葬儀場の廊下で、私は棺の蓋を開けた瞬間に息が止まった。青白いはずの藤堂会長の目が、かっと見開かれていた。生きている。呼吸がある。逃げ場のない壁際で、私は扉の向こうから漏れる声を聞いてしまった。「完璧に始末しろ。書類さえ完璧ならそれで終わりだ」それは、息子である現会長の冷たい声だった。私は本能で動いた。会長の口を塞ぎ、カートの下の隙間へ押し込んだ。扉が開き、男が入ってくる。「遺体はどこだ」私は…

葬儀場の廊下で、私は棺の蓋を開けた瞬間に息が止まった。青白いはずの藤堂会長の目が、かっと見開かれていた。生きている。呼吸がある。逃げ場のない壁際で、私は扉の向こうから漏れる声を聞いてしまった。「完璧に始末しろ。書類さえ完璧ならそれで終わりだ」それは、息子である現会長の冷たい声だった。私は本能で動いた。会長の口を塞ぎ、カートの下の隙間へ押し込んだ。扉が開き、男が入ってくる。「遺体はどこだ」私は...

葬儀場の廊下は、白い花で埋め尽くされていた。その奥のVIP用の祭壇に、日本経済を牽引してきた藤堂グループ会長、藤堂強しの遺体が安置されていた。逆壇の香りと弔問客のひそやかな声が混じり合い、現実感を奪っていく。

葬儀社「安らぎセレモニー」に勤めて三年目の佐々木順は、息を殺して祭壇の扉をそっと開けた。白い手袋をはめた両手を腹の前で組み、ゆっくりと歩を進める。今夜の儀式の前に、遺体の状態を確認するのが彼の役目だった。

順は棺の蓋に手を置き、短く目を閉じて故人への祈りを捧げる。そしてゆっくりと蓋を持ち上げた。その瞬間だった。

青白く固まっていたはずの藤堂強しの目が、かっと見開かれた。抑えつけられていた息が一度に喉からほとばしる。それはまるで檻から解き放たれた獣のような、荒々しく生々しい音だった。順は反射的に一歩後ずさりした。背中が冷たい壁にぶつかり、逃げ場がないことを悟った。全身の血が一瞬で足元へ流れ落ちていくような感覚に襲われる。

口は開いているのに、声にならない空気が漏れるだけだった。強しの胸がかすかに上下している。ほんのわずか。しかし順の目にははっきりと見えた。呼吸をしている。生きている。

順は必死に理性をかき集め、壁伝いに体を横へ滑らせた。緊急呼び出しボタンまではあと三、四歩。震える指をボタンに向かって伸ばした、まさにその時。扉の向こうから冷たい声が漏れ聞こえてきた。

「おい、何度言わせるんだ。完璧に始末しろと言ったはずだ。書類に一つでもおかしな点が見つかれば、その時は俺もお前も終わりだぞ。分かっているのか?」

藤堂ミキアの声だった。強しの一人息子であり、現会長を務める男の声。

「ご心配なく。この封筒があれば十分すぎるほどです」

別の声が答える。年配の男の声で、媚びるような響きがあった。分厚い封筒が手渡される音がする。

「死因は急性心筋梗塞。それ一つに絞れ。他は全て俺が手を打った。書類さえ完璧ならそれで終わりだ」

ミキアの声は氷のように冷たく乾いていた。たった今、自分の父親の話をしている人間の声とは到底信じられなかった。順はその場に凍りついたように動けなくなった。伸ばしていた手は力なく下ろされた。緊急呼び出しボタンを押したところで何の意味もない。今この扉を開けて入ってくる者たちが、この老人を救うはずがない。むしろ息の根を完全に止めるだろう。本能がそう告げていた。

ガチャリとノブが回る音がした。順の身体が考えよりも先に動いていた。彼は走り寄り、両手で強しの口を強く塞いだ。強しがもがき、骨と皮ばかりの腕が順の手首を掴もうとする。

「静かにしてください。行きたいのなら」

順は歯を食いしばり言った。強しのもがきが一瞬止まる。その目がまっすぐに順を見た。何かを読み取ろうとする鋭い眼光だった。

順は強しの身体を抱え起こし、棺から出すのに十秒もかからなかった。壁際に置かれていた遺体運搬用のステンレス製カート。その下、床と垂れた白い布との間にできた狭い隙間に、順は強しの身体を押し込んだ。床まで垂れ下がった布が、強しの姿を完全に覆い隠す。

扉が開いた。藤堂ミキアが先頭に立って入ってくる。四十代後半、黒い喪服を寸分の隙もなく着こなした男だった。その後ろから年配の医師らしき男と大柄な側近が続く。三つの視線が一斉に順に注がれた。

棺は空っぽだった。ミキアの眉が鋭く釣り上がる。

「おい、これはどういうことだ? 遺体はどこへやった?」

ミキアはゆっくりと部屋の中を見渡す。カートにも視線を走らせた。垂れ下がった布の下も目でなぞるように見た。そして順を見た。順はその視線を正面から受け止めた。心臓が時計のように鳴り響いていたが、表情には一切出さなかった。

「ただいま準備室にお移ししております。式の前にお身体を清めさせていただきたく、すぐにこちらへお連れいたします」

順は四十五度の完璧な角度で腰を折り、はっきりとした口調で言った。ミキアの視線がしばらく順の顔に止まる。

「準備室はどこだ」

「この廊下を左に曲がった場所でございます。ご案内いたしましょうか」

順は一歩扉の方へ下がりながら言った。ミキアは順をもう一度値踏みするように見てから、無言で背を返し、準備室を出ていった。医師と側近がその後に続く。

順は扉が完全に閉まるのを確認しても一歩も動かなかった。革靴の音が廊下を遠ざかっていくのを待った。足音が廊下の角に完全に消えた。順はカートの前に膝をつき、布をめくり上げる。藤堂強しが身を縮こまらせたまま目を開いていた。唇は青く、全身が小刻みに震えている。順が腕を差し出すと、強しはその腕を掴んだ。互いの身体を支え合うようにして、ゆっくりと彼を隙間から引きずり出した。

「お歩きになれますか?」

順が低く尋ねると、強しは答えの代わりに両足を床につき、どうにか身体を起こした。顎に力を込め、順の肩を強く掴む。順は廃棄物保管庫と書かれた鉄の扉を開け、二人は中へ滑り込んだ。暗闇の中で、順は自分の葬儀者のジャケットを脱ぎ、強しの背中にかけた。

「佐々木と申します。安らぎセレモニーの葬儀指導士です。会長、私を信じてください。今外にいる人たちはあなたの味方ではありません」

強しは順の顔を見て、ゆっくりと一度頷いた。震える手が順の腕を掴む。言葉はなかった。その手に込められた力が、彼の全てを物語っていた。順がスマートフォンの画面に非常口の見取り図を映し出した、その時。廊下から声がした。

「一階の正面ゲートを封鎖しろ。誰も外へ出すな」

黒田の声だ。続いて複数の革靴の音が響き始める。順は光を消し、物置きの中で鉄パイプの切れ端を握りしめた。大型のプラスチック容器を扉の前に積み上げ、息を殺す。警備員の足音が物置きの扉の直前で止まった。懐中電灯の光が隙間から差し込んでくる。ドアノブがゆっくりと動き始めた。その時、廊下の向こうからミキアの怒声が響いた。

