俺の名札だけ、これだった。直が取り出したのは、入社式の受付で渡されたはずの名札だった。だがそこに書かれていたのは、直の名前ではない。「中卒」——そう書かれていた。受付をしていた人事課長の佐枝草にこの名札を渡され、追い返されたらしい。入社初日から嫌がらせをしてきたり、学歴で人を見下すような者が役職についている会社に、大切な孫を入れるわけにはいかない。俺はそう言うと、家の電話からとある人物に電話をかけた。「社長、百億の契約キャンセルで」それだけ言うと、俺は相手の返事を聞かずに電話を切った。この後、佐枝草は自分の言動が招いた事態に絶望することになる。
俺の名前は木村。年は六十二で、庭いじりが趣味だ。暇さえあれば庭を手入れし、季節ごとに違った花が咲く庭は近所でも評判で、俺が庭にいるとよく声をかけられる。そんな俺は現在、妻の襟里と孫の直との三人で暮らしている。直の母親は直が幼い頃に病気で亡くなっており、最近まで直は父親である俺の息子と二人で暮らしていた。母親の入院費や家と車のローンなどもあったため、二人は苦しい生活を送っていたらしく、直は生活を支えるために中卒で働き出した。俺と襟里は何度も援助を申し出たのだが、息子も直も自分たちで何とかしたいと言い張り、金を受け取ってはくれなかった。
だから俺たちが二人にしてやれたことと言えば、年末年始の休みなどに我が家でのんびり過ごさせるくらいのこと。大切な息子や孫にもっと色々してやりたいと思っていたが、二人が望んでいないことをするつもりはなかった。それに、生活が苦しくても二人はそんなことを微塵も感じさせないほど、俺たちに会う時はいつも楽しそうにしていた。きっと二人は、今の二人で支え合う生活に満足しているのだろう。ならば俺たちが無駄に口を出す必要はない。年に数回、家族揃って過ごす時間を大切にして、俺たちは二人を応援し、見守ることにしたのだ。
しかし、そんな俺たちと直との関係に、変化が訪れた。
「おじいちゃんとおばあちゃんにお願いがあるんだけど」
その日、俺と襟里が夕食を終え、テレビを見ながらのんびり過ごしていると、直から電話がかかってきた。電話越しの直の声は、少し不安げな様子だった。直からお願いをされるのは、まだ直が幼い頃に「おもちゃ買って」とねだった時以来ではなかろうか。
「どうした? 俺たちにできることであれば、遠慮なく言ってくれていいんだぞ」
「ありがとう。実は僕、やっと正社員で就職が決まったんだ」
「そうなのか。それはおめでとう。諦めずに就職活動を続けてよかったな」
直は中卒の後、バイトを掛け持ちしながら働きつつ、時間を作って勉強に励み、色々な資格を取得していた。十八歳になった時から本格的に就職活動を始めたが、最終学歴が中卒ということが足を引っ張り、なかなか就職先が決まらなかった。それでも何度落ちても諦めずに挑戦を続け、ようやく決まったのだから、嬉しくないわけがない。
「それでね、就職先がおじいちゃんたちの家のそばなんだ。今の家から通うには、少し距離があるんだよ」
「そうだな。ここまでだと車でも片道二時間以上はかかるだろうから、往復四時間はきついな。ラッシュの時間はもっとかかるだろうし」
「一人暮らしも考えたんだけど、今まだお金に余裕もないし、父さんに仕送りを頼むのも悪いと思って。おじいちゃんたちさえよかったら、少しの間泊めてもらえないかな。早くお金貯めて一人暮らしするから、それまでだけでいいから」
「そんなの、いいに決まってるじゃないか。むしろお前と過ごす時間ができて、嬉しいくらいだよ」
「本当にありがとう」
俺の返事を聞いた直は、ほっとしたように言うと「詳細はまた後日」と言って電話を切った。俺が直の話を襟里に伝えると、襟里も大喜びしていた。俺も襟里も、大切な孫である直と一緒に暮らせる日が楽しみで仕方なかった。
こうして直は我が家に引っ越してきて、三人での暮らしが始まった。
