一生かけて積み上げてきたものが、一枚の薄い紙きれによって静かに崩れていく瞬間がある。誰かに頼ることを恥として生きてきた人間が、自分の手で握りしめた書類の意味を読み解いたとき、その人の内側で何かが完全に折れてしまう。その音は外には聞こえない。だが確かに、そこにある。
埼玉県のとある町外れに、昭和五十年代に建てられた古い団地がある。住民たちはただ「団地」と呼んでいた。コンクリートの外壁は雨と排気ガスで黒ずみ、各階の手すりには錆が浮いていた。廊下は狭く、共用灯の蛍光灯は何本か切れたまま放置され、昼間でも薄暗かった。住人の多くは高齢者だった。年金だけで暮らす者、体が動く間はパートで食いつなぐ者、家族がいても連絡が途絶えている者。そういう人々が、共用廊下で目が合うときだけ浅く頭を下げ合い、それ以上は踏み込まない距離感で生きていた。
松崎浩は六十八歳だった。背は高いが、かつて伸びていた背筋は今、わずかに内側へ丸まっていた。何十年も工事現場や屋外で体を縮めながら働いてきた姿勢だった。顔は日焼けで浅黒く、顎には白い無精髭が均一に生えていた。左耳は長年の機械音で少し聞こえが悪くなっていたが、誰にも言わなかった。補聴器の値段を一度調べて、それっきり調べるのをやめた。
浩の仕事は交通誘導員だった。道路工事の現場に立ち、車や歩行者を誘導する。若い頃から体を使ってきた男が、定年後にたどり着いた仕事だった。早朝に自転車で集合場所へ行き、会社の軽トラックに乗って現場へ向かう。それが浩の毎朝だった。帰宅すると、決まって玄関の外で長靴を脱いだ。泥や埃を部屋の中に持ち込みたくなかった。毎晩、使い古したプラスチックの小箱を取り出し、ポケットの中の小銭を一円、五円、十円、百円と種類に分けて入れた。財布の中に小銭を混在させておくのが嫌だった。ただそれだけのことだったが、その動作が終わるまで一日が終わった気がしなかった。
妻の松崎知恵子は六十五歳だった。小柄で骨格が細く、ぱっと見には七十代に見えることもあった。動きは機敏で、台所と居間の間を小さな足音で素早く往復していた。ただ、その動き方には常にどこか落ち着かなさがあった。目はいつもわずかに緊張していて、廊下で知らない人とすれ違うと、必要以上に深く頭を下げた。知恵子の仕事は、近くの格安スーパーで夕方から夜の惣菜コーナーを担当する作業員だった。立ちっぱなしの仕事で、冬になると手の冷たい食材に触れる時間が長く、指の感覚が鈍くなった。夜、眠れないことも多かった。眠れない夜は、スーパーのレシートを引き出しから出して支出を確認した。特に確認することがなくても、その動作が習慣になっていた。
二人はこの団地の三階、三十四平米の部屋に二十年以上住んでいた。六畳の和室と、台所兼のダイニング。トイレのドアは開けるたびに引っかかり、力を入れて引かないと開かなかった。それでも二人にとって、ここは二十年かけて自分たちの生活に合わせてきた場所だった。押入れの中の何がどこにあるかを体が覚えていた。廊下のどの板が軋むのも知っていた。
二〇二六年十一月、ある雨の夕方。浩は現場から帰る途中、自転車を止めて濡れたカッパを丁寧に脱いだ。その日は朝から冷たい雨が降っていた。団地の一階の郵便受けの前で立ち止まり、錆びた蓋を開けると、折り込みチラシが二枚と白い封筒が一通入っていた。封筒の左上には、市の住宅管理課のマークが印刷されていた。表面には赤いインクで「重要」と書かれていた。浩はその封筒をチラシの下に挟んで、濡れたカッパを持ったまま階段を上がった。
部屋に入ると、台所から出汁の匂いが漂ってきていた。知恵子がガスコンロの前で小鍋の中身を静かに混ぜていた。浩が「今日は遅かったね」と声をかけられ、返事をしながら手を洗い、こたつの前に座った。テーブルの上にあった知恵子の書類の束を脇に寄せて、封筒を表に向けた。封筒の「重要」という文字をもう一度確認してから、ゆっくりと封を切った。
中に入っていたのは書類が二枚。一枚目が通知文、二枚目が手続きの説明と問い合わせ先の一覧だった。浩は一枚目を手に取り、文章を上から順に読んだ。老眼で文字が少し滲んだが、内容は理解できた。
この団地は老朽化に伴い、建て替え計画の対象区域に指定されました。現在の建物の解体は二〇二七年度末を予定しています。居住者の皆様には、二〇二七年八月末までに退去を完了していただく必要があります。支援金として世帯当たり一定額の支給が予定されていますが、新たな住居の確保については各世帯にて対応ください。
浩は文章を最後まで読んでから、最初のくだりに視線を戻した。書類の右上に、支援金の目安として小さく書かれた金額があった。十万円にも満たなかった。台所では知恵子がまだ包丁を使っていた。浩は書類を膝の上に置いたまま、しばらく動かなかった。頭の中で計算が始まった。毎月の収入から家賃と光熱費と食費を引いて残る額。その計算は何度もしてきたから、すぐに数字が出た。貯蓄の総額を新しい住居に必要な費用に当てはめた。そして何より、高齢者が新しく賃貸契約を結ぶことの難しさ。以前、近所の老人が新しい部屋を探すのに半年かかり、遠くの市の老朽化したアパートにしか入れなかったという話を廊下で聞いたことがあった。計算の答えは、どう積み重ねても同じ場所に着地した。