「そこのゴミは後回しだ。地下二階の洗濯物シュートから調べろ。今すぐだ」

警備員はドアノブから手を離し、足早に遠ざかっていった。順は握りしめていた鉄パイプをゆっくりと下ろした。

順は物置きの隅から黒い業務用の大きなビニール袋を六枚引き出し、医療用テープでつなぎ合わせていった。大人の男が一人、身を丸めてやっと入れるほどの袋が出来上がる。

「会長、この中へ入っていただきます」

強しは闇の中で順が作り上げたものを見下ろし、しばしの沈黙の後、呆れと怒りを滲ませた声で言った。

「これはゴミ袋じゃないか。私にゴミ袋に入れと、そういうのか」

「はい、その通りです。今すぐお願いします」

順は一切の躊躇なく答えた。

「私が藤堂グループの会長だぞ。人生で様々な屈辱を味わってきたが、これは……」

強しの言葉を、順は切迫した声で遮った。

「今外では会長の息子さんが血まなこになってあなたを探しています。捕まれば、今度こそ本当に息の根を止められます」

強しは唇を固く結び、ゆっくりと膝を折り曲げた。身体を丸め、黒い袋の中へと身を滑り込ませながら、歯を食いしばって一言だけ吐き捨てた。

「私が生きてここを出られたら覚えていろ。この屈辱を与えた奴らを一人残らず地獄に送ってやる」

順は何も答えず、袋の口をなるべく結び、呼吸ができるだけの隙間を残した。廃棄物回収用の鉄のカートに袋を乗せ、本物のゴミの入った袋を山のように積み上げる。

エレベーターの前には黒服の警備員が二人待ち構えていた。順がカートを押して近づくと、一人が手を伸ばす。

「待て。中を確認させてもらう」

「お手を触れないでください。第一級の感染性医療廃棄物です。これを素手で触れば、あなた方も私も全員隔離されることになりますよ」

順はカートの側面に貼られた黄色い警告ステッカーを指でトンと叩いた。警備員たちが顔を見合わせた、その瞬間。順は意図的にカートの一番上に積んであったゴミ袋の一つを強く押しつぶした。袋が破裂し、腐敗した内容物が床に飛び散る。耐え難い悪臭が一瞬で廊下に充満した。

「うわ、クソ」

警備員が手で鼻と口を押さえ後ずさる。順はカートを強く押し、貨物用エレベーターへ乗り込み、地下三階のボタンを押した。エレベーターが静かに下降を始める。カートの中から低い声が漏れてきた。

「……この借りは必ず返してやる」

地下室の駐車場に着くと、順は足を止めた。出口にはすでにバリケードが築かれ、警備員たちが一台一台トランクを開けて確認している。その時、左手の隅で別の葬儀社の職員と警備員の激しい言い争いが始まった。警備員たちがそちらへ集まっていく。順はその隙を逃さなかった。カートを押し、言い争う人々のすぐ後ろに身を隠すように移動する。そして袋の口を解いた。

「会長、お降りください。今です」

二人は駐車された車と車の間を低い姿勢で移動し、順が用意しておいた車に乗り込んだ。出口のバリケードの前で車を止めると、警備員が窓を叩いた。

「どちらの業者の方ですか?」

順はな札を見せ、別の現場への搬送があるためと説明した。警備員は後部座席に視線をやった。白い布が長くかけられている。その下で強しが息を殺している。警備員が無線機を手に取った瞬間、隅の方で完全な乱闘が始まった。鈍い音と悲鳴が上がる。警備員が慌ててそちらへ駆け出していく。遮断機が上がった。順はアクセルを踏み込んだ。車が遮断機の下をギリギリですり抜ける。

その時、駐車場の入り口から黒田が飛び出してくるのが見えた。彼は走りながら、車のナンバープレートに向かってスマートフォンのシャッターを切った。順はアクセルをさらに深く踏み込み、車は外の道路へと吸い込まれるように消えていった。

しばらくの間、車内には誰の言葉もなかった。やがて後部座席で白い布がめくられる。強しが身を起こし、順の運転席の背もたれを両手で強く掴んだ。

「若いの。よくやった」

順はバックミラー越しに強しの目を見た。青ざめた顔だった。しかし、その瞳の光だけは違っていた。今にも消えそうでありながら、決して消えることのない復讐の炎が燃えている。強しが懐から一枚の小切手を取り出した。その裏には何かが書かれていた。黒く、そして赤い色で。順はそれを受け取った。

「俺が生きていること。誰にも知られてはならぬ」

血で書かれた文字だった。順は小切手を見下ろし、再び前方の道路に視線を戻した。信号で車が止まった時、順はスマートフォンを取り出し、SIMカードを抜き取って窓の外へ投げ捨てた。

次の交差点でハンドルを切る。ここは帰路一つない道だった。車は深い闇の中へとさらに沈んでいった。逃走はまだ始まったばかりなのだ。

やがて車は、都心から忘れ去られたような古い木造アパートが密集する坂道の麓に止まった。順は強しを支えながら、狭く急な路地を登り始めた。一歩、また一歩と階段を上がるたびに、強しの息遣いは荒くなっていく。屋上へと続く鉄の外階段を上り、順は力で古びたドアを開けた。中は狭く見つぼらしかった。大人が一人ようやく横になれるほどのベッド、小さな冷蔵庫、傷だらけの学習机が一つ。それがこの部屋の全てだった。

順は強しをベッドに横たえ、救急箱を取り出した。心音を聞き、腕の内側と首の辺りを調べる。注射針の跡があった。二日から三日は経っているように見える古い跡だった。

「病院へ行かなければなりません」

「だめだ」

強しは短くきっぱりと断った。

「俺が生きていると知れば、ミキアの奴が次の手を打ってくる。今度はもっと確実な方法でな。病院だけは絶対にいかん」

順はしばらく動きを止めたが、やがて救急箱の中から点滴のパックと処置道具を取り出し始めた。葬儀者の仕事は時に思いがけない緊急事態に遭遇する。そのため最低限の応急処置セットを常に持ち歩くのが順の習慣となっていた。点滴を窓の取っ手に掛け、針を強しの腕にゆっくりと刺した。強しは顔をしかめたが、声を上げることはなかった。

「名前は何と言ったかな?」

「佐々木順です」

「佐々木か。いくつだ?」

「三十四です」

「親はいないのか」

「いません」

短い沈黙が部屋に落ちた。

「それで、なぜ私を助けた? 私に何を望んでいる?」

強しは初めて順の顔をまっすぐに見た。

「棺の蓋を開けたら会長の目が開いたんです。それを見て、他に考える余裕はありませんでした」

「それだけか」

「はい」

強しは再び天井に視線を戻した。「変わった男もいたものだ」。その時だった。屋上の窓の下、暗い路地から物音がした。車のドアが複数同時に開閉される音。順は部屋の電気を消し、窓際に身を寄せて見下ろす。路地の入り口に黒いワゴン車が三台、ヘッドライトを消して止まっていた。車から鉄パイプや刃物を手にした男たちが次々と降りてくる。十五人はいるだろう。

