金曜の夜、俺はいつものように一人鍋を楽しもうとしていた。都会のマンションを引き払い、去年亡くなった祖父の一軒家に引っ越してきてから、もうすぐ一年になる。静かな住宅街での一人暮らしも、今ではすっかり慣れたものだ。週の終わりのこのひとときだけは、ほんの少しだけ贅沢をすると決めている。この日も、普段はなかなか手を出さないような高級な肉や野菜を買い込んで、鍋の準備を進めていたのだ。
夜空を見上げながら、ぐつぐつと音を立てる鍋をつつく。いい匂いが部屋中に広がっていた。さあ、そろそろ食べ始めようかと、箸を鍋に伸ばしたその時だった。
ん? 今、何か聞こえたか? 耳を澄ますと、庭の方から草むらをかき分けるような、かさかさという音が聞こえてくる。野良猫でも来たのだろうか。俺は席を立ち、窓の外の草むらに目をやった。すると、やはり不自然に草が揺れている。
「おーい、お腹が空いてるなら何か分けてやるぞ」
猫に話しかけるように声をかけると、その瞬間、草むらが大きく揺れて、一つの小さな影が飛び出してきたんだ。
「あっ…」
驚いて声を失った。そこにいたのは、まだよちよち歩きの小さな女の子だった。まだ1歳になったばかりに見える。髪は少しぼさぼさで、よだれで濡れた口元をしながら、ふらふらとこちらに向かって歩いてくる。足元がおぼつかず、今にも転びそうなのに、その目はしっかりと俺の方を向いている。
「あ、あの…」
思わず立ち上がると、その子は俺の後ろにある鍋の匂いを嗅いだのか、ぷくっと笑った。
「マンマ…ママ…」
そう言って、ずりずりとこちらに近づいてくる。どうやらこの子は、俺が食べようと思っていた鍋の匂いに釣られてやってきたらしい。その瞳は、好奇心いっぱいにこちらを見つめている。
「ちょっと待て、君…」
俺がそう言いかけた時、今度は別の草むらから別の音が聞こえてきた。今度はもっと大きな音だ。
「ちょっと待ってよ、双葉(ふたば)!」
そう言いながら現れたのは、今度は4、5歳くらいの女の子だった。先ほどの子と似ているが、目つきがはっきりとしている。どうやら姉の方らしい。彼女は俺の顔を見るなり、ぴょこんと頭を下げた。
「お、お兄さん、ごめんなさい!この子、うちの妹なんです。すぐに連れて行きますから。」
そう言って、彼女は小さな手で妹の手を掴んだ。しかし、妹の方は嫌がってその場にしゃがみ込み、泣き声を上げ始めた。
「いやだー!マンマー!マンマ食べるのー!」
「こら、双葉!ダメでしょ!帰るよ!」
姉が必死に引っ張るが、妹はよだれを垂らしながらさらに泣き叫ぶ。どうやらこの子たちは、鍋の匂いを嗅いでいてたまらなくなったらしい。俺は少し迷ったが、こんな時間に二人きりで外に出す方が危ないと思った。
「待って待って。この辺りに君たちの家はあるのか?」
俺がそう尋ねると、姉の方がちらりと隣のアパートを見て言った。
「…あそこです」
「そうか。じゃあ、おじちゃんが家まで送って行ってあげるよ。一人で歩いて帰るには遅い時間だからね」
俺は優しく声をかけると、まだ泣き続ける妹を抱き上げた。すると、彼女はぴたりと泣き止み、興味深そうに俺の顔をじっと見つめた。
「…ね、おじちゃんの家からいい匂いする」
「え?ああ、鍋の匂いだよ。今日は金曜日だから、少し贅沢をしようと思ってね」
「にくと、おやさい、いっぱい入ってる?」
その質問に、俺は思わず笑ってしまった。どうやらこの子は本当に食いしん坊らしい。
「ああ、たくさん入ってるよ。まだ食べられるけど、君たちの家に行くなら話は別だな」
そう言って、俺は姉の方を見た。彼女は申し訳なさそうにうつむいている。
「あの…すみません。妹が余計なことを言ってしまって…」
「いや、気にするな。さあ、行こう」
そう言って、俺は妹を抱いたまま、姉の後についてアパートの階段を上がった。3階の一番奥の部屋だった。姉がインターホンを押すと、少し待って、ゆっくりとドアが開いた。
「はい…あれ?も、ももか?双葉は?」
