同窓会の会場で、目を見張るような美女に変わった元同級生が、英語で書かれた数学の難問を私に突きつけてきた。彼女の名は佐藤。中学時代から私をいじめてきた相手だ。「中学時代あれだけガリガリと勉強していた君なら秒で解けるわよね。うん。溶けたわよね。溶けっこないって」周囲がどよめく中、私は「ああ、解けたぞ」と答えた。すると友人の千歳が私の正体をばらした。「新馬はオックスフォード大学を卒業したんだよ」。…

同窓会の会場で、目を見張るような美女に変わった元同級生が、英語で書かれた数学の難問を私に突きつけてきた。彼女の名は佐藤。中学時代から私をいじめてきた相手だ。「中学時代あれだけガリガリと勉強していた君なら秒で解けるわよね。うん。溶けたわよね。溶けっこないって」周囲がどよめく中、私は「ああ、解けたぞ」と答えた。すると友人の千歳が私の正体をばらした。「新馬はオックスフォード大学を卒業したんだよ」。...

同窓会の会場で、目を見張るような美女に変わった元同級生が、英語で書かれた数学の難問を私に突きつけてきた。彼女の名は佐藤。中学時代から私をいじめてきた相手だ。これはその延長線上にある挑発だろう。彼女が言うには、その問題は国際数学オリンピックでも正答率が極めて低い「マスターデーモン」と呼ばれる超難問らしい。

「中学時代あれだけガリガリと勉強していた君なら秒で解けるわよね。うん。溶けたわよね。溶けっこないって」

「ああ、解けたぞ」

私がそう答えると、佐藤は悔しそうに「当たってる」と認めた。周囲がどよめく中、友人の千歳が私の正体をばらした。

「新馬はオックスフォード大学を卒業したんだよ。英語が読めるのは当然だし、こんな問題も解けるんだ」

「嘘よ。こんな貧乏人が留学なんて、オックスフォードなんて行けるはずないでしょ」

「実は引っ越した理由は母が再婚したからなんだ。相手は照山電気の社長でね。高校に入るのを諦めていたんだけど、その父がオックスフォードを目指さないかと言ってくれて、向こうの学校でみっちり勉強したんだ」

父の会社名を出すと、会場の騒めきはさらに大きくなった。佐藤は顔色を変え、その場に立ち尽くしていた。

俺、秋山新馬は、10年ぶりに故郷へと帰ってきていた。中学の同窓会に参加するためだ。正直、中学生の頃にはいい思い出がない。父が事故で亡くなり、元々裕福ではなかった家は困窮していた。生活のため、俺と妹のためにと自分の娯楽を一切捨てて働く母を見て、いい会社に就職して母を楽にさせたいと思った。だから中学の頃は勉強ばかりしていた。

そんな俺を見下してくる同級生が一人いた。それが佐藤だった。通信教育を柱に事業を全国展開している会社「小鮮所員」の社長令嬢だ。彼女は何かにつけて俺に嫌味を言ってきた。持ち物が中古品だとか、勉強しか趣味がない貧乏人だとか。靴や教科書、筆箱などの持ち物を隠されたこともあった。佐藤が隠したという証拠はなかったから、先生にも母にもそんなことをされているとは黙っていた。

同窓会にはその佐藤も出席すると聞いていた。本当なら欠席したいところだったが、幹事を務める友人の千歳にどうしても会いたいと言われて断れなかった。

故郷に帰る前、母に不安を漏らすと、母は言ってくれた。

「さすがに10年も経ってみんな大人になってるんだから、そんな嫌味を言われることはないわよ。それに今の新馬はもちろん、あの頃の新馬だってどこに出しても恥ずかしくない息子だったわ。私のために勉強を頑張ってくれていたんでしょ。お母さんはちゃんと知ってる。だから胸を張って行きなさい」

母の言葉を思い出して、俺は背筋を伸ばして会場へと足を運んだ。

同窓会は中学校の最寄り駅近くのホテルの大広間で行われた。最近改装したらしく綺麗なところだ。食事はバイキング形式で、乾杯の後は各々自由に過ごしていた。

千歳と二人で乾杯していると、あの声が耳に入ってきた。

「あら、秋山君じゃない」

振り向くと、目を見張るほどの美人がいた。すぐに佐藤だとわかった。中学の頃から顔立ちは整っていたが、大人になってさらに磨きがかかっていた。

「久しぶりね。私は高校が違ったから、それ以来かしら。あんなに成績良かったのに同じ高校に来なかったから、入学金が払えなかったんだと思ってたわ。引っ越しするお金はあったのね」

