市の高級ホテルの日本料理店で見合いをしていたとき、店の外で「お客様が倒れました。どなたかお医者様はいらっしゃいませんか」と叫ぶ声が聞こえた瞬間、私は反射的に立ち上がっていました。隣にいた相手の相澤りんさんは、既に席を立って走り出していました。彼女は作業着に聴診器をかけたまま見合いに現れた救急医で、倒れた男性に躊躇なく膝をつき、胸骨圧迫を始めました。私も気道を確保し、二人は一度も言葉を交わさず…

市の高級ホテルの日本料理店で見合いをしていたとき、店の外で「お客様が倒れました。どなたかお医者様はいらっしゃいませんか」と叫ぶ声が聞こえた瞬間、私は反射的に立ち上がっていました。隣にいた相手の相澤りんさんは、既に席を立って走り出していました。彼女は作業着に聴診器をかけたまま見合いに現れた救急医で、倒れた男性に躊躇なく膝をつき、胸骨圧迫を始めました。私も気道を確保し、二人は一度も言葉を交わさず...

見合いの場所は市内の高級ホテルの日本料理店だった。個室に通され、俺は一人でしばらく待った。約束の時間から十分ほど過ぎた頃、ドアが開いた。現れた女性を見て、俺は思わず目をまたいた。

紺色の作業着。動きやすそうな厚底のシューズ。髪は無造作にまとめられ、首元には聴診器がかかったままだった。まるで現場から直接飛んできたような格好だった。

「すみません。遅くなりました。救急の呼び出しがあって」

彼女は少し息を切らしながら頭を下げた。作業着姿とは裏腹に、整った顔立ちをしている。目に力があった。

「相澤りんです。よろしくお願いします」

「神崎誠です」

「こんな格好で来てしまって、ごめんなさい」

「構わない。救急対応だったなら、当然だ」

彼女は声を出して笑った。屈託のない笑い方だった。料理が運ばれてくる頃には、会話は自然に弾んでいた。彼女は総合診療と救急医療の専門医で、複数の病院を掛け持ちしながら地域の救急体制を支えているという。話し方は率直で、裏表がなかった。

食事が半ばに差しかかった頃、店の外が急に騒がしくなった。

「お客様が倒れました。どなたかお医者様はいらっしゃいませんか」

その声が飛び込んだ瞬間、りんはすでに席を立っていた。俺も反射的に動いた。

ロビーに出ると、六十代とおぼしき男性が床に倒れ、周囲の客が輪を作っていた。りんは迷わず男性の傍らに膝をつき、首元の聴診器を耳に当てた。

「意識なし。呼吸も乱れている。脈は弱くて速い。心停止の前兆かもしれない。AEDを持ってきてください」

彼女が店員に指示を飛ばしながら胸骨圧迫を始めた。俺は気道を確保し、呼吸の状態を観察した。言葉はほとんど交わさなかった。それでも動きが噛み合った。まるで長年一緒に現場をやってきた相棒のように、互いの行動が自然に補い合った。

AEDが届き、二人で手順を進めた。電気ショックの後、男性の呼吸が戻った。りんはようやく長い息を吐いた。

「よかった」

その一言だけだった。派手な感想もなく、ただ静かな安堵だった。救急隊に引き継いだ後、俺たちは並んでロビーの椅子に腰を下ろした。

「変な見合いになりましたね。あ、でも悪くなかった」

りんは少し照れたような顔をしてから、また笑った。その横顔を見ながら、俺は思った。命に向き合う時の彼女の目には、迷いが一切なかった。自分の信じるものにまっすぐだった。それがひどく眩しく感じた。俺はこんな女性に会ったことがなかった。

見合いから三ヶ月後、俺はりんと結婚式を挙げた。派手な式は二人とも望まなかった。診療所の近くにある小さな料理屋を借り切って、まゆみや地域の常連患者たちと囲むささやかな祝いの席だけで十分だった。

「先生、本当におめでとうございます。りん先生も、これからよろしくお願いします」

まゆみは目を真っ赤にしながら頭を下げた。普段は元気な彼女が涙をこらえている姿に、俺は少しもらい泣きしそうになった。

「ありがとう、まゆみ。これからもよろしく」

りんがにっこり笑って応えた。その笑顔を見て、まゆみはこらえきれずに涙を拭った。祝いの席は穏やかな空気に包まれ、俺たちは静かにその時間を噛みしめていた。

結婚してからも、俺の診療所での暮らしは大きく変わらなかった。朝早くから患者が訪れ、昼休みにはまゆみが作ってくれた弁当を食べる。ただ一つ違うのは、隣にりんがいるということだった。彼女は自分の勤める病院をこなしながら、休みの日には診療所を手伝ってくれた。

