深夜の産婦人科待合室。壁の時計の秒針が刻む無機質な音だけが、私を現実につなぎ止めていた。工藤美咲、私は冷たい長椅子に一人座り、波のように押し寄せる陣痛に耐えていた。破水してから三時間。妊娠九か月、初めての出産。不安と痛みで、心も体も限界だった。
なのに夫の悠也はまだ来ない。何度電話しても留守番電話につながるだけ。自動ドアが開くたびに祈るような気持ちで目を向けたが、入ってくるのは優しい夫に支えられた他の妊婦ばかりだった。なぜ私だけがこんなに一人なの。涙で視界が歪む。
看護師が心配そうに声をかけてくれる。夫はまだ連絡がないのかと。私は作り笑いを浮かべて答えるのが精一杯だった。仕事が忙しいんだと思います。
陣痛が始まって三時間が過ぎた頃、待合室のドアが開き、見慣れた姿が現れた。悠也だ。私は安堵と喜びで名前を叫ぼうとした。しかし次の瞬間、体が凍りついた。悠也は一人ではなかった。背後には姑の伸子が腕を組んで立っている。そして何よりも、彼から漂う酒の匂い。足元はふらつき、目は濁っていた。
「あら、美咲さん、大変そうね」
伸子は他人事のように言った。悠也は悪態をつく。
「タイミング最悪だな。今日、大事な用があったんだよ。お前のせいで全部台無しだ」
信じられない言葉だった。陣痛で死にそうなのに、あなたの子どもを産もうとしているのに。
「痛くて死にそうなの。それなのに飲み会が大事ですって」
私が声を荒げた瞬間、悠也の足が振り上げられた。ドスッという鈍い衝撃。蹴られたのは私の足だった。バランスを崩し、床に崩れ落ちる。強烈な痛みと衝撃で呼吸ができない。待合室にいた人々の悲鳴が聞こえた。
そんな私を伸子が冷たく見下ろした。
「だから言ったのよ。親のいない子は躾がなってないって」
彼女は私の前に屈み込み、乱暴に髪を掴んだ。頭皮が引き裂かれるような痛み。そのまま頭を前後に揺さぶられる。視界がぐらぐらと揺れ、吐き気が込み上げてくる。
「夫に口答えするなんて百年早いのよ。この出来損ないが」
ここは新しい命が生まれる神聖な場所のはず。なのに私はなぜ、こんな地獄の底にいるのだろう。遠くで看護師たちの絶叫が聞こえた。誰かが駆け寄ってくる気配もした。しかし私の意識は、痛みと絶望の闇に飲み込まれていった。その時の一部始終が、待合室の天井に設置された監視カメラに克明に記録されていることを、まだ誰も知らなかった。
—
悠也と出会ったのは三年前、友人の紹介だった。大手ゼネコンに勤める彼は背が高く、笑顔が爽やかで誰にでも優しかった。一年後に結婚。彼の両親が経営する建設会社の後継ぎとして、不自由ない暮らしが約束されていた。幼い頃に両親を亡くし、施設で育った私にとって、温かい家庭は何よりも焦がれた夢だった。
しかしその夢は、結婚生活が始まると同時に色褪せていった。伸子の嫌みは日常茶飯事だった。お茶の入れ方、おつけ物の味。全てが貶される。悠也はいつも見て見ぬふりをした。「母さんも悪気はないんだよ。お前がうちのやり方に慣れればいいだけだ」と。私は波風を立てたくなかった。悠也に嫌われたくなかった。だからいつも笑顔を貼り付けて、全てを受け入れてきた。
妊娠がわかった時、一筋の光が差した。悠也も最初は喜んでくれた。「そうか、俺も父親か。よし、頑張らないとな」と、私のお腹を愛おしそうに撫でてくれた。しかしその喜びも長くは続かなかった。つわりがひどくなるにつれ、悠也は家に寄りつかなくなった。毎晩のように飲み歩き、私への態度も冷たくなっていった。唯一の味方である、福岡に住む母の静枝には心配をかけたくなかった。電話ではいつも「元気にやってるよ」と明るい声を装った。
運命のあの日、陣痛が始まったのは深夜二時過ぎだった。悠也に電話をかけると、ようやく繋がった声の向こうからはカラオケの音楽と女性の笑い声が聞こえた。
「陣痛が始まったみたい。病院に行きたいの。お願い、車を出してくれないかな」
「わかった。後で行く」
その言葉だけを最後に、電話は一方的に切られた。一時間待っても彼は帰ってこなかった。もう一人では限界だった。私はタクシーを呼び、一人で病院へ向かった。運転手の優しさが、逆に私の孤独を浮き彫りにした。
三時間後、ようやく現れた悠也の姿は、妻を気遣うものではなかった。