知恵子が台所の作業を終えて、麦茶の入ったコップと茹でたブロッコリーを乗せた盆を持って和室に入ってきた。浩の膝の上の書類に目を落とし、「何それ」と聞いた。浩は黙って書類を差し出した。知恵子は老眼鏡をかけて文章を読んだ。読むのに時間がかかった。途中で一度、目線が止まった。読み終えてから、知恵子は書類をこたつの天板の上に置いた。二人とも何も言わなかった。ヒーターの音と外の雨の音だけがあった。
「ここを出た後は、どうするの」
質問というより、声に出して確認するような言い方だった。浩は答えなかった。答えがないわけではなかったが、言葉にするとそれが本当のことになるような気がした。
その沈黙は、ノックの音で破られた。最初は二回、間を置いてまた二回。ためらいのある音ではなく、強く短い音だった。知恵子が立ち上がり、玄関に向かった。しばらくして、玄関のあたりで知恵子が息を飲む音がした。それから靴が床に脱ぎ捨てられる音がした。廊下に人影が入ってきた。
息子の直だった。四十二歳。背は浩に似て高かったが、頬がこけ、顎のあたりには不揃いな無精髭が塊になってへばりついていた。ジャンパーの袖口と首回りは薄汚れ、縫い目がほつれていた。右手にはコンビニのビニール袋を一つ持っていて、中に服が丸めて詰め込まれているのが透けて見えた。雨に濡れたのか、肩から袖口にかけてが暗い色になっていた。
直は何も言わなかった。再会の挨拶でも、謝罪でも、説明でもなかった。視線を外さず、そのまま和室の畳の上に入ってきて、こたつの横に座り込むと、そのまま横になった。ビニール袋は脇に投げ置かれた。浩はその場から動けなかった。十年以上連絡がなかった息子が、いつかこういう形で戻ってくるかもしれないという予感は、どこかにずっとあった。ただ、実際にそれが起きたとき、体の反応が追いついてこなかった。
直は横になったまま目を閉じた。外の雨が窓を叩き続けていた。こたつの天板の上に、市からの通知書が裏向きに置かれたままだった。浩は膝の上の拳を少しだけ強く握った。
直が戻ってから一週間が経った。その一週間で、三十四平米の部屋の空気は確実に変わった。直は一度も外に出なかった。初日の夜、知恵子が布団を出して和室の隅に敷いた。直は何も言わず、翌朝も昼も起き上がることなく横になっていた。三日目からはテレビをつけるようになった。朝から夕方まで、古い液晶テレビをつけたまま、ソファ代わりのクッションに寄りかかって画面を見ていた。音量は大きくはなかったが、それまで静かだった部屋にテレビの音が常にあることで、浩と知恵子の間の沈黙の質が変わった。
五日目の夜、浩が帰宅すると、直が台所にいた。冷蔵庫を開けて中を覗き込み、棚の引き出しを開けて中を探っていた。直は浩に気づいた様子はなかった。引き出しの奥から、浩の小銭入れを取り出した。蓋を開けて百円玉を数枚取り出し、ポケットに入れて引き出しを元に戻した。浩は止めようとした。口を開きかけた。だが声が出なかった。声を出した先に何があるかを考えたとき、体がそれを拒否した。言葉と言葉がぶつかり合い、それが壁を超えてしまったとき、この部屋の中で何かが変わってしまうという恐れが先に立った。翌朝、浩は小銭入れを確認した。百円玉が七枚なくなっていた。知恵子も、浩も、そのことを口にしなかった。
一週間も経つと、直の生活リズムは見えてきた。昼過ぎに起き、知恵子が用意した朝食を食べ、テレビかスマートフォンを見て過ごす。腹が減ったと言って、知恵子に何かを作らせるか、買い置きのパンや菓子を出す。夕方になると、浩の小銭入れから百円玉を抜いてコンビニに出かけ、缶酎ハイを買って帰ってくる。夜は飲みながらテレビを見て、深夜に寝る。食費も膨らみ、光熱費も上がった。電気代の明細が届いたのは直が来て六日目だった。先月より二千三百円上がっていた。酎ハイの空き缶は、知恵子が近所の住人に見られないよう、黒いゴミ袋に入れて二つ先の日のための集積所まで歩いて捨てに行った。
浩は会社に夜の追加シフトを申し込んだ。道路舗装工事の夜間工事だった。工事は夜中の十一時から翌朝五時まで行われ、浩は車道と歩道の境界に立って通過車両を誘導する役割だった。深夜の道路は冷えた。十一月の夜は、じっと立っているだけで体の熱が足元から抜けていった。それでも浩は同僚には何も言わなかった。ただ「もう少し稼ぎたいんで」というだけだった。
ある夜の仕事を終え、浩はコンビニで温かい缶コーヒーを一本買った。百二十円だった。それを手のひらで包みながら冷えた道路を歩いた。家に着く頃にはまだ温かさは残っていた。翌朝、そのコーヒーを知恵子に渡した。知恵子は受け取って台所に置いた。何も言わなかった。
ある日、浩が深夜の現場から帰宅すると台所の電気がついていた。直がコンビニのおにぎりと唐揚げをキッチンカウンターに並べて食べていた。イヤホンを片耳にかけてスマートフォンを見ながら食べていた。浩が入ってきても目を上げなかった。浩は台所に入れなかった。コップを取ろうと思ったが、直がカウンターの前に立っていたから、廊下に立ったまま直が動くのを待った。直は動かなかった。浩は何も取らずに和室へ入った。
