銀行の自動ドアをくぐった瞬間、冷たい空気が顔に触れた。受付で名前を告げ、大応接室の前の椅子に腰を下ろす。仕事だ、過去は関係ない。そう自分に言い聞かせていた。だが曲がり角を抜けた瞬間、背後から耳障りな声が飛んできた。「おいおい、中卒の下請けが何しに来たんだよ。打ち合わせ?…

銀行の自動ドアをくぐった瞬間、冷たい空気が顔に触れた。受付で名前を告げ、大応接室の前の椅子に腰を下ろす。仕事だ、過去は関係ない。そう自分に言い聞かせていた。だが曲がり角を抜けた瞬間、背後から耳障りな声が飛んできた。「おいおい、中卒の下請けが何しに来たんだよ。打ち合わせ?...

銀行の自動ドアをくぐった瞬間、冷たい空気が顔に触れた。受付で名前を告げると、案内係が丁寧に微笑み、担当者が間もなく参りますと告げた。促されるまま大応接室の前の椅子に腰を下ろす。仕事だ。過去は関係ない。そう自分に言い聞かせた。

だが、曲がり角を抜けた瞬間、背後から耳障りな声が飛んできた。

「おいおい、中卒の下請けが何しに来たんだよ。打ち合わせ? 時間の無駄だろ」

振り返ると、見覚えのある顔がニヤニヤと笑っていた。制服の胸には堂々と名札が光っている。樋口大雅。あの頃、俺を見下して笑っていた同級生の名前だった。

俺の名前は宮園尚也。学歴は中卒だ。それだけで見下す人間はこれまで何度もいた。実家は決して裕福ではなかった。父は小さな工場で働き詰め、母もパートで家計を支えていたが、毎月の暮らしはいつも綱渡りだった。それでも両親は「高校に行ってほしい、できれば大学にも」と言ってくれていた。だが俺はその思いを受け取りながら、高校進学を断った。中学を卒業してすぐ、知人の紹介で鋳造工場に就職したのだ。

朝から晩まで油と泥にまみれる日々。機械の整備、材料の仕分け、運搬、検品。どれも地味で単純な仕事ばかりだったが、そこで出会った先輩たちは皆一流だった。厳しくも温かく、言葉よりも背中で仕事を語る人間たちだった。手を動かせば結果が出る世界に俺は魅了され、頑張った分だけ技術も評価も積み上がっていった。やがて取引先との交渉にも顔を出すようになり、いつしか自分の手で仕事をしたいと思うようになった。それが独立のきっかけだった。

資金はギリギリで、設備は中古ばかり。だが腕と信頼と段取りだけはどこにも負けないつもりでいた。最初の数年はとにかく必死で、少しずつ受注は増え、仲間も増えた。気づけば複数の会社を束ねるグループ企業となり、立ち上げた工場は国内外に広がり、開発から製造まで一貫して対応できる体制を整えていた。表に名前を出すことは少ないが、大手製品の内部にはうちの技術が使われている。顔を知られることはなくても、業界内ではそれなりの名を得ていた。

何よりも、信頼を裏切らない姿勢が次の仕事を運んでくる。一度でも不誠実を晒せば次はない。現場で学んだその教訓は、今も俺の中で生きている。

今、俺は新たなグループ会社を地元に設立する準備を進めていた。法人の立ち上げに伴い、給料の支払いや管理口座など金融面の調整が必要になり、近くの銀行と打ち合わせをすることになった。選んだのは、家からも工場からもアクセスがいい、そこそこの規模の地方銀行だ。ネットバンキングの利便性も考慮して、法人口座の開設からまとめて相談する段取りを取った。

事前に届いた資料には担当者の名前が記載されていた。樋口大雅。中学時代、俺を「貧乏人」「底辺」と馬鹿にしてきたやつだ。あいつの笑い声は今でも耳の奥に残っている。けれど今は、そんな過去に引きずられるつもりはなかった。あくまで業務上の関係。相手が誰であれ、こちらは誠実に接する。それが俺のやり方だ。そう自分に言い聞かせて、打ち合わせの日を迎えた。