「今日レナと会う約束があったのにお前のせいでキャンセルしなきゃいけなくなったじゃないか」
レナ。その名前は深く突き刺さった。悠也の元彼女で、地元のテレビ局のアナウンサー。結婚前に悠也の友人から聞かされたことがあった。「悠也の親は本当はレナさんと結婚させたかったらしいぞ」と。
「正直に言うよ。本当は俺の隣にいるべきだったのはレナだったんだ」
伸子が追い打ちをかける。「本当にそうよ。レナさんは家柄も学歴も申し分ない素晴らしいお嬢さんだったのにね」
「やめて…もうやめてください」
痛みと屈辱で私は叫んでいた。すると悠也の顔色が変わった。
「なんだと。この俺に指図する気か」
彼は突然立ち上がると、床にうずくまる私の足に、革靴の爪先を叩きつけた。悲鳴を上げる私を、冷たい目で見下ろす。そこに伸子の高い声が重なった。
「だから親のいない子はダメだというのよ。躾がなってない」
伸子は私の髪を掴み、無造作に頭を揺さぶった。視界が点滅し、意識が遠のいていく。その時、待合室のあちこちから悲鳴が上がった。
「警察!誰か警察を呼んで!」
看護師たちが慌てて駆け寄り、二人を引き離そうとする。私は乱れた髪のまま床に倒れ込み、ただ大きなお腹を抱きしめて嗚咽を漏らすことしかできなかった。その時、待合室の片隅で一人の女性がスマートフォンを取り出し、電話をかけているのが見えた。警察と話しているようだった。
その直後、私の下腹部に今までにない激しい痛みが襲いかかった。
「大変、出血が!」
看護師の悲鳴のような声が聞こえた。私の命とお腹の子の命が、危険にさらされていた。
—
母の静枝が病院に到着したのは、それから間もなくのことだった。福岡から始発の新幹線に乗って、私の初めての出産に立ち会うため、期待と少しの不安を胸に駆けつけてきたのだ。しかし病院の玄関をくぐった瞬間、目にしたのはストレッチャーに乗せられ、乱れた髪、引き裂かれたウェア、うろな瞳で大きなお腹を抱きしめる娘の姿だった。足には痛々しい痣が浮かんでいる。
「みさ!」
母は駆け寄ろうとした。しかしさらに信じられない光景を目にする。ストレッチャーの横に立つ悠也と伸子。二人とも反省するどころか、まるで自分たちが被害者であるかのような不満げな態度で腕を組んでいた。悠也からはまだ酒の匂いが漂っている。
「一体何があったんですか?」
母は震える声で問いかけた。伸子がさも大したことではないというように口を開く。
「あら、お母様。大したことじゃないんですよ。美咲さんが少し神経質になって騒ぎを起こしただけですわ」
神経症?騒ぎ?看護師が慌てて割って入った。
「お母様、今はとにかく手術室へ。危険な状態なんです。早期剥離の疑いがあります」
ストレッチャーを押しながら廊下を走る中、看護師が母の耳元で小さな声で告げた。
「先ほど待合室で、旦那様と姑様からひどい暴行を受けていました。病院の監視カメラに全て記録されています。目撃した他の患者さんが警察に通報もしています」
看護師は続けた。「旦那様の元彼女の話をされたとかで…」
その言葉を聞いた瞬間、母の穏やかな世界で何かがぷつりと切れる音がした。目の前が真っ赤に染まるような激しい怒り。しかし今は娘の命が最優先だ。母は奥歯を噛みしめ、込み上げてくる感情を心の奥底に押し込んだ。今はまだその時ではない。しかし、その瞳の奥には、冷たく深い静かな怒りの炎が燃え盛っていた。
—
手術室のドアが閉まると、外の喧騒が嘘のように遠のいた。無機質な医療機器の音とスタッフの緊迫した声だけが響く白い空間。
「血圧180超えました!胎児心拍低下しています。危険です!」
医師たちの声が飛び交う。極度のストレスと恐怖が、私と赤ちゃんの体に深刻なダメージを与えていた。意識がもうろうとする中、口からは「レナさんの方が良かったって…私のせいで人生がめちゃくちゃに…」といったつぶやきが漏れていた。
手術着に着替え、特例で立ち合いを許された母が、私の手を強く握りしめてくれた。
「みさ、しっかりしなさい。ママがここにいるわ。赤ちゃんのために頑張るのよ」
その手の温かさだけが唯一の救いだった。
「母体の血圧が下がりません。このままでは危険です。緊急帝王切開に切り替えます!」
