電話の向こうから、内藤の笑いを含んだ声が聞こえてきた瞬間、俺は何かが狂い始めたのを感じた。
「ああ、佐々木さん。実はさ、今日の歓迎会だけど、俺たち行かないことにしたから。」
「全員来ないってことか。何か急な予定でも入ったのか?」
俺の問いかけに、内藤は軽い口調で返してきた。
「わかんないかな? 俺は部長の息子だぞ。無能の窓際社員は、一人で食ってればいいんだよ。」
その言葉に一瞬怒りが込み上げたが、俺は冷静を装ってこう言った。
「なら、君たちの内定は今日で取り消しだ。」
俺の名前は佐々木俊一、四十八歳。妻と子供二人の四人家族で、人事部に所属している。定時で帰れる日も多く、家族との時間を大切にできる日々は、穏やかで幸せだった。もちろん仕事にもやりがいを感じている。特に新入社員の教育には力を入れており、彼らの相談に乗ることも多い。うちの会社では入社式の前に新入社員研修が行われる。俺はここ数年、その研修の担当を任されていた。
毎年、研修担当として新入社員と関わることを楽しみにしている。しかし今年は、楽しむだけでは済まないだろうと感じていた。その理由は、内藤正という一人の新入社員の存在だ。内藤は東大卒で、うちの会社の営業部長の息子だった。彼の履歴書を見た瞬間、正直、少し扱いづらそうだなと思った。だが、指導する立場の人間がそんな先入観を持ってはいけない。俺は自分に言い聞かせ、研修の準備を進めた。
研修初日、俺は五人の新入社員を迎えた。他の四人は緊張しながらも熱心に話を聞き、積極的に取り組んでいた。しかし内藤だけは違った。彼は研修中もスマホをいじり、他の四人に対して高圧的な態度を取っていた。
「俺がこんな研修を受ける必要なんてありますか? 部長の息子で東大卒の俺が、こんな低レベルな内容で何を学べって言うんですか?」
俺がやんわり注意すると、そんな答えが返ってきた。その言葉に、他の四人は戸惑いの表情を浮かべていた。
「内藤君、君がどんなに高学歴であろうと、父親が部長であろうと、今は新人だ。会社で成功するためには、基礎をしっかりと身につけることが重要だ。研修はそのための場なんだよ。」
「あの、佐々木さんって、平社員ですよね。」
内藤は俺の注意を無視して、そんなことを聞いてきた。
「ん? ああ、そうだけど、それが何か?」
あまりに脈絡のない唐突な質問に、俺は面食らいながら答えた。
「いや、その年で平社員で、しかもこんな入社前の研修の担当なんてやらされてるとか、完全に出世ルートから外れた窓際社員ってことでしょ。こんな人に何言われても響かないっていうか。」
内藤が馬鹿にした口調で言った。あまりにひどい発言に反論しそうになったが、俺はぐっとこらえた。ここで言い返しては、相手と同じ土俵に立つことになってしまう。とにかく俺は研修を無事に終わらせることだけを考え、淡々と進めた。
しかし、研修が進むにつれて内藤の態度はますます悪化していった。彼は機会あるごとに自分が部長の息子であることをちらつかせ、他の四人を威圧し、自分が特別な存在だと強調し続けた。部長の息子である内藤に迎合していた方が会社での立場が良くなるとでも思ったのか、四人は徐々に内藤に合わせるように、俺への態度もひどくなっていった。
半月後、研修期間が終わりを迎えた。研修が終わった後、俺は内藤に対して再度注意を促した。
「内藤君、研修はチームワークを学ぶ場でもある。君の態度は周りの人たちに悪影響を与えているよ。今のうちに直さないと、社会に出てから苦労することになるぞ。」
しかし内藤は、俺の言葉を聞き流すかのように笑った。
「佐々木さん、あんたは何にも分かってない。俺には俺のやり方があるんだ。そもそも俺とあんたじゃ立場が違う。俺にあんたの指導なんて必要ないんだよ。」
内藤は吐き捨てるように言った。その言葉に、俺は深く息をついた。
そして入社式当日。うちの会社は毎年、入社式が終わった後、新入社員を集めて歓迎会を催すことになっている。入社式は滞りなく終わり、俺は予約した店で新入社員たちを待っていた。時刻は約束の時間を少し過ぎていたが、まだ誰も来なかった。