順は振り返った。

「会長、起きられますか? あの押入れの中へ。今すぐです」

順は強しを押入れの中に入れ、冷蔵庫と学習机を扉の前に押し寄せた。鉄の外階段を駆け上がってくる音が聞こえ始める。順は消火器を掴み、ドアのすぐ横に身を潜めた。

ドアが斧で叩き壊された。男たちがなだれを打って入ってくる。順は消火器の安全ピンを引き抜き、レバーを力いっぱい握りしめた。白い粉末が爆発するように噴射され、部屋の中は一瞬で白い煙幕に包まれた。

「うわ、目が見えん。くそ。どこだ? 奴はどこにいる?」

順は押入れの戸を開けた。

「今です」

強しは顔を覆いながら出てくる。順は窓を開け、外壁に伸びた錆びついた雨どいを指さした。

「あれを掴んで降りてください」

強しは窓枠を掴み、下を見下ろした。

「三階建ての高さだ。あのパイプが私の体重に耐えられるか」

「耐えられます。さあ、早く」

「折れないという保証はどこにある?」

「会長が怖いのはあのパイプですか? それともあの男たちですか?」

強しは白い粉末の中で迫ってくる男の方を見た。その手には鈍く光る刃物が握られていた。強しは窓枠を乗り越え、雨どいに両手を巻きつけ、ゆっくりと下り始めた。

「この年になって雨どいを伝って逃げることになるとはな」

「降りながら喋らないでください」

順が背後を振り返ると、白い煙幕の中から刃物を持った男が迫っていた。順は身を捻り、刃物が空を切る。肉が避ける感覚とともに、熱い液体が腕を伝う。順は歯を食いしばった。庭に干してあった洗濯ロープ。部屋に入った時から目をつけていたものだ。順はロープを掴んで引き寄せ、迫ってくる男に投げた。ロープが男の足首に絡みつく。順は身を低くして力いっぱい引いた。男はバランスを崩して床に倒れ込んだ。順は窓枠を乗り越え、雨どいを掴んだ。腕の傷から流れる血が雨どいを伝って落ちる。下から大きな音がした。地面に降り立った強しが、植木鉢を拾い上げて建物の外壁にある古い配電盤を力任せに叩き割ったのだ。火が散り、路地全体の街灯が一斉に消えた。漆黒の闇が全てを飲み込む。

順は雨どいの端を蹴り、地面に飛び降りた。

「こちらです」

闇の中、ワゴン車のヘッドライトの光が路地を埋め尽くす。順は強しの手を引き、ただひたすらに走った。古い商店街の路地だった。何年もこの辺りで仕事をしてきた順にとっては、目を閉じていても歩ける道だった。リアカーを飛び越え、店先のテントの下をくぐり抜け、路地と路地の間を縫うようにして走り抜けた。

商店街の端までたどり着いた時だった。順の足がもつれ、彼はそのまま地面に膝をついた。腕からの出血がひどく、目の前がくらんでいく。強しが崩れ落ちる順の前に立ち、手を振り上げた。パシンと乾いた音がして、順の頬に激しい痛みが走った。

「しっかりしろ。目を開けろ」

強しが順の胸倉を掴んでいた。その手は震えていたが、信じられないほどの力が込められていた。

「俺の命を救ったんだろう。ならば最後まで責任を取れ。ここで倒れたら、我々は二人とも死ぬんだ。分かっているのか?」

「はい」

順は歯を食いしばり、地面に手をついた。二人は互いの肩に腕を回し、支え合うようにして、さらに深い路地の闇の中へと一歩ずつ足を進めていった。下衆に込められた言葉は、今や二人の間で共有された唯一の道標となっていた。

東の空がぼんやりと灰色に染まり始める頃、再開発の取り壊しを告げる張り紙が無数に貼られた町の寂れた一角。その路地の突き当たりに、小さな看板が見えてきた。「和食処 静堂」。看板のペンキはあちこちが剥げ落ちていた。二人は店の前の階段で崩れるように座り込んだ。これ以上、一歩も歩けなかった。

ガラガラと重い音が店の中から聞こえてきた。鉄のシャッターがゆっくりと上がっていく。重いシャッターを両手で押し上げていた女が、店の前に倒れ込んでいる二人を見つけ、手を止めた。六十代くらいだろうか。短く切った白髪混じりの髪に、使い古された紺色のエプロンを身につけた女だった。この店の女将であり、高橋静といった。

静は悲鳴をあげなかった。ただ静かに左右を見回し、そして再びシャッターを下ろし始めた。

「中へお入り。早く」

静は二人の腕を掴んで引っ張った。一人で小柄な男二人を立たせるのは明らかに無理があった。しかし、静は諦めずに必死で二人を店の中へと引きずり込んだ。店の奥、厨房の横にある狭い座敷の部屋へ二人を運び込むと、静はすぐに扉を閉めた。

静は棚から救急箱を下ろすと、順の腕の傷を見て、独り言のように呟きながらガーゼを傷口に強く押し当てた。

「こりゃ、病院へ行かなきゃならんだね」

「だめです。病院へは行けません」

順は歯を食いしばりながら言った。静はじっと順の顔を見た。そして、それ以上は何も聞かなかった。

「痛いだろうけど我慢しな。縫わないと血が止まらないよ」

まるで人生で何度もこのような場面に出くわしてきたかのように、その手付きに一切の迷いはなかった。針に糸を通し、順の傷口を縫合していく。順は畳を強く掴み、うめき声を飲み込んだ。

「声に出したっていいんだよ。誰もあんたを笑ったりしないさ」

縫い合わせた傷の上からきつく圧迫包帯を巻き終えると、静は今度は強しの方へ身体を向けた。強しは壁に背を預けたまま目を閉じていた。呼吸は浅く早い。全身が震えていた。静は一度部屋を出て、すぐに戻ってきた。その手には土鍋があった。湯気が立ちのぼっている。静は強しの隣に膝をついて座り、スープを一杯すくって口元へ運んだ。

「口を開けな」

強しがうっすらと目を開け、静の顔を見る。

「さあ、早く。身体が冷えきってる。何か腹に入れないと持たないよ」

強しはゆっくりと口を開いた。温かいスープが喉を伝っていく。強しは眉間にしわを寄せたが、やがてその表情がゆっくりと柔らいでいった。温かいものが食道を下り、冷え切った身体の芯まで届いていくのが分かった。

「うまいな」

強しが小さく呟いた。静は二杯目のスープをすくった。そうして夜が明けるまで、静は何度もスープを運び続けた。

朝の光が狭い窓から斜めに差し込む頃、強しは目を覚まし、部屋の中を見渡した。壁にかけられた二枚の写真が目に留まった。制服を着た二人の若い男。二人ともまだ幼さの残る顔で、はにかむように笑っていた。

