居酒屋の座敷に、倉田哲也の声が響いた瞬間、時計の針が止まったかのように空気が凍りついた。新入社員歓迎会の上座で、第一営業部長である倉田が、白いブラウス姿の新人・宮本里見に向かって、見下すような笑みを浮かべながら言い放った。「中卒で雇われ先のない底辺女は、便所掃除でもしてろよ。」周囲の社員たちは、彼女が泣き崩れるのを待っていた。しかし里見は怒鳴り返すことも、泣き叫ぶこともなかった。ただ静かに一礼し、背筋をピンと伸ばしたまま答えた。「はい。」倉田は一瞬だけ目を細めた。周囲も言葉を失ったが、倉田だけはすぐに笑い直し、手に握っていた赤い封筒、その中の中学校卒業証明書を指でなぞった。里見は口を開いた。「私は9年間、毎日働いてきました。母のために。その9年間を、あなたの一言で終わらせるわけにはいきません。」宴会場の奥で、会長付き秘書の内田マリが静かにスマートフォンを構えていた。彼女は思った。耐えている。今はただ、背筋を伸ばして耐えているだけだ。あの言葉の裏側に、里見だけが握りしめている答えがあった。しかしこの時、倉田も、社員たちも、彼女の正体を知らなかった。翌朝、緊急の役員会議で、部下を見下した男の肩書きがどう砕けるのか。そしてあの新入社員が本当は何者だったのかが、明らかになることになる。
時間は3週間前に戻る。東京都千代田区、栄光物産株式会社の本社ビル。入社式は午前10時だった。それより1時間以上早く、里見はロビーに立っていた。午前8時50分、まだ清掃員しかいないエントランスで、里見は静かに深呼吸をした。手の中には、折りたたまれた就職通知書があった。「宮本里見様、弊社の選考を通過されました。」9年間、この一枚を目指して働いてきた。里見はそれをポケットに収め、ガラスの扉を押した。総務部に配属された。9人の同期の中の一人。自分のデスクには分厚い引き継ぎファイルが積まれていた。表紙には「総務部業務マニュアル(電話対応版)」と書かれている。里見はカラーボールペンと付箋を取り出し、ページを開いた。1時間後、先輩社員の西村が出社してきた。「おはようございます。先に資料を読もうと思って。」「あのファイル、全部読んだんですか?」「はい。ここ、3点確認させて欲しくて。」付箋が3枚、それぞれのページに貼ってあった。西村は目を細めた。この子は本物だ。その確信が、この日から変わることはなかった。一週目から仕事は確かだった。簿記の知識が実務に直結した。エクセルの関数は先輩社員より速かった。入社3日目に提出した資料に、上司が「よくできている」と書いた。入社4日目、倉田がその噂を聞いた。「今年の新入社員に中卒がいるって本当か?」「総務部の宮本という子です。」倉田の顔が歪んだ。「中卒が総務に来たのか。人事が何考えてんだ。」その瞬間から、倉田の嫌がらせが始まった。「ああ、宮本さん。中学で終わりにした人ね。」周囲に聞こえる声で言った。二週目の月曜日、朝の会議で里見が提案した。「この備品管理なんですが、タブレット入力に変えると入力ミスを防げます。試させてもらえますか?」「面白いね。やってみよう。」すると廊下から顔を出した倉田が会議を遮った。「中卒が考えた案を採用するの? 学歴のない人間の提案って、穴があるもんだよ。」「倉田さん、俺は効率の話をしてるだけだ。」「事実でしょ。」会議室が静まり返った。里見は前を向いたまま何も言わなかった。今、ここで戦う時ではない。仕事で答えを出せる時が必ず来る。そう自分に言い聞かせていた。三週目、昼休みの資料室でのことだった。棚の整理をしていた里見の背後で扉が開いた。「あら、宮本さん、こんな所に隠れてたの。」「整理をしています。」「休み方も知らないんだね。ご苦労様。」「失礼します。」そう言って棚に向き直ると、倉田の笑い声が廊下に消えていった。里見は棚の端に片手を置いた。大丈夫。まだやれる。心の中で呟き、また手を動かした。遠くから西村は声をかけられずに、ただそれを見ていた。その日のうちに、西村は人事へ相談メモを提出した。証拠が弱いと言われたが、記録だけは残った。歓迎会の前日、倉田が総務フロアに現れた。「宮本さん、明日の歓迎会、宴会芸の準備はできてるのか?」「と申しますと?」「学歴のない人間が場の空気に貢献できるのって、そのくらいだろ。ちゃんと笑いを取ってこいよ。」里見は前を向いたまま、静かに答えた。「精一杯努めます。」倉田は「ふん」と鼻で笑って背を向けた。歩き去る足音が遠ざかった後も、里見はしばらくそのまま前を向いていた。