佐藤はわざとらしく驚いたふりをする。隣にいた佐藤の友人の杉野が忍び笑いを漏らした。千歳が眉をひそめる。

「佐藤、綺麗になったのはいいけど心は変わらないんだね」

「あら、褒めてくれるの? ありがとう、千歳君。でもそんな人といると貧乏が映るわよ」

「映らないよ。まあまあ、千歳、俺は大丈夫だから」

俺がなだめていると、佐藤のターゲットが俺に戻ってきた。

「相変わらず気が弱いのね。私があなたの持ち物を隠してたこと、誰にも言えないんだもんね」

「あれ、やっぱり佐藤さんの仕業か。新馬は確証がないからって黙ってたんだぞ」

「ふん。じゃあこうしようか。この問題が解けたら、私を好きにしていいわよ」

そう言って佐藤はスマホの画面を見せてきた。英語で書かれた問題を横から覗き込んだ千歳が顔をしかめる。

「うわ、英語で問題が書いてある。まずこれが読めないと解けないじゃん」

周囲にいた同級生たちが何事かと集まってくる。佐藤が得意げに言った。

「その問題はマスターデーモンって呼ばれている、国際数学オリンピックでも正答率がかなり低かった超難門よ。まあ中学時代あれだけガリガリと勉強していた秋山君なら秒で解けるわよね。うん。溶けたわよね。溶けっこないって」

「ああ、解けたぞ」

俺の言葉に佐藤が固まる。俺は千歳から紙とペンを借りると、そこに答えを書いて見せた。スマホを使わなかったのは、カンニングを疑われたくなかったからだ。俺の回答を奪うようにして取った佐藤は、その紙を凝視する。

「……当たってる」

すると周囲がどよめいた。杉野が驚いた声をあげる。

「え、なんでこれが解けるの?」

答え合わせをしていた俺の代わりに、千歳がみんなに説明した。オックスフォード大学を卒業していること、今は父の会社でコンサルティングをしていること。驚きの声はますます大きくなった。

そんな中、気まずそうにしているのは佐藤だけだった。人の波に押されて彼女が遠ざかっていくと、誰かが持っていたコップの中身が彼女のワンピースにかかった。

「ちょっと誰よ、何したの? ワンピースが汚れたじゃない。最低だったのよ、これ」

顔を真っ赤にして怒る佐藤を、周囲の人は遠巻きにし始めた。誰も自分がやったと言い出さないので、佐藤は鋭い視線で周囲を睨む。そんな彼女の前に立ったのは杉野だった。

「ワンピース一着汚されたぐらいで怒るなんて余裕がないわね。貴女も仕方ないわよね。あなたの会社、今売上めちゃくちゃ落ちてるもんね」

「何よ、いきなり」

「あんたってそんなに偉いほど大したことないよね。成績はいつも秋山君の方が上だったし、なのにそんな秋山君を見下してマウント取って虐めて。秋山君だけじゃない。あんた、自分の周りで自分より能力が高い人間全員にそんな態度取ってたよね。あんたのそういうところ、昔から嫌いだった。社長令嬢でお金持ちってだけなのに、よくそんな態度取れたよね」

杉野の言葉に、佐藤の顔色は赤くなったり青くなったりしていた。

「そういえば貴方、さっきこの問題が解けたら何でもするって秋山君に言ったわよね。秋山君、どうするの? この子、見た目だけはいいから、一度だけ遊んで捨てるのにちょうどいいわよ」

その言葉に、佐藤の顔から一気に血の気が引いた。すると杉野は俺の腕に自分の腕を絡めてくる。

「あ、でも一度だけでも私、嫉妬しちゃうな。そういう関係になるんなら、こんな見栄っ張りな子じゃなくて私にしない? 私、この子と違って秋山君を満足させられる自信あるわよ」