静が濡らした手拭いを持ってきて、強しの額を拭いた。節くれだった骨ばった手。しかし、手拭いを額に乗せるその手付きは羽のように優しかった。

「あの写真の者たちは?」

「息子たちだよ」

静は手拭いを盆に戻そうと立ち上がりながら短く答えた。

「制服を着ているな」

「二人とも自衛隊に入ってね、任務中に帰ってこなかった」

静は扉を開けて出て行きながら言った。一度も振り返ることはなかった。強しはその閉ざされた扉を、しばらくの間ただじっと見つめていた。

静が戻ってきて、二人の前に古くてサイズの大きなスウェットを置いた。

「これ着な。そんな格好じゃ目立つだけだからね」

順がその服を手に取り、動きを止めた。

「これ、もしかしてさっきの写真の……」

「そうだよ。うちの息子たちのさ。もう誰も着る人はいないからね」

静は順の言葉を待たずにぶっきらぼうに答え、また部屋の外へ出ていった。順はスウェットを手に取り見下ろし、壁の写真をもう一度見た。長い間、言葉もなくただそこに座っていた。

数日が過ぎ、二人は静が開けてくれた店の裏にある物置きで寝起きするようになった。静は二人が何者で、なぜ追われているのか、一度も尋ねなかった。ただ、店の外の路地を黒いスーツを着た男たちがうろついていることに気づくと、物置きの扉を「出てくるな」と手で合図するだけだった。順は包帯を巻いたまま、店のホールの掃除を申し出た。強しは最初の数日間、物置きから一歩も出ようとしなかった。

ある日の夕方、店の営業が終わる頃、男たちが乱暴にドアを開けて入ってきた。革の破れたジーパンに、両腕にびっしりと入れ墨を入れた男たちだった。頭の男がテーブルの上にドカッと札束を置いた。静が厨房から出てくる。

「あんたたちに払う金なんて一文もないよ。先月、全部払ったじゃないか」

「ああ、今月分の話をしてんだよ。ババアも同じこと言わせんじゃねえぞ」

男はテーブルの上のコップを指で弾いた。コップが床に落ち、けたたましい音を立ててくだけ散った。男はにやにやと笑いながら立ち上がり、静の腕を掴もうとした。その時、物置きの扉が開いた。順が出てきた。包帯の巻かれた腕を身体に寄せ、右手には箒を握りしめている。

「その手を離せ」

「なんだ、このガキは。ババアの新しい男か」

「その手を離せと言っている」

順はそう言いながら男たちの方へ歩み寄った。男たちが一斉に立ち上がる。順は箒を横に振い、一番前にいた男の顔を打った。男はバランスを崩し、テーブルに倒れ込む。残りの三人が一斉に順に襲いかかろうとした、その瞬間。厨房の扉が再び開いた。藤堂強しだった。その両手には巨大な土鍋が抱えられていた。鍋の中では煮えたぎったスープがグツグツと音を立て、白い湯気が立ちのぼっている。強しは土鍋を抱えたまま男たちの前に立った。言葉はなかった。ただ、男たちを見た。それは何十年もの間、何千人もの役員たちを前に会議室を支配してきた男の眼差しだった。男たちはその目に射抜かれた。誰も一言も発することができない。

強しは土鍋をわずかに傾け、静かに言った。

「失礼」

たった一言だった。倒れていた男が身体を起こし、後ろを振り返る。残りの三人はじりじりと後ずさり始めていた。

「おい、一旦引くぞ。あのじじい、目がやべえ」

男たちは雲の子を散らすように店の外へと逃げていった。静は強しと順を交互に見た。しばらくの間、何も言わずにそこに立ち尽くしていたが、やがて黙って厨房へと戻っていった。鍋が再び火にかけられる音がした。

その日を境に、強しは変わった。朝、静が土鍋を運ぼうとしていると、強しがどこからともなく現れ、シャツの袖をまくり上げ、鍋の反対側の取っ手を掴んだ。最初は静も慌ててそれを止めようとした。

「いいんですよ。会長、重いものを持ったらお身体に障ります」

「両手はまだ動く」

強しは掴んだ取っ手を放さなかった。

「でも、この間、倒れたばかりじゃありませんか」

「それはそれ、これはこれだ」

静はしばらく強しの顔を見ていたが、やがて諦めたように、二人で一緒に鍋を運んだ。そうして毎朝、二人は一緒に土鍋を運ぶようになった。食事の時間には順も加わり、常連客たちもその奇妙な光景に気づき始めた。静は尋ねられると、決まって「親戚だよ」と答えた。

ある日、忙しい昼の営業が終わり、静が店のドアに「準備中」の札をかけた。三人は店の小さな丸いテーブルを囲み、初めて向かい合って座った。ご飯と味噌汁、数品のおかずだけの素朴な食卓だった。静が自分のおかずの皿を箸でかき混ぜ、一番大きく分厚い肉を一切れつまみ上げ、それを強しの茶碗の上に乗せた。言葉はなかった。慰めの言葉もなかった。強しは自分の茶碗を見下ろし、そして静を見た。

「ありがとう」

強しの声はかすれていた。三人は言葉もなく、ただ黙々と飯を食べた。富や名声の頂点にいた頃には決して味わえなかった温かい食事。それは強しの凍りついた心をゆっくりと溶かしていく。

静堂の物置きに身を寄せてから一ヶ月が過ぎた。強しの顔には血色が戻ってきた。順の腕の傷も治った。しかし、強しは毎晩、物置きで遅くまで眠れずにいた。ある日の早朝、順が目を覚ますと強しの姿が見えなかった。外へ出ると、強しが店の前の縁台に座っていた。膝の上に両手を置き、暗い路地の先をじっと見つめている。順はその隣に腰を下ろした。しばらくの間、どちらも何も言わなかった。

「いつまでもこうしているわけにはいかん」

強しが先に口を開いた。

「いつかはここを出ていかなければならないこと、分かっています」

「いつかではない。今動かねばならんのだ。時間が経てば経つほど、ミキアは自分の地位を固めてしまう。そうなれば、大手の打ちようがなくなる」

強しは順の方を振り返った。

「俺が生きていること、ミキアはまだ知らない。それが今我々が持っている唯一の切り札だ。だが、その札は時間が経てば価値を失う」

「何が必要ですか?」

「電話だ。一本の電話が必要だ」

翌日の午前二時、二人は人通りの少ない裏道へと向かった。古びた公衆電話ボックスが一基立っていた。強しがボックスの中へ入り、番号を押す。留守番電話に切り替わった。

「私だ。生きている。連絡先は分かっているな。三日以内に」

それだけだった。電話を切って出てきた強しの顔つきは変わっていた。最初に棺の中で目を開けた時のあの眼差しだった。消えそうで、決して消えない復讐の炎。

三日後、冷たい雨が降る灰色の午後、二人は静から遠く離れた郊外の道を歩いていた。田んぼの中にぽつんと立つ古びた建物が見えてきた。「室内釣り堀」と書かれた看板が、錆びた鉄板にボルトで止められている。もう何年も営業していないようだった。建物の前に、黒い高級セダンが一台止まっていた。

中は薄暗く、水の入っていない水槽がずらりと並んでいた。そのうちの一つに、二人の男が座って待っていた。傘を畳んで横に置いた外国人と、年配の老夫だった。老夫は革製のブリーフケースを膝の上に置いている。二人は深く頭を下げた。