そして、あの歓迎会の夜を迎える。居酒屋の座敷には、各部署から30名近くが集まっていた。その場に内田マリもいた。「新入社員の顔を見てきてほしい」という会長からの一言があったからだ。内田は会場の端の席に座り、料理には手をつけず、会場全体を見渡していた。自己紹介の順番が回ってきた。里見は立ち上がり、声を張った。「宮本里見と申します。24歳です。中学卒業後、飲食、清掃、工場など複数の仕事を経験してまいりました。現場で9年働き、独学で簿記二級とMOSを取得しました。総務部で精一杯頑張ってまいります。どうぞよろしくお願いいたします。」一瞬の静寂があった。そして拍手が置きかけた、その時だった。倉田が立ち上がった。「中卒で雇われ先のない底辺女は、便所掃除でもしてろ。」宴会場が凍りついた。里見は静かに一礼し、「はい」とだけ答えた。内田がスマートフォンを構えたのも、この瞬間だった。
ここで、宮本里見という人物について話さなければならない。彼女は2002年、東京の下町に生まれた。父は瀬川達也。母は宮本さち子。父の記憶はほとんどない。2008年、里見が6歳の時、両親が離婚した。母さち子の元で、古い木造アパートの一室に育った。7歳の里見が「お父さんってどんな人?」と一度だけ聞いた時、母は「優しい人だったよ。仕事が好きで真面目な人」と答えた。里見はそれ以上聞かなかった。母が悲しそうな顔をしたから。母は近所の食堂で働いていた。朝6時に出かけ、夜8時に帰ってくる。疲れた顔でも、玄関で必ず「お帰り」と言ってくれた。2017年、里見が15歳の春。母さち子が心臓病で倒れた。病院に着くと、母はベッドに横たわっていた。チューブがつながれ、顔は真っ白だった。「里、来たの。」手術が必要だった。退院後も医療費は毎月重くのしかかった。里見は「進学はいい」と言った。「絶対にダメ。あなたの人生なんだから。今は私が何とかする。やれるから。」母は泣いた。里見は泣かなかった。泣いてる場合じゃない。ハローワークに向かった。中学校を卒業した翌日から仕事を始めた。最初は近所のファミリーレストランのホール。立ちっぱなしの8時間。3ヶ月後、深夜の清掃業務を掛け持ちした。午前1時の廊下を、バケツを引きずって一人で歩いた。ただ便所を磨いていた。母が入院できる日のために。17歳、工場の流れ作業も始めた。バスで帰る30分、膝の上に簿記のテキストを開いた。文字が揺れた。目がかすんだ。それでもページをめくった。これが自分の道だから。2年後、簿記二級を取得した。母は何も言えなかった。ただ、里見の手を強く握った。22歳になった頃、母が言った。「里、もういいのよ。自分の仕事を探しなさい。」「もう探してる。大丈夫。」就職活動を始めた。しかし「中卒」の壁は厚かった。「高卒以上」を条件としており、学歴の条件が合わないため、書類選考で落ち続けた。30件を超えた頃、それでも思った。自分を見てくれる場所は、どこかにあるはずだ。それが手を動かし続けさせた。その時、一つの求人票が目に止まった。「学歴不問。誠実な人材を歓迎します。」栄光物産。売上500億円。東証スタンダード上場。代表取締役、瀬川達也。その名前のところで指が止まった。穏やかな目をした男の写真。見覚えがあるような、ないような気がした。里見は画面を閉じた。関係ない。私は私で入る。母の姓、宮本のまま応募し、選考を全て自力で通過した。入社通知が届いた夜、里見は母のいる部屋のドアを開けた。「入れた。栄光物産さん。宮本里見で入れた。」「え?」母は立ち上がろうとして、膝から崩れた。声を上げて泣いた。「9年間、よく頑張った。よく頑張ったね。」里見は泣かなかった。母の方に手を置いた。これからが本当のスタートだから。自分の力で入れた。それが9年間の答えだった。入社前日の夜、里見はアパートの机に向かい、これまで何度も繰り返してきた確認をした。大丈夫。これがあれば、どこでも戦える。