俺はちらりと佐藤を見た。彼女は悔しそうに唇を噛み、汚れたワンピースの裾を強く握りしめている。彼女との間にいい思い出は確かにない。

「杉野さん」

俺は腕に絡まる杉野の腕をそっとほどいた。杉野が目を丸くして俺を見上げる。

「佐藤が俺をいじめてたって言うけど、杉野さんだってそうだったよね。佐藤の横でずっと俺のことを笑ってたよね。君も佐藤も、俺から見ればやってることは大差なかったよ」

すると今度は杉野の顔が青くなった。そんな彼女を放っておいて、俺は佐藤の手を取った。

「行こう、佐藤」

「え?」

「好きにしていいんだろ?」

戸惑う佐藤の手を引いたまま、俺は会場を後にした。

外はすっかり暗くなっていた。佐藤がぶるりと体を震わせたのが、繋いだ手から伝わってくる。最寄り駅に到着したところで、俺は彼女に向き直った。

「佐藤さん、それ脱いで」

「え、何言ってるの? 変態」

佐藤は顔を真っ赤にして一歩後退した。言葉が足りなかったと俺は慌てる。

「あ、違うよ。濡れたままだと風邪引くでしょ。実は昨日までイギリスにいて、妹に頼まれて向こうの服を買ってきてたんだよ。身長は同じだから、それに着替えて」

ロッカーに預けていた紙袋を取り出して佐藤に渡した。中を確認した彼女は、紙袋を抱えたまま駅のトイレに入った。

「着替えたよ」

そう言って戻ってきた佐藤を見て、俺はぎょっとしてしまった。彼女が着替えた服は胸元がV字型にぐっと開いていて、谷間がはっきりと見えていた。

「な、何よ。あなたが渡してきた服でしょ」

恥ずかしそうに胸元を隠す佐藤を見て、慌てて視線を逸らす。買う時に確かに見たが、こんなに開いているとは思っていなかった。

「ねえ、秋山君。あなたが良ければ、飲み直しに行かない? 服を着替えさせてくれたお礼も兼ねて」

「えっと、佐藤さんがいいなら」

俺たちは駅の繁華街の裏道にあった小さな飲み屋に入った。ほとんど客はいなかった。それぞれお酒とおつまみを頼んだ後、しばらく無言が続いた。何か喋った方がいいだろうか。ぐるぐると頭を悩ませていると、お酒をグイっと飲み干した佐藤が長いため息をついた。

「秋山君、心の中で私のことを笑ってるでしょ。昔あんなにいじめてきた女が、こんな惨めなことになってるなんて」

佐藤を見ると、彼女は自嘲気味に小さく笑っていた。二杯目のお酒を頼んだ彼女はぽつりと話し始めた。

「私の父はね、本当は男の子が欲しかったみたいなの。だけど結局生まれたのは私だけだから、厳しく育てられたわ。常に他人より上にいること。女だからと舐められるなってね。小学生の時はうまくいってた。でも中学に入ったら秋山君が現れて、成績では人の上に立てなくなっちゃって。秋山君の家庭環境をこき下ろすことで、その分を補おうとしてた。実際あの頃はそれで自分が優位に立ってると思ってたけど、それは間違いだったって今日よくわかったわ」

「それに今日の杉野を見たでしょ? 私、あの子のことはずっと仲のいい友達だと思ってたのよ。だけどあんな風に思ってたなんて。あの子は私が社長令嬢だったからいただけだったのね。他の人もきっと、私に本当の友達なんて一人もいなかったんだ」

グラスを置いた彼女の目がわずかに潤む。心が小さく痛んだ。

「ああ、同窓会なんか出るんじゃなかったな。そしたら杉野の本音も聞かずに済んだし、こんなどん底の気持ちにもならなかったのに」

「それは違うんじゃないかな」

俺の言葉に、佐藤は眉をひそめる。

「杉野さんの本音は、いずれは知ることになってたはずだ。それが今日で良かったと俺は思うよ。こういうのは遅ければ遅いほど傷つくだろうから。それに、今どん底にいるなら後は上がるしかないだろう」

呆けた様子で俺を見ていた佐藤の目から、ぽろりと涙が落ちた。

「何よ、秋山君。すごくいい人じゃない? こんな私を励ましてくれるなんて」

彼女の涙はどんどん溢れて止まる様子がない。俺は鞄を漁ってハンカチを引っ張り出し、佐藤に渡した。

「ごめんね。急に泣いちゃって」

「いや、大丈夫。泣ける時に泣いておいた方がいいよ」

すると彼女はますます泣いてしまった。店主が不審そうな顔でこちらを見てきたものだから、慌ててしまう。

「あと、とりあえず外に出ようか。夜風に当たった方がすっきりするかもだし」

ハンカチを握りしめたまま頷いた佐藤を連れて、店を出た。初夏の涼しい風が俺たちを迎えてくれる。人が大勢いるであろう繁華街を避けながら、佐藤の家までの道のりを歩いた。ぽつぽつと涙を漏らしていた彼女だったが、歩いているうちに落ち着いてきたのか涙を止めた。それからふと不安げに俺を見上げる。

