PTA役員会の初日、会議室の扉を開けた瞬間、温かい笑顔で迎えてくれた保護者たちが、一人の女性が入ってきた途端、凍りついたように黙り込んだ。「あなたの旦那さん、中卒って本当なの?」彼女はそう言って、私を値踏みするように見下した。引っ越して間もない地域で息子のためにと立候補した役員会で、まさかこんな言葉を投げかけられるとは思わなかった。「この時代にそんな人がいるとは思わなかったわ」と彼女は笑い、…

PTA役員会の初日、会議室の扉を開けた瞬間、温かい笑顔で迎えてくれた保護者たちが、一人の女性が入ってきた途端、凍りついたように黙り込んだ。「あなたの旦那さん、中卒って本当なの?」彼女はそう言って、私を値踏みするように見下した。引っ越して間もない地域で息子のためにと立候補した役員会で、まさかこんな言葉を投げかけられるとは思わなかった。「この時代にそんな人がいるとは思わなかったわ」と彼女は笑い、...

PTA役員会の初日、私は会議室の入口で足を止めた。引っ越して間もない地域で、息子の通う中学校に少しでも早く馴染みたいと思い、自ら役員を買って出たのだ。緊張しながら扉を開けると、すでに席に着いていた保護者たちが温かい笑顔で迎えてくれた。

「あら、引っ越してこられたの?慣れない土地は大変でしょう。困ったことがあったら何でも言ってね」

「私、スーパーの特売日巡りが趣味なの。今度こっそり教えてあげるわ」

そんな和やかな会話が弾んでいた時、がらりと扉が開いて一人の女性が入ってきた。瞬間、場の空気が凍りついた。それまで笑顔だった保護者たちが、何とも言えない表情で黙り込む。

根本と呼ばれたその女性は、周囲をじろりと威嚇するように見渡すと、私の姿を認めてすっと眉を寄せた。わけも分からぬまま、私は挨拶をしようと頭を下げた。

「初めまして。木下正恵と申します。夫の移動でこちらへ引っ越してきました。息子はここの中学の1年生です。皆さんと早く仲良くなりたくて、PTA役員にも立候補しました。どうぞよろしくお願いします」

笑顔でそう言った私に返ってきたのは、品定めするような冷たい視線だった。根本さんはきっちりと化粧を施した派手な顔を歪め、私をじろじろと眺めると、「根本です」と申し訳程度に名乗ったきり、さっさと席へ着いてしまった。

失礼を通り越して無礼ですらあるその態度に戸惑っていると、近くにいた保護者のまとめ役らしい女性がこっそり手招きした。人気のない廊下へ連れ出された私は、彼女から根本さんのことを聞かされた。

「根本さんね、旦那さんが大きな会社の部長なんだそうよ。それを自慢に思ってるのか、私たちにもいつも高飛車な態度を取ってくるの。こういう場でも浮いててね」

「そうなんですか。夫の役職と妻本人はあまり関係のないことだと思うんですけどね」

素直に頷いた私に、相手はにっこり笑った。

「まあ、だから変な態度を取られても気にしないことね。あの人はああいう人ってことで、みんな当たらず触らずで接してるの。でも、よっぽど困ったことがあったら私に言って」

その頼もしい言葉に感謝を述べ、私たちは会議室へ戻った。

二回目の役員会の日、私は早めに会場へ着き、周りの保護者たちと世間話をしていた。するとまた根本さんが入ってきた。忠告通り、目立たないように隅で大人しくしていようと思ったのだが、何を思ったのか、根本さんはまっすぐこちらへ歩いてくるではないか。

「あなた、えっと、木下さんとか言ったかしら?ねえ、あなたの旦那さん、中卒って本当なの?」

突然の質問に私は首をかしげた。だが、別に隠していることでもないので、戸惑いながらも頷いた。

「え、ええ、そうですけど」

すると根本さんはわざとらしく「まあ」と驚いてみせた。

「この時代にそんな人がいるとは思わなかったわ。いえね、あれから思い出したのよ。前にうちの夫が嘆いてたの。今度本社に中卒のバカが移動してくるんだよって」

そこまで言って、根本さんはニヤニヤと下卑た笑みを浮かべながら私を見据えた。

「やっぱり、あなたの旦那さんのことだったのね。それにしても中卒って、よっぽど家が貧乏だったのか、それとも本人がおバカでどこの高校にも進学できなかったのかしら」

あまりにも失礼な言い草に、私の横にいたまとめ役の保護者が不快そうに眉を寄せた。

「ちょっと根本さん、その言い方、失礼じゃないですか?」

「あら、そう?それがあなたに何の関係があるの?私は今、木下さんとお話ししてるのよ。お節介で邪魔してくるあなたの方が、私からしたら失礼なんですけど」

くるくると巻いた髪の先を指で弄びながら、ふんと鼻で笑う根本さんに、相手の保護者は目を見開いた。そのまま言い争いに発展しそうな気配を察して、私は慌てて二人の間に割って入った。