和室には直のものが散らばっていた。脱いだ靴下が畳の真ん中に置かれ、ジャンパーが折りたたまれずに床に放置され、スナック菓子の袋が二つ、口を閉じずに転がっていた。そして、浩の布団のすぐ脇の壁。そこにあるのはコンセントが一つだけで、浩はそこに自分の充電器を挿していた。だが今、挿してあったのは直の充電器だった。浩の充電器は抜かれて床に置かれていた。浩は抜かれた充電器を拾い上げ、直の充電器を抜いて自分のものを挿した。それから直の充電器をコードを巻いて枕元に置いた。靴下を隅に寄せ、菓子の袋をゴミ袋の口の近くに置き、ジャンパーを三つ折りにして壁際に立てかけた。
その作業を終えたとき、浩は自分が何をしているのかを考えた。六十八歳の男が、四十二歳の息子のものを片付けている。深夜の現場から帰ってきて、体の芯まで冷えた状態で。その事実を言葉にすると、それがどういう意味を持つのかが見えてきた。台所の音が止み、直が部屋に入ってきた。直は浩を見て一瞬止まった。それから自分の充電器が枕元にあることに気づいて、床にしゃがんでコンセントに差し直した。浩の充電器を抜いて。浩は何も言わなかった。直も何も言わなかった。
布団の中で浩は天井を見た。直の寝息が聞こえ始めた頃、浩の目から水が出た。声は出なかった。体も動かなかった。ただ目の端から横に流れていくものがあった。浩はそれを拭わなかった。拭ったら、自分がそういう状態であることを認めることになる気がした。だから拭わないまま天井を見ていた。浩はその夜の仕事で得られる金額を頭の中で計算した。それが今、どのように使われているかも計算すれば出た。浩は計算するのをやめて、目を閉じた。
次の朝、知恵子の白米の量は浩の半分以下だった。浩が自分の茶碗から少し移そうとすると、知恵子は首を横に振った。出勤する前、浩が玄関の外で立ち止まっていると、隣の部屋の老婆が廊下に出てきた。老婆は浩と目が合うと軽く頭を下げた。浩も頭を下げた。老婆は視線を浩の背後の玄関ドアへ向けた。一瞬だけ。それからまた頭を下げて、植木のところへ歩いていった。廊下には直の靴が二足、増えたばかりのように出たままだった。浩はそのことを自転車に乗りながら考えた。
役所の窓口というのは、どんなに親切な言葉で包まれていても、その構造そのものが人を拒絶するようにできている。書類を出す。確認される。足りないものを指摘される。また出す。また確認される。その繰り返しの中で、立っている自分がどんどん小さくなっていく。それが一番辛いことだと、浩はその日初めて理解した。
この団地を出なければならないことはもう決まっていた。問題は、出た先がなかった。貯金を計算し直しても答えは変わらなかった。直が来てから一か月近くが経ち、食費と光熱費と直が持ち出した分の合計が、夜間シフトで稼いだ分を飲み込んでいった。来年の八月までに新しい住居を確保するために、公営住宅への申請以外に選択肢がなかった。
浩は平日の朝一番に休みを申請した。会社に電話して「午前中だけ用事がある」と告げた。詳細は言わなかった。当日、浩は普段の作業着ではなくスーツを出した。知恵子も、普段のパートの格好ではなく紺色のカーディガンを着た。二人で並んで玄関に立った時、浩はわずかに違和感を覚えた。こういう格好で二人並んで外に出たのがいつ以来だったかを考えた。思い出せなかった。
市営住宅の窓口は四番カウンターだった。待ち合いには高齢者か、高齢者に付き添ってきた家族が七人いた。四十分ほど待って、二人の番号が呼ばれた。窓口の向こうには、三十代前半の若い男性職員が座っていた。浩が書類を差し出して要件を説明しようとすると、職員は「こちらのシステムで内容を確認します」と言って、端末を操作し始めた。職員は画面を確認しながら、時々書類と見比べた。それから顔を上げ、柔らかい表情でゆっくりと話し始めた。
「現在のご住所の退去通知が来ているということですね。確認しますと、こちらのご住所に直様という方が同居されていますね」
浩は一瞬、返事を止めた。それから「はい」と答えた。
「直様は昭和五十九年生まれの四十二歳ですね。障害者手帳の交付はありますでしょうか」
「ないです」
職員は申し訳なさそうに眉をわずかに動かして、言葉を選ぶようにしながら話し始めた。
「市営住宅の高齢者世帯の優先枠というのは、六十五歳以上の方だけで構成される世帯か、あるいは要介護認定を受けていらっしゃる方がいる世帯が対象になっております。同居されている方が四十二歳で、就労困難であることを証明する書類がない場合は、残念ながら優先枠の対象外となってしまいます」
「それでも、一般の申請はできるのか」
「できます。ただ、一般申請の場合は抽選になります。現在の倍率は、昨年度の平均で十二倍前後でございました。また、世帯に就労可能な年齢の方がいらっしゃる場合は、収入基準が厳しくなる場合もございます」
浩はしばらく何も言わなかった。職員は沈黙を埋めるように、語尾を小さくして付け加えた。