ドアの向こうに立っていたのは、パジャマ姿の女性だった。髪は乱れていて、顔色は明らかに悪い。額には汗がにじみ、立っているのもやっとの様子だった。どうやらこの子たちの母であるらしい。
「お母さん、まだ寝てないとダメだよ!」
「ももか…どうしたの?それにそちらの方々は…」
俺は手短に、庭で子供たちに出会った経緯を説明した。すると、女性は慌てたように何度も頭を下げ始めた。
「なんてこと…本当にすみません。まさか子供たちだけで外に出てしまうなんて…」
「いえいえ、気にしないでください。それより、体調が悪そうですが、大丈夫ですか?」
「ええ…熱は3日前から出ているんですが、少し落ち着いてきたところで…ただ、まだきつくて、家事も満足にできなくて…」
そう言って、彼女は重いため息をついた。見れば、部屋の中は少し散らかっていて、食器が洗い場に山積みになっているのがわかる。
「それで、双葉ちゃんの方は何か召し上がりましたか?」
「いえ…私が幼稚園に行ってる間に、何も食べてないみたいで…でも、母はキッチンに立つこともできなくて…」
そう言いかけて、子どもたちの母は言葉を詰まらせた。見れば、隣では妹の子が再び泣き出そうとしている。
「ママ…お腹すいた…」
「双葉、ごめんね。もう少しだけ我慢して…」
その言葉に、俺は自分の家を思い出した。もうすぐ火を止めなければいけないほど、みんなが待っている。
「あの、よろしければですが…」
俺は、どこか自分でも驚くようなことを口にしていた。
「家で鍋を作っているんです。野菜もたくさん入っているし、体調に良さそうですよ。子どもたちも喜ぶと思いますし、もし良かったら…」
彼女は驚いた顔をした。
「え、そ、そんな…悪いですよ。それに私、まだ食器も片付けられてなくて…」
「全部手伝いますから、いいですよ。さあ、子どもたち、行きますよ」
俺は強引に半ば無理やり、彼女家に食材を運ぶことにした。鍋の準備を整え、再び火にかける。すると、さっきまで泣いていた娘の子、双葉ちゃんが目を輝かせて近づいてきた。
「くんくん…いい匂い!」
「この子、本当に食べるのが好きで、食いしん坊で困ってるんです」
母が苦笑しながら言う。俺は大きく笑った。
「いいじゃないですか、いいことですよ。私の妻も…」
と、そこまで言って言葉を止めた。亡くなった妻のことを思い出し、一瞬つらくなって、でもそれを悟られないように続けた。
「…昔から、たくさん食べる子は健康になるって言いますからね」
しばらくして、鍋ができあがった。湯気が部屋中に立ちこめる中、4人で食卓を囲んだ。
「じゃあ、いただきます!」
双子の少女たちが、元気よく手を合わせる。その目は、とびきりの笑顔だった。
「うわー!柔らかい!おいしい!」
「お肉、甘い!」
双子の少女たちは、夢中になって鍋を食べ始めた。何度もお代わりをしてお皿を空にする。母の娘、ももかちゃんもそっとスープをひと口飲み、ほっと息をついた。
「…おいしい」
「本当にそうです。この子ども見たことないです。こんなに人見知りするいい子たちじゃないんですけどね」
「そうなんですか? 」
「ええ。母方の祖母がよそよそしかったって言うか…いえ、そんな話はいいんです。とにかく、今まで出会った大人はみんな敵って思ってるところがあったから」
そう言って、彼女は恥ずかしそうに微笑んだ。少し血色がよくなったように思えた。
食事を終え、片付けが一段落した時、娘のひとりが、ぐーぐーと気持ちよさそうに眠ってしまった。
「寝ちゃいましたね」
「そうですね。今日は緊張して疲れたんだと思います」
母はそう言って、眠る我が子の髪を撫でた。
「今日は本当にありがとうございました。食事までごちそうになったのに…」
「いいえ、お役に立てて良かったです。何か他に準備できることがあったら言ってくださいね」
そう言って、俺は家に戻ろうと立ち上がった。
「あ、ま、待ってください」