そして今日は、直の会社の入社式。直は息子と一緒に選んだ一着のスーツを身にまとい、緊張気味に朝食を食べていた。中卒の後、たくさん苦労して、やっと正社員になることができたのだ。緊張するのも当然だろう。直の入社する会社はシステム関連の会社で、直は知識と資格を持っている。きっと戦力として活躍できるに違いないと、親バカならぬ孫バカかもしれないが、俺はそう確信していた。
「せっかくの入社式なんだから、楽しんできなさい」
「そ、そうだよね。今日は入社式だけだし。仲良くできる人が見つかるといいわね」
「うん。じゃあ行ってきます」
まだ硬さはあったが、直は笑顔を浮かべて俺たちに手を振ると、家を出ていった。俺はリビングに戻り、パソコンを開いて仕事の確認をし、襟里は洗濯などの家事をこなし始めた。俺はまだ現役で仕事をしているが、ほとんど出勤することはなく、在宅で仕事をすることが多い。その方が周りも気を使わなくていいだろうし、俺も年を取って無理が効かなくなってきているから、今の体制がちょうどいいと思っている。
何件か仕事の電話をかけ終わり、ふと時計を見上げると、ちょうど直の入社式の開始時間だった。直の緊張は少しは和らいだだろうか。親しくなれそうな同期が見つかっていたらいいのだが。俺がそう思いながらキッチンでコーヒーを入れ、テーブルに戻ると、玄関のドアが開く音が聞こえてきた。俺は首をかしげた。襟里は二階で洗濯物を干しているし、この家の鍵を持っているのは俺と襟里と直、それから遠くに住む息子だけ。息子が来る予定もなかった。
俺が不思議に思いながら玄関に行くと、そこにいたのはなんと直だった。
「直? 入社式はどうしたんだ? まだ始まったばかりだろう」
時計を見上げると、開始時間からまだ十分しか経っていない。玄関に立ち尽くしたままの直に声をかけたが、直は俯いたまま唇を噛みしめているだけで、答えようとしなかった。尋常でない様子の直に、俺はひとまず中に入るよう促し、二人でリビングに入った。そこにちょうど襟里も降りてきたので、三人でテーブルを囲んで座る。
「一体どうしたの? 入社式には参加したの?」
心配そうに襟里が聞くと、直はおずおずとポケットからある物を取り出し、テーブルに置いた。
「僕の名札だけ、これだった」
直が取り出したのは、どうやら入社式の受付で配られた名札のようだった。しかしそこに書かれていたのは直の名前ではなく、なんと「中卒」と書かれていたのだ。俺はどういうことかと困惑し、直に詳しく話すよう促した。
直によると、入社式の受付で人事部の社員たちが受付業務をしていたらしい。直が自分の名前を言うと、受付をしていた若い男性社員が年配の男性社員を呼んできたそうだ。その男性の名札には、人事課長という役職と、佐枝草郎という名前が書かれていたという。その課長はニヤニヤしながら「中卒」と書かれた名札を直に手渡し、困惑気味の直の顔を見ると笑みを深めながら、「中卒は入社負荷」と言い放ってきたのだそうだ。直は面食らいつつも、ちゃんと試験を受けて合格したことを必死に伝えたのだが、課長は取り合ってくれず、「仕事の邪魔だから早く帰れ」と言ってきたらしい。周りには課長と直のやり取りを聞いた新入社員たちが野次馬のように集まってきてしまい、耐えられなくなった直は、仕方なく入社式に出ずに帰ってきたのだとか。
直の話を聞いた俺は、課長のあまりにも失礼な態度に頭に来てしまった。確かに直は中卒だが、努力して実力で試験に合格したのだ。それを晒し物にして追い返すとは、一体どういう神経をしているのだろうか。
「学歴のことを言われるのは覚悟していたけど、まさかこんなことをされるとは思ってもみなくて」
「直は何も悪くない。悪いのはその佐枝草とかいう課長だ。直のことを何も知らないのに、学歴だけで判断して嫌がらせをしてくるなんてありえない」
「直はどうしたいの? あそこの会社で働きたい?」
「せっかく合格したから働きたいけど、これからもまた嫌がらせをされるのかと思うと…。それに、僕は僕なりに今まで努力してきたつもりで、ちゃんと合格したのに門前払いされたことが悔しくて」
直が涙ぐみながら言うのを聞いた俺は、テーブルをバンと叩いて立ち上がり、驚いたように俺を見る二人に言った。