「ご連絡を受け、すぐに準備いたしました。ご無事で何よりでございます」

「書類は持ってきてくれたか?」

「はい。全て整っております。ご確認なさいますか?」

老夫がブリーフケースを開け、分厚い書類の束が出てくる。強しは順を振り返った。

「君もここに一緒に立つんだ」

順は強しの隣に立った。何が何だか分からないという顔をしていた。強しは書類を順の方へ差し出した。

「海外に寝かせてある金がある。ミキアが知らない、私の個人資産だ。それを君と私の共同名義に切り替える」

順は書類を受け取り、最初のページを見た。天文学的な数字がずらりと並んでいた。順は息を飲んだ。

「会長、これは本気でおっしゃっているのですか?」

「君がいなければ、私はあの夜死んでいた。血を流しながらも私を背負って走ってくれたのは君だ。そんな人間に私が与えられないものなど何もない」

「私がこのようなものを受け取る資格は……」

「この世に当然のことなど何一つない。私が生きてきた人生がその証拠だ」

強しはペンを取った。書類の最初のページにサインをした。二枚目、三枚目と、何十枚にも渡ってサインが続いていく。雨が古びた建物の屋根を叩いていた。書類の最後のページへのサインを終えた強しは、ペンを置き、外国人に言った。

「静堂食堂の場所は分かるな」

「はい」

「あの店の借金がいくらあるか調べろ。闇金だろうが銀行だろうが、全てだ。明日までに報告しろ」

翌日の朝、静がシャッターを上げ、厨房へ入ろうとすると、店の前に大きな箱が置いてあった。開けてみると、中には新鮮な野菜がぎっしりと詰まっていた。最高級の霜降り牛肉に、朝採れの瑞々しい野菜。根っこがついたままの太い長ねぎ。静は首をかしげた。

「こんな立派なもの。一体誰が……」

誰も答えなかった。強しは何食わぬ顔でエプロンを手に取った。

「いい食材が手に入ったんだ。今日のスープはいつもより濃厚に仕上げるぞ」

その日の午後、静のスマートフォンにメッセージが届いた。静はそのメッセージを読み、そして手が止まった。画面には「ご融資の全額返済処理が完了いたしました」という文字が表示されていた。その下には、信じられないほどの金額が記されていた。静は強しの背中に向かって声を振り絞った。

「あなた……」

強しが振り返る。静はスマートフォンを掲げて見せた。

「これをやったのは、あなたなんだろう」

「私は何もしていない」

「嘘をつきなさい。嘘じゃないか」

静の目から涙が一筋、頬を伝って落ちた。

「これがどれだけの金か分かっているのかい? 私が何年も胸を締めつけられる思いで生きてきたか。あんたに分かるのかい?」

強しは静をただじっと見ていた。

「分かるから、やったんだ」

静は唇を強く噛みしめた。それ以上、言葉を続けることができなかった。

「すまなかったな。泣いていないで、夕飯の支度をしろ。今夜は一杯やらんとな」

その日の夜、営業が終わった後、三人は店の前の縁台に座っていた。静が厨房から煮込み料理と温かい酒を持ち出してきた。夜空には星が見えていた。強しが杯を手に取り、順が杯を手に取り、静が杯を手に取る。三人は杯を合わせた。強しは酒を一口含み、長い間口の中で転がした。

「いいもんだな。こういうのが、いいもんだ」

強しは低く呟いた。静が料理の皿を強しの前に押し合った。強しは肉を一切れつまみ上げながら、順を見た。

「そうだ」

強しは立ち上がり、物置きの方へ入っていき、しばらくして二つの箱を持って出てきた。順の前にそれを置く。

「開けてみろ」

順が箱を開けると、中には最新型のスマートフォンが二台入っていた。連絡先のリストを表示すると、一番上に一つの名前があった。「父」。順の指が止まる。その下にもう一つ、番号が登録されていた。「息子」。

「これは、どういう意味ですか」

「分からんか。このように登録されるのは困ります。私はただの葬儀社の社員で、会長は……」

「私はもう会長ではない。血を流して私の命を救ってくれた人間に、会長などと呼ばれる筋合いはない。君は私の息子だ。法的な手続きも進める」

順の目が揺れた。

「私には、そんな資格は……」

強しは順の方を乗り出し、その節くれだった手を両手で包み込むように掴んだ。

「私は血を分けた息子に殺されかけた。私の息子が、私を殺そうとしたんだ。だが、血のつながりのない君が、自らの血を流して私を救ってくれた。死よりも濃いものがあるということ。私はこの年になって初めて知ったんだ」

順の目から涙が一筋、頬を伝って流れ落ちた。隣で静が酒を一口飲み、そして空を見上げた。

「私も、息子って呼んでもいいかい?」

静は何でもないことのように言った。順は静を見た。目は真っ赤だった。

「私にもね、息子が二人いたんだよ。あの写真の子たちさ。二人とも国のために働いて帰ってこなかった。それからずっと、一人で生きてきたんだけどね」

静は箸を止めなかった。

「この路地であんたたち二人を見つけた時、本当にそう思ったんだ。死んだ息子たちが帰ってきたみたいだって」

順は唇を強く噛みしめた。

「ありがとうございます」

「そんなこと言うんじゃないよ。家族にありがとうなんて、水臭いじゃないか」

翌日の夜、強しは順を連れて路地の外れへと歩いていった。大通りから一本入った古びたビルの地下へと続く階段の前で足を止める。強しが鍵を取り出した。

「ここはどこですか?」

「我々の仕事場だ」

ガランとしたオフィスだった。長い間使われていなかったのだろう。カビ臭い匂いがした。

「ここで何を?」

「ミキアを打つ準備だ」

翌日から、強しと順はそのオフィスに機材を運び込み始めた。パソコン二台、監視カメラ、外付けハードディスク。持ち込んだものを一つずつ設置していく。オフィスの体裁が整うと、強しは壁一面に紙を張り始めた。グループの株主名簿だった。名前の横に数字が書き込まれている。持ち株比率だ。その横に、人々の顔写真を張っていく。藤堂ミキアの側近たちだった。

「会社の持ち主は、株を多く持っている人間だ。ミキアが今俺の椅子に座っていられるのは、俺の株を自分の味方につけているからだ。ならば我々がやるべきことは一つ。ミキアについている株主を、我々の側へ引き込む。そうすれば形勢は逆転する」

「私には、そのようなことはよく分かりません」

「知らなければ、覚えればいい。私が一から教えてやる」

「私がついていけるでしょうか?」

「できるさ。私が最初に事業を始めた時も、何も知らなかった。だが、ここまで来た」

翌日の朝、順がオフィスの階段を上がってくると、定食屋の前の縁台に大きな袋が二つ置かれていた。強しが縁台に座り、袋から長ねぎを取り出している。隣では静が玉ねぎの皮をむいていた。順は近づいていき、縁台の隅にちょこんと座った。通りかかった近所の主婦が足を止め、三人の姿を見た。