「誠、今日の患者さんはどうだった?」

夕食の席で、りんが訊ねた。彼女はいつも俺の一日に関心を持ってくれた。

「ああ、持病の悪いお婆ちゃんが落ち着いてな。あとは小さい子の風邪が流行りかけているみたいだ」

「そう。なら、明日は予防接種の準備をしておくね」

りんはそう言って、眼鏡を直しながら何やらメモを取っていた。彼女のそんな姿を見ていると、俺は不思議な気持ちになる。かつて医療システムの開発者として最先端の技術を追い求めていた頃には、想像もできない暮らしだった。

俺がこの町に来たのは三年前だ。都会の大病院で、最新の医療技術を駆使して働いていた。医療環境制御システムの開発者として、世界の医療機関と連携し、最先端の技術を統括していた。だが、画面の向こうにいる患者の顔が見えなかった。数値やデータとしてしか人間を捉えられない自分に限界を感じ、俺はその世界を捨てた。

「誠、ちょっといいか」

ある日、診療所の玄関をくぐりながら、りんが声をかけてきた。いつもと違う真剣な顔だった。

「どうした、りん」

「私の友人が、救急の現場で悩んでいるんだ。人手が足りなくて、回らなくなってきているって」

「それで?」

「よかったら、週末に一度だけ現場を見学してもらえないか。誠にも診てもらいたいことがあるんだ」

俺は了承した。彼女がそこまで真剣に頼んでくるのは珍しかった。週末、俺はりんと連れ立って隣市の救急指定病院を訪れた。彼女の友人である救命医の林田医師が出迎えてくれた。

「相澤先生が連れてきた人だって聞いたけど、神崎誠先生か。システム開発の神崎だろ? あの」

「ええ、まあ」

「今は、こういう診療所にいるんだ。でも、あなたの技術が必要なんだ。一度だけでもいい、見てくれないか」

林田医師はそう言って、俺を救急処置室へ案内した。そこでは、若い研修医が慌てた様子で患者の対応に当たっていた。カルテを見ると、中年の男性が苦しそうに息をしている。モニターが規則的な波形を刻んでいる。

「今、心筋梗塞でな。カテーテル室を探しているんだけど、空かなくてな。少し待ってもらっている状態なんだ」

「この状態で待たせるのか? 」

「こっちも人手が足りないんだよ。まあ、神崎先生のシステムなら、この状況をうまく回せるんだと思うんだが」

林田医師は苦笑いしながらそう言った。俺はその場で、端末を借りてデータを見た。確かに、この地域の救急システムは効率が悪い。病院ごとに情報が共有されておらず、空いている病院に患者を回すことができていない。それは、俺が以前開発していたシステムで十分に解決できることだった。

「誠、どう?」

りんが不安そうな顔で俺を見つめた。俺は彼女のそんな表情を見るのが初めてだった。彼女は普段、誰よりも頼りになる存在だ。そんな彼女が、俺に助けを求めている。そのことが、胸に痛かった。

「考えてみるよ」

俺は短く答えた。その答えに、林田医師は満足そうに頷き、りんはほっと息を吐いた。帰り道、車の中でりんが話し出した。

「ごめんなさい。急に呼びつけてしまって」

「いいんだ。それより、よく俺に知らせたな。こんな都合のいい話、なかなかないだろ」

「信用しているからよ。誠の作ったシステムは世界で認められている。ここでも必要とされている。私が保証する」

その言葉に、俺は何も言えなかった。彼女は俺のことを信頼してくれている。それだけで、昔の自分が間違いではなかったと思えた。

それから数週間、俺は週末に林田医師の病院を訪れ、システム作りの手伝いをした。最初は抵抗があった。また昔のように、数値やデータの向こう側で患者を捉えることになるのが怖かった。しかし、実際に現場に立ち会ってみると、それは違っていた。

「先生、この患者さん、一番忙しい時間帯に来たんだけど、助かります」

研修医たちがそう言って感激してくれた。患者の容体が急変した時、データの異常が即座に検知され、対応がスムーズになる。そのおかげで、一人ひとりの患者に向き合う時間が増えた。これは医療の現場を遠ざけるためではなく、むしろ医療者が患者と向き合う時間を増やすための技術だ。俺はそのことに気づいた。