すると俺のスマホの着信音が鳴り響く。ディスプレイには内藤正の名前が表示されていた。俺は急いで電話に出る。
「内藤君、どうした? もう時間を過ぎているけど、何かあったのか?」
「ああ、佐々木さん。実はさ、今日の歓迎会だけど、俺たち行かないことにしたから。」
電話からは、内藤の笑いを含んだそんな言葉が聞こえてきた。
「全員来ないってことか。何か急な予定でも入ったのか?」
俺が聞くと、電話の向こうから内藤が馬鹿にした口調で返答してきた。
「わかんないかな? 俺は部長の息子だぞ。無能の窓際社員は、一人で食っとけよ。」
内藤がそう言うと、内藤の笑い声と共に、電話の後ろの方から他の新入社員の声と思われる笑い声も聞こえてくる。店員がオーダーを取るような声も聞こえてきたので、別の店にいることが分かった。
「どういうことだ? 他の新入社員たちも来ないのか?」
「ああ、そう。みんな俺の言うことを聞くからね。俺、部長の息子だから、逆らったらどうなるか、みんな分かってるんじゃない? 佐々木さんより賢いね。」
その言葉に一瞬怒りが込み上げたが、俺は冷静にこう返した。
「君たちは何をしているのか分かっているのか? すでに料理は用意されている。君たちが来ないことで、お店側にどれほどの迷惑がかかるか、少し考えれば分かることだと思うが。」
「うざ。説教とかマジでうざいんですけど。なんで部長の息子のこの俺が、お前みたいな万年窓際社員と、そんなしょぼい店で食事なんてしなくちゃいけないんだよ。」
内藤の声には悪意と嘲りが込められていた。
「そうか。人に迷惑をかけても何とも思わないような人間は、うちの会社には必要ない。君たちの内定は今日で取り消しだ。」
俺は淡々と内藤に告げる。
「は? 内定取り消し? 窓際社員のあんたにそんな権限あるわけないだろ。くだらないハッタリをやめろよ。見苦しいぞ。あ、料理が運ばれてきたんで切りますね。俺たちは俺たちで楽しむんで、佐々木さんはお一人で楽しんでください。じゃあ。」
そう言うと、内藤は一方的に電話を切ってしまった。俺は大きく一つため息をつくと、あるところに電話をかけた。そんなことがあった翌日。
「これはどういうことだ?」
社長室の扉を開けた内藤は、待ち受けていた俺と社長を前に軽減な表情でつぶやき、動きを止めた。内藤はなぜ呼び出されたのか、全く検討がついていない様子だ。社長は厳しい表情で内藤を見つめている。
「内藤君、どうぞ座ってください。」
社長が静かに言った。内藤は軽減な表情のまま、俺と社長の向かいにゆっくりと腰を下ろした。
「今日はどういったご用件でしょうか?」
さすがの内藤も、社長を前にして緊張しているようだ。
「昨日の歓迎会、なぜ欠席したのか説明してもらおうか。」
社長は内藤をまっすぐ見据え、厳しい口調で言った。その言葉を聞き、内藤は一瞬目を見開き、俺に怒りのこもった視線を向けてくる。俺が社長に告げ口をしたとでも思っているのだろう。俺はその視線を真正面から受け止めた。
「内藤君、私は君に質問をしているんだが。」
俺を睨みつけ黙ったままの内藤に、社長はさらに厳しい口調で問いかける。
「えっと、歓迎会ですか? 佐々木さんが何をどう言ったか知りませんが、正直あんな集まりに参加する意味がないと思ったんです。社長や役員の方たちがいらっしゃる食事会なら、もちろん喜んで参加させていただきましたが、佐々木さんとでは特別有意義な時間が過ごせると思えませんでしたから。」
内藤は馬鹿にするように薄笑いを浮かべながら言った。内藤のその言葉を聞いた瞬間、社長の表情がさらに険しくなる。
「佐々木君は、うちの会社でもう二十年以上働いてくれている優秀な社員だ。その彼との食事が有意義じゃないとは、どういうことかな?」
「お言葉ですが社長。佐々木さんの年齢でただの平社員だということは、優秀ではないということじゃないんですか? だって窓際社員ってことでしょ。確か私の父は四十歳の時にはすでに営業部で課長になっていたと思います。優秀というのは、私の父親や俺のような東大卒のことを言うのではありませんか?」