医師の鋭い声。もう自然分娩は不可能。命を救うための最後の選択肢だった。母は手術室の隅で祈るように両手を組み、ただ見守ることしかできなかった。
長い時間が過ぎていく。濃密な沈黙を破ったのは、赤ちゃんのか細くも力強い産声だった。
「おめでとうございます。元気な男の子ですよ」
看護師が綺麗に体を拭かれた赤ちゃんを私の顔の近くに連れてきてくれた。小さくて赤くてしわしわだけど、間違いなく私の命がけで産んだ私の赤ちゃん。良かった、無事で。その言葉を最後に、私の意識は深い眠りへと落ちていった。
—
手術が終わった後、担当医は待機していた母に厳しい表情で告げた。
「本当に危機一髪でした。あと十分判断が遅れていたら、母子ともに危険な状態でした。暴行によるストレスがここまで深刻な事態を引き起こすとは」
その言葉は、母の心に再び怒りの炎を燃え上がらせた。あれはただの夫婦喧嘩ではない。殺人未遂だ。母は保育器の中で小さな手を動かす孫の顔を見つめながら、静かに固く誓った。あの二人をこの場所で跪かせる。そして娘とこの子にしたことの代償を、骨の髄まで支払わせてやると。
—
病室で麻酔が覚めると、心配そうな母の顔があった。
「赤ちゃんは?あの子は無事なの?」
「大丈夫よ。保育器に入っているけど、とても元気な男の子よ」
その言葉に安堵し、再び涙が溢れた。しかし心は痛んでいた。どうしよう、私、これからどうしたら。私が何か悪いことをしたのだろうか。私が至らない嫁だったからだろうか。自責の念に駆られる私を、母は力強く抱きしめた。
「あなたは何も悪くない。みさ、あなたは何も心配しなくていい。これからはお母さんが全部やるから。絶対に、あの人たちを許さない」
その時、病室のドアがノックもなしに開けられた。悠也と伸子だ。二人とも何事もなかったかのような平然とした顔をしている。
「あら、目が覚めたのね。大変だったわね。でも無事に男の子が生まれて本当に良かったわ。これで工藤家の後継ぎができたんだから」
悠也も悪びれる様子もない。「ああ、お疲れさん。男の子とは大手柄だな。これでうちの親父も喜ぶよ」
その無神経な言葉に、私は言葉を失い、ただ震えることしかできなかった。しかし母は静かに立ち上がり、二人を遮るように私の前に立った。
「二人とも、一体どういうつもりでここに来られたのですか?」
その声は低く冷たく、氷のように響いた。伸子は一瞬戸惑ったが、すぐにいつもの調子で答えた。
「どういうつもりって、お嫁さんと孫の顔を見に来ただけですわ。何か問題でも?」
「問題だらけですよ。陣痛で苦しむ娘を殴り、蹴り、髪を掴んで罵倒したあなたたちが、どの口で後継ぎだなんて言うんですか?」
その言葉に二人の顔色が変わった。
「何を言うんですか?暴行だなんて人聞きが悪い。私たちはただ美咲さんが興奮していたから、少し落ち着かせようとしただけで…」
「落ち着かせるために足を蹴り上げるのですか?落ち着かせるために髪の毛を引きずり回すのですか?」
母の鋭い追求に二人は言葉に詰まった。
「病院の監視カメラに全て映っています。目撃者も大勢います。警察もすでに来ていますよ」
警察という言葉に、二人の顔がさっと青ざめた。
「今すぐここから出て行ってください。そして二度と私の娘と孫の前に顔を見せないでください。あなたたちがしたことを、絶対に後悔させてやります」
低い声だが、病室の隅々まで響き渡る強い意志のこもった言葉。悠也と伸子は母の気迫に完全に飲まれ、何も言い返せず、すごすごと病室を出ていった。廊下からは「何よ、あのお母さん、大げさなのよ。ちょっと触ったくらいで」という伸子の声が聞こえてきたが、母は怒りで震える拳を強く握りしめた。彼女たちはまだ、自分たちがどれほど恐ろしい相手を敵に回したのかを全く理解していなかった。
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病室を去った後、母はすぐにスマートフォンを取り出し、どこかへ電話をかけ始めた。その横顔は驚くほど冷静で、戦場に立つ熟練の指揮官のようだった。
「もしもし、中村先生。私です。静枝です。お忙しいところ申し訳ありません。実は娘のことでご相談したいことがありまして。はい、暴行事件です。相手は娘の夫とその母親」
