俺は勝ち組だからな。明日なんて業界最大手のIT企業と十億の契約を結ぶんだ——高級寿司屋で偶然再会した元同僚の安西は、そう誇らしげに笑っていた。「お前からしたら、俺みたいな人は雲の上の人って言うんだろうな」。五年ぶりに聞くその声は、俺の人生をめちゃくちゃにした男のものだった。就職して一年、俺と安西は三億の商談を任され、毎日ファミレスで夜遅くまで資料を練った。商談当日、安西は「先方が急病で延期に…

俺は勝ち組だからな。明日なんて業界最大手のIT企業と十億の契約を結ぶんだ——高級寿司屋で偶然再会した元同僚の安西は、そう誇らしげに笑っていた。「お前からしたら、俺みたいな人は雲の上の人って言うんだろうな」。五年ぶりに聞くその声は、俺の人生をめちゃくちゃにした男のものだった。就職して一年、俺と安西は三億の商談を任され、毎日ファミレスで夜遅くまで資料を練った。商談当日、安西は「先方が急病で延期に...

「俺は勝ち組だからな。明日なんて業界最大手のIT企業と十億の契約を結ぶんだ」

高級寿司屋で偶然に再会した元同僚が、自分の成功を誇っていた。彼は言う。「お前からしたら、俺みたいな人は雲の上の人って言うんだろうな。俺は勝ち運にも恵まれてるからな」

彼が何をしたのか。どうやってその成功を手に入れたのか。元同僚は、不都合な真実を忘れているようだった。

俺はため息を押し殺して、愛想笑いを浮かべた。気分良くしていられるのも、今のうちだ。何しろ俺は、この元同僚の鼻を折り、どん底に突き落とす札を持っている。

俺の名前は菊池。四十路に差しかかった会社員だ。ここ数年の人生には大きな浮き沈みがあった。浮き沈みのひとつひとつを振り返ると、落ち着いた今でも肝が冷える。ほんの少し前まで、俺はそんな気の重い日々を過ごしていたのだ。

俺という人間は、そもそも明るい性格をしている。子供の頃からお調子者で社交的だった。小学生の頃にバスケットボールを始めると、チームスポーツの面白さにも目覚めて、社交性に磨きがかかった。仲間と時間と経験を共有しながら、目標に向かって進んでいく。自分の生まれ持った性格とスポーツの相性の良さのおかげで、俺は大学までバスケを続けることになる。

思う存分バスケをやりきり、やがて始まった就活。俺は体育会系の学生の進路の定番と言われていた営業職を志望した。目指す業界は建設・建築関連の企業。大学では建築について学んでいた。それを生かしつつ、営業で明るい性格を発揮する。そんな目標も定めていた。

就活に明け暮れ、最後は第一志望だった大手建設会社の内定を得る。想定以上の結果に、当時は涙が出るほど嬉しく喜んだものだ。そして入社してからも、俺は運や環境に恵まれた。

「縁から先に生まれたってよく言われてきたけどさ、お前もなかなかだな」

「そうなんだよな。俺も親が呆れるほど喋る子供だったらしい」

同期で同じ営業部に配属された安西慎也。彼は俺と同じく明るい性格でお喋り好き、体育会系で生きてきた背景も同じだった。そうなると当然気が合い、良い友人にもなれた。

「スポーツして営業食って、体育会系ルートだって言われるけど、それで全然いいよな」

「そうだよな。きっと転職みたいなもんだよ」

右も左も分からない社会人生活のスタートで安西に出会えたのは、幸運だった。俺たちは部署内でも若手コンビとして期待してもらい、仕事を任され、見守ってもらっていた。

「お前たちにとって大きな挑戦になるだろう。しっかり準備して挑んでくれ」

就職して一年が過ぎたある日、俺と安西は重要な商談を任された。会社の大口取引先の子会社の営業センター新設に関する契約で、無事に成立すれば三億円程度の利益が見込めるものだった。

「取引先との関係性を今後考える上でも、取りこぼせない案件だ。このタイプの案件は若手に任せている。その流れに乗って、二人に頼む。アドバイスはいくらでもするからな。とにかくやれるだけやってみろ」

「はい。懸命に取り組みます。お力添えもお願いします」

「期待に答えられるよう頑張ります」

俺と安西は、商談成立に向けてとにかくがむしゃらに突き進んだ。時には上司や先輩からアドバイスをもらい、指導を受けながら、自分たちだけでは足りない部分を補強していく。面白いことに、アイデアはお互いに無限に浮かんできた。仕事するのが楽しく、目標があると燃える。勝負にも熱が入った。