「もし同居のご家族の方が就労されれば、収入証明を追加で提出いただくことで、審査が変わる可能性もございます」
職員自身も、自分が言っている言葉の重さを分かっているようだった。浩は訊き返した。
「息子がいる限り、今の状況では優先枠に入れないということか」
「申し訳ございません。制度上はそういうことになります」
浩はそれ以上、何も言えなかった。職員が別の書類を出して一般申請の手続きについて説明し始めた。浩は説明を聞きながら、頭の中で「十二倍」という数字を転がした。百世帯が申請して当選するのは八、九世帯。来年の八月までに当選するかどうかは、運次第だった。知恵子が浩の袖を指先で一度だけ触った。浩は視線を知恵子に向けた。知恵子は何も言わなかった。ただ「もう出ましょう」という意味がその触れ方にあった。
職員に礼を言い、書類を受け取り、窓口を離れた。帰り際、職員が背後から声をかけてきた。
「福祉課の方でご相談されると、別の選択肢をご案内できる場合もございます」
浩は振り返って「わかりました」と言った。振り返ったことで、職員の表情が見えた。親切な表情だったが、その奥にどうしようもないという諦めがあった。職員は一日に何度も同じような会話をしているのだろうと浩は思った。
建物を出ると、外の空気が冷たかった。二人は並んで歩道に立った。どちらも何も言わなかった。駅まで歩く間、二人は一言も話さなかった。
団地に帰りついたのは昼少し前だった。部屋に入るとテレビの音がした。直がテレビを見ていた。昼前だというのに、すでに起きていて、クッションに寄りかかり、横に酎ハイが一本置かれていた。直が振り向いて「どこ行ってたの」と聞いた。知恵子が「ちょっと用事で」と答えた。直はそれ以上聞かなかった。視線をテレビに戻した。
その日の午後、浩は書類の整理をしようと引き出しを開けた。役所から受け取ってきた一般申請の書類をしまおうとした。すると、通帳が見当たらなかった。浩は引き出しを全て開けて探した。上の段、中の段、下の段。書類の間、封筒の中。見つからなかった。知恵子を呼んだ。二人で探した。知恵子の通帳が入っていた場所にも、通帳はなかった。知恵子の顔が変わった。目が一点に固まった。浩が書類をしまっていた封筒の一つが、中身を取り出されてくしゃくしゃになって奥の方に押し込まれていた。収納の奥に置いてあるはずの、小さな鍵のかかる書類箱もなかった。書類箱の中には、定期預金の通帳と、緊急に取り置いていた現金が入っていた。
その日の夕方、直は外に出ていた。気づいたらもういなかった。ダイニングテーブルの上に、一枚の紙が置かれていた。A4サイズの紙を折ったものだった。浩が手に取って開くと、ローン会社からの請求書だった。タイトルに「ご利用明細のお知らせ」と書かれ、その下に直の名前が印字されていた。カード番号、利用金額の内訳、そして現在の残高。浩は数字を読んだ。三百十二万円。利息と遅延損害金を含めた合計だった。最終支払い期限の欄には、一か月後の日付が書かれていた。その下に小さな赤い文字で、「期限を過ぎた場合は連帯保証人への請求または法的手段を検討する場合があります」という注意書きが印刷されていた。
浩は紙を手に持ったまま立っていた。知恵子が背後から覗き込んだ。数字を見た瞬間、知恵子の息が止まった。それからゆっくりと、その場の床に座り込んだ。両手を顔に当て、声を出さずに体を小さく振わせていた。浩は知恵子のそばにしゃがんだ。何か言おうとしたが、言葉が出なかった。紙をテーブルの上に置いた。知恵子の肩に手を添えようとして、止めた。触れることが正しいのかどうか、分からなかった。
三百十二万円という数字が、何度も頭の中を流れた。浩と知恵子が何十年も積み上げてきた貯蓄を全て足しても、届かない金額だった。夜間シフトを週三回、何年続ければその金額に届くか。計算を途中でやめた。書類の端に、手書きの文字があった。直の字で短い文章が書かれていた。「借金があることは知ってた。でも返せない。頼む」。それだけだった。浩はその文字を読んで、ゆっくりと目を閉じた。閉じた目の裏に、役所の窓口の職員の顔が浮かんだ。「制度上はそういうことになります」。その言葉が蘇った。
知恵子が「どうするの」と言った。声は枯れていた。問いかけの言葉だったが、答えを期待しているような声ではなかった。ただ、声に出さずにはいられなかったという種類の言葉だった。浩は答えなかった。今すぐに答えを出すことが正しいかどうかを考えていた。
直が帰ってきたのは、夜遅くになってからだった。翌朝、浩が起きると直はもう布団の中で眠っていた。浩も知恵子も、通帳のことを口にしなかった。口にしなかったのは諦めではなかった。言葉にすると、その先に何かが起きる。言葉は場所を占めて、帰ってくる言葉を求める。その連鎖の先に何が待っているかを考えた。
三日が経った。直は何事もなかったように過ごしていた。知恵子は眠れない夜が続いていた。スーパーへ出勤する前の朝、鏡を見ると目の下が暗くなっていた。ドライアイがひどくなっていて、瞬きのたびに目の表面が突っ張った。