音もなく革靴の音が近づき、懐かしくも不愉快な顔が現れた。

「あれ? お前、宮園? マジで? 今日の打ち合わせ、お前だったの?」

こちらを見下すように笑いながら、俺の全身を眺める。

「ていうか早すぎだろ。午後の打ち合わせだよな。初めてで舞い上がっちゃったのか? まだ午前中だぞ」

声を押し殺す様子もなく、馬鹿にしたような調子で続ける。

「いや、懐かしいな。中卒の宮園が銀行に来るとかさ。はっきり言ってマジで間違いだろ」

軽く呆れたような表情を浮かべながら、言葉を畳みかけてくる。

「で、どこに勤めてんの? 確か町工場だったよな。どうせ未だにネジとかバリとかやってんだろ。底辺の仕事って感じだよな」

言いながら、自分のスーツの袖を無意味に直してみせる。

「そういや、昔からお前ってさ、何やらせても中途半端だったよな。頭も悪かったし、運動もダメ。人付き合いも微妙で、教師にも相手にされてなかったじゃん。そういうやつが社会に出てどうなったか。見事に何の驚きもないわ」

樋口は笑いながら俺の目の前で腕を組んだ。

「担当者がお前とか終わってんな、マジで。俺、今日この後大手企業の社長と打ち合わせ入ってんの。ガチで何十億とか動く案件。こっちは最優先。お前はまあ、端っこで済ませとくやつな」

完全に勘違いしているようだった。樋口が大手企業の社長と信じ込んでいる相手は、まさに目の前に立っているこの俺なのに。資料にも目を通さず、名刺すら見ようともせず、過去の記憶だけで判断している。

「いやさ、正直に言っていい? お前みたいなやつ、会っても会わなくても一緒なんだよな。書類出して終わり。こっちは受理しても多分上から蹴られるし、時間の無駄って感じ」

その言い草に、周囲の職員たちがちらりとこちらを見ては視線をそらす。

「中卒がさ、銀行と打ち合わせってのがもうギャグだろ。どうせ法人とか言っても、名ばかりでやってる個人事業主みたいなもんじゃねえの。書類ちゃんと埋められたか?」

まるで小学生に接するような口ぶりだった。俺が無言で立ち上がっても、あいつは全く気づかない。それどころか、さらに言葉を重ねてくる。

「まあ、俺も大人だからちゃんと話は聞いてやるよ。ただ正直期待すんなよ。担当者がお前じゃ元から終わってんだよ。数字も薄いし、会社としての信用もないだろ。まさか作業場の住所とか書いてないよな?」

ついには苦笑まで交えながら俺を眺めてくる。

「この後来る本物の社長は、奥の応接室で定石通りに対応する予定でさ、そっちの準備が本番。お前との打ち合わせは、言ってしまえば消化試合ってやつ」

俺は無言のまま、その言葉の一つ一つを静かに飲み込んでいた。その頑固な勘違いと、変わらない態度を噛みしめながら。そして胸の奥で、何かがゆっくりと切れていく音がした。

一呼吸置いて、ゆっくりと立ち上がる。そして目の前の樋口に向かって、淡々と告げた。

「お気持ちはよく理解しました」

それだけを残し、俺は何も言わずにその場を後にした。樋口が「え? 何? 急に」と小さく漏らしたが、もう聞いていなかった。

銀行の外に出て、すぐにスマートフォンを取り出す。履歴から一件を選び、発信する。すぐに落ち着いた声が応答した。

「はい、稲本です」

「突然申し訳ありません。そちらの法人担当の件で、少々ご報告があります」

俺は先ほど樋口に浴びせられた言葉の数々を、淡々と伝えた。個人攻撃をするつもりはなかったが、現場での事実は正確に説明する義務がある。

「本日、御行で新法人の取引口座を開設する予定でした。加えて給料支払いや預金を一括管理する口座も同時にお願いするつもりでした。ですが、担当者の対応を受け、残念ですが撤回せざるを得ません」

声は低く、静かで落ち着いた調子だった。だがその内容がいかに重いか、相手もすぐに察したのだろう。

「申し訳ありません。本当に申し訳ありません。即座に確認し、対応させていただきます」

「いえ、もう結構です」

「ですがせめて、一度直接お詫びの機会をいただけませんか。我々の行にも責任はございます。今後の付き合いを期待していたのですが、残念です」

通話を終了した。相手の返事を待つ必要はなかった。必要な経緯はすでに示した。それ以上は不要だ。

俺はすぐにスマートフォンを再び操作し、次の番号に電話をかけた。そこは以前から目をつけていた隣市の地方銀行だった。事情を説明すると、担当者はすぐに応接室の時間を用意してくれた。

車を走らせて到着すると、窓口で待機していた男性職員が深々と頭を下げた。

「お忙しいところありがとうございます。お約束の宮園様ですね。こちらへどうぞ」

通された応接室は簡素だが清潔で整っていた。対応した法人担当は若いが丁寧で、書類にも一つ一つ目を通し、疑問点があれば必ず確認を取ってきた。話しぶりから察するに、こちらの規模と背景も事前に調べた上で対応しているようだった。

