夕日が沈む海が見えるテラス席で、彼が差し出した小さな箱を開けた瞬間、私は言葉を失った。中には綺麗にラッピングされた新品の腕時計。でも私の頭の中は、父が二十歳の誕生日に買ってくれた、決して高くないけれど長年肌に馴染んだあの時計でいっぱいだった。すると彼は得意げに笑いながら言った。「いつもつけてるその安い腕時計、気分悪いんだよね。いい年してそんな安物つけてさ」。その言葉に、悲しさより先に冷たい怒…

夕日が沈む海が見えるテラス席で、彼が差し出した小さな箱を開けた瞬間、私は言葉を失った。中には綺麗にラッピングされた新品の腕時計。でも私の頭の中は、父が二十歳の誕生日に買ってくれた、決して高くないけれど長年肌に馴染んだあの時計でいっぱいだった。すると彼は得意げに笑いながら言った。「いつもつけてるその安い腕時計、気分悪いんだよね。いい年してそんな安物つけてさ」。その言葉に、悲しさより先に冷たい怒...

海の見える高台に建つレストランは、淡いオレンジ色の灯りに包まれていた。テラス席からは夕日が沈みかけの海が見えて、この日のために彼が選んだのだと思うと胸が温かくなった。誕生日おめでとう、そう言って差し出された箱を開けると、そこには綺麗にラッピングされた腕時計があった。私は一瞬、言葉を失った。心臓が嫌な音を立てて、顔が強張るのが分かる。隣に座っているたけしは、そんな私の様子に気づかずに得意げな顔をしている。私は、今つけている時計をちらりと見た。父が私の二十歳の誕生日に買ってくれた、決して高くはないけれど、長年私の肌に馴染んだあの時計だ。今は、ドレスに合わせるために外して鞄の中にしまってあった。その父からの大切な時計と、今からプレゼントされた新品の時計を頭の中で見比べてしまう。

「ありがとう、たけし。嬉しい」

無理やり笑顔を作ってお礼を言うと、彼は「今度からそれつけてよ」と満足そうに笑った。

「いつもつけてるその安い腕時計、気分悪いんだよね。いくらお父さんにもらったからって、いい年してそんな安物つけてさ。お父さんももっといいものを送ればいいのになあ」

その言葉に、私は固まった。この腕時計のことは、ちゃんと話したはずだ。父が私に買ってくれた、大切な思い出の品だって。それなのに、彼はそれを「安物」と切り捨てた。私の言葉はきっと、彼の耳には聞こえていなかった。悲しさよりも先に、温度の低い怒りが心の底から湧き上がるのを感じた。たけしは、気まずくなって黙り込んだ私に構わず話を続ける。

「気に入ってくれたならよかったよ。でさ、お揃いのやつにしようと思ったんだけど、俺が持ってるやつと同じモデルでさ」

「そう……なんだ」

「俺の彼女が貧乏に見られたら、俺が恥ずかしいからね」

軽い冗談の口調で言う彼に、私は何も言い返せなかった。彼の家がお金持ちだということは知っている。お父さんは大企業に務めているらしく、たけしは気が付けばいつも「金持ち」を基準に物事を語った。そして、時々こうやって、無意識に人を傷つける言葉を平気で口にする。私のことを思って言っているのかもしれない。たけしなりに気遣ってくれたのかもしれない。でも、それは優しさとは全く違う何かだと、この時は思えた。私はため息を一つついて、ぎこちなく「ありがとう」とだけ言った。彼に持つ日の出会いを思い出していた。あの日、海で出会った年下の女の子が、もうすぐ結婚するなんて。時が流れるのは早いものだ。

「で、お相手はどんな人なの?」

コーヒーカップに口をつけながら、何気なく聞いた。ゆりははにかんだように笑って、誰だと思う? と言った。そして、私の目を見て、意外な名前を出した。言っている意味が分からなくて、一瞬、頭が真っ白になった。

「ごめん、今、何て言った?」

「だから、たけしくんだよ。まい子ちゃんの元カレ」

冗談のつもりじゃない。たけしって、あのたけし? 私の、元カレ? ここで、ゆりの口から出た人物の名前が、まさか自分の元彼であるなんて、夢でも見ているんじゃないかと思った。頭の中が混乱する。あのたけしと、ゆりが? そんなはずはない。たけしは、この前別れたばかりじゃないか。