母は淀みなく、先ほどの出来事を簡潔に、しかし正確に説明していく。
電話を切った母は私に向き直り、優しく言った。
「みさ、大丈夫よ。中村先生がすぐに動いてくれるわ。まずは証拠保全しないと。病院側に監視カメラの映像を提出してもらうよう、先生から正式に要請してもらうわ」
実は私の母、静枝はただの田舎の母親ではなかった。福岡の経済界でその名を知らない者は誰もいない、辣腕税理士だったのだ。数々の企業の顧問を務め、複雑な税務訴訟や企業間トラブルを何度も勝利に導いてきた、戦う会計のプロ。私はそのことをぼんやりとしか知らなかった。母は私の前で仕事の話をほとんどしなかったから。でも、今の母の姿を見て、私は初めて母の本当のすごさを垣間見た気がした。
母の反撃は迅速かつ緻密だった。翌日には中村弁護士が代理人として病院と警察に接触。監視カメラの映像は完全に保全され、そこには悠也が私の足を蹴り上げ、伸子が私の髪を掴む一部始終が鮮明に記録されていた。さらに、目撃者が自ら証言を申し出てくれた。誰もがあの時の二人の仕打ちに強い憤りを感じていたのだ。母は刑事告訴の準備と並行して、離婚と慰謝料請求、そして親権に関する民事訴訟の準備も進めた。その全てを、病院で療養する私に一切の負担をかけることなく、たった一人で采配していた。
—
事件から三日後のことだった。事態は誰もが予想しなかった方向へと動き出す。きっかけは一本のリーク情報だった。あの日、待合室の惨状を見ていた病院関係者の一人が、匿名を条件に地元のテレビ局に情報を提供したのだ。「陣痛中の妊婦さんが夫と姑から暴行を受けた。監視カメラに映っている」と。テレビ局はすぐに裏付け調査を開始し、情報の信憑性が高いと判断した。そしてその日の夕方のニュース番組で、メインキャスターが重々しい口調で伝えた。
「速報です。都内の産婦人科で出産を間近に控えた女性が、夫とその母親から暴行を受けていたことが分かりました。病院の監視カメラがその衝撃的な瞬間を捉えていました」
次の瞬間、テレビ画面にあの日の待合室の映像が映し出された。泥酔した男が大きなお腹の女性の足を蹴り上げる。姑らしき女が倒れ込んだ女性の髪を掴み、激しく揺さぶる。女性の声にならない悲鳴。スタジオは静まり返り、コメンテーターたちは言葉を失っていた。
この衝撃的な映像は、またたく間に日本中を駆け巡った。ネットでは「産婦人科暴行事件」というハッシュタグがトレンド一位に。「これが人間のできることか」「鬼畜の所行だ」「こんな奴らが親になる資格なんてない」と、怒りの声で埋め尽くされた。ネットの特定班と呼ばれる人々がすぐに動き出し、翌朝には悠也のフルネームと勤務先の大手ゼネコン名がさらされた。続いて伸子の名前と、義父の剣造が経営する工藤建設の社名も特定された。会社のホームページはアクセスが殺到しサーバーダウン。代表電話には抗議の電話が鳴りやまず、社員はただ「申し訳ありません」と繰り返すことしかできなかった。
工藤家の崩壊は、なだれを打つように始まった。まず剣造の会社に、主要な取引先から契約解除の連絡が相次いだ。「会社のイメージというものがある。今回の事件で御社の評判は地に落ちた」と。下請け業者も離れていく。追い打ちをかけたのはメインバンクからの資金の早期返還要請。「今回の件で貴社の信用リスクが著しく高まったと判断せざるを得ません」と。建設業は資金繰りが命だ。資金が止まれば、会社は一瞬で立ち行かなくなる。剣造が副会長を務めていた業界団体からは実質的な除名処分。長年の友人だと思っていた男からは「君がいると教会の品位が疑われる。しばらく顔を出さないでくれ」と冷たく言い放たれた。最後の頼みの綱だった地元の政治家からも「今の君と関わるのは私の政治生命にとってリスクが大きすぎる。もう電話してこないでくれたまえ」と、一方的に切られた。
悠也も無事では済まなかった。本名と写真がネットで拡散された翌日から出社できなくなり、人事部から事実上の退職勧告を受けた。「会社のイメージを著しく損なう行為だ。しばらく自宅で謹慎していてくれたまえ」、それはもう二度と会社に戻ってくるなという宣告に等しかった。伸子も同様だった。常連の高級スーパーでは店員も客も彼女を見てひそひそ話をする。長年続けていた趣味のコーラスの集まりからも「来ないでほしい」と遠回しに告げられた。家から一歩も出られず、カーテンを締め切った薄暗いリビングで、鳴りやまない抗議の電話に怯える毎日。