そして、瀬川達也について。彼は1959年、東京の下町に生まれた。17歳で高校を中退し、飲料品の卸売業を始めた。「信用は1日1日積むもの。」1986年、27歳で栄光物産を設立した。その一言が、創業から約40年の礎になった。不況で会社が傾いた時も、従業員を一人も切らなかった。「学歴より誠実さ。肩書きより行動。」創業以来変わらない言葉だった。離婚後、瀬川は娘に連絡しなかった。向こうの人生がある。邪魔をしてはいけない。18年間、そう言い聞かせてきた。しかし、人事部から報告があった。「今年の新入社員に、宮本里見という方がいます。」瀬川は内田を呼んだ。「宮本里というこの子の戸籍を確認できるか。」「会長のお嬢さんです。ですが、一切使っていません。書類選考から最終面接まで、全て宮本里見の名前で通過されています。」瀬川はしばらく何も言わなかった。窓の外の東京の空を長く見ていた。見守っていよう。それだけでいい。翌朝、午前8時10分。会長室のドアをノックする音がした。内田だった。いつもより一段、表情が硬かった。「昨夜の歓迎会について、お伝えしたいことがあります。」瀬川が顔を上げた。「倉田部長が宮本里見さんに対して、公開の場で侮辱発言をしました。動画を撮影しています。ご覧になりますか?」瀬川は無言で頷いた。内田がスマートフォンを差し出した。動画の中、倉田の声が流れた。「中卒で雇われ先のない底辺女は便所掃除でもしてろ。」瀬川の表情は動かなかった。ただ、目が細くなった。そして、動画の中で背筋を伸ばして耐えていた里見を見た。宮本里見。これは、私の娘だ。内田は小さく頷いた。知っていました、と目が言っていた。瀬川は内線を取った。「緊急取締役会を招集してくれ。今日の午前10時、全役員を。」電話を切った後、瀬川は窓の前に立った。静かに息をついた。
午前10時、役員会議室に取締役と執行役員が集まった。誰も招集の理由を知らなかった。会長の直接召集は異例だと囁かれていた。倉田は理由を知らされないまま、昨夜の酒も抜けぬまま入室してきた。瀬川会長が入室すると、全員が立ち上がった。「着席してください。」重みのある声だった。瀬川はスクリーンの前に立った。「まず、一本の動画を見てもらいます。」映像が流れた。会議室に倉田の声が響いた。「中卒で雇われ先のない女は便所掃除でもしてろ。」倉田の顔から血の気が引いた。映像は、立ったままの里見と沈黙する宴会場で止まった。会議室が静まり返った。全役員の視線が倉田に移った。瀬川が口を開いた。「この動画の新入社員、宮本里見さんについて申し上げます。」役員の視線が瀬川に向いた。「彼女は、私の実娘です。」会議室が固まった。倉田だけが、全身が震え始めた。「む、娘? 会長の実の娘だと? 便所掃除でもしてろ、と。その相手が、この会議室にいる会長の娘。」倉田の頭の中で、何かが崩れる音がした。「ち、違います。そんな話は聞いていない。人事も教えてくれない。」「教える必要はなかった。彼女は姓を使っていない。」瀬川が続けた。「宮本は私の姓ではなく、元妻の姓です。彼女は私の立場を一切使わず、母親の姓のまま自力で選考を通過しました。その事実は、採用後に確認しました。」一人の役員が手元の資料に目を落とした。宮本里見、入社以来の業務評価「A」。提案採用数1件。備品管理業務のエラー率を70%削減。倉田部長によるハラスメント被害申告、1件。その書類が会議室をゆっくりと回った。入社してわずか3週間で、それだけの実績と傷を同時に抱えていた。倉田が立ち上がろうとしたが、膝の力が抜けた。「あの、その、知らなかったんです。本当に知らなかったんです。部長。」声が裏返っていた。顔が蒼白になっていた。「相手がお嬢様だと知っていれば、絶対にそんなことは言わなかった。知っていれば。」すると内田が静かに記録端末を置いた。「では、一般の中卒社員なら、言ってもよかったということでしょうか?」「そ、それは、言い方を…」取締役たちが倉田を見た。