上司や先輩に注意されても、残業をやめられず、会社を出てからは近所のファミレスでひたすら考え事に明け暮れた。休みの日ですらそれは続き、四六時中アイデアを出し合い、資料を探し、仕事の成功を夢見る毎日だった。

「ちゃんと結果出して、先輩たちに安心してもらおうな」

「そうだな。仕事できる、やれる人間だって分かってもらわないとな」

商談当日が近づくと、俺たちは成功をイメージして気持ちを高めていた。この時はとにかく結果を求めて、先のことしか見えていない、そんな状態だった。

「菊池、先方から商談の日を変更して欲しいって。向こうで急病の人が出たらしい」

「え、それは大丈夫なのか」

商談当日、先に出社していた安西から、急遽午後の商談が延期になったと言われた。理由は商談相手の急病。その止むを得ない事情に、俺はとっさに相手への心配が先に来た。

「何かお見舞いの連絡入れたりとか」

「あ、それは特に課長が連絡入れてくれるって」

「ああ、そうなのか」

「うん。俺たちは何の心配もしなくていいそうだ」

安西は俺の疑問に答えると、大きなため息をついた。

「せっかく準備万端でやる気しかなかったんだけどな」

「まあしょうがないよ。とりあえず次を待とう」

俺たちはどちらともなく笑い、その日を仕切り直した。商談がなくなり、時間ができて他の仕事をする。安西は会議の資料をまとめるために会社にいると言い、俺は得意先を回ろうと外に出た。仕切り直しの商談はいつになるのか。それを気にしながら、一日中外回りを続ける。夕方、もう一件だけ出向いてみようと思っていたところに、上司からの連絡が入った。

「おい、今すぐ戻れ」

短い一言で、上の怒りが伝わる。それだけを電話口で告げられた俺は、首をひねりながら急いで会社に戻った。

「菊池君は、どうして商談をすっぽかしたんだ。安西だけに行かせて、何してたんだ」

フロアに俺が駆け込むなり、上司の声が響いた。上司はデスクに俺を呼び寄せると、そのまま俺には何のことか分からない話を始めた。

「安西が商談を丸投げされて、仕方なく一人で行ったそうだ。先方も大目玉だそうだ。二人で来るものと思っていたら、安西だけが長時間の交渉だ」

「あの、すみません。申し訳ありませんが、その商談は」

上司の話では、例の午後の商談は存在していたことになっている。だが、俺は安西から先方の都合で延期になったと聞いている。怒りの意味が分からず、俺は何が起きているのかはっきりさせようと口を開いた。しかし、それも上司によって遮られた。

「安西がどうにか必死にまとめてきたよ。先方とのやり取りにも苦労して、どうにか」

「あの、それは本当に」

「何が本当だ? 菊池、君は自分がしたことが分からないのか?」

上司との会話は噛み合わず、そもそも俺には何の心当たりもなかった。噛み合わない、食い違った話題にうまく答えられるはずもない。

「いいか、安西に謝罪しろ。君をどうするかは、その話は追々だ」

俺は上司から突き放され、居場所を失う。それでも知りたいことはある。その日、俺が知らない間に何があったのか。分かったのは、どうやら商談は予定通りに行われて、安西が成立させたことだけだった。

「おい、安西」

俺は安西を探し、休憩室にいる安西を見つけた。安西は休憩室でコーヒーを飲んでいた。俺に詰め寄られると、驚きもせず、後ずさりもしない。めんどくさそうな顔でコーヒーをすする。

「お前、商談は延期になったって、そう言ったよな」

「うるせえな。このお人好しが」

コーヒーのカップを置き、安西は俺を軽く突き飛ばして笑った。その何とも言えない歪んだ笑顔は、初めて見る奴の表情だった。

「お人好しで、うまく騙されてくれたからな。俺は大成功だよ」

安西が顔を歪めて大笑いする。そんな彼に、俺は大量の汗が出た。そんな汗まみれの俺を、安西は汚いと嗤う。

「お前さ、顔くらい拭けよ。見苦しい」

「安西、何なんだよ。何か言うことないのか」

「言うこと? ああ、ありがとうな。行ってきてやったよ。手柄ってやつだ」

「バカか。嘘に決まってるだろう。俺がな、自分の手柄のために嘘をついて、行ってきたんだよ。マジで感謝してる。ありがとな、騙されてくれて」

「おい、先方怒らせてまで何やって」

「ああ、それも嘘。先方が怒りまくってるって上には報告しといたんだよ。俺、ちゃんとそういうストーリーも用意したから」

安西は自らの密かな計画を明かすと、満面の笑みを見せる。若手の登竜門と言われた、今後の肝になる案件のひとつ。その勝ちを狙い、俺を落とし入れた。先方がどれだけ俺に怒っているか、その嘘も作り込んで上司に信じさせた。