その日のスーパーでの仕事は、いつも通りだった。午後八時、閉店前の値引きが始まる時間。知恵子は売れ残りの弁当と惣菜に値引きシールを貼り始めた。陳列棚の端から順番に、体を少し前に傾けながら一枚ずつ貼っていく。その時、棚の向こう側から声が聞こえてきた。高い声で、何かを要求しているような調子だった。知恵子は最初、別の客とのやり取りだと思った。もう一度声がした。今度はより近くで、より大きかった。顔を上げると、棚の反対側に男が立っていた。
薄汚れたダウンジャケットを着た、背の高い男。顎の周りに不揃いな無精髭。手に弁当のパックを二つ持って、隣に立っていた中年の女性と何かを言い合っていた。知恵子は一瞬動けなかった。もう一度、顔を確認した。だった。隣の女性が直を肘で押した。直がよろけて、手に持っていた弁当の一つを落とした。直は拾わずに女性に向かって何かを言い返した。声が大きくなった。周囲の客が振り返った。チーフが小走りで近づいていった。
知恵子は棚の内側に立ったまま、動けなかった。足が床に張り付いているような感覚があった。同僚の一人が知恵子の方を向いた。
「ねえ、あの人、松崎さんの息子さんじゃない」
声は小さかったが、静まりかけた売り場にはよく届いた。知恵子はその言葉を聞いた。聞こえていた。はっきりと聞こえていた。それでも体が動かなかった。シールを持っていた手が、空のまま宙に浮いていた。チーフが直を売り場の外の方へ誘導した。直の後ろ姿が知恵子の視界の端を通り過ぎていった。知恵子は棚から離れ、後ろに一歩下がって作業台の角に手をついた。
チーフが戻ってきた。知恵子の顔を見て、少し表情を変えた。
「知恵子さん、あの方、ご存知の方でしたか」
声はとても低かった。他の同僚に聞こえないようにしていた。知恵子は首を横に振った。それが正確な答えではないことは、自分でも分かっていた。チーフはもう一度知恵子の顔を見てから「今日は早めに上がってください」と言った。知恵子は礼を言い、更衣室でエプロンを脱いだ。外は雨だった。傘を持っていなかった。コートの肩から背中にかけてが濡れて重くなった。知恵子はそのまま、一度も立ち止まらずに団地まで歩いた。
部屋に入ると、浩がこたつに座っていた。知恵子が濡れていることに気づいて、表情を変えた。
「どうした。傘は」
知恵子は答えなかった。コートを脱がずにこたつの端に座り込んだ。浩が立ち上がってタオルを取りに行き、知恵子の肩にかけた。知恵子は受け取らなかった。和室の方からテレビの音がした。低い音量だったが、笑い声が混じっているのが分かった。
知恵子が口を開いた。
「今日、直がスーパーに来た」
声は平らだった。感情がその奥に落とされた後の声だった。浩は動かなかった。
「値引きシールを張ってる最中に、他の客と大きな声出して。チーフが出てきた。そこで同僚が見てた。直を知っているかってチーフに聞かれた」
知恵子はそこで一度止まった。
「知らないって。首を振った」
それだけ言って、また黙った。浩は何も言えなかった。言葉を探したが、出てくるものが全部、今の知恵子には重すぎると思った。和室のテレビの音が続いた。笑い声がまた聞こえた。
浩は立ち上がり、和室に向かった。襖を開けた。直は布団の上にあぐらをかいて、酎ハイを持ちながらスマートフォンを見ていた。襖の開いた音で顔を上げた。浩と目があった。直はすぐに視線をスマートフォンに戻した。浩は和室に入り、直の前に立った。テレビのリモコンを手に取り、電源を切った。
直が顔を上げた。「何だよ」。声に苛立ちがあった。浩は立ったまま直を見た。言葉を選んでいた。頭の中で何度か並べ替えた。
「今日、スーパーで何をしていた」
声は低く静かだった。怒鳴ってはいなかった。直はスマートフォンから顔を上げて浩を見た。それから視線を外し、酎ハイを一口飲んだ。
「腹が減ってたんだよ。弁当くらい買っていいだろう。金ないんだから。隣のおばさんが文句言ってきたから怒っただけだ。何が悪いんだ」
浩は少しの間、直を見ていた。
「お前が騒いだ売り場で、母親が働いていた」
直の手が止まった。酎ハイを持ったまま、表情が変わった。変わり方はわずかで、目が少し動いただけだった。
「知らなかった」
「知らなかったかどうかの話をしているのではない。母親が同僚の前で、息子のことを知らないと首を振った。そのことが分かるか」
直はしばらく何も言わなかった。それから顔を上げた。
「俺のせいにするのか」
浩は答えなかった。
「俺だって好きでこうなったわけじゃない。東京でうまくいかなかった。金が続かなかった。どこにも行けなくなったから帰ってきた。帰る場所があるのに、帰って何が悪いんだ」
浩は直の言葉を最後まで聞いた。それから静かに言った。
「この家を出て行け。頼む」
直は目を見開いた。「頼む」という言葉が予想外だったのかもしれなかった。どなられるか、責め立てられるかと思っていたところに、その言葉が来た。直は何も言わなかった。浩は続けた。
「来年の八月にはここも出なければならない。金はない。お前の借金も抱えきれない。この家にいても、お前の問題は解決しない。俺たちもお前を養い続けることができない。だから、出て行ってくれ」
