俺は五十二歳の男だ。若い頃から組の仕事に身を投じ、今では全国に組員を抱える大きな組織の組長を務めている。息子の達郎が実務のほとんどを仕切ってくれているおかげで、どうにか回っているようなものだ。周りは俺と達郎がいれば安泰だと言ってくれる。正直、頼もしい限りだった。
あの日もそうだった。一人で出かけた帰り道、少し疲れたなと思って自販機で缶コーヒーを買い、公園のベンチに腰を下ろした。ところが缶を開けて一口飲んだところで、若い男が数人、寄ってきた。
「おいじいさん。うちの島で何してんだ」
睨みつけてくる男に、俺は理解が追いつかなかった。何を言っているんだ、この若造は。ベンチで休憩しているだけだろう。しかも「うちの島」だと? そんな言葉、聞いたこともない。
黙ったままの俺を見て、男はさらに詰め寄る。
「てめえみてえなジジイは、ここら辺をうろつくんじゃねえよ」
「何を言っているんだ、君は。ここは天下の公道だろう」
「うちの島だっつってんだろうが。だから俺の組のもんなんだよ」
「組? まさか、あんたらヤクザか?」
「その通り。俺はピヨピヨ組の若頭をしている、野沢シゲルだ。恐れ入ったか」
そう言って胸を張るシゲルを、俺はまじまじと見た。ピヨピヨ組の名前は知っている。近くに事務所があったはずだ。だが、それだけだ。怖いとも思わない。ただ、若い連中が威張っているなと思っただけだった。
黙っている俺を、シゲルは驚いていると勘違いしたらしい。仲間と顔を見合わせて、ゲラゲラと笑い出す。
「ビビってしびれ漏らすかよ」
言われっぱなしも癪に障る。俺は缶コーヒーを置いて、口を開いた。
「そんなわけないだろう。若造が何をほざいているんだ」
瞬間、シゲルの顔が歪んだ。
「あ? ジジイ、今なんつった?」
周りの男たちも、若頭が舐められたことに腹が立ったのか、ぞろぞろと俺を囲む。先ほどまで休憩していたはずのベンチが、いつの間にか逃走不可の場所になっている。
「てめえ、俺たちをバカにしてんのか?」
「そんなつもりはない。ただ、いちいちいちびってるようなことをするのは、小さくないかと思っただけだ」
「そうやって偉そうなことを言うなら、もっと大きな組になってからにしろ。ただのよぼよぼのジジイのくせに」
シゲルは隣に立っていた男に命令した。
「おい竜二。こいつに焼きを入れてやれ」
「分かりました」
返事をした竜二という男は、手の指をポキポキと鳴らしながら一歩前に出る。見上げるほどの大男だ。腕の太さは俺の倍はある。これに殴られたら、冗談では済まない。
喧嘩を売るつもりはなかった。ただ、もう少し言葉を選べば良かったと反省する。しかし囲まれていては逃げることもできない。
「いいのか、本当に」
俺はできるだけ落ち着いた声で言った。
「相手のことを何も知らないのに、喧嘩を売るのはどうかしているぞ」
「はあ? 命乞いならもっと言葉を選べよ」
「違う。後悔するのはお前たちだ。今なら見逃してやるから、どこかへ行け」
「てめえ、金持ちだから後が怖いとか言うのか?」
「そうだとしても俺たちには関係ねえよ。天下のヤクザだからな。大企業の社長だろうが、俺たちの敵じゃねえ」
「お前、さっきから何も知らないくせに随分と言うじゃないか。お前は俺のことを……」
説明しようとしたその時だった。竜二が何の前触れもなく、俺の頬を殴った。音がしたと思う前に体が吹き飛び、ベンチから転がり落ちる。アスファルトに背中を打ちつけられて、痛みで息が止まりかけた。
「おい竜二、話くらい聞いてやれよ」
シゲルが笑いながら言う。竜二は気まずそうに言い訳した。
「すんません。鬱陶しくてつい」
男たちがどっと笑う。俺の顔を見ながら、ゲラゲラと大騒ぎだ。頬はもう熱を持って腫れ上がり、歯も欠けてしまった。一発でこれだ。若い頃は何度も殴り合いをした男だったが、五十二歳の体はそう簡単に戻らない。
「もう我慢ならん。ピヨピヨ組とは、構想(こうそう)を決議にするわ」
俺がそう言ったのを聞いて、シゲルたちはまた笑った。
「何言ってんだ、このボケジジイ」
だが、その笑い声を遮るように、遠くから声が飛んできた。
「親父、迎えに来たぞ」
息子の達郎だ。シゲルたちが振り返ると、目を丸くして固まっている。達郎の顔を見た瞬間、顔色が変わった。
「達郎さん……。ど、どうしてここに?」
達郎はシゲルたちを無視して、俺の側に走り寄ってきた。
「親父、その顔どうしたんだ」
「ちょっと若造に一発やられただけだ」
「誰だ」
達郎が周囲を見回すと、シゲルたちは一斉に顔を引きつらせた。
「その方、達郎さんの父親なんですか?」