「課長もちょろいな。俺が先方に怒鳴られたって言ったら信じるんだからな」

「お前、腐ってるな」

「はあ? 人聞き悪いこと言うなよ。俺はな、お前と違って賢いんだよ」

自分と同じ目標に向かってまっすぐ進む。そんな正直な安西はいない。俺の目の前にいたのは、目的のためには手段を選ばない、そんな男だった。

「いいか菊池。営業のエースは俺なんだよ。俺だけがエースなんだ。お前はもう負け組だ。負け組は、おとなしく消えてくれ」

「安西。お前が何したか、課長に言ってやる」

「無理だよ。お前が何か言っても、もう誰も信じないから。じゃあな」

安西は俺の肩を叩くと、手をひらひらと振ってフロアに戻っていった。

「菊池、機密書類を持ち出そうとしたそうだな」

商談の一件は、俺の想像以上に大きな騒ぎになった。安西はどこまでも緻密な計画を敷いていて、俺がどう弁解しても無駄な努力になるように動いていた。商談の翌日には、俺に会社の機密書類持ち出しの疑いまで掛けられた。

「安西が気づいて書類を戻したそうだが、それがなかったらと思うとゾっとするぞ」

「課長、僕はそんなことはしていません」

「安西が、お前が保管庫に入ったのを見たと言ってる。それにお前のデスクに書類が置かれているのを見たともな」

「そんな、それじゃ証拠にならないじゃないですか」

「証拠? 保管庫に入った記録は残っているんだ」

「それは資料を探すために入っただけで」

「本当か? その資料はPCで閲覧できるものじゃなかったのか」

安西が仕組んだ罠に、俺も上司も嵌められた。俺が書類の保管庫に入ったのは、本当に資料を探すためだった。しかし、その資料は保管庫でしか確認できないものではなかった。これは俺がそのことを忘れてやってしまったミスだが、安西はそこにつけ込んでうまくやった。そして安西を信じた上司にしてみれば、俺の行動は疑わしいの何者でもない。

「菊池、もう何もするな。元よりお前にはもう何も任せられない」

上司は俺を完全に突き放した。出勤停止の仮処分も、その場で言い渡された。食い下がってみたが、聞き入れてもらえない。当然の流れで例の商談とその後の取引は、安西が担当することになった。どんどんと受け入れがたい事実に潰される。そうして俺は会社での全てを失った。

結局、俺はそのまま会社を解雇された。会社にとって重要な商談を潰しかねなかった無責任な行動と、何よりも機密書類持ち出しの濡れ衣。その責任を取らされる形で、会社から首を切られたのだ。

人間不信という言葉があるが、会社を解雇された直後の俺はそれ一直線になった。

「たくま、何かできることがあったら、遅いなんてことはないから。弁護士でも何でも立てて。お前の心配があっても、この際、金は出すからさ」

俺は両親に、第一志望として入った会社を解雇されたとだけ伝えていた。驚いた両親は俺を問い詰め、とうとう真相を引き出した。そして俺に立ち向かえと勧めた。

「解雇に異議を申し立てるんだ。会社を訴える」

両親は俺よりも真剣に、俺の身に起きた理不尽に対抗しようとしていた。

「こんなことあっていいわけがない。いや、やめてくれよ。騒がないでくれ」

人間不信を極めきった俺は、親が俺を思う気持ちさえ疑い、親の勧めを叩き切った。

「俺はもう、そういう気遣いはいいんだ」

両親にはそれからしばらく説得されたが、俺は話の全部を聞き流していた。両親の他には、学生時代の友人や先輩、後輩も俺を助けようとしてくれた。それでも俺は、その時は一人になることを選んだ。人との接触を絶ち、生きていかなければならないから、何かしら仕事をする。アルバイト、派遣。色々やったと思うが、この頃の仕事の記憶はあまりない。何せ人と接していなかったのだから、思い出らしいものは残らなかったのだ。