誰も何も言わなかった。公開の場で人格を否定した時点で、役職者として終わっている。瀬川は倉田を見なかった。静かに、事務的に続けた。「倉田哲也氏の第一営業部長職を、本日付けで解任します。給与については30%の減給処分とします。企画調整室への配属も併せて発令します。」倉田が声を出そうとしたが、言葉が続かなかった。「ま、待ってください。20年、尽くしてきたのに。」「相手を便所扱いした以上です。」瀬川は着席した。解散する際、取締役の一人が隣の役員に小声で言った。「あの子、動画の中でも背筋が伸びてたな。」「ああ、会長のお嬢さんだったんだな。」廊下の声が遠ざかっていった。誰も倉田に声をかけなかった。倉田は最後まで一人、椅子に座っていた。ドアが閉まった後、「知らなかっただけだ。」その言葉が頭の中で回り続けた。しかし、「知っていれば言わなかった」ということは、「知らなければ言ってもよかった」という意味だ。倉田は、誰に対してもずっとああだったのだ。ただ、言い返す者がいなかっただけだった。ポケットの名刺、「第一営業部長」の文字が、指の腹で熱を失っていった。
翌日、社内に辞令が掲示された。倉田哲也、第一営業部長職を解任、企画調整室へ。企画調整室は実質的な窓際だった。総務が倉田の名刺を回収し、シュレッダーにかけた。紙片が床に散ったが、倉田は拾い上げることもできなかった。その日から、倉田は誰とも目が合わなくなった。廊下を歩くと社員が視線をそらした。かつて威圧してきた部下たちも近づかなかった。「あれが、学歴で人を潰してきた末路か。」誰かの呟きが倉田の背中に刺さった。一週間後、社内アンケートで倉田の不適切発言の申告が19件集まった。「高卒のくせに意見するな。」「お前のような学歴ではこのフロアに来るな。」「我慢するのが普通だと思っていた。」声が次々と出た。過去2年間に人事部へ提出された倉田へのハラスメント申告が4件あったことも判明した。いずれも「証拠不十分」として棚上げにされていた。担当していたのは人事部副部長の安水だった。取締役会でその事実が明かされた時、「申告を受けながら放置したのは、組織の問題だ。ハラスメントを見て見ぬふりした者も責任を問う。」瀬川は静かに言った。安水は副部長を解任され、総務補佐への異動となった。廊下に出た安水は、しばらく壁に手をついた。「証拠不十分」と自分が記した4件の書類が頭に浮かんだ。揉め事にしたくなかった。その一言で、4人を見捨てていた。安水は目を閉じ、ゆっくりと壁から手を離した。同日、人事は倉田に研修受講と始末書の提出を命じた。「被害者への直接接触は禁止です。違反すれば、さらに厳重な処分を検討します。」「わかりました。」声は小さく、かつてフロアを支配した響きは消えていた。さらに一週間後、あの動画が社外にも流出した。誰が流したかは分からなかった。しかし「倉田哲也」という名前はすぐにネット上の批判記事のタイトルに並ぶようになった。学歴差別発言の部長解任が話題となった会社への問い合わせ電話も相次いだ。広報担当者が対応に追われた。企画調整室で、倉田はその話を壁越しに聞いた。誰かが小声で教えてくれた。「倉田さん、外でもかなり広まってるみたいで。」倉田は無言で頷いた。何も言えなかった。企画調整室で倉田は一人、机に向かっていた。仕事は書類整理と会議のメモだけ。電話は1日に3本も鳴らない。かつて20人の部下を束ねた部長が、今は窓のない部屋で一人、資料を閉じている。かつての取引先との懇親会の案内が郵送されてきた。自分の名前だけが、招待リストになかった。ある日、廊下で里見とすれ違った。里見は前を向いて普通に歩いていた。「おはようございます。」そう声をかけてきた。倉田は何も言えなかった。一礼だけして俯いた。廊下の先に消えていく後ろ姿が、しばらく頭から離れなかった。