病室でその顛末を母から静かに聞かされた私は、複雑な気持ちだった。当然の報いだと思う気持ち。しかし同時に、一つの家族が社会的に抹殺されていくような言いようのない恐怖も感じていた。
「お母さん、もう十分じゃないかな」
私のその言葉に、母は静かに首を横に振った。
「いいえ、みさ。まだ何も始まっていないわ。彼らが本当に犯した罪の重さを、これから骨の髄まで思い知らせてあげるのよ」
—
会社は倒産寸前、社会的信用はゼロ。もはや万策尽きた剣造と伸子が最後の手段として選んだのは、土下座での謝罪だった。彼らは探偵を使って福岡にある母の事務所の住所を突き止め、事件から二週間後の朝、福岡行きの始発の新幹線に乗り込んだ。博多のオフィス街に立つ立派なビルの一室。ドアに掲げられたプレートを見て、二人は絶句した。「静枝会計事務所」。税理士だったのか。ただの気の強い田舎の母親だと完全に見下していた相手の予想外の肩書きに、二人は動揺を隠せない。
応接室で母は、氷のように冷たい視線を二人に向けた。
「何のご用でしょうか」
「私たちは謝罪に参りましたの。本当に申し訳ないことをいたしました」
伸子がその場に膝をつこうとした。剣造も慌ててそれに習う。土下座。それが彼らに残された最後の切り札だった。しかし母は手を上げて制した。
「おやめなさい。こんなものに何の意味もありません。謝罪ですか?今さら何をお望みで?」
「どうかお許しを。娘さんにも心から謝罪いたします。もう一度家族として…」
「陣痛で苦しむ娘を蹴り、髪を掴んで罵倒する。それがあなた方の言う家族の形ですか?」
二人は言葉も出なかった。母はデスクに戻ると、引き出しから数枚の書類を取り出した。
「私はすでに中村弁護士に全てを依頼しています。刑事告訴、民事訴訟、両方を同時に進めています」
剣造の顔から血の気が引いていく。
「そ、そんな大げさな…」
「大げさなのは、あなた方のしたことです。病院の監視カメラ映像、目撃者の証言、娘の診断書。証拠は全て揃っています」
伸子が泣きながらすがりつこうとする。「お願いです。私たちももう十分に社会的制裁を受けました。どうかこれ以上は…」
母はふんと鼻で笑った。
「あなた方が一週間前まで、娘のことを『神経症の嫁が騒ぎを起こした』と周囲に言いふらしていたことを、ご存知ないと思いましたが」
二人は息を飲んだ。母は一枚の書類をテーブルの上に滑らせた。
「これは離婚届です。悠也さんの署名捺印をお願いします。次に、これは親権放棄の念書。今後一切、息子さんとの面会は認めません」
「そ、そんな!自分の子どもに会えないなんて、あまりにもひどすぎる!」
母の瞳に初めて怒りの色が燃え上がった。
「妊娠中の女性を暴行したことがひどいのではなく、その当然の報いを受けることがひどいと仰るのですか?」
そして母は最後の一枚を二人の目の前に叩きつけた。
「慰謝料請求書です。精神的苦痛、治療費、後遺症の慰謝料、全て含めて二千万円。即刻お支払いいただきます」
「二千万…」
剣造は茫然とした。会社は傾き、資産も差し押さえられている。今そんな大金はどこにもない。
「これはほんの手始めです。あなた方の会社の過去十年分の取引記録と決算書、全て拝見させていただきました。いくつか非常に興味深い、不透明な金の流れが見つかりましたよ。特に、例の政治家の先生との間でね」
脱税、裏金。その言葉が剣造の頭をよぎった。税務のプロである母が本気で調べれば、会社など一瞬で潰される。いや、潰されるだけでは済まない。刑務所に行くことになる。剣造はようやく理解した。自分たちがどれほど恐ろしい相手を敵に回してしまったのかを。これはただの復讐ではない。知識と法律と情報を駆使した、完全なる殲滅なのだ。
「お話は以上です。お引き取りください。今後の連絡は全て中村弁護士を通してください。私や娘に二度と接触しようなどとは考えないでいただきたい」
