父が死んで、俺は社長の座を継いだ。高卒で自動車整備会社の現場に二十二年、油まみれで働いてきた四十歳の男が、いきなり重役たちの前に座ることになった。
「長男なら学歴だけで十分ですよ。社長がやめないなら、全員やめるからな」
経営の実権を握る専務の染崎は、そう言い放った。役員たちが示し合わせたように頷く。俺は高卒の現場上がり。経営の何たるかを知らない素人だと、あの男は思っている。だが染崎はまだ気づいていない。この会社に隠された偽装工作の一端を、俺が掴んでいることに。
十八歳の春、父が起こした自動車整備会社に就職した。進学の話が出た年、家には工場の機材の借金があり、大学へやる余裕はなかった。だが迷いはなかった。油の匂いのする現場の方が俺には性に合っていたし、何より車を触る父の背中を見て育ったのだ。
法人向けの車両整備と車検を専門にする会社で、俺は二十八歳で一級整備士、三十歳で自動車検査員の資格を取った。そのたびに父は事務所へ来ないかと言ったが、俺は現場に残ると答えてきた。書類の上の数字より、自分の手で閉めたボルトの方が信じられるからだ。
法人相手に手を広げた十五年前、父は銀行出身の染崎を役員として迎えた。職人上がりの父は経理と総務の一切を、学のあるこの男に預けた。気づけば帳簿も印鑑も客先との契約も、あの男を通さなければ動かない会社になっていた。
異変が起きたのは七年前だ。うちで整備した車両に不具合が立て続けに出た。ブレーキの利きが甘い。下回りのボルトが緩む。現場で調べると、やったはずの分解点検が記録の上だけで済まされていた。「工程を削れと決めたのは社長だ」と噂が流れた。しかし安全に関わる工程を父が削るはずがない。俺は父を捕まえて直接問いただした。
「あの指示は本当にあんたが出したのか? 違うなら違うと言え」
父は手を止め、しばらく黙った。そして俺の目を見ずに一言だけ返した。
「専務に任せてある。お前は現場のことだけやっていろ」
否定の言葉は最後まで出なかった。それが答えだと思った。父も結局数字を取ったのだと。俺は父を恨み、その恨みを解かないまま見送った。父は晩年になって体調を崩し、病で亡くなった。
葬儀の後、父の秘書を務めていた白川が自宅を訪ねてきた。古い箱を俺の前に置く。
「先代から託されておりました。自分の手で終わらせられなかった時は、息子さんに渡してくれと」
中身は七年分の整備記録の写しと外注伝票の束。そして封筒には、七年前の日付が入った決済書の写しが一枚入っていた。大口契約を維持するため、ブレーキの分解点検を含む複数の工程を削減する。そう記された書類には、父の署名と社長印が並んでいた。
「工程削減は社長の指示」という噂の元は、この一枚だったのだ。
「先代は署名した覚えはないとおっしゃっていました。偽られたものと思っておられました」
「ならばなぜ七年も黙っていたんだ? 俺にまで何も言わなかったのはなぜだ?」
「証拠がなかったのです。決め手となる保管庫の記録も印鑑持ち出しの控えも、全て染崎の管理下にあります。証拠のないまま偽造を口にすれば、書類は残らず始末され、偽の決済書だけが残る。工程を削った社長として、会社は信用ごと潰れる。だから先代は泥をかぶり、自分の机を通る書類だけを七年かけて移し続けました」
「あなたに明かせば、あなたは必ず動く。染崎は必ず気づく。先代は否定の一言を飲み込むことで、あなたと証拠の両方を守られたのです」
白川は深く頭を下げた。声の端がわずかに震えていた。この人も七年间、言えないものを抱えてきたのだ。あの日目を合わせなかった父の横顔。突き放されたのではない。守られていたのだ。
病に倒れた後、父は資料と決済書の突き合わせを急ぎ、その途中で力尽きた。箱の底の弁護士宛ての資料一覧は、最後の行が途中で途切れている。証拠はまだ足りない。だが白川は会社の中まで手が届かない。
「終わらせられるのは、議決権の過半数を継がれたあなただけです」
株主総会で俺が社長に名乗りを上げれば、止められるものはいない。ただし探っていると気づかれれば、書類は残らず消される。俺は何も知らない現場上がりを演じればいい。その上で、父が積み上げた証拠を俺の手で最後まで集める。