手続きは迅速かつ丁寧に進み、予定していた三十億円の預金を中心とした法人契約も、その日のうちに無事締結された。

「誠にありがとうございます。宮園様とのご縁を深く感謝申し上げます。今後とも末永いお付き合いをどうぞよろしくお願いいたします」

担当者は何度も頭を下げた。その一つ一つに、形式だけではない誠意が感じられた。俺は軽く微笑み返しながら立ち上がり、名刺を手渡した。

「こちらこそよろしくお願いします。私たちは信頼を大切にする会社ですので」

そう告げると、担当者は深く頷いた。帰り道、助手席の鞄の中には新たに開設された通帳と契約書の控えがある。それらを横目に見ながら、俺は窓の外を静かに眺めていた。

その頃、俺からの電話を受けた支店長の稲本は、険しい表情で机に書類を叩きつけた。一呼吸置いてから、内線を取り静かに言い放つ。

「樋口大雅を大応接室まで来させろ」

声を荒げてはいない。だが、その圧力は明らかだった。フロアの空気が張り詰める中、重い足取りで樋口が姿を表す。

「お疲れ様です。あれ? 何かありました?」

稲本は無言で椅子を差し示した。樋口が腰を下ろすと同時に、冷たい声が落ちてきた。

「今日の午前中、お前が対応したお客様から強いお叱りの電話をいただいた」

樋口は首をかしげ、曖昧な笑みを浮かべる。

「え? ああ、予約は入ってたんですけど、何か来なかったんすよ。俺、ずっと席にいたんですけどね。受付は通してるはずなんですけど」

「聞いていた。お前が対応している。名前は宮園尚也社長。三十億円の預金を予定していた法人代表者だ」

その瞬間、樋口の表情が凍りついた。

「え、ちょっと待ってください。宮園って中学の同級生の宮園っすよね」

「そうだ。その宮園様が今は複数の会社を束ねる社長だ。お前が“下請けの底辺”と決めつけ、鼻で笑った相手だ」

「社長、俺てっきり午後から来る大手企業の社長とは別の、どっかの会社の担当者かと……顔見てあいつだとは分かってたんですけど、まさか本人が社長だなんて」

「名前も会社名も確認していなかったのか。名刺も渡さず、受け取らず、書類にも目を通さず、勝手に判断したのか」

「いえ、名刺はその……ポケットに入れたまま、もらわなくてもいいかなと思いまして。ちょっと昔の知り合いだからって、気が緩んだというか」

「気が緩んだ? お前は今、銀行の法人担当として業務に当たっているんだ。その自覚があれば、相手の肩書きや立場を最初に確認するのが常識だろう。その一言一言がどれだけの金を左右するのか、分かっているのか?」

「すみません。本当にすみません」

稲本は深くため息をついた。

「彼がどれだけ丁寧に口を抑えていたか、分かっているのか。“何も言わなかった”のではなく、“何も言わなかった”のだ。ただ“とても残念です”とだけ繰り返していた。それがどれだけ本気の怒りか、お前には分からんのか」

声を震わせながら、樋口は立ち上がった。

「今から行ってきます。謝ってきます。何としてでも取り戻してきますから。俺、首になったら終わりなんで」

上着を掴み、顔面蒼白のまま応接室を飛び出していった。稲本は椅子に沈み、机上に置かれた名刺の「宮園尚也」の名前をしばらく無言で見つめていた。

そして、俺のデスクに社内の内線が入った。受付の声だ。

「樋口大雅と名乗る方がお越しです」

名前を聞いた瞬間、俺は一瞬だけ目を閉じ、短く息を吐いた。

「通してください」

扉が開く。スーツの前ボタンを止める間もなかったのか、樋口は乱れた姿のまま息を切らして飛び込んできた。額には玉の汗。手に持った上着はくしゃくしゃで、目の下のくまが際立っていた。俺の姿を見るなり、彼は反射的に頭を下げた。

「宮園の社長、本当に本当に申し訳ありませんでした」

その声は、午前中に会った時とはまるで別人のように弱々しかった。俺は席から動かず、低い声で返す。

「で、どういったご要件で?」

樋口は顔を上げ、必死に言葉をつないだ。

「午前中のこと、あれは完全に誤解してました。中学の同級生だってのは気づいてたんです。でもまさかあんたが社長だったなんて。まさか会社の代表者で三十億を動かす立場だなんて、思いもよらなくて」