「すみませんね。根本さん、ちょっとこちらへ」

場所を移そうとする私に、周りの保護者が心配そうな視線を送る。笑顔で頷き返して、私はそのまま会議室を出た。めんどくさそうに後をついてきた根本さんが、早速嘲りの笑みを浮かべる。

「あら残念。皆さんにも聞いていただきたかったのに。それとも、やっぱり旦那が低学歴のバカだってこと、いくらあなたでも周りには知られたくないってわけ?」

こちらを貶めるように言う根本さんに、私はため息が出そうになるのをどうにかこらえた。

「私の夫が中卒なのは本当です。別にそれを隠してもいませんけれど、それを勝手にバカだと決めつけて、さらに家族にまで余計なことを言ってくるのは、さすがに失礼じゃないかしら」

冷静に淡々と告げた私に、根本さんは小馬鹿にしたように唇を釣り上げた。

「どうかしら?私はただ事実を述べただけよ。別に隠してないなら、怒ることもないじゃない。それとも、やっぱり皆さんの前でばらされるのが恥ずかしくなっちゃったの?」

「あはは」と、彼女の嫌味たっぷりの笑い声が廊下に響く。続けて、根本さんは完全に私を見下しながら言った。

「というか、あなた随分旦那と年が離れてるけど、なんで?ああ、中卒のバカじゃ、結婚なんて早々できるわけないか。なるほどね。それで、持てないあんたと似た者同士でくっついたと。あんたも地味だものね。服も化粧もダサいし」

くすくすと肩を揺らしながら、本当におかしそうに笑う根本さん。確かに夫と私は年が離れている。だがそれは、夫が体の弱い父を助けるために中卒で社会に出て、それからずっと必死に働いてきたことで、結果として結婚が遅くなっただけだ。真面目で家族思いの夫を好きになり、年が離れていることにどこか遠慮がちだった夫に、私の方からプロポーズしたのである。

私のことは何を言われても構わない。だが、夫のことを馬鹿にされるのだけは我慢ならなかった。

「言っておくけど、中卒のバカと同類に見られるの、いい迷惑なのよ。うちの夫は部長よ。ここら辺の出世しない社員とは訳が違うのね。あなたからも、早く会社を辞めるよう旦那に言ってよ」

嘲笑いながら根本さんはさらに嫌味を重ねる。

「というか、ここの地域、それなりにいい暮らしをしてる人が多いのよね。旦那が中卒のバカじゃ、収入もどうせ貧乏でしょう。だからね、この際、あなたたち家族は揃って引っ越ししたらどうかと思うの」

ついにとんでもないことを言い出した相手に、私は思わず呆気に取られてしまった。しかし根本さんは「そうね、それがいいわよ」などと一人で勝手に盛り上がっている。

「引っ越しのお金がないって言うなら、うちが出しても構わないわよ。あなたにももっとふさわしい場所があるわ。そこでなら、今みたいに無理して周りに媚びを売らなくてもいいし」

呆れた。この人、私がPTA役員に立候補したのは周りに媚びを売るためだと思っているらしい。しかも「夫に会社を辞めろ」「引っ越せ」と。何様のつもりなのだろう。私はとうとう頭に来てしまい、たまらず言い返した。

「言葉ですが、私は夫にそんなこと絶対に言いませんし、引っ越しもしませんけれど」

それまで黙っていた私が反論してきたのが意外だったのだろう。根本さんは一瞬、不愉快そうに目を細めた後、大袈裟に肩を竦めてため息をついた。

「何よ?こっちが親切で言ってあげたのに。じゃあいいわ。あなたの旦那が自分から辞めないのなら、私の夫に頼んで首にしてもらうしかないわね」

そう言って、ねっとりと意地の悪い視線を向けてくる。初対面の時のあの尊大さが信じられないほどに、私に嫌味を浴びせる。今はそれが生き生きと輝いて見えるのが、また何とも言えない気分だった。