会社を去って五年後、俺はどうにか自分を立て直していた。やっと以前の自分らしさを取り戻し、人間不信を克服する。生活も安定を取り戻して、趣味や暇な時間を楽しむ感覚も戻ってきた。それで何よりも嬉しかったのは、食事が美味しいと思えること。以前は食べることに目がなかった自分を思い出し、美味しい食事をするというのを人生の新たな楽しみにも加えた。

そんなある日、俺は前から行こうと思っていた寿司屋の予約を取った。目標達成のご褒美ではないが、景気付けに行きたい店だった。都内の一等地にある超高級寿司店。席に着いた俺は、店のおすすめを聞きながら寿司とお酒を楽しんだ。

「おい、もしかして菊池か?」

店に誰かが入ってきたなと考えていると、その入ってきた客に名前を呼ばれた。

「菊池、久しぶりだな。何してんだよ、こんなところで」

鋭い声で誰かは分かった。俺はゆっくり声の持ち主の方に体を向けた。

「よう、安西」

声の主、安西は俺の返事に盛大に吹き出した。

「何が『よう』だよ。お前、どうしてこんな場所で飲み食いしてるんだよ」

安西は多少酔っているようだった。声は大きく、俺には忘れられない本性をむき出しにして一方的に話しかけてくる。

「バーカ、お前のためにある言葉だな。おい、ここはとんでもなく高い店だぞ。お前は会社から転がり落ちた人間だろうが。それなのに、こんなところに」

「まあ、たまにはいいだろう」

「たまには? そんなこと言って。ああ、あれか。最後の晩餐ってやつか。社会から完全におさらばしようとして」

安西は自分で言ったことに大笑いを重ねていたが、その内容はぞっとするような、とんでもなく配慮のないものだ。そういうやつだったと思ってしまえばそれまでだが、そんな人間を友人だと思っていた時期もあった。

「ああ、そう、そう。俺は今、社長なんだよ。コンサル会社の」

いつの間にか俺の隣に腰を下ろした安西は、俺に身を乗り出して嫌味な笑顔を振りまいた。

「お前がいなくなってから、トントンと出世した。あの会社では、そうだな、俺にふさわしい仕事がなくなってさ。それで俺も資格を取ってたんで、独立でもしてやるかってな」

「ああ、そうか。さすがだな、安西」

「ま、当然だけどな。今なんて、そこら中から助けを求められて、すげえ忙しくて大変なんだよな。お前みたいな人間には分からない世界だろうけどさ」

安西は上機嫌で自分の会社と自分の自慢を続けていた。コンサル業界では新興の会社だが、優秀な人材を集めて評判は高い。自らの経営手腕への評価も上々で、同業者から一目置かれる存在にもなった。安西に教えを乞うようなコンサルタントもいるのだそうだ。

「そういうのを、雲の上の人って言うのかな?」

「ああ、そうだな」

気分良さそうに話す安西に、俺は気のない返事を続けた。安西を恨む気持ちはあるが、不思議なものでそれがうまく表に出せない。その代わりなのか、安西が喜びそうな言葉が口からするりと出ていた。

「まあ、俺は勝ち組だからな。明日なんて、業界最大手のIT企業と契約するんだよ。額は十億だから、そこそこなんだけどな」

「へえ、そりゃすごいな」

「俺にはそんなの楽勝だけどな。勝ち組で、勝ち運にも恵まれてるからな」

「そうか。けど、その運ももう続かないかな」

安西がIT企業と契約をすると言った時、俺は目が覚めた。まさか、という驚きもあったが、自分にとって最高のチャンスがやってきたと、上の空ではいられなくなる。一方、安西は水を刺されて不満な顔に変わる。

「はあ? 何言ってんだよ。俺の成功が妬ましいからって、適当なこと言ってんじゃねえぞ」

「本当は明日伝える予定だったけどな。その契約は、もうここで白紙だ」

「あ? なんでお前がそんなこと」

「ああ、お前、狂ったのか?」

「狂ってない。ほら、これ」

俺は自分の名刺を安西に握らせた。

「え、営業部長って。おい、お前」

「そうなんだよな。俺は今、お前が明日契約しようと思ってる会社で営業部長してるんだよ」

安西は俺を負け犬だと見ていたが、それは当然、大間違いだった。ちょっと前になるが、最終面接がうまくいったんだ。人間不信になり、食いつなぐだけの日々を過ごした数年。もうこのままでいいとすら投げやりになっていた時期に、俺は今の会社に拾ってもらった。救いの手を差し伸べてくれたのは、大学時代の同期。その同期は、俺の実力を過去の人間性から考え、俺を再起させようと必死に動いてくれていた。同期は高校の先輩がIT企業を立ち上げたと知り、無理を承知でその先輩に俺を紹介してくれたのだ。