声は一度も大きくならなかった。感情的にもならなかった。それがかえって部屋の空気を締め上げるような効果を持った。
「出ていけって言うのか。俺をまた捨てるのか。東京で十年。誰にも頼れなくて、やっと帰ってきたら出ていけっていうのか」
「俺たちもお前を傷つけたいわけじゃない。だが、このままでは全員が沈む」
「沈む。どうせ沈むなら、一緒に沈めばいいだろう。法律は親が扶養する義務があるって言ってるんだ。俺を追い出したら、行き先もない。金もない。どうしろって言うんだ」
直の声は和室を出て廊下に響いた。浩は素早く振り向いて窓を閉めた。雨が降っていた。窓を閉めて鍵をかけた。それから直に向き直った。浩の顔に怒りはなかった。ただ硬かった。台所から水を注ぐ音が聞こえた。知恵子がそこにいた。
「俺がいなければよかったってことか。生まれてこなければよかったってことか。そういうことを言いたいのか」
浩は首を横に振った。
「そういうことではない。お前がここにいることで、三人全員が傷ついている。そのことを言っている」
直はしばらく黙った。酎ハイの残りを飲み干し、缶を畳の上に置いた。それからスマートフォンを手に取り、画面を見た。返事はなかった。浩はそのまま立っていた。返事を待っていたが、来なかった。しばらくして浩は和室を出た。襖を閉めた。
廊下に出ると、台所の電気がついていた。知恵子がコップを両手で持って立っていた。浩を見た。知恵子が浩の顔を読もうとしているのが分かった。浩は首を立てでも横でもなく、ただ知恵子を見た。それだけで知恵子には伝わったのかもしれなかった。知恵子は目を伏せてコップを流しに置き、台所の電気を消した。二人は並んでこたつの部屋に戻った。和室の方は静かだった。直がいるのは分かったが、音は出なかった。外の雨が窓を叩いていた。
知恵子が言った。
「明日、私はシフトに入れるかわからない」
声は乾いていた。浩は頷いた。
「チーフは何も言わなかったけど。他の人は見てた」
声が少し揺れた。それからまた平らになった。浩はそれ以上頷かなかった。二人はしばらくそのまま座っていた。こたつの中が暖かかった。外は雨だった。和室は静かだった。その三つだけが確かだった。
翌朝、浩は五時前に目が覚めた。眠れていたのか眠れていなかったのか、自分でもはっきりしなかった。昨夜あれだけのことがあったのに、今朝の頭の中は奇妙なほど静まっていた。浩は起こさないように静かに布団から出た。台所でお茶を淹れ、カウンターに肘をついて飲んだ。窓の外はまだ暗かった。雨は上がっていた。浩は頭の中で今日することの順番を考えた。
まず銀行だった。浩が加入している生命保険は、会社経由で契約したものだった。月々の保険料が給与から引き落とされていた。解約返戻金がどれだけあるかは、通帳を見れば書いてあった。書類箱は直に持ち出されていたが、保険の証書は別の場所にしまっていた。浩が一人で管理している書類で、知恵子にも正確な場所を伝えていなかった。押入れの上の段、毛布の下に敷いてあるダンボール箱の中だった。浩は静かに押入れを開け、毛布をずらしてダンボール箱を引き出した。中の封筒を確認し、台所の電気だけつけて開いた。数字を確認した。途中解約した場合の返戻金の目安が記されていた。契約から二十年以上経っていたから、返戻金はそれなりの額になっていた。手数料を引いた実際の受け取り額を頭の中で計算した。その数字と、直の借金の額を並べた。足りなかった。
だから次の手段を考えた。会社からの借入れだった。浩の務める警備会社には、従業員向けの小口貸付制度があった。限度額は少なかったが、金利が低く、給与からの天引きで返済できる制度だった。浩はこれまで一度も使ったことがなかった。使う必要がなかったからではなく、使うことが恥だと思っていたからだった。だが今は選んでいる場合ではなかった。上限は五十万円だったはずだった。生命保険の解約返戻金と会社からの借入れを合わせれば、直の借金の額に届くかどうか、ギリギリのところだった。
浩はコートを羽織り、通帳を内ポケットにしまい、財布を確認した。銀行のカードが入っていることを確かめた。まだ六時前だった。銀行の窓口が開くのは九時だった。浩は玄関で靴を履きながら、和室の方を一度だけ見た。襖は閉じていた。直の寝息が聞こえていた。浩は視線を外し、ドアを静かに開けて外に出た。近くの小さな公園で時間を潰し、九時を過ぎてから銀行に入った。窓口で生命保険の途中解約について相談したいと言うと、別の窓口に案内された。担当者は四十代の女性で、落ち着いた話し方だった。通帳を確認して途中解約の場合の返戻金を計算し、手数料と税を引いた実際の受け取り額を示した。浩は頭の中でその数字を確認した。会社からの借入れ上限と合わせた合計が、直の借金の額に届くことを確かめた。ギリギリだった。数万円の余裕しかなかった。しかし、それでも届いた。
「解約の手続きを進めてください」