恨みの矛先はもう決まっていた。
父の四十九日を終えた後、臨時株主総会が開かれた。議題は新しい経営体制。先に口を切ったのは染崎だった。
「先代なき今、経営の舵は実務を知る者が取るべきです。僭越ながら、代表取締役は私が」
役員たちが示し合わせたように頷く。株を継いだばかりの素人は飾りの取締役に祭り上げ、実権はこれまで通り。そういう筋書きだろう。だがこの総会の主導権は、役員会にはない。
「反対します」
俺は手を上げた。
「代表取締役には私がつきます」
染崎は笑いを噛み殺すような顔をした。
「お気持ちは分かりますが、経営はご遺族の情で動かすものでは」
「情ではなく株の話をしています。父から相続した株式で、私の議決権は過半数。定款の定めにより代表取締役はこの総会で選任される」
賛成過半数が読み上げられた瞬間、染崎の顔から笑いの気配だけが消えた。それでも異論は出なかった。議決権で覆せないことは、数字に強いあの男が誰より分かっている。ならば社長に据えた上で操ればいい。並んだ役員たちの目はそう語っていた。
こうして俺は代表取締役に選ばれた。高卒の現場上がりの社長など、同業でもまず聞かない。四十歳の代表取締役も、業界では若い部類のはずだ。
就任の事例が出た朝、俺は本社ではなく大口取引先の運送会社の車庫にいた。夜中に止まったトラックを出庫前に直してほしいと、先方の運行管理者の軍事という男から連絡があったからだ。父も昔、こうやって夜中に呼ばれては工具箱一つで出ていった。
「これで朝の便を止めずに済む。助かったよ」
いつも通りの仕事だと答え、俺は本社へ向かった。
就任後最初の役員会議。議題は大口の運送会社との契約更新と、今後の単価引き下げについてだ。先にそれを白川から聞いていた俺は、工場長の田辺に該当車両の整備記録簿を用意させた。ページをめくった俺の手が止まる。
ブレーキの分解点検なら、ドラムを外し、ライニングの残量をミリ単位で測って数値を書き込む。目で確かめた証が数字として残るのが本物の記録だ。だがこの記録簿は確認欄だけが並び、値の欄がこぞって空白だった。数値のない記録は整備をしていないのと同じ。検査員の資格を取る時、そう叩き込まれた。
学歴では奴らに届かなくても、この目だけは二十二年、油の中で鍛えてきた。七年前に削られたのと同じ工程が、先月の日付でも同じように省かれている。
会議室で俺は染崎の経営資料の代わりに、その束を机の中央に置いた。父の件はまだ出さないと決めている。現場の言葉だけで切り出した。
「単価を下げた分、工程を削り、やっていない作業をやったことにしている。今日から全部を契約通りに戻します。単価も戻します」
染崎は記録簿を見もせず言った。
「安くしろと言ってきたのは先方です。契約通りにやればうちが赤字になる」
「だからと言って、車に乗る人間の安全を削るわけにはいきません」
染崎は隣の役員へ視線を流した。数人が小さく頷く。その一斉の頷きが、この部屋の主が誰かを示していた。
「社長は現場上がりです。経営の何たるかは分からないでしょう。大口契約の数字は、分かっている人間にしか見えないんですよ」
この男には、数字の向こうで実際に走るトラックが見えていないのだろう。工程を戻す決定に変わりはないと、俺は再度告げた。
翌週、役員たちが会議室に集まる。改めて工程を戻すと告げると、染崎が立ち上がり、上着の内側から一枚の紙を取り出した。机に伏せられたそれに、役員たちが次々と署名を重ねていく。あらかじめ用意されていたかのようだ。染崎は紙の束を指で叩き、吐き捨てるように言った。
「無能な社長はおやめください。学歴だけで十分ですよ。社長がやめないなら、全員やめるからな」
役員たちが一斉に俺を見た。経理も営業も企画も、この役員たちの下にある。この人数を失うことに俺は怯えるに違いない。その読みが、並んだ顔に浮かんでいる。まとめて抜ければ会社は傾く。分かっている。だがここで折れれば、父の名で通った工程削減と俺の通す工程削減に違いはなくなる。それだけは、工程を戻すと決めた日から全く揺れていなかった。