そして、その先輩でありIT企業の社長は、ありがたいことに俺に興味を持ってくれた。会社を解雇された身である俺を、社長は真っさらな目で見て、真剣に向き合い、どうして俺が解雇されたのか、社長はそれすらも俺から引き出している。社長も出来た人で、俺のことを分かった上で雇ってくれたんだ。全てを知って、社長は俺を雇い入れ、立場を与えて仕事をさせてくれた。初めは裏方として、会社生活のリハビリ。慣れたところで営業へ配置異動され、俺はそこから勘を取り戻して自由に泳ぎ回るようになった。いつの間にやら肩書きは立派になり、今は営業部長。営業に関する全ての指揮権と決定権を持たされ、責任は重大だ。

「俺はな、周りに助けてもらって仕事に戻ったんだ。それで、こういう店に来るのは、趣味の息抜きだよ」

「あ、ああ。そうなのか」

「ああ。分かってくれたところでもう一度言うけど、契約は白紙だからな」

俺の話を聞きながら、手で名刺を持った形のまま、安西は引きつった顔で固まっていた。俺はそんな安西に追い打ちをかけ、明日の契約はなくなったと念を押す。

「なあ、聞いてるか?」

「あ、ああ」

「なあ、あんなこと言わないでさ」

安西の答えは弱々しく、明らかに声が震えていた。しかし、粘る根性は残っていたのか、俺に体を寄せると肩を組んできた。

「昔の話は終わりにしようぜ。水に流してさ。俺とお前、昔は親友じゃん。ほら、だからそれをまた、業界が変わっても続けて」

「悪いけど、断る」

「そんな、お前、感情に振り回されすぎだろ。仕事の話だろ。だったら感情と仕事は分けて考えないとダメだろう」

「感情? そんなのないよ。あのな、俺は最初から、会社と営業部の判断として、安西の会社との契約はなしと決めてるんだよ」

「はあ? どうして」

「お前の会社、調べさせてもらったんだよ。隅から隅まで」

安西の会社との取引話が持ち込まれたのは数ヶ月前。担当していたのは若手の営業部員だったが、俺は営業部長としていつも通りの調査を行っていた。相手が安西の会社だからということではなく、営業ではいつもやっている通常の信用調査。

「安西、お前の会社は人の出入りが激しいよな。数ヶ月単位で幹部も変わる。優秀な人材を招き入れても、どういうわけか喧嘩別れが続く」

安西の会社は確かに急成長をしているが、内情はお粗末なものだった。派手な文句で人材を募集し迎え入れても、実際の待遇は良くない。何かと理由をつけて一方的に契約違反を突きつける。賢い人たちはどんどん辞めていき、幹部からは安西への批判の声も上がっている。この業界内での評価は、それはもう目も当てられないものだった。まともな会社なら安西の会社を相手にはしない。それでも付き合おうとするのならば、その会社にも後ろめたいことがあるのではないか。そんな噂も混じった話も含め、安西の会社はコンサル業界で浮いた存在だ。

「それから、お前は前職で休職を装って依願退職してもらったらしいな」

「は? なんだそれ? なんでそんなこと」

「聞いたんだよ。仲の良かった人からな。お前、世話になった先輩も罠に嵌めてやめさせたんだってな」

俺は安西の会社への信用調査の他に、個人的に安西の過去を調べ上げていた。正直なところ、ここには俺の恨みという感情が入り込んでいた。しかし、結果としてそれをして良かったと思っている。

「お前さ、取引先と競合相手に金を握らせたらしいな」

俺が会社を解雇された後、安西は若手ナンバーワンの営業マンになった。調子に乗るというよりも、怖いものなしになって、社内で暗躍するようになったそうだ。ライバルになりそうな人間は策を講じて蹴落とし、上司に取り入って立場を築く。汚い手の手口も増やし、賄賂まで使うようになった。有力な取引先や、コンペで競い合った会社の担当者に金を握らせて手柄を得る。頭がどうかしているのだろうが、それよりも先に欲の深さが目についた。手に入れられるものは根こそぎ手に入れたい。安西の行動から、そんな執念を感じた。