「そもそも、低学歴でバカな奴が、うちの会社に必要なわけないのよ。上層部もおかしいわ。なんであなたの旦那みたいなのを本社勤務にしたんだか。ま、すぐにいなくなるならもうどうでもいいけど」

そして話は終わったとばかり、さっさと会議室へ戻ろうとする根本さん。だが、そうはさせないと私は引き止めた。恋愛を彩る派手な顔をまっすぐ見据え、私は凜と言い放った。

「誤解があるようなので、訂正しておきますね。あなたの夫がお勤めの会社。あなたの夫の会社ではなくて、私の夫の会社です」

「はあ?」

瞬時に、こちらの言ったことを全く理解していない様子で、根本さんが可愛らしく首をかしげた。子供のようなその仕草に少し笑いそうになりながら、私は補足する。

「私の夫は、あの会社の次期社長として本社に招かれたんです。ちなみに現在は、本社の業務の流れや雰囲気に慣れるため、一社員として働いていますよ。そうそう、あなたの夫とは部署が一緒よね」

言い終えてにっこり笑った私に、根本さんはますます混乱した様子で、ぶつぶつと独り言を呟いている。

「え、社長?何?どういうこと?」

まあ、一気に飲み込めないのも無理はないかもしれない。これまで好き放題暴言を吐いていた相手が、まさか夫の勤務先の次期社長とその妻だなんて、さすがの彼女も予想していなかっただろう。

だが、その時だった。廊下の向こうから誰かがこちらへ歩いてくるのが見えた。その人物は私たちに気づくと、丁寧に挨拶してくれた。

「おや、お二人とも。これはこれは」

この中学校のPTA会長を務める男性だ。また何を隠そう、彼こそが現社長その人である。私の夫を次期社長へと指名した人物だ。

「正恵夫人。いやあ、あなたのご主人の噂はかねがね。本当に頭が下がる思いですよ。わしとは全然違う」

「何をおっしゃってますの?社長の辣腕ぶりには夫も常々敬服しておりました。この光景となるからには、より一層精進しようと夫も常々肝に銘じております」

私はそう言って深く頭を下げた。一方、私たちの親しげなやり取りに、根本さんは未だ事態を飲み込めていない様子で、ぽかんと口を開けて呆然と眺めていた。

このPTA会長は現社長であり、多忙のため役員会に毎回参加するわけではない。初回の会合も仕事の都合で欠席していたため、私が彼と顔を合わせたのは、現社長夫婦と次期社長夫婦で親睦を深める食事会を開いた時以来だった。

彼は横で完全に固まっている根本さんに向けて、にっこり笑った。

「根本夫人。もしかしたらもうご存知かもしれないが、こちらがわしの後継である木下次期社長の奥様だよ。真面目で優秀な木下君を、この正恵夫人が大らかに明るく支えていらっしゃる。まさに理想の夫婦だ」

持ち上げる彼に、私は控えめに首を振る。しかし、私たちの穏やかな空気とは真逆に、ようやく事態に頭が追いついてきたのか、根本さんの顔色はだんだんと青ざめていった。

「次期社長夫人……?」

ここに居られず、といった様子でおろおろする根本さんを知り目に、PTA会長こと現社長は、私の夫に出会った頃のことを懐かしそうに語り出した。

「木下君とは、彼がまだ町工場で働いていた頃に出会ったのだよ。本当に真面目で仕事熱心でな」

「ええ、夫からも聞いておりますよ。本当に、思いがけない出会いになったと」

私はその思い出話に、にこにこと相槌を打つ。私の夫は中学を卒業後、地元の町工場で働き始めた。初めはただ必死に働くだけだった夫は、独学で様々な技術を勉強して身につけ、そのうち町工場オリジナルの部品開発に成功した。その部品は特許を取得するまでに至り、夫の名は一気に業界へ広まった。

ここで夫の卓越した開発力と技術力に目をつけたのが、この現社長である。彼の会社は大手鉄鋼メーカーで、その将来性を見込んで、夫の勤めていた町工場を丸ごと自社の子会社にした。そして、その子会社の社長に夫を抜擢したのだ。

最初は慣れない社長業に戸惑っていたらしい夫だったが、それから十数年、夫が取得した特許もあり、子会社の業績はうなぎ登りとなった。

「わしはもうこの年だし、子供もおらん。後継のことで悩んでおった時に、脳裏に浮かんだのは木下君の姿だった。初めて会った時から、真面目で勤勉だった。そして会社の利益向上に大きく貢献してくれた彼こそ、次期社長にふさわしい」