診療所に戻ってからも、変わりなかった。田舎の診療所で、医師として地道にやる。それは今の俺の変わらないスタンスだった。ただ、その考え方は以前と少しだけ柔軟になっていた。

「誠、最近なんだか仕事が楽しそうだね」

ある夜、布団の上でりんが言った。彼女は前向きに俺を見つめている。

「そうか? 」

「うん。前よりも自信があるように見える。やっぱり、大変なことから逃げなくて大丈夫なんだよ」

「逃げたんじゃない。自分の道を選んだんだ」

「うん。それは分かってる。でも、また世界と繋がってもいいんだよ。私たちの仲間は、もっと広がっているから」

俺はりんの言葉を聞いて、少しだけ視界が開かれた気がした。あの日、都会を捨てたのは自分からだった。しかし、それは軽い選択ではなかった。いまだに、時々夢に見ることがある。モニターの向こうの患者のデータを解析していた日々を。

「お前、また何か怖がってるんじゃないのか?」

実家に帰った時、父の大次郎に言われたことがある。母はもうとっくに他界して、男ばかりの神崎家。父と兄は相変わらず、俺のことを谷で見下していた。

「俺は別に何も怖がってない」

「だったら、なぜ診療所みたいな小さなところに籠もっているんだ。お前の能力をもったいないと思わないのか」

「もちろん、思ってないといえば嘘になる。だが、俺にはああいう場所が必要だったんだ」

「ふん、理屈はどうでもいい。まあ、お前が戻ってきたくなる時が来るかもしれないな。兄も待っている」

父はそう言って、それ以上話そうとしなかった。その時は、父の言葉の真意が分からなかった。しかし今は、少しだけ彼の言いたいことも分かる。俺はずっと、自分が選択を間違えたのではないかと心のどこかで疑っていた。だが、そんな時でも、俺の選んだ道を肯定してくれた相手がいた。その存在が、どれほど大きかったか。

ある日、診療所に見知らぬ来客が訪れた。スーツを着込んだ男性二人組だった。敏子製薬の社員だという。

「先生、ぜひ開発部に来ていただきたい」

「何の話だ」

「神崎先生のシステムですね。先生が開発した医療データ共有システム。あの技術をぜひ、我々と一緒に実用化してほしいのです」

俺はその言葉に、一瞬息をのんだ。かつて自分が手放したものを、向こうは欲しがっている。それが何より驚きだった。

「あのシステムはもう、俺のものではありません。データだけ提供したことはないが、基礎技術は誰の手でも再現できる」

「いえ、そうじゃない。先生の頭脳が必要なんです。先生が持つ視点が、我々には縁れています」

結局、その日のうちに答えを出すことはしなかった。辞めたあと、診療所の待合室で考え込んでいると、りんがコーヒーを淹れて持ってきてくれた。

「さっきの人たち、何の話?」

「医療システムの共同開発の話だ」

「誠ならもっと早く連絡が来ると思ってたよ」

「別に期待してなかったよ。まあ、たまにはいい話もあるってことだな」

俺は苦笑いしながらコーヒーを一口すすると、冷めたところに温かいコーヒーが胃に沁みた。

「それで、どうするの? 」

「どうもしないよ。診療所の医者はまだやめないさ」

「私のことなら心配しなくていいよ。先生、自分のために選んでもいいのよ」

「いや、俺は自分の選んだ道を歩く。それは昔も今も変わらない。ただ、システム研究はほどほどに協力しようと思う」

俺はそう言って、ゆっくりと立ち上がった。窓の外では、この町の夕陽が赤く染まっていた。あの日、この診療所を開いた時、俺は未来のことを考えた。それは患者のためであり、自分のためだった。そして今、隣に立っている人のためでもある。

「今日の夜は何を作ろうか」

「そうだな。元気が出るものを作ってくれ」

りんはそう言って笑った。その顔を見た時、俺は思った。救急の現場で死に物狂いに働く者同士が、こうしている日常を何気なく過ごしている。その静かさがたまらなく幸せで、そして同時に、自分はこの日常にしっかりと生きているのだと思った。

それからも、俺が診療所を続けることに変わりはなかった。生憎、父や兄の言うほど、悪くない。いや、むしろ良かったのかもしれない。ここには、患者の顔がある。パソコンの画面を見つめているだけで、命を見失ってしまう人間にはなりたくなかった。