だけど、そういう悪事を告発されたんだろう。それで会社にいられなくなった。自分で辞めるから勘弁してくださいって。どうにかこうにか、解雇だけは逃れた。前職での安西の最後は、針のむしろにいるようなものだった。社内の一部から悪事を告発され、全てを失う。会社からの信用と人望。会社での居場所もなくした。俺以上の大スキャンダルで解雇されてもおかしくなかったが、最後に悪運が残っていたのが皮肉らしかった。上手く手名付けをして、自分を擁護してくれた数人の上司のおかげで依願退職が認められたそうだ。それでも罰として退職金は支払われず、それでも解雇という社会的な傷はつかずに逃げ切っていた。

「ただ、逃げ切りも、お前の転落も、これで終わりかもな」

俺はつい口を滑らせていた。勝手な言い分だが、安西の終わりを告げていたのだ。こればかりは、恨みを晴らしたとしか言えなかった。

「いいか? 明日の契約がもうないのは、こちら側の信用調査の結果で決まったことなんだ。それは分かってくれよ」

「冗談じゃねえ。くそが」

俺の通告に、安西は怒り狂って立ち上がった。座っていた椅子を倒す勢いで俺に詰め寄ると、そのまま俺をひたすら罵った。

「クソが。お前は負け組、負け犬なんだよ。調子に乗りやがって。何が営業部長だ? 何が信用調査だ。こそこそしやがって」

「こそこそだったら、お前も散々やっただろう」

「うるせえ。仕返しできていい気分か? お前が俺に勝とうなんて、許されるわけがねえんだよ」

「おい、もうやめろよ。お店に迷惑だろ」

「黙れ、クソ野郎。いいか、お前なんてまた蹴落としてやるよ。今度こそ本物の負け犬にして、社会からおさらばさせてやるよ」

安西は大声で怒鳴ると、俺の胸ぐらを掴もうとした。それを避けて体を引くと、安西はまだ何か叫びながら、今度は俺の鞄を掴んで放り投げた。

「くそ野郎、許さねえからな」

俺の鞄を投げた安西が叫ぶと同時に、寿司屋の大将が安西の前に立ちはだかった。安西が激情している間に、大将は素早くカウンターの内側から抜け出していたのだ。そして、安西を一蹴した。

「おい、なんだよ」

「出て行け。出ていかないなら追い出すぞ」

「おい」

安西は有言実行の寿司屋の大将に、店を追い出された。その後も店の外で安西の怒鳴り声が聞こえたが、飛び出していった若い職人たちがどこかへ連れて行ったのか、聞こえなくなった。それから大将は、何も言わずに俺を気遣ってくれた。寿司を握り直し、帰り際には「また来てください」と声をかけてもらった。とんでもない息抜きになってしまったが、うまい寿司の味は残っている。

それから、寿司屋での一件から一ヶ月と経たずに、安西は潰した。安西の会社らしい、どこまでも好き放題の経営が引き金だった。業績が悪くなった部分も確かにあったが、安西は新規事業への投資や企業買収にまで手を伸ばし、半ば詐欺のような案件にも首を突っ込み、警察から目をつけられたそうだ。ニュースで取り上げられなかっただけで、安西の会社は警察に目をつけられるようなやばい会社だったらしい。結果的にその数々の失敗で巨額の負債を抱え、数ヶ月前からはほぼ自転車操業の状態で会社が成り立っていたそうだ。

倒産劇はお粗末なもので、オフィスは夜逃げ同然で引き払われたそうだ。社員の給料にも未払いがあり、車両のリース契約をしていた会社へも一部代金を支払っていない。そんな状況で、安西の行方は不明だ。オフィスがそうだったように、住んでいた都内のタワーマンションからいつの間にか逃げ出していたという。噂では海外に逃亡しているとか。仲の良かった経営者に国内で匿われている、など、安西の行方にまつわるそんな話が聞こえてくる。俺としては、安西を助けようという人がいるというのは信じられない。そんな人がいるのなら、申し訳ないが安西に騙されていると忠告したくなる。

人から信用を得るというのは難しいと思う。誰かに喜んでもらえる仕事で結果を出す。何が正解なのか分かりづらいからだ。ただ、苦い経験をした俺が言えることは一つ。自分と人に対して裏表なく正直に。人と喧嘩はしても、言葉は尽くして理解し合う。それが大事なのだろう。部下を抱える身になった今、俺はその精神を守ろうと誓っている。誰も不幸にしないように。そのために、自分のやれることを精一杯やるだけだ。

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