「そうだ。お前たちがこんな風にしたのか?」
「いや、それは……俺たちが来た時にはもう……もしかしたら敵対組織の仕業じゃないかと……」
シゲルの苦しい言い訳を、達郎は一蹴した。
「親父、本当のことを言ってくれ」
俺が正直に説明すると、達郎は瞬時に激怒した。
「てめえら、何考えてんだ。ぶん殴られえのか」
男たちは顔を真っ青にして、すぐに土下座した。
「す、すいません!」
達郎は突っ張り組の組員で、シゲルたちのピヨピヨ組はその下につく傘下の組織だ。達郎はピヨピヨ組によく顔を出しているらしく、こいつらと話をする機会も多いらしい。俺も達郎から「ピヨピヨ組は仕事もきちんとするし、問題行動もない」と聞いていた。だからこそ、突然喧嘩を売ってきたことに驚いたのだ。
「どうして親父に手を出したんだ。分かっているのか、これはうちの組に喧嘩を売ったも同然だぞ」
達郎が怒鳴るほどに、シゲルたちは声を小さくしていく。達郎が言った。
「達郎さんの親父さんに手を出したからって、組の名前を出すなんて……」
「分かってねえのか。この人は突っ張り組の組長だ」
「え?」
シゲルたちは驚愕の声を上げた。俺は突っ張り組の組長をしている。組員は全員で約一万人。傘下の組織もいくつもある。全ての組員を一人でまとめるのは難しいため、信頼できる組員に任せている。ピヨピヨ組もその一つで、俺は事務所に顔を出すこともほとんどなく、組員の顔と名前を覚えていない。シゲルたちを初めて見た時も知らなかったし、若頭と聞いても「最近変わったのか」と思うだけだった。
なんくせをつけられた時、傘下の組織だとすぐに言えば良かったのかもしれない。だが、若い頃の自分も同じようなことをしていたなと、多めに見ようと思ったのだ。それなのに話も聞かずに殴り飛ばされた以上、心の広い俺でも我慢の限界だった。
シゲルたちは地面に頭を擦りつけて謝罪を始めた。
「申し訳ありませんでした。本当に申し訳ありませんでした」
「謝って済む問題じゃねえだろうが」
達郎が怒鳴る。それでも頭を上げずに謝り続ける男たちを見下ろして、俺は言った。
「これは俺たち個人の問題じゃない。組同士の構想に発展することだ。さっきも言ったが、この調子なら組だろうが関係なく、ピヨピヨ組を潰す気でいるぞ」
「待ってください! 俺たちは突っ張り組と争うつもりはありません!」
シゲルが必死に訴えるが、達郎は胸ぐらを掴んで怒り狂った。
「てめえらのしたことが分かってねえのか」
「分かってなかったんです! 知らなかったんです!」
言い訳を繰り返す男たちに、俺は冷めた目を向けた。知らなかっただと? 自分たちの行為がどれほど重いか、今になって分かったところで遅い。
「ここで騒ぎを起こすのは好かん。この話は後でお前たちの事務所に話しに行く。ピヨピヨ組の組長とも話をしたいしな」
俺は達郎と一緒に病院に行くことにした。達郎はシゲルたちに「逃げるんじゃねえぞ」と吐き捨ててから、俺を連れて行ってくれた。
数時間後、俺と達郎はピヨピヨ組の事務所を訪れた。シゲルたちはまだ顔色が悪いまま、組長室で正座して待っていた。ピヨピヨ組の組長であるノリ之助は、すでに達郎から話を聞いたようで、顔を真っ赤にして怒り狂っている。
「本当に申し訳ありませんでした!」
ノリ之助は頭を下げ、シゲルたちの頭を掴んで一緒に下げさせた。
「お前の組員が俺にしたことは、許される行為じゃないぞ」
俺は自分の顔を指さした。ガーゼが貼られていて今は見えないが、腫れ上がっている。医者には全治二ヶ月と言われた。歯も欠けてしまって、後で歯医者にも行かなくてはならない。ヤクザとして何十年も生きてきた自分にとって、喧嘩は慣れている。昔はもっとボロボロになっても拳を振るってきた。しかし、五十二歳の体に鞭打つ気はない。ましてや、一方的にやられて、自分の正体を説明しようとしていたにも関わらず、話も聞かずに手を出したのだ。腹が立たないわけがない。
「この男たちは絶対に許さない。ノリ之助には悪いが、こいつらをすぐに処分するか。それが嫌なら組を潰すぞ」
「それだけは勘弁してください! すぐにこいつらにはきつい罰を与えますから!」
「組長、ひどいです! 俺たちは知らなかったんです!」
「知らなかったで済む問題じゃねえよ。組長だって分かっていればやらなかったって? 言い訳をするんじゃねえ」
達郎が近くのテーブルを蹴飛ばして怒鳴ると、シゲルたちは肩を震わせて黙り込んだ。そもそも相手が誰か知らなかったとしても、知らない相手に手を上げるのはおかしい。うちの組では、組員や傘下の組織が唐に手を出すことは禁止されている。昔からの決まりだ。
