豪雨が車の窓を叩きつける中、建設現場の仮設事務所にずぶ濡れで駆け込んだ。息を切らせて立つ俺と部下を、川下は腕を組んだまま鼻で笑った。
「遅い」
第一声がそれだった。
「遅刻して申し訳ございません」
遅刻したのは事実だ。俺は素直に頭を下げた。部下も一瞬何か言いたげな顔をしたが、俺に倣って頭を下げた。
川下は椅子に座ったまま足を組む。
「言い訳は聞きたくない。俺は言ったはずだ。1分でも遅れたら承知しないとな」
態度は不満げなのに、声だけはどこか楽しげだ。俺を攻撃できる理由ができて嬉しいのだろう。俺は頭を下げたまま眉を潜めた。天気を見越して早めに出発もしたが、結果として遅刻したのは事実。言いたいことは色々あるが、ここはこらえるしかない。
「もうお前らには頼まない」
川下がパンと音を立てて両手を合わせた。
「遅刻した時点でもう時間切れです。今後は格安業者に依頼することにしたから。たった今を持って契約終了でな」
俺の後ろで部下が驚きの声を漏らす。川下の発言が急すぎて、俺も理解が追いつかない。こいつは一体何を言っているんだ。
「それは一体どういう判断なのかお聞きしても?」
ようやく言葉を絞り出す。俺のそんな様子がショックを受けているように見えたのだろう。川下は気分良さそうに目を細めた。
「別に時間も守れない下受けなんている意味ないだろ」
まるで世間話でもするように軽く言う。川下と再会してからずっと感じていたことだが、川下と俺たちでは考え方が違う。俺たちにとっては大切な仕事だが、川下にとっては俺への長年の憂さ晴らしの時間に過ぎないのだろう。
俺は不安そうな部下に視線をやり、それから再び川下を見据えた。
「その言葉、本気なのですね。私個人への嫌がらせとは別だと考えていいのですね」
俺は確認するようにゆっくりとはっきり問いかける。
「はあ? 脅しだとでも思ってんのか。というか嫌がらせって何だよ。人聞きが悪い。俺は元受けとして正当な……」
「そうですか」
川下はまだ喋っていたが、俺は言葉を遮った。
「では今日の作業もその業者にお任せするということでよろしいですね」
「は? それは困る。それくらいはやっていけよな」
川下の言葉に俺はやれやれと首を横に振る。
「たった今、契約終了と言ったのはあなたです。君も聞いていたね」
部下に話を振ると、部下も強く頷いた。
「はっきり聞きました」
川下の顔色が変わったのが見えた。さっきまで色々と言っていたが、やはり俺に対しての嫌がらせ行為の延長だったのだろう。流れが変わった。俺はそう確信して一礼した。
「今までお世話になりました。社長には部下と共にありのままを説明させていただきます」
部下も続けて一礼し、俺たちは事務所の出口へ向かう。
「おい、ちょっと待て」
川下の呼び止める声を無視し、ドアの取っ手をひねって開けると、扉の外にいた人物が驚きの声を上げてよろけた。
「ああ、すみません」
俺たちの話を聞いていたのだろう。立っていた人物は作業着を着ている。記憶が確かなら、この人は川下の部下の男性社員だ。男性は罰が悪そうな顔をしている。俺たちは「失礼します」と一声かけ、その横を通り過ぎていった。
容赦なく降り続く雨の中、俺たちは駐車場へ戻っていく。後ろから「野口、おい待て。ふざけるな」と川下の大きな声が聞こえてきたが、俺たちは一切振り返らなかった。
翌朝、出社してすぐにスマホが振動した。画面には川下の名前が表示されている。俺は通知を無視して業務を続けた。
俺と部下は昨日、会社に戻ってすぐに一部始終を社長に報告した。念のため録音していた通話も聞いてもらうと、社長は眉間に皺を寄せながら最後まで黙って聞いていた。俺一人の報告なら俄かに信じがたい話だっただろうが、部下の証言と録音もあり、社長は驚きつつも信じてくれたのだ。
「分かった。私も社長として先方にどういうことか抗議する」
そう言ってくれたのだが、その矢先だった。
「お話中失礼します。野口さん、川下さんという方がいらしておりますが」
川下の電話から1時間ほど経過した頃、女性社員にそう内線を受ける。俺はちょうど大会議室でうちの社長と一緒に来客の対応をしている最中だった。
「対応することはできないと伝えてくれるかな?」
俺がそう言った直後だ。廊下から「お待ちください」という声が聞こえた。何だろうと思った瞬間、音を立てて会議室の扉が開く。
「戻ってきてくれ。現場が止まっているんだ。頼む」
俺とうちの社長。そして客人は目を丸くして固まった。入ってきたのは川下だったのだ。
まさか強行突破してくるとは。俺が呆れていると、川下の表情が凍りつく。視線は俺ではなく、俺の対面の客人に向けられている。