言い訳がましい語尾を最後まで聞かず、俺は目線だけで彼を促した。

「それで?」

樋口は短く頷き、身を乗り出すように前に出る。

「お願いです。どうか今回のこと、見逃してもらえませんか? うちの銀行との取引取りやめだけは、何とか撤回していただけないでしょうか」

必死な声だった。だがその言葉は俺の耳には届かなかった。

「すでに別の銀行と契約済みです」

その一言に、樋口の肩が崩れ落ちるように下がる。

「そんな……もう」

「信用できる対応をしてくれたところがありました。そちらには預金も法人契約も全て移しました」

「次の機会でも構いません。次に会社を立ち上げる時でもいいんです。俺、何でもやります。振り込みでも用事でも、俺の責任で誠心誠意対応します」

椅子に深く腰かけたまま、俺はゆっくりと首を横に振った。

「信頼のない銀行に、大事な資金を預けるわけにはいきません」

樋口は顔を引きつらせ、なおも言葉を絞り出す。

「頼む。首になっちまう。俺、このままじゃ」

だがその言葉に、俺の表情は変わらない。

「私はお金の重さを誰よりも知っています。どれだけの責任がそこにあるかも。だからこそ、誰に任せるかは最初の一歩から見極めているつもりです」

樋口の唇が震えた。それでも彼の懇願は終わらなかった。

「お願いだ。今回のこと、何とか丸く納めさせてくれ。俺、ずっとこの仕事しかしてこなかったんだよ。銀行やめたらもう……」

足元で懇願するように両手を合わせながら、樋口は声を震わせた。

「次の移動先がどこになるかも分からないし、下手すりゃ広域異動。家のローンだって残ってて、子供もまだ小さくて」

俺は黙って聞いていた。だがそれでも、表情を変えることはなかった。

「あなたが言ったことを覚えていますか?“下請けの底辺”“工員の担当者だろ”“会っても意味がない”“銀行と打ち合わせなんて身の程知らず”。あと、“どうせ大した額じゃねえ”とも」

鈍い沈黙が落ちた。樋口の肩が痙攣のように震える。

「一つはっきりしておきましょう。私はあなたを個人として攻めているわけではありません。ですが、信用できない銀行の担当者とビジネスを結ぶつもりはありません」

樋口は崩れ落ちるように椅子に座り込み、うつむいた。

「首は嫌だ。本当に頼む。助けてくれよ。社長の一言があれば……お願いします。お願いです」

「言いましたよね。私はお金の重さを知っていると。だからこそ任せる人間は慎重に選ぶんです。言葉ではなく態度で示す人間に」

「お願いだよ。何でもするから。お願い。お願い」

もう言葉になっていない。床に両膝をつき、涙をこぼしながら樋口はただ繰り返す。俺は静かに立ち上がり、デスクの書類を一枚手に取った。

「次の打ち合わせがあります。どうかお引き取りください」

それでも動こうとしない樋口に、俺は最後に一言だけ告げた。

「信頼を失った銀行員は、誰からも金を預けられません。それはあなたが一番よく知っているはずです」

「うっ……首は嫌なんだよ。どうすればいいんだ?」

樋口は人しきり騒いだ後、沈黙した。やがてふらつきながら立ち上がり、足を引きずるように応接室を出ていった。ドアが閉まり、室内に静寂が戻ると、俺は深く息をついて次の資料を見つめた。

それから数日後、稲本支店長から報告の電話が入った。

「本日付けで業務停止を命じました。来週から遠方の小規模支店への移動が決まっています。事実上、左遷という言葉が浮かんでいました。今回の一件は行内でも大きな問題になりました。三十億の預金を取り逃した責任は重いと判断され、彼の今後の評価にも影響するでしょう」

「そうですか。ご報告ありがとうございます」

それだけを告げて、俺は通話を切った。それ以上、彼の行方に興味はなかった。

その後、俺はあの日に訪れた別の銀行と本格的な取引を開始した。担当者は丁寧で、こちらの要望にも即座に対応してくれる。開設された新法人の口座には、すでに初期資金が動き始めていた。会社の運営も順調に滑り出し、地元を拠点にした新しいプロジェクトも始動し、社員の採用も進んでいる。

思えば、今回のことで一つはっきりした。信頼のない場所に金は置けない。肩書きもブランドも見た目もどうでもいい。大切なのは人としての態度と誠意。それだけだ。ふと窓の外を見やりながら、俺は一人頷いた。

人の評価は肩書きや学歴じゃない。礼儀と信頼。たったそれだけだ。

外には夏の光が差し込んでいた。

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