父は七年間、汚名を着たまま黙って耐えた。その息子が脅し一つで頭を下げたら、父の七年間は何だったことになる? 俺には学歴も経営の経験もない。だが譲れないものの区別だけはつく。それを教えたのは他でもない、この男たちが落とし入れた父だ。
俺は役員全員を見据えて言い放った。
「お好きにどうぞ」
染崎の顔から笑みが消えた。壁際の白川が歩み出て、辞表を持った者たちに言った。
「困るのはあなたたちですよ。やめた役員に退職慰労金を出すかどうか決めるのは、ここにいらっしゃる高野の社長です」
白川がついたのはその一点だけだった。父の件も帳簿も口にしていない。証拠が揃う前に手の内を見せれば書類を始末されると判断したのだろう。誰も辞表を取り戻さなかった。拾えば脅しだったと認めることになるからだ。
染崎は足を止め、低い声で言い残した。
「客がついているのは会社じゃない。契約をまとめてきた我々ですよ。現場しか知らない社長に、客が残るといいですな」
役員たちがその後に続いて部屋を出ていった。契約の窓口は全てあの男たちだった。役員が抜けるとは、客との繋がりごと抜けるということだ。だだっ広くなった会議室に、俺と白川だけが残された。
売上の大半はあの男たちが握る大口契約だ。これからこの会社を、経理も営業も分からない俺が回す。正直、素人だけでは済まない重さだ。それでも後悔は一片もなかった。
その晩、田辺が社長室へ顔を出した。
「現場は全員社長についていきますよ。現場のことを一番よく知ってるあなたにね」
その一言がどれだけ支えになったか分からない。役員たちが抜けたことで、保管庫も帳簿も初めて俺の手の届く場所に来た。俺と白川は父の資料と会社の帳簿を一件ずつ突き合わせていく。最初に食い違ったのは整備記録と外注伝票だった。工場の記録ではブレーキを分解していないのに、本社の伝票では同じ車両の分解点検を外部へ委託したことになっている。やっていない作業の外注費が会社から出ていた。
「白川さん、この外注先の三社は」
「調べました。いずれも染崎か辞表を出した役員の親族につながる会社です」
工程を削って原価を浮かせ、架空の外注費を身内の会社へ流す。不具合が出た時だけ父の指示だったことにする。筋は繋がった。偽の決済書がある限り、罪を着せるのは濡れ衣を着せられた父。そして染崎の名前はどこにも出ない。現場しか知らない新社長に金の流れは見えない。そう高をくくっていたからこそ、あの男は伝票を残したまま背を向けたのだ。
俺は資料を顧問弁護士へ渡し、被害届を出した。
一方で会社は苦境に立たされていた。契約の経緯は役員しか把握しておらず、単価を戻した見積もりを持って客先を回るたびに断られた。安値だけの客が次々と離れていく。辞めた役員たちは前々から新会社の下地を整え、うちより安い単価で仕事を取り始めていた。その先が染崎の会社だと分かったのは、軍事からの電話だった。
「向こうから声をかけられましてね。単価は確かに安い。社長のところは今まで通り、夜中でも来るんですか?」
「以前と同じように行く」
そう答えると、軍事は言った。
「なら、こっちは残ります」
軍事の会社は、単価を戻した契約書に判を押した。客が見ていたのは単価だけではない。安さより車の安全を先に置く会社かどうか。かかってくる電話の度に、それを思い知る。
さらに突き合わせを進めると、七年前に不具合が出た客先の一つが軍事の会社だと記録で結びついた。数日後、軍事が古いダンボール箱を本社へ運んできた。
「あの時のことは今でも覚えています」
七年前、整備後のトラックが二トンを積んだ下り坂でブレーキの利きが甘くなり、交差点の手前数メートルでようやく止まったという。その一件は父と軍事の間にだけ伏せられていた。
膝から力が抜けた。あの坂は俺も何度も走った道だ。もし止まっていなかったら、運転手も交差点を渡る誰かも。そしてこの会社も、あの日で終わっていた。父は七年間、その光景を一人で抱えて、現場の俺にさえ顔色一つ見せなかったのだ。あの頃の父の背中が、急に小さく思い出された。
「あの頃の社長さんはうちだけじゃない。納めた車両を一台ずつ自分の足で確かめて回ってました。あれは一年だけの話じゃない。体を悪くされるまでずっとです」