「入社早々に嫌がらせをしてきたり、学歴で人を見下すような奴が役職についている会社に、大切な孫を入れるわけにはいかない」
「おじいちゃん」
俺はそう言うと、家の電話からとある人物に電話をかけた。
「社長、百億の契約キャンセルで」
それだけ言うと、俺は相手の返事を聞かずに電話を切った。
「おじいちゃん、今の電話は?」
困惑した表情を浮かべる直の肩に、襟里が優しく手を乗せ、微笑んだ。
「おじいちゃんに任せておいて大丈夫よ。悪いようにはしないから」
「でも…」
「すぐに分かるから、今はおじいちゃんを信じてくれ」
「ひとまず直は気が張ってただろうし、お茶でも飲んでゆっくり休みなさい」
「分かった」
直は心配な顔をしつつも、俺の言葉を信じてくれたのか、襟里の入れたお茶を飲むと自室に戻っていったのだった。
そして次の日、俺と直がリビングで過ごしていると、玄関のチャイムが鳴った。キッチンにいた襟里が玄関に向かう。襟里と一緒に入ってきたのは、額に脂汗を浮かべた男性と、昨日直に「中卒」と書かれた札を渡してきた佐枝草だった。佐枝草の顔色も、どことなく青白くなっているようだ。佐枝草の顔を見た直は驚き、俺の顔を見た。俺は「大丈夫だ」というように頷いてみせる。そしてテーブルの対面に二人に座ってもらい、俺は直と並んで座った。襟里が人数分のお茶を配り終わったところで、佐枝草ではない方の男性が俺に向かっておずおずと口を開いた。
「この度はうちの佐枝草が御孫さんに大変無礼な振る舞いをしたようで、申し訳ございませんでした」
「謝られたところで、私の考えは変わりません。昨日電話でお伝えしたように、百億の契約はキャンセルさせていただきます。それから、そちらの課長のような人がいる会社を信用することはできないので、他の全ての契約も破棄させていただきたいと思います」
「そ、それだけは。Kシステムさんから手を引かれたら、我が社は立ち行かなくなってしまいます。最悪、倒産も…」
「ほら、佐枝草君もちゃんと謝罪しなさい」
「どうもすみませんでした。まさかこの中卒の木村君のおじい様がKシステムの会長とは知らなかったもので」
頭を下げる二人を見た直は、驚いたように目を見開いて俺の方を見てきた。実は俺は、Kシステムという会社の会長を務めている。このKシステムは、システムやIT関連企業としては業界で一二を争う大企業で、直が就職するはずだった鎖下システムエンジニアリングとも以前から取引をしていた。佐枝草と一緒にやってきたのは、鎖下システムエンジニアリングの社長だった。
これは、直の就職が決まった時、鎖下システムエンジニアリングとKシステムの間に以前から取引があったことを知り、少しでも今後の直のためになればと、新しく百億の契約を結ぶことに決めたからだ。だが今回の一件で、鎖下システムエンジニアリングが信用の置けない会社だということが分かった。佐枝草一人の問題なのかもしれないが、直から聞いた受付での出来事を考えると、誰も佐枝草の嫌がらせを止めようとはしなかったのだろう。そうなれば、もうこれは会社全体の風潮だと思わざるを得ない。だから俺は、百億の契約キャンセルだけでなく、取引全てを破棄することに決めたのだ。
「私が佐枝草の身内だということは関係ない。中卒だからという理由だけで嫌がらせをしたり、合格したのに入社負荷だと言って追い返すようなことは、あってはならないと思いますが」
「それはちょっとした冗談と言いますか、根性試しと言いますか」
「よし、佐枝草君は嫌がらせで酷い名札を渡しただけでなく、そんなことまで言ったのか。君に人事の決定権はないだろう」
「だ、だって社長。今時中卒ですよ。そんな奴が入ってきたら、会社の恥じゃないですか?」
「木村君は他の新入社員たちと同じ試験を受けて、ちゃんと合格したんだぞ」
「それにしたって、帰れと言われて帰るような根性なしは、入社したってどうせすぐに根を上げて辞めちまいますよ」
「君が木村君の話に一切聞く耳を持たなかったと聞いているが、聞く気のない奴にいくら言っても無駄だろう。佐枝草君、君はちゃんと自分がしたことの重大さが分かっているのか? 君のしたことは、立派なパワハなんだぞ」
