情で五藤部長を見ている。
「あの案件は、開発部の会議で吉田さんが発表したものじゃないですか」
「そうですよ。よくも図々しい」
社員たちが口々に俺を援護してくれた。
「何のことかしら? これは役員会議での決定事項なのよ。社長の御内意ってこと、忘れないでちょうだい」
五藤部長には全く動じる様子がない。
「いい? 私が社長に頼めば、あんたたち雑魚はすぐに首にできるのよ。口の聞き方をよく考えたら」
社員たちは五藤部長にそう言われて黙り込んだ。確かに、身内を今までこれだけのさばらせているのだから、社長も何をするか分からない。
もうだめだ。社長がこんなにいい加減な会社では、もう先がない。首になる前に、こっちから辞めてやる。俺はこの十年、真面目に働き、この会社にも貢献してきたはずだ。それなのに、この扱いはひどすぎる。俺は入社してからの、一心に働いていた日々を思い返した。
だが、俺はその時、ふとあることを思い出す。
よし。これで五藤部長を見返してやる。後悔しても遅いんだからな。胸に逆襲の炎を燃やしながら、俺は会社を去ったのだった。
「父さん、おはよう」
「ああ、おはよう。お前、早いなあ」
俺は会社を退職してから、実家の工場で働き始めた。両親は最初は驚いていたが、事情を話すと、快く俺を迎えてくれた。
「ああ、だって覚えなくちゃいけないことがたくさんあって、今日は早く起きたんだ」
「そうか。まあ、焦るなよ」
俺は父から工場の仕事を教えてもらっている。小さい頃から工場の仕事は見慣れていたはずだが、やると見るとではやはり全く違うので、俺は朝から晩まで工場で過ごし、仕事を覚えるようにしていた。
「新一、まだ始めたばかりなんだから、無理しないでね」
両親は心配してくれたが、俺は早く工場の仕事を身につけたかった。両親の工場は古く、もう廃業にしようかと考えていたそうだ。
「新一、こんな古い工場で働いてくれる人もなかなかいなくてね。でも、お前が一緒に働いてくれるなら、機材も新しくしてもう少しやっていくよ」
「そうだったんだ。こんな俺でも役に立つならよかったよ」
俺は工場を見渡した。思えば、俺が子供の頃から何も変わっていないし、機材も古くなるわけだ。両親も喜んでくれているし、俺も新しい機材でいい商品を作りたい。よし、工場を新しくしよう。俺は決心した。
工場で働き始めて一ヶ月ほど経った。その日、朝からスマホが鳴り響いていた。画面を見ると、五藤部長からの着信だった。正直、五藤部長の声を聞くのも嫌だったが、ある考えがあり、電話に出た。
「ちょっと、吉田君。忘れもしない」
五藤部長の甲高い声が聞こえた。
「何でしょうか?」
俺はできるだけ感情を抑え、冷静に話すように務めた。
「うちの会社で販売予定の、例の特許商品だけど、ライバル会社から同じ商品が発売されているわよ。一体どういうこと?」
五藤部長はすごい剣幕だ。
「ああ、あなたが俺から横取りした商品のことですよね」
「人聞きが悪いわね。私が引き継いであげたんでしょ」
よくも俺にこんなことが言えたものだ。俺は忘れかけていた怒りがふつふつと湧いてきて、スマホを持つ手に力が入った。
「ふーん。それはそれは。けど、残念でしたね。あれは俺の特許商品ですから、ライバル会社に五億で買ってもらったんですよ。ははは」
俺はもう気持ちを抑えるのをやめて、高笑いをした。
「は、うちの特許商品を買手に……」
「うちの? 違いますよ。俺の特許です」
「え、それってどういうことよ」
「特許の名義は、俺になっているんですよ。だから、あれは俺の商品だって言ったでしょ。忘れたんですか? だから、俺の許可なしでは発売できませんよ」
「なんで、あなたの名前で……うちの会社の特許じゃないの?」
五藤部長の悲鳴のような叫び声が、電話の向こうから聞こえてきた。
あの新素材には、俺が大学時代から研究していた技術を応用したものが使われている。技術が確立したのは就職後、俺が入社して三年ほど経った頃だったと思う。だが、その時、以前の部長が特許を俺個人の名義での登録を強く進めてくれた。
「吉田君、これはとてつもない技術だ。通常、会社で研究したものは会社名義で特許を登録する。だが、これは君が大学時代から研究してきたものだ。君の名前で登録しておきなさい」
「ああ、分かりました」
俺は当時まだ若くて何も知らなかったので、言われるがまま部長の言う通りに自分の名前で登録をしただけだった。しかし、それがとんでもないことだったのだ。まさか今回、こんな金額になろうとは。五藤部長は特許は会社名義だと勘違いして、まさか俺個人のものとは知らなかったのだろう。実は俺も特許を登録後、名義について深く考えることもなく忘れていたのだが、あの時、五藤部長の騒ぎで、俺個人の名義だったことを思い出したのだ。
「ちょっと、吉田君。あなた、会社に戻って、また新しい特許商品を作りなさい」
さっきから、五藤部長は電話の向こうで勝手なことばかり言っている。
「よく言いますね。お断りです。俺なんか、もう用済みなんでしょ? 首だって言ったのは、どこの誰でしたっけ?」
あの商品を五億で売却したことも伝えたし、もう十分だろう。
「もう悪かったわ。謝るから。ちょっと、聞いてるの?」
俺は叫び続ける五藤部長の電話を切った。もう五藤部長の電話には出ないつもりだ。会社は新商品を発売できず、ご破産になるだろうが、もう知ったことではない。
その後、俺の技術を使った新素材はスポーツウェアだけでなく、若者向けの医療メーカーにも受け入れられ、大ヒットした。一部は実家の工場で商品を作っていたが、生産が間に合わないので、新しい工場を建てることにもなった。
その後、元同僚から連絡があり、あの電話の後の話を教えてもらった。五藤部長は俺の開発商品を奪ったことが明るみになり、部長職は退任、社員に降格になったそうだ。社長も、身内を好き勝手にさせていたことにより、ヒット商品をライバル会社に奪われ、会社に損害を与えたことで株主たちを怒らせてしまい、退任に追い込まれたと聞いた。そして、会社の業績もかなり落ち込んでしまったようだ。同僚もライバル社への転職が決まったと話していたから、あの会社はもうダメなのかもしれない。
あの時、五藤部長に商品を奪われなかったら、俺はまだあの会社で働いていたのだろうか。そう考えると、なんだか不思議な気がした。あの会社を辞めた時は心細いものがあったが、思い切って退職して本当に良かったと思う。そのおかげで特許商品も飛ぶように売れて、両親の工場も規模を拡大して、新しい機材も買うことができた。社員も増えて、俺も今では工場長だ。
「父さん、今度、母さんと海外旅行にでも行ってきたら? 昔から働き詰めで、父さんと母さんはずっと旅行なんて行っていないはずだ」
「ああ、そうだな。お前も一緒に行こう」
父さんはニコニコして嬉しそうだ。
「いくら社員が増えたからって、俺まで工場を空けるわけにはいかないよ」
「少しなら大丈夫だよ。いいから、父さんと母さんで行ってきなよ。俺は新商品がもう少しでできそうなんだ」
俺は実家の工場で働き始めてからも、会社にいた頃と変わらず、素材の研究を進めていた。これからも、新しいものを作っていきたい。新しいピカピカの工場の中を見て回りながら、俺はそんなことを考えていた。