父さん、あんたを恨んだ俺を許してくれ。心の中でそう詫びるしかなかった。
軍事が箱から出したのは、その一件の三日前に父が社内に申し入れた依頼書の控えだった。分解点検を省かず実施するよう、父の署名がある。この字は俺の知る父の字。決済書の署名は似せてあるが違う。白川はその足で保管庫の印鑑持ち出し簿を調べた。決済書が作られた日、社長印を持ち出した欄に染崎の署名が残っていた。決済書の日付の当日、父は終日運送会社にいたのだ。
「持ち出し簿は私が保管庫と合わせて預かっておりました。染崎は古い簿冊が残っているとは思ってもいなかったのでしょう」
一か月後、弁護士から連絡が入った。外注三社への支払いを染崎が操作した金融記録が洗い出され、決済書を作ったパソコンの履歴も見つかったという。作成者は染崎の下にいた総務役員。その男が警察の取り調べを受けた直後、染崎が本社を訪ねてきた。顔には見たことのない疲労の色が浮かんでいる。
「あの役員会議で学歴を持ち出したのは、社内を引き締めるためだ」
染崎はそう切り出した。
「本気で言ったわけじゃない。辞表もまだ撤回できるはずだ」
高卒の現場上がりの男に何ができるかと侮っていた相手が、こちらの動きに気づいて引き下がりに来たのだ。俺は机の引き出しから辞表を取り出した。
「辞任は会社に届いた時点で成立しています。なら退職慰労金の話をしましょう。これまでの慣例が妥当だ」
「その前に、父の話をさせていただく」
俺は決済書と父の依頼書の控えを机に並べた。同じ日に、父は工程を省くなと書いていた。決済書の署名は父の字じゃない。
「素人の思い込みだ」
白川が持ち出し簿の写しを置く。
「その日、先代は終日社外にいました。社長印を持ち出した名がここにあります」
「印を届けただけだ」
「書類を作ったパソコンの記録も、外注三社の登記も金の行き先も、すでに調べが入っています」
染崎の反論は止まった。
「七年前、何が起きかけたかご存知ですか?」
俺は下り坂のあの一件を告げた。二トンを積んだトラックがブレーキの利きを失い、交差点の手前数メートルでようやく止まったこと。一歩間違えば重大事故につながりかねなかったこと。
「父はそれを知って、全部の車両を自分の足で回った。あなたが数字を眺めていた七年間、ずっとです」
染崎の顔から血の気が引いていくのが分かった。
「あなたが浮かせた原価の先に、それがあったんです」
「最初からこれが目的だったのか」
「そうです」
俺は染崎の辞表を決済書の上へ重ねた。
「私が社長になったのは、父に着せた責任を、罪を産んだものの元の場所へ戻すためです」
染崎は唇を薄く結んだ。
「現場しか知らない男に経営ができると思うのか?」
「分からないことはこれから覚えます。ですがあなたは経営を知っていて、車を知らなかった。整備会社でそれは致命傷です」
俺は慰労金の書類を閉じた。
「慰労金は支給しません。損害は別に請求します」
染崎は何も答えず、背を向けて部屋を後にした。
半年が過ぎた。偽造と架空外注は捜査の手に委ねられ、会社は賠償を求めている。監督官庁への報告と全車両の無償再点検も、俺の名で決めた。父が工程削減を命じたという記録は、正式に取り消されたのだ。
離れた役員たちは分け前を巡る仲間割れと手抜きの噂が業界に知れ渡り、安値で移った客が次々と戻り始めていると軍事から聞いた。
俺は今日もリフトの下にいる。リフトの上のトラックは、今朝軍事のところから車検で入った一台だ。ドラムを開け、ライニングを測り、数値を記録簿に書き込む。省かない。ごまかさない。それがこの工場の当たり前になった。
経営は白川に教わり、現場は田辺に預けた。分からないことだらけの毎日だが、やっていない点検をやったことにしない。その一点だけは、一日も譲っていない。
「専務に任せてある」
あの言葉の本当の意味を、俺はようやく知った。父が守ろうとしたのは帳簿でも椅子でもない。坂を下るトラックの、そのブレーキだった。父が最後まで省くなと書き残したのは、その一点だったのだと、今になって分かる。
俺が継いだのは社長室の椅子ではない。父が守ろうとした、この現場なのだ。