「あら、静さん。ご家族、みんな揃ったのかい」

「うん。しばらくここにいることになったのよ」

「そりゃ良かったじゃないの。この辺りで一人暮らしじゃ、心細かったでしょう。みんな一緒なら心強いね」

主婦はそう言って通り過ぎていった。静が強しの顔をちらりと見た。

「どうしたんだい? 手が痛むのかい?」

「いや。……じゃあ、さっさと手を動かしな」

強しはふっと笑い、再び長ねぎを手に取った。順はその様子を見て、声もなく一緒に笑った。三人が並んで座り、野菜を刻む。その路地に、朝の柔らかな日差しが降り注いでいた。

ある日の午後、定食屋の昼の営業がちょうど終わろうとしていた頃、路地の入り口から大きな音が聞こえてきた。エンジン音だった。重く、響き渡るような音が路地を伝って響いてくる。静がホールの窓から外を見ると、巨大なショベルカーが路地の入り口を塞いでいた。一台ではない。三台がずらりと並んでいる。その後ろからヘルメットをかぶった男たちがぞろぞろと出てきた。二十人は超えているだろう。その手には鉄パイプや角材が握られていた。物置きで書類を整理していた強しも、物音を聞きつけてホールへ出てきた。彼の目は、ショベルカーから男たちへ。そして男たちから、路地の先の路上に止められた一台の黒いセダンへと移動した。ベンツだった。

「藤堂建設だ」

強しは低く呟いた。

「ミキアがこの地区の再開発を強行しようとしていたのは、一ヶ月ほど前からだ。法的な手続きも、住民の合意も、全て無視してな。私が死んでいなくなった今、それを止める人間は誰もいないというわけだ」

男たちが定食屋に向かって動き始める。鉄パイプが振り上げられ、ガシャンと窓ガラスが一斉に砕け散った。静が厨房から飛び出してくる。

「何をするんだい、あんたたち。何の権利があって……」

男たちが店の看板を引きはがそうとし、店の中のテーブルを道端へ放り投げ始めた。静が店の外へ飛び出し、先頭に立つ男の腕を掴んだ。

「おやめなさい。ここは私の店だよ。誰があんたたちにこんなことを許したんだい」

先頭に立つ現場監督らしき男が、静を乱暴に突き飛ばした。静の身体が後ろによろめく。その足が階段の段に引っかかった。静は、コンクリートの階段の角に後頭部を強く打ち付け、そのまま崩れ落ちた。ぴくりとも動かない。

順はその光景を窓の向こうに見ていた。手に持っていた布巾が床に落ちる。順はドアに向かって走り出した。静が倒れている。順は静のそばにかけ寄った。静の頭の下から血が流れ出している。目は固く閉じられていた。

「女将さん、女将さん」

反応はなかった。順が顔を上げると、現場監督が順の前に立っていた。

「どけ。作業中だ。邪魔するな」

順の目が、静から現場監督へと移った。静かに立ち上がった。

「今、この人を突き飛ばしましたね」

「ここは立ち退きの対象だ。出て行けと言ったのに出て行かなかったのはそっちだろうが」

「この人が倒れているんですよ。見えないんですか?」

「知ったことか。どけと言っているんだ」

順は飛びかかった。右の拳が現場監督の顎を捉えた。男は後ろへよろめく。順は二人目の男を突き飛ばした。しかし、数が多すぎた。六人の男が順を取り囲む。角材が順の背中を打った。鉄パイプが膝を狙ってくる。順は地面に崩れ落ちた。無数の足が順の身体を蹴りつけた。現場監督が一枚の書類を順の顔の前に投げつけた。藤堂建設のロゴが印刷されている。

「法律通りにやってんだよ。不法占拠者にはこうしてもいいことになってんだ。次は警察を連れてきてやる」

その時だった。路地の入り口から歩いてきた強しが足を止めた。目の前で起きている全ての光景を見た。破壊された定食屋。倒れている静。打ちのめされて地面に倒れている順。強しの両手が、ゆっくりと強く握りしめられていった。彼の視線は、路上の先へと向けられた。ベンツの後部座席の窓越しに、藤堂ミキアのシルエットが見えた。強しの全身が震え始めた。胸の奥で何かがきつく締めつけられる。息が短くなった。強しは胸に手を当てた。過去にもこんなことがあった。極度のストレスが一度に押し寄せてきた時だ。強しは腰を折った。呼吸がうまくできない。胸が満員で締めつけられるようだ。視界がぼやけていく。膝をついた。その手は胸をかきむしっていた。そしてそのまま、コンクリートの地面に横向きに倒れ込んだ。

順は身体を起こした。腕が言うことを聞かない。足も震えている。それでも這った。両手と両膝で地面を掻きながら、強しの方へ向かっていった。強しの顔は真っ白になっていた。目は半分閉じられている。順は強しの身体を腕で抱きしめた。

「会長、目を開けてください。私がいます」

順はスマートフォンを取り出した。手が震え、画面をまともに押すことができない。連絡先を開く。釣り堀で会った外国人の資産管理人が残してくれた緊急連絡の番号だった。

「こちらです。今すぐ来てください。二人とも危ないんです」

八分ほど経っただろうか。路地の向こうからエンジン音が聞こえてきた。黒い車両が二台、路地の中へ滑り込んできた。病院のマークはついていない。強しがストレッチャーに乗せられる。静もストレッチャーに乗せられた。順は跡を追って立ち上がろうとして、膝が折れた。車のドアが閉まる。二台の車は、同時に路地の外へと消えていった。

施設病院の廊下は、音が死んでいた。外部から完全に遮断されたVIP専用の病棟だった。順は強しの病室のドアの前に背中を預けて座り込んでいた。全身に包帯と絆創膏が痛々しく貼られている。彼は一晩中、その場から一歩も動かなかった。

早朝、病室の中から物音がした。順は勢いよくドアを開けて中へ入った。強しがベッドの上で半ば身体を起こし、自らの手で酸素マスクを外そうとしていた。その手は震えている。顔は紙のように白い。しかし、その瞳にはまだ執念の炎が燃えていた。

「会長、それを外しちゃだめです」

順が駆け寄ると、強しは手を上げて順を制した。

「ドアをロックしろ。ブラインドも下ろせ」

順は強しの顔を一度見て、頷いた。病室は外界から隔離された静かな部屋となった。強しはゆっくりと身体をベッドの端へと滑らせ、両足を床に下ろした。順が支えようと腕を差し出したが、強しはその手を掴まなかった。自らの足で立った。ふらついたが、倒れはしなかった。

「静さんは?」

「手術は無事に終わったと。今は隣の病室で眠っています」

「そうか。良かった」

強しはベッドサイドのテーブルに手をつきながら、一歩また一歩と歩を進めた。

「電話をかけなければならない男がいる」

順がスマートフォンを差し出す。強しが番号を押す。コール音が長く続いた。三回目のコールでようやく電話が繋がった。

「どちら様でしょうか?」

声はひどくかすれていた。

「遠藤か。私だ」

電話の向こうが静まり返った。

「……会長。生きて、いらっしゃるのですか?」

「来てもらわなければならん。誰にも知られずに、今すぐにだ」

真夜中を過ぎた頃、コンと病室のドアを短くノックする音がした。順がドアを開けると、六十代半ばの男が立っていた。来ていたスーツはしわだらけで、髪は乱れていた。慌てて駆けつけてきたことが一目で分かった。遠藤だった。彼は病室の中へ入ってきた。そして、強しの姿を認める。彼はその場に崩れるように膝をついた。声が漏れた。それはもはや泣き声ではなかった。言葉にならない、獣のような号泣だった。肩が大きく震えている。強しが近づいていき、遠藤の方にそっと手を置いた。