彼女は何かを思い出したように声をかけた。
「これを、少しだけ持って帰ってください。お礼と言うとあれですが…」
手渡されたのは、小さなタッパーだった。
「もうこんな時間ですから、明日の昼くらいに食べてもらったらいいかと思って。市販のものばかりでなんですが…」
中を開けると、まだ湯気の立つおかずがきれいに詰まっていた。私は思わず、小さく笑みをこぼすぐらい、温かさを感じるものがあった。
「うわ、すごい。いいんですか?」
「ええ、こちらこそ、いつもこんなに丁寧にしてもらっては、親として恥ずかしい限りです。子供たちもあなたには懐いてるみたいですし、また遊んでやってください」
その言葉に、胸が少し苦しくなった。妻を亡くしてから、こんなに心を通わせる時間がなかったから。
「もちろんです、いつでも呼んでください。あ、そういえば、自分はこういう者です」
名刺を渡すと、彼女は驚いた顔をした。
「幼子さん…」
「変な名前でしょ。まあ、仕事は基本デスクワークなんで、こうして外で誰かと接するのは久しぶりで、今日は楽しかったですよ」
玄関で別れ際、彼女はもう一度深々と頭を下げた。
「今夜は本当にありがとうございました。私、恥ずかしながら、あの子たちの母であることに一番不安がありましたから…こんなに温かい気持ちになったのは久しぶりです」
「俺の方が…娘さんたちにいい思いをさせてもらいました。それじゃあ、おやすみなさい」
家に戻り、先ほどのタッパーを開けてみると、キャベツの漬物と卵焼きが入っていた。冷めてもおいしそうな丁寧な味付けだった。
「 」
翌朝、スマホの通知が鳴った。メッセージアプリには、見覚えのない名前があった。
『幼子さん、昨夜は本当にありがとうございました。今日は朝から娘が『またおじちゃんに会いたい』とうるさくて、迷惑だとは思ったんですけど…もしお仕事がお休みだったら、また一緒にご飯を食べてもらえませんか?家は!(居場所)まで遊びに来てください。待っています』
短い文章の後に、笑顔の絵文字がひとつ。そして、地図アプリのピンが添えられていた。
俺はしばらく画面を見つめた後、小さく返事を打った。
『こちらこそ、おかずありがとう。その気持ち、とってもうれしいです。今日はこれから仕事もないので、夕方、お邪魔してもいいですか?』
送信ボタンを押すと、既読はすぐに付き、少し間を置いて今度は、おどけた絵文字の付いた返事が来た。
『家族が子供たちがはしゃぎすぎて、うるさくなると思うんですけどね(笑) お待ちしています』
金曜の夜、たまたま一人鍋をしたかっただけの、たまたま無事に終えた一週間のご褒美が、こんなに人の温かさに触れる日になるとは思わなかった。それは、公園で泣いている女の子たちに出会った日と同じで、予期せぬ出来事だった。けれど、この縁をきっと大事にしたいと思った。
もう、土曜日の夕方。約束の時間に少しだけ迷ってしまったけれど、地図で確認したアパートの前に立つ。エントランスのインターホンを押した。少しして、ひょこっと現れたのは、両手に絵の具を付けた、隣の娘の片割れ、ももかちゃんだった。
「あっ、せんせい!」
その言葉に、作者は少し驚いた。
「せ、先生じゃないんだけど、おじちゃん以外で呼ばれると照れちゃうな。お母さんいる?」
「はーい、お母さーん!おじちゃん来たよー!」
中から、パタパタと足音が近づいてきた。
「はーい、今いくわ。あら、いらっしゃい。さあ、どうぞ」
玄関には、昨夜よりも数段顔色のいい彼女がいて、こちらに笑顔を向けてくれた。きっと彼女も、新しい生活の一歩として、早く日常に笑顔を取り戻したいのだろう。
「手ぶらで悪いですね。今日はごちそうになりに来ました」
「こちらこそ、お忙しいところ来ていただいて。それにしても、今日は一段と寒いわねえ。ちょうどいいから、明日の朝にはお鍋の残りでもう一度食べられるように、今夜はたくさん作ったのよ」