剣造と伸子は、青ざめた顔でオフィスを後にするしかなかった。彼らの偽りの土下座は全く通用せず、むしろ自分たちの首をさらに締める結果となっただけだった。
—
工藤家を襲った嵐は、それだけでは終わらなかった。その波紋は、全く無関係な人物にまで飛び火していく。悠也が待合室で名前を叫んだ、元彼女のレナ。事件のニュースが報じられた当初、彼女の名前は伏せられていたが、ネット上ではすぐに特定されていた。「暴行の原因になった元彼女ってアナウンサーのレナらしい」「あいつが悠也を焚きつけたんじゃないか」。憶測はやがて事実として拡散されていった。レナが司会を務める情報番組の掲示板は誹謗中傷で埋め尽くされ、テレビ局には抗議の電話とメールが殺到。スポンサー企業からは「彼女が出演する番組にはこれ以上広告を出せません」という致命的なクレームが入り、番組は次々と降板。事件から三週間後、テレビ局はついにレナの全ての担当番組からの降板を決めた。それは事実上の解雇通告だった。
その夜、レナは所属事務所を通じて緊急の謝罪会見を開いた。華やかなメイクも衣装もない、黒いスーツ姿の憔悴した顔。無数のフラッシュが彼女を照らす中、彼女は震える声で頭を下げた。
「この度は私のことで世間の皆様を大変お騒がせし、不快な思いをさせてしまいましたこと、心よりお詫び申し上げます」
記者から容赦ない質問が飛ぶ。「悠也容疑者とは今も関係が続いていたのですか?」「暴行の際、あなたの名前が叫ばれたことについてどう思いますか?」「あなたにも間接的責任があるとは思いませんか?」。レナはついに感情を抑えきれなくなり、美しい顔を涙でくしゃくしゃに歪めて嗚咽をもらした。彼女は悠也を焚きつけたわけでも、暴行を指示したわけでもない。ただ過去に彼と付き合っていたという、それだけの事実で。しかし一度貼られた悪のレッテルは、世間は決して剥がしてくれない。一つの理不尽な暴力がまた別の理不尽を生み出し、直接関係のなかった人間さえも奈落の底へと突き落としていく。私は病室のテレビで彼女の会見を見ていた。同情はしなかった。しかし、もしあの時、悠也が私の名前ではなく別の誰かの名前を叫んでいたら。そう思うと言いようのない恐怖を感じた。この復讐劇は一体どこまで広がっていくのだろうか。
—
事件から二か月後、悠也に対する刑事裁判の初公判が開かれた。法廷は異様な熱気に包まれていた。傍聴席は抽選で選ばれた一般市民や報道陣で埋め尽くされ、女性団体の関係者の姿も多く見られた。手錠をかけられた悠也が刑務官に連れられて入廷する。スーツ姿ではあったが、逮捕されてからの二か月で彼はすっかり痩せ、顔色は土のように黒ずんでいた。かつての自信に満ちたエリートの面影はどこにもない。
事件当日の監視カメラ映像が、法廷に設置された大型スクリーンに無音で映し出された。一人で苦しそうにしている私の姿。泥酔した悠也が躊躇なく私の足を蹴り上げる瞬間。伸子が倒れ込んだ私の髪を掴み、罵倒する場面。その衝撃的な映像に、傍聴席のあちこちから悲鳴に近い声が上がった。悠也はスクリーンに映る自分自身を直視することができず、肩を小刻みに震わせてうなだれていた。
次に、証人として私が証言台に立った。母と中村弁護士に付き添われ、ゆっくりと証言台の前に進む。産後の体調は万全ではなかったが、この日だけは自分の口で真実を語らなければならないと決意していた。
「あの日、私は一人で三時間以上も陣痛に耐えていました。夫がやっと来てくれた時は本当に安心しました。でも彼はひどく酔っていて、レナさんの名前を出して私を責め始めました。『お前のせいで人生がめちゃくちゃになった』と。やめてくださいとお願いしましたが、彼は聞く耳を持ちませんでした。そして私の足を蹴りました。その瞬間、本当に死んでしまうかと思いました。お腹の赤ちゃんが死んでしまうんじゃないかって。それが何よりも怖くて…」
私は嗚咽をもらし、それ以上言葉を続けられなかった。
悠也の弁護人は反対尋問で言った。「被告人は当時深く泥酔しており、心身耗弱の状態でした。また、被害者であるあなたが先に大声で被告人を罵ったことも事件の引き金になったのではありませんか?」
そのあまりに理不尽な質問に、私の心の何かがぷつりと切れた。