「秋山君、電車に乗るんじゃないの? 私の家は駅と反対方向だから、ここまででいいわよ」

「女性を夜道に一人にするなんてできるわけないよ。家まで送る」

佐藤はまた目を潤ませたけど、今度は涙を落とすことはなかった。そのまま俺たちは並んで歩く。やがて佐藤の家の前に到着した。

「送ってくれてありがとう、秋山君」

「うん。それじゃあお休み、佐藤さん」

そう言って駅に戻ろうとすると、袖を小さく引っ張られた。

「あの、また会えるかな?」

頬をうっすら染め、まだ潤んだ目で見つめられてそう言われて、全身が熱くなった。

「ハンカチと服、返したいし」

続けられた言葉に、ああ、と納得する。危ない。思わず勘違いしてしまうところだった。

「うん、大丈夫。またすぐに会えるよ」

俺の言葉に佐藤が首をかしげる。その時、彼女の家から帰って来たのか女の人の声が聞こえてきた。

「あ、うん」

佐藤は靴を脱いで家の中に入っていった。扉が閉められたのを確認してから、俺は夜道に戻った。

数日後、俺は小鮮所員本社ビルを訪れていた。コンサルタントとしての俺の力を借りたいと、小鮮所員の社長から依頼を受けていたからだ。

「君が秋山新馬君だね。噂は聞いているよ。あの大企業、照山電気の社長の右腕で、数々の会社の立て直しを成功させたすごい人ね。是非うちの会社のこともよろしく頼むよ」

「もちろんです」

固く握手を交わしていると、失礼しますと社長室に佐藤が入ってきた。俺を見て驚いたように目を丸くする。

「紹介するよ。彼女は私の娘の佐藤だ。こちらは照山電気でコンサルタントをしている秋山新馬君だ。うちの会社の立て直しを彼に依頼した。彼の面倒を見てやってくれ」

「は、はい」

動揺を隠しきれていない佐藤と社長室を後にする。

「なんでこの間教えてくれなかったの? うちの会社に来るって」

「ごめん。守秘義務があったから」

「あ、そうなら仕方ないけど。ハンカチ、持ってきてないわよ」

「それは全然気にしてないから」

微笑んで見せると、佐藤は不満そうに唇を尖らせた。少し頬が赤いのは気のせいだろうか。

「佐藤さんは今、何の役職についているの?」

「デジタルマーケティング部の部長よ。ここで業績を伸ばせたら、父も私を認めてくれるはずなの」

張り切る佐藤を微笑ましく思ったが、彼女はすぐに視線を足元に落とす。

「だけど、うまくいってないの。辞める人も多くて」

「どういう理由で辞めていくの?」

「さあ、聞いてないわ。やる気のない人を無理に引き止めたって、効率が落ちるだけでしょ」

思わずため息が落ちてしまった。すると佐藤がむっと眉を潜める。

「何? 文句があるなら言いなさい」

「文句じゃなくて、コンサルタントのアドバイスとして聞いてほしい。社員の声は聞くべきだよ。佐藤さん、ちゃんと社員の顔を見て仕事をしてる? してないでしょ。部長室があるから、そこで一人で仕事をしてるんでしょ」

「社員は、私が社長令嬢だからっておべっかを使う人か、不満にする人しかいないんだもん」

「そこが問題かな。よし、一緒に行こう」

「ええ、嫌よ」

嫌がる佐藤に無理やり案内してもらい、デジタルマーケティング部に来た。すると男の社員が一人、飛んできそうな勢いで愛想笑いを浮かべてやってくる。

「こ、これは部長。わざわざこちらに足を運ぶなんて、何かありましたか?」

「ないわ。その人、コンサルタントの秋山君に部署の案内して欲しいって言われたから来たのよ」

「突然お邪魔してすみません。今日一日、あなた方のお仕事を拝見してもいいでしょうか?」

尋ねると、男性社員は少し困惑した様子で承諾してくれた。

「佐藤さん、今日は一日こっちで仕事をしてください」

「え、分かったわ」

佐藤はしぶしぶといった風に部長室からパソコンを持ち出してきた。空いている席に座り、仕事を始める。いつもはいない部長が現れたことで、部署の空気が張り詰めていた。

「ああ、皆さんは気にせずいつも通り仕事をしてください」

そうは言ったものの、それが難しいことは分かる。だから俺は社員に手伝うことはないかと声をかけたり、一息入れた方が良さそうな社員にお茶を入れたりした。お昼休憩を過ぎると、佐藤がいることに慣れてきたのか、張り詰めていた空気は少し柔らいでいた。