「なんであんなことをしたんだ」
俺が静かに問うと、シゲルは口ごもりながら言った。
「……ストレスが溜まってて。老人がいたら、そいつで発散しようと思ってました」
それを聞いた瞬間、達郎とノリ之助が同時に怒鳴った。
「何考えてんだ、てめえら!」
ヤクザの掟ではなく、自分の感情を優先するとは、最低の行為にも程がある。苛立つことは誰にでもあるが、人に迷惑をかけることは絶対に許せない。
「俺は唐に迷惑をかけることを嫌うんだ。分かっているのか?」
「で、でも……組長はヤクザでしょ? 俺たちは最初、一般人だと思ってたんです。それなら同じじゃないですか。俺じゃなかったら、おめえらはどうしてたんだよ」
腹が立って、俺も達郎と同じように怒りをぶつけた。体は痛いし、決まりを破る奴に少しも優しくするつもりはない。
「こいつらにはしっかりと罰を与えなければならんな」
俺が達郎に視線を送ると、息子は頷き、シゲルたちに向き直った。
「お前たちは即、ここから除名だ。そして親父に手を上げた償いとして、きつい仕事を与える。それができないっていうなら、この組を潰すための構想をするぞ」
シゲルたちは顔を真っ白にし、ノリ之助は必死に頭を下げた。
「すぐにこいつらを除名します! だからこの組を潰そうなんて思わないでください!」
「助けてくれないんですか、ノリ之助組長!」
「てめえらがやらかしたんだろうが。俺に助ける義理はない」
ノリ之助の言葉に、シゲルたちはこれから自分に何が起こるのかを想像したのか、青ざめた顔で天を仰いだ。
「ところで、なんでこんな奴が若頭になったんだ」
俺が不思議に思って聞くと、ノリ之助はため息をついた。
「前の組長が、こいつがいいと強く推したんです。派手な格好をするのが好きな連中からは慕われておりまして、私も反対しなかったんですが……まさかこんな自分勝手な行動に出るとは思っても見ませんでした」
ノリ之助はもう一度深々と頭を下げた。
「本当に申し訳ありませんでした」
彼の様子を見ると、うちの組に喧嘩を売ろうという気はないことが分かる。俺だって、むやみに構想したいわけではない。傘下の組を失いたくもない。だから結局、シゲルたちに罰を与えるだけで済ませようと思った。達郎も同じ考えなのか、俺の意を汲んで言った。
「こいつらには、きつい仕事を与えて、治療費と慰謝料を払ってもらおう」
やや甘いかもしれないが、シゲルたちがヤクザとしてこれから生活できなくなり、俺の前にも現れなければいいと思っている。ただし、彼らに与えられる仕事は簡単なものではない。まだ何をさせるかは決めかねているが、おそらくうちの組が経営している店か、海外に展開している店で働かせることになるだろう。
その話を聞いたシゲルたちは、体を震わせて頭を下げた。
「勘弁してください。本当に勘弁してください」
顔は青を通り越して白くなっている。相当嫌な場所のようだ。それを見て達郎が言った。
「海外にしよう。あそこなら、こいつらも誰かれ構わず喧嘩を売ることはしないだろう」
その瞬間、シゲルたちの絶望は頂点に達した。嘘だろと天を仰いだり、逆にうなだれたり、一人は気絶寸前になったり、この世の終わりだという雰囲気を醸し出している。
なぜそこまで嫌がるのか。俺たちが展開している海外の店は、世界でもトップテンに入る治安の悪い場所にあった。地元の人ですら近づかないような場所で、バトカーは五秒に一回は鳴っているらしい。ヤクザであっても行きたくはない場所のようで、シゲルたちは後悔の涙を流した。
それからすぐに達郎がシゲルたちの行き先を手配し、住み込みで働くことが決まった。そこで俺の慰謝料と治療費を稼ぐために、彼らは毎日休みなく働くことになる。しかし給料は日本より何倍も低いため、一年やそこらで払えるわけがない。何年もそこにい続けなければならない。シゲルたちは生きて日本に帰って来られるのか、とても不安がっているようだった。
一方の俺は、歯の治療も終え、頬の腫れも引いて、前と変わらない顔に戻った。ただ、治療のためしばらく組に顔を出さなかったせいで、久しぶりに顔を見せた時の組員たちの驚きようは凄まじかった。
「組長! どこの敵対組織が喧嘩を売ったんですか!」
「もう解決した」
そう説明しても、彼らの怒りは収まらない。落ち着かせるのに苦労したが、それだけ俺が組長として大事にされているのだと実感した。これからも組員たちを率いて、この国一番の組にするために努力しようと思う。体はまだ痛むが、次の敵は若者のストレス発散ではなく、もっと大きな目標のためにある。俺はまだまだ、この組を守り続けるつもりだ。