「ちょっと待って、いつから付き合ってたの? ってゆうか、いつそうなったの!」

「だって、最近なんだよ。まい子ちゃんがたけしくんと別れたって聞いてさ。だから、ごめん! 本当は報告しようと思ったんだけど、どうしてもって言い出せなくて」

うつむきながらも、幸せそうな顔で語るゆり。彼女は、これでもかというくらい嬉しそうに、たけしとの出会いを話し始めた。以前、私とたけしが付き合っている時、私はよく彼の話をゆりにしていた。それを聞いていたたけしが、ゆりのことを気に入ったらしい。私がプリクラに写っているゆりを見せた時、たけしが「この子、誰?」と聞いてきたのを思い出す。まさか、そんなことが起きていたなんて。でも、私は知っている。たけしは、そういう人だ。頭の中に「だからか」という言葉が浮かんだ。

「もしもし、私、今から飲みに行くんだけど、たけしくんもどう?」

昔から口が上手くて、姉御肌で、責任感が強い。あの頃の私は、そんな女の子だった。飲み会の席で、彼は会社の愚痴を溢しながら、色んな女の子を口説いていた。私もその一人なんだな、ってことは、薄々気づいていた。それでも、彼女じゃない女の子に壁を作ってるだけじゃなくて、目の前の現実から目を逸らして生きてきた。何も言い返せない。何も聞けない。ただ二人の話を聞いて、相づちを打つことしかできなかった。ゆりは、キラキラした目で言った。

「まい子ちゃん、結婚式来てくれる? まい子ちゃんに見てもらいたいんだ」

「え? あ、うん。行くよ。ありがとう」

「本当? やったー! あ、そうだ。ドレス、一緒に見に行ってくれない? 今日、これから行くんだけど、ちょっと見て欲しいんだ」

こうして、私はゆりの結婚式のためのドレス選びに付き合うことになった。ゆりは私とは違い、本当に似合うものが分かっている。それでも、もう心はここにはなかった。このまま、自分はどうなってしまうんだろう。少しだけ不安になった。数日後、ゆりと一緒にショッピングモールに来ていた。何軒かお店を回って、気に入ったドレスがあったらしく、試着室に入った。待っている間、私はショーウィンドウに飾ってあるハンドバッグを見つめていた。何も考えずに、ただ綺麗だな、と思って見ていると、不意に後ろから声をかけられた。

「やあ、マイ子じゃん。久しぶり」

声のした方に振り返ると、そこには、信じられない人物が立っていた。あの日、別れを言い渡した、たけしだ。たまたま、ここを通りかかったらしい。隣には、知らない女の子がいて、きっと今の彼女なんだろう。私を見るなり、ちょっと太ったんじゃない? と笑った。

「相変わらず、貧乏臭い格好してるね。今日は、そっちの方がお似合いだよ」

お揃いで買ったはずの時計は、私の手首にはなかった。あの日、あれから一度もつけていない。私が何も言わずにいると、たけしは「まあ、どうでもいいけどさ」と、隣の女の子の肩を抱き寄せた。そして「気持ち悪いんだよね、アンタみたいな硬そうな女は」と笑った。あの日、私が好きだと言った、その口で。心のどこかで、まだ諦めがついていない自分がいることだけが、情けなかった。少し経って、試着室のカーテンが開く。

「お待たせ、マイ子ちゃん。どうかな、このドレス」

ゆりが着ているのは、綺麗なベビーピンクのドレスだった。裾には繊細なレースが施されていて、ふんわりと広がっている。彼女の柔らかい雰囲気によく合っていた。私を気遣ってか、パートナーへの連絡よりも、優しく話し掛けてくれる。

「すごく、綺麗だよ。絶対、みんな見とれるよ」

「本当? 私、ドレス選びとか全然分かんなくて、マイ子ちゃんに見て欲しかったんだ」

そう言って、くるっと一回転する。顔に映るのは、大好きな人と結婚できる幸せな表情。無理に笑顔を作って、私は「似合ってるよ」ともう一度言った。すると、後ろから彼女を呼ぶ声がした。