「社長……いえ、もう会長になられるんですね。会長のそのご期待に添えるよう、本人も頑張っております。今後ともご指導ご鞭撻のほど、よろしくお願いいたします」

温かいその言葉に、私は微笑みながら再び頭を下げる。

「ところで正恵夫人と根本夫人は、どうしてこんなところにいるんだ?何か困ったことでもあったのかい?」

その時、さすがの観察眼とでも言うべきか、彼が探るようにこちらを見てきた。もしかしたら、私たちに声をかけてくれた時点で、私と根本さんの間に流れる微妙な空気を察していたのかもしれない。

「あ、いいえ……」

想定外のことが続いたためか、すっかりしどろもどろになっている根本さん。そんな彼女の様子を横目で見ながら、私は微笑みを深くして口を開いた。

「会長、根本さんには本社の決まりを教えていただいていたんですよ。でも、中卒の老害は自分から会社を辞めなければならないそうで、家族もそれに倣って引っ越しするのが正解だとか。ねえ、根本さん?」

わざとらしく首をかしげて根本さんに振れば、彼女はぎょっとしたように目を見開き、脂汗を流しながら首を振った。だが、言い逃れなどさせない。ついでに、私はいかにも困ったふりをして胸元に手を当てた。

「でも、困ったわね。夫も中卒ですし。まあ、若いとは言えない年齢でしょう。ですから、決まりに従うのであれば会社を辞めなければいけないのですが、さすがに私の一存では決められなくて」

「そ、そんな!私、そんなこと言ってない!」

たまらず根本さんが割って入ってきたが、私はぱちぱちと瞬きしながら彼女を見返す。

「もうやあね。今更謙遜されなくてもよろしいのよ、根本さん。せっかく本社の決まりとやらを今丁寧に教えていただいたのだもの。なのに、もう根本さんったら照れ屋さんなのね」

ふっと笑う私に、根本さんはもはや目の前が真っ暗でも起こしそうな顔をしている。

「おお、本社にそんな決まりがあったとは、わしも知らなんだ。なるほど、中卒の老害は『されど』と。どうだ、根本夫人?そこら辺を、無知なわしにも分かるようにもう一度説いてはくれないだろうか」

私の言葉を受け、そう言いながらもじろりと迫力のある仕草で根本さんを睨む彼。ついには本社の次期会長にまで詰められて、根本さんは目を白黒させている。

「うわ、私、ちょっと急にお腹が痛くなって、えっと、失礼します!」

そしてとうとう下手な言い訳を口にしながら、彼女は一目散にその場を去っていった。その後ろ姿を見送りながら、私は謝罪を口にする。

「申し訳ありません、会長。こちらのことに巻き込んでしまいまして」

しかし次期会長は穏やかに、そして少しだけいたずらっぽく笑って返した。

「PTA役員からも、あの根本夫人に関して色々聞いておったのだ。いい機会だったよ。それに、本社の根本部長についても、良くない噂があったものでね。木下君には、そちらの対応をしてもらっている」

そう、社長就任前の私の夫が、根本夫人の夫と同じ部署になったのは、何も偶然ではない。夫は次期会長の命を受けて、根本部長の勤務態度について影ながら調査していたのである。

「そちらも、もうすぐ結果は出るだろう。さて、今はPTAの役員会議だ。みんなも心配しておるらしいし、戻ろうか」

その視線の先には、会議室を出ていった私を心配してくれていたのだろう、保護者のまとめ役の女性を始め、数人が廊下に顔を出してこちらを伺っている。私は彼女たちに笑顔を向けて、次期会長と連れ立ち、会議室へと戻った。

それから間もなく、夫は正式に社長へ就任した。同時に、夫は自ら陣頭指揮を執り、社内の機構改革を行っていく。その対象には、当然根本さんの夫も含まれていた。彼は部長という立場を傘に着て、学歴や地位の低い人間をことごとく見下し、言うことに暴力を浴びせていたのだそうだ。

根本部長に下った処分は、地方の工場への左遷であった。ちなみに、あれからPTAの活動に姿を現さなくなっていた妻の根本さんは、夫が左遷されたのを機に離婚したとのことだった。だが、自身の収入だけではそれまで暮らしていた高級マンションには住めなくなり、彼女は子供を連れて実家のある田舎に戻ったらしい。

一方、社長に就任してからの夫は、今まで以上に仕事に精を出していた。そんな真面目なところが彼の一番の長所だと思いながら、私も変わらず夫を支えて、この幸せな日々を守っていこうと改めて心に誓ったのだった。

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