内藤は勢いよく言った。
「内藤君は、何にも分かってないな。」
俺は以前、内藤に言われた言葉をそっくりそのまま返した。内藤は怒りのこもった目で俺を睨む。
「内藤君、君は大きな勘違いをしている。」
社長の低く力強い声が部屋に響く。
「勘違い?」
内藤は眉間にしわを寄せながら、社長の言葉を繰り返した。
「佐々木君は窓際社員なんかではない。役職のことを言うなら、彼は最年少で営業部の課長になった人物だよ。確か君の父親の後に課長になったのが佐々木君だ。それに、彼は我が社の危機を何度となく救った、私が最も信頼している極めて優秀な社員だよ。」
「は? 最年少で課長? 会社の危機を救った? いやいやいや、そんなのおかしいだろ。じゃあなんで今、人事部で平社員なんてやってるんだよ。」
あまりにも信じられなかったのか、内藤は動揺しすぎて敬語で話すことを忘れてしまったようだ。俺は今の自分の立場について、そして生きた殺について内藤に説明することにした。
「俺は十年ほど前まで営業部に所属していた。自分で言うのもなんだが、営業成績は常にトップクラスだった。大変なことも多かったが、それを上回るやりがいがあった。会社の経営が傾きかけた時には、大口の契約を取って救世主なんて呼ばれたこともある。出世街道まっしぐらで、三十四歳で課長になった。年功序列の風潮が根強く残っていたうちの会社では、かなり早い出世だった。
課長になってから仕事はさらに忙しくなり、残業や休日出勤は当たり前になった。自分なりに家族も大切にしているつもりだったが、家のことや子供のことはほとんど妻に任せっきりになっていた。そんなある日、妻が突然倒れた。俺は仕事にかまけて妻の異変に気づけなかった自分を責めた。幸い妻は命に関わる状況ではなかったものの、このままではいけないと思った俺は、すぐに異動願いを出した。事情を説明し、すぐに人事部への移動が決まったのだった。」
「佐々木君を役職にという声は多いんだが、本人がそれを望んでいないから、表面上は平社員ということになっている。だが、これだけ優秀な社員をただの平社員にしておくのはもったいない。彼の実力を見込んで、今は社長直下の特別顧問として、人事の最重要案件に関わってもらっているんだよ。新入社員の研修も、その一環というわけだ。」
社長直下の特別顧問。内藤は顔を真っ青にして呆然とし、言葉を失っているようだった。これまで自分が侮ってきた男が、実は自分の将来を左右するような存在であったとは、夢にも思わなかったのだろう。
「での君の態度や昨日の出来事は、すべて佐々木君から報告を受けている。社会人として到底許される行為ではない。」
社長の厳しい言葉が部屋に響く中、内藤は完全に追い詰められていた。内藤は驚きで声が出ないのか、俺をただ呆然と見つめている。俺は一切の感情を表に出さず、ただ黙って冷静に内藤を見つめ返した。
「内藤君、君にはもう一つ伝えるべきことがある。」
社長が再び口を開いた。
「君の内定は、正式に取り消しとする。」
社長の低く冷たい一声が、社長室に響く。
「ちょ、ちょっと待ってください。た、確かにちょっと言いすぎたことがあったかもしれませんし、昨日の歓迎会も店側には悪いことをしたかもしれません。ですが、そんなことくらいで、東大卒で優秀なDNAを持つこの俺の内定を取り消すんですか? 後悔しますよ。」
内藤はなんとか我に帰り、必死に訴えかけるが、社長の厳しい態度は変わらない。
「君のその態度、そして昨日の行動は、我が社の基準を大きく逸脱している。君は我が社にはふさわしくない。」
「ちょ、ちょっと待ってください。俺は……」
「ここに君の居場所はない。即刻出て行きたまえ。」
まだ言い訳を続けようとする内藤の言葉を遮り、社長はきっぱりと言い放った。俺は何も言わず、ただ内藤を見つめ続けた。内藤は怒りのこもった目で一瞬俺を睨みつけたが、もうどうにもならないと悟ったのか、呆然とした表情になり、ふらふらと出入り口に手をかけた。