「ゆり、ちゃんと着替えられた?」

声の方を見ると、男が歩いてくる。ゆりの婚約者、それが彼なんだろう。私は、その人物の姿を見て、息を呑んだ。何かの間違いだと思った。嫌な汗が出てくる。

「あ! ちょうどよかった。紹介するね。結婚する相手の、たけしと同じ名前でさ」

冗談じゃない。あの、たけし。あの女好きの、たけし。ゆりの相手が、まさかあのたけしだなんて。たけしは、私の顔を見て、さすがに驚いた顔をした。

「は? なんでマイ子がここにいるんだよ」

「たけしくん、マイ子ちゃんの知り合いなの?」

「ちょっと待て、ゆり。俺は、こいつとは何もないからな。だって、こいつは昔、俺が振った女だし」

そう吐き捨てるように言うタケシに、ゆりが「え」と声を漏らす。振った女? 違う、逆だ。別れを告げたのは、私の方だ。あの日の屈辱と怒りが、一気に蘇ってくる。最低だ。結局、このクズ男は、いつまで経っても変わらないのだ。私は思い切り、彼を睨みつけた。

「してやられたわね。はぁ、何よ、その考えてる事がバレバレな態度。気持ち悪い」

今度は私が言い返すと、大声で笑い出した。

「はっ、何怒ってるんだよ、まさか俺のこと、まだ好きだったの? 本当に気持ち悪い女だな」

目の前の光景が、ゆっくりとスローモーションのように映る。彼の顔は、あの日見た時と全く変わっていなかった。逃げようとした。この場所から、早く立ち去りたかった。背を向けて歩き出そうとした時、たけしが追い討ちをかけるように言った。

「あっ、どうせまたその安物の腕時計つけて喜んでるんでしょ? 貧乏な奴は違うね。そんなんだから、いつまでたっても幸せになれないんだよ」

その言葉で、私は完全に何かが切れるのを感じた。ブチン、と音を立てて、自分でも驚くほどに綺麗な動作で。振り返ると、そこには、涙を浮かべたゆりが立っていた。彼女は、今のたけしの言葉に、怒っているようにも見えた。

「たけしくんは言い過ぎだよ」

かばうようにそう言う。その言葉に、ますます腹が立った。私のごちゃごちゃした感情を、私は、もう止められなかった。

「いいわよ、もう! アンタなんか、たけしみたいな男にしか見限られないんだから」

気付いたら言ってた。頭に血が上って、自分が何を言っているのか分からなかった。正直な気持ち、というやつだ。言っている途中で、しまった、と思った。でも、もう遅い。ゆりの顔から、スッと感情が消えたのが分かった。すると、たけしが口を挟んできた。

「はあ? 喧嘩売ってんのかてめえ」

「売ってるんだよ。不器用だと思って、周りがちやほやしてるから調子に乗るんだよ。このクソメガネ」

どんどん言葉が出てくる。あの日、私が言えなかったことも。今までずっと我慢していたことも。止まらなかった。もう、どうにでもなれ。

「もう、やめて! 二人とも、やめてよ」

ゆりの、悲鳴のような声が響いた。ハッとして、我に返る。はぁ、と大きなため息が出た。何やってるんだろう、私。大事な友達に、こんな言い方、するはずじゃなかったのに。俯く私の顔を、ゆりがのぞき込む。

「マイ子ちゃん、ちゃんと顔を見て話をしよう?」

「……ゆり、ちゃん」

ポロポロと涙が溢れてきた。何が悲しいってわけじゃない。自分の中で、どうしようもない気持ちがいっぱいで、苦しくて。言葉にしようとしたけど、それは、すぐに口から漏れた喜びの言葉で遮られた。

「どうせ、私のことなんか、みんな私のことが嫌いなんだ」

「マイ子ちゃん、そんなこと……」

「だって、そうだもん。私、本当は凄く優しいと思ってたんだ……でも、それは全部、私の思い違いだったんだ」

机の上に置いてある、光の反射でキラリと光る腕時計。それに、ずっと見とれていた。やっぱり、そうだったんだ、と気付く。悲しんでいる自分がいることに嘘を吐きたくて、精一杯の作り笑顔で、私はこう言うしかなかった。

「嫌いになってくれていいよ、私も、そっちの方が楽だから」

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