笑いながら、娘たちの泣き声が聞こえるダイニングへと案内された。テーブルの上には、湯気が立ちこめる土鍋。そして、驚くほどたくさんの手料理が並んでいる。
「すごいなあ…本当に手料理、色とりどりで…」
「大層です。自家製の漬物と、あと子供たちがお庭で採ったキノコを味汁に入れてみたんです。と言っても、もう吸い物は作ってきちゃったんですけどね。さあ、どうぞ冷めないうちに」
「うわぁ、うまそうだ…」
席に着くと、彼女の隣にいた双子の片割れ、今回名前を呼んでもらえたが、絵の具の染みがあるエプロンをした女の子が、ぽんと膝の上に飛び乗ってきた。
「ねえねえ、おじちゃん、今日はねー、幼稚園でね、栗を拾ったんだよ!お母さんと一緒に大声出して拾ったの!写真撮ったんだ!」
「良かったな。見せてくれる?」
「うん!」
彼女がエプロンのポケットからスマホを取り出すと、うちの子の指が写っている写真が出てきた。その手を取ると、作者は笑った。
「本当だ。立派な栗だ。今夜は早速、栗ご飯かな?大丈夫、俺が手伝ってやるよ。ちゃんとお姉ちゃんと出来るようにさ」
その言葉に、母が、あ、と小さな声をあげた。
「そんな、お客さんに手伝わせるわけには…」
「いいですよ。その代わり、今度遊びに来るときは、名前で呼ばせてください。なんだか『ママ』って呼ばれるより、胸が躍ります」
彼女が一瞬驚いた顔をして、すぐに子どもみたいな顔に戻って言った。
「こんな短い間に、『母は』『相手は』って何度呼び聞かせたか分からないけどな。わかったよ、よかったらそう呼ばせてもらう。そろそろ夜だから、兄の方の身支度を整えないと」
「はーい!じゃあ、私が着替えさせてくるー!」
そう言って、双子の片割れを抱っこして、ドタドタとベッドルームへ駆けていく姿を見ながら、作者は初めて、この家のことを心から家族かもしれないと思った。
翌日は、彼女から聞いた通り、一日中穏やかな日曜日になった。朝の食卓には、昨夜の鍋の残りから作ったおじやと、また新しい小皿に盛った漬物が並んでいた。
「いやあ、朝からこの具沢山の味噌汁を子供たちと食べられるなんて、夢みたいだなあ」
「それは良かったです。また、いつ来てくれても大丈夫なように、作り方を何通りか覚えておかないといけませんね」
そう言って彼女が笑うと、俺も自然と笑みがこぼれた。
「何回でも教えますよ、忙しくなければ。…あ、そうだ、実は少しずつ覚えたいのがあって、暗い内に周りに説明してくれるところがあるっていうから、よかったら一緒に行きませんか?

」
「えっ、何、いきなり…」
「いや、変なこととかではなくて…この辺りは夜は真っ暗で、みんな一人で歩くのが怖いみたいなんですよね。それで、みんなで廊下に明かりを灯すという動きがあるらしくて、どうせなら、君たちも男手があった方が安心だなと思って、仕事のついでに参加してみようと思ったんですけど、ダメかな」
すると、彼女は目をしばたかせてから、ぽつりと言った。
「ひどいですよ。私を、単なる家庭の防犯フィルムみたいに言うのはやめてください」
「違います!」
俺が焦って言い直そうとすると、彼女はそれを見て、堪えきれずに笑い出した。
「冗談ですよ。本当に、ひどい人。でも、そういうことなら、ぜひお願いします。子供たちにも人に親切にするっていうのが、どれだけ大切か分かります」
その日から、幼子の生活は一変した。仕事から帰ると、隣の家の灯りを確認して、家族が揃っているかを見てから帰る日が多くなった。いつしか、それは自然と帰る場所になった。
帰り際、アパートの階段を下りながら、ある約束を思い出す。
「土曜日は、みんなで公園行こうな」
すると、聞いていたのか、ベランダから、双葉たちの高い声が聞こえてきた。
「はーい!」
その返事を聞いて、作者は初めて、ささやかながら確かな幸せの居場所を見つけたのかもしれない、と強く感じた。
家々の窓に灯りがともる頃、俺はもう一度振り返りそうになった。が、それをぐっとこらえて、新しい夜道をまっすぐ進んでいった。