「あと、しょぼい店で悪かったな。あそこは私が贔屓にしている人の店なんだ。見てくれはしょぼいかもしれんが、味は絶品でね。毎年我が社の新入社員のために腕を振るってくれているんだ。今年も張り切っていたんだよ。」
社長は内藤の背中に向かって静かな声で言った。内藤はその言葉を聞き、一瞬動きを止めたが、何も言わずに社長室を出ていった。
その後、内藤のことはすぐに社内に噂が広がり、他の新入社員たちもこの事実を耳にした。彼らは内藤がいなくなったことで、ようやく重圧から解放されたような気持ちになったのだろう。これまで内藤の影響力に逆らうことができず、彼の指示に従わざるを得なかった新入社員たちは、内藤が会社を去った今、新たなスタートを切ることができると思っているようだった。
しかし現実はそんなに甘くはない。内藤がいなくなった後、新入社員たちは俺の元を訪れ、謝罪の言葉を口にしたが、彼らの内定も取り消しとなった。彼らは内藤が部長の息子であるということから、彼に迎合する道を選んだ。それはすなわち、すぐに権力に屈する、権力の前では黒も白もないという人間だということだ。内藤自身に力があるわけじゃなく、高々部長の息子だというだけの人間に便乗してああいった行動を取るということは、彼の存在がなかったとしても、いずれどこかでボロが出ていただろう。研修期間中や歓迎会の時、少しでも内藤に反発する態度が見られていたら、結果は違っていたのだが、彼らは最後まで正しい行動を取ることはなかった。
肩を落とし、会社を去っていく彼らの背中を見ながら、今回のことを教訓に、これからの人生を歩んでほしいと心から思った。
一方で、内藤の父親である部長も、息子の失態について知ることになった。内藤部長は息子が内定を取り消されたことを知り、深いショックを受けたが、同時に息子に対し厳しい態度を取ることを決意したようだ。これまで息子を甘やかし、特別扱いしてきたことが今回の結果を招いたのだと痛感したそうだ。内藤が家に戻った時、父親は厳しい表情で彼を迎えた。彼が期待していた父親の助けはなかった。むしろ父親の態度は冷酷で、一切の手助けをしないと内藤に告げたそうだ。
内藤にとって、それは最も厳しい現実だった。彼は父親の支援をも失い、完全に一人でこの先を切り開かなければならなくなった。その後、内藤は新たな職を探し始めたが、転職は困難を極めた。内藤は何度も面接を受けたが、どの企業も彼を採用しようとはしなかった。自分の学歴や父親の地位が全く役に立たないという現実を前に、彼は打ちのめされているようだった。かつては他人を見下し、権力に頼っていた自分が、今では何の価値もない存在になってしまったことに気づいたことだろう。内藤は結局新たな会社の内定をもらうことはできず、家も追い出され、アルバイト暮らしをしているようだ。しかし、アルバイト先での人間関係がうまくいかず、バイトも転々としているとか。
俺はと言うと、社内では私の行動を評価する声が広まり、信頼を深めていった。会社での立場がますます強固になったことは事実だ。何より私にとって最も大切なことは、自分の信念を曲げずに行動できたことだった。他人を蹴落として上に上がることに興味はなかったが、正しいことをするために自分を貫くことは必要だと思っている。
内藤たちが会社を去った後、少し時期はずれてしまったが、新たに新入社員が入社することになった。内藤たちのことがあった直後だというのもあり、少し構えたが、みんなやる気に満ち溢れた優秀な新入社員たちだった。今回は歓迎会も大成功に終わり、俺はほっと胸を撫で下ろした。そして家に帰れば、妻や娘が俺を温かく迎えてくれる。仕事での忙しさやプレッシャーはあっても、家族との時間が俺の心を癒してくれる。特に今回の一件を経て、家族の支えがどれほど大切かを再確認することができた。
俺の人生はこれからも続く。俺は自分の信念を持ち続け、これからも進み続けようと強く思った。内藤との出来事は終わったが、俺にとってはあくまで一つの経験に過ぎない。今回のことでもっと大きな問題にも対処できる自信がついた。自分の中にある強さを再確認できた。これからも前を向いて歩んでいこうと、強く思った。