「当たり前じゃないですか!陣痛で死にそうな時に、夫から『元彼女の方が良かった』なんて言われて、冷静でいられる妻がどこにいるんですか?私はただ、お腹の子を無事に産んであげたかっただけなんです。それだけだったんです」
私の魂からの叫びが法廷中に響き渡った。悠也の弁護人はそれ以上、何も質問することができなかった。退廷する私の背中に、傍聴席から「頑張って」という小さな声援がいくつもかけられた。
—
判決の日。法廷は前回をはるかに上回る傍聴人と報道陣で埋め尽くされていた。被告席に座る悠也は、さらに痩せ、まるで生気を失った抜け殻のようだった。やがて裁判長が静かに入廷し、判決の主文を読み上げ始めた。静まり返る法廷。誰もが息を呑んでその言葉を待っていた。
「主文。被告人、工藤悠也を懲役一年六か月の実刑に処する」
その言葉が響いた瞬間、静寂を破って傍聴席のあちこちからわっと大きな拍手が沸き起こった。女性団体の関係者たちは抱き合って涙を流している。裁判長は判決理由を述べ始めた。
「被告人の行為は、生命の誕生という神聖な場所において行われた極めて悪質かつ卑劣な犯行である。陣痛に苦しむ、最も保護されるべき存在である妊婦に対し一方的な暴力を加えたことは、いかなる理由があろうとも決して許されるものではない。また、被告人は公判において泥酔を理由にその責任を回避しようとする態度に終始し、真摯な反省の色が見られない」
さらに裁判長は付帯命令を言い渡した。
「被告人に対し、被害者である工藤美咲氏への慰謝料として五百万円の支払いを命じる。同時に、被害者及びその長男への接近禁止命令を発令する」
接近禁止命令。これで私たちは法的に悠也の恐怖から守られることになった。判決を言い渡された悠也は、ふらつく足で前に進み出る。刑務官が彼の両脇を固め、手錠をかけた。カシャンという無機質な金属音。その音を聞いた瞬間、悠也はようやく自分の置かれた現実を理解したようだった。顔をくしゃくしゃに歪め、か細い声を漏らしたが、もう遅い。彼が自らの手で巻いた悪意の種。その当然の報いを受ける時が来たのだ。
手錠をかけられ、刑務官に引きずられるように退廷していく悠也の背中を、私はただ静かに見送っていた。憎しみはもうなかった。ただ深い深い安堵感だけが私の心を包んでいた。終わった。これで本当に全てが終わったんだ。
法廷の外では、大勢の記者に囲まれた。
「今のお気持ちは?」
母が私の前に立ち、代表してはっきりとした口調で答えた。その姿は、テレビで何度も見た辣腕弁護士のように堂々としていた。
「判決は当然の結果だと受け止めています。そしてこれは決して私たち親子だけの勝利ではありません。これは理不尽な暴力に一人で苦しんでいる全ての女性と母親たちのための勝利です。この判決が、同じような苦しみを持つ人々に少しでも勇気と希望を与えることを心から願っています」
—
裁判が終わり、全ての法的な手続きが片付いた後、私たちは東京郊外の緑の多い静かな住宅街に新しい住まいを借りた。小さなアパート。母が福岡の事務所を信頼できる後輩に任せ、私と息子のハルトと一緒に暮らすために引っ越してきてくれたのだ。最初のうちはまだトラウマに苦しめられた。夜中に悠也の怒鳴り声が聞こえた気がして飛び起きることもあった。男性の大きな声を聞くと、心臓が凍りつくように体が強張った。そんな私を母は黙って優しく支え続けてくれた。
ハルトの存在は大きな救いだった。日に日におっぷく丸くなっていく頬。私の指を小さな手で力いっぱい握り返してくる温かさ。この子がいる。この子を私が守らなくては。その思いが私を少しずつ強くしてくれた。
アパートの近くの公園で、ある日、一人の女性が私に気さくに話しかけてくれた。「赤ちゃん可愛いですね。何ヶ月ですか?」。それがきっかけで、私は地元の育児サークルに誘ってもらった。そこには同じように子育ての悩みや喜びを分かち合える仲間がたくさんいた。私はそこで初めて自分の過去を正直に話すことができた。シングルマザーであること、離婚の理由が夫からのDVだったこと。みんな驚いた顔もせず、ただ静かに聞いてくれて、こう言ってくれた。「大変だったね。でももう大丈夫だよ。これからは私たちがいるから」。その言葉に、私は涙が止まらなかった。私は一人じゃなかった。社会から孤立しているわけじゃなかった。