「遠藤」

遠藤が顔を上げた。その目は真っ赤に充血していた。

「会長がもうこの世におられないものと、私は何もできませんでした」

「いい。今からやってもらわなければならないことがある。泣いている暇はないぞ」

強しはベッドサイドのテーブルに腰かけた。

「主治医の三村だ。ミキアが奴に何をしたか、お前なら察しがつくだろう」

遠藤はこくりと頷いた。

「奴の口を割らせるんだ。ミキアが私に何をさせたのか。その証拠を手に入れるんだ。これさえあれば、ミキアを社会的に抹殺することができる」

「探偵を雇え。三村の弱みを徹底的に洗い出せ。そして、ミキアが奴をいつ切り捨てるつもりなのか、それを教えてやれ。奴も自分の身が危ないと知れば、考えを変えるはずだ」

数日が過ぎた。遠藤が雇った調査員たちが動き出した。主治医の三村が病院から出てくるのを待ち伏せた場所は、地下駐車場だった。三村は抵抗する間もなく車の中へと押し込まれ、古びた倉庫へと連れてこられた。遠藤が向かいの椅子に座った。

「ミキアは近頃、新しい主治医を雇ったそうですね。ご存知でしたか?」

三村の顔がこわばった。

「用済みになった人間を、ミキアがどのように扱うか。それは先生が私などよりもよほどご存知のはずです。一度、目の前でご覧になったのですから」

「私は、ただ言われた通りにしただけだ」

「その行為が、法の下ではより重い罪となるのですよ。指示した人間が捕まれば、それに従った人間も共犯として裁かれます」

遠藤はテーブルの上に一つの封筒を置いた。

「先生名義の匿名口座のリストです。三村医院から受け取った裏金が振り込まれている口座ですね。これが検察の手に渡ればどうなるか、先生ならお分かりでしょう」

三村の手がテーブルの上で震え始めた。

「私は、ただ……」

「先生は、お持ちのはずです。万が一の時のために、ご自身で用意された」

三村は、したたかに遠藤を見た。

「なぜ、それを……」

「一つ、持っています。自分が切り捨てられそうになった時に、最後の交渉材料として使うための霧札です」

三村は唇を強く噛みしめた。長い長い沈黙が流れた。やがて三村はゆっくりとスーツの内ポケットに手を入れた。指先ほどの大きさの小さな物体。USBメモリだった。それを遠藤の前のテーブルに置いた。

「た、助けてくれ。私は本当に言われた通りにしただけなんだ」

その一週間後、藤堂グループ本社最上階、大講堂の前には報道各社の取材車両がずらりと並び、大勢の記者たちがロビーを埋め尽くしていた。今日は藤堂ミキアの正式な会長就任を発表する臨時株主総会の日だった。講堂の中は、数百人の株主と役員で席が埋められている。ミキアが壇上に上がる。黒いスーツは一点の乱れもない。彼がマイクを握った。

「尊敬する株主の皆様。本日、この場におきまして……」

その時だった。講堂の両脇にある重厚な扉が、勢いよく開かれた。その扉の前に、藤堂強しが立っていた。最高級のオーダーメイドのスーツ。手には杖をついている。しかし、その背筋はまっすぐに伸びていた。両脇には順と遠藤が控えている。その後ろには屈強な男たちがずらりと並んでいた。

講堂の中が凍りついた。誰も一言も発することができない。前列に座っていた役員の一人がゆっくりと席を立った。隣の男が立つ。そして、そのまた隣の男が。やがて、数百人の人間が一斉に席を立った。壇上のミキアは、手にしていたマイクを落とした。その顔から、血の気がすっと引いていく。

「父さん……」

ミキアの唇が動いた。しかし、声にはなっていない。強しが歩き始めた。人々が、まるでモーゼの前の海のように左右に別れて道を開けた。誰もその道を遮ろうとはしない。強しが壇へと向かって歩いていく。杖が、静かな講堂の床をコツ、コツと叩く音だけが響いていた。

「黙れ」

強しは壇上に立ち、静かで低い声で言った。その声は講堂の隅々まではっきりと響き渡った。ミキアは口を閉じた。強しが顎をしゃくる。順は講堂の隅にある中央制御室へと素早く移動し、USBメモリをパソコンに差し込んだ。講堂の正面にある巨大なスクリーンが点灯した。映像が映し出される。場所は薄暗い部屋。藤堂ミキアが座っている。前には三村が座っていた。

「いかなる痕跡も残してはならん。完璧にだ。毒物は心臓発作に見せかけろ。死因は急性心筋梗塞だ」

講堂は水を打ったように静まり返っていた。この静寂の中で、カメラのシャッター音だけがけたたましく鳴り響く。記者たちが一斉にスクリーンに向かってカメラを構えていた。映像が終わった。遠藤が前に進み出て、分厚い書類の束を掲げた。

「藤堂ミキアが海外のペーパーカンパニーを利用して着服した、会社資金のリストです。株主の皆様に配布いたします」

書類が最前列から後ろへ、後ろへと回されていく。株主たちが書類を開く。その瞬間、講堂は爆発した。

「これが全て事実だというのか」

「身の父親を殺そうとしただと」

「あの男を壇から引きずり下ろせ」

怒号が一斉に上がった。ミキアは壇の隅へと逃げようとした。

「し、知らん。これは誰かの陰謀だ。あの映像は偽物だ」

ミキアは手を振りながら叫んだ。

「父さん、父さんが直接言ってくれ。これは全部、仕組まれたことなんだと」

強しはミキアをただじっと見つめていた。何も言わなかった。その沈黙が、ミキアの最後の言葉を飲み込んでしまった。警備の男二人がミキアの両腕を掴む。ミキアは床に膝をついた。強しはそのミキアを見下ろした。

「父さん、一度だけ。一度だけ助けてくれ」

強しはマイクを手に取り、もうミキアの目を見ることはなかった。株主たちの方へ身体を向けた。

「藤堂ミキアのグループ内における全ての役職と権限を、ただいまこの場を持って剥奪する。そして、藤堂ミキアが推進してきた全ての違法な再開発事業を、本日を持って白紙に戻す」

株主総会が終わった直後、講堂の廊下には検察の捜査官たちが待機していた。手錠がかけられたミキアが、捜査官に両腕を掴まれたまま廊下へと出てくる。ミキアは顔を上げ、廊下の先を見た。強しが順と並んで立ち、その様子をただじっと見ていた。

「父さん……」

強しは何も言わなかった。捜査官がミキアを連行していく。その姿が廊下の角に消えた。順は強しの横顔を見た。強しは、ミキアが消えた廊下の先をしばらくの間見つめていた。言葉はなかった。表情もなかった。やがて、ゆっくりと身体を向けた。