「先生、今日も一日ありがとうございました」

最後の患者を見送って、診療所を閉めた。まゆみはいつものように、手際よく道具を片付けている。

「まゆみ、今日は早く帰っていいぞ」

「でも、先生、まだわからないので、書類がある」

「俺がやる。お前もたまには早く帰って、ゆっくりしろ」

まゆみは一瞬驚いた顔をしたが、それから素直に笑って「ありがとうございます」と言い、診療所を出ていった。りんも手伝うと言ってくれたが、俺はそれを断って、一人で机に残った。静かになった診療所で、書類の整理をしながら、俺はふと窓の外を見た。月がきれいに出ている。

病院を捨て、この町に流れ着いた時、もう誰の助けもいらないと思ってた。しかし、それは間違いだった。目の前に倒れている人間をどうにかするより、胸の内を打ち明けられる相手のほうが、もっと難しかった。そんなことをしてられない。俺には、今隣にいる人間をちゃんと守れる医者でい続けなければならない。

三日後、病院からの電話があった。訪問した際の見学で、林田医師の病院の提供で、共同研究の話が具体的に進んでいるということだった。電話の向こうで林田医師は随分と嬉しそうな声で話す。

「神崎先生、うちの研修医も感激してましたよ。先生のシステムがあれば、もっと患者と向き合えるぜって」

「あれは本作で、まだ十分に機能してないんですけどね」

「いやいや、これからですよ。さて、本題ですが、来月から月に二回ほど、アドバイザーとして来ていただけませんか? こっちも手弁当でいいですから、何とか頼めませんかね」

昔の自分なら、一も二もなく飛びついただろう。しかし、今の俺には、診療所がある。簡単に返事はできない。

「診療所の空いている時間帯に、都合が合えばということで」

「ありがとうございます! 先生の上司がりん先生で良かったですよ。あ、もちろん、現場の状況もありますから、無理は言いません」

林田医師は気を使いながら、電話を切った。受話器を置いても、俺はしばらく大きなため息をついた。そして、携帯電話を手に取ると、着信履歴の中の「りん」という文字を指で撫でた。

何のことはない、電話を一本かけるだけだ。これからもよろしくと伝えるだけ。しかし、それがなかなかできない。いや、単純に照れくさいんだな。

その夜、診療所の近くにある小さなバーで、俺は一人でビールを飲んでいた。すると、カウンターの隣に、見慣れた白衣が掛かった。

「珍しいな。こんなところで飲んでるのか」

「りん、お前こそ」

「病院の帰り、真美から今日は早く帰らされたって聞いてな。じゃあ、ここにいるかもって思って」

りんはそう言って、俺の隣に座った。そして、店員にウイスキーの水割りを頼んだ。

「別に何か悩みがあるってわけじゃないんだが、ちょっとな」

「本当に? 最近、よく夜くまで書類を見てるじゃないか」

「それは、患者のことを考えると、なんだかんだ」

「誠は真面目すぎるよ。もう少し考え込まないで、信じていいんだぞ。自分を助けてくれる人を」

りんが俺を見つめた。その目は、昔、救急の現場で助け合った時と変わらず、真っすぐだった。

「手伝ってくれないか、これからも、俺のことを支えてくれたりするか? いや、支えてもらうばかりじゃなくて、対等に助け合っていきたいんだ」

「何言ってるの。今だって、もう充分対等だって。そう思ってる。誠は私をこんな気分にさせて初めての人間だ」

「どういう意味だ? 」

「いつも人を助ける側だと思ってた。でも、信じた者同士が助け合う。そういう関係にも、なれるんだなって」

そう言って、りんはふっと微笑んだ。その笑顔を見た時、俺の中で何かが固まった。これだ。俺はこういう光景を見たかったんだ。むしろ、いつも見ていたい存在だったんだ。

「これからも、ずっと」

「当たり前だろ」

りんは照れくさそうにそう言って、水割りに口を付けた。俺はその横顔をしばらく見つめて、それからビールを一気に飲み干した。二人の間には、静かだけど温かな空気が流れていた。

あの日の見合いが、二人のすべてを変えた。神崎誠の人生は、あの時を境に別の方向へと動き出した。救急の現場で出会った二人は、同じ町で、同じ気持ちを共有し、そして、同じ明日を紡いでいく。この静かな田舎町で、彼らは今日も小さな診療所の灯りを絶やさない。人々の命を守るために。そして、互いの存在が、この町のいちばんの薬になることを、誰よりも知っているからこそ。

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