「そ、そんな大げさな」
佐枝草はきっと、自分のしたことを反省などしていないのだろう。ただ社長に言われて、仕方なくついてきたというのが見え見えだった。そんな奴の謝罪なんて、直だって聞きたくはないだろう。
「木村会長、どうか考え直していただけませんか? 私どもでできることは、させていただきます。もちろん御孫さんの入社の取り消しもしません」
「少し孫と話をしてもいいでしょうか?」
俺はそう言って席を立ち、直を連れて一旦リビングを出た。
「おじいちゃんがあのKシステムの会長だなんて、知らなかったよ。父さんも教えてくれなかったし」
「隠してたつもりはないんだ。会社は元々おじいちゃんのお父さんが作って、俺が継いだんだが、直の父さんは接客が好きだったから会社は継がなかったんだよ」
「そうだったんだ」
「直はこれからどうしたい? 鎖下システムエンジニアリングで、これから働きたいと思うか?」
「それはやっぱり、佐枝草さんがいる会社では働きたくないかな。入社で悪目立ちしちゃったから、行きにくいし」
「だったら、おじいちゃんの会社に来ないか?」
「いいの?」
「もちろんさ。俺は直が真面目で努力家なことも知っているし、いくつも資格を持ってるしな。来てもらったら嬉しいよ」
直は少しの間、手を当てて考えていたが、俺の提案を受け入れることに決めた。そこで俺は直とリビングに戻り、社長と佐枝草に向かって言い放った。
「孫とも話したが、孫はあなたの会社には入りたくないそうだ。だから入社は取り消してくれて構わない」
「ただ…」
「やはり俺は、佐枝草さんのような人がいるあなたの会社を信用できない。電源通り、百億の契約をキャンセルし、他の取引も破棄させてもらいます」
「そ、そうですか…。ちなみに、佐枝草がいなければ考え直していただけますか?」
「ちょ、ちょっと社長!」
「そうですね。佐枝草さんに対してしっかりと調査をして、処罰してもらえるのであれば、考え直しても構わないです」
「分かりました。それではすぐに対処して、ご連絡いたします」
「ま、待ってくださいよ、社長! 今まで俺は会社に貢献してきましたよね? それをこんなにあっさり切り捨てるんですか?」
「Kシステムさんに手を引かれたら、会社は倒産確定なんだ。それに、君のパワハ疑惑については前々から聞いていたから、いい機会だ」
「そんな…」
社長がばっさりと切り捨てると、佐枝草は絶望の表情を浮かべ、がっくりと項垂れた。その佐枝草を社長が無理やり立たせると、俺たちに頭を下げて家から出ていったのだった。
その後、俺は社長からの連絡で、佐枝草の処遇について知らされた。佐枝草のパワハについて社内調査が行われ、佐枝草が他の社員にも嫌がらせを繰り返していたことが発覚したそうだ。学歴で見下し無能扱いしたり、奴隷のように扱ったり、反抗的な態度を取れば首をちらつかせて脅したりしていたらしい。周りの社員たちは、自分が標的になりたくない、首になりたくないと思って、佐枝草に歯向かうことはしてこなかったのだという。今回の責任を取らされ、佐枝草は平社員へと格下げになり、子会社の工場勤務になったらしい。今までデスクワークしかしたことがない佐枝草は、自分よりも若く学歴も低い社員たちから毎日「使えない」と怒られ、半泣きになりながら働いているのだとか。
直はKシステムの就職試験に無事合格し、俺の孫であることを隠して入社した。会長の孫だということで周りの社員から気を使われたくないという、直の意見を尊重したのだ。入社して間もなく、俺が様子を見るために直の部署を覗くと、直は周りの社員たちと笑顔で話しながら仕事をこなしていて、俺は安心した。家でも直は楽しそうに仕事の話を聞かせてくれていて、直が俺の会社に来てくれて本当に良かったと思う。直の実力なら、きっとすぐにでも会社の戦力になってくれることだろう。
俺は襟里と直と笑顔で夕食を囲みながら、こんな時間がずっと続くように、俺もまだまだ頑張らないといけないなと改めて思った。これからも大変なことは色々あると思うが、家族一丸となって乗り越えていこうと思う。