そんな時、一人の女性社員のスマホが鳴った。彼女は慌てて廊下へと出ていく。戻ってきた女性社員は、あのと佐藤を気にしながら、最初に俺たちに話しかけてきた男性社員に声をかける。すると彼は迷惑そうな表情を浮かべた。

「またお子さんが熱ですか?」

「すみません。明日必ず埋め合わせするので」

ぺこぺこと頭を下げた女性社員は、鞄を持ってそそくさと退社した。俺は男性社員の元に向かう。

「彼女、いつもあんな感じですか?」

「ええ、抜けるたびに仕事が滞るので、正直困ってるんですよ。最初から休みだと分かっていれば、振替もしやすいんですけどね」

男はふと息をついた。

そんなこともありつつ、終業の時間となった。残業のために残る人もいたが、一時間で帰っていった。

「佐藤さん、今日一日部署の様子を見てどうだった?」

誰もいなくなった部屋でそう問いかけると、彼女は難しい顔をしていた。

「そうね。次に辞めるのは彼女かもしれないって思った。途中で帰った人。子育てしながら働いている人がいることは知っていたけど、あんな風に申し訳なさそうに帰っているなんて知らなかった」

眉間にしわを寄せる佐藤は、翌日その女性社員を部長室に呼んだ。三十分ほどして部長室から出てきたその女性社員は、どこかすっきりした顔をしていた。その後も佐藤は順番に子育てをしている女性社員を部長室に呼んで、同じように三十分ほど話をすることを繰り返した。最後の一人が部屋から出ていくと、佐藤に呼ばれて部長室に入る。

「彼女たちの意見を聞いたわ。もっと途中で気軽に抜けられるようになったらいいっていうのが総意だったわ。それとか、勤務開始時間をもっと遅くして欲しいとか、逆に早くしたいとか」

「なるほど。それならスーパーフレックス制を導入するのはどう?」

「何それ?」

「今この会社は九時に出勤して十八時に退社と決まっているだろう。そうじゃなくて、労働者本人に始業時刻と終業時刻を決めてもらうという制度だよ。設定する時間によっては、仕事の合間に一度抜けることも可能なんだ」

「なるほど。それならさっき聞いた意見を叶えることができるわね」

佐藤は顎に手を当てて真剣な表情を浮かべる。

「父、いえ、社長にその制度を取り入れることを頼みに行きたいんだけど。秋山君、ついてきてくれない? うまく説明できるか分からないから」

「もちろん」

早速社長室に向かった俺たちは、スーパーフレックス制のメリットとデメリットを説明しつつ、試験的にデジタルマーケティング部に導入してみないかと提案した。

「不安はあるが、まあ、秋山君の言うことだ。やってみよう。ただし、それで実績が下がったり、変わらなかったりしたらすぐにやめるからな」

承諾が降りたことに、佐藤は顔をほころばせた。デジタルマーケティング部で試験的に始めたスーパーフレックスは、結論から言うと大成功だった。子育て中の女性社員だけでなく、他の社員からも満員電車に乗らなくて済むとか、親の介護がしやすくなったと好評で、部署全体のやる気が向上したらしい。一ヶ月後の業績は、これまでの中で一番良いものとなった。これを見た社長は、全ての部署にスーパーフレックス制を導入することにした。いきなりの改革に戸惑う部署には、俺や佐藤が直接出向いて導入の手はずをして回った。

「ありがとう、秋山君」

商品開発部にスーパーフレックス制の説明をし終えた帰り道、不意に佐藤が言った。

「最近ね、デジタルマーケティング部の社員に変わったって言われることが多くなったの。前までは社長令嬢を傘に着たような態度だったけど、今は社員の話を聞いてくれて改善してくれるいい上司だって」

佐藤は照れくさそうに笑った。今まで見たことのないその表情に、俺の胸が高鳴る。

「どれもこれも秋山君のおかげ。あなたが私を励ましてくれて、そしてコンサルタントとしてアドバイスをくれたから。本当に感謝してもしきれないわ」

そう言って頭を下げた後、佐藤はちょっと待っててと言って部長室に入っていった。出てきた彼女は紙袋を一つ手に持っていた。

「借りてた服とハンカチ、それと俺の気持ちも」

「わざわざ、そんな。ありがとう」

「今ここで見てもいいかな?」

「ううん。気に入ってくれるといいんだけど」

佐藤はほんのりと頬を染めて頷いた。紙袋の中には、確かに服とハンカチの他にもう一つ、綺麗なラッピングに包まれたものが入っていた。開けてみると、ネクタイだった。赤い布地に刺繍でオレンジの楓の葉が散らされている。とても綺麗なものだった。