「川下君にはひとまず待機を命じておいたはずだが」
「げ、社長……」
川下が震えた声で口にした。そう、俺が対応していたのは川下の会社の社長、高橋社長だったのだ。昨日の間にうちの社長が川下の件を報告しており、高橋社長は今朝一番で謝罪に来ていたのだ。
「あなたが川下さんですか? 昨日、野口君から報告を聞いた時には信じられなかったが、このような振る舞いをする人なら、信じられない行動を取っても納得です」
うちの社長が冷たい目で川下を睨み、高橋社長が頭を下げる。
「社長として恥ずかしい限りです。申し訳ございません」
川下は何も言うことができずに立ち尽くすばかりだ。
「昨日私たちが帰ってから、結局電源周りのトラブルは解消できなかったようですね」
俺が口を開くと、川下が反応する。
「それはだって、お前らが無責任に帰るから……」
「無責任? 『契約終了』と言ったのはあなたです。君の行動こそがよっぽど無責任だ」
川下の言い分を高橋社長が制した。俺たちが帰った後の顛末は、すでに高橋社長から聞いていた。高橋社長によると、川下はあの場では業者を確保してすらいなかったらしい。はったりで契約終了を口にした後、慌てて格安業者に連絡したものの、台風の影響もあっていきなりの対応は無理だと断られてしまったという。自分で何とかできるわけもなく、会社に報告することになったそうだ。結果的に今日からの作業が完全停止となってしまったらしい。
しかもその報告も、川下の意思ではない。
「昨夜のうちに当社の社員から詳細な報告がありましてね」
高橋社長の言葉に俺ははっとした。そういえば、帰ろうとした時にすれ違った人物がいる。あの人か。あの一瞬の立ち聞きが、こんな形で事態を動かしたのか。胸の奥がすっと軽くなるのを感じた。
「その様子だと、謝罪に来たというわけではなさそうですね。でなければ『開場一番に戻って来い』などと言えるわけもない」
うちの社長の指摘に、川下の方がびくっと震える。
「そもそも現場監督の君が勝手に業者を変える権限などない。他の者の報告によると、君は野口さんに遺恨を挟んで嫌がらせ行為をしていたそうだな」
高橋社長は言い訳を許さない。鋭い眼光で川下を黙らせる。そして改めて俺と社長に向き直り、深く頭を下げた。
「川下に現場監督を任せていた私に責任があります。本当に申し訳ございません」
それから高橋社長は続けた。
「録音まで残しておられたと伺いました。あの悪天候の中、冷静に状況を判断し、きちんと証拠まで残しておく。あなた方の対応は本当にプロフェッショナルだった」
川下が来る前から対応していたから分かるのだが、高橋社長は誠実な人でこちらの話をきちんと聞いてくれた。そんな人だからこそ、川下のせいで頭を下げる羽目になったことに居た堪れなさを感じる。自分の会社の社長が俺たちに頭を下げる様を目の当たりにして、さすがに感じるものがあったのだろう。
「も、申し訳ございませんでした」
川下は慌てたように俺たちに謝罪をし始めた。顔を合わせるたびに俺を見下していた男が自滅して頭を下げている。正直、胸がすく思いだった。
「時間切れだったのは、あなたのようですね」
「は?」
言葉に川下が顔を上げる。
「やはり謝罪するふりだったのか」
俺は苦笑する。
「あなたが態度を改めて仕事に誠実に向き合うタイミングはたくさんあった。なのにその機会を無駄にした。そのことを言っているんです」
二人の社長が俺の言葉にうんうんと頷く。
「少しでも遺恨を抑え、対等なビジネスの関係を持とうとしてくれたら、このような事態にはならなかったはずです」
川下は言い返すこともできず、ただ俯くのみだった。
その後、高橋社長とうちの社長の間で話し合いが行われた。高橋社長からの正式な謝罪と相応の保証を受けることになったそうだ。うちの社長は淡々と、しかし筋の通った形でそれらを受け取った。
話し合いの際に高橋社長が言っていたことだが、川下は地方の小さな営業所へ移動になったらしい。本人にはやる気がなく、無断欠勤も目立っているのだとか。業界は狭いため、そういう話はどこからともなく入ってくる。高橋社長は罪滅ぼしのつもりなのか、話し合いに決着がついてからもうちにいくつかの仕事を紹介してくれた。川下のことさえなければ、今もいい付き合いができただろう。それを考えると本当に残念だ。
俺はと言うと、今日も相変わらず現場に出ている。人の中で生きる限り、時にマイナスの感情も抱くだろう。だけどそれをいつまでも燻らせていても前に進めない。俺は少なくともそう思っている。だからそういう感情を抱くことがあっても、自分の中で折り合いをつけながら、自分なりに前を向いて歩いていこうと思う。