「行こう」

数日後、強しは刑務所の面会室のドアを開け、中へ入った。ミキアが座っていた。青い囚人服。順は廊下で待っていた。ミキアが顔を上げる。目の下には深い隈ができていた。

「父さん。……来てくださったんですね。来てくださると信じていました。一度だけ、助けてはいただけませんか? もう二度とこんなことはしません。誓います」

強しはミキアを長い間見つめていた。

「お前がまだ幼かった頃、蟻の巣を足で踏みつぶしたことがあったな」

ミキアははっとしたように顔を上げた。

「その時、私が何と言ったか、覚えているか?」

ミキアは首を横に振った。

「力のないものを踏みつける人間は、いずれもっと大きな力に踏みつぶされる運命にあると。そう言ったはずだ」

強しは席を立った。

「今、その時が来たというだけのことだ」

「父さん、父さん」

強しは背を向けた。ドアを開け、外へ出た。廊下で待っていた順は、強しの顔を見た。何も読み取れない無表情な顔だった。

「よろしいのですか?」

「役員会を開く。今日の午後だ」

その日の午後、藤堂グループ本社役員会議室。強しが壇上に立った。

「私が保有する株式のうち、経営権を維持するために最低限必要な分だけを残す。残りは全て処分する」

役員たちが互いに目配せをした。

「会長、それではグループ全体の舵取りが……」

「経営は、外部から有能な人間を招聘する。血のつながりというだけで資格のない人間に、この会社を任せるつもりはもうない。それがどのような結果を招くか、我々はもう目の当たりにしたはずだ」

翌日、寄付金の贈呈式が開かれた。強しは自らマイクを握った。

「藤堂ミキアによって住む場所を追われた方々に、まずお返ししたい。彼らが住んでいた土地に、まともな家を再び建てさせていただく。それ以外にも、社会的に助けを必要としている方々のために公益財団を設立する。私の個人資産の大部分を、そこへ投じる」

式典が終わった。記者たちが質問を浴びせた。

「会長、今後のご予定は。グループの経営はどうなさるおつもりですか?」

強しはマイクを置いた。

「飯を食いに行く」

強しは一人で建物の外へ出た。本社の前にずらりと並んだ高級車を通り過ぎ、道を渡り、向かい側のバス停へと歩いていった。古びた路線バスがやってきた。強しはバスに乗り込み、交通カードを読み取り機にかざす。開いている席に座った。窓の外で、藤堂グループの本社ビルが遠ざかっていく。強しは窓の外をただ見ていた。何の表情もなかった。

バス停で降り、路地を歩いた。見慣れた路地だった。コンクリートの壁、狭い階段、古びた屋根。しかし、変わったものがあった。路地の突き当たり、古びた建物があった場所に、小ざっぱりとした二階建ての建物が立っていた。窓ガラスは大きく磨かれている。白い壁には、真新しい看板がかかっていた。「静堂」。文字の書体は、以前の店のそのままだった。強しは自動ドアの前に立った。ドアが開く。出汁のいい香りが溢れ出してきた。厨房はオープンキッチンになっていた。静がガスコンの前で土鍋をかき混ぜている。頭にはまだ手術の跡がうっすらと残っていたが、その顔には血色が戻っていた。カウンターには順が座っていた。スーツ姿だった。カウンターの横の壁には、小さな看板がかけられていた。「安らぎセレモニー 代表取締役 佐々木順」。客の一人が会計をしていた。順が笑顔でレシートを渡しながら、ドアの方を見た。強しと目があった。順はカウンターから飛び出すように出てきて、深く腰を折った。

「お帰りなさいませ。お待ちしておりました」

「お帰り。お腹空いてるだろう。ラーメン作っておいたよ」

静が言った。強しは入り口のハンガーに上着をかけ、棚の上からエプロンを手に取ると、それを腰に巻いた。

「何をなさるおつもりですか」

「ホールが忙しいだろう。私が給仕をする」

「いえ、大丈夫です。今日はどうぞ座っていてください」

「いいから。じっとしていたら、身体が鈍る」

強しはそう言って、客のいるテーブルの方へ歩いていった。空のコップを水で満たす。客が顔を上げた。

「あ、どうも」

強しは軽く会釈をし、次のテーブルへと移動した。

昼の営業が終わった。三人はテーブルに座った。順が書類を取り出した。

「今月の決算報告です。ご覧になりますか?」

「初月ですが黒字です。額はまだ小さいですが」

強しは書類を覗き込んだ。

「よくやった。初月で黒字なら上出来だ。今後は地域の葬儀社と提携を結び、適正な価格で質の高い葬儀サービスを直接提供していくつもりです。不当な料金を請求することなく、誠実に」

「そうだな。それが正しいやり方だ」

「三年以内に、この地域でかっこたる地位を築けると思います」

強しは書類を置き、順を見た。

「よくやっている。私はお前を誇りに思う」

静が厨房からチャーシューの盛り合わせを持ってきて、二人の前に置いた。

「食べながらやりな。飯を食うのも仕事のうちだよ」

強しが箸を取った。チャーシューを一切れ、順の皿に乗せる。静が、強しの皿にチャーシューを乗せた。順はその様子を見て、書類を畳んだ。

「今日のスープ、いつもより味が濃い気がしますが」

「骨をいつもより長く煮込んだんだよ。この間、常連さんが少し味が薄いって言ってたからね」

「あの常連さん、今日はこっちの方がずっとうまいって言ってましたよ」

「私もそう感じた。さっき給仕をしながら、一口飲んでみたんだ」

「給仕をしながらスープを飲む客がどこにいるんだい。呆れたように静が笑った。順はその笑い声を聞いて釣られて笑った。強しはチャーシューをもう一切れ口に運んだ。ゆっくりと味わうように噛んだ。何十年も重役室の革張りの椅子に座ってきた。広い食卓で一人で飯を食ってきた。誰も、スープの味が濃いとも薄いとも言ってはくれなかった。強しは箸を置いた。そして笑った。声が出た。本当の笑い声だった。順が驚いて強しを見た。静も見た。強しは、声を上げて笑っていた。

「なんだい? 何がそんなにおかしいんだ」

「全部だ。この飯も、このスープも。そして、ここにこうしていることも。全部がいい」

午後の日差しが、定食屋の中を温かく満たしていた。藤堂強しは、生涯で何千人もの人間を従えて生きてきた。でも、心から彼のそばにいてくれた人間は、一人もいなかったのかもしれない。血を分けたと信じていた息子は牙をむき、部下たちは背を向けた。そんな彼が人生で最も低い場所で出会ったのは、棺の中で口を塞いでくれた青年と、何も聞かずに扉を開けてくれた女将だった。それは金でも地位でもなく、ただ人との温かい繋がりだった。冷たく広い会長室の椅子よりも、狭く古びた定食屋の木の椅子の方が、ずっと温かいことがある。人生最大の財産とは、銀行口座の残高ではなく、隣で一緒に笑ってくれる人の存在なのだと、この物語は教えてくれるのかもしれない。

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