「これ、高かったんじゃない?」

「そんなの気にしないで。秋山君に似合うと思ったんだけど」

「あ、うん。すごく嬉しい。ありがとう。あ、でももったいなくて普段使いできないかも」

「じゃあ、ここぞっていう時に使って」

佐藤は意地悪そうな笑みを浮かべた。だけどそれは今まで俺が見てきたものとは違って、とても可愛らしく感じた。

全ての部署にスーパーフレックスが行き渡り、それが軌道に乗ってきた頃、俺は社長に呼ばれた。

「君の提案のおかげで、我が社の業績は回復の気配を見せている。社員満足度も上がっていて、就職希望者も増えている。感謝しているよ、秋山君」

「いえ、俺はただアドバイスをしただけですから」

「その控えめな態度も実にいい。そんな秋山君に提案がある。我が社では海外に支社を置くことを考えていてね。君さえよければ、その海外支社の社長になってくれないだろうか」

「え、俺がですか?」

「ああ、確かオックスフォード大学出身だったね。ならば英語も完璧だろう。これ以上ない人材だと私は考えている。どうだい? こんな小さな島国でコンサルタントをしているより、人の上に立って世界で羽ばいてみたいと思わないかね」

社長の言葉に違和感を覚えて、思わず眉を潜めた。

「でも、佐藤さんはどうするんですか? 社長にするなら、あなたの娘でかつ今回の功労者である彼女が適任だと思うのですが」

「佐藤か。あれはダメだ。使えない。功労者だなんてとんでもないよ。あの子が一人で思いついたのならともかく、そうじゃないだろう。あれにはどこか地方の会社の社長程度がお似合いだよ」

自分のことではないのに、ひどくショックを受けた。社長の件は考えさせてくださいと言って、部屋を出る。優れない気分のまま廊下に出て、足を止めた。目の前に佐藤がいた。彼女は顔が真っ青になっている。

「佐藤さん、もしかしてさっきの聞いてたの?」

俺が全部言い終わらないうちに、彼女はぎこちなく頷いた。それから今にも泣き出しそうな作り笑いを俺に向けた。

「すごいじゃん、秋山君。さすがだよ。社長になりなよ。この会社のことは父と秋山君に任せる」

そう言うと、佐藤はくるりと背を向けた。俺はとっさに彼女の腕を掴んだ。

「ねえ、話してよ。佐藤さん」

こちらを見ようとしない彼女の声は震えていた。

「場所を変えよう」

俺は彼女の腕を握ったまま、会社の裏庭に出た。

「佐藤さん、俺に任せるだなんて、君らしくない。本当にこれでいいと思っているの? 君はあんなに頑張っていたじゃないか」

佐藤は唇を噛んで俯いた。そして首を横に振る。

「ダメだったのよ。私の努力は足りなかった。もっともっと頑張らないとダメだったんだ。秋山君みたいにオックスフォードに入れるぐらいに」

「そんなことはない。佐藤さんは頑張ってた。俺は知ってるよ。君が誰にも知られないように努力してたこと。中学校の近くにある公園で毎日勉強してたよね。学校の図書室や街の図書館だったら誰かに見られると思ったから、わざわざそんな人気のないところでしてたんだよね」

「どうしてそれを……」

佐藤は目を丸くして見開いた。

「偶然見つけたんだ。それを見て俺は、佐藤さんみたいなすごい人でもあんなに頑張ってるんだって感銘を受けたよ。だから俺も勉強を頑張ることができた。オックスフォードに入れたのも、今俺がここにいるのも、全部あの時努力していた佐藤さんのおかげなんだよ」