担当者が書類を準備した。署名が必要な箇所に、浩はペンを持って署名した。手続きが終わるのに一時間近くかかった。銀行を出て、電車で二駅の会社の事務所に向かった。総務の窓口で貸付の申請書をもらい、必要事項を書き込んで提出した。担当者は「審査は夕方には出ます」と言った。昼過ぎに団地に戻ると、知恵子が台所にいた。浩が入ってきたのを見て、どこに行っていたのかを目で聞いた。言葉ではなかった。浩はコートを脱ぎながら「銀行と会社」と短く言った。知恵子はしばらく浩を見ていた。それから頷いた。夕方、会社から電話が来た。貸付の審査が通ったという連絡だった。
その夜、直が帰ってきたのは九時過ぎだった。和室に入る前に、直は台所の前で止まった。浩と知恵子がこたつに座っているのを見た。直は何も言わず、そのまま和室に入った。浩は立ち上がり、和室の襖を開けた。直はジャンパーを脱いでいるところだった。振り返った。浩を見た。浩は和室に入り、直の前に座った。立ったまま話すことが今夜は正しくないと思った。同じ高さで話す必要があると感じた。
「今日、保険を解約してきた。会社から金を借りた。合わせて、お前の借金の額になる。明日、返済の手続きをする」
直は何も言わなかった。表情が変わったのは分かった。驚きと、何か別のものが混ざった顔だった。浩は続けた。
「ローン会社との手続きが終わったら、完済の証明書をもらう。その証明書はお前に渡す」
それから浩は封筒を取り出した。あらかじめ用意しておいた封筒で、中に現金が入っていた。十万円だった。浩が夜間シフトで積み上げてきた分と、手持ちの残りから出した。今の浩と知恵子にとって、それは出せる限界に近い額だった。
「交通費と当面の食費だ。それだけあれば、しばらくは動けるはずだ」
直は封筒を見た。それから浩を見た。浩は言葉を続けた。声は静かだった。
「借金は俺が片付ける。だから、お前はここを出ろ。電話番号を変えろ。どこへ行くかは言わなくていい。俺も母さんも、お前のことを探しに行くつもりはない。それから、もし俺たちが先に死んでも、来なくていい。知らせもいらない。それだけだ」
部屋が静かだった。直はしばらく何も言わなかった。封筒を見ていた。封筒の端に、浩の指紋がついていた。
「なんで」
直の声が低かった。怒りではなかった。怒りの下にある、もっと古い何かが出てきたような声だった。
「なんでそこまでするんだ」
浩はすぐには答えなかった。息を一度吸ってから、言った。
「わからない。お前が憎いわけじゃない。お前を助けたいわけでもない。ただ、このままでいたら全員が終わる。それだけが分かっている。だから、今できることをやっている」
直は何も言わなかった。浩も何も言わなかった。二人は向かい合ったまま、しばらくそこにいた。直がゆっくりと封筒を手に取った。膝の上に置き、視線を下げていた。浩は立ち上がり、和室を出た。廊下に出ると、知恵子が台所の入り口に立っていた。ドアの影に半分体を隠すようにして。どこまで聞こえていたかは分からなかった。知恵子は浩を見た。浩は知恵子を見た。知恵子が目を細めた。泣いているのではなかった。何かをこらえているのでもなかった。ただ、見ていた。浩のことをただ見ていた。
翌朝、浩が目を覚ますと和室が静かだった。直の寝息がなかった。浩は起き上がって襖を少し開けた。直の布団が畳んであった。ビニール袋がなくなっていた。充電器がなくなっていた。和室には、直のものが何もなかった。玄関に確認しに行った。直の靴がなかった。知恵子が起き出してきた。浩が黙って玄関の方を示すと、知恵子が確認した。知恵子は玄関を見て、それからゆっくりと目を伏せた。何も言わなかった。浩も何も言わなかった。二人は台所で朝食の準備をした。味噌汁を作り、ご飯を炊いた。テーブルにつき、向かい合って食べた。テレビはつけなかった。ヒーターの音だけがあった。
その日の午後、浩は会社の事務所に行き、借入金の手続きをした。書類に署名してお金を受け取った。それを持って銀行に行き、生命保険の解約返戻金と合算した。それからローン会社に電話をかけた。直の借金の返済について交渉したいと言った。翌日、ローン会社の担当者から連絡が来た。一括返済であれば、遅延損害の一部を減額できる可能性があるという話だった。浩は金額を確認した。手持ちの金額で届くことを確かめた。届いた。数日後、指定された場所で浩は現金を手渡した。担当者はスーツ姿の若い男で、愛想が良く礼儀正しかった。受け取った金額を確認して、領収書と完済証明書を発行した。証明書には直の名前が印字されていた。浩はそれを受け取って二つ折りにし、上着の内ポケットにしまった。
証明書は直に送らなかった。直の連絡先を知らなかった。直はあの夜以来、一度も連絡してこなかった。どこにいるかも、生きているかどうかも、浩には確認する方法がなかった。確認しようとも思わなかった。証明書は引き出しの奥にしまった。
十二月になった。団地の管理組合から退去手続きに関する案内が届いた。退去期限まで八か月を切っていた。浩と知恵子は改めて住まいの候補を探し始めた。市営住宅の一般申請の結果は来月出るはずだった。抽選の倍率は十二倍だった。その間も、浩と知恵子はそれぞれの仕事を続けた。知恵子はスーパーに戻った。チーフから何も言われなかった。同僚たちも何も言わなかった。ただ、以前より視線が増えた気がした。それでも出勤した。手を動かした。ラベルを張った。箱を詰めた。浩は夜間シフトを続けた。保険を解約して手元にあった金は全て直の借金の返済に使った。今の浩の手元には毎月の給与しかなかった。以前から少なかったが、今はさらに会社への返済が始まったから、手取りはさらに減った。