3ヶ月後、倉田は人事部に申し出た。「退職を考えています。」人事部長は短く答えた。「そうですか。」引き止めはなかった。半年後、倉田哲也は退職届を提出した。20年在籍した会社を、一人で去った。机の引き出しを片付けている時、20年前に書いた手帳のメモが出てきた。「学歴こそが人間の価値を決める。」倉田はそのメモをしばらく見ていた。破らなかった。捨てなかった。ただ、引き出しの底に戻した。20年間、この一言で人を見てきた。採用も評価も侮辱も、全てここから始まっていた。もし最初からそう思わなかったら、どれだけの人間を傷つけずに済んだだろう。退職から1ヶ月後、倉田は自宅で履歴書を書いていた。栄光物産株式会社、第一営業部長。解任後の肩書きには触れず、古い肩書きのまま書いていた。退職理由、「一身上の都合」。ペンが止まった。本当の理由は、あの夜の宴会場の光景だった。立ったままの里見。「中卒で雇われ先のない底辺女。」自分の声が頭の中で再生された。倉田は目を閉じた。名門大学に入った18歳の自分。学歴がある自分は違う。20年間、疑わなかった。しかし、9年間働きながら資格を取った24歳が底辺か。深夜の廊下をバケツを引きずって歩いた人間が。医療費を払うために朝から深夜まで働いた人間が。「知らなかっただけだ。」言いかけて、やめた。知らなくても、あれは言ってはいけなかった。倉田は履歴書を何社分も書き直した。30社に送った。30社から返信はなかった。ある面接で、担当者に言われた。「退職の本当の理由を、もう少し詳しく教えていただけますか?」倉田は「一身上の都合で」と言いかけて、止まった。「中卒」が何をしていたのか。その問いへの答えを、まだ持っていなかった。ただ、30社の不採用通知が一つのことを教えてくれた。俺は、社会に何も残してこなかった。転職エージェントに登録してみた。担当者は苦笑いしながら言った。「ご経歴は素晴らしいのですが、少し時間を置かれてから、改めてご相談ください。」「名前が出ているので」とは言わなかった。しかし、意味は分かった。やがて、ある日雇いの仕事を見つけた。倉庫の仕分け作業だった。現場リーダーは、高卒の50代の男性だった。黙々と働き、的確に指示を出し、誰よりも早く動いた。倉田はその背中を見ながら、何も言えなかった。ある日、現場に新人が入ってきた。20代前半、おそらく高卒か中卒だろうと倉田は思った。その新人が重い荷物を積み上げて、バランスを崩した。倉田は思わず声を上げかけた。「何やってるんだ、こんなことも。」しかし止まった。かつて同じ目で部下を見下していた自分が蘇った。代わりに、静かに言った。「こっちから積んでいけば、崩れにくい。やってみろ。」「ありがとうございます。」新人が頭を下げた。20年間で初めて、感謝の言葉が軽く聞こえなかった。帰り道、電車の窓に自分の顔が映っていた。今日初めて、誰かの役に立てた。学歴ではなく、ただ先に経験したことだけで。その事実が、妙に胸に刺さった。ある夕方、コンビニの前でかつての部下と出会った。部下は一瞬驚いた顔をした。「倉田さん。」倉田は笑おうとしたが、言葉が出なかった。部下は軽く一礼して通り過ぎた。後ろ姿が遠ざかる。倉田はしばらくそこに立ち尽くした。20年間、自分が上だと信じていた男が、今は道の端でただ佇んでいた。
その夜、倉田はアパートの机に向かった。便箋を一枚取り出し、「宮本里見様」と書いた。ペンが止まった。あの夜のことを謝りたい。しかし、今更謝って何になる? 傷つけた言葉は消えない。書き直しの便箋が5枚になった。それでも、最後の一文が書けなかった。謝ることより、変わることだ。倉田はペンを置いた。終わらない手紙が、机の上に残った。その夜から、倉田の言葉が少し変わった。ある夜、現場リーダーが声をかけてきた。「あんた、最近教え方が変わったな。」倉田は「そうですか」とだけ言った。認める言葉が見つからなかった。リーダーは微笑んで続けた。「悪くない。それでいい。」倉田は俯いた。「それでいい」。その四文字がどこかに刺さった。20年間、部下に「それでいい」と言ったことがあっただろうか。