「そんなこと」

佐藤はまた俯いてしまった。なんとか自信を取り戻して欲しくて、俺は彼女の手を握る。

「佐藤さん、君はどうして働くの? 何のために仕事をしているの?」

「この会社に入ったのは父のため。父の言う通りに、誰にも負けず人の上に立つ人間になるため」

「だけど今は、父のためじゃない。人のために働きたい。秋山君のアドバイスで働き方を変えた時、みんなが喜んでくれたのがすごく嬉しかった」

顔を上げた彼女の潤んだ瞳の中に、俺の顔が映る。まっすぐに俺を見る佐藤は、今まで俺が見てきた何よりも綺麗だった。

「佐藤さんの夢、俺も協力させてほしい。俺は佐藤さんを応援したい」

「そんな秋山君に応援される資格なんて、私にはないよ。だって今まで私、あなたにはひどいことしかしてこなかったから」

「そうだね。確かに中学の頃君にされたことは辛かったよ。だけど、そんな過去を全部許してしまうぐらいに、俺は君のことが好きになってしまったんだ」

はっと佐藤は目を見開いた。それからじわじわと顔を赤くしていく。

「好きなんて、そんな。それこそ私なんて」

「そんな風に自分を卑下しないでほしい。君はちゃんと自分の過ちを認めて反省できる、努力家で素晴らしい女性なんだから」

佐藤の手をしっかりと握り直した。潤んだ彼女の目から、ぽろりと涙が落ちる。

「私も秋山君が好きだよ。こんな私を支えてくれて、昔から努力家のあなたが大好き」

泣いたまま、佐藤は俺に抱きついてきた。そんな彼女の体を、優しくだけどしっかりと抱きしめた。

ひとしきり泣いて落ち着いた佐藤と、社長室に向かった。

「社長、お話があります」

固く何かを決意した様子の佐藤を見てか、社長は難しい顔をする。

「会社を辞めさせていただきます」

「はあ、何を言ってるんだ。佐藤、お前には辞めてほしい」

「大丈夫です。起業するので」

「起業? それこそ無理だろう。お前のような何の取り柄もない出来損ないの女にはな」

その言葉に、佐藤が悔しそうに拳を握りしめた。彼女に代わって、俺が一歩前に出る。

「俺もついていますので、そこは安心してください」

「秋山君、まさか君、私が提案した件を断って、喫茶なんぞについていくというのか?」

「はい」

すると社長が大きな声で笑い出した。

「これは傑作だ。自ら人の上に立つチャンスをみすみすドブに捨てるなんてな。まさか君がそこまで愚かだとは思わなかったぞ。秋山君、分かった。好きにしなさい。やれるものならやってみるがいい。すぐに倒産するのは目に見えているがな」

腹を抱えて笑う社長を尻目に、俺は佐藤の手を引っ張って社長室を出た。

「父に面と向かって出来損ないって言われたのは、初めてだったな」

佐藤の目にはうっすらと涙が浮かんでいた。それを指でそっと拭う。

「佐藤さんは出来損ないなんかじゃない。それを証明しよう」

俺を見上げた佐藤は、嬉しそうに頷いた。

俺と佐藤は、二人でコンサルティング会社を立ち上げた。元々俺は大企業の間で売れっ子コンサルタントとして名が通っていたから依頼が取りやすく、仕事はすぐに軌道に乗った。佐藤は会社設立後にコンサルタントの勉強を始めて、中小企業診断士、公認会計士、税理士の資格をあっという間に取ってしまった。これにはさすが佐藤だと思わず感心してしまった。それに彼女は小鮮所員で部長をしていた時から感じていたことだが、人とコミュニケーションを取るのが抜群にうまかった。お客様の要望を聞き取り、的確な指示を出して見せる。おかげでコンサルティングの仕事を始めてまだ一年も経っていないのに、彼女にも顧客がたくさんついている。俺たちの立ち上げた会社はあまりに好調で、半年が過ぎた辺りで二人では回せないと社員を募集した。コンサルティングの経験がない人でも構わないと広めると、なんと佐藤の元部下だった人たちが次々と入社希望としてやってきた。「佐藤部長の元で働きたいんです」。そういう彼らに、佐藤は目を細めていた。

そんな折、小鮮所員から依頼がやってきた。小鮮所員の経営状況が悪化しているという話は、少し前から話題になっていた。支社を次々に畳んでいるそうだ。藁にもすがる思いで、俺たちに頼ってきたのだろう。

「佐藤、どうする? 嫌なら断ってもいいけど」

「うん……うん。行く」

難しい顔をしていたけれど、佐藤はそう答えた。早速、俺と佐藤で小鮮所員へ向かう。エントランスに来てびっくりしたのは、受付がいないことだった。どうやって社長に会ったらいいんだろう。途方に暮れて佐藤と顔を合わせていると、奥から社長が現れた。その姿は前回別れた時よりも、疲労が顔に滲み出ていた。