ある日の午後、ハルトをベビーカーに乗せて公園からの帰り道、向かいから一人の男性が歩いてくるのが見えた。汚れた作業着に、伸び放題の無精髭。その顔を見て心臓が止まるかと思った。悠也だった。すっかり見すぼらしく変わり果てた姿。彼は近くの工事現場で日雇いの仕事をしているようだった。一瞬、体が硬直した。逃げなきゃ。しかし次の瞬間、私は自分でも驚くほど冷静になっていることに気づいた。悠也もベビーカーに乗ったハルトに気づいたようだった。彼の足が一瞬止まり、瞳がかすかに揺れたように見えた。しかし彼は何も言わず、すぐに目をそらすと、私の横を足早に通りすぎていった。その背中は小さく、そしてひどく寂しそうに見えた。不思議と恐怖は全く感じなかった。同情も憎しみもなかった。ただ、ああ、もう私たちは違う世界を生きる他人なんだな、と思っただけだった。私はもう、あの日の無力な私ではない。私には守るべき大切な息子がいる。支えてくれる温かい母がいる。そして共に笑い合えるたくさんの仲間がいる。
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あれから一年の月日が流れた。工藤家の人々は、それぞれが全く違う明日を生きていた。悠也は刑務所を出所した後も定職につくことはできなかった。「妊婦暴行犯」というデジタルタトゥーは、彼がどこへ行こうとも一生ついて回る。結局彼は日雇いの肉体労働でその日暮らしの生活を送っていた。義父の会社は完全に倒産し、自宅も財産も全て失った。今では古いアパートで年金暮らしの伸子と二人、息を潜めるように暮らしているという。伸子は一連のショックでうつ病を患い、ほとんど家から出ることもないそうだ。かつて地域の名士として栄華を誇った家族の姿は、もうどこにもなかった。
一方、私たちの暮らしは光に満ちていた。ハルトは二歳になった。たどたどしい言葉で「お母ちゃん」と呼び、家中を元気いっぱいに走り回っている。そして私は、育児サークルの仲間たちとの出会いをきっかけに、子育て中の母親たちが本当に必要としているものは何かを考えるようになった。その経験を生かし、私は小さなオンラインのセレクトショップを立ち上げた。母親目線で選んだ安全で使いやすい育児用品を販売する店だ。母がその知識を生かして経理や経営の面で全面的にサポートしてくれた。最初は手探りで始めたささやかなビジネスだったが、私の実体験に基づいた商品説明と丁寧な顧客対応が口コミで評判を呼び、店は少しずつ軌道に乗り始めた。今では、私と同じように子育てをしながら在宅で働きたいというシングルマザーの友人たちをスタッフとして雇えるまでに成長した。子供の急な熱で仕事を休んでも、誰も文句は言わない。お互いの状況を理解し助け合いながら、自分たちのペースで社会と繋がっていく。それは私にとって理想の働き方であり、生き方だった。
ある晴れた日の午後、私はハルトの手を引いて公園を散歩していた。色とりどりの花が咲き乱れる花壇の前で、ハルトが嬉しそうに声をあげた。
「お母ちゃん、お花、きれい!」
「本当ね、きれいね、ハルト」
私はハルトの前に屈み込み、その小さな頭を優しく撫でた。その時、私の心にふと問いが浮かんだ。本当の家族とは何だろうか。本当の強さとは一体何なのだろうか。血の繋がりか、財産か、社会的地位か。違う。本当の家族とは、お互いをただ無条件に愛し、守り、支え合う。その心の中にこそ存在する。そして本当の強さとは、誰かを暴力で支配することではない。どんな逆境にあっても決して諦めず、自分と愛する人の未来をその手で切り開いていく、その意思の力だ。
ハルトが私の方にその小さな手をそっと伸ばした。「お母ちゃん、大好き」。その温かい感触と愛に満ちた言葉に、私の胸は熱くなった。
「お母さんも、ハルトのことが大好きよ」
私はハルトを強く強く抱きしめた。あの日の絶望の縁から私を救い出してくれたのは、母の深い愛だった。そして今、私の生きる希望となっているのは、この腕の中にいる息子の愛しい存在だ。暴力の連鎖はここで断ち切られた。そしてその先には、愛と希望に満ちた新しい未来が、どこまでも広がっている。