一方、取締役会の翌日には、里見にも動きがあった。人事部から連絡が来た。「宮本さん、本日付けで正式な正社員への登用をお伝えします。書類を渡されます。試用期間の評価は文句なしです。担当上司からのコメントがあります。『備品管理の効率化提案、エラー率を70%削減。学歴に関わらず、誰より誠実に仕事と向き合った社員です』と。」里見は「ありがとうございます」と頭を下げた。会議室を出ると、廊下に西村がいた。「里見さん、どうだった?」「正式に登用してもらいました。」「よかった。当然だよ。ずっと見てたから分かってた。」「西村さん、ありがとうございました。ずっと見ててくれたの、分かってました。」里見は少し笑った。肩の力が少し抜けた。それから人事部長から連絡が来た。「本日の業務終了後、会長室にお越しください。」里見は画面を見た後、少し間を置いた。「わかりました。」午後6時。他の社員が帰り始めた後、里見は役員フロアのエレベーターに乗った。ドアが閉まる瞬間、廊下の時計が目に入った。9年前、15歳の自分が初めて仕事に行った朝を思い出した。ここまで来た。ただそれだけを思った。会長室のドアの前に立った。ノックした。「どうぞ。」ドアを開けると、瀬川が窓の前に立っていた。夕暮れの東京が窓の向こうにあった。二人はしばらく無言だった。「座りなさい。」里見がソファーに腰を下ろした。瀬川は窓の外を一度見て、里見に向き直った。「9年間、本当に苦労をさせた。」静かな、短い一言だった。しかしその中に、18年分の重さがあった。里見は少し間を置いて言った。「知らなくて良かったと思っています。」「そうか。」「自分でやりたかったので。会長の娘として入ってたら、ずっとそう見られて働くことになる。それは嫌でした。」瀬川は何も言えなかった。なぜ連絡してこなかったのか、と里見が言いかけた。でも言わなかった。その答えは分かっていたから。瀬川は18年間言い続けてきた男だった。「向こうの人生がある。邪魔をしてはいけない。」その言葉が、いつの間にか自分を守るための言い訳になっていた。しかしその間、娘は一人で便所を磨いていた。工場で立ち続けた。深夜のバスでテキストを開き続けた。500億円の会社の創業者の娘が、誰の助けも借りずに。しばらく二人は黙っていた。部屋の時計が静かに時を刻んでいた。「お母さんは、元気にしているか?」「はい。手術してから、安定しています。」「そうか。よかった。」また沈黙があった。夕日が窓を染めていた。里見はゆっくりと立ち上がった。「それでは、失礼します。」ドアに向かいかけて、足を止めた。振り返った。「会社に入れて、よかったです。採用ページに『誠実さを何より大切にしてきた会社』って書いてあって。本当だったので。」瀬川は窓の前で静かに頷いた。ドアが閉まった。瀬川は一人、夕暮れの東京を見ていた。会長室に静寂が戻った。窓の外では、東京の明かりが一つ一つ灯り始めていた。9年間、一人でやってきた。これからは、この会社がある。その夜、里見は母に電話した。「お母さん、正式に正社員になれた。」「本当に?」「うん。あと、今日、お父さんに会った。」電話の向こうで沈黙があった。「そう。」「どんな人だった?」「厳しそうでも、誠実な人だった。」母が泣く声が聞こえた。里見は泣かなかった。泣くのはもう十分だ。電話口でしばらく母の泣く声を聞いていた。何も言えなかった。それでよかった。電話を切った後、里見は鞄の中に手を入れた。指先に、あのテキストが触れた。大丈夫。全部役に立った。声には出さなかった。心の中でそう思いながら、また鞄に戻した。翌朝、里見はまた誰より早く出社した。今日の業務を書き始めた。ここが自分の場所だ。学歴で決まる場所ではない。仕事で毎日、自分で作っていく場所。9年間、ずっとこの光を見ながら仕事に行った。いつかちゃんとした仕事をしたいと思いながら、バケツを引きずって歩いた廊下の夜中。その全部が、今日の自分につながっていた。西村が出社してきた。「おはようございます。今日も早いですね。」「おはようございます。」里見は笑った。入社以来、心の底から笑えた気がした。汗を流す仕事は決して恥ずかしくない。誠実さは、必ず誰かの目に届く。同じ朝、東京の下町のアパートで、宮本さち子は仕事着に袖を通していた。昨夜の電話を思い出した。里、本当に、よく頑張ったね。いつもの朝がまた始まった。宮本里見の物語は、まだ始まったばかりだった。