「来てくれてありがとう。正直、断られるかと思っていた。あんなひどいことを言ったからな」

社長はうつろな目を俺たちに向けた後、その場に土下座して頭を下げた。

「頼む。うちの会社を助けてくれ。社員は次々に辞めていき、業績が悪化の一途を辿っている。これを止める手立てが私には思いつかない。今までのことは全て詫びる。お前……だから、どうか」

「顔を上げて、お父さん」

佐藤が社長の前に膝をついて、手を差し伸べる。

「この会社はお父さんが血の滲むような努力をしてゼロから立ち上げた、大事な会社だって私は知ってる。だから協力するよ。私はあんなにひどいことを言われても、それでもやっぱりお父さんとこの会社のことが好きだから」

佐藤を見上げた社長は、ぼろぼろと涙をこぼして彼女の手を強く握った。

「すまない。本当にすまない。お前だって、私のために私の厳しい教育に耐えてくれていたのにな。私は天狗になっていた。今までは佐藤や周囲の人間が私のために動くことは当然だと思っていたが、自分がこんなどん底の状況になってやっと、そのことに気づいた。本当にすまない」

佐藤はにこりと笑うと、社長の手を引っ張って立ち上がらせる。

「今どん底にいるなら、後は上がるしかないでしょう、お父さん」

そう言った佐藤はこちらを見て、小さく笑みを浮かべた。思わず俺も頬が緩んでしまう。

「そうだな。うん。そうだ。ああ、こんな時に手を差し伸べてもらえることが、こんなにもありがたいなんてな。このことは生涯忘れない。例え、このまま会社が潰れることになっても」

「そんなこと、絶対にさせないから。お父さんの会社は私が守るよ」

明るく言い放った佐藤を前にして、社長はやっと笑顔を見せた。佐藤の努力が実って、小鮮所員は立て直しに成功した。

それから一年後、俺と佐藤は結婚した。式場は、俺たちが育った中学校の最寄り駅近くにあるホテル。俺と佐藤の二人が新しい人生を踏み出した、思い出の場所だ。

「それでは、二人の門出を祝って、乾杯!」

司会役を引き受けてくれた千歳の言葉を合図に、みんなが食事を始める。式には家族や親戚の他に、友達や同窓生も呼んでいる。賑やかな会場の様子に、俺は頬を緩める。そこに千歳がやってきた。

「新馬、結婚おめでとう。まさか二人が夫婦になるなんて、同窓会の時には思っても見なかったよ」

「俺もだよ」

「私も」

千歳の言葉に俺も佐藤も同意したから、俺たちの間には笑いが漏れた。

「この新馬のネクタイ、かっこいいね」

千歳が指差したのは、佐藤に貰った楓の柄のネクタイだった。

「佐藤に初めてもらったプレゼントだから、どうしても今日つけたかったんだ」

そう言うと、隣の佐藤が照れたように俯いた。そんな俺たちを、千歳が微笑ましそうに眺めている。

「ああ、そうそう。おい、杉野さん」

ふと千歳がくるりと後ろを振り返り、こちらの様子をさっきからチラチラと伺っていた杉野さんを手招きした。彼女はびっくりと肩を揺らした後、おずおずとこっちにやってくる。そんな杉野さんの肩を千歳がとんと軽く押す。

「ほら、言わなきゃいけないことあるでしょ」

「うん。あの……秋山君、結婚おめでとう。それから、ごめんなさい。同窓会の時、ひどいこと言って」

杉野はぱっと頭を下げた。俺と佐藤は互いに目を合わせる。大丈夫と言わんばかりに笑顔を見せた佐藤は、杉野に向き直った。

「頭を上げて、杉野。あの時、あなたが私の悪いところを指摘してくれなかったら、私は今新馬の隣に座れてなかった。だから、あなたには感謝してる。大体、許してない相手を結婚式になんて呼ばないでしょ」

杉野は目を潤ませたが、しかしそれを飲み込んだ。

「あのさ、私と友達をやり直したい。今度は社長令嬢のあなたとじゃなくて、佐藤自身と仲良くしたいの」

「もちろん」

佐藤は嬉しそうに笑うと、杉野と握手を交わした。その横顔に見惚れていると、千歳が脇腹をつついてくる。

「幸せ者だね、新馬は。もちろん」

千歳の言葉に、俺は最上級の笑顔でそう返した。努力をしてもどうしても手に届かないものはある。だけど手に届かなかったからと言って、それまでの道のりが無駄になることはない。近くでその努力を見て、認めてくれる人が必ずいる。そしてその道のりは、幸せへと繋がっているのだから。だから俺はこれからも努力を続けていく。彼女と幸せな未来を築いていくために。

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