年が明ける前に、市営住宅の抽選結果が届いた。封筒を開ける前に、浩はしばらくテーブルの上にそれを置いていた。知恵子がそばに座っていた。浩が封筒を手に取り、開けた。中の紙を出して読んだ。当選ではなかった。知恵子が一度だけ深く息を吸った。それから「そうか」とだけ言った。選択肢が一つ減った。残ったのは、民間の賃貸を探すことだけだった。高齢者に貸してくれる大家は少なかった。仲介業者に問い合わせても、七十歳以下であること、連帯保証人がいること、収入証明が出せることの条件がどこにも存在した。連帯保証人は誰もいなかった。直とは連絡が取れなかった。頼れる親族もいなかった。保証会社を使う方法があった。料金がかかったが、身元保証人の代わりになってくれる会社だった。仲介業者に教えてもらって申請した。審査に時間がかかった。
三月になった頃、一軒の物件が決まった。千葉県の海沿いに近い町の、木造アパートだった。築四十年以上で壁に湿気の染みがあった。畳が一部痛んでいた。だが家賃は安く、保証会社の審査が通った。浩と知恵子はそこに決めた。他に選択肢がなかった。
引っ越しは四月だった。荷物は少なかった。長年使ってきた家具の多くは処分することにした。大きな家具は新居に入らない。費用をかけて運ぶより捨てた方が安かった。浩が一人で軽トラックを借りて何往復かした。知恵子は荷造りをした。二人で作業しても、一日では終わらなかった。二日かかった。最後の夜、団地の部屋で浩と知恵子は並んで座った。家具が去って、部屋はガランとしていた。畳の上には家具の跡が残っていた。壁のフックにコートをかけていた跡が薄く残っていた。二十年以上のものが、こんなにあっさりと消えるのかと浩は思った。
千葉の木造アパートは海からの風が強かった。窓枠の合わせ目が緩んでいて、夜になると隙間風が入った。押入れの奥が湿っていた。台所の蛇口をひねると、水の出が遅かった。だがそれよりも、浩が最初に感じたのは静けさだった。直がいない静けさだった。テレビをつけっぱなしにする人間がいない静けさだった。酎ハイの空き缶が朝に出てこない静けさだった。浩はその静けさを最初は落ち着かないと感じた。それから少しずつ、体が慣れていった。
知恵子はスーパーの仕事をやめていた。千葉の新居からは以前のスーパーまで通えなかった。新しい仕事を探したが、年齢と体力の問題で見つかりにくかった。近所の空き缶や段ボールを集めて資源回収に持ち込むことを始めた。一日に数百円にしかならないこともあった。それでも何もしないよりは、と知恵子は行った。浩は夜の仕事に転じた。高速道路のサービスエリアの清掃員だった。深夜から早朝にかけて、トイレや休憩所を清掃した。体を動かす仕事で立ちっぱなしだったが、外に立ち続ける交通誘導よりは屋内だった。賃金は以前より少し下がった。
十二月になった。年末が来た。スーパーには正月用の飾りが並んでいた。テレビでは年末の特番が流れていたが、浩と知恵子はそれをほとんど見なかった。テレビは新居に持ってきていたが映りが悪かった。アンテナの問題だったが、修理する費用を後回しにしていた。
大晦日の夜、二人はワンルームの部屋に向かい合って座っていた。こたつはなかった。処分してきた家具の一つだった。代わりにホームセンターで買った安い電気毛布を、二人で膝にかけていた。テーブルの上にポットとどんぶりが一つあった。年越しそばのつもりで、袋入りのそばを買ってきた。知恵子がお湯を注ぎ、浩が割り箸を出した。どんぶりは一つだった。二つ買おうとしたが、知恵子が一つでいいと言った。一つを分け合って食べた。浩はそばを一口すった。知恵子もすった。窓の外から、遠くで何かの音がした。海の方から来る風の音か、あるいは隣の部屋の誰かから漏れたテレビの音か、はっきりしなかった。知恵子がそばを食べながら言った。
「来年は、どうなるかな」
「来年は」という言い方だったが、それが具体的に何を指しているのかは言わなかった。浩も聞かなかった。浩はそばを食べながら、知恵子の手を見た。テーブルの上に出ていた知恵子の手は節くれ立っていた。指の付け根が赤くなっていた。毎日ダンボールや缶を運んでいるからだった。浩はその手を見てから、自分の箸を置いた。知恵子の手に、自分の手を重ねた。知恵子は箸を持ったまま止まった。それから顔を伏せた。泣いているのかどうかは、浩からは見えなかった。見えなかったが、知恵子の肩が一度だけ、ゆっくりと落ちた。浩は手を重ねたまま動かなかった。外の風が窓を揺らした。隙間から冷気が入った。電気毛布が足元を温めていた。どんぶりのそばが少しずつ冷えていった。新しい年が始まろうとしていた。それが何を連れてくるかを、浩は知らなかった。知ろうとも思わなかった。今夜はただ、ここにいることだけがあった。知恵子の手が、浩の手の下にあった。それだけが今夜、確かなことだった。
